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  精霊のダンス −愛に時間を−
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「じゃあ、お邪魔します・・・」
「ちょっと待って。お邪魔します、じゃないわ」
「え?」
 ドキリとして、思わずミサトさんの顔を見上げます。
「ただいま、でいいのよ」
 目を瞬きさせるシンジに、彼女は優しく微笑みかけて、そう言葉を紡いで
くれました。
 お邪魔します。
 ただいま。
 ・・・その違いは、すぐに理解できました。
 無意識のうちに止めていた息が、ほっ、と口から漏れ出ます。
 くすぐったいような照れ臭いような、何とも言えぬ妙な気持ちです。
 肺に空気を吸い込むと、それが少々の戸惑いを伴いつつ、胸のあたりから
身体全体へ染み込んでいくような気がしました。
「・・・ただいま」
 頬が火照るのを感じながらも、シンジは素直に、その言葉を口にしました。
 そして、玄関の内側へと、足を一歩、踏み入れます。
 今日からここが我が家です。
 シンジは14歳になる今まで、この第3新東京市から遠く離れた田舎の町
で生活をしていました。幼い頃に母親が他界した後、父親によって、そこの
親戚へと長らく預けられていたのです。
 そこへ、この街に住む父親からの手紙を受けたのが、一週間ほど前。
 その手紙の通りにこの街へやって来たのが、今朝早くのこと。
 その後の数年ぶりの親子の対面は、あまり期待はしていなかったものの、
やはり喧嘩別れに終わりました。
 さらに、不運な成り行きの結果、シンジは国連組織『ネルフ』の巨大ロボ
ット『エヴァンゲリオン』を操縦し、街を襲ってきた正体不明の大怪獣と戦
う羽目にもなってしまったのですが・・・、それはまた別の話です。
 そんなこんなで危うく三途の川を渡りきってしまいそうになった一日も、
いつの間にか、もうすぐ日が暮れようとしていました。
「はい、おかえりなさい」
 玄関の内側で、温かくシンジを迎え入れてくれるミサトさん。
 笑顔がかなり良い感じの、未婚の29歳です。
 この人は『ネルフ』の作戦部長であり、そしてまた、一人暮らしをすると
言い張るシンジを、この自宅のマンションへと強引に連れてきてくれた人で
もありました。
「あまりキレイなところじゃないけどネ。さ、さ、上がって上がって」
 既にハイヒールを脱いだ彼女が、廊下から嬉しそうに手招きをしています。
 他人との共同生活は、決してシンジが望んだことではありませんでした。
 でも、何となく、このミサトさんとなら上手くやっていけそうな予感です。
「あ、はい・・・」
 シンジは照れた笑みを浮かべたまま、彼女に返事をしました。
「じゃあ、お邪魔します」
「い、いらっしゃい・・・」
 ミサトさんが微かに肩を落とします。
 数秒前のやり取りは徒労でした。
 しかし、シンジはそんな事実に気付くこともなく、スニーカーを脱ぐと、
ミサトさんの後について廊下を進んでいきます。
 一人暮らしの女性の家。いったい、どんなところかな?
 少し桃色を帯びた期待に、知らず、胸が高鳴ります。
 果たして、たいして長くもない廊下を抜けた先には――。
「・・・ぅぁ」
 何やら、ひどくゴチャゴチャした空間が広がっていました。
 部屋中がゴミで埋め尽くされています。
 音を立てて、頬が引きつったようでした。
「ゴメンねぇ。ちょーっち、散らかりすぎてるかしらねぇ」
 ミサトさんはそう言って、てへへー、と照れたように笑いました。
 しかし、明らかに『ちょーっち』どころではありません。
 長く見ていると目すら腐ってしまいそうなほどの、凄まじいまでの散らか
りようです。
 小説や漫画の中だけでしか存在しえないような、そんな世界が今、ただ静
かに、紛れもない現実としてシンジの目の前に鎮座していました。
「ね、悪いけど、それ、冷蔵庫に入れといてくれるー?」
 とても明るく、極めて薄情な台詞を吐くと、ミサトさんはのしのしとゴミ
の絨毯を踏みしめながら奥の部屋へと消えていってしまいます。
 彼女の言った『それ』というのは、シンジが手にしているビニール袋の中
身のことです。
 つい先ほど、二人して近所のスーパーで買ってきた食料品が入っています。
「・・・」
 思わず玄関へと引き返しかけてから、はっ、と自分の立場に気が付きまし
た。
 ここの他に行くべきところなど、悲しいかな、今さらどこにもありません。
 今晩屋根の下で寝たければ、逃亡は断念せざるを得ないのでしょうか。
 黙して考えること数秒・・・。
 シンジは、ひとり、拳を固く握り締めました。
 どうやら他に選択肢は見つかりそうにありません。
 そう。これは試練です。
 生きるために這い上がらねばならない千尋の谷です。
 少しばかり意味不明な気もしないことはないですが、シンジは無理矢理そ
う思い込んで納得することにしました。
 とりあえずは、最初に与えられた難題をクリアしなくてはなりません。
 足の踏み場を探りあてながら、時間をかけて何とか冷蔵庫へと近づきまし
た。
 そして、その扉を開けてみます。
「えーと、あれ? 缶ビールだ」
 中には、光沢を放つアルミ缶が、一本、二本、三本、沢山です。
 そこは缶ビール沢山によって完全に占拠されていました。
 他に何かを入れられそうなスペースなど、全くありません。
 溢れ出そうになる涙を必死でこらえながら、辺りを見渡すと――。
「・・・ん?」
 少し離れたところ置いてある、もう一つの、別の冷蔵庫が目に入りました。
 何やら、かなり大きめです。
 食料品はそちらに仕舞うことになっているのでしょうか。
 シンジは半分以上納得できないものを感じつつも、今度はその冷蔵庫に近
づいて、扉を開けてみました。
「・・・」
 しかし、食べ物らしきものは、その中には何一つ入っていません。
 代わりに、一羽、いるだけでした。
 ペンギンが。
 生きています。
 冷凍死体ではない証拠に、黒くて小さくて円らな瞳が、えらく不思議そう
にシンジを見つめていました。
「な、な、な・・・!?」



                  ★



「何よコレぇぇッっ!!!」
 驚愕が家中をつんざきました。
「お?」
 と、絶叫の主と廊下でばったり鉢合わせになったペンギンが、シンジを振
り返って訊いてきます。
「・・・この子、誰な?」
「しゃ、しゃしゃしゃ、しゃべったあああああぁぁぁぁ!?!?!?!?」
「よく叫ぶ女の子ですのな」
「シ、シ、シンジっ! ナニ、ナニよッ、この生き物は!?」
 微かに震える人差し指で足下のペンギンを差しながら、その少女も、そん
なことを訊ねてきました。
「えーと、ね・・・」
 二人のうちどちらの質問に答えるべきか、シンジがのんびりと迷っている
うちに。
 先にペンギンのほうが、くるりと少女に向き直って言いました。
「この生き物とは失礼ですのな。私にはペンペンという名前がありますにな」
「んな・・・ッ!?」
 対する少女は、口をあんぐりと開け、正しく呆けた表情になりました。
 あまりにもベタな名前に呆れた・・・のでは、ないでしょう。
 ペンギンごときが口を利いたことにボー然としたのです。
「ゆ、夢じゃないわよね・・・!?」
 やっとのことで、それだけを呟いています。
 ほとんど思考停止状態のようです。
 シンジは思いました。
 放っておこう。
 というわけで、ひとまずその場を離れ、キッチンへと向かいます。
 数週間前、シンジがこの家にやってきたばかりの頃と違って、そこは今で
はすっかり快適な空間へと変貌を遂げていました。
 食卓の椅子に腰かけ、ひとり、くつろぎタイムです。
 熱い緑茶が美味しいです。
 廊下に放置した二人のことなら、シンジは極めて楽観していました。
 どうせ、時間が解決してくれます。
 自分のときと同じように。
『うわっぎゃあぁぁぁ! 使徒、使徒よぉぉぉ!』
 どうやら我に返った様子の、あの女の子。
 名前は、惣流・アスカ・ラングレーといいました。
 彼女は昨日、ドイツから来日したばかりです。
 シンジと同い年の14歳。そしてやはり、ネルフでエヴァンゲリオンのパ
イロットをしています。
 きめの細かそうな白い肌に、宝石のようなスミレ色の瞳。背中まで伸ばし
たサラサラの栗毛が、特に彼女はご自慢のようでした。
 少しきつい感じはするものの、ほぼ100点満点の美少女といえるかもし
れません。
『シンジィっ! どこに行ったのよッ!? このッ! このぉッ!!』
『やめますのな! 暴力反対ですのな!』
 けれど残念なことに、超が3つ付くほどの気の強さでマイナス40点。
 総合すれば60点といったところでしょうか。
 どうせ人間、そんなもんです。
 ガッシャーン!
 廊下から、何やら物の壊れる音が派手に響いてきます。
 シンジは彼女の評価を54点に下げました。
『逃げるな! とりゃあああッ!』
『ふっ、ハエのとまるようなパンチですのな』
 熱い緑茶をおかわりです。
 それにしても、これから一体、どうなってしまうのかが心配です。
 先ほど見て驚いたのですが、シンジの部屋にあった物は何一つ残らず、全
てアスカが倉庫へと放り込んでくれていました。
 代わりに、その部屋には彼女の荷物らしきダンボール箱が大量に運び込ま
れています。
 どえらいことをしてくれたものです。
 もしかして、あの倉庫が今後、自分の部屋になってしまうのでしょうか。
 窓が一つもなく、じめじめとした狭い倉庫です。
 ゴキブリとかが出そうです。
 カビ臭そうです。
 っていうか、アスカもこの家に引っ越してくるわけですか? ミサトさん。
『たっだいまー』
 玄関の戸の開く音とともに、そんな声が届きます。
『あらぁ、アスカ。もう来てたの?』
 噂をすれば何とやら。
 ちょうどミサトさんが仕事から帰ってきてくれました。
 出迎えてあげようと、シンジは湯飲みを置いて、腰を上げました。



                  ★



「では、改めて自己紹介をな。私は温泉ペンギンのペンペン」
「・・・ッへぇ〜」
 まさに奇妙なものを見る目つきで、アスカがペンペンを見つめました。
 つい先程まで半狂乱だった彼女は、今ではすっかり落ち着きを取り戻して
います。髪の毛はボサボサのままですが。
 この2人とシンジ、それに帰ってきたばかりのミサトさんは、今、4人で
キッチンのテーブルを囲んでいました。
「んでんで? アンタ、どうして人間の言葉を喋れたりするのよ?」
 アスカがペンペンのほうに身を乗り出すようにして訊ねます。
「精霊だからですな」
「せ、せーれー?」
 予想もしていなかった回答に、彼女は目をパチクリさせました。
「そうですな」
「ペンペンはね、精霊界っていうところから来たんだって」
 シンジがここぞとばかりに、以前聞きかじった知識をひけらかします。
「精霊界ぃ?」
 途端に、アスカがひどく疑わしげな視線を投げかけてきました。
「ハッ、冗談やめてよ。そんなもんが、この地球上のどこにあるって?」
「えーと・・・」
 具体的な場所までは知りません。
「むろんのこと、地球上にはありませんのな。精霊界は」
「へぇ。じゃ、地下にあるんだ。すごいわねぇ、地下帝国だわ」
 ミサトさんが口走ります。
 全員、しばらく沈黙です。
「精霊界、ねぇ・・・?」
 重苦しい空気をうち払ったのは、そんなアスカの呟きでした。
 精霊だの精霊界だのという、どうにも胡散臭い響きが、先程からしつこく
皆の鼓膜を震わせてくれています。
「じゃあ、仮にそういうところがあるとして。そこじゃ、アンタみたいに、
ペンギンが日本語をペラペラとしゃべってるわけ?」
「ペンギンですとな!? 精霊をあんな下等生物と一緒にしないでもらいたい
ですな!」
「アンタ最初に自分でそう言ってたじゃない!」
「何だか二人とも仲がよさそうねぇ? シンちゃん」
 ミサトさんがシンジに顔を寄せてきて、愉快げに言いました。
 ひねたモノの見方をする人です。
 こういう大人にはなりたくないなと、ただシンジは思いました。
「ったく・・・。それにしても、ミサト。あーんた、変わったもんを飼って
るのねぇ」
「だめ?」
「・・・いえ、どっちかっつーとイメージ通りだけど」
「だってさぁ、見ててカワイイでしょ? アスカも思わず抱きしめたくならな
い?」
「ペンギンを〜? それならアタシ、子猫とか子犬のほうがいい」
「ペンギンに不当な偏見を持つことには断固反対ですのな!」
「自分のこと精霊なのかペンギンなのかハッキリさせなさいよアンタ!」
「ところでな。シンジの部屋に運び込まれてた、あの荷物な」
「あ、ああ、あれ? あれは、アタシのだけど?」
「ということは、アスカも今後、この家に住むつもりですのな?」
 どうやら、今度は一転して、ペンペンが質問する側に回ったようです。
「ん、まぁね」
 と、アスカは平然とうなずき返しました。
 同時にシンジは、心の中で大きな大きな溜息を吐き出します。
 悪い予感が大当たりです。
「どうしてですのな?」
「へ? どうしてって、それは、その・・・」
 アスカは目を泳がせつつ、隣りに座るシンジを何気なく見やりました。
 しかし、二人の目が合ったのは一瞬だけ。
 すぐに彼女のほうがプイと目を反らしてしまいます。
 わけが分かりません。
「つまり、ミサトに頼まれてね」
 微かに見せていた動揺をピタリと引っ込めて、アスカはそう答えました。
「アタシは嫌だっつって断ったんだけどさ。どーしても、って拝んでくるも
んだから、仕方なく、ね。そうよね? ミサト」
「へ? 一緒に住みたいって言い出したのはアス――」
 ズガっ! 
 その時、テーブルの下から、妙に鈍い音が聞こえてきました。
 例えば、そう、人の脚のスネをトゥキックで力強く蹴り飛ばしてみれば、
今のような痛そうな音が鳴るかもしれません。
「エヴァパイロットの管理上、やむを得ないコトなのよねぇ? ミ・サ・ト」
 アスカがとても爽やかに訊ねます。
 顔は笑みで満ちていましたが、目は完全に殺人者のそれです。
 はぅあ。シンジは思わず身を引きました。
「・・・そ、そうね。そうだったかも・・・あ、つ、つつ・・・あぅぅ」
 ミサトさんがテーブルに突っ伏して、ほとんど呻きながら、そう答えてい
ます。
 彼女の瞼の隙間から零れ出た涙が、テーブルにボタボタと滴って、蛍光灯
の光をキラキラと反射させました。
 なかなかに綺麗です。
「あぅぅ・・・」
 彼女の挙動不審のおかげで、その向こうにあるリビングルームの光景が、
キッチンにいるシンジの目に飛び込んできます。
 西向きの大きな窓から射し込んでいる夕日に、そこは鮮やかなオレンジ色
に染まっていました。
 何やら幻想的な雰囲気です。
「あぅぅ・・・」
 時間はそろそろ、夕御飯の支度にとりかかるべきときになっていました。



                  ★



「ねぇ、シンジ」
 その日の夜のことです。
 シンジがソファでぼんやりとテレビを見ていると、不意に、アスカが横か
ら声をかけてきました。
「・・・なに?」
「今度の日曜にさ、この街、案内してくれない?」
 何気なく隣りに座りながら、彼女はそんなことを頼んできます。
 少し考えてから、シンジは答えました。
「でも、ボクもここ、あんまり詳しくないよ? ネルフに来てから、まだそん
なに日が経ってるわけじゃないから・・・」
「あー、いいのいいの。駅前のデパートの辺りとかを、ざーっと見て回れれ
ば充分だから。ね、お願い」
「えーと、来週の日曜日?」
「そ。どうせ暇でしょ?」
「綾波と買い物に行く約束してるんだ」
「断りなさいそんなの今すぐッ! はい電話!」
 一体どこから取り出したのか、アスカは携帯電話を目にも止まらぬ速さで
差し出してきました。
 ぐりぐりぐり。携帯が二の腕に押しつけられて、かなり痛いです。
 シンジは仕方なく、それを手に取りました。
 そして渋々と耳に当ててみた瞬間。その電話は、どこかに繋がったようで
す。
『・・・はい』
 実のところ分かり切ってはいましたが、聞こえてきたのはやはり綾波の声
でした。
「あー、綾波? ボクだけど・・・。うん。で、えーと、ね・・・」
 電話の向こうの彼女と、シンジは恐々、会話を始めました。
 そうしないと生命の危険があったからです。すぐ隣りに。
「あのさ、今度の日曜日のことなんだけど。・・・うん、そうそう。で、そ
のことなんだけどね、その日、アスカがこの街を案内してくれって言うんだ。
・・・うん」
 ちらり、とアスカに視線を送ってみます。
 彼女は腕を組んで、聞き耳を立てていました。
 何故か余裕綽々の表情です。
「うん。でさ、本当に悪いんだけどさ・・・。綾波もその日、一緒に案内し
てくれないかな?」
「何故にそうなるッ!?」
 グワッ、とアスカが目を吊り上げて迫ってきます。
 そんな彼女に、シンジはくるりと背を向けました。
「・・・そう、よかった。ありがとう。・・・うん。ゴメンね。それじゃ、
また明日、学校で。うん、じゃあね。お休みー」
 プツッ。ツー、ツー、ツー。
 携帯電話を耳から離すと、シンジはアスカを振り返り、それを返しながら
言いました。
「・・・そういうわけだから」
「どういうわけよッ!」
 差し出された携帯を、彼女はシンジの手から引ったくるように奪い取りま
す。
「だから、綾波も一緒に街を案内してくれるって。良かったね」
「良かぁないッ!」
「えぇ!? どうして?」
「あ、あんたって・・・」
 アスカのこめかみを、でかい汗が伝わり落ちていきました。
 目の前の少年は、よほど鈍感なのか、そうでなければ凄まじいまでの芝居
上手です。
 まじまじと、アスカはシンジの男臭くない顔を見つめてみました。が、そ
こに浮かぶ戸惑いの表情からだけでは、一体どちらなのかは判別できません。
 一瞬だけ、後者のような気もしましたが。
 とにかく、いったん気勢を殺がれてしまった彼女は、それ以上、何も怒鳴
れなくなってしまったのでした。
「じゃ、ボク、そろそろ宿題しなくちゃ」
 などと言って、シンジは自分の部屋へと消えていきます。
 アスカは小さく舌打ちして、悔しげにその背中を見送りました。
「クェクェクェ」
 と、足下から聞こえてきたのは、ペンペンの笑い声です。
 精霊とはいえ、見かけが鳥類なだけあって、気色悪くてたまりません。
「見事にフられましたですのな」
 どうやらそばで一部始終を見ていたようです。
 背丈が小さいので全く気がつきませんでした。
「・・・ペンペン」
 アスカは首を絞めてやりたい衝動にかられつつ、足下のペンペンを鋭く睨
み下ろしました。
「なんですかな?」
「アンタ、リツコに売り飛ばしてあげてもいいのよ? 105円くらいで」
 リツコというのはミサトさんの同僚の科学者で、一言で言えば、はく製を
作るのがとても得意そうな奇人変人です。
 ただ、そのことは本人の目の前で口にしてはいけません。絶対に。
「んふふふふ。言葉を話すペンギンなんて、さぞ研究のし甲斐があるでしょ
うねぇ・・・」
 アスカは、ねちねちと、とても意地悪そうに言ってやります。
 が、ペンペンはまるで動じた様子もなく応えました。
「それなら無駄ですのな」
「あん? 無駄ですって?」
「ですな。あそこにはもう精霊が居ますから」
「・・・マジ!?」
「マジですな。精霊は嘘つかないですのでな」
「じゃ、じゃあ、リツコのところにも、喋るペンギンがいるってこと?」
「かもですな」
「なによソレ・・・」
 ガラガラガラ。常識が音を立てて崩れていきます。
 悪い夢でも見ているような気分です。
 日本がこれほどファンタスティックなところだったとは、全くもって知り
ませんでした。
 ペンペンがさらに話を続けます。
「何よりも、リツコ博士は、我々精霊にとても理解のある人ですのでな」
「なぬ!? 理解のある人って、あのリツコがぁ?」
「ですな。今どきの科学者にしては、とても珍しい方なのですな」
「リ、リツコってば、いったい、どういうつもりなのかしら・・・」
 喋るペンギンを目の前にして彼女がメスを握らないなど、とても信じられ
ない話です。
 それとも、ペンペンの言うとおり、あの科学者にも意外な一面があったの
でしょうか。
 その問いに、アスカは自分で、首を横に振りました。
「いえ、そんなの、アンタ達には優しいお姉さんを演じておきながら、実は
実験動物にする機会をうかがってるだけよ。うん、きっと、そうね」
「それは絶対に無いですな」
 ペンペンは余裕ありげに言いました。
「いちおう念のため、彼女の弱みも握っていますしな」
「よ、弱み・・・!?」
 精霊のくせに卑劣な手段を知っている野郎です。
「ですな。まぁ、三つか四つは」
「リツコはホントにあんた達に理解があるの!?」
 本気で、アスカは頭痛を感じました。
 ペンペンはそろそろ語ることもなくなったのか、あくびを見せて、ひとつ
手を振ると、自分の部屋である冷蔵庫へ入っていきます。
 結果として、その場には一人、アスカだけが残されることになりました。
 ふと重い疲労を感じて、彼女はドサッとソファーに腰を落とします。
 そして、今夜はもうベッドで横になろうと、ただそれだけを思うのでした。



                  ★



 アスカがこの家に越してきてから、はや数日かが過ぎました。
 その日。
 ネルフから帰宅したシンジがまずしたことは、ひとつ、首を傾げることで
した。家の奥が、何やら騒がしい様子です。
 何事だろうと、行ってみます。
 するとそこでは、アスカとペンペンがオニごっこを繰り広げていました。
 どうやら、アスカがオニ役のようです。希に見る必死の形相でペンペンを
捕まえようとしています。
 微笑ましい光景です。
 何だかんだ言って、二人は本当は仲が良いのかもしれません。ミサトさん
の先見の明に、シンジは少しばかり感動しました。
 それはさておき、注目すべきはアスカです。
 ペンペンを追いかける彼女は、どういうわけか、裸身に大きめの赤いバス
タオルを巻き付けているだけという刺激的な格好でした。
 軽装すぎます。
 下手をすると見えてしまいそうです。
「殺してやるわッ! このペンギンっ!」
「やれるもんならどうぞ、ですな」
「こらッ、逃げるなーッ!」
「お断りですのな」
 ・・・ああ、そういうことか。
 と、シンジはようやく思い至りました。
 つまり、恐らく、アスカがシャワーをペンペンに覗かれたりでもしたので
しょう。
 ペンペンにとってそれが事故だったのか否かまでは分かりませんが、彼は
その短い足で、不思議なまでに素早く逃げ回ってます。
 そして、それを追いかける側のアスカの手には、キラリと光る物が握られ
ていました。
 一本の包丁です。
 必殺の心がまえのようでした。
「・・・そこを退きなさい。シンジ」
 据わった目でアスカが言います。
 気が付けば、彼女とペンペンの間に割り込むような位置に立っていました。
 狡猾な精霊めに、うまく背後に回り込まれたのです。
 知らぬ間に自分の命が危険にさらされています。
 シンジは足をすくませました。
「そこにいると命の保証しないわよ」
「ア、ア、アスカ、違うんだ! 誤解だってば、誤解!」
「何が誤解なのよッ!?」
 この点はアスカの言うとおりです。
 彼女は右手の包丁をブンブン振り回しながら、シンジとの距離をじりじり
と詰めてきました。
「さぁ、早くそこを退きなさい! じゃないと怒るわよ!?」
 既にかなり怒っているのは、こういうときのお約束でした。
 一方、シンジだって退きたいのは山々です。
 でも一応、同居人として、ペンペンを少しくらいは庇うポーズも見せなけ
ればなりません。
 そうしなければ、お墓を作るときに、きっと後ろめたい思いをする羽目に
なってしまうからです。
「で、でもさ、いくら何でも、そんなモノ振り回しちゃダメだって! 間違
って怪我でもしたらどうするつもりさ!?」
「そんなの平気よ。包丁なんて扱い慣れてるもの」
「扱い慣れてる、って・・・」
 アスカは料理が徹底的に下手くそなはずです。
 改めて彼女の手元を見てみると、包丁の刃が上にくるようにして、彼女は
それを握っていました。
 人を刺すときの持ち方です。
 シンジの額に、冗談ではない汗がどっと吹き出しました。
「と、と、と、とにかく、ねぇ、包丁なんて振り回したら、危ないってば」
「いいから退きなさいッ!」
「まぁまぁ、ひとまず落ちついてよ、ほら、ね?」
「退きなさいッ!」
「じゃ、じゃあ、退いたら、落ちついてくれる?」
「いいえ」
 交渉決裂です。
 ごめんペンペン。でも、もう義理は果たしたからね?
 と、シンジが降参の意を表するために、死んだフリをしようとしたときで
した。
「助太刀は無用ですのな、シンジ」
 背後でペンペンが言いました。
「自分でそこに逃げ込んだくせに!」
 アスカの的確な指摘などはまるで無視して、ペンペンは続けます。
「これしきのこと、精霊界ではよくある事態でしたしな」
「これしき、って・・・」
 シンジは思わず呟きました。
 意外に殺伐とした社会のようです。精霊界。
「ああ、懐かしき我が故郷・・・」
「懐かしいなら、とっとと帰れッ!」
「そういうわけにはいかねぇのな」
「・・・」
 アスカが、ただ静かに、腰のあたりに構えていた手を降ろしました。
 そして、低い声で、ペンペンに問いかけます。
「アンタ、アタシのことバカにしてるでしょ・・・?」
「今まで気付いてなかったですのな?」
「ハンっ。これだからペンギンは困るのよね」
 彼女はコロッと雰囲気を変えて、右手で髪を掻き上げる仕草をすると同時
に、ペンペンを鼻で笑い飛ばしました。
 心に幾分かの余裕はできたようですが、右手の包丁が危ないです。
「ペンペン。アンタは不幸にも知らないみたいだから、この際、教えてあげ
るけどね。このアスカ様は、見かけが大変美しいだけでなく、13歳という
若さで、しかも首席で大学を卒業したという、エリートの中のエリー・・・」
「四千九百八十三かける七百二十六は?」
「へ? 四千九百・・・なに?」
「答えは六千八百十五万二千四百三十八ですにな。こんな簡単な計算もでき
ないなんて、サル並の知能。ほとんど脳味噌が筋肉ですのな」
「だっしゃあぁぁッ! このクソペンギン! 焼き鳥にしてくれるわッ!」
 アスカが怒気のオーラを全身から迸らせつつ、再びペンペンに襲いかかり
ました。
 命を懸けたオニごっこの再開です。
 シンジはといえば、既に二人の間からこっそりと移動していました。
 騒々しく追いかけ、逃げる二人を尻目に、元はただの倉庫であった自分の
部屋へと、無事、退避です。
 そして、ふと、呟いてみたりするのでした。
「世の中には、意外なところに天敵がいるものなんですな・・・」
 ペンペンが伝染ってます。



                  ★



 その日の夕食のおかずは、トリの唐揚げでした。
 美味しかったです。
 といっても、別にペンペンのお肉ではなく、普通の鶏肉です。
 いつぞやの鬼ごっこは、既に数日前の出来事となっていました。
 しかし、懐かしむには及びません。アスカがペンペンを追い回す光景は、
あれ以後も、たまに見かけることができたからです。
 その日は、シンジが台所の流しに立って、夕食の後片づけをしている最中
のことでした。
「あーっ!」
 アスカの甲高い悲鳴を、シンジは背中で聞きました。
 いったい何事かと振り返ります。
 そこには驚愕の表情を浮かべ、人差し指をビシッと伸ばしている彼女の姿
がありました。
 そして、彼女の指の先にいるのは、バスルームから出てきたばかりのペン
ペンです。
 身体からホワホワと湯気が立っています。
 アスカが再び、叫びました。
「それッ、アタシのバスタオル!」
「あれま。どうやら、そのようですな」
 見れば、ペンペンが頭に被っているのは真っ赤なバスタオル。
 それは確かに、アスカのものでした。
「アンタ、なに勝手に使ってんの!?」
「細かいことは気にするんじゃねぇのな」
 言い捨てると、ペンペンはそのまま自分の冷蔵庫の中へと入っていこうと
します。
「ま、待ちなさいッ!」
 雌ヒョウの如く、アスカがペンペンに飛びつこうとしました。
 しかし、彼女の爪にかからんとする寸前、ペンペンは冷蔵庫の扉の向こう
にさっと消えてしまいます。
 アスカがボタンをいくら押しても、その扉は開きません。中からロックで
きるようになっているのです。
 精霊ごときがプライバシーに気を払っているあたりが笑止でした。
「出てきなさいッ! この腐れペンギンがぁッ! このッ、このッ!」
「まぁまぁ、アスカ」
 怒りにまかせ、グーで冷蔵庫に連打を浴びせているアスカを、シンジはや
んわりとなだめました。ガンガンうるさかったから。
「バスタオルなんて、洗えばすぐにキレイになるよ」
「でもでも・・・ッ!」
 と、顔に血を上らせたアスカが、シンジに訴えてきます。
「ねぇシンジ、聞いてよ! アイツ、バスタオルだけじゃなくて、勝手にアタ
シのシャンプーまで使ってたりするのよ!?」
「シャンプー? ペンペンが?」
「そう! この間も使うなって言ったのに、未だに平気な顔して使ってるみた
いだし! ひどいと思わない!?」
「別に、いいじゃない。それくらい許してあげなよ。ね?」
 そのシャンプーなら僕もたまに使ってるし。などと口を滑らせるほどシン
ジは愚かではありません。
 アスカが拗ねたように首を振ります。
「イヤよッ! だいたい、前から思ってたんだけどさ、アンタ、ペンペンに甘
すぎやしない!?」
「え? う〜ん、そうかなぁ」
 シンジは首を傾げました。
 別に、ペンペンを自由に行動させることでアスカの気を逸らしているつも
りなど・・・、少ししか無いです。
「絶対に甘すぎよ! あんなクソ生意気なペンギン、首輪と鎖でも付けて、単
なるペットとしてそこら辺に転がしておけば充分なのに!」
 アスカがシンジの襟首を掴んで、ゆさゆさと揺らしながら言ってきます。
「それを色々と好き勝手放題させてさッ。あれじゃ、まるで人間様と同じ扱
いじゃない!」
「そんなこと言ったって、ペットとして扱うなんて可哀想だよ・・・」
「ちっとも可哀想なもんですか! アイツはただのペンギンで、アタシらは人
間でしょ!? 人間としての、っつーか、食物連鎖のトライアングルの頂点に
立ってる種族としてのプライドってもんが、アンタにはないわけ!?」
「それはあるけど」
「あるのッ!?」
「でも、人間はペンギンなんて食べないよ? 食物連鎖は関係ないんじゃない
かなぁ」
 大真面目にシンジが答えます。
 とりあえず二人とも、ペンペンは精霊であるということを完全に忘れてい
るようです。
「・・・ハァ」
 アスカがガックシと、肩を落としてうなだれました。
「あんたも、うまく飼い慣らされてるわね・・・」
 彼女は何だか失礼なことを呟くと、ずこずこと自分の部屋に退散していき
ます。
 めでたく一件落着です。
 シンジは、やれやれ、と小さく肩をすぼめてから、食器洗いを再開するこ
とにしました。
 スポンジでお皿をこすりつつ・・・。ただ何となく、あのままアスカを放
っておくのも可哀想な気がしてきます。
 あんなに肩を落とした彼女の姿を見たのは、そういえば初めてのことかも
しれません。
『このッ! このッ! まったくッ! ふざけんじゃッ! ないわよッ! いつか
ッ! 必ずッ! 覚えてなさいッ!』
 アスカが自分の部屋で物に当たり散らしている音は、蛇口から勢いよく流
れ出る水の音に打ち消されて、シンジの耳には届きません。
 そうだ。これが終わったら、紅茶をいれて持っていってあげようかな?
 シンジはコップを水ですすぎながら、ふと、そんなことを考えつきました。
 温かいミルクティーでも口にすれば、アスカのことです、すぐに元気が戻
ってくることでしょう。
 我ながら、なかなか気の利いたアイディアだと思います。
 シンジは何だか嬉しくなって、鼻歌を歌い始めました。
 そのまま夢中でお皿を洗っている間に、そんなアイディアなどすっかり忘
れてしまったことだけが、その日、唯一犯した失敗といえば失敗でした。



                  ★



 その日は土曜日でした。
 ですから、学校は午前中で終わりです。
 しかし、シンジが家に帰り着いたのは午後の1時半すぎ。
 面倒な掃除やら何やらで、すっかり帰りが遅くなってしまったのでした。
「ペンペーン、遅くなってゴメン。昼御飯、買ってきたよー?」
 シンジは急いで玄関の戸を開け、家の奥に向かって言いました。
 手に提げているのは、近所のスーパーのビニール袋です。
 ペンペンの大好きな焼き鳥も買ってきてあげました。
 その匂いを嗅ぎつけて飛んでくるかと思いきや・・・。
「ペンペーン?」
 返事すらありません。おかしいです。
 帰りが遅くなったとはいえ、まだ太陽も高くて眩しい時間です。
 飢え死ぬには、だいぶ早すぎます。
 彼の個室である冷蔵庫もカラッポ。
 今まで一人で外へ出歩くことなど皆無だったのに、不思議です。
 シンジは、ひとり、台所に立ち尽くしました。
 ・・・ぶぉーん。
 ペンペンの冷蔵庫が、不意に低く唸り始めます。
 と、そのときシンジは突然、言い知れぬ不安に取り付かれました。
「もしかして、ペンペンのやつ、アスカに連れ出されて、それで・・・」
 箱根の山奥で、えっほ、えっほと、柔らかい地面にスコップで穴を掘る少
女の姿が、妙にリアリティのある映像として脳裏にちらつきます。
 彼女は放課後、委員長の家に寄り道してから帰ると言っていました。
 あれはもしや、アリバイ工作の一環だったのでしょうか。
 ということは、委員長も共犯?
 でも、あの真面目な委員長に限って、そんなことは・・・。
「あ、ペンペン」
 妄想を膨らませながら家の中をウロウロ歩いていると、難なくベランダに
いる彼を見つけることができました。
 もちろん死体にはなっていません。
 ベランダに突っ立っているペンペンは、そこで手すりを見上げています。
 いえ、正確には、手すりの上にいる一匹の猫を見上げていました。
 毛は短く、白毛と茶毛と、ほんの少しの黒毛が混じり合っている三毛猫で
す。
 が、その猫を見て、シンジは瞠目しました。
 明らかに、ただの猫ではなかったからです。
 その猫は細い手すりの上で、二本脚で立っていました。
 ついでに、問答無用に踊ってもいます。
 くるくる回ったり、ときには空中で一回転したり。
 思わず見とれてしまいそうなほど、滑らかな動作です。
 まるで無重力の世界にいるかような、凄まじいまでのバランス感覚でした。
 さすが猫。
 ・・・などと思っていると、やがて、その猫は踊りをピタリと止めました。
 そして、ペンペンと何やら言葉を交わしています。ただ、ガラス越しなの
で、シンジには彼らが何を喋っているのか聞こえません。
 めちゃめちゃ気になります。
 忍び足でガラス戸へと近づいていくと、すぐに、手すりの上の猫はシンジ
に気付いたようでした。
 逃げるかと思いきや、むしろシンジを待っているかのように、その猫はこ
ちらをじっと凝視してきます。
 シンジは興味のまま、ガラス戸に手をかけ、開けてみました。
「こんにちわ」
 途端に挨拶をしてくる三毛猫。やはり、ペンペンと同じ精霊なのです。
「あなたがシンジどのね」
「え・・・。うん」
「初めまして。我が友人から、シンジどののお話は常々うかがっていました
のね。とてもお世話になっていると」
「キミは・・・?」
 シンジが訊ねると、その猫は洗練された仕草で会釈をして、名乗りました。
「これは失礼。我が名はミケ」
 腹立たしいほどベタな名前です。
「コイツは、私の古い友人でしてな。リツコ博士のところに住んでいた精霊
ですのな」
 ペンペンがそう言って、シンジに、その猫、ミケを紹介してくれました。
「さて」
 と、ミケが手すりの上から、ベランダにいるペンペンを見おろして言いま
す。
「用は済んだことだし、私はもう失礼するのね。・・・シンジどの、今後も
彼を宜しく頼みますのね」
「え・・・。う、うん」
「ペンペン、精霊界で再会できることを楽しみにしているのね」
「私もな・・・」
 ペンペンがミケを見上げて、ひとつ、頷きを返しました。
「では、さらばね」
 ミケは軽く片手を振ると、とても細い手すりの上を二本脚で立ったまま、
軽やかに走り去っていきます。
 マンションの7階だというのに、見ていて不安を感じさせない足どりです。
 と思いきや、不意に脚を滑らせて――。
 手すりの向こう側へと落ちていきました。
「ああっ!?」
 シンジは慌てて、スリッパも履かずにベランダに飛び出しました。そして、
ミケが足を滑らせた手すりから数十メートル下の地面を見おろします。
 しかし――。
「き、消えた・・・!?」
 そこにあるはずの投身自殺した猫の死体を、シンジは見つけることができ
ませんでした。
 振り返って、訊ねます。
「ペンペン、今の猫は・・・?」
「・・・帰っていきましたのな。精霊界へと」
 ベランダの端で、ペンペンがよろよろと起きあがりながら答えました。
 飛び出してきた際に、どうやら蹴飛ばしてしまったようです。
 別にワザとではありません。
 謝ろうと、シンジは口を開きかけましたが・・・。
 その時にはもう既に、ペンペンは彼に背を向け、リビングへと上がってい
くところでした。
 なかなかに渋い背中です。
「・・・ペンペン?」



                  ★



「ここら辺で残ってる精霊は、もう、私一人だけですにな」
 ペンペンがシンジに、そう切り出しました。
 二人は、リビングのテーブルを挟んで向かい合っています。
「どういうこと?」
「私がこちらの世界に来た理由、シンジにはまだ話していませんでしたのな」
「うん・・・。でも、理由なんてあったんだ」
「こちらには修行のためにやって来たのですな。私」
「修行?」
 シンジは思いました。もしかすると、地球の重力は精霊界の重力の10倍
ほどもあったりするのでしょうか。
 だとすれば、確かに修行としての効果は抜群かもしれませんが、こちらで
の生活はペンペンにとって非常に辛く苦しい毎日だったはずです。
「いや、全然そうじゃなくてな」
 ペンペンが首を横に振りました。
「そうじゃないって・・・。ボク、今、何か言った?」
「一人前の精霊は皆、それぞれ自分自身の精霊のダンスを持っていますのな」
 キョトンとするシンジに、ペンペンは続けました。
「それを編み出し、身に付けるために、精霊はこちらの世界で修行するので
すな。そうして一人前になれるまで、精霊界へは帰れない掟ですのな」
「ふーん・・・」
 シンジは少なからず驚きました。
 ペンペンはやはり、単なるおしゃべりペンギンではなかったのです。
 彼が精霊としてモノを言っているのを、シンジは初めて耳にしました。
「そんな掟があったんだ」
「まぁ、ここ数百年のうちにだいぶ廃れた習わしではありますけどな」
「あ。それじゃ、さっきのベランダの、ミケっていったっけ。あの猫が踊っ
てたのが、もしかして・・・」
「ですな。あれはミケの精霊のダンス。あいつ、とうとうダンスを完成させ
ましてな・・・。さっきは精霊界に帰る前に、それを私に見せに来てくれた
のですな。いま思い出してみても、素晴らしく見事なダンスでしたのな」
「ふ〜ん・・・」
 シンジは再び、感心したように唸りました。
 精霊のダンス――。
 自分だけのそれを編み出し、身に付けなければ、精霊としては半人前らし
いです。
 それにしても、シンジの記憶の中のペンペンは、いつも食べたり、寝たり、
テレビを見ていたり、ただボケーッとしていたりで・・・。
 ダンスを創作しているペンペンなど、彼と出会ってから今まで一度たりと
も見たことがありません。
 さぼっていたのでしょうか。修行。
 そのことを訊ねようと口を開きかけた、その時でした。
「ふっふっふ」
 振り返ってみれば、アスカです。堂々と仁王立ちをしています。
 その口元には、なぜか会心の笑みが浮かんでいました。
「アンタたちの話なら、そこでぜーんぶ聞かせてもらったわ!」
「アスカ・・・」
 シンジは、自分の額に数本の縦線が入るのが分かりました。
「・・・わざわざ盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きなんて人聞きの悪いこと言わないで! こっそり聞いてただけよ」
 同じことです。
 しかし彼女は、そんなことは些細なことと言わんばかりに、髪を大きく掻
き上げました。
 そして腕組みをすると、ペンペンを見下すような態度で言います。
「つまり、こういうことでしょ? ペンペン。精霊として一人前のダンサーに
なることができた暁には、アンタ、精霊界にシッポを巻いて帰るのよね?」
「まぁ、引っかかるフレーズはありますが、概ね、そういうことですな」
「よっしゃ! そういうことなら、このアタシに任せなさいって!」
 どんッ、とアスカが男らしく胸を叩いてみせてくれます。
「アタシが何が何でもアンタのダンスを創り上げて、きっちりと精霊界に送
り返してあげようじゃないの! っていうか、邪魔するヤツは赤ん坊だろうが
何だろうが捻り殺してくれるわッ!」
 かなり怖いことを言ってくれます。
 こぶしを作って力んでいる彼女の顔には、『私はこの家からペンペンを追
い払ってしまいたい一心です』と書いてあるように、シンジには思えました。
「でも、さ、アスカに分かるの? 単なる人間のダンスならともかく、精霊の
ダンスなんだよ?」
「ふふん、まっかせなさいっつーの。このアスカ様に不可能なことなんて、
この世にあるもんですか。アタシにかかればペンギンの踊りごとき、一つや
二つは・・・」
「はッ」
 ペンペンが鼻で笑いました。
 ついでに左右の羽を持ち上げ、先っぽを外側に折り曲げもしています。『お
話にならないゼ』のポーズのつもりなのでしょう。
 もっとも、極端な撫で肩のせいで、見栄えはあまりよくありません。
「なんじゃその態度はぁぁぁッ!」
「まぁまぁ、抑えて抑えて」
 ブチ切れてペンペンに襲いかかっていこうとするアスカを、彼女がこの家
にやって来てからもう何十度目か、シンジは手慣れた様子で背後から羽交い
締めにするのでした。



                  ★



「私の精霊のダンスは、実はもう、ほぼ完成しているのですな」
「へぇ・・・! そうだったんだ。ぜんぜん知らなかった」
「皆に見つからぬよう、こっそりと練習していましたのでな」
「・・・意外と小心者なのね」
 ひとまず夕食を採って、お腹を充たした後。
 リビングルームでくつろぐ3人の話題は、当然というべきか、やはりペン
ペンの精霊のダンスのことでした。
「その、ほぼ完成してる、っていうのは?」
「つまりですな、完成というには、いまいち何かが欠けているように感じら
れるのですな」
「何か? 何かって、何よ?」
「それが分かったら話は簡単なのですな」
 それはそうかもしれません。
 ペンペンは、話を続けます。
「精霊のダンスとして形式的に必要なことは、一応、問題なく充たしていま
すのにな。ただ、どうにも、何かが足りないように思われるのですな・・・」
「何かが足りない、って言われてもねぇ・・・」
「じゃ、さ。とりあえず今ここで、その未完成のダンスを踊って見せてよ」
 シンジがそう提案します。
 すると、アスカも首を縦に振って賛成しました。
「そうよねー。とりあえず見てみないことには、アタシだって何とも言えな
いし」
「しかし、ですな・・・」
 渋るペンペンに、アスカが食ってかかります。
「もったいつけないで、踊ってみせなさいって」
「そう言われてもですな、みだりに人前で踊ることは禁じられてますのでな」
「なぬ? どうしてよ!?」
「精霊のダンスには、魔法があるからですな」
「魔法? ・・・って、ホントに!? 何だか面白そうじゃない。なになに、
どんなのよ? 危ないやつ?」
 瞳に好奇心の光を宿らせつつ、アスカが急き込んで訊ねました。
 その脳裏にはきっと、電撃やら炎の玉やら、テレビゲームの中の『魔法』
のイメージが思い浮かんでいるに違いありません。
 彼女の辞書では『危ない』と『楽しい』とが隣りに並んでいて、その二つ
は仲良く手を繋ぎ合っているようでした。
「いえ全然。危険というよりな、むしろ・・・」
 言いかけて、ペンペンは首を振りました。
「・・・まぁ、魔法というのは言い過ぎましたな。あくまで儀式的なもので
すからな」
「儀式的なもの?」
「ですな。目に見えるような効力なんて、実際には無いですしな」
「なーんだ」
 アスカがいかにも残念そうに肩を落として、落胆しました。
「つまんないの・・・。てっきり、どでかい隕石でも落ちてくるのかと思っ
てたのに」
「・・・で、でも、だったら安心して見れるじゃない」
 彼女の発想にアゴを外しかけたシンジが、そう言って話を元に戻します。
「ペンペン、精霊のダンス、踊ってみてくれないかな? もしかしたらアスカ
の言うとおり、ボクらにアドバイスできることが何かあるかもしれないしさ。
ね?」
 すると、ペンペンは少し考えた後、こくり、と頷きました。
「・・・分かりましたですのな。何よりも、他ならぬシンジの頼みとあらば、
お見せしないわけにはいかないですしな」
 まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、ペンペンは部屋の真ん中へ
と移動しました。
 そして、一呼吸おいてから、踊り始めます。
 シンジとアスカは、思わず唾を飲み下していました。
 ペンペンはその短い足で、器用にコケることなく、ステップを踏んでいま
す。
 片足を軸にして凄まじい速さでクルクルと回ったり、飛び跳ねたり。同時
に、左右の羽をグニャグニャ動かしたりもしています。
 もっとも、その場の思いつきで、いい加減に振り付けをしているだけのよ
うにも見えないこともありません。
 いずれにしろ、ペンギンが一心不乱に踊る姿は、限りなく現実離れしたも
のではありました。滑稽で、ある意味、非常にメルヘンチックな光景です。
 見すぎると夢に出そうです。
 アスカはといえば、その間、ずっと肩を震わせて、何かを必死に我慢して
いるようでした。トイレかな?
 ふと、最初はテンポの激しかったペンペンのステップが、次第に優雅なも
のになってゆくことに、シンジは気付きました。
 やがて、その踊りが始まってから1、2分ほども経過した頃――。
 ダンス・タイムは終わりを告げました。
「・・・未完成ですけどもな。今のが、私の精霊のダンス――」
 踊り終わったペンペンが、シンジたちに背を向けて言います。
「――題して『愛に時間を』」
「ぶはッ!」
 瞬間、アスカが盛大に吹き出しました。
「ぶははははははッ、ひぃ、ひぃ、んふ、んふふふふふふ、あはははははは
はは、はぁ、はぁ。うひひひひ、ひは、ひは、ふははははっ・・・」
 ヘソの辺りを両手で押さえて、まさしく大爆笑しています。
 しばらくの間、そうして辺りをのたうち回っていました。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・。ペ、ペンペン、アンタさ、動物タレントになり
なさいよ!」
 ようやく笑いを収めると、アスカはペンペンに言いました。
「今の芸さえあれば、ガッポリお金稼げるって、絶対に! はぁ〜、もう、ホ
ント、お腹痛かった! 久しぶりにチョ〜笑えるもん見たわ。ほらほら、シン
ジも黙ってないで、何か言ってやりなさいって」
「ステキだったよ、ペンペン」
「なぬッ!?」
 がびーん。アスカが脱力した感じになります。
「よかったよ。すごく」
 大真面目に、シンジは言いました。
「ボク、ダンスなんて全然踊れないし、そういうのに詳しくもないから、難
しいことは上手く言えないけれど・・・。今のダンスは、見てて、何だかと
っても感動した」
「ほ、本当ですのな?」
「うん、本当に」
「あんた、マジ・・・!?」
 頬をヒクヒクと痙攣させつつ、アスカが凄まじいまでの疑惑の視線を向け
てきます。
 が、シンジは彼女を無視して続けました。
「それでさ、見てて思ったんだけど・・・。ペンペンが感じてた『足りない
何か』っていうのは、もしかすると、自分のダンスに対する自信なんじゃな
いかな、って・・・」
「・・・自信?」
「うん。もっと自分に自信を持って・・・。そうして精霊のダンスを踊って
みれば、うまく踊れるかもしれないよ? だってさ、あんなに素敵なダンスだ
ったんだもの」
 ペンペンもアスカも、ただ黙ってシンジの顔を見つめています。
 ストーリー的にみていきなり核心を突いた感じの彼の言葉に、二人は驚き
を隠せない様子です。
「なるほどな。自信を持って、な・・・」
 ペンペンは呟くと、しばらく考え込むように、黙りこくってしまいました。
「ねぇ、よかったら、もう一度踊って見せてよ。ペンペンの精霊のダンスを」
 シンジの促しに、彼は眼を閉じました。
 そして、瞳を開きます。
 その時にはもう、そこに浮かんでいた迷いの類は消え失せていました。
 そして――。
 ペンペンは再び、二人の見守る中、おもむろに踊り始めました。
 彼のダンスを、シンジもアスカも、じっと見つめます。
 やはり、その場の思いつきで適当な振り付けをしているだけのように思え
なくもないです。
 ただ、シンジは、ペンペンのダンスを見ていると、どうにも不思議な気持
ちになるのでした。
 おとぎ話の世界にいるような、懐かしい、不思議な感覚。
 楽しさとか、悲しさとか、苦しさとか、色々な感情がそのダンスには織り
込まれていて、心の中に染み込んで来るような・・・。
 何とも言えず、不思議な感じです。
 ペンペンが踏む激しいステップは、やがて軽やかに、そして、次第に緩や
かになっていきます。
 呼吸と心がだんだんと静まって、いつしか、シンジは時間が止まったよう
な感覚に囚われていました。
 ふと、気が付いたときには――。
 ペンペンは、ダンスを踊りきっていました。
 そして、シンジの瞳を、じっと見つめています。
「よかったよ」
 シンジは力強く頷き返しました。
「ねぇ、アスカ?」
「う、う〜ん・・・」
 今度ばかりは、アスカも爆笑していませんでした。
 2度目だったので飽きただけなのかもしれませんが。
「う〜ん・・・」
 彼女は腕を組んで、目をつむり、眉に皺を寄せ・・・、ひどく難しげな顔
で唸り続けています。
 一体どこがそれほど良かったのか、まるで理解しかねているような表情で
す。
「・・・まぁまぁ、・・・ってことにしといてあげるわ。ただ――」
 と、組んでいた腕をほどいて、彼女はペンペンに言いました。
「ただ、アンタの踊りに対する真摯さなら、確かに、すっごく伝わってきた
けどね」
「・・・」
 少しの間、決して不快ではない沈黙が続いた後――。
「私の精霊のダンス、たった今、完成しましたのな」
 感慨深げにそう言って、ペンペンはしおらしく頭を下げました。
「礼を言わせていただきますのな。心から・・・」
「え? やぁね、何だか照れるじゃない。あまり気にしないでよ」
「シンジにな」
「・・・やっぱりね」
 アスカが白けた声を出します。
「結局、アスカに踊りのセンスが欠如していただけでしたのな」
「うっさい!」
「それも絶望的なまでに」
「急に自信たっぷりな態度になったわねアンタ・・・」
「私のダンスを笑うなんて、まったく、頭おかしいですな」
「あっはっは。わかったわぁ。精霊界には遺骨になって帰りたいのよねぇ?
ペンペンはさ」
 その時。
 ぱちぱちぱち・・・。
 小さいながらも、はっきりとした拍手が響きました。
 その拍手の主であるシンジを見て、ペンペンが瞬きます。
 同時に、アスカの瞳にも、消える寸前だった理性の光が戻ってきました。
「おめでとう、ペンペン。もう一人前の精霊ってことだよね」
 シンジはそう、彼に祝いの言葉をかけると、一転、心配そうに訊ねました。
「で・・・。本当に帰っちゃうの? 精霊界に」
「ですな」
 ペンペンは至極あっさりと、首を縦に振りました。
「おかげで、精霊界への扉が開きましたのでな」
「・・・トビラ?」
「開いたって・・・、どこに?」
 ペンペンの言葉に、シンジとアスカはきょろきょろと辺りを見渡しました。
 しかし、彼らのいるリビングルームは普段のままです。
 扉どころか、そこには何らの変化も生じていません。
 不思議がる二人に、ペンペンはただ黙って、くるりと背を向けました。
「ペンペン?」
「・・・どこ行くつもりよ、ちょっと」
 ペンペンはそのまま、ベランダへと通じるガラス戸まで歩いていきます。
 そしてガラス戸に手をかけると、二人を振り返って、こう言いました。
「別にサヨナラは言いませんのでな、私」
「え・・・?」
 戸を開けて、ペンペンは、ぴょん、とベランダに降ります。
 そして、突如、2メートルほども浮くように飛び上がったかと思うと――。
 手すりを超え、ベランダの向こうへと華麗にダイブしていきました。
 アスカが思わず、息をのみます。
「んなッ・・・!?」
 彼女は足をもつれさせながら、慌ててベランダに飛び出しました。そして、
そこで手すりから大きく身を乗り出し、地面を覗き下ろします。
 シンジは対照的に、後からゆっくりとベランダに降り立ちました。
 ペンペンがどうなったのか、だいたい予想は付いていたからです。
 そして、その予想が間違ってはいなかったことを、シンジは、振り向いた
アスカの表情を見て知ったのでした。
「シンジ・・・。き・・・」
 呆然とした様子で、彼女が言ってきます。
「消えちゃったわ、あいつ・・・」
「・・・うん」



                  ★



 静かな夏の夜――。
 そよ風が心地よいです。
 ベランダの手すりに、シンジは肘をついていました。
 そうして、ぽかんと第3新東京市の夜景を眺めています。
 すぅっと目を細めてゆくと、遠くの街頭の光も自動車のライトもぼやけて、
だんだん区別が付かなくなっていきます。
 暗闇の中で、ときに瞬き、流れるように揺れ動く光の粒たち・・・。
 そんな懐の深くて柔らかい景色を、シンジは飽きることなく目にしていま
した。
 こうしてから、どのくらいの時間が経ったのでしょう。
 もう夜も遅いです。
「アタシね、アンタのこと、ちょっとだけ見直しちゃった」
 不意にアスカが、からかうような調子で言いました。
 彼女はシンジのすぐ隣で、彼と似たような格好をしています。
「そう・・・?」
「うん。アンタにもマトモなことが言えるんだなぁ、って」
 面と向かって失礼なことを言ってくれます。
 が、不思議と、シンジは何も言い返す気になれませんでした。
「自分に自信をもって踊ってみれば、かぁ・・・。それにしてもさ、ペンペ
ンが自分のダンスに自信をもってなかったこと、よく分かったわね?」
「まぁ、ね・・・。何となくだったけど」
 シンジは言葉少なく頷きました。
 思うことは、色々とあります。いえ、あるような気がします。
 でも、それらは言葉として口にできるほどに、心の中で明確な形になって
はいませんでした。
「あのさ、シンジ・・・」
 呼びかけられて、シンジは眉を寄せました。
 いつもの威勢はどこへやら。先程から瞳を向けてくるアスカが身にまとっ
ている雰囲気は、何やらとても淑やかな感じです。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「・・・なに?」
「アタシも自分に自信を持ってチャレンジしてれば・・・、いつかは、うま
くいくかしら?」
「・・・」
 シンジは、ただ静かに、アスカの青い瞳を見返して――。
「いや。アスカはちょっと」
 首を横に振りました。
「何よそれッ!?」
 ほとんど即答したシンジに、彼女はクワッと目を剥いて、あっさりと本性
を現してくれます。
 被っていた猫の皮は、どうやらたったの1枚だけだったようです。
 女性としては、まだまだ未熟です。
「何となく、だけどさ・・・」
 シンジは彼女に苦笑を返して、手すりから肘を離しました。
 先ほどの失礼な言葉への、ちょっとした仕返しのつもりです。
 これ以上自信過剰になってくれなくても結構だからだ、ということは教え
てあげません。
「じゃ、ボク、そろそろ寝るよ。お休み」
 目を逆三角形にしたアスカが罵声を口にするより早く、そう告げて、逃げ
るようにその場を後にします。
(そうか――)
 シンジは、このとき、心の中だけで頷いていました。
 いつも見慣れているアスカの瞳と。
 未完成のダンスを踊っていたときのペンペンの瞳と。
 そこに宿っている輝きは、今にしてみれば、微かに違っていたように思え
ます。
「あッ、こら! 今のは普通『何にチャレンジするの?』とか何とか聞き返す
ところでしょ!? なのに・・・、ちょっと! 逃げないでよ、ねぇ!」
 ベランダでアスカが文句をぶーたれ続けていますが、とても付き合ってら
れません。
 シンジはリビングを抜け、そそくさと自分の部屋へと向かいます。
「なッ、何よあの態度! あー! んもー! むっかつくー!」
 だんだんだん、とアスカの踏む地団駄の音が、辺りに響き渡りました。
 夜中に近所迷惑です。
「ハァ・・・。せっかくロマンチックな雰囲気だったのになぁ!」
 ひとしきり口惜しがってから、彼女は、ちぇッ、と軽く舌打ちすると――。
 この街をすっぽりと覆う、星の少ない夜空を、何となく見上げてみました。
 そして、ふと思います。あと少し、このベランダに居ようかな、と。
 そうすれば、シンジが心配して見に来てくれるかもしれません。
 ただ、その可能性は、今はほとんどゼロでしょうけれど。
「・・・愛に時間を、とか言ってたっけ」
 空の低いところで、月が雲に見え隠れしています。
 今夜の月は、まるで針金のように細いです。
「本当に、魔法、なかったのかしら・・・」



                  ★



 ピンポーン。
 ベルが鳴って、来客を告げました。
「シンジ、誰か来たわよぉ?」
 アスカが疑問形を使って『お前が出ろ』と命令してきます。
 しかし、シンジは料理中。菜箸を手に、答えました。
「ボク、手が放せないんだ。アスカが出てくれない?」
「あ〜ん? アタシも今、手が放せないの〜」
 何をしているのかと振り向いてみれば、彼女はリビングのソファに寝そべ
って、ただテレビを観ているだけにしか見えません。
 天敵がいなくなった途端、この調子です。
 この家はアスカにとって、今やほとんど楽園と化していました。
 彼女が思う存分に羽を伸ばしている分、そのしわ寄せが誰に来ているのか
は、言わずもがなです。
 ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン。
 うるさい客です。
 シンジは菜箸を置くと、コンロの火を止めて玄関へと向かいました。
 そして、戸を開けてみると、そこにいたのは――。
「ミサトさん・・・?」
「ゴメンゴメン。家のカギ、なくしちゃってさ〜。な〜んか、どっかで落と
しちゃったみたい」
 愛想笑いを浮かべながら、そんな言い訳をしています。
 住居の防衛に対する認識は、ほとんど小学生レベルです。
 ネルフ本部も敵の侵入を許す日がいつかやってくるような気がして、シン
ジの心は悲壮感に覆われました。
「それより、シンちゃん。今日から、この子が一緒に暮らすことになったか
ら。よろしくね」
「初めましてなの」
 と言いつつ、ミサトさんの両脚の後ろから姿を現しのは、一匹のパンダで
す。
 子供くらいの大きさですが、よく見ると宙に浮いています。
 あからさまに精霊です。というか、こんな精霊アリですか?
「どうも。私、パンと申しますの」
 ベタな、というより、もはや投げやりな感じのする名前のそのパンダは、
シンジの目の前で腹を折り曲げ、ペコリとお辞儀をしました。
「ペンペンに話を聞いて、ここにやって来ましたの」
「・・・ペンペンに?」
「ですの。私のダンスが仕上がる日まで、ぜひ、ここでお世話にならせてい
ただきたいですの」
「なーんか、そういうことらしくてねー」
 ミサトさんがいつもの明るい笑顔で言いました。
「ちょうどそこで、ばったり会ってさぁ。アタシもちょっちビックリ仰天っ
て感じ?」
 浮遊パンダと出くわして『ビックリ仰天』だけで済ませるあたりは、さす
がと言うか何というか。
 神経が図太すぎです。
「さ、こんなところで話してるのも何だから、中に入りましょ、パン」
「はい。では、お邪魔しますの」
「あ、ちょっと待った。お邪魔します、じゃないわ」
「はい?」
「ただいま、でいいのよ」
 聞き覚えのある台詞回しを、ミサトさんは口にしました。
 きっと、この玄関をくぐろうとする者全員に対して同じネタを使っているの
でしょう。
 そんなことは露知らず、不必要に宙に浮くパンダは、ミサトさんに言われ
たとおり、ただいまですの、と言って玄関に入ってきました。
 そして、そのままフワフワと廊下を進んでいきます。
『うわっぎゃあああああぁぁぁぁぁ!?!?』
 やがて家の奥から響き渡ってきたアスカの悲鳴が、新らしい物語の幕開け
を告げていました。そこはかとなく楽しげに。

                             《おわり》


マナ:あなたねぇ、ペンペンと同等で張り合ってどうするのよ。

アスカ:・・・・・・。

マナ:動物にも、精霊にも、もっと優しくしてあげなくちゃ。

アスカ:・・・・・・。

マナ:なに黙ってるのよ。なんとか言ったらぁ?

アスカ:・・・・・・。

マナ:もーっ! コメントにならないでしょっ!

アスカ:やっぱり魔法かけられてたのな。(ーー#

マナ:(@@)なに? その喋り方・・・。

アスカ:喋り方がペンペンになる魔法だったのな。(TT)

マナ:ブッ。アハハハハハハハハハっ!

アスカ:あのペンギン、絶対許さないのなーっ!(ーー#

マナ:似合ってるって。そのままでいたらぁ? アハハハハハハ!

アスカ:アンタも血祭りなのなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!(ーー#
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