コツコツと廊下に響く靴音が、ある部屋の前で止まった。
「赤城研究室」。
そっとドアを開けると、ディスプレイを見つめ、超人的なスピードでキーボードを叩くこの部屋の主の背中が見えた。
まさしく仕事の鬼、学問の虜。
(だが君は、科学者である以前に、一人の人間だろう!
............幸せになる権利が、あるはずだよ。)
決意新たに、踏み出す。いつもの軽妙さをもって。
ガバッ
「..................!」
「やっ。相変わらず、仕事の虫かい?」
「加地君............変わってないのね。」
「リッちゃんもな。......少し痩せたんじゃない? 君は働き過ぎだよ。」
「大丈夫。......これが私の生き甲斐だから。」
さっきまでとは180度違う微笑みを浮かべ、コーヒーを渡す。
(やっぱりこっちが、その顔が、本当の君なんだよ!)
加地は改めて決意した。今日・この時をおいて、8年前躊躇した一歩を踏み出すきっかけはない、と。
言えなかった言葉
by 敏芳祥
お互い黙ったまま、コーヒーをすする。
長年の付き合いだし、沈黙が気まずい、なんてことはない。
必要とあらば会話はどこからでも紡げる。それだけの人生経験は、2人とも積んできていた。
「加地君こそ、疲れているんじゃない? 最近顔色悪いよ。」
「..........そうかも。」
「アルバイトの掛け持ちも程々にしなさいね。これは友人としての忠告。」
「.......ありがとう。」
再び、沈黙。
(もう、「友人としての」言葉は、要らない...)
「ん? 何?」
「......いや、おっしゃる通り。最近バイトも辛くなってきてね。そろそろ、腰を落ち着けようか、と思うんだ。」
「それは何より。」
「人間なんて弱いもんさ。そう思うと、途端に安らぎが欲しくなった。
...........結婚、しようと思う。」
「.............そうなの。おめでとう!」
「まだめでたくないさ。これから申し込むんだから。」
「じゃあ、こんなところにいないで早く行ってあげなさいよ。相手の人、待ってるんじゃない?」
「......目の前にいるよ。」
「................!」
「............リッちゃん、結婚してくれ。気づかなかったかも知れないけど、初めて逢ったときからずっと君だけを見てきた。
本当に好きだったのは、君なんだ。....................お願い.......。」
「そ、そんな突然.......うそ.............。」
「うそじゃない! それに、君にとっては突然かも知れないが、こっちは8年前からずっと............
言いたくて、それでも言えなくて..................ずっと、想っていたんだよ!」
(そんな......加地君が、私を?............信じられない..............でも、私はダメ。汚れた人間だから.....)
「加地君........あなたなら、もっとふさわしい人が.......」
「リッちゃんの、本心が知りたい。」
「................!」
「遠慮や負い目のない、本当の気持ちを言って。...............それとも、嫌い?」
「そ、そんなことない! 私だって本当は加地君のこと!.........ぁ.........でも.............。」
「葛城のこと、気にしているの?」
「................」
「わかってる。君達の仲を引き裂くつもりはないんだ。.........でも、あいつには見守ってくれるヤツがいる。
こんな言い方は卑怯かも知れないけど、リッちゃんが心配しなくても......あいつなら、大丈夫だよ。」
再び、流れる沈黙。
気まずい。まるで少年少女に戻ったように。
何か応えなければ、この空気は変わらない。そして、応えたい言葉は決まっている。
後は、ほんの少しの勇気だけ。たったそれだけのことが、なかなか出来ないでいる。
(この歳になると、余計臆病になる。「逃げちゃダメ」、なのにね............)
ふと視線を上げると、加地が真剣な表情で見つめていた。
いつものいたずらっぽい色は何処にもない。真剣な、澄んだ瞳。
(加地君.........うん、私もその気持ちに応えなくちゃ! 正直に、素直に。ゴメンね、ミサト...............)
返事の代わりに、加地の肩に腕を回す。
強く抱き合う男女。熱い、とろけるような大人のKISS。
2人はお互いを求め合った。もう相手のことしか考えられなかった。
誰もいない研究室。もう2人の邪魔をするモノなど.........
「ちわー! 赤城はっかせ、居るう?......ウゲッ!!!」
居た。
不粋やらせりゃ日本一、葛城ミサト三佐・前触れ無く登場である。
慌てて離れる2人だが、そんなもんでこの雰囲気がかき消えるワケがない。
恥ずかしさと後ろめたさで紅く俯く2人。引きつった笑いを張り付けるミサトの前は、さながら針のムシロ。
三度気まずい沈黙。これを破れるのは閻魔大王(ミサト)様の判決だけだろう。
ミサトは、何とか心を落ち着かせて言った。
「ま、まさかあんたらがそんな仲になっているとわね......。こりゃ一本取られたわ。」
「ミサト......」「葛城......」
「そ、そういや『リッちゃん』『加地君』なんて呼び合っちゃって、あーやしーいなーとは、思っていたのよねぇ。」
「ミサト........ゴメンね。私たち、結婚する。」
「そ、そう。.......おめでとう! 友人代表のスピーチでは、あんたらの悪事、さんざんバラしてやるからね!」
「うん.........覚悟してる。」
「じゃ、お邪魔みたいだから、帰るわ。お幸せに...。」
さささ.....
「葛城!!!」
「.......なあに、加地君。」
「8年前、言えなかった言葉を今、言うよ。............先に、結婚する。........君も、幸せに、ね。」
「余計なお世話!........ほんじゃあんたら、頑張んなさいよ!」
静かに、ドアが閉まった。
室内の2人は、ミサトの友情に感謝しつつ、晴れやかな心で抱き合っていた。
(はーーあ。こりゃあ、売れ残り確定かな?)
廊下にため息がこだまする。
「ちっくしょおおお!!! 今日は飲むぞぉおぉぉぉ!!!!!」
葛城ミサトはちょっち寂しげなハイテンションで、歓楽街へと駆けていった。
「ウィーーーーヒック! たーらーいーまー!! ご主人様のお帰りですよーーーーーーん!」
コンフォート17マンション中に響きわたる騒音。他に住民が住んでいたら、被害者の会が結成されそうな凄まじさである。
音だけじゃなく酒のにおいぷんぷん、リビングに引きずり込むまで暴れまくって物が散乱。
まさに人間暴風雨。やっと寝かしつけた年若い同居人は、クタクタになって座り込んだ。
「はあーー。ミサトさん、一体どうしたんだろ? いつもはここまでは酷くないのに。」
「ふっふっふーー! アタシその理由、知ってるよ!」
もう1人の同居人がひょっこり現れた。
当然このお姫様は、生ゴミの回収などお手伝いにならない。
さっきまで苦闘するシンジを後目に、奥の部屋でくつろいでいたのだ。
「なんでアスカが知ってるの?」
「へっへっへー。さっき、アンタがミサトを引っ張り上げてるときにTELがあってね。加地さんから。
『今度赤城博士と結婚することになりました』ってさ! ミサト、それで荒れてたのよ。やーねー、嫁き遅れって。」
「!...........」
シンジは驚いていた。
そのカップリングの意外さもさることながら、アスカがさも他人事のように、あっけらかんと笑っていることに。
「あの.......アスカは、それでいいの?」
「なあに? 加地さんのこと?」
「う、うん..............」
「そりゃまあさっぱりしてていい人だから、憧れてたわ。正直、ちょっと残念よ。
でも、本人が幸せそうだったから、いいんじゃない?」
これは。
アスカ、全然気にしていないみたいだ。
...........もしかして、もしかして。
き、期待して、いいんだよね?
「そーーかあ! うん、うん、そーだよね!!! 2人には幸せになって欲しいよね! あっはっはーー!!」
「そ、そうね。(何突然大喜びしてんのよ?)」
「2人の結婚を祝して、僕らも今からパーティーしよう! 僕、ケーキ焼くよ!!」
「アンタバカァ? こんな時間にケーキ食べたら太っちゃうわよ。」
「じゃあプリンでもゼリーでもいいや。もう僕なんだって作っちゃうよ! いやあめでたいめでたい!!」
「何でアンタがそんなに喜ぶのよ.......」
「そ、それはいつもお世話になってる人達だからさ、やっぱり嬉しいんだよ。」
「そんなにお世話になってたっけ?」
「うっ........まあ、なんだっていいじゃない!」
なんやかやとはぐらかし、デザート作りにいそしむシンジ。
なんだかんだ言いながらも、その背中を温かく見つめるアスカ。
さっきまでの喧噪がウソのような、ほんわかとした時間が流れていた。
「ん、なかなかいけるじゃない。おかわり!」
シンジ作・寒天ムースをパクついて、紅茶をすするアスカ。
満面の笑みで給仕するシンジ。
(こういうの、いいな。ゆっくりと日々が流れていって、いつか僕らも.......)
「なににやけてんのよ。」
「い、いや良かったなー、って思ってね。だけど、意外な組み合わせだったよね、あの2人。」
「そう? お互いホントは好き合ってるの、端から見ればバレバレだったじゃない。」
「そ、そうだった? 僕はてっきり、ミサトさんかなーって思ってたんだけど。」
「んなワケないじゃない! あーんな飲んだくれ、だーれももらってくれないわよ!
もう1人共々、哀れなオールドミス決定ね!」
「(エ、エグいこと言うね......) あの、もう1人って?」
「エセ金髪マッドに決まってんじゃない!」
「............って、誰?」
「リツコ以外にいるの?」
............
...................冷汗............
「リツコさん、結婚するじゃないか。」
「えーウソ! アタシ聞いてないよ! 誰と、誰と?!」
「????......だから..................」
「アンタバカァ?!
なんで加持さんとリツコが結婚しなきゃいけないのよ?!」
「ふ、普通誰だってそう思うよ!!」
「あーのーねー! 結婚するのはミサト達の同級生で、
加持じゃなくて加地ミドリさんと、赤木じゃなくて赤城リンタロウ博士よ!大体、字が違うじゃない字が!!!」
「そ、そんなの聞いただけじゃわかんないよ!」
「常識で考えなさいよね! 加持さんにふさわしいのは、アタシみたいな清楚可憐な美少女よ!」
「そ、そんなぁ......ず、ずるいよ!」
「そーなのよ加地ったらずるいのよーーーー!!」
ピクン
しまった。大声を出しすぎた。
恐る恐る振り返る。............やっぱり。
後の祭りとはこのこと。既に再起動している。
「ねえきいてよシンちゃんアスカ! 加地ったらねえ、8年前なんて言ってたと思う?
『私達3人、自立した女性を目指しましょうね!』
なーに言ってやんでえ結局フリーターきつくなって永久就職ってか?!
けっけっけ! てやんでえバーロー..............」
酔っぱらい(それもとびっきり)の話し相手。
まさしく拷問である。
シンジとアスカは、ひたすらに耐えねばならなかった。
話は、べらぼうに長い。
学生時代の出会いから始まって、一時期赤城博士がミサトに想いを寄せてそれを加地さんが応援したとか。
それで2人は奇妙な友情......結局その頃からお互いを意識していたんだとか。
でも加地さんは加持さんが好きなんじゃないかと思ってた赤城博士は告白できなかったとか。
素直になれない、想いが通じない加地さんは自分の気持ちを殺すため髪をばっさり切って、わざと男っぽい話し方に変えたとか。
それをどう勘違いしたのか、赤城博士は加地さんがレズの道でミサトが好きなんだ......と思いこみ人知れず応援していたとか。
加地さんの方は加地さんの方で、赤木博士と話が合う赤城博士を見て、複雑な想いを抱いたとか。
やっぱり加地さんが好きなんだけど、実験のため平気で動物を殺す自分なんか、加地さんにはふさわしくないんだ!......と加持さん相手に酔ってくだ巻く赤城博士がいたとか。
とまあ、逐一説明したら一大ラブロマンスになってしまうので割愛するが、私的感情を存分に交えて熱く語るミサト節は、とどまるところを知らなかった。
しかも、ぺらぺらとしゃべりながら秒殺で空き缶をこしらえてゆく。
(こんだけしゃべりながら、どうしてこんなに飲めるワケ?! バケモノ......)
勝ち気な少女は、こと飲酒と早口に関しては、一番にならなくても一向に構わないや、と思った。
(............どうせこんなに飲むんなら、樽で買ってくれないかな? 片づけるの大変なんだから。)
天性の主夫少年は、身近なゴミ問題に取り組む決意を固めた。
延々3時間。酒徒、ようやく活動を停止。
高いびきをかきながら横たわる世帯主をジト眼で睨みながら、ソファーにもたれる少女。
げんなりと肩を落としながらも、後片づけする律儀な少年。
「ふふふ......」 「ははは......」
ようやく訪れた平穏に、2人は乾いた笑いを交わした。
「ところでさあ、シンジ。」
「なに、アスカ?」
「加持さんとリツコが結婚すると思ってたとき、なんでアンタはあんなに喜んでたの?」
「!......い、いや別に......」
「もっと厳密に言うとね、アタシが加持さんを祝福した(と思った)ときから、やけに浮かれてたじゃない?」
「そ、そそそそそそんなことないよ! た、ただ単にめでたいな、って思って......」
「ふぅぅぅぅぅーーーん。」
「..................。」
「ま、いいわ。」
のそのそと立ち上がり、俯くシンジを横目に冷蔵庫へ向かうアスカ。
牛乳を取り出し、パックのまま飲み始めた。
「それにしても......ング、ング......」
「なに?」
「それにしても、加地さん......加地ミドリさんよ。加地さんも悪趣味よねー。あんな男のどこがいいんだか。」
「そう? 聞いた(イヤというほど聞かされた)限りでは、赤城博士って優しくて頭が良くて、いい人そうじゃない。」
「......男らしくない。」
「はは。確かに、ちょっと話し方オカマっぽいね。」
「............わかってないのね。」
「......何が?」
「アタシが言いたいのは、そういうことじゃないの。
......別に、オカマっぽくてもナヨナヨしててもバカでもいいのよ。好きなら、ね。」
「じゃあ、どういうこと?」
「好きなら好きって、どうして言えないのよ! 結局加地さんをさんざん待たせてさ、女の方から言わせたのよ!
好きな男に望むモノなんて、たった一言の勇気だけなのに。
............アタシは、イヤ。加地さんみたいに、30まで待たされるのも、自分から言っちゃうのも。
アタシは、イヤなんだからね............。」
「!..................。」
「............もう、寝る......。」
牛乳パックを戻そうと、冷蔵庫に掛けた手が掴まれた。
「な、なにすんのよ......」
「............アスカ! 僕は、僕は!」
ドキ 30cm
ドキ 20cm
ドキドキ 10cm
「あーーんーーたーーらーーーーーーー...........」
地獄の底の、そのまた底から響いてくるような声。
そう、再び復活した葛城ミサト、絶妙のタイミングである。
あくまでも保護者として、上司としての怒りに燃えるミサトの眼前で、これ以上ラブラブシーンを繰り広げるほど2人は命知らずではない。
「あ! もうこんな時間! 子供はもう寝なきゃ! じゃあおやすみ、ミサト!」
「そうだね! お、おやすみなさいミサトさん!」
こうして2人は、逃げるように部屋に入っていった。
......ミサトのこめかみに、これでもかと血管が浮かぶ。
何故かって? ああ、さっきの文、ちょっと表現が足りなかったな。
こうして2人は、(手に手を取り合って)逃げるように(アスカの)部屋に(一緒に)入っていった。
「クェーーーー!! ガキめらが14のくせに色気付きやがってギャオーーーーーーーーーーー!!!!!!! あーちくしょどうしてくれよう!!
それもこれも加持ィ!!!!! 貴様が悪いんじゃ!!!!
とっとと来て酒の相手しろぉお、ついでに覚悟決めろおおおおお!!!!」
ピポパポパポペパ......
trrrrr........trrrrrrrrrrrr......
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にいるか......」
「ギュワオーーーン!!!!なにやっとんのじゃ、あのブワーーーーーークワは!!!!!!!!!!」
その日、一晩中、猛獣ミサトドンの怒りの雄叫びが轟いたという。
それにしても、ミサトを鎮める人身御供......いえいえ、白馬の王子様たる加持リョウジ氏は、一体何処に行っていたのだろうか?
我々取材班は、その映像の入手に成功しました。
えーと、『コツコツと廊下に響く靴音が、ある部屋の前で止まった。』
ああなるほど、地下深くなら、電波は届かないわな。
あれ?
正真正銘、「赤木研究室」。
あれれ?
ガバッ
「..................!」
「やっリッちゃん。相変わらず、仕事の虫かい?」
「加持君............こんな時間にどうしたの?」
「たまには一緒に食事でも、と思ってさ。夕食じゃなくて夜食だが、ね。」
「......いいけど............今からだと終電、無くなっちゃうわよ?」
「............ああ。」
あ? あーーっと、これはその......
ウソから出た?
..................まあとにかく!
桂木三佐の、幸せを祈ります。
「あたしゃ葛城じゃい!!!!!」
fin.
感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構 ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。 |