「あと五分」
魔法の言葉だと思う。
科学万能のご時世に現存する、正真正銘のチャーム・スペル(魅了の呪文)。しかも数少ないホンモノのなかでも、きっと最強の呪文なのだ。
だからシンジもその呪文に魅せられ、二十分も前から「あと五分」と繰り返していた。
しかたがない。だって、ホンモノのチャーム・スペルで、最強で、あと五分で、理由は忘れたが昨夜は寝たのが遅いのだから。
あー、なんでこんなに眠いかな――布団にぐるぐると身体を巻きつけながら、シンジはその理由を思い出そうとしていた。
何人かで集まって、酒を飲んだ気がする。
たしか、トウジとケンスケ。それと洞木さんと冬月ラボのセンパイが三人。名前は日向さんと青葉さんと伊吹マヤさんだ。男の二人は、いくら頭を捻っても下の名前が出てこない。どうでもいい、眠い。
意識の隅で赤い何かが踊っている。何かじゃない。髪だ。燃えるような赤毛で、威勢がよくて、大暴れしている。やめて欲しい。部屋が滅茶苦茶だ。だいたいなんだって、彼女の引っ越し祝いの宴会が、シンジの部屋で行われるのか。おかしいじゃないか。被害はいつだって、シンジが一人で被る。ずるいぞ。そう思う。なんだかイラついてきた。
――そうだ、アスカが悪い。
思い出した。
昨晩はアスカの引っ越し祝いで、宴会で、大暴れで、片付けて寝たのは夜明け前なのだ。
チャームの呪文が切れてきた。
あと五分。あと五分。あと五分……むかむか……
「……アスカのバカ」
「なんですって」
飛び起きる。
狭苦しい六畳一間のいつもの部屋。
いつもと違うのは、そこに女の子がいることだ。
真っ赤な長髪と、青い目が印象的な、幼馴染。
エプロンの紐を首の後ろで結ぼうとしている格好で、怖い目でこちらをにらんでいた。
「アス、アスカ……。なんで……」
「そんなこた、どうでもいいのよ。――誰がバカだって」
怖い。深層心理に植え付けられた防衛本能が、逆らっちゃいけないと絶叫している。
「……僕でした。ごめん」
「はっ! わかってりゃいいのよ。それにしてもキッタナイ部屋よねぇ。こんなの掃除しきれないわよ」
ようやくチャームの呪文が完全に切れたようだ。
アスカはスリムジーンズにワークシャツをあわせ、その上に赤いチェックのエプロンを羽織った姿で、シンジの部屋を見渡していた。
腕まくりをしながら、ぺろっと唇をなめる。
わけがわからないが、やる気マンマンだった。
「……ちょっとまってよ! なんでアスカが僕の部屋にいるのさ! それに掃除ってなんだよ」
「あんたバカぁ? あたしはきのう、あんたのとなりの部屋に越してきたの。だからここにいるわけ。それにあまりの汚さに虫唾が走りそうだったから、掃除してやろうと思ってこんな格好までしてんのよ。わかる?」
「理由になってないだろ! アスカの部屋はとなりで、汚くしたのはアスカたちじゃないか! そもそもどうやって入ってきたんだよ!」
「そんなのベランダからに決まってんじゃない。まったく、日本の住居は防犯思想に欠けてるわよね。ドイツじゃ考えらんないわ」
アスカは十四の歳に日本に越してきた。父親の仕事の都合だそうで、それ以来なにかにつけて日本とドイツを比べるのがアスカの癖なのだ。長年聞かされ続けたシンジぐらいになると、ドイツのドの字が出た瞬間に、自動的に反対の耳から抜けて出るように身体が最適化されている。
「掃除してくれるのは嬉しいけどさ。アスカだって引越しの片づけが大変なんじゃないの」
「……うん。整理ははじめてるんだけど、ちょっとあの部屋には収まりきらないなぁって思ってんのよね。寝る場所も無いんだもん」
イヤな予感がした。
きのう、大量のダンボール箱がこれでもかというほどアスカの部屋に運び込まれたのをシンジは見ている。
「しばらくよろしくね、シンジ」
りりす いん わんだぁらんど
第一話『赤い玉に誘われて』
季節は春で、京都大学のキャンパスを走る並木道は、桜の色に染まっている。
碇シンジ。二十歳。男。京都大学情報学部の二回生。
父親ゲンドウは同じ京大の教授を勤め、現在は母ユイとともに葛城調査隊の一員として南極への長期調査旅行に出ている。
日本に残されたシンジはいまどき誰も入寮しないであろう、くたびれきった「半葉寮」で自適な一人暮らしを送っていた。
――いた、はずだった。
そこに幼馴染である惣流・アスカ・ラングレーが乱入してきたのがきのうのことである。
シンジとアスカは、中学校以来の腐れ縁だった。
十四歳のときに家庭の事情というやつでドイツから転入してきたアスカは、どういうわけかシンジとの接点が多かった。
アスカは俗に言う天才肌。一方のシンジはと言うと、両親が高名な学者であることを別にすれば、これといった特徴の無い――いや、公平な評価を下すなら平均よりも劣る――少年だった。
その二人が、なぜか事あるごとにペアを組まされ、対立し、ぶつかり合いまくったのである。
ぶつかると言っても当初は一方的な状況で、泣きながら逃げ帰るシンジの背中に、アスカが掃除用のモップを投げつけるという、そんな関係であった。
アスカにだけは逆らってはいけない――そんな感情が、本能のようにシンジの心の奥深くに根付いたのは、この頃であろう。
それが変化し始めたのは、高校も二年を半ばも過ぎた頃だ。
南極の極点近くで発見された遺物を調査、回収するために編成された学術調査隊の一員として、シンジの両親が抜擢されたのが始まりだった。
独り日本に残されたシンジは、少年から大人へと成長することを半ば強要されていた。
自分で判断し、自分で行動する。
そんなあたりまえの繰り返しが、シンジを大人へと急速に成長させていった。
そして、それを一番近くで見ていた少女の内面にも、奇妙な変化が起こり始める。
『どうしようもないガキ』『苛める価値も無いクズ』
そう思っていた少年が、一足飛びに先に進んでいってしまう――
そう感じたとき、焦りのような感覚に捕らわれたのだ。
両親共に優れた才能を有していたシンジは、やはり遺伝的に優れた能力があったのかもしれない。
ひとたび花開いたそれは、多方面へと急速に成長していった。
わずか一年で、シンジは多才な少年へと変貌を遂げてしまう。
学業は言うに及ばず、もともとの趣味であったチェロや絵画といった芸術面、機械工学や情報工学といった分野にまで広く手を染め、貪欲に知識を吸収し、技術を獲得していく。
一方のアスカは、そんなシンジに対抗心を燃やしながら、同様に才能を高めていった。
シンジが両親の勤める京大へと進学先を決めたとき、アスカがそれを追いかけるように同じ大学への進学を決心したのは、ごく自然な成り行きだったと言えるだろう。
2000年 春。
この年に世界を襲う衝撃を、彼らはまだ知らない。
◇◆◇
昼過ぎには、アスカがシンジの部屋に転がり込んだという噂が、学生の間に完全に広まっていた。
去年のミス・京大で、今年も栄冠に輝くこと間違いなしの惣流・アスカ・ラングレーである。やはりその波紋は大きく、それはやっぱりシンジに集中し、これでもかというほどに容赦なく襲いかかる。
講義中には大量の質問メールが舞い込み、廊下を歩いていれば暗がりに引きずり込まれ、食事をしているとうっかり醤油が跳ねてくる。
それは学生だけではなく教授連にまで及んでいて、講義では集中的な質問にさらされて、配られたプリントには「あの噂は本当かね」と書かれ、呼び出しを受けたと思うと、まるで義務教育のような生活指導だったりもした。
二十歳にもなった二人にいまさらそれはないだろうと思うのだが、アスカはすっかりアイドルで、それを汚すシンジは完全に悪の帝王様なのだ。
それが半日。
見るからにボロボロになってしまったシンジは、ロッカールームでプラグスーツに着替えていた。
薄い素材でぴったりと身体に密着するように設計されたこの服は、はじめの頃こそ抵抗があったが、今ではそれなりに慣れてしまっている。
「あの噂、バラしたのアスカだろ」
薄っぺらいカーテンの向こうでは、同じようにアスカがプラグスーツに着替えているはずだ。
「んなわけないじゃん。ほら、あたしってファンがたくさんいるからさ、誰かが嗅ぎつけたのよ、きっと」
嘘だ。妙に楽しそうなのがその証拠なのだ。シンジにはわかる。アスカは自分を困らせて楽しんでいる。悪魔のようだ。負けちゃいけない。負けるもんか。
「それにしては、噂が広がるのが早すぎだよ。アスカなんだろ。怒らないから、正直に言ってよ」
「……くふふ」
「くふふじゃないってば。どうせ、僕をいじめて遊んでるんだよね。言っとくけど、このぐらいどうってことないよ。昔に比べたら、ぜんぜん余裕だね」
しゃっ――とカーテンが勢いよく引かれた。
赤いプラグスーツ姿のアスカが、こっちを見ている。手首のスイッチを押すと、空気の排出音と共にスーツのたるみが消えた。
「三十点。動機の推察が甘いわ。そんなんじゃ、探偵にはなれないわよ、バカシンジ」
「なりたくないってば。じゃあ、何が理由さ」
小馬鹿にしたように肩をすくめた。
「は。そんなこともわかんないわけ。しゃーない、これが最後のヒントだからね」
軽くついばむようなキスをされる。
「ここから導き出される真実は何か。じっくり考えるように」
ずるいと思う。
いつだってこうして騙される。
その日の訓練は、シンクロ率で80%を超えた。
アスカが60%台であることを考えれば、飛びぬけた結果だ。悔しがるアスカをなだめすかして部屋に戻った。
夕食の用意はアスカ。
初めてだったと思う。出来も悪くはなかった。ただし、パスタをゆでて、缶詰のソースをかけただけの料理なので、これを不味く作るのはなかなか難しい。
寮には共同の風呂場がひとつきりで、これが狭いの汚いのとアスカがごねる。
しかたがないので近くの銭湯まで足を伸ばした。三十分後という約束で、一時間を過ぎたころにアスカがあがってくる。どうせそうだろうと思って、SDATと厚手のセーターを用意してきたのだ。それでもやっぱりくしゃみが出た。
映画も見た。
14インチの小さなテレビで、もう何度見たかも思い出せない海洋ロマンスが放映されていた。アスカははじめてだったらしく、主人公が犠牲となるシーンで涙をためている。
それをついつい指摘して蹴飛ばされた。余計なことをしたもんだと後悔した。
そして、問題に気づいたのは寝る寸前だった。
布団が一組しかないのだ。アスカの布団はダンボール箱の奥に押し込まれていて、一体どのダンボール箱がそれなのかさっぱりだった。
さてどうしようと悩んでいると、もう一度くしゃみがでた。しかも止まらない。
「しかたないわねぇ」
その一言で二人で寝ることが決定した。
ごそごそと布団にもぐりこんで、電気を消す。
温かかった。
風邪はひかずにすんだようだ。
三日ほどそんな生活と訓練を繰り返した頃、ゼーレからのGOサインが出された。
リリスへのシンクロ実験。
ついに本番なのだ。
◇◆◇
とにかくバカデカいドームだった。
冬月教授が、莫大な国連助成金のほとんどを注ぎ込んで一昨年に完成させた、特別研究棟である。
内部は一面、これ水。
正確には水ではなく、LCLという特別な液体で、これは「原初の海」などとも呼ばれている。ドーム一杯にたっぷりとたたえられたその底に、赤い球体がぽつんと沈んでいた。
「リリス」だ。
ゼーレにより箱根の地下から発掘されたそれは、5メートルほどの赤い球体で、その表面はまるで金属のように滑らかで、そして何より重要なことは、それが正体不明ということだった。
年代測定の結果は不明。表面の構成物は常に代謝が行われ、まるで生物のようでもある。
事実、冬月ラボでは、これを生物として認識していた。
遺伝子に類するものすら検出され、それは人間の遺伝子と99.89%まで合致している。
ヒトに近い何か。
それがこのリリスだった。
『碇君。準備はいいかね』
「はい」
シンジはプラグスーツを着て、狭い円筒状のエントリープラグ内にいた。
エントリープラグのなかには、中央にシートが取り付けられ、シンジはそこに身体を固定している。そして内部は、完全にLCLで満たされていた。呼吸はできる。LCLが直接酸素を供給するからだ。それだけでなく栄養の供給と老廃物の循環・浄化までを行ってくれる。このエントリープラグ内で、人は一年以上生きることさえ可能だ。
『惣流君もいいかね』
『当然ですって』
アスカの声が通信機から聞こえた。
もう一人は、このプロジェクトの総責任者、冬月コウゾウ教授だ。南極への長期出張中である両親に代わり、シンジの保護者となってくれている人で、シンジが頭の上がらない何人かの人間の一人だった。
『もう一度確認しよう。君たちの目的は、リリスとコンタクトし、その秘密を解き明かすための情報を持ち帰ることだ。これはいいかね』
シンジとアスカが同時に肯定する。
『リリスとのシンクロは常に危険が伴う。危ないと思ったら、即座に試行を中止し帰還すること。これは絶対に守って欲しい。君たちまでリリスに溶けてしまえば、続く適格者の選定まで、プロジェクトは事実上停止に追い込まれてしまうのでな。それでなくとも、君たちを親御さんから預かる私の立場は危ういのだ。そこを間違えてはいかんぞ』
はい、と二人。
これから、シンジとアスカは、リリスとその心を同化する。
リリスには心があった。これは南極の地下空洞で発見されたもうひとつの球体「アダム」を、シンジの両親が研究した結果判明したことだ。
そして冬月教授の研究により、リリスが夢を見ている事が判明した。
そこにもうひとつの世界があり、リリスはその世界を夢見ているのだ。
そして、その夢には接触することができた。心を“シンクロ”し、夢を共有できるのだ。
この“シンクロ”が可能な人間は数少なく、シンジとアスカのほかには数人が発見されたのみだった。その数人にしても二人に比べるとはるかに精度が落ちてしまう。
二人は長い訓練期間を終え、今日、リリスの夢を見るためにここにいるのである。
『よろしい。それでは第一次接続を開始する』
『シンジ、きばっていけや』
それは鈴原トウジの声だった。
数少ない適格者の一人で、おそらくはシンジとアスカに次ぐ能力がある。怪しい大阪弁が特徴的な、シンジの友人だった。
そのあとに、洞木ヒカリ、相場ケンスケと続いた。
『アスカ、がんばってね』
『二人とも無事で帰ってこいよな』
これで適格者はすべてだった。全員が二十歳。そして友人だった。
多関節アームに固定された二つのエントリープラグが、LCLの海の中央に向けて伸びていく。
中央部で向き合わせに停止すると、そのまま真下に沈んでいった。
プラグの先端が球体の近くにまで達すると、金属のように滑らかだった赤い表面が、水滴を垂らしたかのように揺れた。
こぽん――
わずかに気体を吐き出して、球体の二箇所に黒々とした穴が穿たれた。
その穴がエントリープラグで刺し貫かれるのを待ち受けているかのように、ふるふると震えている。
どこか淫猥な――そして異様な光景だった。
『ATフィールドを展開したまえ』
冬月教授の指示に、シンジとアスカは脳裏に壁をイメージした。
自分を守り、他者と自分の境界を形作る壁。
――心の壁。
エントリープラグの周囲がわずかに歪んで見えた。
ATフィールドと呼ばれる位相空間が展開されたからだった。
これを展開することができない人間は、リリスに溶ける。
文字通り、身も心も溶けて、消えてしまうのだ。
これが適格者たる条件だった。
通信機を通して制御室での声が聞こえてくる。
それは主にオペレータの伊吹マヤの声だった。
『ATフィールドの展開を確認。強度、安定度、共に問題なし。いけます、冬月教授』
『エントリープラグ挿入』
『エントリープラグ挿入します』
ぐぐっと身体が沈み込む感覚を覚える。
二本のエントリープラグが、ゆっくりと赤い球体――リリスに差し込まれていった。
『エントリープラグ固定。第一次接続開始――グラフ正常。初期コンタクト問題なし』
シンジは何かが心に触れているのを感じていた。
温かくて柔らかい。
人の肌のような――アスカと戯れているときのような安らぎ。
『オールナーブ・リンク問題なし。ハーモニクスすべて正常値――』
『――絶対境界線、突破――』
そして、シンジとアスカの魂は、リリスと溶け合った。