ごうごうと強風に飛ばされるように、風景が足元に向けて消え去っていく。
 二子山山頂に仮設された、エヴァシリーズの簡易ケイジ。その五十メートル近い高みに向けてエレベータはひたすらに登っていく。
「シンジ君だけど……」
 それまで手元のレポートだけが世界の全てであるように押し黙っていた赤木リツコが、ふいに口を開いた。
 脱色した金髪が妙にはまっている彼女は、E計画担当の科学者である。
 赤いヒールが似合いそう――とは彼女を信奉する伊吹マヤ嬢の言葉であり、そのことに対してはミサトも異論を挟むつもりは無かった。
 ただひとつ。自分にはどんな色のヒールが似合いそうなのかを、ぜひともマヤに問い質してみたい。
「彼ね、エヴァに乗ると幻聴が聞こえるそうなの」
「幻聴?」
「そう。エヴァの中にもう一人の自分――碇シンジがいて、彼に話し掛けてくるんだそうよ。力を貸してくれって」
『まずいじゃない、それ』と、対使徒殲滅作戦指揮担当たる“葛城ミサト一尉”の部分が素早く計算をめぐらせはじめた。
 使徒殲滅戦における初号機の欠落の影響はどの程度か。そもそも初号機を欠いた状態で、使徒を相手に作戦を展開することなど可能なのか。
 しかしそれとは別の部分――シンジの保護者を自認する部分が、こう質問した。
「それで、シンジ君は大丈夫なの? どこか悪いんじゃないでしょうね」
「とりあえず一通りの検査はしてみたわ。心理グラフに若干の乱れがみられたけれど、あの年齢と環境を考慮すれば、むしろ当然の結果でしょうね」
「それじゃ、なんで幻聴なんて」
「たぶん……」
 と、リツコは声を潜めた。
「――不安なんじゃないかしら」
「不安?」
「そう。エヴァという得体の知れない兵器に乗らなければならない不安。彼の行動に人類の存亡がかかっているという不安。使徒という正体不明の敵への不安。そして……たぶんお父さまに対する不安。もしかするとこれが一番大きいのかもしれない」
「ああ、あんな父親じゃ、そりゃ不安にもなるでしょうねぇ」
 けっ! と、いまにも唾を吐き出しそうな顔である。
 司令官としてはともかく、人間としてあの男はいただけない。
 まったくシンちゃんも苦労するわよねえ、もうちょっと優しくしてあげようかしらん――などとぶつぶつぶつぶつ……。
「とにかく……そういった不安を解消するために、エヴァのなかにもう一人の自分を創り出しているのだと考えられるわ。通常の解離性同一性障害――いわゆる多重人格は、自分の内部にもう一人の人格を創り出すものだけれど、シンクロ率が最初から高かったシンジ君の場合は、その自我の境界をエヴァ全体にまで広げてしまっているのかもしれない。もう一人の自分を身代わりにすることで、不安から逃げようとしているのね」
「もしかして、そうとうヤバイ?」
 リツコがぱらぱらとレポートに目を通す。
「――まだ初期段階……みたいだから、それほど問題ではないわ。でもシンジ君のメンタルケアはあなたが自分で引き受けたことなんですからね、もうすこし気を配ってもらわなきゃ」
 そういえばそうだった。
 考えてみると、生活の五割……いや正直に言うと七割ぐらい……実は九割ぐらいかも……とにかくそれぐらいの依存度でシンジに家事を任せっきりにしてしまっているような気がする。
 最後にケアっぽいことをしたのが、いつのことだったかよく思い出せないのは、ちょっとばかりショックだった。
「あー、そう言われると耳が痛いわぁ。りょーかい、ちょっとシンちゃんと話し合ってみる。またエビチュの出番かあ」
「なんの話よ」
「腹を割って話し合うには、昔っからお酒は必需品でしょうが。だいじょーぶ、そんなに飲ませやしないからさ」
「まったく……」
「それにさぁ――」
 ミサトはどこか呆とした声で続けた。
「明日もお酒を楽しめる保証なんてどこにも無いんだし、やれることは今のうちにやっときたいじゃない?」
「……今回の作戦、成功の確率はどのくらいなの」
「うーんとね……こんくらい」
 と片手の指全部に、少し迷ってから反対の指をもう一本付け加えて見せた。
「――そう。生き残れたら、私もその席に混ぜてもらおうかしらね」
「お、めっずらしぃ。期待せずに待ってるわよん」
 ゴゴン、と重い音を響かせ、エレベータはケイジの最上部へと到達した。




りりす いん わんだぁらんど
第二話『声が聞こえたから』





 ヤシマ作戦決行。
 そうか、と思った。
 またあんな怖い思いをしなきゃいけないんだな。
 こんどこそ死んじゃうのかな。
 他人事のようにそんなことを考えながら、シンジはプラグスーツを身につけていた。
 エヴァ搭乗者専用のロッカールーム。
 そこでレイはシンジに向けて、こう言ったのだ。
『碇君は死なないわ。――私が守るもの』
 真っ先に感じたのは、なぜだろうという疑問だった。
 なぜ僕を守ってくれるのか。
 なんで僕なんかを。
 そう問いたかった。
 問いたかったけれど、長年染み付いた他人との接触を怖がる心が、微妙に焦点をずらした質問を口にさせた。
『なんで綾波はエヴァに乗るの』
『絆だから』
 レイはそう答えた。そして、あたりまえのように付け加えた。
『私には、ほかに何も無いもの』
 だからシンジは悲しい。
 レイにとって、エヴァに乗るということは、そういうことなのだ。
 そうであるからシンジを守ってくれる。
 たとえその命を投げ出さなければならないとしても、必ず守ってくれるはずだ。
『じゃあ――さよなら』
 そう言って背を向けるレイをシンジは呼び止めたかった。
 その勇気がもてなかった自分がきらいだった。
 たった一言でよかったのだ。
『さよならなんて悲しいこと言うなよ』
 それだけでよかったのに。


 そしてヤシマ作戦は発動した。
 その作戦の概要はこうだ。
 敵はラミエルと命名された第五の使徒。外見はピラミッドを貼り付けたような正八面体。
 武装は強力無比な加粒子砲と、これまた堅牢無比なATフィールドである。
 攻守ともに完璧と見られる敵に対し、ミサトは可能な限りの大出力攻撃による一点突破を提言した。
 そのために、戦自技研より試作自走陽電子砲(ポジトロン・スナイパーライフル)を徴用。日本全土の電力を集め、ラミエルを“狙撃”することとした。
 狙撃手は初号機・碇シンジ。SSTOの底部耐熱板を転用した“盾”による防御を、零号機・綾波レイが担当。
 成功の確率は、指六本。
 それが人類の未来であった。


 作戦開始は、2400時。
 深夜、日本のほとんどの人間が眠りに落ちる中、二機のエヴァは動き始めた。
 エヴァとは正式な名称を人造人間エヴァンゲリオンというらしい。
 全長四十メートルを超す、陸戦人型決戦兵器。
 国連直属の非公開組織、特務機関NERVが十四年の歳月をかけて作り上げた、巨大ロボットのようなもの――そうシンジは理解している。
 エヴァはいまのところ二機が実戦配備されており、零号機と呼ばれる稼動試験モデルを綾波レイが、そして初号機と呼ばれる初の実戦配備モデルをシンジが操っていた。
 レイもシンジも十四歳という年齢。
 エヴァを操ることは彼らにしかできないのだという。
 それだけでもエヴァという兵器が、どれほど異常なものなのかが推し量れるだろう。
 シンジは機械的に、言われたとおりにポジトロンライフルの射撃姿勢をとり、エネルギーの充填を待つ。
 照準の中央に正八面体のクリスタルのような物体が、冗談のように浮いている。
「これが敵」
 まるで現実感などなかった。
 こんなものがジオフロントの中枢部に到達するだけで、人類は滅びる。
 そしてそれを迎え撃つのは、十四歳のちっぽけな自分。
 馬鹿げていると思う。
 こんな自分の面倒すら満足に見れない、鼻たれで、気弱で、背が低くて、人と会話することすら苦手で――とにかく自分で自分のことさえ好きになれないような、どうしようもないただの中学生が、なんだって人類の未来なんていうわけのわからないものを背負って戦わなけりゃならないのか。
 自分の現在だけでも、とっくに手一杯なのだ。そんなおかしなものまで乗せないで欲しいと、心の底から思う。
 しかし、それがシンジの現実だった。
『発射!』
 ミサトの号令と共に引き金を引いた。
 初撃は外れだった。
 日本全土の電力を一点集中したポジトロン・スナイパーライフルの一撃。
 それは、ほぼ同時にラミエルの放った加粒子砲と相互干渉を起こし、互いに目標を大きく外した。
 激しい衝撃の中、ミサトの声が響いている。
『第二射、急いで!』
 そうか、急がないと――
 現実感などまったくないのに、身体だけは勝手に恐怖を感じて、呼吸は荒いし、手のひらには汗とLCLが混じりあって、とんでもなく気持ち悪い。
 とにかく命令どおりに、焼き切れたヒューズを再装填。膨大な電力が流れ込んでくる。
 だが、遅い。
『目標に高エネルギー反応!』
 ラミエルの放つ光が大気を焼き焦がした。
 シンジは堅く眼をつぶった。
 死ぬんだ、そう思った。
 やっぱりな――そうも思う。
 どこか他人事の、どうでもいいやという感覚のまま、どうでもいい死に方をする。
 自分にはお似合いの死に方だと納得してしまった。
 あれだけの攻撃なのだ、たいして苦しまずに死ねるだろう。
 あと一、二秒。装甲が熔け落ちてしまえば、パイロットなどひとたまりもないはずだ。
 ――まだかな。
 たぶんもうすぐ。
 熱かったりするのかな。
 悲鳴をあげたりするとカッコ悪いかも。
 とにかく――
 もうすぐだ。
 しかし、いつまでたっても、その時が来ない。
 シンジはゆっくりと眼を開いた。
 そして、絶叫していた。

「――――――あ――綾波っ!?」

 そこにレイが――エヴァ零号機が立ちふさがっていた。
 盾が加粒子砲をはじいている。
 しかし、その盾もすでに高熱のために溶解を始めていた。
「そんな! なにしてんだよ、綾波! 綾波!」
『シンジ君! あんたこそ何をしてんの! 持ち場から離れるんじゃない!』
 ミサトの激しい叱咤が、シンジをパニックから蹴り倒した。
 レイの零号機に駆け寄ろうとした初号機は、かろうじて動きを止める。
「あ……あ……。だって、そんな……!」
 心の恐怖からくる現実感。
 シンジはようやく目が覚めた気分だった。
 どうでもいいなど、とんでもない話なのだ。
 死ぬ――
 綾波レイが、死んでしまう!
「そんなの……そんなの絶対に駄目だ! ミサトさん、エネルギーを早く! 綾波が!」
『あと十二秒! 落ち着きなさい、シンジ君。盾は十七秒は持つわ。間に合う、だから落ち着いて!』
「僕は……僕は、綾波に言わなきゃいけないことが……くそっ! 早く! 早く!」
 それは、ありえないほど長い十二秒だった。
 レイを助けたい。
 最後の言葉があんな悲しい言葉だなんて、そんなことが許されていいはずがない。
「早く……」
 すさまじい白光が、二子山の全貌を闇の中に浮き上がらせている。
 盾はもう、ただのガラクタだった。
「早く――っ!」
 零号機の胸部で、光が弾けている。
 いまや加粒子砲を受け止めているのは零号機――レイそのものなのだ。
「はやく――――――――――――――――――――――っ!!」

<また、闘っているんだ>

「――っ! だれっ!?」
 声が聞こえた。
 自分でも、レイでも、司令所の誰の声でもない。
 まるでエヴァの呼びかけのような、その声。
<僕だよ>
 わかった。
 幻聴なのだ。これで三回目になる。喧しい幻。
「またか! うるさい、うるさい! 今はそれどころじゃないんだ、綾波が――!」
<わかってる。なんだか凄いことになっているね>
「うるさい!」
<僕は力を貸せると思う>
「知るもんか! 黙れ!」
<綾波レイさん――彼女を助けられるかもしれない>
「――っ!」
 助けられる?
 シンジはその言葉にすがりついていた。
 レイを助けられるなら、悪魔に魂を売ってもいい。
 馬鹿馬鹿しいとは思わない。
 その瞬間、シンジは本気だった。
「貸してよ! 綾波を――助けてよっ!」
 <ああ。わかった>
 悪魔のささやきのような声を受け入れた瞬間――
 LCLの中からもう一本の細い腕が生まれ、シンジの手に覆い被さった。


「初号機エントリープラグとの通信途絶!」
「エヴァ零号機の前方に強力なATフィールド展開! 敵加粒子砲を完全に遮断しています!」
「そんな!」
 ミサトはオペレータの報告に驚愕した。
 そもそもエヴァシリーズのATフィールドは、ラミエルの加粒子砲を理論上防ぎきれない。
 だからこそ、この超長距離狙撃という作戦を立案したのだ。
 いまになってそれが可能になる?
 そんなことは絶対にありえない。
「まさか暴走じゃないでしょうね!?」
「違うわ」
 リツコは冷静だった。
「暴走したエヴァが他の個体を守るなんてありえない。見て」
 初号機が零号機の腕を掴んだ。そのまま自分の背後に隠すように引きずり込む。
「シンジ君が、レイを守っている……?」
「そう。それなのに、初号機は暴走に近い能力も発揮している。マヤ、シンクロ値は?」
「120%を突破。まだ上昇しています。凄い……」
「どういうこと、これ?」
「わからないけれど……貴重なデータが収集できそうだわ」


 ATフィールドを二重に展開する。
 自分のフィールドに加え、もう一つ、<彼>のATフィールド。
 完全にシンクロしたそれは、他人からはひとつの強力なフィールドに感じられるはずだ。
 いや、すでにシンジにとっても、<彼>と自分の境界があいまいになってしまっていた。
 心が溶け合っていくような充足感に満たされている。
 欠けていた魂が補完されたような感覚。
 今の自分に出来ないことは無い――そう感じた。
「綾波!」
 加粒子砲が白光を散らしてATフィールドに阻まれると、盾を支えていた零号機が崩れ落ちた。
 前面の装甲が大部分熔け落ちてしまっている。
 その手を掴み、背後にかばった。
 今すぐにエントリープラグから飛び出して、レイを助けたい。
 <まだだ。アレを倒してからでないと>
「わかってるよ! 早く! まだエネルギーはたまらないの!」
 <あと五秒。二億キロワットか。日本中のエネルギーが集中しているみたいだね>
「そんなこと、どうでもいい! あと三秒!」
 <同時にATフィールドを解除。さらに砲撃。照準合わせは僕がサポートする。一秒>
 無限の一秒。
 そして。
「――――当たれえっ!!」
 きゅんっ! と何かを絞り上げる音がした。
 膨大なエネルギーが、空間を絞り上げる音。
 聞こえるはずのないその音が、確かにシンジには聞こえていた。

 光の槍は敵を貫いた。真っ直ぐに。完璧に。迷うことなく。

 第五使徒ラミエル。沈黙。


    ◇◆◇


「まいったわね」
「どうしたのよ。指六本の勝ち。めでたいじゃない。今夜は飲むわよー! ひっひっひ」
 今夜といっても作戦開始が深夜零時だったのだから、撤収作業が完了するのは明け方近いだろう。ミサトはそれでも絶対に飲むつもりだった。
 撤収の準備と二人のチルドレンの回収を指示してから、リツコが食い入るように見つめている紙を覗き込む。
「――なにこれ」
 はっきり言ってワケワカランである。
「シンジ君のモニタと、エヴァ初号機の各ステータス。いろいろと興味深いわ」
「はぁん。どれどれ」
「たとえばここ」
 そう言って、グラフの一点を指した。
「これはパイロットの心理グラフと精神パルスなんだけど……ここで精神パルスが二つに分離しているわ」
「はあっ!?」
 おもいきりバカ面をさらしてしまうミサト。
「分離って――なんで!?」
「わかるわけがないでしょう。でもシンジ君が言っていた幻聴。思い出さない?」
「ああ、そういえば、リツコが多重人格とか……これがそうだっての」
「まあ、その可能性もあるという程度。それだけでは到底説明しきれない部分もあるしね。ほら、ここなんて凄いわよ」
 リツコの声に熱が入りはじめている。
「これはBLOOD−TYPE。ここで、一瞬だけどTYPE−BLUE……つまり使徒の反応が計測されているわ。シンジ君がATフィールドを展開した時間と一致するから、なにか関係があるのかもしれない。もしかすると、エヴァの素体が……いえ、まさかそんなはずはないわよね……」
 リツコは完全に自分の世界に入り込み始めていた。
 一方ミサトはワケワカラン状態から、チョットダケワカッタ状態になったところで置き去りである。
 はっきりいって気になる。
 結論を聞いてしまいたい。それはもう、盛大に聞いてしまいたい。
 ミサトはがしがしと頭をかきむしりながら叫んだ。
「あーーーっっ! もう! 結局なんなのよ! シンジ君がいったいどうしたっての!?」
 ぶつぶつと独り言を漏らしていたリツコが、驚いたように正気に戻る。
 こちらを見る眼が「やかましいわね」とはっきりと語っていた。
「――正直言って――わからないことが多すぎるのよ。でもこれはいままでに無い、新しい何か。エヴァが隠していた別の可能性かもしれない。ミサト、悪いけれど私は先に帰らせてもらうわ。このデータを早急に分析してしまわないと」
「うえっ!? だって、この後付き合ってくれるって約束はぁ……?」
「ごめんなさい。今日は辞退させてもらいます。じゃあ」
 鼻歌交じりに、帰り支度を進めるリツコ。
 まるでデートにでも行くみたいじゃない、こいつってば――などとミサトは思う。


 シンジはエントリープラグから地面に向けて飛び降りた。
 綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波!
 ただひたすらにそれだけを念じながら、零号機から強制排出されたエントリープラグに駆け寄っていく。
「綾波っ!」
 ハッチのノブに触れた手が、じゅっ、と音を立てて焼けた。
 これだけの高温に晒されたプラグの中に、綾波がいる!
「ぐ……ううぅあああっっ――!」
 悲鳴のような声を発しながら、ノブを回す。
 内部のLCLが排出され、ハッチが開いた。
「綾波!」
 いた。
 ぐったりと身体を投げ出し、荒い呼吸をしている。
 呼吸だ。
 生きていた。
「綾波……よかった……」
 大きな赤い瞳がシンジを見ている。
 シルバーに近い肩までの長さの頭髪。
 触れれば溶けてしまうであろう、氷の彫像のように儚い少女だった。
 身体を動かすのがつらいのかもしれない。ただ、その唇だけが動いた。
「なぜ……泣いているの」
 どうやら自分は泣いているらしい。
 あのとき、<彼>と同化した自分は、なんでもできるスーパーマンにでもなったような気分になっていた。
 その満たされた感覚は今も続いている。
 しかしそれでも涙は零れた。
 別の人間になってしまったわけではない。
 喜びも悲しみも苦しみも、すべて元のままの自分のものだった。
「なんでかな。……たぶん、嬉しいからだと思うよ」
「嬉しいから泣くの? なにか変」
「変かな。でも嬉しいんだ。綾波が生きていてくれたから嬉しい。だからさよならなんて、悲しいこと言うなよ。エヴァを操縦することしか無いだなんて、そんなこと言うなよ。絆なんて、創ればいいじゃないか」
 シンジはレイに手を差し伸べていた。
 自分でも不思議なくらいに素直な気持ちで。
 他人と触れ合うことを怖がっていた自分とは別に、他人との絆を深めたいと思っている自分がいる。
 それがこの手をレイに差し伸べさせていた。
 レイはそれをどうするべきか、戸惑ったように見つめている。
「……ごめんなさい、碇君。わたし、こんなときにどうすればいいのかわからない」
「笑えば……いいと思うよ」
 何気なく言った言葉だった。
 レイの笑顔を見てみたい。そんな気持ちがあったのかもしれない。
 レイは笑ってくれた。
 永遠に忘れることはない、そう思えるような笑顔だった。
 そして、おずおずとシンジの手を取ろうとする。
 触れたら、溶けちゃうかな――
 そんな心配をしながら、レイの手を握り締めた。
 そしてレイは――その笑顔は溶けてしまった。
「あなた……誰?」
 熱いものに触れてしまったかのように、レイはびくりと手を引く。
「あなたは碇君じゃない。別の何か……」
「な、なに言ってるんだよ、綾波?」
 レイは首を横に振る。二度、三度。
「違う。あなたは、私と似た感じがする。あなた、誰?」




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