レイは変わった。
 とにかく完璧に変わってしまった。
 どこがどう変わったのかというと、ブリキのロボットだと思っていたのが、じつはヌイグルミのライオンでした、というぐらいの変貌ぶりである。
 何のことだかわからなければ、すこしその生活を覗いてみるのがいい。



りりす いん わんだぁらんど
第三話『それは天井のケダモノ』




 シンジがNERVの一般食堂で食事をしている――
 少し離れた席で、ポテトチップをぽりぽりとついばみながら、赤い瞳をこちらに張り付かせているレイ。

 シンジが2−A教室で授業を受けている――
 窓の外を眺めるかわりに、シンジの一挙手一投足をつぶさに観察するレイ。

 シンジがエントリープラグの中でシンクロ・テストを受けている――
 LCLに投影されているウィンドウには常にレイの顔。自分のテストの傍ら、必ずといっていいほど赤い瞳はシンジに向けられている。

 シンジがトイレで用を足している――
 さすがにここにレイはいない。しかし廊下に戻ると、壁に背をついていたレイが、待っていたかのように行動を始める。約十メートルほど後方。片時も離れない。

 こうだ。
 シンジにしても、レイとの付き合いが長いというわけではないが、少し前までの彼女はこんなではなかったと思う。
 あたりまえだ。
 これでは監視されているも同然ではないか。
「許してくれよ、もう……」
 わずか三日でシンジはボロボロだった。
 レイの監視に精神が削られる。
 赤い色を見ると身構えてしまう自分を発見した。
 赤信号にまで過剰反応してしまうのは、情けないのを通り越して涙が零れそうである。
 それだけではない。
 最近ではシンジとレイの関係について、あらぬ噂まで立っている始末だった。
『シンちゃんにも春が来たみたいねえ』
 などというミサトはまだましである。
『あれは親の敵を見るような眼やった』
 という市立第壱中学友人代表(自称)の証言に始まり、
『シンジ君がレイちゃんになにかとんでもないことをしたんだと思うよ。ヤシマ作戦の後に二人きりになったろう? あの時が怪しいよね』
 という、かなり鋭いNERV作戦部作戦課付サブ・オペレータAの意見や、
『馬鹿だなぁ。女の子とのトラブルは男の甲斐性。シンジ君も大人への階段を昇っているって証拠さ』
 などという、偏った人生論を語る同サブ・オペレータBなど、それこそ枚挙にいとまがない。
 結論するならば、『シンジがレイになにかした』。
 これである。
「僕は、なんにもしてないのに……」
 などとぼやいても、誰も信じてはくれない。
 シンジはとても孤独だった。
 <とにかくあの監視は困るよ。このままじゃ何も行動に移せない>
 そして、この声。
 <彼>は常にシンジの傍にいた。
 いや。傍と言うよりは“同化している”という表現のほうが、シンジにはしっくりとくる。
 ヤシマ作戦終了後、徹夜に加え極度の緊張が堪えていたのだろう、シンジはミサトと同居しているマンションへと戻ることもできずに、プラグスーツから中学の制服へと着替えたところで、ロッカールームのベンチに倒れこんでしまった。
 頭の中には夢だか現実だか判然としない映像がぐるぐるぐるぐる、それこそ死ぬ間際に見る走馬灯の如く好き勝手に暴走している。
 クリスタル状で妙に角ばった使徒とかいうやつが、ぱくりと口を開けて、ニタニタと笑っている。エヴァも笑っている。ケタケタと腹を抱えて、転がりまわりながら笑っている。またひとつ兵装ビルを潰したと思うと、そのままごろごろと転がってどこかに行ってしまった。
 綾波も笑っている。「あなた誰?」とこっちを指差しながら、口の中に顔があるんじゃないかというぐらい大きな口をあけて笑っている。なんだ笑えるんじゃないかと、どこかほっとしながら近づくと、パクリと喰われてしまった。
 よせよ、綾波。
 気が付くと父さんがこっちを見下ろしていた。笑っていない。黒い眼鏡だけがトコトコと歩いている。なんだかよくわからないけれど、父さんの顔の上をトコトコと歩きつづけている。可笑しかった。思わず笑ってしまったけれど、父さんは笑っていない。じっとこちらを見下ろしている。あれ? でも眼鏡は歩いているじゃないか。おかしい。なんだか理屈に合わない。トコトコと歩きつづける眼鏡は、ついに父さんの顔の上から飛び降りた。
 ああ。父さんの顔が無い。眼鏡が父さんの顔だったんだ。父さんは逃げてしまった顔を追いかけて慌てて行ってしまった。
 そうして気が付いたら、誰もいない。
 つまらないな――そう思っていると、足元から水溜りがすうっと広がっていく。
 あっと思う間も無く、青い湖のようになってしまった。
 細波ひとつ立たない鏡のような水の底に、赤い球体が沈んでいる。
 ぽこん、と気泡を吐き出した。
 口があるんだ。
 でもよく見ると口じゃなかった。
 縦に長い亀裂みたいな穴が、誘うみたいにして蠢いている。
 血が騒いだ。
 わけもなく血が沸き立って、あの球体に触れなければならない――あの亀裂の中に身体をねじ込んでその内部の匂いを肺一杯に吸い込んでやりたい――そんな欲望に捕らわれてしまった。
 手を伸ばす。
 湖の水面で、その手がはじき返された。
 どうしても手を伸ばすことが出来なくて、悔しくてたまらなかったから、思い切り獣のような声で吼えながら湖を殴りつけた。
 冗談じゃない。
 なんで僕ばかりが、こんな酷い目にあわなけりゃいけないんだ。
 そう思うと、心の奥から赤くてガチガチに凝り固まった球体のような怒りと欲望が込み上げてきて、どうしようもなくなってしまって、なにか背中のほうでそれが弾けて思い切り広がっていった。
 僕は吼える。
 吼えて、思い切り背中のそれを世界中に広げてやった。
 豪雪が吹雪いていた。塊ごと落ちてくるみたいな雪と、横殴りの暴風。
 真っ白だった。
「……ア……ム……」
 吼えつづけていた僕はその声にやっと気づく。
 足元からだった。
 そこに父さんがいた。
 その横には……あれは母さん?
 わからない。
 二人はお互いを支えあうようにして抱き合いながら、僕を見上げている。
 絶望と、そして恐怖の混じりあった眼で、僕を見上げている。
「……アダム」
 今度こそ聞こえた。
 アダム――と。
 そんなはずはない。
 僕は碇シンジなんだ。
 二人の子供の、シンジだよ。
 なんでアダムなんて呼ぶのさ?
 わけがわからなくて、小さな子供みたいな恐怖心に捕らわれて、もう吼えるしかなくなっていた。
 吼える。
 背中の何かが、さらに巨大に光り輝いて、空へと広がっていく。
 もういい。
 好きにすればいい。
 どこまでも広がってしまえ!

 ――で、目を覚ますと、とっくの昔に昼の十二時を過ぎていて、固いベンチの上で寝てしまっていたシンジは、悲鳴をあげる関節の痛みに本物の悲鳴をあげながら、どうにか起き上がったのである。
 <目が覚めたかい>
 最初に聞いた言葉はそれだった。
 頭が痛い。
 おそらく睡眠不足だろうと判断したシンジは、もう一度寝なおしたほうがいいと結論した。
 学校のほうはいまさらだろう。どうでもいい。サボリだ。
 どうせ寝るなら、マンションに戻ったほうがいいなと思い、立ち上がろうとしたところに、もう一度あの声が聞こえた。
 <サボりはいけないな。中学の授業内容は、全ての基本だからね。おろそかにすると後が厳しいよ>
 無視する。
 行き先変更。
 NERVのライブラリサービス・ブースへ。
 古今東西のあらゆる文章が電子化されているRSS(ライブラリサービスシステム)は、NERVの職員であれば、そのIDカードを提示するだけで自由に利用できる。
 シンジは端末のひとつに腰を据えると、キーボードに向かって検索キーワードを入力した。
『幻聴 空耳 精神病』
 ぽん、とエンターキー。
 光学神経網でMAGIシステムと直結された下位言語処理プロセッサが、全力でシンジが知りたがっていると思われるカテゴリーをはじき出し、それに該当する文献をシンジの個人情報(この場合は年齢や性別、精神的傾向や趣味など)と照らし合わせながらプライオリティを決定。
 その数、最優先文献だけで三百を軽く超えるリストが、ディスプレイ上に表示された。
 最初の一冊から、とりあえず読んでみる。
 RSSが重要と判断した部分にしおりが挟まっているので、そこから目を通して――三十秒でギブアップした。
 キーワードに『もっと簡単なの』と追加。
 言語処理プロセッサは文句も言わずにそれを受け付け、新しいリストを作成。
 また読む。
 そして思った。
 ――もしかするとRSSに深刻なバグがあるのかもしれない。
 そんなわけがない。
 単に、シンジの理解力が平均以下なだけである。
 <心理学に興味があるんだ。少しなら、僕が教えてあげられるよ>

 ――ぶちっ。

 確かに切れた。シンジの頭の中で、なんだかわからないものが。
「――――っ!! そんなわけないだろ!! 僕の!! 頭の中で!! 声が!! するんだよ!! そうなんだ、僕はおかしくなっちゃたんだ! こんな声、聞こえるわけが無い! 幻聴だ! 幻なんだ! 僕が作り出した嘘なんだ! どっか行け! 消えろ! 僕の頭の中から出て行けっ!!」
 ガンガン! とディスプレイに思い切り頭を叩きつける。
 三回目でくらっときた。
 痛い。
 無茶苦茶に痛い。
 泣けてきてしまった。
「なんなんだよ、ちくしょう……」
 そう問いたいのは、同じブースにいた、他のNERV職員たちのほうだろう。
 彼らが唖然として見守る中、シンジはとぼとぼと家路についた。


 それから三日。
 レイの監視の眼に怯え、<彼>の声に悩まされ続け、ミサトの「シンちゃん、大丈夫?」という言葉には笑って応えながら、背後で光っている興味津々のリツコの視線に心底脅かされるという毎日を――どうにかこうにか切り抜けてきたのだ。
 <彼>とは、ついに折り合いをつけることに成功していた。
 <彼>の知識量は、シンジをはるかに凌駕している。
 冷静な分析力や、時おりみせる大人びた言動も、すべてシンジには無いものだ。
 <彼>はそこにいる。間違えようも無く。
 シンジはそれを認めた。
 認めなければ自分を狂人と断定しなければならない。
 そんなことは遠慮したかったので、とりあえず認めた。
 認めてやるさチクショウ、とヤケクソ気分で認めた。
 ところがいざ認めてしまうと、どうやら自分は<彼>を不快と感じていなかったらしいことに気づく。
 レイによる監視は精神を磨耗するものだったというのに、レイ以上に自分を監視しているはずの<彼>のことは、なぜか気にならないのだ。
 ついでにぶっちゃけてしまうと、トイレだろうが、お風呂だろうが、<彼>が見ているということが精神のプレッシャーにならない。
 不思議だったので、ベットの上で横になりながら<彼>にそのことを尋ねてみた。
 その結果飛び出したのは、どう贔屓目に見てもトンデモ理論としか言いようのない仮説。
 <魂が同化しているからだと思う>
 ときたものである。
 ちなみにその説明を少しだけ抜粋しておく。
 <僕がこの世界に来るときには、“リリス”という不思議なものにシンクロしないといけなかった。ところがこいつが強烈なシロモノでね、ただ普通にシンクロしてしまうと、溶けてしまうんだ>
「溶ける? 身体がってこと?」
 <身体もそうなんだけど、むしろ魂が――と言うべきかな。魂がリリスに溶けて、その結果身体まで溶けてしまう。これのせいで、何人もの研究者がリリスの中に消えてしまったよ。それを回避する方法は、ただひとつ。ATフィールドしかなかった>
 いきなり知っている単語が飛び出した。
 ATフィールド。エヴァが使うバリアのような、あれのことだろうか。
 そう尋ねると、<彼>はそうだと肯定した。
 <心の壁とも呼ばれていたな。自我を持つ全ての生物が発し得る心のエネルギーのようなものらしい。リリスと自分の自我境界を分離することが可能なのはATフィールドだけ。そしてそれを操ることができる人間はごく少数しか見つけられなかった。僕を含めて五人。ケンスケとトウジ。そして洞木さんとアスカだ>
「――って、まさか!?」
 <そう。アスカ以外の三人は、君が知っているあの三人だよ。もっとも全員、僕と同じ二十歳だったけれどね。とにかく、僕の世界とこっちの世界は奇妙な共通点が山のようにある。いちいち驚いていたら、きりがないさ>
「あの三人がか。――もしかしてさ、あの三人って……」
 <うん。エヴァを操縦できるチルドレンなのかもしれない。リリスとのシンクロが、エヴァとのシンクロに酷似していることを考えると、十分に可能性はある>
 開いた口が塞がらないうちに、<彼>は先を続けた。
 <結論を言おう。僕と君は、あの使徒との戦いのさなか、ATフィールドを同調して、ひとつになるまでシンクロさせてしまった。つまり心の壁をひとつにしてしまったんだ。だから、僕と君の魂は溶け合ってしまった。君は心の中が満たされているのを感じないか。欠けていた魂がひとつになったような感覚を>
 そうだ。
 ずっとそれを感じていた。
 これは――<彼>なのか?
 <言っておくけど、分離は可能だと思うよ。お互いに自我が残っているところを見ると、完全に溶け合ったってわけじゃないみたいだし。ATフィールドの同調を少しずらすだけで、もとに戻っちゃうだろうね>
「それは――嬉しい話――のはずなんだけど。……おかしいな」
 <僕も実を言えば少し寂しい気がしている。この心が満たされている感覚は、何物にも代えがたいよ。まあ、もうしばらくの間、僕の目的を達するまではこのままでいさせてもらうさ。エヴァから離れて、自由に移動できるのは、便利だしね>
 もともと<彼>はエヴァ初号機とシンクロしていたらしい。
 それがいまや、シンジの中である。
 本当なら「気色悪い!」と悲鳴をあげて、転げまわっていても不思議はないというのに、それどころか心地良いとすら感じているのだ。
 目眩がしそうであった。
 僕はリリスの謎を解きに来たんだ――<彼>は最後にそう付け加えた。
 そして、この世界はリリスの記憶なのかもしれないとも言った。
 リリスの夢の世界。リリスの卵の世界。
 シンジにはそれが意味するところを、正確に理解することが出来なかった。
 難しい話を聞かされてしまって、とにかく眠い。
 なんだかわからないけれど、今度は僕がリリスを夢に見てやる番だ――
 そんなことを考えながら、眠りに落ちていった。


    ◇◆◇


 とまあ、<彼>のことはともかく。
 問題山積みの前途多難状態であることに変わりはないのである。
 リツコのことはいい。もう諦めた。好きなだけモルモットになってやると、覚悟を決めた。
 どうやらどんな検査をしても<彼>を見つけることは出来ないらしい。
 魂が同化した上で、ATフィールドで守られているから――
 <彼>は自身満々にそう断言した。
 しかし、変化はある。エヴァとのシンクロ率が綺麗に二倍近く跳ね上がって、常時120%をオーバーするようになってしまった。
 これはマズイ。単純に魂二つ分の数値らしいのだが、そんなに律儀でなくたって良いじゃないと、なんだか暴れたくなってしまう。
 ATフィールドもかなり自由に扱えるようになった上、その強度もやっぱり二倍。
 エヴァを決戦兵器たらしめているのがこのATフィールドなのだとすれば、これは兵器としての存在価値が跳ね上がったことを意味する。
 父ゲンドウも、これには興味を示した。
 ただのシンクロ・テストにその姿を見せたことなど、初めてのことである。
 黒い眼鏡が、微動だにせずにこちらを見下ろしている。
 怖かった。
 なにが怖いのかすらわからずに、エントリープラグの中でじっとうつむいている。
 顔を上げたら、もうあの男はいなくなっていた。
 魂の強度も上がればいいのに――
 そう思わずにいられない。
 そしてレイ。
 監視は続いている。
 怪しい噂も尾ひれがついて、今ではシンジは性犯罪者に仕立て上げられる寸前であった。
 当然だがそれは困る。
 学校の廊下を歩いていても、「三歩下がって影踏まず」なレイが、どこにでもくっついてくる。
 レイの恥ずかしい秘密を握っているに違いないというのが、現在の有力な説であることを知った。
 ケンスケが恥ずかしい秘密の裏取引を持ちかけてきたので、思い切り蹴り飛ばしてやったおかげである。
 限界だった。


「どうすればいいかな……」
 NERV本部の中でも、できるだけ人通りの少ない場所まで足を運んでから、<彼>に相談した。
 受け入れてしまえば、<彼>は相談役として最上級の相手だ。大人であり、博識でもあり、なによりもシンジと心を共有している。
 <彼女が何を考えているのかを知るべきだろうね。人との絆は会話から。まずはそれを実践してみるのがいいと思うよ>
「会話か。綾波と何を話せばいいのかなんて、見当もつかない」
 <僕も昔は苦手だったな。でもね、他人とは、あたりまえの事だけど、本当にわかりあうことなんて出来ないんだ。“絆”なんて言葉は、所詮は、離れた他人同士を結びつけるという意味でしかない。僕らのような同化とは違うんだよ。でもそれにすがるしかなかったから、絆をより太く強固なものにするために人は足掻いてきた。そして見つけ出した手段こそが会話なんだと思うよ>
「綾波はエヴァが絆なんだって言ってた」
 <彼女にはそれしか手段が見つけられなかったんだろうね。君が教えてあげればいい。別の絆の作り方を>
「うん……」
 とは答えたものの、どうすればいいのやら。
 あたりをきょろきょろと見回すと、いた。
 レイがポテトチップの袋を片手に、じいっっとこちらを凝視している。
 <ほら、チャンスだ。いけよ>
「う、うん……」
 絆の作り方など、自分が教えてもらいたいぐらいだ。
 それでもシンジの足は、吸い寄せられるようにレイに向かっていた。
 もしかするとレイとの絆を欲しがっているのは、自分のほうかもしれないな――
 そんな風に思いながら。
「あ、あのさ……」
「碇君。なにか用?」
 偶然ここに居合わせました、とでも言いたげな返事。ぽりっとポテトチップを口に運ぶ。
「少し話をしたいんだけど……時間、いいかな」
 レイは何も答えなかった。ただ何かを待つようにシンジの眼を覗き込んでいる。
 拒否されたのかもしれないと不安になった頃、やっとレイが口を開いた。
「どうしたの。話があるんでしょう」
 どうやら、シンジが口を開くのを待っていたようだった。
 なんと言うか、とてもレイらしい。
 真っ直ぐと言えば聞こえはいいが、実際は目的以外は眼中にないということなんだろう。
「……いや、できればもう少し、落ち着けるところがいいんだけど」
 広大な吹き抜けを渡る、タラップのド真ん中である。
 NERV本部は積層構造の有効総面積にして三平方キロを軽く超える。ここのような人通りの少ない場所だと他人と出会う可能性は皆無に近く、ミサトなどは迷子になることすら可能だった。しかしそれにしたって、こんな場所ではいくらなんでも落ち着かない。
 レイは少し首を傾げてから頷いた。
「碇君がそうしたいなら」


 自動販売機が立ち並ぶ、喫茶コーナーに移動することにした。
 その移動の間中、シンジはどう会話を進めるのかを必死に考えつづける。
 はっきり言って内心汗だくだった。
 女の子を人通りの少ない場所に呼び出して「話があるんだけど」などというシチュエーションを、まさかこの自分が経験する羽目になるなど思いもしなかった。
 いや、想像したことは何度かあったが、そのときの自分は落ち着いた美形で、次に言葉にするべきことをちゃんと理解していて、行動の全てが理想的に様になっているやつだったわけで、当然こんな風に頭の中がぐるぐるで冷や汗がだらだらな自分なんかとは全然まったくの別人で、ああどうしよう、喫茶コーナーが見えてきちゃったよ、まいったな――などと焦っちゃいなかった。
 レイと自分の共通点を必死に探す。
 エヴァ。
 ミサトさん。
 リツコさん。
 トウジ。
 ケンスケ。
 委員長。
 ――――父さん!
 よし、そこから行こう! と決心した矢先、口火を切ったのはレイのほうだった。
「碇君、もう一度訊くわ。あなた、誰」
 いきなり核心に切り込まれる。
 セカンドインパクトの後、大量に発生した野生化した猫を思い浮かべた。
 一片の贅肉もなく、生きるためだけに特化した野生の猫。彼らは怠惰に生きる飼い猫とは違い、美しかった。
 それが自分とレイの差なのだ。
 シンジは馬鹿なことを考えていた自分に後悔を感じた。
 だからシンジも真っ直ぐに切り結んだ。
「僕もそれを聞きたいんだ。僕が碇シンジじゃないって、どういう意味さ」
 そう口にして、それが一番自然だったんだと理解した。
 熱を持っていた頭が一気に冷却されていく。
「あなたは私と同じ。だから違う。――いえ、私とも少し違う感じがする。とても不思議な……わからない。あなた、誰」
 レイと同じで、だから違う?
 それだけでは何の事だか判断のしようがない。
「ごめん、ぜんぜんわからないや。いったい、同じとか違うとかなんのことさ」
「私は……」
 レイが言いよどんだ。
 赤い瞳が手元から床、自動販売機へと移動して、最後にシンジに戻ってくる。
「私は……違うから。誰とも――他の誰とも……。それだけ」
 たったこれだけのことに、身を切るような覚悟を感じた。
 だというのに、ますますわけがわからない。
 何が違うというのだろう。瞳の色か? 色素の抜けた銀の髪のことか?
 言っておくがシンジの瞳も髪も、それはもう非の打ち所がないくらい真っ黒である。
 それでレイが満足するのなら、少しぐらい脱色してあげたっていい。
「ごめん。やっぱりわからないよ。綾波のどこが他の人と違うの」
「……言いたく……ない」
 はっと気づくと、シンジがレイを虐めているような状況だった。
 すこしどきどきする。いや、ダメだ。それは違う。
 うつむき加減で眼をそらしているレイが可哀想に思えた。
 ここはレイの勝ちと諦めるしかなさそうだ。
「ごめん。じゃあ、別のことを教えてくれないかな。――例えば、ここ何日かずっと僕のことを監視していたよね。あれは何?」
 レイの反応が大きい。
 肩を震わせ、ポテトチップの袋をギュッと抱きしめた。
「知らない。私は監視なんてしてないもの」
「いやだって……。ずっと僕の後をつけてきてたよね?」
「知らない。私はお菓子を食べていただけ。そこにたまたま碇君が居たの。なぜ、そんなことを言うの」
 ぽりっとポテトチップを一枚食べる。
 上目遣い。
 もしかすると、これは拗ねているのだろうか。
 完璧だと思っていた偽装工作を見破られ、少しばかり頭にきているのかもしれない。
 駄目だ。
 また敗けた。
 可愛いとちょっとでも思ってしまった時点で、シンジに勝ち目など残されていない。
 絶対に卑怯だ。
 もしかすると、この後もこんな感じで次々と撃墜される一方なのか?
 シンジは小銭入れから硬貨を数枚取り出して、自動販売機に投入した。
「――綾波はなにがいい? おごるよ」
 小休止。
 作戦タイムだ。
 <強敵だね、彼女>
 <彼>は笑っていた。
 頭の中で、言い返す。
 <笑うなよ。僕だって必死だったのにさ>
 <ゴメン。でも一つだけ気が付いたことがある>
 レイはウーロン茶を所望。ボタンを押して、缶をレイに手渡す。
 両手にポテトチップの袋とウーロン茶の缶を抱え、彼女は何かをじっと見ていた。
 <気が付いたことって?>
 <彼女が言う、違うものって、もしかすると僕のことじゃないかと思うんだ>
 そんなまさか、だ。
 <僕もそう思うけどさ。一度試してみないか。入れ替わってみよう>
 入れ替わるとは<彼>とシンジの人格を入れ替えるという意味だ。
 それは簡単なことだった。
 普段は<彼>が“裏”に引っ込んでいてくれるだけのことで、<彼>がその気になれば表に出てくることなどなんの苦労もない。
 シンジが<彼>を受け入れるときの約束に、必要に迫られないかぎり入れ替わりは絶対にやらないというものがあり、<彼>はそれを頑なに守ってくれている。
 いまはその時だろうか。
 確かにレイが言っていた、他の人と違う部分など、<彼>のことぐらいしか――
「――あれ?」
 右の手のひらが、なにか温かいものに包まれている。
 見ると、レイがシンジの手を取って自分の胸に押し付けていた。
「な――! なななななにしてんだよ、綾波!?」
 シンジの手からコーラの缶が落ちて、ガンガンゴロンと転がっていく。
 レイは微動だにせず、さらに強く胸を押し付ける。
 あ、ダメだ。頭に血が昇ってきた。
「こうすると感じる。あなたは碇君なのに碇君じゃない。とても不思議な――なんだろう。満ちた月のような魂。やっぱり私とも違う。教えて、碇君。あなたはいったい誰なの」
 <どどどどどどうしよう! どうすればいい!? ねえ、どうしようか!?>
 <ものすごい勢いでパニクってるね。やっぱり僕のことを言っているように思えるな。満ちた魂とか、僕らの状態を的確に言い表している>
 <だからどうすればいい!? 綾波のムネ……ムネが……ああ! どうしようっ!>
 <彼>は溜息を吐き出すようにして笑った。
 <入れ替わってみようか>
 スポットライトが移動した。
 シンジから<彼>へ。
 舞台の主役が替わる。
 いまから始まるのは<彼>を主役としたステージだった。
「――っ!」
 レイの全身が硬直した。
 背後に飛び退る。ふわりと。五メートル――いや、七メートル。
 それはヒトの限界を完全に凌駕していた。
 そして、その身体の前に位相空間――つまりATフィールドがくっきりとした形で出現していた。
「碇君じゃ――ない! あなた、誰!」
「ATフィールド!?」
 驚愕の深さはどちらも等しいものだったろう。
 しかし、感情の高ぶりは、レイのほうが上であった。
「碇君を返して! そんなことは――許さない!」
 激震。
 レイを中心に世界が震えた。


 同時刻、エヴァのケイジで零号機が暴走を開始した。
 第五使徒により装甲のほとんどを溶解されたにも関わらず、それは自らの力で拘束具を引きちぎった。
 血に塗れた包帯のような保護皮膜を背後に引きずり、下層部に向かって侵攻していく。
 指令所に詰めていたミサトの指示により、硬化ベークライトを注入。脚を止めることに成功したものの、零号機は床面に向かい、拳による攻撃を続けた。
「どうなってんのよ、これ! 内部電源のリミットは?」
「あと二十五秒です!」
 ミサトは爪を噛む。予想外の事態に対処がしづらい。
「レイの所在を確認。零号機に乗っていないのは間違いないのね」
 マヤが零号機のエントリープラグ内の映像を呼び出した。
「間違いありません。ファーストの現在地は、三分前の定期パルス信号から、NERV本部内の第二十一階層と確認」
「繋いで!」
 その時。
 世界が震えた。
「こんどは何!?」
「強力なATフィールドです! 零号機の直下、第二十一階層を中心に拡大! 光波、電磁波、粒波、すべて遮断! モニタできません! いや、これは……パターン青……使徒です!」
「まさか!」
 使徒の侵入を許した?
 どうすればいい。
 ミサトにはこの時、真の覚悟が足りてはいなかったのだろう。
 人類の滅亡という現実を、完全には理解しきれていなかったのかもしれない。
「とにかく! ターミナルドグマへの全隔壁を閉鎖! なんとしてでも使徒の侵入を防いで!」
 それが精一杯の指示だった。
 爪を噛む。パチン。噛み切ってしまう。
「何がどうなってんのよ……」


「くうっ!」
 シンジはATフィールドを展開した。
 <彼>であるシンジにはそれができる。
 しかしそれも機械の力を借りてのことのはず。しかし今ならば遥かに強力なATフィールドを扱えるという根拠のない確信があった。
 崩壊を始めた天井を受け止める。レイのそれに等しい強度のATフィールド。
 やはり使える。
 この世界はリリスの夢の世界――そういうことなのだ。
 レイを見る。
 赤い瞳。
 金属のごとく滑らかな“リリス”のような瞳が、シンジを見つめている。
「あなたの目的は何」
「何の話だ! 君こそいったい――!」
「私のことはいいの。碇君をどうするつもりなの」
 天井がいきなり爆散した。巨大な「拳」が振り下ろされてくる。
 零号機の、保護皮膜に巻かれた腕であった。
「うああっ!!」
 シンジのATフィールドが負荷に歪んだ。ヒトの力の限界。魂の軋む音がする。
「話して。碇君をどうするの」
「僕は! 碇シンジだ!」
「嘘。今のあなたは私と同じ。碇君じゃない」
 気づいているのか?
 レイが普通の人間ではないことは間違いない。<彼>であるシンジの存在に、本当に気づいているというのか。
「拳」がずるっと穴の向こうに消えていき、もう一度叩きつけられた。
 魂が砕ける。その寸前。
「うあぁあっ! 僕は――僕は、碇シンジだ! でも君の知っているシンジとは違う! 別のところから来た碇シンジなんだ! 本当だよ、信じて!」
「碇君はATフィールドなんて使えない」
「僕は使える!」
「碇君の喋り方じゃない」
「僕は彼より大人だ。違って当然だろ!」
 レイの全身に張り詰めていたものが、わずかに揺らごうとしている。
「碇君は……碇君は……私に…………優しかった」
 瓦礫の中に、ウーロン茶の缶が埋もれている。
 レイの眼には、それが酷く悲しく映っていた。
「それは僕じゃない。僕の中に君の知っているシンジもちゃんといるんだ。魂が同化しているだけなんだよ!」
「本当に……碇君……なの」
 頑なだった「拳」が指を開いていく。
 ゆっくりと。
「碇君……なのね」
 天井の穴から突き出た零号機の腕が、力を失い轟音と共に床に落ちた。
 その向こうに、ケダモノのような零号機の眼。
 内部電源オフ。
 死した巨人が、天井の穴から二人を見下ろしている
「……来て」
 レイは、埃に汚れたウーロン茶の缶とポテトチップの袋を拾い上げる。
 宝物のように胸に抱きながら、歩き始めた。


    ◇◆◇


 特別警戒宣言は解除されたらしい。
 赤い夕焼け。
 ジオフロントに潜っていたビル群が地面の下から上がってくる。
 ミサトに見せられた光景と一緒だ。
 感動的な光景。
 感動的すぎて、下心からレイをつれてきたような気さえする。
 <彼>とは再び入れ替わった。
 レイはずっとうつむいたまま。
 ミサトは今ごろ大忙しだろう。謝りたいけど、そうもいかない。
 <彼>のことは、道すがらに話し終えていた。
 それでもレイは一言も口を開かない。
 どうしたんだろう。
 感動的な光景。見たくないのかな。
「碇君……」
 とりとめもないことを考えていると、レイがやっと喋った。
「私を、殺したい?」
 感情の起伏のない言葉。どう返事をしていいか思いつかない。
「滅ぼしたいでしょう。だってヒトじゃないから。消し去ってしまいたいでしょう?」
「あ、綾波……?」
「零号機の眼、見た? あれが私。天井の穴から世界を見下ろしているケダモノ。ヒトじゃない。碇君とも違う。誰とも違う。だから殺したいでしょう? いなくなって欲しいでしょう?」
 震えているのだろうか。
 いや、まったく身動き一つしていない。それなのに、レイが震えながら声を絞り出しているように思えた。
「私とヒトが並び立つことの出来ない運命なら、碇君が殺して。碇司令は私を殺してはくれない。それなら碇君が――」
「――ちょっと待ってよ、綾波!」
 叫んでいた。レイが自分で自分を破壊してしまう前に、止めなければいけない――そう直感した。
「なんで、僕が綾波に死んで欲しいなんて思うのさ! 僕は綾波が生きていて、本当に嬉しかったんだ。それは今だって変わっちゃいないよ。そんなこと言うのよせよ!」
「だって……私はヒトじゃないから」
「僕と同じなんだろ? 気にする必要なんてないよ、そんなこと」
「それに、碇君を傷つけようとした」
「ぜんぜん平気だよ。零号機に殴られたって生きてるもの」
「碇君に隠れて、ずっと監視していた」
「始めっからバレバレだよ。綾波に諜報活動は無理だと思う」
 レイは未知のものを見るように、シンジと視線を絡めた。
「……じゃあ碇君は……私を殺したくないの?」
「あたりまえだよ。僕は綾波を殺したくなんてない。綾波には生きていて欲しい。生きて、笑っていて欲しい。綾波の笑顔はすごく綺麗だって思ったんだ。だたら、ずっとずっと笑っていて欲しい。……それじゃダメかな」


 レイは戸惑っていた。
 ヒトでない自分を受け入れてくれる?
 そんなことはもうありえないと信じていた。
 なぜ、シンジは自分を怖がらないのだろう。
 ヒトでないのに。
 天井から覗き込んでいる赤い眼なのに。
「……ごめんなさい。こんなときどうすればいいのか――」
 そこで、はっと気が付いた。
 どうすればいいか知っていたからだ。
 シンジが手を差し出して、ぎこちなく微笑んでいた。
「このあいだの続き。絆の作り方。笑ってよ、綾波」
 だから。
 嬉しいときにも泣きたくなるんだということを、やっと理解した。





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