レイは変わった。
とにかく完璧に変わってしまった。
どこがどう変わったのかというと、ヌイグルミのライオンだと思っていたのが、じつはふつーの女の子でした、というぐらいの変貌ぶりである。
何のことだかわからなければ、すこしその生活を覗いてみるのがいい。
りりす いん わんだぁらんど
第五話『絆の作り方』
「お帰りなさい」
空母オーバーザレインボーから戻った次の朝、シンジは2−A教室で聞きなれない挨拶を耳にした。
お帰りなさい?
普通ならば「おはよう」。
それ以外の挨拶となると、せいぜいが「うっす」だの「げんきぃ?」だの、大筋では同じ意味の言葉ばかり。
だというのに――お帰りなさい?
カバンを置いて、声のした方角を見る。
レイだった。
いつものように頬杖をついたまま窓の外を眺めて、その背中がシンジに語りかけていた。
「お帰りなさい」
「う、うん。……ただいま」
思わずそう応える。
聞いてしまったのはトウジである。机の上に両足を乗せた格好のまま、あやうく後ろに転びかける。シンジならば、後頭部にこぶのひとつもこしらえていたかもしれない。
「ちょ、ちょっと待てえや、シンジ! なんや、いまの意味深なやりとりは!」
「い、意味深って……ほら、僕、昨日はNERVの仕事で、ちょっと遠出していたから――」
慌てて言い訳をするが、ほとんど効果はなかった。
「そんなんで、あの女が挨拶なんぞするかい! お帰りなさ〜い(はあと)やと!? どういうこっちゃか、ちゃきっと説明せんか!」
「(はあと)なんてついてないだろ! 勝手に話を作るなよな!」
この頃には、2−Aのほとんどの生徒が、この騒ぎに気づいている。
遠巻きに三人を囲みながら、ついにシンジが何かやってしまったのかと、犯罪者を見る眼で見つめていた。
シンジがレイの弱みを握っているという説は、いまや完全に浸透しているのだ。
「僕は何にもしてないよ! そんな眼で見るなよな! そうだよね、綾波。綾波が一言そうだって言ってくれれば、誤解は解けるんだから。お願いだよ」
すがるようにレイを見る。レイは、そんなシンジとその他大勢を「何を騒いでいるの?」という表情で見つめ返した。
「……碇君は何もしてない」
「ほ、ほら! やっぱりそうだったろ!」
「そんなん、信じられるかいな! 口裏合わせてるだけとちゃうんか!?」
「……ただ……」
レイは、まだ喋っていた。
引き込まれるように、クラスの全員が口をつぐむ。物音ひとつ立たない。
「……ただ、碇君は、本当の私を受け入れてくれた。それだけよ」
そして、セカンドインパクトもかくやという、爆発に見舞われた。
どうやら三度目の衝撃――サードインパクトは避けられない運命であるらしい。
レイというセカンドインパクトによって、いろいろと渦中の人となってしまったシンジは、そのときはっきりと悟った。
「えー、我がクラスに新しい生徒が増えることになりました。キミ、入ってきなさい」
というホームルームでの担任の言葉。
あ、サードインパクトかも――
神経がきりきりと鋭敏になっていたシンジは、いつになく鋭い。一瞬ですべてを悟った。
「ハロウ。惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく」
かわいらしい挨拶。
制服姿のアスカが可憐な笑顔を張り付かせて、教壇に立っていた。
周りの男どもがお祭り騒ぎの中、シンジだけが、頭を抱えて机に突っ伏してしまう。
「こんな現実――きらいだ」
その背に、ドスッ! と堅いバッグの角がめり込んだ。
「あっと、SORRY。大丈夫ぅ?」
ドイツから来たくせになにがSORRYなのか、アスカはさも心配してますという顔でシンジを見下ろしている。
「くっ……平気だよ……」
「よかった。あたし、あなたの後ろの席みたいだから、これからよろしくね。碇シンジ君」
にやっと笑う。
滅んじゃえばいいんだ、こんな世界――シンジは本気でそう思った。
インパクト騒動もいったん中断、年季の入りすぎた社会科教師がセカンドインパクトの想い出を訥々と語る中、シンジの後頭部に新たな痛みが走る。
ぴん――ぱしっ
ぴん――ぱしっ
「……痛いな、いいかげんにしろよ、惣流」
後ろの席を振り返ると、アスカが次弾の輪ゴムを指に装填している真っ最中。
声をひそめ、シンジは詰問した。
「――なんか用なの」
「あれが、ファーストなわけ」
アスカもひそひそと返す。その視線の先に、窓の景色を遠い眼差しで見つめるレイがいた。
「なんか暗そうな娘ね。お空の向こうにお友達がいるの、って感じで」
「そんな言い方ないだろ。ちょっと口数が少ないだけだよ」
アスカがニタっと笑った。
「はぁん――そういうことか。なるほどなるほど」
悪魔だった。悪魔がここにいる。
「な、なんだよ、そのイヤラシイ笑いはさ。なんか勘違いしてるだろ」
「どうかしら――ね、っと!」
アスカの人差し指が、レイの後頭部にロックオン。ぴしっ! と輪ゴム弾を発射。
狙いたがわず、それはレイの耳の後ろに命中した。
反応は鈍かったが、それでもレイはこちらを振り返る。ほんの少しだけ、不愉快そうに見えた。まるで間違い探しのように。
――わかった。
眉のあいだに微妙な縦皺が一本。シンジだからこそ見抜けた変化である。
「……なにするの」
「つまんない反応。あんた、ファーストよね。あとで付き合いなさいよ」
「……」
レイは何も応えずに、ただシンジを見た。
碇君が決めて――そういう眼だ。
「えっと、じゃああとで少しだけいいかな。そのときに説明するよ」
こくっと頷く。それだけだった。
「なによ、あんたの言うことなら素直に聞くってわけ? アヤシイどころじゃないじゃない」
「違うってば。なんでそんな風にしか考えないのさ、惣流は」
「そんなの、面白いからに決まってんじゃないの。バッカじゃないの」
なるほど、そのとおり。
アスカが言い切ったのは正しい意見であったが、ひとつだけ気が付いていないことがあった。
2−Aの誰一人として、教師の想い出話など聞いちゃいない。面白くてたまらないことに、一心に聞き耳を立てていたのだ。
「……なんでこうなるわけ?」
不機嫌な声を漏らしながら、アスカはチーズバーガーをガブリとひとくち。
かわいらしく挨拶をしていた朝の面影などとっくに消え去っている。
市立第壱中学校御用達のファーストフード店で、肩を並べる六人。
シンジ、アスカ、レイはともかく、それに加えて鈴原トウジ、相田ケンスケ、洞木ヒカリの三人が、2−A代表として推参していた。
「そらそうや。こんなおもろいこと、シンジだけに独り占めさせてたまるかいな」
「美少女は世界の共通財産だからね。保護するのが僕らの義務さ」
目的が不純な二人はともかく、ヒカリだけは純粋に転入生とお近づきになりたいと考えていた。
委員長の血が騒ぐ――そう表現してもいい。
「惣流さんって……なんか思ってたのと違うわ」
しかしヒカリは、フライドポテトを口に入れる寸前で、動きを完全に止めている。
アスカはチーズバーガーをがっぷりと口にくわえ、ヒカリを見た。
「あんふぁの、猫かふってたに決まっふぇんふぁなひ」
さすがに恥ずかしいのか、少し時間をかけて、口の中のものを飲み込んだ。
「んく――第一印象が大事って、ミサトに口がすっぱくなるぐらい言い含められちゃったからね。あなた――洞木……さんだっけ」
こくっとヒカリ。
「んじゃ、これからよろしく。これがあたし。惣流・アスカ・ラングレーよ」
「う、うん……」
飲まれたように、差し出された手を取る。あまり馴染みのない挨拶に、ヒカリの頬にわずかに朱が差していた。
「……」
その様子をじっと見つめているのは、レイである。
手にはフィッシュバーガー。肉嫌いだというレイに、シンジが薦めたものだ。
「……なによファースト。なんか文句でもあんの」
「それ……絆を作っているのね」
「はあっ!?」
「碇君が教えてくれた。絆の作り方。そうすればいいんだって」
「あんたいったい……なにを教わったのよ……」
レイ、無表情のまま手を差し出す。
アスカ、硬直。
ヒカリ、おろおろとしている。
「ちょっと、洞木さん。こいつって、いっつもこうなわけ?」
「ううん! こんな積極的な綾波さんなんてはじめて見た。凄いことよ、これ」
じっとレイの手を見る二人。
レイは、あいかわらず無表情。
「おい、センセ。なんやミョーな雰囲気やで。ほっといてええんかいな」
ひそひそと、シンジの耳元でトウジが囁いている。
ケンスケはテーブルに突っ伏すように身を乗り出して、女性三人のファーストコンタクトを激写している。すでにまわりの声など耳に入っていなかった。
「うん。でも、せっかく綾波が自分から行動してるんだし……。それより、惣流がどう反応するのかが心配だよ」
「そ、そうやな」
ゴクッと息を呑む二人。
「……ま、いいけどさ」
アスカが、レイの手を取った。
「あ、あ……それなら、私もいいかな」
ヒカリが混ざりたそうに、手を出したり引っ込めたりしている。
「お好きにどうぞ。なにも、こんな茶番に付き合わなくてもいいのに」
「だって! こんなチャンス二度とないよ。わたし、綾波さんとは一度ちゃんとお話したかったから」
ぎゅっと二人の手の上に自分の手を重ねた。
「お、お、お、いいぞ! 最高だ! 売れるぞぉ、このスナップは!」
ケンスケが興奮に我を失っている。デジカメのメモリーが続くかぎり、シャッターを押す指を止めるつもりなど微塵もないらしい。
なにしろ孤高の美少女と名高い綾波レイに、突如現れた脅威の新人惣流・アスカ・ラングレー。そこに2−A最後の良心と言われる洞木ヒカリまでが加わったスリーショット。
ケンスケの興奮は嫌が応にも高まった。
「そういえば……」
そこで、アスカはポツリと漏らした。
「……あたし何しに来たんだっけ」
2−Aに奇妙なグループが誕生していた。
三バカで名が通るシンジたち三人ではない。
レイ、アスカ、ヒカリという、あまり共通点がないように見える三人組である。
ほとんど喋るということをせずに、ただ他の二人の後をついて歩くレイ。
それにイラついて、つい怒鳴りつけてしまうアスカ。
またなの? という顔で、仲裁に入るヒカリ。
こんな三人の姿が、いたる所で目に付くようになっていたのだ。
仲がいいのか悪いのかわからない。ただどういうわけか、その姿を見守りたくなる。
そんな三人だった。
それから約二週間。
新たな使徒の攻撃もなく、第三新東京市は、平和の中に時をおくる。
レイは変わらない。
無口なまま、じっと世界を見つめ続けている。
アスカも変わらない。
剥き出しにした感情で、懸命に世界と闘っている。
ヒカリも変わらない。
静かな視線で、世界をゆっくりと包み込もうとしている。
レイは確かに幸せを感じていた。
こんな感情を自分が持つことができるなど、どうしても信じることができない。
アスカもヒカリも大好きな人だとはっきりと言える。
きっかけをくれたシンジには、感謝と同時に温かい気持ちも感じている。
ゲンドウだけが世界のすべてだった時とは、比べようもないほどに心が満ちている。
自分がヒトではないのだという現実を、ともすると忘れそうにさえなる。
このままずっと、この幸せの中にいられるのではないか――そんな夢さえ持ちかけていたのだ。
――有り得ない事だと知っていたのに。
◇◆◇
第七使徒イスラフェル。
第八使徒サンダルフォン。
第九使徒マトリエル。
第十使徒サハクィエル。
第十一使徒イロウル。
わずかな期間にこれだけの使徒が第三新東京市を急襲し、そのことごとくが三機のエヴァによって撃退されていた。
飛びぬけたシンクロ率を誇る初号機・シンジを中心に、弐号機・アスカ、零号機・レイもそれぞれに高い水準でのシンクロ率を維持し、それはE計画責任者の赤木リツコの予想を遥かに越える成果だった。
シンジの異常なシンクロ率とATフィールドの強度の謎はどうしても解き明かすことが出来ず、すでに「そういうもの」として受け入れるしかないと諦めている。
そう諦めてしまえば、すべてがうまく機能しているように見えた。
だから、そこにわずかばかりの油断が忍び込むことも止むを得なかったのではないか。
その油断のつけは、リツコ本人ではなく、その手足たるMAGIが支払うこととなる。
シンジはとんでもない男だ。
人並み外れたと言えば聞こえはいいが、その行為はすでに人間の範疇を飛び越えて、どこか遠くのほうにまで到達してしまっている。
正確に言えば、それはシンジではない。<彼>だ。
アスカは、忙しく動きつづけるシンジの手元を覗き込みながら、あらためてそのことを得心した。
「しっかしホント、そっちのあんたってとんでもない奴よね。この眼で見ても信じらんないわ」
シンジがキーボードに向かってやっているのは、MAGIに対する深層催眠。
初めてその計画を聞いたときには、あまりのくだらなさに一笑に付したほどだ。
毎日十五分だけ、リツコやマヤに気取られないように、慎重に事を進めてきた。
正直なところ、今だってその計画が実を結ぶなど信じてはいない。
しかし、目の前のスクリーンに表示されている心理グラフは、MAGIの精神状態がシンジの介入によって歪められようとしていることを示していた。
有り得ないと思う。
しかし、シンジはそれをやり遂げようとしている。
<彼>であるシンジが怪物と呼ぶにふさわしいことを得心し、アスカは屈折した安心感を覚えていた。
「あんたさ、どうせならずっとそのままでいたら。学校の女子にも受けがいいわよ、きっと」
「そうもいかないよ。僕はシンジだけど、シンジじゃないんだから。目的を果たしたら、帰らないといけないし」
よかった。いなくなってくれる――アスカは思う。
消え去ってくれるんだ、あたしの前から。
そのことを確認して、やはりアスカは屈折した安心を感じる。
怪物なのだから、たとえ自分が敵わなかったとしても、それは仕方のない事。
たとえ<むこう>の自分が、このシンジに入れ込んでいて、さらには敗北すら受け入れているとしたって、それもどうしようもない事。
だって、このシンジは怪物なのだから。
そしてすぐに目の前からいなくなってくれるのだ。
この世界から消え去ってくれる。
ヒトでないのにヒトの姿をしている恐ろしい怪物は、自分でこの世界からいなくなってくれる。
だからアスカは協力を惜しまなかった。
この第二発令所の存在を突き止め、侵入経路まで割り出したのはアスカである。
第二発令所は、第一発令所よりもさらに下層に建造されていた。
造りは第一発令所とほとんど変わらない。
ただMAGIがあるべき位置には、二世代ほど旧式の有機系スパコンが腰を据えている。
全体的に埃をかぶったようにくすんでいて、設備もほんの少しだけ旧式。
しかし重要なのは、ここに第一発令所との直通の回線が設置されているということだった。
不慮の事態により、MAGIが生き残っていながら第一発令所のみが使用不能になった場合、この第二発令所からMAGIを操るためである。
シンジはその回線から、MAGIの中枢に働きかけていた。
発令所の隅には、レイの姿もある。
ただじっと壁際に立って、こちらを見つめている。
なんだか不貞腐れているような――
もしかすると暗闇の侵入行のさなか、肝試しのような雰囲気についつい調子に乗ってしまい、顎の下にライトを当てて「ばあ」とやってしまったのがいけなかったのかもしれない。
しかしそれはどうしようもないことだろう。事故のようなものだ。我慢できる中学生など、この世に存在するものか。
それに、あのレイがそんなことで動揺するはずもなく、その場はなんだかしらけてしまって、そのままになっていたのだ。
しかしことによると、あれからずっとレイは不貞腐れたままだったのかもしれない。
ほとんど感情を表に出さないやつは、これだから困る。
「ちょっと、レイ――」
謝るかゲンコツをかますかしようと踏み出したとき、シンジがいきなり叫んだ。
「よし、通った!」
「ウソ!?」
MAGIへの深層催眠。
人格移植OSの特徴は、通常0と1だけのロジックであるべき世界に、「感情」という新たなロジックを持ち込んだことにある。異なる「感情」同士を争わせ、そこにジレンマを生み出すことで、最終的に公平で正しい判断を下そうというシステムである。
シンジは一月という時間をかけて、その判断を少しずつ自分に有利な方向に誘導してきた。MAGIの中につねに渦巻いているジレンマに働きかけ、ある特定のキーワードへの条件付けを行ってきたのだ。
キーワードは「碇ゲンドウ」。
シンジの父親の名である。
さまざまなキーワードを試行し、MAGIの中の一基、BALTHAZAR(バルタザール)がそのキーワードに対してバランスを逸した判断を行うことに気づいたのだ。
シンジはその隙を突き、キーワードに対してのバランス失調を加速させた。
三柱の一本、バルタザールが倒れることで、残りの二本もバランスを崩す。
そして今日、ついにシンジは望みの結果を得たのだ。
スクリーンに大量の文字がめざましい速度で流れ始めた。
否決 否決 否決
否決 否決 否決
可決 否決 否決
可決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
可決 否決 可決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
否決 否決 否決
可決 否決 可決
可決 可決 否決
否決 可決 可決
否決 可決 否決
否決 否決 可決
可決 否決 否決
可決 可決 否決
可決 可決 否決
否決 否決 可決
否決 可決 可決
可決 否決 可決
否決 可決 否決
否決 否決 可決
否決 可決 否決
否決 可決 可決
可決 否決 否決
可決 可決 否決
可決 可決 否決
可決 否決 否決
可決 否決 否決
可決 可決 可決
――――――承認
最後に三つの「可決」の文字が並び、それはつまりMAGIによる動議が承認されたということだ。
「僕のIDにAAAレベルのセキュリティ権限が付与された」
わずかに上ずった声でシンジが言う。
「ホントにやっちゃったわけ!? MAGIのハックには、同レベルのMAGIシステムが三組は必要だって言われてんのに! なんなのよ、あんたは――!」
怪物だと信じようとしていたが、本当に怪物だったのだ。
有り得ない。
しかし、目の前で踊る「承認」の二文字。
それが現実だった。
「運がよかったんだ。このMAGIには心の傷があった。僕はそれにつけこんだんだよ。これがコピーされた人格でなければ、僕のやったことは最低の行為さ」
「良い子ちゃんぶった答えね。あたし、あんたのそういうところ大っ嫌い」
怪物にふさわしい賛辞を送る。
「――で、この後どうすんの」
シンジの手は休まることなく動きつづけていた。
「この権限で引き出せるだけの情報を引き出してみる。せめて三十分は時間が欲しいんだ。綾波さんと二人で外を見張っていてくれないかな」
アスカは肩をすくめて、それを了承した。
「――引き出した情報はどうする気? あんた、こっちには物理的な手段で来たわけじゃないんだし、持ち帰りようがないでしょう」
「記憶する。計画への参加が決まったときに、それなりの訓練は受けてきたから」
アスカはもう驚きも感じなかった。
「はっ! 無敵のスーパー・シンジ様にできないことは無いってわけね。馬鹿馬鹿しい。行きましょ、レイ。シンジ様のご命令よ」
そしてレイを見る。
暗闇の中、レイの白い顔が、幽鬼のように青ざめていた。
「……なに、どうかしたの、あんた」
首を横に振った。
「なんでも――ない。行きましょう、アスカ」
「あ、ちょっと……」
一人で先を行くレイを追い、第二発令所から暗い通路に出る。
「ちょっと、レイ。……あんた、もしかして震えてんの?」
肩に手をかけた。細い肩。それが小さく早いリズムで震えている。
「どうしちゃったのよ、こっち向きなさいってば!」
振り返ったレイは、眼をきつく閉じていた。
噛んだ唇に、血が赤く広がっていく。
「あんた……」
「碇君が……怖い」
その一言は、アスカの胸を突き刺した。
自分ひとりのものだと思っていた恐怖。レイまでがそれを感じる理由など、在りはしないと思っていたのに。
「私は碇君が好き。アスカも好き。ヒカリも好き」
「ま、真顔で、なに恥ずかしいこと言ってんのよ!」
「私は幸福を感じていたの。そう思える自分が好きになっていたの。私に幸福をくれる人たち、みんなを好きになりたいと思っていたの。これは変?」
言葉に詰まる。
顔面が赤くなりそうなぐらいの恥ずかしさと同時に、追い詰められたようなレイの口調が、アスカをこれ以上ないほどに混乱させてしまった。
なにか応えなければならない。そうしなければ、絶対に後悔する。そう思った。
しかし結局言葉は出ず、できたのは首を横に振ることだけ。
赤い髪が揺れる。なんて情けない女。
「私は幸せ。それは碇君やみんながいるから。でも――」
ぐっと、レイの身体に力が込められた。
「あの碇君は、それを壊してしまう。そう感じたの。だから――怖い」
「どういう意味よ、それ」
レイは首を振った。
「わからない。私の魂は欠けてしまっているから、何も思い出せない。でも感じる。碇君が追っている秘密のむこうに、きっと私がいる。それが私と、私の感じている幸せを壊してしまう。……怖い。アスカ」
思う。
いったい何がレイを、ここまで怯えさせるのか。
レイは必死に言葉を紡ぎだして、アスカに助けを求めている。
日本に来るまではレイもシンジも、同じエヴァのパイロットとして、蹴落とさなければならないライバルだと信じていた。いや、このあたしに敵う人間なんているはずがない。それこそが自分の存在価値なのだから――そう信じて疑おうともしなかった。
しかしいま、アスカはレイを助けたいと感じている。
わけのわからない感情が、アスカに囁きかけてくる。
まるで、あの女みたいだ。
エヴァの中から口うるさく意見してくるあの女。
絶対に受け入れたり、その意見を真に受けたりなんてするもんかと心に誓っていた。
――でも今だけは。
そう、今だけ、
すこしくらいだったら、負けてやってもいいと思うのだ。
震えているレイの頭に腕を回し、抱き寄せた。
そして、はあっ、と溜息をつく。
「あたしも、甘チャンになったもんよね」
どうすればいいかは、これからゆっくりと考えよう。
レイと一緒に。