その日は雨だった。
じとじとと身体にまとわりついてくるような、不快な霧雨。
シンジには世界がくすんでいるように見える。
空から落ちてくる水滴に、すべての輪郭が滲んで流れていってしまいそうだった。
告別式は、陽の落ちた六時過ぎから執り行われた。
親族席の中に、トウジの姿がある。
ひたすらに自分のつま先を見つめ、顔を上げようとはしない。
焼香の番がまわり、シンジはパイプ椅子から立ち上がった。
棺の顔に当たる部分の扉が小さく開かれている。
そこに納められていたのは、たった一枚の写真だった。
トウジの小さな妹。
八歳だったと聞いている。
NERV直営の病院で息を引き取り、その亡骸は戻っては来なかったのだ。
シンジはたまらない思いで、その写真の笑顔を見つめ――そして眼をそらした。
トウジの元へと走りよっていく洞木ヒカリを視界の片隅に納めながら、シンジは逃げるようにその場を後にした。
りりす いん わんだぁらんど
第六話『百万の赤い瞳』
昨日のことをすっかり忘れたかのように、空は青く澄み渡り、夏は盛っていた。スクール水着は水面に映えて、夏服からは元気に肌着が透けている。
トウジはそれらを追いかけ追いかけ、カラ元気をカラカラと転がしていた。
『覚悟はとっくにしとったからな』
教室に顔を出すなりそう言った。
ヒカリが傍に寄り添っている。二人の間に何かあったのかもしれないと思いつつ、誰もそれを口にしない。
トウジは元気だった。
だからシンジもカラ元気をコロコロと転がしていく。
ケンスケを交え、校庭の土手で寝転んでいる。
時々思い出したように、一斉に上を向く。
それはもちろん、女の子がそこを歩いているときに決まっているのだ。
「逃げへんでもよかったんやで」
ショートカットの一年生がこちらに気づかずに通り過ぎていく。ぐぐっと身を乗り出し食い入るように見つめながらトウジは言った。
「シンジが気にするようなことやあらへん。前に殴ったんも、悪いことしたと思うとるんやからな。あれは、八つ当たりやった。すまへんかったな」
シンジも、負けないぐらいに身を乗り出していく。
「謝らないでよ。たぶん、あれでよかったんだから。僕こそごめん。一度、ちゃんと謝りたかったのに、結局勇気がもてなくてさ」
「ま、センセやからの。そんなもんやろ」
シンジはトウジを見た。
真剣にスカートを覗いている。
「――これからは、ワイが助けたるわ。ふぉーす・ちるどれん、鈴原トウジに任せんかい」
『えぇっ!?』
シンジとケンスケの驚愕の声が重なった。
「ト、ト、ト、トウジ! それどういうことだよ!」
ケンスケが、土手の上から匍匐前進で滑り降りてくる。
「どういうもこういうも、そういうこっちゃ。二、三日前にNERVの赤木なんたら言う姉ちゃんから電話があっての。妹のこともあったし、一度は断ったんやが――まあ、その理由ものうなってしもうたし、妹の敵も討ってやれる。今朝、了承の電話入れたわ」
「なんだよ、それって――!」
半身を起こそうとしたケンスケが腕を滑らせた。
怒声をあげながら、土手を転がり落ちていく。
「トウジ、本気なの!?」
「本気も本気、大本気や。――シンジ。ワイはもう蚊帳の外で妹みたいな奴を見送るんはたくさんや。次は誰や? クラスの誰かか。シンジ、おまえか。ケンスケか。いいんちょか。そんなん絶対に嫌やないか」
「でも……エヴァに乗るのは怖いんだよ――」
「おまえ、ホンマにわかっとらんなあ。何も出来ずに見とるしかないちゅうんも、仰山怖いんやで? 妹が死んでくのを見とることしかできない怖さ、シンジには絶対にわからん」
「でも……」
「ええんや。もう決めたんや。これから頼むで、センパイ。――まあ、そんなことは、ともかくや! ワイは今この瞬間を大事に生きとるんや。全身全霊で覗いたるわ! ついてこんかい、シンジ!」
ぐっ! と力を込めて前を向く。
しかしそこに、ショートカットの一年生の姿はすでに無かった。
代わりにあったのは、三人の女の子の六本の脚。
どれもなかなかにスタイルがよく、細く引き締まっていて、なんとなくどこかで見覚えがあるような無いような――
「――ゲ。……いいんちょ」
「あ、綾波にアスカまで……」
「なにを全身全霊で覗くんですって?」
アスカは仁王立ちで勝ち誇ったように見下ろしている。
「鈴原……不潔よ……」
「……」
もう少しで土手の上、というところまで登りつめていたトウジからは、アスカのスカートの中がはっきりと見えた。さらに言えば、スカートの中だけで、アスカの顔など見えていない。
「いや……もう充分や……」
「満足した? それなら――――消えてしまえっ!」
綺麗な蹴りがトウジのあごをヒット。
土手を転がり落ちるトウジは、シンジを巻き込み、立ち上がりかけていたケンスケにボーリングの玉のごとく突っ込んでいった。
「三バカ!」
その捨て台詞が、はたして三人の耳に届いたかどうか。
◇◆◇
物事というのは、一度転がってしまえば、歯止め無く転がりつづける。
フォースに続き、フィフスの噂がNERV本部で囁かれるようになっていた。
フォース・チルドレン、鈴原トウジの専属機であるエヴァ参号機が米国マサチューセッツのNERV第一支部において最終組立工程に着手。
ほぼ同時に、米国ネバダの第二支部では、エヴァ四号機が90%の完成度を見せていた。
フォース・鈴原トウジに対しては、参号機起動実験のために、米国政府からの召還要請が再三提出されていた。しかしこれをNERV総司令、碇ゲンドウが拒否。逆に参号機のNERV本部への移管を申し立てていた。
また四号機に関しては、極秘ではあったがS2機関が搭載されているという情報もあり、日−米NERV陣営の緊張を高める原因ともなっていた。
そしてここに来て、フィフス・チルドレンの登場である。
あくまで未確認な情報ではあったが、フィフスはマルドゥック機関を介さずに選出された初めてのチルドレンらしく、その詳細な情報はほとんど入手することができない。
わかっているのは、フィフス・チルドレンが四号機のためにネバダの第二支部に配属されたらしい――ただそれだけだった。
トウジは複雑な政治ゲームの渦中にあり、ただひたすらにシミュレーションによる起動訓練を繰り返している。
シンジ、レイ、アスカ、トウジの四人のチルドレンの姿は、すでにNERV本部では馴染みのものとなっていた。
子供だからと舐めてもらっては困るのだ。
子供には子供なりの意地とメンツがあって、それはそれは、各国政府が無意味な闘争をバチバチギラギラさせているのと遜色ないくらいの――少なくとも彼らにしてみればそれくらい重要で、負けられなくて、絶対引き下がれない人間関係というものが存在するのである。
開戦間近の最危険地帯はなんと言ってもアスカとトウジだろう。
なにしろアスカがいけない。
『はんっ! なんでこのアスカ様ともあろう者が、こんな低レベルな男と一緒になってシンクロ・テストなんて受けなきゃいけないってのよ』
そんな眼でトウジを見下ろすのである。
普段は鈍感そのもののトウジだというのに、こういうことになると妙に敏い。
「なんやその眼は! 言いたいことがあるんなら、はっきり言わんかい!」
おろおろとするだけのシンジの前で、いつものように衝突がはじまる。
「言いたいこと? じゃあお言葉に甘えて。――その真っ黒のプラグスーツ、ださっ。あんたにはぜんっぜん似合わないのよ。それに引き換え、見なさい、あたしのこの華麗なる曲線美」
「けっ! デカきゃええちゅうもんとちゃうわい。そんなん牛と変わらん。真っ赤やからせいぜい赤ベコちゅうとこや」
――赤ベコ?
一時中断。
アスカが首を捻る。
「レイ、赤ベコってなに」
当然のようにレイは首を横に振る。
「シンジ」
「知らないよ。ケンカはやめなよ」
「リツコ、赤ベコって知ってる?」
制御室のリツコにまで波及する。
くすくすと笑っているマヤとは対照的に、額に手を当てて何かに耐えているようなリツコ。
「あなたたちね、いいかげんになさい。これは遊びとは違うのよ」
『いいじゃない。もうテストは終わったんでしょ。ねえ、赤ベコってなんなのよ』
「まったく……ああ、そういえば」
何かを思い出したように、リツコは制御室の隅に積み上げてあったダンボール箱の中身を漁りだした。
「先輩?」
マヤがそれを背後から覗く。そこには意味不明の小物が、それこそ山のように詰め込まれている。
タペストリーやキーホルダー。達磨崩しもあれば、なぜか木刀まである。
「なんなんですか、それ」
リツコは、疲れたように溜息を漏らした。
「これはね、ミサトがあちこちに出張に行くたびに買い漁ってくるのよ。彼女、こんな物が可愛くてしかたがないそうよ」
竹を繋ぎ合わせた蛇のおもちゃを、かたかたとマヤの顔の前で動かしてみせる。
「楽しそうじゃないですか」
「趣味の範囲でならね。結局、自宅に収納しきれなくて、こんなとこにまで積み上げてるんだから。まったくあの娘ときたら」
文句を言っているうちに、目的の物を探り当てた。
それを三人から見えるように、仕切りの強化ガラスのそばに置く。
「これよ」
薄い木板を火であぶって形を整えた半円筒状の胴体に木彫りの質素な首が紐でぶら下げられている。首の後ろにはバランスをとるために小さな鈴が括りつけられ、最後に全体を真っ赤に彩色した牛の置物。
指でつつくと、首を振りながら鈴がリンと鳴る。
「カワイイ」
「あ、知ってる」
マヤとシンジの素朴な感想と違い、アスカは一瞬で気持ちを元に切り替えた。
つまりケンカの続きである。
「なんですって、このバカ鈴原!」
何事もなかったかのように瞬間沸騰して、トウジに強烈なビンタを見舞った。
アスカとトウジを別にすれば、次に微妙な緊張状態を作り上げているのは、シンジ、レイ、アスカの三人だった。
色恋沙汰ならよいのだが、言うなれば超大国同士の水面下のにらみ合いに近い。
正確に言えば、その一端を担っているのはシンジではなく<彼>である。
<彼>が次の行動を起こしたら、それをどうにかして邪魔してやろう――結局、アスカとレイに思いつくことのできた対策はそれだけだったのだ。
これでもスナックとジュースを大量消費して、徹夜で知恵を絞った結果である。
敵は怪物。
小細工など正面突破されるに決まっている。
ともするとウトウトと瞼を閉じかける、幼稚園児じみた生活習慣のレイを叩き起こしながら、アスカは最終的な作戦を通達した。
つまり二人のシフト制による、シンジの監視である。
緊急時の連絡にはNERV配給の携帯電話を使用。
二人の間で専用のコールサインを決め、ボタン一発で相手の携帯電話にサインが送られるように設定した。
アスカのコール音はワーグナのワルキューレ騎行。
レイが選んだコール音はベートーベン交響曲第九番よりの一小節。
意味よりもノリで選んだようなところがあるが、それで充分だった。
そして、二日後。
アスカは、自分の立案した作戦の重大な盲点を発見していた。
「――レイ。あんた、そのポテトチップはやめなさい」
レイの悲しそうな顔に、アスカは怯んだ。
さらに二日。
本日午後のシフトはレイの持ち回りであり、アスカは暇を持て余してヒカリを拉致。そのまま近場の繁華街へと突入していた。
とりあえず貪欲な空腹を満たすべく、食べ飽きた感のあるクレープ屋にいつものようにたむろする。
そこに鳴り響いたのが、ワルキューレ騎行の荘厳なる調べだった。
アスカはバッグから携帯電話を取り出し、画面のメッセージを確認した。
コード885。シンジ動く。
レイからの緊急コールである。
「わたし今、ちょっとだけアスカのこと悪趣味だって思った」
眼をパチクリさせながらヒカリ。
「なにバカなこと言ってんの。ごめんヒカリ。行かなくちゃ」
「……もしかして、また敵なの」
「違うわよ――でも、使徒なんかより、ずっと厄介かも。ごめんね、ヒカリ」
「ううん、気にしないで。頑張ってね、アスカ!」
ぶんぶんと手を振るヒカリを残し、アスカはNERV本部に直通するリニアトレインへと走る。
◇◆◇
碇シンジではなく<彼>だった。
レイにはそれが一目でわかる。
何を見て「違う」と思うのか、自分でも説明の仕様がないのだが、たしかにあれは<彼>だった。
時間にして三分。
NERV本部の正面に走る長大な走路に乗り、そこから降りたときには、すでにシンジは<彼>と入れ替わっていたのだ。
アスカとの約束を思い出し、携帯電話のEファンクションを起動。三番のキーに登録してあった短縮Eコールをアスカに送信する。
Eファンクションモードに切り替わったNERV仕様の携帯電話は、発令所に加え、同系機からの追跡が可能になる。これでアスカも追いついてこれるはずだ。
シンジの背が豆粒にしか見えないほどの距離をおいて後をつけていく。
ポテトチップの袋を取り上げられ、その代わりに読んでおくようにとアスカから渡されたのは「ジオフロントの歩き方」。アスカ編集の諜報マニュアルだったその本を、頭の中で再確認しながら、丁寧に追跡を続けていった。
どうやらシンジは、まったくこちらに気づいていない。
やっぱりアスカは凄い――と、その信頼を深めていると、シンジはエレベータへ乗り込んでいく。
まずはシンジがどこで降りるのかを確認しなければならない。
もう一台のエレベータを呼びながら、その眼はシンジが乗ったエレベータの階層表示を追っている。
階層を示す針がずんずんと動いていって、最後には一杯に振り切った。
第三十二階層。それはジオフロント最下層であり、セントラルドグマと呼ばれる場所だった。
レイは待たせていたエレベータに乗り込み「B32」のボタンを押した。
そして物思いにふける。
シンジはなぜそんな場所に行ったのだろうか。
あそこには何もない。
本当に何もないのだ。
ある――と言うよりも無いものならある。
――底。
直径二十メートルほどのシャフトが一直線に闇の奥に消えていく場所。それが第三十二階層だった。
そのシャフトはジオフロントの真の最下層、ターミナルドグマへと直通している。
そのような場所が存在すること自体、NERVの一部の人間しか知らないはずだった。
レイはゲンドウに連れられ、ターミナルドグマと隣接するいくつかの実験施設に立ち入ったことがある。
そもそもレイはそこで生まれたのだ。そこには沢山の姉妹たちがいた。名を呼ぶと、にこりと微笑んでくれる――しかし、たったそれだけの絆しか得られない、沢山の姉妹たち。
また最近になって、見たことも無い新しい区画に立ち入ることも許されるようになっていた。
レイはそこで裸身を晒し、チューブの中に浮かんで夢を見る。
ぐちゃりと潰されるような夢を見た。
思い切りねじられて、全身を絞りカスにされるような夢を見た。
力いっぱい叩かれて、骨まで柔らかくなってしまうような夢を見た。
そしてシンジの夢を見た。
「ノイズが混じったようだ」というゲンドウの言葉に、違うと叫び返したかった。
レイにとっては人生の数割を過ごした場所だったが、それでもターミナルドグマには直接入ったことはない。
なにがそこにあるのかも知りはしない。
守らなければならないものとしか聞かされていない。
そこに使徒が到達すれば、サードインパクトが起こって人類は滅亡する。
それほどに重要な何かがある。
シンジはそれを確認するために、ターミナルドグマへと向かっているのだ。
いったいなにがあるのだろう――
そこに思考を向けると、レイの身体はぶるぶると震えて、涙が零れそうになる。
エレベータから降り、シンジの姿を探した。
予想していた通り、すでにシンジの姿はない。
さらに下の階層へと続く、たった一本のエレベータが「次の階」で停止している。
すでにシンジは下に向かってしまったのだ。
レイはIDカードをパスケースから取り出し、エレベータの操作盤の横に取り付けられたリーダーに差し込んだ。
IDチェックをパスし、エレベータが上がってくる。
長かった。
おそらく、五分。もしかするとそれ以上。
いったいどれほどの深度から昇ってきたのか、ついに扉を開けたエレベータに乗り込む。そして閉まる寸前に、迷った挙句、IDカードをパスケースごと外に向かって投げた。
あれがアスカを導いてくれるはずだ。
身体はいっそうひどく震え、体温をまったく感じないぐらいに、全身が冷えてしまっている。
なんだかわからない。
ただ無性に怖かった。
ターミナルドグマのことを考えるだけで、逃げ出してしまいたくなる。
それなのに死に魅せられた狂絵師のような憧憬が、レイの中に同時に存在している。
壁を背にし、胸に手を置いた。
鼓動を感じる。
ひどく不規則で激しい脈動だったが、これと同じ物をシンジやアスカも持っているのだ。
ヒトでない自分と他の大好きな人たちとのたった一つの共通点を感じながら、レイはエレベータが目的の場所へと到達する時を待っていた。
押し付けられるような減速感を覚え、そのあとにエレベータの扉が開いていく。
通路が、暗い照明の下を真っ直ぐに伸びていた。
非常時のような赤いライトが等間隔で設置されている。
分岐がひとつもない、ただ一直線の通路で、所々に見える扉のいくつかは、レイの知っている部屋へと繋がっている。
一箇所だけ、レイが今までに入ったことのない扉が開かれていた。
通路の正反対の袋小路。
今日、この瞬間まで、レイにとっては、そこはただの袋小路だった。
――ターミナルドグマ。
そこに続く扉が解き放たれているのだ。
たまらなかった。
怖くて、怖くて、叫びだしてしまいたい。身体は震え、歯の根も合わない。あそこまで歩いていくことなんて、絶対にできっこない。
それなのに、レイの脚は、一歩また一歩と勝手に前に進んでいった。
まだ胸に当てたままの手に、激しい鼓動が伝わってくる。
引き寄せられるように歩き、扉を抜け、そして見た。
広大な空間が広がっていた。
異世界など見たこともないが、そこはまさに異世界と呼ぶのに相応しい気がする。
LCLの海が広がっていた。
所々に塩の柱が立ち並び、はるかむこうの対岸には赤い巨大な十字架がそびえ立っている。
空気の味が違う。
匂いも違う。
一瞬、それらの器官が死んでしまったのかと思うぐらいに、なんの味も匂いも存在していなかった。
すべてが浄化され零となった世界――そんな言葉がレイの脳裏に浮かぶ。
「それは……なに」
わからない。わからないのに知っていた。
LCLの海の底に、何があるのかも知っていた。
青い水の底に、それは今も沈んでいるはずだ。
「いや……」
見たくない。
知りたくない。
「来たんだね」
閉じこもろうとしていたレイの心に、その声が響いた。
シンジが、海のほとりに立って、こちらを見下ろしている。
青い光が、視界を埋め尽くしていた。
「君がそうだったんだ。綾波レイさん」
「いや……」
胸に当てた手をぎゅっと握る。
「まさか君だったなんて。君が――」
「――待ちなさい、シンジ!」
シンジが恐ろしい言葉を吐き出そうとした瞬間、レイの背後から恫喝が響き渡った。
「ふざけんじゃないわよ! あんた、女の子の秘密を暴いて、楽しいってわけ!? 何様のつもりなの! バカシンジのくせに生意気なのよ、あんたは!」
アスカだった。
全力で走って来たに違いない。肩で息をしながら、ずんずんと通路を突き進んでくる。
「あんたは、もうそこから動くな! ――レイ、平気なの!?」
アスカは、レイが蒼白で震えていることに気づいた。空気がびりびりと振動するような怒気が、全身から吹き出すようにして溢れていく。
「シンジ! ――おまえわぁっ!!」
「駄目……アスカ……来ては、駄目」
あまりにも小さな、拒否の言葉。
そのレイの言葉は、怒りに捕らわれたアスカの耳には入らない。
レイを自分の背に押しやるようにして、アスカはシンジへと突進していった。
その胸倉を掴みあげ、額をぶつけるようにして瞳でシンジを射抜いた。
「何をした! 答えなさいよ――!」
そして、その全身の動きが止まった。視線がシンジをすり抜け、その背後――LCLの海へと吸い込まれていた。
呆けたような表情から、それが別の感情に塗り替えられていく。
「見ないで……」
しかし、アスカはすでに見てしまっていた。
「……なによ、これ……なに……何なのよこれ……
いや……やだ、やだやだやだやだやだやだやだ!!
こんなの――いや――
――っ!
いやぁ――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
LCLの海。
その底に、赤い球体がぽつんと沈んでいた。
滑らかな金属のような表面をもった、五メートルほどの球体である。
その表面に、一筋の亀裂が走っていた。
その赤黒い亀裂から、なにか白いものがじくじくと滲み出ている。
それはまるで傷口に湧いた蛆のように見える。
だが違う。
それは肉だった。
白い肉が、亀裂から湧き出て、海の底にびっしりと堆積している。
それは“あるモノ”を模倣しようとして、完全に失敗していた。
青い海の底を埋め尽くす、何万という出来そこないの腕や脚。
ひくひくと蠢く腸や心臓。無作為に生えている指が、海草のように揺らめいている。
銀の髪がゆらゆらと夢のように揺れ、そして何百万という赤い瞳が、静かに青い海の底を見つめていた。
それらはすべて生きていた。
生きて動いている。
そしてアスカの悲鳴に反応した。
百万の赤い瞳がくるりと動き、そして一斉にアスカを、見た。
「――っ――ぁああああぁぁぁっっぁうあああああああああああああ――――――!!」
狂ったような絶叫が、アスカの喉から搾り出された。
頭を掻き毟るようにして抱え、どすりと座り込む。
「アスカ――」
シンジが肩に触れると、びくりと全身を震わせて、さらに自分自身の身体の奥に逃げ込もうとする。
青い瞳の瞳孔が針のように収縮し、細かく振動していた。
恐慌状態の典型的な症状である。
気丈なアスカは消え去り、残っているのは恐怖に怯えるだけの少女だった。
もう一度アスカに触れようとして、シンジは別の気配に顔を上げた。
――誰かが来る。
この状態のアスカを連れて逃げるのはあまりに厳しい。
シンジは一瞬で判断を下すと、暴れるアスカの口をふさぎながら物影に隠れた。
立ちすくんでいたレイに目配せをすると、彼女も物陰へと身を潜めた。
「――――もう限界なのではないか、碇」
近づいてくる足音。
いったいどこからこのターミナルドグマに降りてきたのか、それはシンジたちが利用した通路とはまったく別の方角からの声だった。
「すでにリリスの再生が本格化しているのは明らかだ。ヒトの形を取りはじめる時も近いぞ」
「レイの予備は生まれているのか」
声は二つ。
碇ゲンドウと、冬月コウゾウの二人だった。
二人は水辺に立つと、赤い球体の方角を見つめた。
「もう生まれはせんさ。リリスはレイの肉体ではなく、自身の肉体を再生することに力を注いでいる」
「先日回収された予備体はどうした」
「パーツは揃っていたがな、内臓器官の欠損が酷くて、三日で生命活動を停止した。もう滅却したよ」
「そうか……。ではいまある予備だけで計画を進めねばならんな。たしかに潮時かもしれん。――冬月、ゼーレの老人たちの相手は私の役目だ。例の物を南極から回収する役、頼めるか」
「ロンギヌスの槍か。回収に成功したとして、どうする。リリスの再生を止めるためには槍をコアに侵食させねばならんだろう」
「レイにやらせる。リリスがヒトの形を取りはじめた後ならば問題はあるまい」
「――罪なことだな」
しばらく会話が途絶えた。
そして遠ざかっていく足音。
「分離した出来そこないの滅却処理は徹底してくれ。わずかでも成長を遅らせたい」
「ああ、わかっている。まずはゼーレを納得させるためにも――――」
声は遠くなり、消えていった。
物陰に隠れていたアスカが、転げるようにして飛び出してくる。
「放せ、バカっ! なんなの、いったい! ここは何!? あれは何!? レイ、あんたいったい――!?」
「リリスだよ」
シンジが影の中から歩みでてきた。
「リリスの満ちた魂から欠け落ちた半分。MAGIから回収したデータを読んだときには何の事だかわからなかったけど、やっとわかったんだ。僕の世界に綾波レイはいない。当然だよね。だって彼女は――」
「碇君……」
レイは影の中に身体の右半分を置き、光の中にもう半分を置いていた。
胸に当てた手が、小さく揺れている。
そこから手を放したくないかのように、ゆらゆらと。
アスカが震える声で言った。
「わかんない。わけがわかんないわよ! だって、あれじゃ――あんなんじゃ――」
言いよどみ、そして絶叫する。
「――人間じゃないじゃない!」
ぱたり、という音がした。
レイの手が落ちたのだ。揺れていた手は、制服の脇に垂らされ、力なく広げられていた。
「……碇君。私を、殺したくなった?」
そして乾いた赤い瞳でシンジを見る。
シンジも――いや、<彼>もまた、似たような瞳で、レイを見つめ返した。
「僕には答えられない。でも……今はまだ、彼と入れ替わるべきじゃないと思う」
「そう……」
光の中にあったレイの半身が、すう――と影の中に消えた。