ヒカリは考えていた。
 必死で、必死で考えつづけていた。
 自分に何ができるのかを一つ一つ吟味して、その可能性を情けない気持ちで次々と削除していく。
 結局残った可能性は、たったのひとつ。当たって砕けることだ。
 ――いや、砕けちゃいけない。とにかく当たって、喰らいついてみよう。
 あの三人の間になにがあったのかを聞き出して、自分にできることを精一杯にするのだ。
 情けないけれど、自分に考えつくことなんてそれくらいしかない。
 そう心に決め、即座に行動に移した。
 “委員長”のあだ名は伊達じゃない。
 動くときにはためらわない。




りりす いん わんだぁらんど
第七話『ヒカリと闇』





「鈴原!」
「なんや、ヒカリか」
 うっ、となってしまった。
 ヒカリ――
 トウジからそう呼ばれるようになってまだ日が浅い。いまだに名を呼ばれるたびに「うっ」となってしまう。
 顔が赤くなってたりしませんように、と心の中で祈りつつ、本題に入ろうとした。
「あのさ、鈴原――」
「鈴原、やあらへんやろ」
 トウジは何気ない調子でヒカリを遮った。
 表情も平静なままだ。
 もしかして、羞恥とか照れとかいう感情を持ち合わせていないんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
 男の子って皆こんなもんだろうか。絶対違うと思うけど。
「あの――えっと、ト、トウジ……」
「そや。それでええ。――で、なんやヒカリ」
 うっ。
 ……などと同じことを繰り返していても埒がない。気を取り直して先に進む。
「……あのね、もしかして碇君たちって、なにかあった? アスカもレイも、妙にギクシャクしちゃって、絶対ヘンなのよ。トウジだってエヴァのパイロットなんだし、何か聞いてないかと思って」
「ヘンって、なにがや?」
「だって――おかしいでしょう? ずっと喋らないだけじゃなくて、眼も合わせようとしないのよ。クラスのみんなだってそう言ってるし」
「そうなんか。全然気づかへんかったけど……」
 思わず、ふっ――と乾いた溜息を漏らす。
 こういう問題で、トウジを頼った自分が馬鹿だった。


「碇君!」
 彼なら!
 そう考え、先に下校してしまったというシンジを追いかけ、校門をくぐる。
 細い背が振り返った。
「洞木……さん?」
 ヒカリは全力疾走で荒くなった息を吐き出しながら、手を伸ばしてシンジを捕まえた。
「碇君……聞きたい……ことがあるの」
 シンジはなにも言わずにこちらを見やっている。なにか生気に欠けたような瞳。
 ヒカリは息を整えてから、一直線に切り込んだ。
「ねえ、アスカやレイと何かあったんでしょ。教えて。あんなに仲がよかった友達が、ばらばらになってるのなんて見てられないよ。私でよかったら相談に乗るから。碇君ならなにか知ってるよね」
 一気にまくしたててから、シンジを見る。
 なにかを本気で考え込んでいる、辛そうな表情だった。
「ごめん……言えないよ」
 肩を掴んでいた手を、やんわりと外される。
 もう一度細い背を見せながら、シンジは歩き去った。


「アスカ! 聞いてたら、いつもの公園まで来て! 絶対だからね!」
 アスカの携帯電話に留守録を入れてから、「第三新東京市第八自然公園」という長ったらしい名前の「いつもの公園」に足を運ぶ。
 丈の低いブランコに腰をおろし、このスカートはアスカが選んでくれたんだったなと思いを馳せた。
『ヒカリはねぇ――クリームっぽい色とか、レモンみたいな色が似合いそうかな』
 それまでは着ようとも思わなかった、明るいレモン色のスカート。
 派手すぎるような気もしたけれど、白いシャツとあわせると、なぜか自分にぴったりに思えたのだ。
 それ以来、これは一番のお気に入りだった。
 ポケットに入れていた折畳式の携帯が震えた。アスカからだった。
『ヒカリ……あたし……』
「アスカ! いまどこなの。出て来れないの? 私、アスカと話たいことが――」
『あたしさ……情けないのよ』
 聞き落としてしまいそうなほど、覇気のない声だった。
 まるでアスカじゃないみたい――そう思う。
「アスカ……?」
『あたし、自分のこと、もっと強くてカッコイイ女だって思ってたのにさ。ホントはものすごく情けなかったみたい。これじゃ、もうシンジのこと笑えないわよね』
 これはアスカじゃない。
 こんな弱音を吐くようなアスカを、ヒカリは知らない。
『言っちゃいけなかったのよ。でも怖くて――どうしようもなくて言っちゃった。取り返しのつかないことしちゃったの。……ねえ、どうしようか、ヒカリ』
「アスカ、どうしちゃったのよ、ねえっ! なにがあったのか教えて、友達でしょう!?」
『……なおさら教えられない。ヒカリにまで嫌われたくないもの』
「そんなことあるわけないじゃない。――そうよ、アスカ。謝っちゃえ。そうしたら、絶対に大丈夫。本気で後悔しているなら、許してくれない人なんていないんだよ。あたしそう信じてるから」
 アスカがなにを悩んでいるのかわからない。だから、いま言えることだけを、精一杯に語りかけた。
「……怖いの。あの沢山の眼があたしを蔑んでいる気がして、怖くて謝れない。それに絶対許してくれっこない。――ごめん、ヒカリ。また学校でね」
「アスカ? アスカ――!」
 すでに接続は切れていた。
 トーン音だけが無情に聞こえる。


「ここが、レイのお部屋?」
 何もない。
 完全に何もないというわけではないが、色彩がなかった。
 鏡台の上に、真っ赤な牛の置物。
 会津若松の名産土産、赤ベコだった。
 ヒカリの家には、姉妹三人がなんとなく買ってきてしまった赤ベコが、七つほど仕舞い込んであったと思う。
「かわいいね」
 首をつつくと、鈴が鳴る。
 それだけが、この部屋の色彩であった。
「なぜ来たの」
 大きめのワイシャツ一枚という姿のレイが、立ったままこちらを見ている。
「その……邪魔だったかな」
 何も答えない。首を横に二度ふった。
 すこしだけ安心したヒカリは、コンビニのビニール袋に入れたままのペットボトルと、いくつものスナック類を取り出す。
「ちょっとだけレイと話したかったの。――これ、ここでいい?」
 たった一つだけあった小さな丸テーブルの上に、それを並べる。
 レイは冷蔵庫の上に無造作に伏せてあったコップを二つ手に取ると、水道で軽く洗ってからテーブルの上に載せた。
 濡れたままのそれを見て、ヒカリの世話焼きな本能が疼く。
「だめよ、レイ。ちゃんと拭いてからじゃないと」
 コップとテーブルの上をハンカチで綺麗に拭く。
 そうしながら、軽い話題をふった。
「ねえ、レイ。なんで赤ベコなの」
「?」
「だって、なんだかレイのイメージじゃないなって思って。――ううん、別に悪い意味で言ってるわけじゃないのよ」
「……アスカに似てたから」
「え?」
 突っ込むべきだろうか。
 もしかすると、レイの中では深遠な理由があって、赤ベコとアスカがイコールで結ばれているのかもしれない。
 ……やめておいたほうがいいような気がした。
 せっかくアスカの名前が出たのだから、このまま本題に入ってしまおうと決心する。
「アスカと……なにかあった?」
 レイの動きが止まる。
 ポテトチップの袋をじっと凝視していた。
「ねえ、レイ。私じゃ頼りないかもしれないけど、少しだけでも手伝わせてくれないかな。私、レイもアスカも大好きだもの。このままだなんて嫌だよ。なにがあったのか教えてくれなくてもいい。でも、どうしたらいいかだけ教えて。どうしたら二人を助けられる? 私、どうしたらいいかな」
 リン、と鳴った。
 赤ベコの首がレイの指にじゃれつくように揺れている。
 その前にしゃがみこんでいるレイは、消えてしまいそうなぐらいに白かった。
「どうしようもない。もう遅いもの。こうなることは知っていたから――だから気にしないで」
「できるわけない! アスカだって、謝りたいって言ってたんだよ! レイがそんなじゃ、アスカだって勇気が出せないじゃない!」
「……そんなはずない。……ない」
 レイは、言葉で否定していながら、それを信じたがっている。
 ヒカリにはそう思えた。
「本当よ。レイ、私の言うこと信じられないかな。私って、そんなに信用ない?」
 レイはヒカリを見ていた。赤い瞳がわずかに濡れていて、吸い込まれそうになる。綺麗な眼。あらためてそう思う。
「ヒカリは――」
 レイが口を開くのを待っていたかのように、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 鏡台の上のそれを、レイが手にとる。
「……呼び出し。行かないと」
「待って、レイ!」
 躊躇することなく、玄関へと向かう。
 ワイシャツ一枚の姿でスニーカーをつっかけると、そのまま外に出た。
「ヒカリ」
 呼ばれて後を追う。
 レイが、マンションの手すりから、地面のほうを指差していた。
「一番近いシェルター。避難していて」
「レイ、さっきの話、本当だから! 頑張れば、きっとみんなと元通りになれるから!」
 こくっとうなずいた。
「ありが……とう」
 驚いた。
 レイの顔がわずかに紅潮している。そしてレイのそんな言葉を聞いたのも初めてのことだった。
 いや。もしかすると、自分こそがその言葉を聞いた初めての人間なのではないだろうか。
 嬉しかった。
 なぜだか、とても誇りに思えた。
「じゃあ」
 レイが疾った。
 速い。
 あっという間に階段を駆け下りて、ヒカリが見下ろす地面を風のように翔け去っていく。
 まるでヒトではない、白いケモノのように。
 美しかった。


    ◇◆◇


 それは第十二使徒レリエルと名づけられた。
 第三新東京市の上空に突如として出現した黒い球体は、まるで子供が遊びで作った黒色のシャボン玉のようであった。
 戦自による通常兵器の攻撃はまったく効果なく、いつものようにエヴァ三機による迎撃が開始されようとしていた。
 黒い球体を中心に、三機のエヴァが六〇〇メートルの距離をおいて展開される。
「しっかし、困ったもんだわぁ」
「なにがよ」
 発令所でその様子を見守っていたミサトが、ぼやくように言った。
「最近、シンジ君もアスカも妙に暗くってね。シンちゃんはさ、なんかいつものことーって感じなんだけど、あのアスカがよ? 暗いわ変に素直だわ、はっきり言って気色悪いのよ。あれってもしかすると、おっかない宇宙人に身体を乗っ取られてんのかもしんない」
「くだらないこと言ってないで、作戦指揮に集中なさい」
 リツコはにべもない。
「まだ様子を見るように言ってあるわ。ねえ、リツコぉ。最近、あの子達に変わった事なかった? たとえば暗闇で眼が赤ーく光っちゃったりとか、人目のない場所で口から芋虫っぽい奇怪生物がにょろにょろ出てたりとかぁ」
「あなた、レトロムービーにでもはまってるの? そんなことあるわけないでしょう。でも、そうね。そういえば――」
「ひいっ! まさかそんなこと!」
「ミサトが期待しているようなことじゃないから安心なさい。ここしばらく、あの子達のシンクロ率が軒並み低下しているのよ。まあ、そうは言っても今までが高すぎただけで、やっと私の予想していた理論値内に収まっただけだけれどね」
「……悩み事でもあるのかしら」
「変わっていると言ってもしょせんは十四歳の子供でしかないわ。悩みのひとつもなければ、それこそ宇宙人よ。いいんじゃないの。私はエヴァさえ動けば、問題ないわ」
「あんたって、さいてー」
 ミサトが顔をしかめて舌を出したところで、マヤが声を張り上げた。
「使徒に変化! 前進を開始しました!」
「! エヴァ各機に伝達。前衛をシンジ君。サポートにアスカとレイ。三〇〇メートルの距離をおいて、パレットガンによる一斉掃射!」
 エヴァはミサトの指示どおりに行動を開始した。
 ピタリと三〇〇メートル。一斉にパレットガンを撃ち始めた。
 しかし、そのすべてが敵をすり抜けて空へと吸い込まれていく。
「なによあれ!」
「ミサト、まずいわ! 影が広がっていく。危険よ。エヴァを下がらせて」
 遅かった。
 音もなく広がっていく使徒の影が、シンジの初号機の足首を飲み込んでいたのだ。
 初号機の足首から膝、そして腰まで、ずぶずぶと地面に沈み込んでいく。
『っ! なんだよこれ! 変だ、おかしいよこんなの!』
「アスカ、初号機を救出! 急いで!」
『了解!』
 弐号機の赤い機体が走った。影の中に沈んでいくビルからビルへ、八艘跳びの要領で初号機へと近づいていく。最後に飛び移ったビルの壁面に、斧を模した武器であるスマッシュホークを打ち込む。それを手がかりに、初号機へと手を伸ばした。
『シンジ! パニクってる暇があったらしっかり手を伸ばしなさいよ!』
『アスカ!』
 二つの手が繋がった。強靭なエヴァの四肢が唸りをあげる。人類が持ち得る最強の兵器。その力の前に最初に屈したのは、弐号機の足場となっていたビルだった。
 壁一枚が崩壊したその下は、影。
 弐号機が落ちる。そしてそのまま飲み込まれた。
 赤い手が天を掴もうとするように突き出され、虚しく空を掻く。そのまま地に引きずり込まれようかという寸前、その手を別の手が捉えた。
「レイ!?」
 それはレイの零号機だった。ほとんど影の中に消えたビルの屋上に膝をつき、両腕でアスカの弐号機の手首を掴んでいた。
「レイ! あんたには命令していないわ! ここでエヴァを三機とも失うわけにはいかないの、戻りなさい!」
『駄目』
 レイの声がエントリープラグから返った。
「馬鹿言ってんじゃない! これは命令よ、今すぐにその手を放して、その場から退避! 従いなさい!」
『駄目。従えない。ごめんなさい』
 ミサトは言葉を失った。
 レイが命令に反する行動を自分から行う。それ自体が、すでに異例のことなのだから。
 零号機は弐号機を引き上げることもできず、ビルと一緒に影に沈んでいく。
 胸。そして首。

 そしてすべて。


    ◇◆◇


「ディラックの海ね」
 二十分後、リツコがそう結論していた。
「なによ、それ」
「虚数空間。その内部はおそらく別の宇宙につながっているはず。直径六八〇メートル、厚さ約三ナノメートル。その極薄の空間を内向きのATフィールドで支えているの。あの影こそが、使徒の本体なのよ。私たちが本体と考えていた球体は、ただの影だったのね」
「説明なんて聞きたくない。どうすればいいの。そこに三人が閉じ込められているのよ」
 そうね、とリツコは唇を舐めた。
「ひとつは、N2爆雷を集中的に爆発させることで、一時的にエネルギーの過負荷ポイントを作り出す方法。これならば、ディラックの海に対してわずかな時間だけ外部から影響を与えることが可能だわ。でもそれだけのエネルギーの飽和状態のなかで、エヴァはともかくパイロットがどうなってしまうのかはわからない。せいぜい最後の手段といったところね」
「他には」
「もうひとつ。ディラックの海は使徒による内向きのATフィールドによって支えられている。これを内側から中和することができれば、脱出も可能かもしれない」
「いけるじゃない!」
「でも、あれだけの負エネルギーを支えているATフィールドはとても一機のエヴァでは中和しきれないの。可能だとすれば、三機のエヴァが寸分の狂いなく、同時に一点を中和した場合だけ。偶然では絶対に不可能よ」
 リツコが猫のように眼を細めた。
「――でも、あそこにはアスカがいる。あの娘ならば気づくかもしれない。それに賭けてみるしかないわね」


「いいわね。一斉に、同時に、狂いなくよ。――せーのっ!」
 三機のエヴァが、同時にATフィールドを展開した。
 ほんのわずかのタイミングのずれで、お互いに反発しあってはじけ飛ぶ。
 すでに何回これを繰り返したかもわからない。
 ディラックの海の中は、レーダー波すら反射してこない、無限とも言える広さを持つ白い空間だった。
『無理だよ、アスカ。エネルギーを無駄に使ってるだけじゃないか。それよりも救助が来るのを待ったほうがいいんじゃないの』
「バカシンジ。その救助を待ってたら死ぬって言ってんのよ。このディラックの海に外部から手を出そうってんなら、N2爆雷ありったけ爆発させるぐらいでなきゃだめなんだからね。エヴァはサルベージできても、パイロットのあたしたちは無事じゃすまない。ミサトはともかくあの金髪女ならやりかねないわ」
『でも、こんなに闇雲にやったって無駄だよ。少し落ち着いて、作戦を練ったほうがいいってば』
「――ったく。シンジ、準待機状態で初号機が稼動可能なのはあとどれくらい」
『えっと――八時間……かな』
「ファースト、あんたは」
『六時間十八分』
「あたしはあと五時間と少し。わかったわ。一時間だけ休憩。あたしも頭を冷やして考えてみるから。最低限の生命維持システム以外は全部カットだからね。通信機も使っちゃ駄目。わかってるわね」
 アスカは直後にすべてのシステムをオフ。生命維持システムだけは生かしておく。エントリープラグ内がフィジカルメータの青い光だけを残し、闇に沈んだ。
「ねえ……」
 <彼女>に話し掛けてみた。しかし返事は返ってこない。
 <彼女>はいなくなっていた。シンジによると、<彼>もいないらしい。
 ディラックの海は別の宇宙と言ってもいい。同じように別の世界から来ていた彼らが、接続を保てなくなっていたとしても不思議ではないだろう。
 どうでもいいときには喧しいぐらい騒ぐくせに、居て欲しいときにはいない。本当に役立たずな女だと思う。
 五分。
 アスカはふいに身を起こすと、通信機のスイッチを入れた。受信状態で待機させる。
 エネルギーの無駄遣いなのはわかっている。しかしこれだけが最後の繋がりのような気がするのだ。だれも話しかけてなどくるはずがない。それでもたまらない焦燥のような感情が、アスカにそうさせた。
 少しだけ安心して身体を胎児のように丸める。LCLの中で浮き上がるような感覚。
 このまま寝てしまおうか。それもいいかもしれない。
 心と身体を少しだけ開放すると、自然と漏れ出た言葉はひとつだけだった。
「ママ……」
『……あのさ、アスカ』
「――っ! シ、シシシシンジっ!? あんた、なに! 通信はするなってあれだけ――って言うか、聴いてた!? 聴いてたの!?」
『なんのことさ』
 シンジらしくない、余裕のある雰囲気。聴いていたのだ。生きて帰れたら、記憶をなくすまでしばき倒してやることを心に誓う。
「あんた、やっぱりバカでしょ。こんな無駄遣いをしてたら、生き残れる確立がそれだけ減るんだからね。さっさと切りなさいよ」
『ごめん。でもそれは嫌なんだ。聞いてよ。<彼>が前に言ってたことなんだけど、会話は絆なんだって。僕もそう思うんだ』
「絆ぁ? またなんか胡散臭い話信じちゃって。あんた絶対に怪しい宗教に引っかかって、人生駄目にするタイプだわ」
『でもさ、人と人が本当には分かり合えなくて、ひとつに混ざり合うこともできないなら、会話でお互いを結び付けあうしかないじゃないか。絆を強くするために人間が必死で見つけ出した手段が会話なんだって、<彼>はそう言ってた。それって、まるで今の僕たちみたいだろ。エヴァ同士はこんなに近くに居るのに、お互いに触れることすらできない。だったら会話っていう絆だけは切っちゃいけないよ。違うかな』
 シンジにしてはまともなことを言う。
 アスカが通信機のスイッチを入れてしまったのも、そんな感情をどこかで感じていたからに違いないのだ。
 これもまた自分が弱くなっている証拠かもしれない。あたし以外はすべて敵――そう信じていた自分が、いまや信じられないほどに脆弱な存在に成り果ててしまった。
「……わかったわよ。ただし、喋るのはあんたの役目。せいぜいあたしを楽しませることね。つまらなかったら、あとでお仕置きだからね」
 丸めていた身体を伸ばす。独りの世界にいる必要はもうなかった。
『アスカ』
 通信機から別の声。レイだった。
「ファースト!? あんたまでなにやってんのよ! 無駄なことは絶対しない奴なんじゃなかったの」
『無駄じゃないから。ヒカリから聞いたもの。アスカ、私になにか言って』
「な、ななななにかって、何!?」
『知らない。だから言って』
 すさまじいフットワークで、あっという間にコーナーポストに追い詰められたボクサーの気分。
 どうやってここから逃げよう。あたりを見回す。
 リングサイドで、シンジがタオルを手に何か叫んでいる。
 チャンス。
「シンジ、あんたこそ言うことあるんじゃないの。もとはと言えば、全部あんたがいけないんじゃない」
 そうではないか。
 <彼>に身体を明渡してしまったのも悪ければ、あのときに何もしなかったのも悪い。
 こいつがもっとしっかりしていれば、自分がこんなに追い詰められる事だって無かったはずなのだ。
 ここにこうしているのだって、バカシンジが、使徒に捕まったのが始まりだ。
 そう。なにもかもすべて、一から十まで一切合財シンジが悪いに決まっている。
『……ごめん』
 あっさり謝りやがった。
『綾波、ごめん。怖かったんだ。あのとき<彼>と入れ替わっていなかったら、きっと僕は逃げ出していたと思う。悲鳴を一杯あげてさ、部屋に逃げ込んで布団を頭までかぶって震えていたと思うよ』
『碇君は……私が怖い。そうなのね』
『今はそうでもないよ。何日か経ってみたら綾波はやっぱり綾波でさ。すごく後悔したんだ。情けなくて死んじゃいたかった。だから、こうしてもう一度綾波と喋れてすごく嬉しいんだ。僕はやっぱり綾波が好きなんだと思う。だから、ごめん』
『……いい。ありがとう。本当のことから眼を背けたら、それは嘘だもの。私はヒトじゃない。でも碇君が好き。だから、ありがとう』
 こいつら、何気にとんでもない告白をしている――
 完全に乗り遅れてしまったアスカは、いつどうやって、この甘ったらしい会話に割り込むか必死で悩んでいた。
 いやしかし、たとえ割り込むことに成功したとして、はたして自分にこんな恥ずかしい会話ができるだろうか。
 無理だ。絶対無理。
 これはマズイ。レイとは和解したい。本心からそう思っている。しかしそのために乗越えなければならない壁は、思っていた以上に高く険しかった。
 と言うよりは、シンジのバカたれが、勝手に高く険しいものにしてくれたのだ。
 殺す。それでも飽き足らない。本気で人を憎んだ。
「――じゃ、じゃあさ、せっかくだから少しおしゃべりでもしようか」
 なにか自分の中の大事なものを捨てた気分だった。
 とにかく必死なのだ。


 一時間の休憩が、すでに三時間になっていた。
 意味のない、どうでもいいようなことを次々に語り合う。
 あのレイまでが、数少ない楽しかったことを訥々と語った。
 会話は絆――
 アスカはそれを信じそうになっている自分を見つけていた。
 想い出話の順番がアスカに回ってくる。
 まだ話してない事――そう考え、なぜ自分がそれを選んだのか理解できないうちに、アスカにとってはとても重要な記憶を語る決心をしていた。
「シンジ、あんたは聴いちゃダメ。通信切りなさい」
『なんでさ。仲間外れはないだろ』
「これは女の子同士の話だからよ。あんたがシン子ちゃんになるつもりなら、別にいいけどね」
『……わかったよ』
 ぷつっ、というノイズ。シンジの初号機との通信が切れた。
「さて。レイ、あんた、お母様っているの」
『……いない……。だって、見たでしょう』
「りょーかい。じゃあさ、あたしのママの話、聞かせてあげるわ」
 眼を閉じて想い出す。優しかったママ。弱かったママ。


 アスカの母、惣流・キョウコ・ツェッペリンはドイツ生まれのドイツ育ちであった。しかしその血の半分は日本人であり、東西ドイツの取材旅行に訪れていたという日本人ジャーナリストが落としていった私生児である。
 片親がいない子供時代がはたしてどのような影響を与えたのか、アスカを生んでのちは、これ以上ないほどの溺愛ぶりをしめした。キョウコのカウンセリングを担当していた医師によれば、すでにこの当時から異常な言動が目立ち、アスカへの耽溺は常軌を逸していたという。
 キョウコは同時に、優秀な理論物理学者でもあった。
 NERVの前身組織ゲヒルンで、セカンドインパクトの物理的な側面における研究を行い、大きな成果を上げている。
 アスカが生まれて約五年。
 我が子を異常なほどに溺愛する以外は、精神的には落ち着いた日々を過ごしていた。
 それが激変したのが、アスカが五歳の誕生日を迎えたその日だった。
 その日から、キョウコにとってアスカは愛娘ではなくなった。
 代わりにキョウコは一体の人形を愛するようになる。
 アスカへの攻撃的な行動もしめし、ついにはアスカの上腕骨骨折を機にゲヒルン直営の病院へと入院を余儀なくされる。
 しかし、わずかな時間ではあったが正気を取り戻す瞬間もあった。
 そんなときには激しくアスカを求め、アスカは溺愛と暴力の狭間で五歳の日々を過ごしていくことになる。
 そして半年。
 当時、キョウコの担当であった女医と自分の夫との深い関係に気づいてしまったキョウコは、アスカとの無理心中を図った。
 それは未遂に終わったものの、夫の希望によりキョウコは施設へと隔離されることになる。
 たった一体の人形だけが世界のすべてとなったキョウコ。
 その数日後、失血死寸前のところを発見され、一命を取り留めている。
 その原因は、自らの子宮に人形の頭部を押し込んだことによる頚管裂傷だった。


『……なぜそんなことをしたの』
「どうしてかしらね。今のあたしの継母によればね……ママにとって『アスカ』っていう子供は、小さな赤ん坊のことだったんだろうって。だから大きくなっちゃたあたしのことなんか見てもくれないし、最後にはそれでも満足できなくなって、自分の身体の中に――自分の一部に戻してしまおうとしたのよ。結局、その人形まで取り上げられて、ママは首を吊って死んじゃった。ひどいママでしょ?」
『泣いているの、アスカ』
「バカ言ってんじゃない。負けてらんないもの。ママは見てくれなかったけど、今のあたしは無敵のスーパーレディーよ。使徒なんて簡単に殲滅して、人類をあたしの前にひれ伏させてやる。もう二度と、誰にもあたしを無視なんてさせない。あたしにはそれができる。だって天才だもの。負けるもんですか」
 でもさ、とアスカは続けた。
「信じてたよりは弱くて情けなかったけどね。たかが一言に、これだけ前置きしちゃってさ、情けないったら。いい? 断っておくけど、あたしの輝かしい生涯で、こんなことを言うなんてきっとこの一回きりなんだからね。仇やおろそかにでもしようもんなら、レイ、あんたろくな大人になれないわよ。よく胸に刻み込んでおくこと。いいわね」
 とにかく長い前口上の末に、ようやくその一言が口に出せた。
「ごめんなさい」


 肩の荷が下りてしまって、さてこうなったら死んでらんないわ、というわけでどうやってディラックの海から脱出するべきか、アスカは真剣に考え始めていた。
 結局、人力ではどうやったところで完璧な同期など不可能なのだ。MAGIのサポートでもあれば、どうにかなったかもしれないが、ここでそんな泣き言を吐いていてもしかたがない
 生体レベルの反応速度までを考慮した、肉体への刺激を起爆剤とする完全同期のATフィールド展開。これしかないが、MAGI無しで、いったいどうやってそんなことをやってのけるのか。
 思考が堂堂巡りに陥りかけていたその時、アスカは妙に身体が火照っていることに気づいた。
 プラグ内温度を確認する。最低限の装備しか使用していないため十五度に近い低温。これでは身体が火照るはずがない。
「なによ、これ」
『――アスカ、おかしいよ。なんだか身体が熱い。それにこの感じ、<彼>と同化していたときと似た感じがする』
 シンジだった。それに続いてレイからも通信が入る。
『私も温かい。とても気持ちがいいの』
「ちょ、ちょっと待ってよ。調べてみるから」
 エヴァのシステムをすべて起動。異変は一目でわかった。
「なにこれ……ATフィールドが重なってる? なんでよ」
 三機のエヴァがそれぞれに発生させていたATフィールドが、今はひとつに重なり合っている。綺麗な球体となって、彼らを囲んでいた。
「こんな――勝手に同期しちゃってるってこと? なんでいまさら」
 わからない。
 いや、心のどこかではその理由に気づいていたが、最後のプライドがそれを認めようとはしなかった。
「とにかく、シンジ! あんたなら、この状態に慣れてるわよね!」
『う、うん。たぶん』
「いいわ。じゃあ、あんたに任せる。あたしとレイはシンジのATフィールドに同期、一気に使徒のATフィールドを突き破るわよ!」
『同期……。どうすればいいの』
「なんでもいいわよ。あんただったら『碇君だーい好き♪』とでも念じてりゃ、勝手に同期するでしょ。わかった?」
『わかった。そうしてみる』
 少しは恥じて欲しいと思いつつ、アスカは号令を発した。
「エヴァ起動! 始めるわよ!」


 変化はすぐに現れた。
 元々熱を帯びていた身体が、すぐに汗が噴き出してくる程にまで熱くなる。
 心の奥がじわりと何かに触れる。柔らかくて温かい。人の肌のような安心感をもたらす何か。
「く――これ、なに。レイ――シンジ?」
 それがすぐにとろりと溶け合った。満たされた感覚に思わず声が漏れる。
 たまらない快楽が広がる。
 肉体の快楽ではない、心の快楽。
「う――う――ぁ――まずい……これ……溶けちゃいそう……」
 ぐっと手を握ろうとしたが、すでにその感覚が失せていた。
 肉体の感覚がない。ただ心だけが満ちて、他の二人を感じていた。
 <アスカ。始めるよ>
 心に直接シンジの声。
「やるなら早くして。もうムリ。耐えらんない」
 <それ以上、心の壁を崩しちゃダメだ。本当に魂がひとつに溶け合っちゃうから。……綾波も! だからダメだってば!>
 こいつら何やってんだかと思いつつ、アスカ自身もすでに限界が近い。
 ひとつに溶け合ってしまいたい。その欲望をおさえるのがつらい。
 くそっ! とプライドが最後の咆哮をあげた。
「やんなさいっ、バカシンジ!」
 <わかってる!>
 その瞬間、すべてが弾けた。
 意識が透明になっていく。それを冷静に捉えながら、思う。
 私、溶けちゃったかな――
 それでも、まあ……いいかも――


    ◇◆◇


 ミサトとリツコが見つめる前で、それは起こっていた。
 使徒の上空に浮かぶ黒い球状の影。それがぐにゃりと形を変え、内部から何かが外に出ようともがいていた。
「まさか、リツコ!」
「やったみたいね、あの子達」
 球体が裂けた。血袋が破れたかのように赤い液体が噴き出す。
 その亀裂から手が生えていた。
 二本。
 鍵爪で引き裂くように上下に割る。
 吐き気をもたらすような光景ではあったが、それとは別のたしかな歓喜があった。
 エヴァが三体。
 轟音と共に大地に着地していた。


 即座に、マヤによって各エントリープラグの生命反応がチェックされた。
 零号機、弐号機、共に生命反応無し。
「そんな! エントリープラグの映像繋いで!」
 下半身が無くなってしまったかのような衝撃を受け、ミサトは命じた。
 映像が繋がる。
 レイもアスカもプラグ内に姿がなかった。
 ただ、白と赤のプラグスーツだけが、抜け殻のように浮かんでいる。
 それだけだった。
「なに、なんなの、どうしちゃったのよ、あの子達は!」
「溶けてしまったの……? 彼女と同じように……」
「リツコ、なに言ってんの!? あんた、なんか知ってるわけ!?」
 リツコに詰め寄ろうとするミサト。その彼女をマヤが止めた。
「初号機に生命反応! 三つです!」
「繋いで!」
 初号機のエントリープラグ内が映し出された。
 いた。
 全員。
 シンジ、アスカ、レイの三人が、眠っているかのように安らかな表情で横たわっている。
 しかし、喜びに溢れようとしていたミサトの顔が、その瞬間に凍りついた。
「……いったい……中でナニしてたのよ、この子達は……」
 シンジを中心にその左右。
 一糸まとわぬアスカとレイが、満足そうに寄り添っている。




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