いろいろある。
 とにかくいろいろと忙しくなっている。
 まずはフィフス・チルドレンだろう。
 曰く、フォーマットの書き換えをせずに零号機とシンクロしてみせた。
 曰く、シンクロ率を自由に設定可能らしい。
 曰く、シンジと同じクラスに転入して、いまや大人気。
 最後のはどうでもいいが、上の二つは絶対におかしい。
 リツコも、カヲルのことをシンジ以上の謎だと言い切った。最近の子供たちはわからないわ、などと、ババくさい愚痴まで吐き出したほどだ。
 ミサトも彼を怖いと感じている。
 即戦力としては申し分ない。しかしどこか信用に置けない部分を感じてしまう。
 そもそも第二支部消滅からどうやって生き残ったのだろう。調査報告は抹消されていた。キナ臭いことこの上ない。彼の専属機が失われていることを、心のどこかで感謝しているミサトである。
 エビチュをぐっとあおる。上層部への報告書を作成中。真面目になんてやってられない。
 くはぁーーーっ! と溜息を吐き出して、キーボードに向き直る。
 次。フォース・チルドレン。
 擬似体によるシンクロ・テストの結果は上々。参号機も松代の第二実験場で、ほぼ稼動可能な状態にまでこぎつけた。第一回目の起動実験を明日に控え、数日前からシンクロ率が下降気味なことが心配の種である。
 何かあったのかもと、ちょっとだけ女の魅力で口を割らせようとしたのだが、これを頑なに拒否された。はっきり言ってムカツク。
 フォース・チルドレン、鈴原トウジの評価値を下方修正。
 このガキは嫌いだ。
 そして、シンジ、アスカ、レイの三人。
 この三人は理想的な関係を築き上げることに成功しているように思える。
 お互いに良い影響を与えあっているのは間違いない。それぞれの個性を思えばこれは驚くべきことだろう。空中分解を憂慮していた自分が馬鹿らしく思えるほどだ。
 ただし、ここ数日はシンクロ率が下降線を描いている。また悩み事だろうか。
 色恋沙汰なら少しくらいアドバイスしてあげるのに。
 ……というか、ここしばらく誰も自分をかまってくれないことに気づく。あの加持リョウジまでが、なにか忙しそうにしていてちょっかいを出してこない。
 彼が何をしているのかは薄々と感づいていた。しかしその事実を確認してしまうことが怖い。知ってしまえば敵として対立することになるに違いないからだ。同時にNERVという組織への不信も日々高まる一方で、リョウジを本心から敵とみなすことができるかどうか自信が持てない。さまざまな問題が畳み掛けるように発生していて、ここが節目だという予感が胸をキリキリと締め付けてくる。
 誰かに頼って甘えてしまいたい。しかしそう思ったときに脳裏に浮かぶ男は敵かも知れず、しかもここしばらくは声すら聞けない。
 ちょっとばかり落ち込みそうだった。
「ペンペン〜。こっちおいでぇ」
「くえっ!」
 無視された。
 寂しいので寝る。明日は松代第二実験場に朝いちで出張らなければならない。
 ちっ。




りりす いん わんだぁらんど
第九話『彼と彼女のお人形』





「完璧な仕上がりね」
 リツコが満足そうに声を漏らす。
 松代第二実験場に仮設された臨時指令所で、参号機が着実に起動に向かっている姿を見ている。
 エントリープラグ挿入。第一次接続開始。グラフ正常。初期コンタクト問題なし。
「トウジ君。気分はどう」
『問題あらしまへん。続けたってください』
「そう。作業をフェイズ2へ移行します」
 オールナーブ・リンク問題なし。ハーモニクスすべて正常値。
「絶対境界線、突破」
 そして参号機が起動した。全身に力がみなぎり、首をぐぐっともたげる。
「起動成功です!」
 指令所に一時、歓声が上がった。
 ミサトは素直に喜べない。大きすぎる力がまたひとつ目覚めた。感傷的と言われようが、それを喜ぼうとは思えないのだ。
「続けて稼動試験に入ります。左腕部の圧着ロックを解除」
 参号機が動き始めた。各部の動作を順次確認していく。トウジの操縦に忠実に従い、参号機は動きつづける。すべてが問題ない。
「調子が良すぎて怖いわね。弐号機までの稼動データをフィードバックしてあるとはいえ、オーナインシステムがここまで順調に仕上がるなんて」
「起動確立0.0000000001%ってやつ? いまとなっちゃ、それも過去の代物よね。トウジ君、どう。調子は」
『順調ですわ。こいつ、ワイの思ったとおりに動いてくれるんや』
 ぐいぐいと三号機の両腕が振り回された。
『ホンマ、素直でええやっちゃで。まあ――――それも当然かもしれんけどな』
 トウジの声色が突然変わった。
 エヴァ参号機の動きが止まる。両腕が、身体の左右にたらされた。
「なに、どうしたの君。試験はまだ途中よ」
 リツコが訝る目の前で、参号機は下半身を拘束していたロックボルトを引きちぎった。仮設ケイジの中に、巨大なバイオリンがひしりあげるような音が響き渡る。
「トウジ君! 何をしてるの!」
『教えとくれや! こいつん中に――エヴァ参号機の中に入っとるんは誰や! ワイの妹なんか! あいつを! あのちっこいナミを、こないな姿にしおったんか!!』
 悲鳴のような言葉だった。拳を振り上げ、そして振り下ろす。たったそれだけで、仮設ケイジの壁面が軽々と吹き飛び、参号機は陽の当たる世界へと一歩を踏み出していた。
 跳んだ。
 姿がかき消えたかと思うほどの一瞬で、高く舞い上がる。
 太陽光を背に、黒い巨人が地を見下ろしていた。
 そして続く激震で、ミサトは壁に叩きつけられていた。肩から激痛が広がる。口から漏れる苦痛の声。自分のものだけではない。臨時指令所の中には幾人もの人間が床に投げ出されてうめいていた。
 エヴァ参号機は、臨時指令所となった棟屋の屋上に着地している。
 そして叫んだ。
『答えんかい! ワイはホンマのことを知りたいんや!』


 シンジは初号機のエントリープラグの中でその顛末を知らされていた。
「トウジが!? なんでそんなことを!」
『なんかさ、ホントのこと教えろーとか言って暴れてるみたいよ。バカよね。思ってたより、はるかにバカ』
 弐号機のアスカ。口とは別に、その眼差しは真剣だった。そのあとにレイの通信が続いた。
『聞いていたのかも』
『そうかもね。あんな場所に集めたシンジが一番バカってことか。なんだ、いつものことじゃん』
「そんなことどうでもいいよ! トウジを助けなきゃ!」
『助けるったってあんた、NERV職員人質にしてエヴァで暴れてんのよ。ミサトもリツコも人質なんだからね。下手に動けないでしょうが』
「外部電源をカットしたら」
『そんなのとっくに検討済み。内部電源でゲイン五分は稼動できるもの。人質がどうなるかわかったもんじゃない。それにね……停止コードもプラグの強制排出信号も、全部受け付けなかったそうよ。理由は不明。参号機の組立工程に、なにか大きなミスがあったかもしれないって』
「じゃあ……」
 レイが言葉を継いだ
『そう、鈴原君を止める有効な手立てはないの。いまは碇司令の判断待ちよ」
「……父さん……。僕はトウジとなんて戦えない!」
『バカシンジ。着いてから考えましょうよ。あたしも、じつはいろいろと溜まってんのよね』
 ブーメランのようなエヴァ専用輸送機が三機、松代第二実験場上空に到達。
 それぞれのロックボルトが解除された。
 上空百二十メートル。
 三機のエヴァが地面に向かって投下される。


「リツコ。あんた、何か知ってるわね。答えなさい! あの子、一体何の事を言ってるの!? エヴァの中に彼の妹がいるって、どういうことよ!」
 エヴァ参号機の謀反から一時間が経過していた。
 あの妹思いの少年が、本気で自分たちを殺せるはずがない。おそらく逃げ出そうとすれば、無傷で捕らえようとするだろう。
 ミサトの頭の中には確率の高そうな脱出プランがいくつも浮かんでいる。しかし、ミサトはそれらをあえて捨てた。
 知りたかったのだ。
 あまりにも多くの暗い部分を抱えるNERVという組織の内情を、少しでもいいから知っておきたかった。加持リョウジがそれらを探るために暗躍していることにも気がついている。それが危険な行為であることもわかっている。
 ここで秘密の一端を公にすることが、彼の命を救うかもしれないのだ。
 認めてしまうのには抵抗はある。しかし、それがミサトの本心だった。
 リツコは、そんなミサトを冷たい瞳で見返していた。
「知らないわね。私の与り知るところではないわ」
「そんなワケないでしょう! あんた、エヴァの開発者じゃないのよ!」
「どうかしら。私が何もかも知っているだなんて思わないことね。どちらにせよ、私が判断することじゃないわ。碇司令が決めることよ」
 リツコが目を伏せた。“碇司令”という言葉に陰を落としながら。
「あんた……そんなんじゃ、ろくな死にかたできないわよ」
「そうね。わかってる」


 NERV本部では作戦部長葛城ミサト不在の穴を埋めるために、総司令である碇ゲンドウが作戦指揮を代行していた。
 いつもの高みで顔を伏せながら、三機のエヴァが投下される映像を凝視している。
 その背後、副司令・冬月コウゾウが口を開いた。
「どうするのだ、碇。これは想定外の事態だろう。なぜあの少年が、あのようなことを知った。わけがわからんよ」
「敵性体として処理するしかあるまい。あれは俺たちの計画にとっては確実な敵だ。放ってはおけないだろう」
「攻撃するのか。おまえの息子が、そんな命令に従うと思うか」
「……どうかな」
 エヴァ三機が、無事に着定。即座に参号機と臨時指令所を中心にして展開を始めた。
 参号機のエントリープラグから、途切れることなく通信が入っている。
『聞いてるんやろ、碇のおっさん! そろそろ返事を聞かせえ! ワイの妹がどうなったのか、知りたいのはそれだけや!』
 ゲンドウの口元に薄い笑みが広がっていた。
「――各機に通達。参号機を敵性と判断する。各自全力をもって、即座に殲滅しろ」
『父さん!? 僕にトウジを攻撃しろっていうのかよ! できるわけないだろう!!』
「あれは敵だ。何のためにそこにいる、シンジ。できないのなら邪魔だ。下がっていろ」
『父さん!!』
『――ちょっと待ちなさいよ』
 シンジの叫びに割り込むように、アスカが通信を繋いだ。
 スクリーンの中で、アスカが青い瞳を光らせている。鉄のような輝きだった
『あたしもさ、いろいろと知りたいのよね。このあたしのエヴァに、ママが取り込まれてるってホントなの。場合によっちゃ、ちょっとばかり暴れてやりたい気分なんだけど』
 発令所にざわめきが広がっていった。
 その中でゲンドウの声だけが低く流れていく。
「――答える必要はない」
『ふざけんなや!? ワイは聞いたんや! エヴァを動かすためには、親しい人間の魂を宿らせねばならんちゅうてな! ワイの妹をどうしたんや! なして亡骸が帰ってこんかった!!』
 長い沈黙の後、シンジが静かに言葉を吐き出した。
『父さん。この初号機にも、母さんがいるんだね。そうなんだろ……』
「――そうだとしたらどうする、シンジ」
『僕は……僕は……父さんを絶対に許せない! どうして母さんにそんなことをしたんだ、答えろよ! どうして!』
 何度も何度もシンジの「どうして」という叫びが繰り返された。その鬼気迫る声に、発令所の誰一人として、身動きすることすら適わなかった。
「――碇。もう誤魔化しは効かんぞ」
「真実を伝えたとしても理解などできんさ。――レイ、聞こえるか」
『……はい。碇司令』
「鎮圧しろ。手段は問わん」
「碇!」
 温厚なはずの冬月の怒声に、発令所のクルーたちは驚愕した。
 総司令に対する、副司令の声色ではない。それは恩知らずな生徒を叱る、教師の叱咤ではなかったか。
 ゲンドウも声を潜め、そのように応えていた。
「……冬月先生。これは俺のシナリオには無い事態なんだよ。俺の予測でも、MAGIによる分析でも、この時点での情報の漏洩はありえなかった。俺の感知できないところで、誰かがシナリオに介入してきている。このままでは歯止めが効かなくなるぞ。多少の強攻策も止むを得ないだろう」
「しかし、碇! エヴァパイロットを、一度に三人も失えるものか。レイ一人で、この先のシナリオを完遂できるとでも思うのか」
「やるしかあるまい。ダミーシステムをメインにすることも考慮せねばならん」
「なにを馬鹿な……」
『碇司令……』
 囁きあう二人に、レイが言葉を発した。
『ごめんなさい。その命令には従えません』
 ゲンドウは驚愕の表情で立ち上がった。
「なんだと……裏切るのか、レイ!」
『ごめんなさい。私も知りたい。自分のことを、もっとちゃんと。だから従えない。ごめんなさい』
 レイは眼を背けながらそう言った。ゲンドウは完全に言葉を失っている。
 冬月だけが辛うじて言葉を残していた。
「なんてことだ……ありえないぞ、碇。エヴァパイロットにこぞって謀反されるなどと。しかも、あのレイにまで。信じられん」
 完全な膠着状態のまま、時間だけが流れていく。


「あははははっ! 痛快だわぁ! あのおっさん、レイにまで裏切られてやんの。いい気味ィ!」
 笑い転げているのはミサトである。臨時指令所の室内は、クルーたちの囁き声で埋まっていた。あまりにも想像だにしなかった事態の連続に、情報の整理が追いついてこない。憶測だけが好き勝手に飛び交っていた。
「リツコぉ。あんたもちょっと喜んでるでしょ」
「なんで私が」
「レイが裏切ったとき、絶対喜んでた。倒錯してんわ、あんたって。まあ、まだカワイイとこも残ってたってこと?」
「馬鹿なことを言うのはよして! 怒るわよ!」
「なーに言ってんだか。最大のライバルが消えてくれて、内心ホクホクでしょうに。ま、私の本音としちゃ、あんたにはまともな恋でもして――」
「――わかってないわね」
「へ?」
「最大のライバルは別にいるのよ。初号機の中にね」
 ミサトは思わずイヤな想像をしていた。
「それって、まさか……シンジ君?」
「馬鹿」


「伊吹二尉。初号機のコントロールをダミーシステムに切り替えろ」
 発令所の沈黙を破ったのは、ゲンドウのその言葉だった。
 完全に平静を取り戻している。
 スクリーンに映し出される四機のエヴァを、静かに見つめていた。
 驚愕したのはマヤだった。
「し、しかし、あれはまだ開発途中で、赤木主任の立会い無しには――!」
「かまわん。緊急事態だ。やれ」
「でも!」
「やれ」
「……了解」
 マヤは目を伏せるようにしてコンソールに向き直った。
 キーボードからコマンドを入力していく。
 ダミーシステム・REI。起動。


 シンジは異変を感じた。
 エントリープラグの電圧が、一瞬だけ落ちたように感じたのだ。
 瞬間的に照明が暗くなり、LCLに投影されているウィンドウが乱れた。
 なんだ? と思う間もなく、次には照明が完全に消える。そしてウィンドウには見たこともないオペレーション・システムの起動画面が表示されていた。
『――ダミープラグ・オペレーション・システム TYPE−REI――』
「なんだよ、これ!?」
 その声と同時に、初号機が動いた。
 ずるり、という足取りで、シンジの意思と関係なく一歩を踏み出したのだ。
 その先にいるのは、四号機トウジ。
「なんだよ、なんで勝手に動くんだよ! 父さん! 何かしたな! 父さん!」
 初号機が地を蹴った。
 獰猛な足取りで大地を削り、地面から伸び上がるようにして四号機の首に手をかける。そしてそのまま一塊となって数十メートルを駆け抜けていった。
 ずしん! という地響きと共に、丘の斜面に“敵”を叩きつける。首にかけた手に容赦のない圧力が加えられていた。
『なんや、シンジ! なにをしよるんや! ワイの味方になってくれたんと違うんか!?』
「わかんないよ、トウジ! 勝手に――エヴァが勝手に! 逃げて、トウジ! 早く!」
『あんたたち、何やってんのよ!』
『碇君!』
 初号機が天に向けて吼え猛った。吼え狂いながら、右に左に四号機の首を捻る。
『ぐ……ぅああああぁぁっっ――!!』
 逆流したパルスが、トウジを叩きのめした。
 折られる。首が。激痛。
「やめろぉ! くそっ! 止まれ! 止まれよ! ちくしょおっ!」
 <ダミーシステムだ。僕と入れ替わってくれ>
 <彼>だった。
「だけど!」
 <僕が解除する。早く!>
 シンジは眼を閉じた。そして開く。強い意思に満ちた瞳。


「これが、ダミーシステム……?」
 マヤは恐怖を感じていた。スクリーンに映し出される、絶大な暴力の化身となった初号機。これは敵だ――そう心の奥で何かが囁いていた。
 初号機が高く右腕を振り上げた。弓に矢をつがえるかのように背をぐいぐいと反らし、その力のすべてが右の拳へと集められていく。
 振り下ろす。
 それはたがわず、四号機の頭部を狙っていた。
 マヤは眼を閉じる。もう見たくない。こんなの闘いですらない。
『この! バカシンジ!』
『碇君、止まって!』
 振り上げた初号機の右手に、赤い弐号機のボディが絡まりついた。その横合いから、レイの零号機が下半身に飛びつくようにして押さえ込む。
 初号機が吼えながら暴れる。二機のエヴァを相手に、互角以上に力を振るった。
 レイの初号機が蹴り飛ばされた。同時に弐号機の頭部をわしづかみ、背後に投げ飛ばす。
 初号機が立ち上がった。
 そして天を仰いだ。

 うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁあああああああああああ――――!!

 吼えた。
 それはもう、人類を守るための決戦兵器などでは断じてない。
 脅威だ。
 ヒトの敵だった。
「なんてことだ」
 冬月が呆然と呟く。彼にしても、これほどの力を発揮するなど予想もしていなかったのだ。こんなものにこの先の自分たちの命運を預けようというのか?
 それは考えたくもない未来ではないか。
 初号機は吼えつづけている。
 身体の内部に猛るすべてのものを吐き出そうとでもするように、長く長く永遠とも思える時間を吼えつづけた。
 そしてそれが不意に止まった。かと思うと、膝ががくりと折れた。
 地に膝をつき、そのまま上半身を大地に突っ伏した。
「……どうした」
 ゲンドウがマヤに問う。
「待ってください――。そんな! ダミーシステム、解除されています!」
「なんだと」
『……父さん』
 シンジの声だった。
『父さん……僕にトウジを殺させようとしたな……母さんをこんな風にして……トウジまで殺させようとしたな! 父さん!!』
 初号機が立ち上がった。狂気から抜け、シンジの意思の下で。
『許さないぞ、父さん! 僕はもう、あんたを二度と許さない! 絶対にだ! 絶対に許さない! 言え! 僕の母さんを、アスカの母さんを、トウジの妹をどうしたんだ! 答えろよ――父さん!!』
「碇。限界だ……答えてやれ」
 冬月の声。
 すべてのエヴァが彼らを裏切り、切り札であったダミーシステムまでが何らかの手段で打ち破られたのだ。イレギュラーはゲンドウのシナリオを崩壊させ、その修復は困難だった。
 ゲンドウはじっと初号機の姿を見、そして眼をそらすように下を向いた。
「……ユイは、そこにいる」
 発令所のクルー全員が凍り付いていた。
 エヴァに人間の魂が宿らせてあるという事実。それを、総司令自らの口で認めた瞬間だった。
『やっぱり……母さんが……ここに?』
『ママ……いるの。ここにいるの、ママ!』
『なんでや。ナミは八歳やぞ。なんでそないなこと……。おっさん、教えてんか。ナミは……生き……とったんか……』
「――長くはなかった」
 トウジの顔から、すべての表情が消え去っていた。
 能面のような口から、言葉だけが漏れてくる。
『なんやそれ……。なんやねん。八歳やぞ。かわええ妹やったんや。それを……おまえ……おまえら……殺したんか……』
 語尾が震えていた。
 泣いているのだ。
 顔を伏せたまま、トウジは肩を震わせて泣いていた。
『そりゃないやんけ。信じとったんやで。あんたらが絶対に治してくれるちゅうから、ワイは……。それが、これかい……。この仕打ちか? なんや、それ。許せんやんか、こんなの……許せるわけ……ないやろ――この――――どアホがぁぁ――――っ!』
 参号機が跳んでいた。アンビリカルケーブルを引きちぎり、顎の拘束具を引きちぎり、高い空を吼えながら跳んでいた。
 黒い巨体が軽々と第二実験場の敷地を飛び越え、野辺山へと続く街道を走り抜けていく。
「どうなっている!」
 ゲンドウに代わり、冬月が状況報告を求めた。
「暴走です! フォースの精神障壁が汚染されていきます。危険域まで、あと5……3!」
「内部電源の残りはどれだけだ」
「約五分です。……いえ、待ってください! 参号機の内部に高熱源反応! これって――」
 マヤを押さえ、サブ・オペレータの日向マコトか叫んだ。
「参号機からパターン青の反応! 使徒です!」
 ほとんど同時だった。
 獣のような吼え声が響き渡ったのだ。
 トウジの参号機ではない。
 それはアスカの弐号機だった。


 そのわずか前。
 アスカはひどく混乱していた。
 操縦席を上へ上へとよじ登っていく。LCLのせいで、手も足もつるつると滑る。それでもやめない。とにかく手を伸ばし、わずかな隙間に指をかけ、懸命になって登っていく。
 一番上まで達し、そこに座り込んだ。まわりをきょろきょろと見回す。
 ママがここにいる?
 このエヴァの中に?
 ただの兵器だと思っていたのだ。
 そのように扱って、そのように接してきた。
 エヴァは自分のプライドで、周りの人間に自分の力を見せつけるための絶好の道具だった。
 そこにママが?
「ママ……いるの。ここにいるの、ママ!」
 アスカ、という<彼女>の心配そうな声。
「あんたは黙ってて! ……ママ。あたしよ。アスカ。お願い! 応えてよ、ママ!」
 弱かったママ。
 あたしを殺そうとしたママ。
 たくさん殴られた。
 拒絶の眼で、何度も何度も蔑まれた。
 でも、同じぐらいたくさん抱きしめてくれた。
 優しかったママ。
 あたしを愛してくれたママ。
「ママ、お願い……」
 気がつくと身体が温かくなっていた。
 ふわりと宙に浮いているような感覚。そして心に触れてくる何か。
 この感覚は知っていた。
 ディラックの海の中で感じたのと同じ、ヒトの魂と溶け合う瞬間。
「ママ……ママよね、ママっ!」
 白い闇のむこうに、光に包まれた人がいた。
 こちらに手を伸ばしてくれている。
 きっとそうだ。
 迎えてくれる。
 優しく抱きしめて、昔のママのように囁きかけてくれる。
 アスカは手を差し伸べる。
 その人は、ゆっくりと近づいてきた。
 嬉しい。
 やっぱりママだ。

 ――ママ!

 手と手が触れ、その懐かしい匂いを感じ、温もりを思い出してアスカは歓喜に涙を零した。
 そして次の瞬間、もうひとつの古い想い出までもが蘇っていた。
 拒否の意思だった。
 触れ合った手が離れていく。体温が急激に下がっていくのを感じた。
「ママ……?」
 そこにいる人は、やはり、アスカの母だった。
 アスカを見、そして拒絶したのだ。
 憎しみのような感情がアスカにぶつけられた。そのあまりの豹変は、しかしアスカがよく知っているものだ。
 入院した母が狂気と正気の狭間で何度も見せていた姿だった。
「ママ!」
 白い闇が飛び去っていく。
 アスカは現実に投げ出されていた。
「ママ! ママぁ!」
 そして、弐号機が吼えた。

 うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっっ――――――――っ!

 鍵爪のような指を天にかざし、我が子以外のものを排除するために力を振るう。
 思い出す。
 病院のベッドで幼いアスカを抱きしめて他愛無い話を嬉しそうに聞いてくれていた母。そしてその同じ手で自分を殴りつけている母の姿を。
 小さな人形を愛し、それを自分の一部にまでしようとした母キョウコ。
「ママ……やっぱりあたしじゃダメなの。ママ……」
 弐号機の指が脊髄部装甲板にかかった。圧倒的な力で、それを一気に引き剥がす。
 エントリープラグの頭頂部が剥き出しにされた。
 弐号機の指がえぐるようにしてエントリープラグを引きずり出そうとする。
 弐号機の首から赤い血が吹きだしていた。
 狂ったように吼えながら、それでも弐号機は動きを止めない。
 ずるり、と真紅に染まったエントリープラグが排出された。首の後ろから何本ものケーブルと神経節を引きずり、弐号機はそれを右手に握った。ぎりぎりと圧力を加えていく。
 アスカの頭の上に、憎しみに濁った弐号機の眼があった。
 ベッドの上でアスカに馬乗りになって見下ろしていた母の眼と同じ、狂気に濁った眼だった。
「いや…………
 ママ、やめて……
 いやだ、いや、いや、いや、いやいやいやいやああぁぁぁ――――!!
 いやだ、ママじゃない! こんなのママじゃない!
 いやぁ――――――――――――――――――――――――――っ!!!!」


「なにがおきている」
 その様子を発令所で見つめていた冬月が、マヤに問うた。
「っ――に、弐号機、暴走しています! エントリープラグを自分で排出しようと――こんなことって!」
「馬鹿が――」
 それまで、自分の世界に逃げ込んでいたかに見えたゲンドウが、小さく言葉を漏らした。
「なんだと、何が起きているのかわかるか、碇」
「知らずにいれば、うまくいっていたのだ。弐号機の魂、惣流・キョウコ・ツェッペリンは、我が子だけを溺愛し、それ以外を徹底して排除する――そういう女だ。だからこそ弐号機は動いていた。しかし気づいてしまったのだよ。自らの内部にいるものが、小さな愛娘ではないということにな」
「だから……排除しようというのか……」
「殺されるぞ。あれは、デストルドーに支配された女だからな」
「っ! 初号機パイロットに通達! 弐号機パイロットの救出を――」
「まちがえるな、冬月。我々の成すべきことは使徒の殲滅だ。弐号機は放っておけ。どうせもう役には立たん」
 ゲンドウが立ち上がった。
「弐号機は現時点をもって破棄。同時に参号機を第十三使徒として識別する。これより、使徒殲滅戦に入る。聞こえているな、シンジ、レイ」
『知るもんか! 僕はアスカを助ける! 放ってなんかおけるかよ!』
「よく考えろ。使徒がここに到達すれば、人類が滅びる。一人の娘の命と、人類すべてのそれを天秤にかけるつもりか。第十三使徒を追撃しろ。これは命令だ」
『だけど、そんなこと――』
『アスカを助けなさい、シンジ君』
 突然、別の声が割り込んできた。
 同時にメインスクリーンの映像が切り替わる。
 そこに映し出されたのは、額から一筋の血を流した葛城ミサトだった。
 背後には忙しく立ち回るリツコや、その他のクルーの姿もある。
『司令、申し訳ありませんが、その指示は適当とは思えません。撤回をお願いします』
「なんだと」
『司令は、我々に重大なる事実を隠匿しておられました。この事実確認が済むまでは、我々は司令を信頼するわけにはまいりません。今回の処理については、私に一任していただきたい』
 冬月が驚いたように言った。
「わかっているのか、葛城三佐。それは重大な服務違反なのだぞ」
『了解しています。処罰は如何様にも受ける所存です。ですからここだけは、なにとぞ私にお預けください』
 ゲンドウが押し黙る。仮面のような無表情の下に、どんな感情が蠢いているのか。
「……好きにしろ。責任の追及は後ですればいい。お互いにな」
『はっ。ありがとうございます! ――シンジ君、レイ。聞こえていたわね。まずはアスカの救出を優先。エントリープラグを回収できれば、弐号機は放棄してかまわないから!』
『は、はい!』
 初号機と零号機が行動を開始した。
 それを見つめながら、冬月が囁く。
「おまえが素直に引くとはな。珍しいこともあるものだ」
「シナリオを修正するには、まだ時間がかかる。いまは自分の選んだ手ごまが無能ではないことを祈るだけだよ」
 自嘲のような言葉を残し、ゲンドウは口をつぐんだ。


 シンジたちが躊躇していたわずかな時間に、弐号機はエントリープラグをえぐりだし、自らの右手に握り締めていた。
 背を丸め、プラグを覗き込んでいる。
 口からは、ぐるるるる――――という獣の声を漏らし、生臭さを感じるような熱い呼気を吐き出す。
 首から背に向けて滝のごとく零れ落ちる赤い体液は、まるで長い赤毛のように映った。
 シンジがアスカの母の生前を知っていれば、その姿を重ねて見ていたはずだ。
 病室に飛び込む看護師たちの目の前。ベッドの上で小さな何かに馬乗りになって、拳を赤く染めているキョウコ。
 狂気に細く尖った瞳を振り向かせ――そして、弐号機も振り返った。

  『わたしのアスカは――どこ』

「綾波! 僕が動きを押さえる! アスカを助けて!」
『了解!』
 シンジは弐号機に正面から飛び掛った。
 同じエヴァ――という勘違いがその行動を取らせたのだ。
 初号機の突進は、弐号機が展開したATフィールドに受け止められた。
 中和する。両腕の指を開き、左右に割った隙間に身体をねじ込んでいく。
 その突き出した顔面を、弐号機の左腕が掴んだ。圧倒的な力で引き寄せられた。二機のエヴァがその顔面を付きあわせた。
 がぱっ、という音と共に弐号機が顎を開いていた。
「うわあっ!」
 目の前に広がっているその映像に、シンジは悲鳴をあげてしまう。
 喰われる。
 根源的な恐怖が湧き上がる。本能が逃走を選んだ。
 ATフィールドを展開。二機の間に激しい火花が散った。弾き飛ばされる弐号機。同時に初号機もまた背後に飛ばされていた。
「ダメだ! 手伝って!」
 <わかった。ATフィールドを分離。君が右手、僕は左手。いいかい>
「うん!」
 転がっていた初号機が、地に手をついたと思うとその勢いで真後ろに飛んだ。壮絶な土煙を上げ、四肢をついて着地。顎部装甲を弾き飛ばし、弐号機と同様にその牙が剥き出しにされた。
 るるるるる――といううめきが漏れる。しかし暴走ではない。シンクロ率が180%を突破。血走った瞳が炯と赤い輝きを放つ。
 立ち上がった弐号機が、がくんと身体を落とした。その勢いで地を蹴った。赤い残像を残して、シンジに向けて突進してくる。左手を武器のように突き出していた。
 <まずは左腕!>
 いきなり弐号機の動きが止まった。左腕を捕られ、ガクンと身体が宙に浮かぶ。左腕の周りに赤い輝き。
 ATフィールドだった。
 初号機の<彼>の展開したATフィールドが、弐号機の左腕を絡めとったのだ。
「次は右!」
 シンジがATフィールドを操る。弐号機の右腕が、ATフィールドの壁に埋め込まれた。両腕を塞がれ弐号機が吼えた。
「綾波! いまだ!」
『ええ!』
 プログナイフを手にとり、零号機が走った。真っ直ぐに弐号機の右腕、エントリープラグを握る拳に向けて。
 一閃。
 プログナイフの輝きが弧を描き、赤い血潮でその最後を軌跡を塗りたくった。
 きつく握られた弐号機の右拳が地に落ちる寸前、スライディングで飛び込んだ零号機がそれを受け止める。エントリープラグには細かいヒビが広がっていた。
『……でも無事。碇君!』
「わかってる!」
 弐号機を挟み込んだまま、ATフィールドが宙に浮かび上がった。初号機の血のような瞳が、それを凝視している。
「いけえっ!」
 ぐんっ! とATフィールドが加速。すぐさま解除。弐号機を投げ飛ばしたのだ。
 第二実験場の敷地を飛び越え、林の向こうへと落下していく。轟音がした。シンジは最後にプログナイフを抜き、弐号機に接続されていたアンビリカルケーブルを切断する。
 その直後に木々を薙ぎ倒して弐号機が立ち上がった。四つの瞳が赤い光跡を残し最後に三回だけ点滅。ふいに弐号機の全身から力が抜けた。前のめりになって林の中に頭から突っ込んだ。内部電源の活動限界には早すぎる。異物を体内から排除したことで、その魂が怒りをおさめたのだとシンジは感じた。
 一息ついたところにミサトから通信が入った。
『よくやったわ、シンジ君。アスカの回収と弐号機の処理は私たちに任せて、そのまま参号機の追跡をはじめて。エヴァ専用輸送機を呼んであるから、北東の斜面に移動。飛びついて』
「飛びつく!? できるんですか、そんなこと」
『今のあなたならできると信じるわ。レイ、あなたもできるだけシンジ君に食いついていって。いいわね』
『はい』
『降下ポイントはこちらで指示します。急いで』
「でも……ミサトさん。僕はトウジとは……」
『勘違いしないで。私は参号機と言ったのよ。これはトウジ君との戦いじゃないの。トウジ君の救出作戦。使徒の殲滅はその後よ。いい?』
「あ……は、はい!」
『なら行きなさい! 迷っている時間なんてないんだから!』


    ◇◆◇


【戦術作戦部作戦局第一課 葛城ミサト三佐よりの報告を抜粋】

 ――その後、エヴァ両機は輸送機との合流に成功。
 十一分二十秒後に、暴走する参号機の前方三八〇メートルの地点に降下した。
 使徒としての能力を得た参号機に苦戦を強いられるものの、弐号機戦の経験を生かしその動きを止めることに成功する。
 直後、零号機による参号機エントリープラグの回収を試行。
 使徒よる侵食を受け零号機は左腕を失ったものの、フォース・チルドレンと共にエントリープラグを回収せしめた。
 以後、エヴァンゲリオン参号機を第十三使徒と識別。その殲滅戦へと作戦を移行した。
 動きを封じられていた第十三使徒は初号機、零号機の攻撃により、その活動を完全に停止。
 一七三八時をもって、本作戦の完遂を宣言した。


 なお、E計画責任者による経過報告を併記しておく。

 エヴァンゲリオン参号機は使徒による侵食が激しく、復帰には最低でも三ヶ月を要すと思われる。
 また専属パイロットの精神的な磨耗も激しく、当面はその登録の抹消を提言するものである。なお、同パイロットの少年は、現在NERV本部内の専属病院において治療中。
 弐号機の損傷は右掌部の喪失とエントリープラグ挿入口周囲の破損のみであり、これの復旧には一週間ほどを必要とする。
 ただし専属パイロットの投入は不可能と判断する。ハーモニクスは不安定であり、高い確立で暴走を引き起こしている。
 総司令の判断により、セカンド・チルドレン、惣流・アスカ・ラングレーのチルドレン登録を凍結。
 その代替要員として、フィフス・チルドレン、渚カヲルを登用した。
 現在フィフス・チルドレンに向けた、弐号機のフォーマット書き換え作業を進行中である。




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