父さんは死ぬべきかもしれない。
 そう思った。


 参号機の起動実験から始まった一連の事件は、第十三使徒バルディエルの殲滅によって、一応の終結をみた。
 でも、まだ終わってなんかいない――シンジは思う。
 エヴァへの人の魂の封入という事実は、NERV職員にNERVという組織そのものへの不信感を植え付けた。
 救出されたトウジは、左大腿骨を粉砕骨折しており、生涯後遺症が残るらしい。
 アスカもまた、弐号機に宿った母キョウコのせいで、おそらくは消えることのない心の傷を負っただろう。
 許せないと思う。
 母をあんな姿にし、トウジを殺させようとし、レイを弄び、アスカを苦しめる、父ゲンドウ。
 死ぬべきだ。生きていていいはずがない。そう思うのだ。
 後日、事件の発端となったトウジは、NERVから除籍処分を受け、同時にチルドレン登録を抹消された。専属機だった参号機は使徒による侵食が激しく、正式に廃棄処分が決定。封じ込められていた八歳の少女の魂と共に、完全にこの世から姿を消した。
 トウジは『これですっきりした』などと言っていたが、それが本心なのかどうかシンジにはわからない。ただ、かいがいしく看病をするヒカリの姿を見て、心配は要らないとも感じる。真っ赤になった二人をさんざんからかって、その日は病室を後にした。
 アスカは部屋に篭りがちだった。
 その後の弐号機とのシンクロ・テストにはことごとく失敗している。ハーモニクス値の誤差が激しく、起動以前から暴走するであろうことが予想できたという。最終的に昨夜、アスカのチルドレン登録は凍結された。代替要員はフィフス・チルドレンが有力で、米国からの正式な移籍手続きが進行中らしい。母親を他人に奪われるという現実は、またアスカを傷つけるだろう。元気付けてあげたいと思う。しかし自分になにができるのかがわからない。<彼>もお手上げだと言う。このままでいいはずがない。それだけはわかる。
 じりじりとした焦燥の中で三日が過ぎた。


「それじゃ、シンちゃん。後のことはお願いね」
 玄関先でミサトはそう言ってあっけらかんと微笑んだ。
 ちょっとダイコン買いに行ってくるから、という調子で、NERVの正式な制服に身を包んだ凛々しい姿でへらへらと笑う。
 ミサトはいつもそうだ。自分たちチルドレンが被るべき罪を一身に引き受け、「特別査問委員会」の召喚に応じようというのに。
「特別査問委員会」により召喚されたのは、碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、葛城ミサトの三人だった。責任問題の追及にどれほどの時間が必要なのかはシンジにはわからない。しかし、NERV本部の機能は六割方停止に追い込まれるだろう。活動可能なのはリツコをトップとする技術部のみ。リツコはエヴァ零・弐号機の修復と、並行して行われている弐号機のパーソナルデータ書き換え作業に忙殺されている。
「いい。私がいないのをいいことに、アスカに変なことしたら怒るからね」
 ほっぺたを引っ張られて、そう釘を刺された。
 とんでもなく痛かったので、こくこくと必死でうなずく。指を離すとパチンといい音がした。
「……とまあ、保護者としてはそう言うしかないんだけどね。まああれよ。アスカを元気付けられるなら多少の暴走も許すから、ガンガンいったんさい。条件付で承認します。た・だ・し、責任だけはしっかり取るように」
「なんの責任ですか!」
 けらけらと笑ったかと思うと、いきなり抱きしめられた。背中をぽんぽんと三回叩き、すぐに開放してくれる。驚いた。
「昔のシンちゃんだったらさ、碇司令にあんなことされたら逃げ出していたわよねきっと。それなのに、こうして自分で残ることを選択して、他人を支えようとまでしているんだもの。なんか私も鼻が高いわぁ」
 そうだろうかと、数ヶ月前の自分を振り返った。
 父親からのたった一通の手紙を手に、独りで第三新東京市にやってきた自分。
 あのときは、肉親との絆というわずかな希望にすがっていたのだと思う。しかしそれがエヴァのパイロットにするためだったのだと知って反抗し、そして今は完全に裏切られ殺意に近い憎しみすら感じている。
 それでもここに残ることを選んだのは、ほかの絆を手に入れたからだった。
 その絆をより太く確かなものにしたいという欲望があるからなのだ。
 ミサトが言った。
「アスカのこと頼むわよシンジ君。がんばれ男の子」
「はい」
「――さて、ちょっくら怒られてきますか」
 服の皺を伸ばして玄関から出て行くミサトに、
「帰ってきてくれますよね。ミサトさん」
 ミサトは「縁起でもないこと言ってんじゃない」と笑い飛ばし、ドアを閉めた。




りりす いん わんだぁらんど
第十話『未来の三つの顔』





 その日、アスカが口にしたのはわずかな水分だけだった。
 たっぷりと砂糖を入れたホットレモンを手に、アスカの部屋をノックする。
 返事を待って中に入ると、アスカはピンク色のパジャマ姿で鏡台の前に座り、髪をくしけずっていた。
「ここに置くから」
 ガラス製のテーブルの上にカップを置き、顔を上げる。すると、アスカはものも言わずにじっとシンジを見つめていた。
「なに」
 別に、と答える。しかしその視線はシンジから外れることはない。奇妙な空気を感じながらも、部屋を後にした。
 翌日は、昼にうどんを食べてくれた。
 油揚げと菜の花を添えただけの質素さが、かえって良かったのだと思う。
 一本一本ゆっくりと口にし、丁寧に噛んでいく。結局一度も会話はなかったが、それでもいい。部屋から出てきて食事をしてくれただけで嬉しかった。
 夕飯も軽めで、あさりのスパゲティにした。
 黙々と食べていると、視線を感じる。顔を上げると、アスカがなんの感情も含まない眼で見つめていた。どうかしたの、と訊ねても小さく首を振るだけ。
 食事を終え、食器を洗っていると、やはり視線を感じる。アスカだとわかったので、そのままにしておいた。
 アスカは何かを考えているのだと思う。それが何かまではわからないが。
 その何かがわかったのは、一通りのかたつけを終えて、リビングでくつろいでいたときのことだ。
 アスカもソファーの上で膝を抱え、いっしょにテレビを観ている。はっきり言ってつまらない番組だけれど、それはどうでもいい。アスカが独りで部屋に篭っていないということが大事なのだ。
「シンジさ……」
 ぼそり、という感じでアスカが口を開いた。
 心臓が跳ねる。ここは大事に行かなければと、慎重になった。
「お父様に裏切られて、どうだった」
 なんと答えるのが正しいのだろう。余計なことをいろいろと考えた末に、結局、正直な気持ちを打ち明けていた。
「殺したいと思った」
「本気で?」
「うん。だってあいつは、母さんをエヴァなんかにして、トウジだって殺そうとしたんだ。僕もずっとほおっておかれて、呼び出されたと思ったら使徒と命がけで戦わされた。アスカにもひどいことをした。綾波だって可哀想だ。きっとまだまだたくさんひどいことをしているに決まってる。だから殺したいと思う。……たぶん、実行する勇気はないけどね」
「あたしはね……」
 顔を膝に埋める。
「まだママが好き。何度もひどいことされたけど、それでも好きなの。あんな姿になっちゃっても、それでもいいから私のことを見てもらいたい。カッコ悪かろうがなんだろうが、すがってでもいいから見てもらいたかったの。結局、あのざまだけどね。ひどいでしょ。本気で殺そうとするんだからさ」
 自嘲がたっぷりとつまった、くすくす笑いが聞こえた。わずかな沈黙のあとで、アスカは小さく言った。
「……シンジ。キスしよっか」
 なぜか驚きは感じない。
 ああ、やっぱりな、という気持ちのほうが大きかった。
 たぶんミサトもこうなることを薄々予感していたのではないだろうか。その上で判断をシンジに委ね、自分は自分の責任を果たしに行ったのだ。
 頭に血が昇っていた。
 呼吸もどうしようもないくらいに苦しい。
 冷静にならなければいけないのに、欲望だけが尖って、まともにものを考えられない。
 結局、ぎこちなくうなずいてしまった。
「こっち」
 ぽんぽんと、アスカがソファーのとなりを叩いた。
 腰掛けると、アスカの顔が目の前にある。
 息は鼻でするんだよな――そんなことを考えているうちに、ぐっと唇を押し付けられる。甘かったりはしない。ぐいぐいと力任せに身体を押し付けてくるようなキスだった。
 痛くて苦しくて、ぷはっ! と顔を離すと、アスカはそのまま抱きついてきた。
「バカシンジなんて、大っ嫌いなのに。――何してんだろ……あたし……みっとも、ない……」
 ぐすっ、と鼻をすすった。
「もう、やだ……情け、なくて……うっ……く……」
 アスカは泣いていた。耳元でその嗚咽だけが聞こえてくる。
 シンジはたっぷりと血が集まってしまった頭で、なぜ泣いているのか必死で考えていた。
「アスカ……どうしたの、ねえ」
「だって……ふっ……く……うう」
 背中に回した腕に、力が込められる。
「あたしのこと、ぐすっ、好きにして、ずず、いいから……ぐしゅ……そばに、いてよ、シンジ。もう、ひどい、こと、しないで……優しく、してよ……ひぅ……殺さ……ひっ……ないで……」
「アスカ――!」
 肩を掴んで引き離そうとしたが、逆にもう一度、唇を押し付けられた。
 ひたすらにぶつけるような接触。それは塩辛い味がした。アスカの涙の味だ。それがシンジを正気にさせた。
 これは駄目だ。違う。こんなことでは、アスカは絶対に求めるものを得られない。
 アスカは全体重をかけてシンジを押し倒した。そして滅茶苦茶に唇を押し付けてくる。それはキスではなかった。子供が親の手を必死で握り締めるのに近い。それだけしかすがるものがないからそうする――ただそれだけなのだ。
 どうするのが一番いいのか、やっとわかった。
 ぐっとアスカを押し返す。重い。上半身を起こしたときには、かなり疲れていた。もうちょっと身体を鍛えたほうがいいなと思う。
「アスカ。綾波のところに行こうよ」
 ぐしぐしと眼をこすっているアスカ。
「……ぐすっ……なんで?」
「そのほうがいいと思うんだ。僕がいっしょにいてあげてもいいけど、たぶん綾波のほうが話しやすいだろ。そうしようよ」
「あたしのこと……やっぱり……嫌いなんだ」
 ぼろぼろと涙を零しはじめた。冷静になってみると、まるっきり子供だ。
 普段からこうだと、かわいいし、殴られなくていいのだが。
「そうじゃないってば。アスカのために、そのほうが良いと思うんだよ。ね? 泣くのやめて、行こうよ」
 さんざんなだめすかして、ようやくアスカをその気にさせた。
 しかし、立ち上がろうとして、それが不可能だったことに気づく。
 シンジは慌ててアスカに言った。
「そうだ。顔洗ってきなよ。泣いたから目元も真っ赤だしさ」
「うん……」
 アスカが洗面所に消えたことを確認して、九九の暗算をはじめた。
 心と身体は別物なのだ。いろいろと大変である。
<がんばれ男の子>
「うるさいよ……」
 <彼>を本気で殴りたかった。


 レイの住む郊外のマンションに辿り着いたときには、十一時をとっくにまわっていた。
 ここまで徒歩で三十分少々。はじめはぴったりとシンジにくっついていたアスカが、少しずつ身体を離していった。正気に戻ったのだろう。それをすこし寂しく感じる。
 呼び鈴を鳴らしてしばらく待つと、パタパタという足音。鍵を外す音もした。
 以前に比べるとずいぶん進歩したらしい。前にここに来たときには呼び鈴が壊れていて、鍵も開け放しだったのだ。
 レイはワイシャツ一枚という、しどけない姿だった。
 どことなく目つきが悪い。二人をじっとにらみつけるようにしている。
「あなたたち……誰」
 アスカがおでこにチョップを一発入れた。いきなりだ。レイはぱちぱちと赤い眼を二度しばたいた。
「……アスカ、と、碇……君」
 わかった。
 すっかり寝ぼけているのだ。


「この女はね、夜は十時に寝て、朝は五時に起きるという幼稚園児のような女なの」
 レイは堅い床に座り込んだまま、ぐるぐると首を回していた。完全に意識が飛んでいる。
 アスカがぺちっとおでこを叩くと、しばらくの間だけ目を覚ました。
「前にも、これで散々苦労したっけ。すっかり忘れてたわ」
 レイが、赤い瞳でアスカを見た。
「アスカ……いつ来たの」
「さっきよ。これ飲みなさい。眼ぇ覚まして」
 つめたく冷えたウーロン茶を手渡す。
「……いらない。寝る前に冷たいものを飲んじゃいけないって、碇司令が」
「飲めってぇの」
 白いほっぺたに押し付けると、レイは嫌がって暴れた。アスカはそれでもしつこく押し付ける。
 シンジは、なにか見てはいけないものを見てしまった気分だった。


 一時間ほどで、もう寝ようかということになった。
 アスカとレイは二人でベッド。
 シンジは冷たい床に毛布一枚である。不公平を感じたが、所詮のけ者と涙を飲んだ。
「私のベッドなのに」
 不満を漏らすレイをぐいぐいと押し込んで、アスカは自分のスペースを確保。布団を二人の身体にかけると、ぽんぽんと皺を伸ばした。
「電気消してよ、シンジ」
 溜息ひとつで立ち上がる。
 その視界の隅に、鏡台の上に立ち並ぶ奇怪な物体が映った。
 赤ベコが五つ。
 いや。赤いのはひとつだけで、それ以外は不器用な筆使いで色違いに塗り替えられていた。
 左から青、赤、白、黄、黒。
「ねえ、綾波。この赤ベコ、どうしたの」
 ひとつはミサトの隠し財産を黙って拝借したものだ。以前、シンクロ・テスト中にこれが原因でアスカとトウジが喧嘩をしたことがあり、そのときにリツコが持ち出してきたものをレイが引き取ったのだ。
 しかし、残りの四つはいったいどうやって増殖したというのか。
「……ヒカリから、もらったの」
 よく見れば、黒だけが色の塗り方が達者だった。これは洞木さんが塗ったんだろうなと納得する。
 青ベコが誰なのかを考えると、少し嬉しかった。
「じゃあ、消すよ」
 いきなり真っ暗になった。
 手探りで毛布を探し出し、ごろりと横になる。床に当たっている部分が冷たくて痛い。明日の朝は筋肉痛でつらそうだ。
 ぼそぼそとアスカがレイに話しかけているのが漏れ聞こえた。どうでもいいような話題。『シンジのやつ、あれは男としてダメね』とか、『度胸がないのよ度胸が』など、ところどころでシンジの名前も出る。しかしあえて無視を決め込んだ。口を挟むべきではないだろうと思う。母親のこと、エヴァのこと、チルドレン登録を凍結されたこと、シンクロできないこと、そういった不安も時々漏らす。『うん』『そう』といったレイの相槌はまばらで、もしかするととっくに寝てしまっているのかもしれない。
 そのうちに泣き声が混じり始めた。聴こえないふりをする。ぐしゅぐしゅと鼻をすすり、ティッシュを抜く音がして思い切り鼻をかんだ。たぶんそのまま投げ捨てたのだろう。何かがシンジに当たって、部屋の隅に転がっていく。
 とにかくアスカは喋り、ごそごそとレイに身を寄せ、レイは黙ったまま。
 ときどき嗚咽を漏らして、丸めたティッシュも飛んでくる。
 そんな声や物音を遠くに聞いているうちに、シンジは知らずに眠りに落ちていた。


 翌朝。
 アスカはすっかり元気で、シンジは筋肉痛。レイは寝不足でお花畑だった。


    ◇◆◇


 順番で洗面所を使い、買い置きの七色レトルトセットで朝食を取って、晴天だったからアスカが布団を干した。
 窓を開け放って、シンジは軽く掃除を始める。レイは剥き出しのベッドの上でそれを見学しながら、うたた寝を繰り返していた。
 冷蔵庫は空で、洗濯物は山積み。そして生活用品は必要最低限しかない。
 シンジはアスカと相談して、レイの生活向上委員会を結成。
 三人で必要品の買出しに出かけた。当然のように荷物もちを仰せつかったシンジは、筋肉痛に悲鳴をあげて、やっぱりもうすこし身体を鍛えようと心に誓う。
 夕飯はシンジが作った。
 がんばったかいがあって、かなりの好評。
 レイに料理の基本を伝授しているうちに時間が過ぎて、寝ることにした。
 やっぱりシンジは床で、毛布が一枚。
 アスカは少しだけ泣いて、ティッシュは飛んでこなかった。
 そして翌日の陽が昇るより早く。

 ――シンジと<彼>は行動を開始した。


 今の日本で拳銃を手に入れることは、それほど難しいことではないらしい。
 入れ替わって二時間後に、<彼>は一丁の拳銃を手にしていた。
 SIG SAUER P239。戦自が正式採用している9mmオートを横流ししたものだという。予備のマガジン4つを含め、シンジの預金は確実に一桁減ってしまった。
「用心にね」
 <彼>は慣れない手つきでそれをヒップホルスターにおさめる。
 司令・副司令ともに特別査問委員会に呼び出されて不在になっているいまは、行動を起こすには最高のタイミングだった。もうシンジに迷いはない。アスカやレイ、トウジのためにも自分にできることをやるべきなのだ。<彼>に身体を貸し与えながら、シンジはそのことを再度心に誓っていた。
 NERV本部への侵入に、シンジのIDは使わなかった。
 携帯端末に接続した偽造IDカードで、シンジのIDを起点にして作り上げたランダムなIDを通す。
 メインゲートは驚くほど簡単に開いた。
 <どこにいくの>
「MAGIに記録されていない情報があるところ、かな」
 それが、NERV総司令の執務室だった。
 奇妙な空間だった。
 闇と影で構成されたような天井と床に、不思議な図柄がぼうと光を放っている。
 樹のように見える。ところどころに巨大な丸い果実を実らせた、一本の巨木だった。
「セフィロトの樹だ」
 <なにそれ>
「カバラの秘儀だよ。僕も詳しくないけど、宇宙の本質を表現しているらしい」
 セフィロトの樹の頂点に当たる位置に、執務机が配置されている。
 <彼>はそこに歩み寄っていった。
「こんなものに囲まれて……。あの位置はね、神の座だよ。神へと至る道とも言われている」
 <――神気取りなんだな、父さん>
「神そのものじゃないんだ。神の源で、魂が神と結びつく場所。ケテルの座だよ。――少しわかってきた。それが父さんのやりたいことか」
 <どういうこと>
「もうちょっとまって。これで全部はっきりさせよう」
 執務机に埋め込まれている端末を起動させた。
 いくつかのロゴがスクリーンの中でくるりと回転し、丸々と太った羊と杖をバックに『SHEPHERD』の文字が表示された。それは端末ではなくスタンドアローンの第六世代有機コンピュータ。MAGIを別にすれば、これに勝るコンピュータは世界に存在しない。通常ならば企業単位で購入するようなシロモノだが、ゲンドウはそれを個人で使用していたのだ。
「まいったな。これじゃ、セキュリティが突破できない――」
 しばらく悩み、<彼>は携帯端末から伸ばしたケーブルを、卓上のスロットに差し込んだ。忙しく指が踊る。
 <どうする気さ>
「MAGIにやらせる。うまくいくといいけど」
 SHEPHERDのスクリーンが一瞬乱れた。画像が消え、黒い背景に文字だけがものすごい速さで流れていく。
 MAGIがSHEPHERDにハッキングを仕掛けていた。
 スクリーンの下部が赤く輝き、『自立制御の喪失を検知 自滅プロセスを実行します』という文字を表示。ほとんど同時に青い画面に塗り替えられ、『否認 プロセスの廃棄を進言』と言う文字に置き換えられる。
 それが何百回となく繰り返され、最後になにごとも無かったかのように通常のオペレーション画面が表示された。
 <やった……の>
「うん。あとは、目的のデータを――これだ!」

『THE DEAD SEA SCROLLS』

 それが死海文書だった。
「ここにあるはずなんだ。なにもかも。僕の世界をセカンドインパクトから救う道も、君の世界が一体どこに向かっているのかという答えも」
 <彼>は興奮にかすれた声で囁くように言う。
 ファイルを開いた。鮮明な巻物の写真と、その下にドイツ語らしき文字がびっしりと書き込まれている。それが何十ページにも渡って続いていた。
 <読めないよ、これじゃ>
「……なんとか……原文のヘブライ語は無理だけど、こっちにドイツ語の対訳がついてるんだ。アスカがいてくれれば……もっと楽に……」
 <彼>の声は小さくなっていき、完全に死海文書の内容に心を奪われていた。
 シンジも文章こそ読めないものの、巻物のところどころに書き込まれている図形や絵柄に魅入った。なにか自分にもわかるかもしれないと思ったからだ。
 NERVやそのバックに存在するゼーレが預言書として崇める書物。その印象は、預言書などという曖昧模糊としたものではなかった。
 丁寧に整理された図柄は、理論立てて並べられているのがわかる。
 そこから感じるのは明確な意思であった。
 なにかを包み隠さずに説明しようという、整然とした理性が存在しているのだ。
 シンジの預言書というものに対する印象は、詩的な表現に包んだ婉曲な散文というものだ。しかし、この死海文書は違う。一から十まで、すべてが鋭利な知性に貫かれている事がひしひしと感じられる。
 <彼>が驚きにかすれた声をしぼりだした。
「――なんだよ、これ……。これじゃまるで――」
「そこで、なにをしている」
 いきなりだった。
 <彼>が連続する驚愕に麻痺したように顔を上げる。
 そこに碇ゲンドウがいた。
 黒い眼鏡が、闇の中でなお黒く浮かび上がっている。
 <父さん!>
「……父さん。帰ってたのか」
「なにをしていると訊いている。シンジ、ここはおまえのいていい場所ではない」
 <彼>が叫んだ。
「これはなんだよ、父さん! 裏死海文書だって!? これは預言書なんかじゃない! マニュアルじゃないか! 人工進化機構ってなんだ! 答えろよ!」
 <彼>は腰のP239を引き抜き、ゲンドウを照準に納めた。
 ゲンドウはそれでも身動きすらしない。しかし、黒い眼鏡がさらに闇に染まったように見えた。
「……読んだのか、それを。不可能だな。シンジには無理だ。しかもその意味するところを理解するなどありえん。――おまえは、シンジではないのか」
 轟音がとどろいた。P239の銃口から薄い煙が立ち昇る。威嚇射撃だった。
「答えろ! 次は当てる!」
「――そうか。俺のシナリオに介入していたのはおまえだな。何者だ。なぜシンジの姿をしている。いや、まさか……」
 ゲンドウの声が揺れた。何かの可能性に辿り着いた――そんな空気を感じる。
 ゲンドウがこちらに向かって一歩踏み出す。<彼>の指がぴくりと反応したのと同時に、ゲンドウが右手を上げて制した。
「撃つな。ひとつだけ俺の質問に答えろ。その答えによっては、おまえの知りたいことを教えてやってもいい」
「……ひとつなら」
「あれは……ユイは……生きているのか」
 何かを恐れるかのような声。しかしシンジにも<彼>にも、その質問の意味が理解できなかった。
「母さんは……エヴァに溶けたんだろう?」
「そのユイでは……ない……」
 くいっと黒い眼鏡を押し上げる。
「――ふっ、わからぬか。当然だな。俺もなにを馬鹿な……」
 <彼>はそのとき、しびれるような予感を覚えていた。
 この一瞬――
 この一瞬が、すべての分岐点になる――そんな予感だった。
「まって! <僕>の母さんなら……南極のジオフロントで、アダムの研究をしている。父さんと一緒にだ!」
 それは賭けだった。意味をなさない問いと、意味をなさない答え。
 その二つの出会いがなにをもたらすのか。それに賭けた。
 ゲンドウの全身に張り詰めていたものが、いっきに消えたように感じられた。
 黒い眼鏡を外す。その下から、今度こそ驚愕に見開かれた眼が現れた。それはシンジがはじめて見る父親の顔だった。
「おまえは……リリスの卵から来たのか」
「……そう言ってもいいかもしれない。僕はリリスにシンクロしてこの世界に来たからね」
「馬鹿な……ユイは……あいつは……ここまで計画を進めていたのか。リリスはすでに夢を見ていたのか。……信じられん」
「どういう意味だよ。説明してくれるはずだよな、父さん」
 P239をピタリとゲンドウの眉間に向けた。しかしゲンドウの答えは、<彼>の眉をひそませるものだった。
「……教えて……やる。おまえがなんなのか……なぜここにいるのか」
「僕がなんなのか? そんなことじゃない。僕が知りたいのは、この裏死海文書の――」
「自分の存在の意味がわかっていないようだな。聞け、シンジ。おまえが欲する真実は、おまえの存在そのものにある。――俺の言うファイルを開け」
 ゲンドウが三つのファイル名を言い並べた。
 銃口を動かさず、<彼>は左腕でSHEPHERDを操った。暗い部屋の中央に、三つの投影型ウィンドウが表示される。
『人類補完計画』という文字が中央に書かれ、その上に『極秘』という赤い印が押された三つの計画書類だった。
「人類補完計画――この言葉は知っているか」
 <彼>がうなずく。ゲンドウは静かに続けた。
「人類補完計画には三つの顔があるのだ。ひとつはゼーレの老人たちが画策する、人類を原初なる母神へと回帰させる計画――」
 スクリーンの中で、右端の書類がめくられる。
「これは智恵の実を神へと返却し、ヒトをエデンへと至らせる道だ。ゼーレとそれに操られるNERVは、このシナリオによって動いている。ヒトはエデンへと回帰し、母なる神の元で永遠の生を取り戻す。死海文書には、本来のヒトの形が記述されていたからな。それが老人どもの計画だ」
 ゲンドウに促され、<彼>が中央の計画書を開く。
「これは俺が目指すシナリオだ。その概要は、父なる神との融合。ヒトは神の元でひとつとなり、安らぎをえる。エヴァ初号機のコアを魂の器とすることで、俺も求めるものをえることができる。そのためのアダムだ」
 ゲンドウが右腕の黒い手袋を外した。
 それを見て、シンジも<彼>も同様に驚きに包まれた。
 ゲンドウの手の甲に、胎児のようなものが癒着していた。閉じられた瞼の下で、瞳がぐりぐりと動いているのがわかる。生きているのだ。
「なんだよ、それ……」
「アダムの肉片から作り上げたコピーだ。俺はこれを使う。始まりであり終わりの使徒アダム・カドモンだよ」
「父さん……いったい、なにが目的で……」
 ゲンドウは小さく嘲笑を漏らした。
「それは知る必要はあるまい。これをリリスと接触させサードインパクトを起こせば、俺が新たな元型となることができる。ヒトは神と融合し、心を満たす。それが俺のシナリオだ」
 そして最後の計画書が開かれた。
「これが三つ目の顔だ。これを計画したのは――ユイだ。あいつは魂の補完と呼んでいたな」
「母さんが……?」
「ああ。もともとは俺もこの計画のために動いていたのだ。しかしユイを失い、その意味も薄れた。一言でいうならば、この計画は神からの脱却。ヒトの心を次のステップへと進化させる計画だ。そのために必要だったのが、新たなる元型となりうる、満たされた魂の持ち主だった。俺たちはそれを探し、ついには見つけ出すことができずにいたのだ。セカンドインパクトの直後だったからな。誰もが心に傷を負い、魂を欠けさせていたよ。そしてユイは決意したのだ。見つからないのであれば、創りだせばよいと――」
 不吉な声色に<彼>は怯んだ。その先に続く言葉を半ば予期していたかもしれない。全身が震えた。
「――それが――おまえだ――。リリスの夢から生まれた満ちた月……ユイが産み落とした理想たる魂。ユイが目指した魂の補完のための依代だ」
 <彼>はP239を訓練されたフォームで構え直し、叫んだ。
「馬鹿げてる! そんなこと信じられるかよ! 僕は――僕は――!」
「おまえが生きてきた世界は素晴らしい場所だったか」
「あたりまえだ! 僕は僕の世界を救いたい! だからここにいるんだ!」
「素晴らしい仲間。優しい両親。希望に満ちた未来、か。――ユイは自分が幸せと感じていたすべてをリリスの夢に注ぎ込んでいた。そこから満ちた魂が生まれることを祈ってな」
「黙れ! 僕が知りたいのはそんなことじゃない! 人工進化機構ってなんだ! セカンドインパクトとはなんだったんだ!」
 ゲンドウは囁くように続けた。
「おまえを依代とすることで、リリスの夢を現実にすることができるかも知れん。集合的無意識の改変による魂の補完と未来の再選択――そうか、ユイ――おまえはそれを望むのか……だが……俺は……」
「答えろっ――!」
 ゲンドウはゆっくりと黒い眼鏡をかけなおした。
 それは周りのすべてを遮断し、自分独りで突き進むことをあらためて決意したような――そんな意思表示のように感じられた。
「ここまでだ、シンジ。俺の望む未来に、おまえの存在は障害にしかならん。去れ。これ以上俺のシナリオに干渉するというのであれば、イレギュラーとして排除せねばならん」
 <彼>が脅すようにP239の銃口を突き出す。
「ふざけるな! こんな中途半端な説明で納得できるか!」
 一歩、二歩とゲンドウに詰め寄っていく。そのとき<彼>の頭の中で、唐突にシンジが言った。
 <僕と入れ替わって>
「なぜ! いまは駄目だ!」
 驚きのあまり声を出して返事をしてしまう。
 <僕も父さんに訊きたいことがある。身体を返してよ>
「待っ……!」
 それは以前のシンジからは信じられないほどに強い意志だった。<彼>と比較すればはるかに脆弱ではあったが、それでも抗う力はある。必死に喰らいついて来るシンジの意思に、<彼>は折れた。
「わかった。姿勢を変化させず、銃口も動かしちゃいけない。いいね」
 了解の意思を受け、<彼>は瞼をおろす。再び開いたそのとき、その瞳には揺れる感情が垣間見られた。その変化をゲンドウは敏感に察知していた。
「おまえは……シンジ……なのか」
 銃を持つ手が震えている。しかしその銃口がゲンドウの体から外されることはなかった。
「そうだよ、父さん。教えてよ。父さんは母さんを裏切ったの? なんで母さんの計画を捨てたんだよ。母さんを利用してエヴァなんてものにまでして……それなのに――母さんを裏切ったの?」
 腕だけでなく全身が小刻みに震えていた。しかしその声だけは奇妙に平坦で瞳には激情寸前の炎が燃え上がろうとしている。それが爆発したとき、おそらくシンジは躊躇なく引き金をひく。<彼>はそれを察知し、叫んだ。
 <ダメだ! よせ!>
 その声と同時だった――耳を劈く轟音と共に激しく地面が振動した。
 それは第十四使徒ゼルエルの襲来を告げる鬨の声であった。


 「最後の使徒」は後に「最悪の使徒」と呼ばれ、第十四使徒は「最強の使徒」と呼ばれるようになる。
 この日を最後に、シンジや<彼>の日常は失われた。


作者"ぼろぼろ"様へのメール/小説の感想はこちら。
maks@dd.iij4u.or.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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