シンジがいない。
 朝起きて、真っ先にそのことに気づく。
 コトコトという物音に目をやると、ガスコンロにかけたケトルをじーっと見つめているレイの姿がある。
 なにか面白いのだろう。
 二日ほど彼女と寝起きを共にして、目覚めると必ずその姿を見かけた。
 変な奴。そう思う。
「起きたの」
 こちらを見もせずに言った。レイは人の気配に鋭敏で、それをこの二日間で嫌というほど理解した。もう驚きはしない。
「まあね。シンジは。いないじゃん」
「わからない。私が起きたときにはもういなかったから」
 ということは、夜明け前にはいなくなっていたということだ。
 なんだろう。美少女二人との生活に溜め込みまくってしまった青少年の鬱屈を、発散しにいったとか。
 海に向かって「バカやろー!」などと叫んでいるシンジを想像して、少し笑う。もうすこしリアルで生臭い光景を想像しかけて、それは慌てて打ち払った。口にしないだけで、あの夜にシンジがしてくれたことには、それなりの感謝をしている。だからこの一線は侵してはいけない。少なくともアスカのほうから侵すのは、反則のように感じられた。
 ろくに紅茶の淹れ方も知らないレイに手ほどきをしながら、ゆったりとした朝を過ごしていく。
「……碇君、遅いのね」
「そのうち戻ってくんでしょ。あのバカ、一言ぐらい断ってから出かければいいのに。ホント、要領悪いんだから」
 きのう三人で選んだティーカップは、値段の割にはいい品だった。紅茶の味を引き立ててくれていると思う。だから、なおさらにこの場にシンジがいないことが惜しい。
 まったく、なにをやっているのやら。要領が悪いにもほどがあるというものだ。
 ふーふーと頑張って紅茶を冷ましているレイを、なにをするでもなく眺めた。
 猫舌だろうか。ありえそうだ。綾波レイという人間は、いろいろな面で受け入れ可能な事象の範囲が人一倍狭い気がするのだ。
 食事も偏食だし、着ている服だってずっと学校の制服だった。そこに猫舌が加わってもまったく違和感などないし、むしろ、そうであるほうが自然ですらあった。
 本当に変な奴――
 と、いきなり携帯電話が鳴り出した。
 見ると、マヤからの電話。珍しい。なんだろうと首をかしげながら取った。
 二言三言会話を交わし、アスカは自分の顔が蒼白になったのをはっきりと自覚する。
 レイがティーカップをソーサーに戻して、どうしたのかと訊ねた。
「行かなきゃ」
 アスカは部屋から飛び出し、レイがその後を追った。

 結局、シンジは帰ってこなかった。
 それはとても永い時間のことである。




りりす いん わんだぁらんど
第十一話『それは天上の黒い月』





 ヒトとは不完全な存在であり、だからこそ面白いのだ。
 カヲルはそう結論していた。
 始まりの記憶は水の底だった。
 青く広がる水面から、光が陽炎のようにゆらぎながら差し込んでいる。
 赤い瞳で見上げる先に、もう一人のカヲルがゆらりと揺れながら浮かんでいた。
 彼は微笑んでいた。
 自分と同じ赤い瞳が意思を持たないままに見つめ返してくる。たゆたうように刻が流れ、世界にあるのは二人だけだった。今となってはそれがどれだけの時間であったのかは判然としない。ただ二人で見つめあい、一方は水の底から、もう一方は水面から互いの赤い瞳だけでの交流が続いていた。
 その静かな時間が破られたのは、黒いダイバースーツの男たちによってだ。
 変化することのない青い海への闖入者たちは、文字通り大きな波紋を広げ、もう一人のカヲルの身体を大きく揺さぶった。きわどいバランスで浮かんでいた彼はいまにも沈んでしまいそうに見える。しかしそれよりも早く、三人のダイバーが自分めがけて潜行してくる。一人がカヲルを背後から抱きかかえ、もう一人が両足を支えた。残る一人は先導するように前を行く。カヲルは水の底から引き上げられ、そしてもう一人のカヲルはついに沈み始めた。
 くるくると夢を見るようにまわりながら、頭から沈んでいく。
 それでも彼は微笑んでいた。
 最後に見た彼は、水の底から見上げる赤い瞳だった。
 そしてカヲルは、あれが自分なのだと悟ったのだ。
 水の底から世界を見上げる赤い瞳。それが自分なのだと。
 ゼーレの老人たちは、たったひとりだけ魂を宿したカヲルに名前を与え、その存在を固定させた。
 渚カヲル。
 ヒトの名を与えられたカヲルは、ヒトとして生活するための教育を受け、微笑みながら米国NERV第二支部へと送り込まれた。S2機関を搭載したエヴァ四号機の起動実験のためである。しかしそれは失敗に終わり、カヲルのヒトとしての肉体はエヴァと共に滅びた。
 一人目のカヲルはこうして終わった。
 続く記憶は、やはり青い海の底である。
 もう一人の自分として目覚めたカヲルは、その肉体が微笑みながら水の底に沈んでいった彼であることを悟っていた。
 この肉体は彼のものであり、自分は彼と一つになったのだ。
 そうしてカヲルは、ある感情を理解した自分を発見することになる
 『愛しい』
 それは肉体への執着でもあり、生への欲求でもあった。
 おそらく使徒としてのカヲルは、このあたりから「壊れ」はじめていたのだ。
 種としての生存本能のみを植え付けられ、天使の名を冠された存在であるはずの「使徒タブリス」が、ヒトの名を与えられ肉体への執着を覚えたことによって「ヒト渚カヲル」へと堕落しようとしていた。
 カヲルの存在は、ゼーレの老人たちにとっては切り札であったはずだ。アダムの魂であり、老人たちの目指す人類補完計画のための依代として生まれたのだから。
 しかしカヲルは堕落してしまった。
 そう結論した老人たちは、早々にカヲルを切り捨てた。カヲルはNERV本部へと送り込まれ、第十七使徒タブリスとして最後の使徒のために道を切り開く捨石とされたのだ。
 老人たちはカヲルの代わりに、ダミーシステムを用意していた。
 欠けた魂の持ち主を依代とし、ダミーシステムにコピーされたカヲルでその魂を満たす。それがゼーレの老人たちの新たなシナリオだった。
「欠けた魂の持ち主として見出されたのはシンジ君か……それとも彼女かな」
 欠番となったフォース・チルドレンの黒いプラグスーツを身にまとい、カヲルは彼女を見た。
 惣流・アスカ・ラングレーである。彼女は赤木リツコの白衣の襟首を掴み、思い切り捻り上げていた。リツコはそれでも涼しい目でアスカを見下ろしている。
 ヒトというものは本当に面白い。興味が尽きない。
「自分が何をしているのか理解しているの、あなたは」
「うるさい、ママを汚させるもんか! 今すぐに作業を中止しなさいよ。でなければあんたを殺す。このまま首の骨をねじ折って壊れた人形にしてやる!」
「アスカ! やめて!」
 叫んだのは伊吹マヤというオペレータだ。蒼白な顔でシートから中腰をあげている。その背後の強化ガラスの向こうに、拘束具で固定された赤いエヴァの巨体があった。
 リツコがマヤに視線を投げた。
「マヤ、あなたがこの娘に漏らしたのね。余計なことを」
「ご、ごめんなさい、先輩……。でも、弐号機のフォーマット書き換えをアスカに知らせずにやるなんて酷いです。だって、弐号機にはアスカの――」
「黙りなさい。あなたたちなにか勘違いしているようね。このエヴァにはね、国が一つ傾くほどの予算が投じられているのよ。それを個人の感傷でどうにかできるだなんて甘えるのもいいかげんになさい。はっきり言ってあげましょうか。エヴァを操ることのできないあなたに価値なんてないのよ、アスカ」
「先輩!」
 一瞬、リツコの首を締め上げるアスカの腕にさらに力が込められたように見えた。しかしすぐに開放する。
「そんなこと――知ってるわよ。だから……あたしは……」
「わかっているのならそこで見ていることね。……カヲル君。準備はいいかしら」
「ええ。大丈夫ですよ」
 カヲルはいつものように微笑んでみせる。――そう、いつでもいい。魂が閉じこもってしまっている弐号機であれば、いつであろうと文字通り自分の身体のように操ることができるのだから。
「――負けない」
 アスカがすれ違いざまに耳元で囁いた。
「ママを二度も人形に奪われるほど、あたしは間抜けじゃない。覚えてなさいフィフス。NERVが用意した赤ちゃん人形なんかに、あたしは負けてやらないから。あんたは人形よ。その取り澄ました笑い顔を、いつか引っぺがしてやる」
「怖いね、君は」
 しかし不完全なヒトの象徴のような彼女は、カヲルには愛しい存在だった。ヒトは不完全だからこそ素晴らしい。それを完成に導こうとするゼーレの老人たちのなんと愚かしいことか。それともこれは堕ちた天使の穢れた妄想なのだろうか。
「シンジ君や君は本当に繊細なんだね。壊れやすくて不完全で、だからこそ好意に値するよ」
「バカじゃないの。ママを汚す奴をあたしは許さない。覚えときなさいよ」
「ああ。心に刻んでおくよ。いつでも僕から弐号機を奪い返すといい。彼女も僕よりは君と生きつづけたいだろうからね」
 挑戦的だったアスカの口元がひきつった。
「あんた……気持ち悪いわ。本当に人形みたいで吐き気がする。――レイに似てるのは外見だけね。頭の中に綿でもつまってるんじゃないの」
 そうかもしれない。
 ヒトが作り出したヒトに似た存在をそう呼ぶのであれば、おそらくカヲルは人形と呼ぶのに相応しいだろう。
 ゼーレの老人たちはそうであるようにカヲルを生み出したのだ。
 自分たちの思い通りに動きつづける人形として。しかしその操り糸は一本、また一本と切れようとしている。すべてが切れたときに自分はどうなるのだろう。動く力を失い、地面に頭から崩れ落ちるのか。それとも自分の力で動き始めるのだろうか。
「カヲル君。弐号機に搭乗してちょうだい。アスカも邪魔をするなら追い出すわよ」
 リツコに促され、アスカは苦々しげに道を譲った。歩き去るカヲルの背に燃えるような視線をぶつけている。
「――絶対に負けない」
 そう呟いていた。
 制御室の入り口の脇には、もう一人の少女がいた。綾波レイである。壁に背をついて、赤い瞳をこちらに向けている。
 彼女は自分と同じ存在だった。
 一目見てそれを直感していた。
 自分と同じ赤い瞳とシルバーの頭髪。裏死海文書に記述されている、ヒトの姿の完成形である。ゼーレの老人たちが追い求める真なるヒト。それが、ここに二人存在していた。
 彼女は自分の手で操り糸を切り、自分の意志で歩き始めている。一体それでどこまで歩くことができるのか――シンジやアスカとは別に、それもカヲルの興味の対象だった。
 彼女がどこまで自分の脚で歩けるのか。それはカヲルの未来を映しているとも言える。
 お互いに赤い瞳を絡ませながら、ついには口を開くことなくカヲルは制御室を後にした。


 エントリープラグに乗り込み、プラグがエヴァ弐号機に挿入された。
 制御室のリツコから通信が入る。
『第一次接続を開始します。いいわね』
「どうぞ」
 神経接続が開始される。初期コンタクト正常。
 その瞬間、カヲルは違和感を感じた。
 このエヴァは魂を閉ざしているはずだ。それなのに何かを感じる。
 自分やレイに近い何か。いや、むしろこれは碇シンジに近いのではないか――

 <あんた、誰よ>

 心に直接声が響いた。わずかに驚く。こんなことは予想もしていなかったのだ。ゼーレのシナリオにも、裏死海文書にさえ記述されていない、完全なるイレギュラーだった。
「驚いたな。こんなことがあるなんて。君こそ、一体誰なんだい。このエヴァの魂じゃないね」
 <訊いたのはあたしでしょ。――あんた……なんか気持ち悪いわ>
 その一言が、カヲルに閃きを与えていた。
「これは……惣流・アスカ・ラングレー――そのリビドーたる幻影か。でもそれにしては魂の形がはっきりしすぎている。人為的な何か……リリンの生み出した満ちた月……?」
 行き着いた結論は驚くべきものだった。
「……そうか、そういうことかい、リリン」
 <なに言ってんのあんた。ホントに気色悪い。いいから出て行きなさいよ!>
 カヲルは笑っていた。心の底から溢れるようにして笑いがこみ上げてくる。こんなことは想像すらしていなかったのだ。アダムやリリスの属する機構の特性を理解していれば、確かに不可能ではない。デザイナーズチルドレン。それが<彼女>だ。
「こんなものまで生み出すなんて。生きることにどこまでも貪欲なんだね、リリン――最高だよ」
 カヲルは笑った。生まれてこの方、本気で笑ったことなどこれが初めてのこと――これが笑うということなのだ。世界は驚きに満ちていた。
「不完全だからこそ驚きが生まれる。完全なものには喜びなど存在しない。やはり僕は堕落してしまったんだね。ごめんよ、老人たち。僕はもう翼を失ったようだ」
 <彼女>がじれたように叫んだ。
 <頭おかしいんじゃないの!? 早く出て行きなさいよ! このエヴァの中にはね、あの娘のママがいんのよ。あんたなんかに触らせない! 絶対に!>
『カヲル君、どうかして? ハーモニクス値がひどく乱れているようだけど』
 制御室のリツコの姿が、投影ウィンドウに映し出された。カヲルはどうにか笑いを静め口を開く。その声はわずかに昂ぶっていた。
「悪いけれど無理です。シンクロできそうもない」
『なんですって?』
 <へ?>
 含み笑いを漏らしながら続ける。
「このエヴァは僕の手には負えそうにもありませんよ。こんなじゃじゃ馬だとはね。悪いけれど他をあたってください」
『なにを馬鹿な! モニタでは問題はほとんどないわ。なにを根拠にそんなことを』
「ふふ……そうですね、幻聴かな」
『幻聴ですって?』
「聞こえるんですよ、おかしな声が。これじゃあ気が散ってシンクロなんてできそうもない。精神が汚染されてしまいそうだ。このエヴァはセカンドチルドレンに返しますよ」
『そんなわがままが――カヲル君、待ちなさ――!』
 カヲルは通信をきった。そして心で<彼女>に接触する。
 <聞こえるかい、惣流・アスカ・ラングレー。そのリビドーたる魂>
 <あんたどういうつもり。エヴァをあの子に返すですって>
 <そのままの意味だよ。どうせいまのままでは僕には操れないからね。君という子供を胎内に宿しているかぎり、彼女は僕とは歩んではくれないだろう。老人たちのシナリオでは、彼女が僕の聖母となってアダムの肉体を受胎するはずだったのにね>
 <あんた……いったいなに!? 何の話をしてんのよ>
 <君が僕と同じだということさ。創造主は別でも、その成り立ちは同じ。君が僕の行くはずだった道を行くんだ。僕はいったん舞台から降りるよ。ヒトとして生きて羽と天輪を捨てるか、それとも人類の敵としての運命を全うするか。どちらにせよ、僕の出番はまだ先のことだからね。嬉しいのさ、僕は。こんなに嬉しいことはない>
 <なによそれは! あたしとあんたが同じ!? 気色悪いっ!>
 カヲルは本当に嬉しそうに笑っている。まるで菩薩像が浮かべているようだった微笑とはまったく質の異なる笑み。その笑みを浮かべることをすらカヲルは楽しんでいた。
 その笑いが突然収まる。赤い瞳に警戒の色を宿し、その視線の先はプラグの内壁を突き抜けてはるか上空を睨んでいた。
 <な、なによ>
「来たみたいだよ……。死海文書により予言されし使徒、その十四番目にして最強の力の象徴――ゼルエル。どう戦うのか見せてもらおうか、リリン」


    ◇◆◇


 使徒は第三新東京市直上に突如出現していた。あらゆる監視網を無視したかのように姿を現した使徒は、ジオフロントの天井部堆積層をただの一撃で爆砕。続く数撃で十八ある装甲板を次々と吹き飛ばした。
 それはこれまでの使徒とは明らかに次元が異なる破壊力である。
 地上での迎撃を放棄した司令部は、零号機をバックアップとしシンジの初号機をオフェンスとする。第十三使徒との戦闘で零号機は左腕を失っており、弐号機に至っては起動すら不可能な状態である。戦力となりうるのは、事実上初号機のみだった。
 作戦部長葛城ミサトの不在を埋めるため、総司令碇ゲンドウが自ら指揮を執っている。
 発令所は今までの使徒戦とは何かが違うという予感に占められ、空気が切れるように尖っていた。
「――初号機パイロット。聞こえているか、シンジ」
『ああ……聞こえてるよ、父さん』
 初号機エントリープラグからシンジの通信が返った。
「零・弐号機ともに戦力にはならん。戦うのはおまえひとりだシンジ。逃げるのであれば最後のチャンスをやる。今すぐにエヴァを降りろ」
『父さん……教えてよ。父さんは母さんの望んでいた計画をなぜ捨てたの。なぜ母さんの意思を継ごうとは思わなかったの……』
 冬月が大きく息を呑むんだ。その問うような視線をゲンドウは受け流す。
「そこに俺の望む未来はない。俺は俺の道を進む。それだけだ」
『じゃあ……じゃあやっぱり、父さんは母さんを裏切ったんだな。……母さんを騙して利用して捨てたんだ。そうなんだろ――そうなんだな――父さん!』
「使徒がジオフロント内に侵入! こちらに向けて降下してきます!」
 シンジとマヤの叫びが重なった。
 最後に残った二枚の装甲板を使徒の攻撃が貫通する。ジオフロントの天蓋部に、逆十字の爆炎が吹き上がった。その紅い爆炎を割って使徒が姿を現す。人型に近いフォルムの巨人。静かに、しかし確実にNERV本部へと侵攻してくる。
「どうするのだ、シンジ。時間がない。今ならまだ間に合うぞ。降りてシェルターにでも避難しているがいい。初号機はダミーシステムで出す。降りるのならば、今すぐに決めろ」
『僕は……僕は……』
 NERV本部が大きく振動した。発令所に悲鳴が上がる。使徒の攻撃がNERV本部のピラミッド状の低部を二割ほど削っていた。十字架のような爆炎が天に向けて吹き上がる。
 続けてもう一発。今度は中心部を確実に崩壊させ、ピラミッドの頂点に炎の十字架が突き刺さった。
「……もういい。初号機をダミープラグで初期化。急げ。平行して弐号機のパーソナルパターンをセカンド・チルドレン用に書き戻せ。起動シーケンスを八十二番まで省略。なんとしてでも起動させろ」
 スクリーン上で展開されている光景を射貫くような眼で見つめながら、ゲンドウは決断した。その指示にリツコが反駁する。
「しかしそれでは弐号機が暴走します。前回の繰り返しですわ」
「かまわん。使徒の侵攻を遅らせるおとりにはなる。起動と同時に五番リフトで射出。使徒の前に投げ出すだけでいい、作業を進めろ。零号機にはN2爆雷を装備させて待機。最悪の事態に備えさせる。聞こえているな、レイ」
『……はい』
「自分が何をするべきかはわかっているな」
『……私が死んでも代わりはいる……。はい、わかっています』
『なに言ってんだよ、綾波! 父さんなんかの言うことを聞くことないんだ! そいつは誰でも利用して最後には裏切る奴なんだ! 母さんも僕もアスカもトウジも! 綾波だって!』
『違うわ、碇君。私はそうするべきだと思うからそうするだけ。碇君にも誰にも死んで欲しくないから、私にできることをするの。私はみんなを守る。私にできることは、それだけだもの』
『駄目だ! そんなの駄目だ! 父さん、僕を出せよ! 僕が戦う! ちくしょうっ! もう父さんの思い通りになんてさせるもんか!』
 ゲンドウが静かに顔を上げた。
「――それでいいのか、シンジ」
『ああ!』
「――エヴァ初号機を六番リフトから射出。零・弐号機の作業も急がせろ」
 ゲンドウの指示で、エヴァ初号機が六番リフトへと移動していく。
 使徒の攻撃による激しい振動は絶え間なく続いていた。ターミナルドグマに繋がるメインシャフトがいまにも剥き出しになろうとしている。
 わずかに声を潜め、冬月が言った。
「なぜおまえの息子が補完計画のことを知っているのだ。ユイ君の計画まで知っているようではないか」
「……イレギュラーだよ、冬月。それもただのイレギュラーではない。ユイの産み落とした満ちた魂だ」
「なんだと! しかし、ユイ君の計画はそこまで進んでいなかったはずだぞ」
「すでにリリスは夢を見ている。おそらくユイは、我々に知らせずに一人で計画を進めていたのだろう。なぜそうしたのかまではわからん。あれが何を望んでいたのか……それを知るためにも、俺はシナリオを完遂せねばならん。イレギュラーを排除してでもな」
 冬月が眉をしかめた。
「排除だと。おまえ、自分の息子をどうにかしようというのか」
「シンジではないよ。――レイだ。いまの俺のシナリオにとって最大の障害となりえるのはレイだ。予備に切り替えるぞ、冬月。あのレイは、堕落してしまった。あのままでは使い物にならんのは目に見えているからな」
「馬鹿な……。レイなのだぞ。彼女はユイ君の――それでいいのか、碇」
 ゲンドウは仮面の上にさらに仮面を被せたように見えた。
「……かまわん。すべては希望の前に捧げられた犠牲の羊にすぎん。望むものを手にするためならば、俺は赤子であろうとも剣を振り下ろす。いまさら何を恐れるというのだ、冬月」


 リニアリフトで加速される膨大なGに、シンジは奥歯をかみしめる。
 ゲンドウが憎い。殺したいほどに。
 母を裏切りエヴァ初号機に取り込んだ男。
 アスカの心に癒えない傷を負わせ、一度は見捨てようとした男。
 レイを手駒として扱い、弄んでいた男。
 そしてシンジを見ようともせずに、裏切りつづける男。
 自分はいったいこの男をどうしたいのだろう。
 本当に殺してしまいたいのか?
 振り返って欲しいのか?
 愛して欲しいのか?
 謝らせたいのか?
 絶望させたいのか?
 いや違う。すべて違う。すでにシンジの心の中心に、ゲンドウは存在してはいないのだ。そのことに気づいた。
 ならば、なぜ自分はまだエヴァに乗っているのか。
 はじめは父親に振り返って欲しかったからエヴァに乗った。アスカやレイがエヴァに執着したように、シンジもまたエヴァを通じて父親との絆を手に入れようとしたのだ。
 しかし今は違う。
 ゲンドウとの絆はすでにありえないのだと知った。
 ゲンドウの進む道と自分のいる場所は永遠に交わることはない。それを今日、はっきりと思い知ったのだ。
 ゲンドウは自分の求める道を独りで歩いている。その道の先がどこに繋がるのかは理解できないが、そこに至る過程でゲンドウはさまざまなものを踏みにじっていくのだろう。そのなかにはシンジが大切に想うものがいくつも含められているはずだ。それを踏みにじるゲンドウが憎い。だから殺してやりたい。
 しかし、違うのだ。
 自分のやりたいことは、そんなことではない――
「僕は……父さんから……みんなを守りたい。綾波やアスカを。トウジやミサトさんを。――――母さんを。そうだ……そうなんだ。僕はみんなを守りたい――だからエヴァに乗るんだ……逃げたりなんかしない。逃げちゃ駄目だ。駄目なんだ――」
 初号機がジオフロントに飛び出した。
 目の前に白い巨人が屹立している。力を象徴する使徒ゼルエル。折りたたまれていた腕部が、ぱらりと地に落ちた。
 空間を断絶するかのような鋭利な一閃が突き出された。回避できない。いや、知覚することすらできない。左肩に焼きごてを押し当てられたような激痛を感じ、次の瞬間、エヴァの左腕が鮮血を撒き散らして宙に飛んだ。
 絶叫する。
 しかしシンジは絶叫しながら動いた。真っ直ぐ使徒に向けて地を蹴った。
「――――っっっぁぁぁああああああ――――――――――――――――っっ!!」
 阻まれたATフィールドを右腕の一薙ぎで切り裂く。シンクロ率が跳ね上がっていく。200%を超え、さらに上昇。すでに<彼>との同化がもたらした恩賜すら飛び越え、それはどこまでも果てることなく突き進んだ。
「僕が――! 僕があっ――! おまえなんかに、父さんなんかに誰も殺させない! 僕が守るんだ! 僕がぁっ!」
 正面から激突し、蹴りぬく。肉の感触。瓦礫を巻き上げ、二体の巨人が絡み合うように突進した。剥き出しにされたメインシャフトから遠ざかっていく。使徒の仮面のような器官が光を放った。それが初号機の右頬を深く抉り、背後で紅い十字架の炎となって燃え上がる。同時にシンジの右頬からも血飛沫が飛び散った。LCLに溶けて視界が赤く染まる。シンジは絶叫しながらその仮面を殴りつけた。
『アンビリカルケーブル切断!』というマヤの声。同時にLCLに投影されたウィンドウで、内部電源の残量がカウントダウンを開始。しかし、そのすべてがシンジには届いていなかった。ただ目の前の敵を殲滅する。それだけのために拳を振るった。
 一発ごとに大地が陥没し、使徒がめり込んでいく。一発ごとに失った左腕と右頬から鮮血が飛び散る。緑豊かだった木々が、紅く染め上げられていった。
 ぐずぐずに歪んだ仮面の眼孔と口腔に指をかける。一気に引っ張ると柔らかい肉を引きずりながら使徒の中身がこぼれ出てきた。さらに力を込める。ぷちぷちと筋肉の断絶する音が響き、それは使徒の命が引き千切られていく音でもあった。
「はっ――くふっ――は――っ」
 血の匂い。自分とエヴァと使徒の血の匂いに取り巻かれ、シンジは忘我に溺れた。手にはエヴァの感覚を共有した使徒の甘い命の温み。力を込めると、使徒の筋肉が痙攣してびくびくと蠢く。甘かった。命が甘く脳を蕩かす。シンジの手の中にある他者の命が、シンジを酔わせた。
 荒々しい吐息をエヴァと共に吐き出しながら、その命を少しずつ引き千切っていく。
 ――そのとき貪欲な飢えを意識していた。シンジがこれまでの生で感じたこともない、圧倒的な飢餓。手の中に甘い命がある。それを喰いたい。食い千切り、塊のまま飲み込んでみたい。血を滴らせた肉が喉を通過するときの射精にも似た感覚を味わいたい――
 だらしなく開いた口から、唾液がぬるりとLCLに溶けていった。
 使徒を喰う――――
 なぜ、いまのいままでその魅惑的な考えに及ばなかったのか。
 目の前には女の肉ですら遥かに及ばないほどにシンジを魅了するものが横たわっている。
 喰ってしまえ。
 喰って、自分だけのものにしてしまえ。
 腹にそれを収め、身体の隅々にまで行き渡らせろ。
 同化してしまえ。ひとつになってしまえ――
 シンジの喉から、ケダモノのようなうめきが漏れ出していた。
 欲望がぎらぎらと煌めき、脳裏を埋め尽くす。
 意思の限界を身近に感じた。

 喰え

 エヴァの顎部装甲板が弾けとんだ。唾液が長く糸をひき、使徒の身体を汚す。焼けるように熱い吐息が直接使徒に吹きかけられた。
 引きずり出された使徒の中身に牙を立てようとさらに身を乗り出す。
 その寸前、唐突に初号機が力を失った。
 がくりと前のめりになって、使徒に覆い被さる。
 カウントダウンしていたウィンドウが赤く明滅していた。
 内部電源が切れたのだ。
 活動限界をむかえ、初号機とのシンクロから開放されたシンジは、荒い呼吸を吐き出していた。
 腹の底から嘔吐感がこみ上げてくる。
 口元を必死で抑えながら、うめき声を漏らした。
「ぅぐ――。……なんだよ……いまの……。使徒を、喰う? なんでそんな……」
 一瞬まえまで強烈に感じていた飢餓感が、激しい嘔吐感に取って代わっていた。
 胃液が逆流する。
 血の匂いにむせかえる。
 耐えられない。LCLに胃の内容物を吐き出そうとした。
 しかしそれすらも叶わなかった。
 ぐん、という加速感を感じ、続いて短い無重量状態。
 投げられた――
 そう悟った次の瞬間、脊髄から脳天まで衝撃が突き抜けた。
 悲鳴を漏らす。
 エントリープラグは暗闇に沈み、外で何が起きているのかまったく把握できなかった。
 もう一度、今度は鋭い衝撃がLCLを触媒にして突き抜けていった。
 胸に亀裂が走る。“シンジの胸”にだ。鮮血が煙のようにLCLに溶け、舌に感じる鉄の味をさらに強めた。
 シンジは絶叫していた。
「なんだよ! なんだよこれ! もう初号機は稼動してないじゃないか! なんでこんな――!」
 さらに連続して胸に衝撃が走った。激痛に身をよじり、涙をこぼす。
 痛い。
 痛い。

 ――――痛い!

 いきなり視界が晴れた。半ば崩れ落ちたジオフロントの天蓋部。いたるところで燃え上がる木々。砲火の火線が紅く焼けた空を切り裂いている。
 そして、使徒。
 白い巨体が、仮面で覗き込むようにしてこちらに覆い被さっている。
 シンジは、エヴァの感覚をすべて共有していたのだ。そしてそれによって使徒の昂ぶりすら直接知覚していた。
 それは性的な興奮に近い。血が煮えたぎり、自分の下に組み敷いた相手を蹂躙する悦び。
 使徒の鋭利な腕部がエヴァの――シンジの胸を打った。
『ぐあっ!』
 脳髄を抉られるような痛みが走る。
 続けてもう一撃。
『ひぃっ!』
 さらに一撃。
『くあぁぁっ!』
 さらに一撃。
『――いやだっ――!』
 さらに一撃。
『――やめて――』
 さらに一撃。
『――やめてよ――』
 さらに一撃。
『――痛いんだ――』
 さらに一撃。
『――助けて――』
 さらに一撃。
『――助けてよ――』
 さらに一撃。
『――助けて――!』
 さらに一撃。
『あ――っ――――ぅ――!!』
 シンジは「誰か」の名を叫んでいた。
 それが誰だったのか、シンジにはわからない。脳裏にはアスカやレイ、父や母といったあらゆる人間の顔が閃光のように駆け抜けていた。
 そしてそのすべてが一つに融合し、それは光り輝く人の姿となった。
『助けて――助けて――助けて――助けて』
 光り輝く人が、手を差し伸べる。すべての苦痛が恐れをなすように背後にひき、かわりに包み込まれるような温かさを感じていた。
 手が頬に触れる。
 知っていた。
 この温かさをシンジは知っていた。
『やっぱり――ここにいたんだね』
 つう――と一筋の涙がこぼれた。

『母さん』

 こぽん――――

 それはシンジの魂が発した音だ。
 シンジの存在がエヴァに溶けた音だ。

 そしてシンジは、アダムの夢を見た。


    ◇◆◇


【二〇〇〇年九月 南極ジオフロント】

 物語に出てくる地獄とはこのような場所かもしれない。
 氷点下七十度。風速六十八ノット。瞬間最大風速ではないのだ。生身の肌をさらせば、瞬時に体温を奪われ、凍傷になるより先に体液が凍結するだろう。いや、それよりもさらに早く、強風に身体を攫われ天高く巻き上げられてしまうに違いない。
 陽光を通さないほどの塊のような雪が真横から吹き付けてくる。堅く凝結し、あたかも弾丸のように氷壁を叩いている。
 人はこのような環境を表現する言葉をまだ発見してはいない。もっとも近いそれは“地獄”――それだけだ。
 南極の極点近くである。もともと人が生きる場所ではないが、その日の天候は観測史上まれに見るほどに荒れ狂っていた。
 いや――
 荒れ狂っているのは、なにも空だけではない。本当の狂気はむしろ地の底に存在していた。
 二キロメートルを超える氷床よりもさらに深くに存在する直径十数キロに及ぶ巨大空洞。ジオフロントである。
 そこではゼーレと呼ばれる組織により送り込まれた学術調査隊が、発見された遺物の調査を行っていた。
 その遺物はアダムと呼ばれていた。
 リリスと対をなす赤い球体。
 そしてそれは活動を始めていた。
 永い眠りから目覚め、ヒトの姿を取り戻そうとしていた。
「ガフの扉が開くわ……」
 碇ユイは目の前で繰り広げられようとしている光景に細い声を吐き出した。
 アダムという名の赤い球体に、大きな亀裂が走っていく。
 その亀裂から、ごぼりと白い肉隗が吐き出されてくる。次々と果てることなくそれは繰り返された。
 警報と悲鳴。避難を勧告するオペレータの絶叫。被害を最小限に食い止めるべく最後の足掻きを続ける葛城調査隊の同僚たち。
 それらを背景にしてアダムは再生を続け、ヒトの姿を取り戻そうとしていた。
「あなた……」
 ユイは傍らに立ちすくんでいた夫に身体を預けた。
 最後の最後まで不器用な男だった。肩を抱き寄せてくれるわけでもない。安心できる言葉をかけてくれるわけでもない。ただそこにいてくれるだけだ。しかし二十台の若さで遺伝子工学の分野で名を成し、ゼーレの一員として行動してきたユイ。彼女とともに歩むのは常人には不可能であっただろう。結局、最後まで共にいてくれたのはこの碇ゲンドウという男ただ一人であり、ユイはそのことに深い満足を感じていた。
 アダムの肉体が白い肉のパテを捏ね上げていくように寄せ集まっていく。人の身体ほどの太さがある青い血管が脈打ち、胎児のようなヒトの成り損ないが肉塊の表面に浮かび上がっては消えていく。赤子の甲高い泣き声が幾重にも響き渡り、ケダモノの吼え声がそれを食い尽くしていった。
「アダムが目覚めるぞ」
 怖かった。
 そして悔しかった。
 不完全な死海文書の記述に従いリリスとアダムを発見した。息子のシンジはリリスとのシンクロの末にセカンドインパクトの危険性を警告していた。
 ユイとゲンドウはこの瞬間を阻止するためにあらゆる手を尽くしてきたのだ。そしてそのすべてが無駄になろうとしている。
 アダムは目覚め、セカンドインパクトは今まさに世界を蹂躙しようとしていた。
 白い肉塊が激しく痙攣した。そのままぐぐっと盛り上がり、それは人の形となった。白い巨人。赤い瞳。左腕が失われていた。胸に幾つもの深い裂傷があり、そこから滝のように青い体液を吹きだしていた。右の頬が深く抉られ、剥き出しにされた歯列が青に染め上げられていた。
「シンジ……」
 そしてその顔は、ユイの息子であるシンジのものだった。幼いころのシンジ。おそらくは中学生前後のシンジ。ユイは絶望と驚愕に全身を絡めとられ、夫の胸の中で震えた。
 アダム=シンジが赤い瞳を剥き出しながら世界を睥睨する。
 セントラルドグマの空間に満たされたLCLが、彼の身動き一つで大きく波打った。
 そして最後にアダム=シンジはユイとゲンドウを目にした。
 動きが止まる。時間すら凍りついた。
 赤い巨大な瞳に意思の光が灯り、それは憎しみとなって燃え上がった。

 ごう――っ!

 殺意が物理的な衝撃をもって二人に叩きつけられた。
 アダム=シンジはゲンドウを憎んでいる――そのことを一瞬でユイは悟った。理屈も何も無く、ただ身体の奥深い部分がそれが真実だと大声で絶叫していた。
 巨大な白い腕が鍵爪のように指を開きながら突き出されてくる。アダム=シンジは笑っていた。文字通り裂けた右頬から青い体液を吹きだし、口元を吊り上げていた。燃え上がる憎しみの炎が赤い瞳を煌々と輝かせている。アダム=シンジはゲンドウを殺そうとしている。そのことに気づいたユイは、迫る巨腕の前に身体を投げ出して叫んでいた。
「やめなさい、シンジ!」
 殺人的な腕の突進が止まり、白い肉塊の指先がユイの鼻先で静止した。その向こうにシンジの赤い瞳。憎しみの炎がゆらゆらと揺れている。口元が言葉を発するように動き、音の無い言葉で語りかけた。

 ――カアサン?

 なぜアダムがシンジなのか。
 理解など及ぶはずがないが、それでもこれはシンジだった。
 ユイの言葉に反応し、ユイを母と呼ぶ。シンジだった。
「――やめなさい、シンジ」
 アダム=シンジがユイを恐れるかのように一歩下がった。LCLが大きく波打ち、飛沫となってユイとゲンドウに頭から降り注ぐ。
 アダム=シンジはさらに後退りながら口元を動かした。

 ――ドウシテ
 ――カアサン

「ユイ、これはシンジではない――アダムだ。ヒトの姿を模倣しているにすぎない」
「いいえシンジよ。やめて、シンジ。なぜこの人を殺そうとするの。なぜこの人を憎むの。シンジ!」
 母親としてのユイが目の前の白い巨人がシンジであると確信していた。どこかでシンジとアダムが深く接触したのだ。おそらくそれは――
 ユイの思考が真実に近づこうとしたそのとき、アダム=シンジが両腕で頭を抱え込んで悲鳴を発した。

 ――ドウシテ
 ――ボクヲ
 ――ウラギルノ

 ――カアサン!

 爆発のような絶叫だった。その一声でユイとゲンドウの鼓膜が破裂し、ジオフロントの天蓋部が純白の世界に向けて吹き飛ばされた。青い体液を撒き散らし、アダム=シンジの裂けた背から光が天にむかって差し込んでいた。
「翼……?」
 衝撃に意識のほとんどを持っていかれたユイは、強く抱きしめてくれている夫の温もりを感じながら、光の翼の一薙ぎによって発生した暴風によって天高くに巻き上げられていた。
 南極の凍りついた大地が眼下に広がっている。急激な気圧の変化によって全身の穴という穴から吹きだした血液で視界が赤く染まっていた。赤い世界の中で、赤い巨人が地下から地上へと身体を引きずりあげてくる。背にはいくつもの光の翼が広がり、天と地に突き刺さっていた。
 天頂に消える一対の翼が羽ばたいた。重く立ち込めていた黒雲がそれに巻き込まれ渦を巻いて吹き飛ばされる。赤く染まった青い空。しかしその空もまた、光の翼によって薙ぎ払われた。
 ユイは見た。
 青い空が消えたそこに存在していたのは、黒い殻であった。
 黒い殻がユイの世界を包み込んでいる。
 リリスの黒い月。
「そうだったの――」
 ユイはすべてを悟り涙を零した。その涙も一瞬で凝結し言葉と共に豪風に飛ばされていった。
「こんな所にあったの。これでは見つけられっこないわよね、あなた」
 ゲンドウは死んでいた。
 死してなおユイを抱きとめている。
 その不器用さと一途さに抱きしめられながら、ユイもまた意識を手放していった。
 翼が羽ばたき、二人をさらに高い場所へと巻き上げていく。


 そして世界は巨大な衝撃に震えた。


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