夢の終わりはピースの足りないパズルに似ていた。


 でぶっちょのケイタという少年がいる。
 高野川を挟んだ下鴨神社一帯を縄張りにしている子供たちのリーダーで、十人ばかりのグループはリョウジたちの間では武闘派として知れ渡っていた。
 とにかく手が早い。その縄張りに迷い込んだところを発見されようものなら全身にあざとたんこぶをこしらえて素っ裸で河川敷に投げ出されること間違いなしの集団である。計画性など皆無で、とにかくその日を生き延びるためにはどんなことでもやる連中だった。
 リーダーのケイタはデブの大男で、童顔を除けば十六歳と言われても誰も信じられないだろう巨体を誇っている。しかしオツムのほうは年相応かそれ以下の貧弱さで、何度かリョウジにやり込められたのを逆恨みして執拗なほどに敵対視していた。
 この連中が近頃妙に勢いづいていた。
 縄張りの外にまで出張って散々に荒らしまわる。もともと良い噂のない糞ガキの集団ではあるが、ここしばらくの増長ぶりは目に余るものがあった。
 噂では新しいメンバーが加わったとも、その新顔が気味の悪いほどに頭の切れる子供で、そのおかげでケイタが大きな顔をしているとも聞いた。
 噂ではあったが真実味はある。それほどにケイタたちは変貌していたのだ。
 綿密な計画を立て、“外部”への襲撃を企てる。その被害は一般民だけにとどまらず、自治体の配給施設にまで及んだ。その行動は大胆であり、それでもなお証拠を残すようなへまはしない。ケイタの配下の人数は日々増えつづけ、その勢力の増大は無視できないものに膨れ上がろうとしている。
 ケイタの次のターゲットは、おそらくリョウジだと思われた。積年の恨みだけでなく、その根城となっている京大附属図書館跡が魅力なのだ。ケイタたちが棲家としている古工場は赤錆の浮いた廃墟であり、膨れ上がる所帯を養うには劣悪に過ぎる生活環境だった。
 猶予はないとリョウジは感じていた。
 ケイタの増長が一人の新入りによるものだというのならば、それを確かめなければならない。場合によっては手を血に染める覚悟をリョウジは固めていた。


 赤錆を多量に含んだ砂がざきざきと不快な足音を響かせている。
 ふたつ――リョウジとミサトの足音。ミサトの表情は薄く、心ここにあらずといった風情ではあるがその運動能力は信頼に値するものだ。今回のような偵察行にはミサトの寡黙さと俊敏さはうってつけである。
 正確に計測したわけではないが、おそらくミサトは百メートルを十二秒台で走りぬけることができる。瞬発力、持久力の双方に長け、身体の操り方を本能的に知り尽くしている感があった。リョウジをしてミサトと本気で仕合ったとしても勝てるかどうか心もとないのだ。その運動能力は申し分なく、そこに生き抜こうとする気力が加われば何者も傷つけることは叶わないのではあるまいか。
 問題はその気力の面である。
 死にたがりというわけではないが、だからといって生きることに執着もない。誰かに死を強要されればそのまま受け入れてしまいそうな危うさがある。いつまでも失語症が治らないのも、そういった心因性の原因があるはずだ。
「とにかく無理はするな。ちょっと様子を探ったらすぐに脱出するんだ。いいな」
 ミサトはちらりとリョウジを見ただけで足取りを変えずに先を行った。
 ぱっと赤い砂埃が舞いあがる。ミサトが地を蹴ったのだ。ところどころで破れている金網を二歩で駆け上がると右手を軸にフェンスの上を飛び越える。三メートル以上の高さを軽々と飛び降り、もう一度赤い砂埃を巻き上げて古工場の敷地に膝をついて着地した。
「おい、葛城! わかってるんだろうな。偵察だぞ!」
 金網をがしゃがしゃと鳴らしながらミサトに呼びかける。ミサトは膝をついたままリョウジを見上げた。薄く膜を張ったような黒い瞳。
 立ち上がると腰に届く黒髪を頭の上で縛り上げて、ぴっと親指を立てた。そのまま翻って一気に走り去っていく。
「あ、馬鹿。……くそっ」
 慌てて追う。フェンスのてっぺんまで三歩。ミサトよりはるかに派手な音を響かせながら、古工場の裏庭に飛び降りる。すでにミサトの後姿は崩れ落ちた倉庫群の影に消えていた。
「……ったく、ホントにわかってんのかね、あいつは」
 危険なのだ。
 すでに人死にが出ている。
 被害者の男は数発の弾丸を腹に受けたうえに、頭部から胸の下までをプレスマシンで圧搾されたかのような姿で鴨川に浮かんでいるところを発見された。
 顔の見分けもつかないような異様な死に様である。死体など名護公園の遺棄場に脚を運べば飽きるほど転がっているご時世だが、いくらなんでもここまで不可思議な死体はそうそうありはしない。男の身元はまったくわからず、その小奇麗ないでたちからおそらく“外部”の人間なのではないかということになった。
 ここにひとりの少女が登場する。
 ナナミという名の少女はケイタグループの一員で、育ちきっていない身体を売り物にすることを覚えた十二歳の女の子である。主に壊滅した京都市の“外部”で商売をすることが多く、その収入はケイタグループの生命線のひとつであった。
 被害者の男は死者の列に加わる前日に、この少女と連れ立って歩いている姿を目撃されていた。目撃者はリョウジのグループの末子で、“外部”への買出し班からはぐれて迷子になって泣いているところをナナミに声をかけられていたのだ。
 同様の手口の死体が鴨川に三体浮かび、次には“外部”での襲撃事件で六人の死者がでた。
 すでにリョウジの知っていたケイタではない。そのことを頭に叩き込んでリョウジは走る。
 古工場は静まりかえっていた。
 きつい日差しに毒づきながら物陰に身を潜ませていると、蝉の喧しい鳴き声が容赦なく耳朶を叩く。その声は熱にやられかけている頭にガンガンと響き、ふとすると意識が暗闇に吸い込まれそうになった。
 ぶるりと霞がかかったような頭を振る。
 自分ひとりならばともかく、ここにはミサトも潜入しているのだ。いざというときのために気は張り詰めておかなければならない。緊張感が厳しい日差しに溶けて流れ出ていってしまうのを必死で食い止めていると、

 ぱん――

 気の抜けた破裂音が高い空に吸い込まれていった。
 あれだけ喧しかった蝉たちが一斉に静まりかえる。いきなりの静寂に地面が太陽に焼かれている『じりじり』という音が聞こえ始め、心拍数が倍以上に跳ね上がり――そしてもう一度破裂音が響き渡った。
 銃声。
 リョウジは物陰から飛び出した。
 身を隠すことをやめ、銃声がしたと思しき方角に向けて全力で走る。
 錆びついた裏庭を横切り、半ばからへし折れて横倒しになっている煙突の下を潜り抜け、ひび割れた駐車場とひん曲がったコンテナの群れを背にして最後の直線を駆け抜けた。
 また銃声。近い。二発、三発とそれが続き、悲鳴のような声が混じりはじめる。
 ほとんど乱射に近い音が入り乱れ、目指す第八倉庫に辿り着いたときにはそれは収束の方向に向かっているのがわかった。
 射撃音に取って代わったのは、悲鳴。
 絶叫だった。恐怖と助けを求める泣き声が入り混じった、胆の冷えるような音が倉庫の壁から天井までを震わせていた。
 貨物搬入用のシャッターが人の背の高さで外に向けて捻じ曲げられている。リョウジは背をかがめて倉庫にもぐりこんだ。
 破れた天井から差し込む陽光が、倉庫の内部を明と暗に切り分けている。作業用のリフトと積み上げられたコンテナ。そして、血。
 血。血。血。
 赤かった。なにもかもが赤に彩られ、錆の赤と血の赤が混ざり合った視界がぐにゃりと歪む。
 異臭にむせかえり胃が引っくり返ったような気分を無理やりに押し込めた。
 コンクリートの床に子供が二人転がっていた。
「お――」
 声をかけようとしてそれが無駄であることを悟った。
 上半身が潰れている。鴨川に浮かんだ三人と同じ、非現実的な死。
「――嘘だろ」
 シャッター一枚をくぐると、そこは悪夢の世界だった。現実が足元から崩れ落ちていく音が聞こえる。
 ぎりぎりと奥歯を噛み締める。死体が拳銃を両手で抱えるようにして握っているのを目にして、慌てて手を伸ばした。
 まだ温かい。ぐにゃりとした柔らかい感触を頭から追い出して、小さな指を一本一本グリップから引き剥がしていく。吐き気が収まらない。
「くそったれ。生きてろよ、葛城」
 グロッグ19。マガジンを一度排出して残弾数を確認。スリットから見える分が三発。薬室に一発。激しい鼓動を感じながら前に進んだ。あの死体はいったいどうやってあんな状態になったのかという疑問を必死で無視する。それを現実として捉えてしまえば、おそらく動けなくなる。駄目だ。今は考えては駄目だ。
 何体もの死体があった。どれも上半身が潰れていた。おそらく見知った顔もあったろうが、誰なのかまるで判別できない。ミサトでないことだけをその服で確認しながら進む。
 コンテナの列が切れ、広い倉庫の中央に出た。

 少年が立ち尽くしていた。

 血だまりの中央でこちらに背を向けたまま、その周囲にはいくつもの子供の死体が累々と横たわっている。呼吸がひどく苦しかった。少年の背丈は低い。おそらくは120センチもない。こんな場所になぜと問いたくなるほどに幼い姿。
「おまえ……」
 思わず声が漏れる。その少年を知っていたからだ。
「黒猫のちび――か」
 少年がその声に気付きこちらを振り返った。わずかに驚いたように首を傾げると、かすかな笑みを浮かべた。
 夜の湖のような深みのある黒い瞳が静かに光を反射している。
 それは京大の噴水の前で死にかけていた、あの少年だった。
 一口の水だけで五日間を生き抜いたがりがりに痩せ細ったチビ。死を正面から見据えていた、誇り高い黒猫。
「どうして」
 銃口を下ろした。驚愕が警戒心を凌駕していた。
「リョォウジィィ――――――ッ!!」
 ぎんっ! という鋭い音がリョウジに左耳の脇で弾け、同時に火花が散った。鋭角なレンズのようなものがその部分の視界を歪めている。なにが起きたのかと思う間もなく、それは消え去った。その先に巨漢の少年の姿。手に拳銃を構えその銃口はリョウジの頭にひたと据えられていた。
 でぶっちょのケイタだった。狂気にどす黒く濁った声がリョウジの名を吐き出している。
「てめぇかぁ! てめぇがこんな化けもんをオレのところに寄越しやがったのかっ! このクソが――っ! 死ね! 死にやがれっ!」
 拳銃を二連射。リョウジが横っ飛びに逃げる寸前、その顔の前でまた火花が散った。銃弾をなにかが遮ったのだ。一瞬だけ赤く輝いた空間の歪みを確かにリョウジは見た。
「ちくしょうっ!! 化けもんが! このくそったれ野郎がぁ! 拾ってやった恩を忘れやがって、このクソガキがぁ!!」
 銃口が少年に向けられた。狂ったように連射するそのすべての銃弾が、少年の顔の前で弾ける。少年は静かに微笑んだまま、ケイタの狂態を楽しんでいるかのようだった。
 弾が切れケイタの指が虚しく引き金を引く。ひ、ひ、ひ、という声にならない音を漏らしながらケイタは泣き始めていた。涙と鼻水がぐちゃぐちゃに顔を汚し、それでも最後の望みに縋るように引き金を引き続ける。
「ひ――ひぃぃぃぁぁぁあああああっっ――――――――――――!!!!」
 理性と引き換えの悲鳴を撒き散らし、拳銃を少年に向けて投げつけた。同時に巨体を蹴りだすようにして突進をはじめた。あの重量で激突されれば、枯れ木のような少年はひとたまりもない、そう思った次の瞬間、

 ばしゃっ!

 スイカを割ったような濡れた音。ケイタはこれほどと思う大量の鮮血を撒き散らしてコンクリートの床に突っ伏した。突進の勢いのまま、床に血のラインを描いて少年の足元まで滑っていった。
「――っ!」
 すでにケイタの上半身は原形を失っていた。あれほど肉厚だった身体がプレスされたように潰れている。何が起きたのかまったくわからない。しかし、
「……おまえが……やったのか……」
 リョウジはグロック19を構えなおしていた。その銃口は少年に向けられている。少年はそれでも微笑んでいる。
「ここの奴らも……あの鴨川の死体も……全部おまえなのか……。ちび……おまえ――――」
 薄い唇がすうっと横に広がり作り出されたのは確かな笑み。それだけでリョウジにはわかった。
『そうだよ』
 少年はそう言っているのだ。なんの罪悪感も痛痒も感じていない笑みが、はっきりとそう語っていたのだ。
 撃つか?
 引き金にかかった指がぴくりと震え、二度三度と逡巡した。目の前には湖面の笑みを浮かべる120センチにも満たない枯れ木のような体つきの少年と、頭蓋を割られて灰褐色の脳漿を床面にぶちまけているでぶっちょのケイタの姿。非現実なのはそんな死に様を晒しているケイタのほうであり、少年はどこかから迷い込んでしまったただの子供でしかないように思える。それが自然な解釈というもので、こんな割り箸も割れないような細い腕がどうやったらケイタのようなデブをぶち倒して頭の鉢を割るような真似ができるのか。ありえない。ありえるはずがない。大体おかしいではないか。少年は指ひとつ動かしていなくてケイタは拳銃を乱射していてそれなのに少年には傷ひとつなくケイタは潰れたカエルのように床に張り付いていて、そんなことは起こるはずがない、馬鹿げてるバカゲテル――
「――くそおっ!!」
 引き金を引いた。
 銃声が二つ、ほとんど重なるようにして倉庫のひりついた空気を貫いた。
 少年の真正面と右上方で同時に二つの火花が散り、赤方偏移の鋭角な輪郭をもったレンズのようなものががっちりと少年を守った。
 もうひとつの銃声の方角を振り仰げば、コンテナの上に仁王立って銃口で下界をねめつけるミサトの姿。二人は呼吸を合わせたように連射し、少年の身体を跳弾の火花が取り巻き、リョウジが弾切れになった次の瞬間に少年の身体の左右に光の翼が幾重にも枝分かれするように伸びて広がった。
「――っんぁ!?」
 現実離れした光景が加速している。
 少年は背に光の翼を生やし、頭上には捻れた天輪を仰いでいた。
 足がふわりと地を離れ、オーケストラの指揮者のように背後に向けて上から下に右腕を振り下ろした。
 地響きと同時にコンクリートの壁が外に向かって吹き飛ぶ。強い陽光が斜めに差し込んで少年を黒い影で塗りつぶした。見えるのは棒のように細い四肢と小さな頭。そして枯れ枝のように左右に突き出た翼と頭上に抱く捻れた天輪。光り輝くそれらがぐいと形を変え、翼が大きく羽ばたいた。ぱしん、と顔面を引っ叩かれたような衝撃を感じ、本能的に閉じてしまった瞼を開けたときには少年の姿はすでにかき消えた後。
 残されたのは、崩れ落ちた壁と赤い泥濘に沈んだコンクリートの床。その上に転がる無数の子供たちの死体。ケイタは潰れた樽のようで、いまだにその内容物をごぼごぼと床に垂れ流している。
 コンテナの上のミサトと視線が絡んだ。少年に似た黒い瞳。これだけのことがあったというのにその瞳は動じた気配を見せずに静かな湖面の揺らぎをたたえている。つっぱらかった背筋から一気に力が抜けていった。
「夢でも見てんのか、俺たち……」
 夢であるなら悪夢だ。
 目を覚ましたまま見る悪夢。
 不条理が現実を食い荒らし、世界を構成していたピースが零れ落ちていく、音。




りりす いん わんだぁらんど
第十三話『黒猫のちび』





 冬月が最初に行ったのはゼーレとの接触である。
 ことの始まりはゼーレであり、リリスもアダムもすべては不完全な死海文書の記述に従うゼーレがあったからこそ発見できたものだ。
 死海文書が完全であればおそらくはセカンドインパクトも防げただろう。そしていま、シンジの持ち帰った記憶によって、その欠損が埋められた。完全な死海文書の研究はすべてを変える力があるはずなのだ。
 京大から東に三キロ行った琵琶湖のほとりに、国連管理下の地下シェルターがある。そこは内戦に備えた備蓄庫として利用されていて、常に国連軍の小隊が常駐していた。
 半日をかけて、冬月はシェルターへと足を運んだ。ゼーレとの接触が目的である。
 その結果は惨憺たるものになった。
 礼儀正しい若い指揮官に迎えられ、ゼーレへの言伝を頼む。約二時間を苦いコーヒーを胃に流し込むことで潰し、そろそろ腹から喉の辺りまでが真っ黒に染まってしまったかなという頃に中佐殿が戻ってきてこう言った。
『ゼーレなどという組織は国連下に存在しない』
 一言で切って捨てられ茫然とする冬月は食い下がることもできなかった。キャンプ地から追い出され京大への道程を脱力しながら戻るしかなかった。
 落ちついて考えればひとつの仮説が浮かび上がる。
 セカンドインパクトの責任追求を曖昧にするために国連がゼーレを切り捨てた、または逆に完全な非公開組織として取り込んでしまった、という説だ。
 どちらにせよ、国連がゼーレとのつながりを認めることは永遠にありえないだろう。
 いまやゼーレとの接触の道は完全に断たれた。少ない物資を最大限に活用して独力でリリスとの再シンクロを行うしかない。
 幸いなことにそれは不可能事ではなかった。ゼーレのバックアップがあればより確実に安全なシンクロができるというだけの話で、施設のほとんどが無事に生き残っている現状であれば一週間ほどの作業で再シンクロが可能であると冬月は踏んでいた。
 老いた身体に鞭打って、一週間をフル稼働で働きぬいた。妊娠安定期前のアスカは別にして、シンジやナオコ、さらにはリツコまでもを徴収してあらゆる難関を次々とクリアしてのけた。
 そしてついに再シンクロを翌日と決めたその夜、
「ゼーレが表立って活動できないとしても、国連がリリスを放っておくのはおかしいわよね」
 ちらちらと瞬く裸電球の光。
 床に敷き詰めた毛布の上でアスカが内に秘めていた不安をはじめて口に上らせた。
 シンジはすこし離れた場所で、MAGIに食わせるコードを修正している。トライアンドエラーによってリリスとのハーモニクスがより安定する補正値を突き詰めていた。
「そうは思うけどさ。こんな世の中じゃ、国連もリリスなんてものに関わっている余裕がないだけなのかもしれない。もしかすると本当にゼーレは解体されていて、リリスやアダムの重要性が国連の上層部に浸透していないだけなのかもしれない。どうせ本当のことなんてわかりっこないんだから、僕らは僕らのできることをするしかないんだよ」
 ラップトップタイプの端末からピッというエラー音が響き、シンジが顔をしかめた。
「いまやってるそれ、絶対に必要な作業ってわけじゃないわよね」
「まあね」
「だったらさ、そんなのもう切り上げてこっち来なさいよ。往生際が悪いったらありゃしない」
「でも少しでも安定したシンクロをするためには――」
「いいからっ! こいっ!」
 深層心理に刻み込まれた「アスカこわい」という感情がその怒鳴り声に過剰反応した。
 びくびくと背中を震わせながらラップトップ端末の蓋を閉じる。
 頬を伝い落ちる汗は熱帯夜というばかりが原因ではない。どちらかといえば冷たい汗であった。
「ここ!」
 バンッバンッと、自分の横のスペースを叩くアスカ。おそるおそる接近したシンジは、お邪魔しますとばかりの態度でそこに横たわった。
「もうちょっとこっち。右手はここ。これ頭の下に敷いて、あいかわらず胸板薄いわねあんたは、痛いんだからもうちょっとこう脂肪なり筋肉なりね、あ、そのブランケットとってよ、身体ひやしちゃマズイもんねぇしっかり体調管理しとかないともう自分ひとりの身体じゃ、ってごそごそ動くんじゃない! 落ち着きないわねだいたいあんたはね――」
 散々文句を言いながらしつこくポジションの確認をして、ようやくアスカは納得のいく結果を得たらしい。こてっとシンジの胸に頭を置いて満足の息を吐き出した。
「……はふ。焦ったって仕方ない。こういう時は寝るのよ。ばっちり寝て、食べて、いざというときに全力を出せればいいの。小出しにエネルギーを使うのは駄目。気持ちだけ先行してる証拠」
 ぎゅっとわき腹をつねられた。
「なんか焦ってんでしょ。言いたいことは?」
「……べつに」
「あっそ」
 静かになった。
 遠くで蝉の鳴き声。風に揺れる木の葉がさわさわと擦れる音が開け放った窓から忍び込んでくる。静寂に感覚が慣れると裸電球の焼けるチリチリという音。窓から飛び込んできた羽虫が電球の明かりに誘われて特攻を繰り返している。
 疲れた身体に睡魔が取り憑き、そのまどろみのなかでシンジはアスカの息遣いを感じていた。規則正しく安定した呼吸はアスカが眠りの淵を漂っていることを示していて、ふいに、
「――リリスを殺すことはできると思う?」
 シンジはそんな問いを発した。
 半分寝ぼけた声で、
「う、ん? 無理、だって、うにゃ、無理、むりむり」
「試算では、旧東京を消し去った新型爆弾と同程度のエネルギーをぶつけたとしても、その構成物質の数割を消滅させるのが精一杯って結果だったよね。自己防衛のためにATフィールドを使うだろうし、あの再生力なら一週間とかからずに元に戻るだろうし。むこうの世界でも、同じような存在の使徒がN2爆雷の直撃を受けてやっぱりすぐに再生してしまった。でも、日本を消し去るぐらいの覚悟で現存する兵器のすべてをぶつければ機能停止ぐらいには持ち込めるかもしれないんだ」
「そうねぇ、そりゃすごいわぁ、うんうん、しゅごいしゅごい、にゅむにゅ……」
「でも、それじゃだめなんだよ、アスカ――」
 肩に頭を預けているアスカが完全に寝入っていることを確認してからシンジは続けた。
「そんなことをしたら、この世界が消えてしまうかもしれないんだ。父さんから――むこうの世界の父さんから教えてもらったんだ。この僕たちの世界は、リリスの見ている夢なんだって。母さんが望んでいた補完計画を成就させるために創りだされた夢の世界なんだって。死海文書にはこう記述されてた。“可能性の卵”。“ガフの部屋”。僕たちはね、使徒なんだよ。リリスの黒い月から産みだされた魂という形の使徒なんだ」
 ぐっとアスカの背に回した腕に力を込めた。
「綾波レイもきっと僕たちと似た存在なんだろうね。魂がリリスから生まれて、むこうの世界の肉体に宿っているんだ。だから、あのリリスの姿はサードインパクトの前触れなんかじゃない。きっとむこうの世界で、綾波レイの肉体になにかがあったんだと思う。そしてそれはたぶん、リリスが目覚めようとしている前触れなんだ。リリスが完全に目覚めたとき、この世界は消えてしまう。だから僕たちは選択しなくちゃいけない。ヒトとしてリリスをもう一度眠らせてこの世界を存続させるか、それとも使徒として僕たちの手でサードインパクトを起こして未来をもぎ取るか」
 アスカを見る。安心しきったような寝顔。それがシンジに心を決めさせる。
「ぼくはサードインパクトを阻止して、リリスをもう一度眠りにつかせる努力をするよ。でも力が及ばないかもしれない。セカンドインパクトだって防げなかった僕だもの、その可能性のほうが大きいんだよ。そうなったとき、僕はむこうの世界を滅ぼしてでも僕たちが生きる未来を選択する。そうしなければ滅ぶのは僕たちだからそうするんだ。母さんの望んだ人類補完計画だから、選択される未来はひとつだけだからそうするんだ」

 アスカ――――

 シンジは祈るように呟いた。

「だから……僕を許して」

 シンジは自分が抱える罪悪を誰かに聞いて欲しかった。それはまるで懺悔のようで、眠りに落ちたアスカは十字架に磔にされたキリストの姿だった。
 だから答えなどいらない、そんなものなど望んでいない。
 しかし、
「その時がきたらさ――」
 アスカだった。
 シンジの胸元を掴む右手が強く握られ、力いっぱい頭を押し付けてくる。
「その時がきたら、あたしが人類の半分を滅ぼしてあげる。シンジが半分。あたしが残った半分。それで未来が手に入るならどうってことないじゃない」
「アスカ――おきてたの」
「おきてたわよ、バカシンジ」
 ぐしゅっと鼻をすする音が聞こえた。
「あんたがそこまで言うなら、他に方法はないんでしょう?」
「ない……たぶん。むこうの世界で起こった十五年前のセカンドインパクト、あのときにもうすべては始まっていたんだ。あの爆発でアダムは砕け散って、その肋骨からエヴァや使徒が創られた。その瞬間から生存競争は始まっていたんだよ。たった一つの卵子に群がっていく無数の精子のひとつ。蠱毒の壷の中でお互いを貪り食いあう毒虫の一匹。それが僕たちだ。負ければ干からびるか喰われるか、いずれにしろ未来はないんだ」
「生きてさえいれば、こんな世界だって天国に思えたのに」
 アスカが震える声で言う。
「こんな世界でも生きてさえいればきっと幸せになれるって信じてたのに。でも駄目なんだ……この世界を創った誰かさんはそれさえも許してくれないんだ」
 小さく、小さく囁いた。

 ふざけんじゃないわよ――

「――あたしはね大人しく殺されてやったりしない。たとえそのために何十億の人間を殺すことになったとしても殺されてなんかやらない。だって――」
 アスカがシンジの手を取って自分の下腹部に導いた。
「――だって、この子には明るい未来を見せてあげたいもの」


    ◇◆◇


 外界から隔離されていながら、なぜかシンジはそれを察知していた。
 敵が来る。
「冬月先生。先生!」
 閉鎖されたエントリープラグ。外の様子を知るには有線の通信装置だけが頼りで、そこから聞こえてくるのはざらついたノイズといくつもの足音。
『シンジ君、アスカ君。君たちはそこにいたまえ』
 小さく抑えた冬月の声だった。直後に通信が切られ、そしてエントリープラグの分厚い外壁とLCLを通してなお響いてくる銃撃音。


「脅しはいらんよ。無茶をすると天井が落ちるぞ」
 ぱらぱらと砂塵が降り注いでいる。大小の亀裂が走るモルタルの天井に五つの銃痕が刻まれたいた。
 日は明け、リリスへの再シンクロを開始しようとする直前、その制御室である。
「UNの御仁がいまさら何用かね」
 冬月とナオコの目の前に、完全武装の兵が展開していた。
 そのなかの一人の顔が冬月の記憶にある。琵琶湖シェルターの常駐軍指揮官。名は確か、
「トマス・フーカー中佐です。ご無礼をお許しいただきたい」
 若い中佐が慇懃に頭を垂れた。
「上層部の決定なのです。以後、あなたがたと共にこの施設は私どもUNの監督管理下に置かれることになります。これもすべて有事における治安維持のためとご理解ください」
 冬月は薄く笑った。
「あきれるな。つまりはゼーレの意思なのだろう。あれを見てまだそんなことを言っていられるとはずいぶんと呑気なことだ」
 冬月の背後、一面に張り巡らされた硬質ガラスのむこうにリリスがいた。
 ロンギヌスの槍に貫かれ、磔となった少女。綾波レイ。その巨体は見る者の現実感を打ち砕き、畏怖を植え付けるに充分なものだった。
「知らなかったとでもお思いですか。あれがもう一度インパクト現象の悲劇を巻き起こすかもしれないということも当然調べはついていますよ。だからこそ我々はここにいるのです」
 ふいに冬月は理解した。国連――ゼーレがいまさら介入してきた理由。その真意。
「リリスへのダイブ、大いに結構。それで世界が救えるというのであれば反対する者など一人もいません。しかし一度は失敗しておられる……そうではありませんか? そんな不確かなものに数十億の命を預けられるわけがない」
「だから……滅ぼそうというのか。N2兵器か、核か? 日本を道連れにしてリリスを滅するつもりか。ゼーレめ、そんなことですべてを闇に葬れるとでも思っているのか」
「主に使用されるのは局地仕様のN2兵器、それに加えバックアップの戦略核。琵琶湖が大阪湾とつながることになるかもしれませんな。なに、大阪一帯はとっくに海の底ですし京都にいたっては無人の野に近い。いまさらたいした違いはありませんよ。それともうひとつ。ゼーレなどという組織は存在しない、そう言ったはずですが」
「いまさらとぼけて何になる。ゼーレなのだろう」
「ですからそんな組織は存在しないのですよ。……ああ、そういえば、」
 中佐がわざとらしい口調で続けた。
「何とか言う委員会が粛清されてその運営資金と構成員の個人資産すべてが徴収されたらしいですな。なんでも作戦終了後に日本政府に支払われる莫大な補償金はそこから充てられるとか」
 そういうことか――
 冬月はうめいた。すべてはもう終わっていたのだ。国連はアダム、リリスの研究から得られる恩賜よりも失うもののほうが大きいと判断してゼーレを切り捨てた。それは多大な犠牲を伴う、脳腫瘍を切り取るような大手術だったはずだ。セカンドインパクトから八ヶ月、それだけの時間を掛けてついに国連はゼーレという病巣を吐き出し、リリスを破壊することに踏み切ったのだ。
「――夢の終わり、か。我々は神を拾い狂喜した。身の程をわきまえぬ行いの報いがこれなのだろうな。日本はもう立ち直れぬかもしれんな」
「数十億の命と引き換えなのです、妥当な取引ではありませんか。あそこまで成長していなければ無人の島にでも運んで破壊してやるのですがね、老獪どもがあんなものをコントロールしようなどと欲をかいていなければこうはならなかった」
「そうだな。まったくそのとおりだ」
 深く息を吐き出す。そしてそれまで口をつぐんだまま成り行きを見守っていた赤木ナオコに声を掛けた。
「すまん。君まで巻き込んでしまったな、赤木君」
「いいんです。望んでやってきたことですもの、科学者である私は満足していますわ。ただ、母親としては失格でしょうけど」
 ナオコは薄く笑った。
「あなた方の身柄はしばらくはUNの監視下に置かれます。そのあとどうなるかは……申し訳ないが私にはわからない」
「いや、かまわんさ。ただし、ここにいる子供たちの安全は保障してくれたまえよ。それとあの二人だが……」
 冬月はリリスのいるドームへと視線を飛ばした。
 そこに多関節アームに固定された二つのエントリープラグ、シンジとアスカがいる。
「……あの二人には未来が欲しい。優秀な二人なのだよ。あの二人がいれば、我々のしてきたこともまったくの無駄ではなかったと思える」
「申し訳ないが――」
「わかっている、わかっているんだ」
 固く眼を閉じながら冬月は通信機のスイッチを入れた。
「二人とも、あがってきなさい。リリスとのシンクロは中止だ」
 それに応えたのは、シンジとアスカの悲鳴のような訴えだった。
『――生! 冬月先生! 敵が来る! 敵が来るんだ! 聞こえてないの!?』
『なんなの、これ! リリスが怖がってる! 敵ってなに!? なんなのよ、イヤァ!!』
 ほとんど同時だった。
 広いドームに反響するかのように、いくつもの銃声が響きわたった。


「ぼうず、腹でも減ってんのか」
 京大の広大な敷地の外れにリリスを収めたドーム型の特別研究棟がある。
 セカンドインパクト以前に、国連助成金の大半をつぎ込んで冬月が作らせたものだ。大半の建築物が崩れ落ちた今となってもその研究棟だけは往年の姿を維持し、独立した発電施設すらもいまだに動きつづけている。
 そこに多数の国連軍の兵がいた。特別な危険などあるはずもなく、警戒もおざなりなもので、だらけた雰囲気が流れている。時折、ものめずらしげな顔をした子供たちが遊びに来るのをからかいながら、のんびりと暇を潰していた。
「これ喰うか? ジャーキーだぞ。むちゃくちゃ美味いぞ。ほれ、こいこい」
 その兵士の前にいるのは少年だった。
 ぼろぼろの衣服を着た120センチほどの背丈の少年。微笑を浮かべながら兵士を見上げている。
 ジャーキーの切れ端を差し出していた兵士の右腕が、いきなり消え去った。
「……へ?」
 続いて上半身。
 べちゃ、という間抜けな音がして、潰れた身体がビクビクと痙攣しながら伸び放題の芝生に倒れこんだ。
 そこにいた誰もが状況を把握できない。茫然としている男たちの前で、少年の姿が変貌していった。
 翼が生える。木の成長を記録したフィルムを早送りするように枝分かれしながら生えていくそれは、少年の身体の左右二十メートルほどにまで伸びていった。いっそ少年の細い身体が哀れに思えるほどの大きさである。少年を背後から抱えるようにして浮かび上がると、次はその頭上に捻れた光の輪が出現した。
「ぉ――――」
 そこに至り、ようやく兵士たちが正気を取り戻した。小銃を構え叫んだ。
「撃て、撃てえぇっ――――!!」
 阿鼻叫喚という言葉がそのまま当てはまる。
 銃弾はことごとく少年の身体の寸前で拒まれ、逆に見えない何かに兵士たちは次々と押し潰されていく。
 少年は指ひとつ動かさなかった。
 十数秒で銃声が途絶え、少年の背後には真っ赤に染まった手入れのされていない芝生。真上から差し込む怒り狂ったかのような太陽。こんなときでも蝉はやけくそのように鳴きわめき、子孫を残すための行為に懸命に耽っている。
 研究棟の壁面が、少年の目の前で砕け散った。
 そして内部に詰まっていたLCLが怒涛の勢いで流れ出してくる。少年は全身にLCLを浴び、喜悦の表情を浮かべていた。
 空中に浮かんだまま内部に侵入する。
 その面前にリリスがいた。赤い十字架に磔にされ、綾波レイは少年を見下ろしていた。


 銃声と悲鳴が遠くから聞こえてくる。
 そのなかで赤木ナオコはMAGIの吐き出した報告に眼を通し、その予想外の観測値に喜びに似た色を顔面に貼り付けていた。
「パターン・ブルー。アダムと同種の反応だわ。すぐ近くにアダムに似たモノがいるのよ。ATフィールドの反応増大。すごいわね、いままでこんなに強力なATフィールドなんて見たことがないわ」
 背後では状況の確認を求めて声を張り上げている中佐と部下の兵たち。そこから取り残されたように、冬月とナオコだけが静かな言葉を交わした。
「なにごとかね、これは」
「わかりませんわよ。でもシンジ君たちの報告から、似た現象を推測することはできます。使徒襲来――といったところかしら」
 本来ならば酷い衝撃を受けるべきだった。しかし冬月の感情はどこか超然としていて、こうなることを予感していたかのようだ。運命という言葉を使っていいのならば、このとき冬月が感じていたものがそれだろう。
「使徒、か。いよいよ来るべきものがきたといった感じだな。しかし我々にエヴァはないぞ。そのための準備期間もなしだ。ずいぶんと不公平な話だな」
「この世に公平なものなんてありませんよ。弱ければ滅びる、それだけ。ほら、来ますわ」
 硬質ガラスのむこうでドームの壁面が爆散した。すぐにLCLの水圧がそれに勝り大きな渦を巻いて外部に流れ出していく。ごうごうという振動がドーム全体を揺さぶった。
 LCLの濁流を割って、何かが内部に入り込んでくる。
 少年。
 背に光の翼を生やし頭上には光輪を頂くその姿は天使のようでもあり、しかし薄汚れ痩せ細った顔は高貴とは程遠いもの。瞳だけが異様なほどに大きい。顔の半分を占めているのではないかという黒い瞳が動き、リリスを下から見上げた。
「あの少年が使徒か。我々を滅ぼす存在か」
「……りっちゃん、遠くに逃げる時間があればいいのだけど」
 ナオコはそんな言葉をぽつりと漏らした。
 なぜか心は平静で、すべてを受け入れてしまっていた。
 逃げる時間などありはしないのだ。それを理解していながら、薄い親子の愛情が最後に吐き出させた言葉だった。
「なんだこれは……こんな馬鹿げたことがあってたまるものか! 警備の兵はどうした、なにをやっているんだ!」
 背後で錯乱状態の中佐が叫んでいた。ひとつだけやるべきことを思いつき、冬月は振り返った。
「中佐、今すぐにここを攻撃したまえ。N2兵器でも核兵器でもいい、出し惜しみはするな。いまを逃せば――いやもう手遅れかも知れんが、やれるだけのことはやっておくのが滅びる者のせめてもの義務というものだからな」
 その言葉を待たず、少年の身体がぐるりと丸くなった。
 光の翼に背後から抱かれ、くるくると丸くなって赤い色に変わっていく。それはコアだった。赤い球体。少年は金属のように輝く赤い球体に姿を変え光の翼と光輪は分離した。
 さらに光輪が半ばから千切れ、一本の紐に変化する。
「使徒のATフィールドが分離。二つに分かれたわ。まって、リリスにも何か……次元測定値が反転して広がっている?」
 すべての光景が百メートルも離れていない場所で繰り広げられているのだ。しかし冬月とナオコの態度は平静そのものだった。
 人間としての感情を科学者としての理性が凌駕している、そう見えた。
「これは……アンチATフィールドか。ロンギヌスの槍だな。……まさか動くのか」
 リリス=レイの胸の中央に突き立てられていた赤い槍がずるりと動いた。
 リリス=レイの顔が苦痛に歪む。その一方で恍惚としているようにも見える。槍は動き、ゆっくりと引き抜かれていく。そして二つに分離した使徒はりリス=レイへと照準を定めていた。
 輝く紐が鎌首をもたげ、光の翼がはばたく。同時にロンギヌスの槍が完全に引き抜かれ、空中でくるりと回転して矛先を転じた。その先に二つの使徒。
 しゅっ、という軽い音だった。
 たったそれだけでロンギヌスの槍の姿は消え失せ、その飛び去った直線上に存在していたあらゆるものを貫いて存在を否定した。
 二つの使徒が消える。雲を散らすように見え、次の瞬間、衝撃波が襲った。硬質ガラスに白いひびが次々と広がり、ついには砕け散った。冬月、ナオコ、中佐とその部下たち。すべてが公平にその力の前に晒され、すべてが公平に命を断たれた。
 はるかな高空からそれを見れば、島国の一点を中心にして広がっていく白い霧のような衝撃波の跡。それが太平洋を真南に割っていくように広がり、五十キロを超えたところで離陸した。ロンギヌスの槍が地上を離れ宇宙へと飛び出した代わりに、高高度から落下していくものがある。N2弾頭を搭載した数百発の弾道ミサイルは蜘蛛の糸が中心に向けて引き寄せられていくように見えた。

 ――イキマショウ

 ――イカリクン
 ――アスカ

 ロンギヌスの槍から開放されたリリス=レイがその中心にいる。
 彼女の展開するATフィールドの中に、二本のエントリープラグが浮かんでいた。
 どんな力が働いたのか、プラグが内側からはじけるように砕け散った。
 そして、シンジとアスカの二人と――レイがそこに残されていた。

 ――イキマショウ

 三人がひとつになった。
 溶けてひとつとなり、光の翼を広げた。

 光の翼は世界の殻を突き破る。
 真実の姿へと世界を還す。


     ◇


 ――そのときリツコは川原でノラ猫にちょっかいを出していた。
 引き抜いた笹の葉でくるくると空中に円を描く。
 葉の先を追って猫の頭もくるくると回る。
 逃げ腰だった体は少しずつ前のめりになっていて、シッポを左右にぶんぶん振り回しながらいまにも飛び掛らんばかりに好奇心をみなぎらせていた。
 川縁では十歳前後の女の子がばちゃばちゃと水を頭からかぶって笑い転げていた。グループの中ではリツコに一番懐いている女の子で、どこに行くにもくっついてきて困ってしまう。今日はリョウジやミサトのサポートに来ているのであって、遊んでいるわけではないというのに。
「怖くないからおいで」
 じりじりっと猫は笹の葉に向かってにじり寄ってくる。『ああくそ気になってしゃーねーんだよ、それこっちによこせよチクショウ』という真剣な眼つき。
 ふふ、と含み笑いを漏らしたそのとき、猫の耳とシッポが天に向けてぴんと突き立った。
 猫は飛ぶように逃げていく。リツコも耳に聞こえない何かを聞いた気がして立ち上がっていた。
 どんっ、と脚に何かの衝撃を感じ、
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、あれなに、なに!」
 飛び込んできた女の子は、怯えているのか興奮しているのかわからない声で必死に叫んでいる。ぽたぽたと水滴を垂らす指先が、空の一点を指し示していた。
 リツコはその先を追う。
 そしてそれを見た。


     ◇


 ――そのときリョウジとミサトは走っていた。
 少年が姿を消し、血と錆で赤く染まってしまった古工場から必死で走っていた。
 少年が消えた方角には自分たちの家がある。少年はそこに向かった――そんな確信を胸にして、心臓が破れんばかりに走りつづけていた。
「――――ばか」
 リョウジは確かにその声を聞いた。
 誰が声を発したのか、自分のほかにはミサトしかいない。それなら――
 ミサトは立ち止まって正面の空を見つめている。
「葛城……?」
 ミサトが喋ったのだという驚きと、ミサトがなにを見ているのかという疑問が同時に胸に湧いて、リョウジはミサトの視線を追って振り返った。
 一対の翼。
 冗談のような大きさのそれが雲を蹴散らしながらゆっくりと広がっていく瞬間。
「……ばか」
 もう一度ミサトがそう言ったとき、衝撃波が二人を追い抜いていった。


     ◇


 翼はどこまでも広がり、なにもかもを薙ぎ払っていく。
 空が消え、黒い殻がそこにある。
 剥き出しにされた黒い月はリリスをいだき、リリスは黒い月を腕に抱く。




 それが――




 夢の終わり












あとがき、もしくは「そのうち書き直してやるわいチクショウ」というメモ書き

今回の話は本来二話構成で(前回とあわせて三話)、この倍の分量にするつもりでした。
でも書けませんでした。
能力不足です。
考えていたプロットの半分を放棄して、しなきゃいけない説明のほとんどを投げ捨てて、しかたないのでそれっぽい文でお茶を濁すという……。
なに書いてんだか自分でわかんなくなってきたです、はい。
最終話で同じことを繰り返したら救いようがないな。
ちぇ。


作者"ぼろぼろ"様へのメール/小説の感想はこちら。
maks@dd.iij4u.or.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

inserted by FC2 system