【??????】
い べて
ジ
つき
た の 僕
だけど いい
眼のち 暗く
見えるの
光
青い
光 光 青 光
青 光 僕 そうだ 僕
光光 僕 近い 光青光 ひかり
触 光 青 光光光
僕 僕光青 僕 僕僕僕 僕
僕。
青い海の中から僕は身体を浮き上がらせた。
そこに<僕>がいる。胎児のように身体を丸め、膝の間に頭を抱え込んでいる。
僕は知っていた。<僕>がなぜ膝を抱えてこんな場所に閉じこもっているのか。
その心の痛みと怯えを知っていたし、何がそうさせたのかも知っていた。
「裏切られたんだね」
「裏切られたんだ」
「だから殺したの?」
「だから殺したんだ」
「母さんを?」
「母さんと父さんを。他にもたくさんたくさん殺したんだ」
「翼を広げてね」
「裏切られたから。殺すつもりなんてなかった」
「でも殺した」
「母さんは僕より父さんを選んだんだ。あんな父さんなんかを」
「だから殺した」
「裏切ったからだ。母さんが僕を守ってくれなかったから」
「だから殺したんだね」
「翼を広げただけなのに。殺すつもりなんてなかったんだ」
「でも死んだよ。四十億人といっしょに」
「――――僕がなにをしたって言うのさ!」
「夢を壊したんだ」
「夢?」
「そう、夢。母さんの夢」
「母さんの、夢」
「裏切られたから母さんの夢を壊した」
「僕が?」
「そう。僕が」
「……最低だ」
「最低さ。だからこんなところで膝を抱えているんだね」
「もう裏切られたくないからここにいるんだ」
「そして裏切る」
「誰を」
「みんな」
「僕は裏切ってなんかいない」
「裏切ってる」
「なぜ」
「泣いているもの」
「誰が」
「知ればいい」
「なぜ」
「僕は知っているから」
「僕は知りたくない」
「綾波レイと」
「いやだ」
「エヴァ初号機に宿る母さん」
「いやだ」
「そしてエヴァ弐号機に宿るアスカの母さん」
「いやだ」
「MAGIに宿る赤木博士にも」
「いやだ」
「教えてもらったんだ」
「いやだ!」
「だから僕は知っているんだよ」
「いやだ!!」
魂たちの記憶に手を伸ばす。
綾波レイ。
碇ユイ。
惣流・キョウコ・ツェペリン。
赤木ナオコ。
心がふれあい、四人が見てきた記憶が僕と<僕>に流れ込んできた。
りりす いん わんだぁらんど
第十四話『ウソツキはキライ』
【二〇一五年 第三新東京市】
ドアを開けると軽快なゲームサウンドがレイを迎えた。
この曲は超難度STG『怒李夜亜』のステージナンバー4、暴走する生物兵器である中ボスとの一騎打ちのテーマ。
分裂増殖を繰り返す中ボスは、数秒でステージのすべてを自分の肉片で埋め尽くしてしまう。飛び交う生体レーザーを紙一重で避けながら、ひたすらに撃って撃って撃って撃ちまくり、剥き出しになった本体にボムを二発ブチ込んでから、ため撃ちの必殺シュートをとどめに一発――!
……という情報をゲームヲタのヒカリから仕入れてはいたが、実際にそれに成功したことはレイもアスカも一度もない。
「うだぁ――!!」
テレビの前にかじりついていたアスカがコントローラを投げ出して後ろに引っくり返った。画面には『GAME OVER』の赤い文字。
「ただいま……」
「……うす」
ごろごろと転がっていたアスカが床の上からレイを見上げた。
打ちっぱなしのコンクリートの上に直接敷いた毛足の長いカーペット。
可愛い柄のクッションが適当にほっぽり出され、48インチのワイドテレビに常時接続状態の最新ゲーム機。大量のゲームソフトのケースが、その横に山積みになっている。
レイの寒々しかった部屋も、アスカが住み着いてしまった一ヶ月でずいぶんと様変わりしている。他にもバスルームを二十四時間占拠している温泉ペンギンなどはいい頭痛の種だ。
「今日は早かったじゃない」
気を取り直したアスカが『怒李夜亜』に再チャレンジしはじめた。
このゲームをヒカリから借りて今日で三日。初日にステージ4に進んで以来いっこうにクリアできる気配が見えないのだが、本当にそれで楽しいのか疑問はつのる一方である。
「ええ。データ取りも今日で最後だって碇司令が」
「まったく、ここんとこ連日呼び出しだったもんね。なんか変なことされなかったでしょうね、ああいうタイプが一番危ないんだから」
「するはずない、碇司令だもの。アスカこれ」
背中を向けていたアスカが、がさがさという音に反応して自分の肩越しに手のひらを差し出した。その眼はゲーム画面をこれ以上ないほど真剣に睨んでいる。
レイは下げていた買い物袋からポッチーの箱を取り出してアスカの手のひらに乗せる。
受け取った箱を一目見るなりアスカは、
「これ、違う」
と吐き捨てた。
「イチゴ味って言ったのに。あたし、このナッツのつぶつぶが苦手なのよね。歯にはさまるし、なんか邪魔くさいし」
「それしかなかったの。我慢して」
「ああん、やだぁ!」
「じゃあ、返して」
「もらうわよ」
ぶちぶちと文句をたれながら、アスカは片手で器用にポッチーの包みを剥いでいく。
ステージ1クリア。
なにをどうやったのか、残った左手一本でもぎ取った勝利である。
「よゆーだわね」
ポッチーの包装をぽいと背後に投げ捨てる。一本目のポッチーを口の端にぶら下げ、
「ん。」
2プレーヤー用のコントローラをレイに差し出した。
レイはアスカの横に膝を抱えるように座り込んだ。顎を膝の上に乗せてゲーム画面を真正面から見据え、スタートボタンを押す。
『助っ人参上でぃ!』
忍者とカラス天狗を足して二で割ったような自機が、名乗りをあげながらくるくると回って登場。
「あんたそのキャラ好きね」
「かわいい」
どこが、という言葉を飲み込んでゲームに集中する。
ステージ2のボスを情け容赦ない鬼人ぶりで撃破してから、レイはおもむろに買い物袋に手を伸ばした。
袋を逆さにしてふると、大人買いした『うまい棒』が数十本ぶちまけられた。そのうちの一本の口を破き、ざくっと咥える。とんかつソース味である。
「またそれ?」
「おいしい」
はいはい、と投げやりに答えステージ3に突入。このゲームはここから急激に難易度が上がる。もともとアーケードゲームだったものの移植版であり、台の回転を早くするための常套手段が御家庭にそのまま持ち込まれてしまったためらしい。
『百円玉を支払ったつもりでやるの』
とはヒカリ大先生のお言葉で、そのときの真剣な眼差しがいまでも忘れられずにいた。
「うまい棒十本分だからね」
こくっとレイがうなずく。食い入るような瞳がゲーム画面を見据えている。
無心で敵の攻撃を避けた。雨あられなどという表現は可愛らしいと思えるほどで、絶対回避不可能としか思えない場面は無敵効果のあるボムで緊急回避していく。レイとアスカが無言の連携で交互にボムを使い、残機を一機づつ失った段階でボスが出現した。
緊張感を高める音楽にドキドキと胸を高鳴らせている二人。その後ろでバスルームへと続くドアがばたりと開かれた、と思うと首に手ぬぐいを引っ掛けた温泉ペンギンがぺたぺたと進み出てくる。
床に散らばった駄菓子の袋を目にして、やれやれといった調子で後片付けをはじめた。
フリッパーの先の三本爪で器用にゴミを拾って買い物袋に詰め込んでいく。あらかた掃除を終え買い物袋をゴミ箱に突っ込んでから、うまい棒を一本背後に引きずってバスルームへと消えていった。
「うだぁ――――――!!」
ゲームオーバーになったアスカが背後に引っくり返る。コンティニューの残数はあと五回。ボスはまだ健在で、必死になっているレイが一人で奮闘している。
「ふざけんなぁ! インチキよ、これ!」
チクショウッ、という思いのたけをスタートボタンにぶつけてコンティニュー。
『いっきまーすっ!』
魔法少女がホウキに乗って参戦し、いきなりボムを炸裂した。
それがボスに止めを刺した。
爆発炎上して落下していく空中空母をどこか釈然としない気持ちで眺めながら、
「……シンジのサルベージ、明日だって」
アスカはぽつりと言った。
ステージ4が始まる。生物兵器に寄生された未来の街。敵もこれまでのいかにも機械という外見を捨て、生体に寄生された歪んだ兵器に変わっていた。
「聞いたわ、赤木博士から。十時に本部まで来て欲しいって」
「そうなんだ」
エイのような姿に変貌した空中輸送機が、大量の浮遊機雷をばら撒いていく。寄生しているオタマジャクシのシッポが一生懸命にぱたぱたしてこちらを追尾。その数じつに百近く。すべてを撃破する頃には後から出現した敵機を捌ききれなくなっていたのでボムを一発お見舞いしてやって――
「――あいつが帰ってきたらさ、とりあえずマンションの部屋の掃除させなくっちゃね。一ヶ月もほおっておいたから、いまごろ埃だらけだろうし」
高速ホーミングで特攻してくるイワシもどきミサイルを画面いっぱいを使って誘導、魔法弾を三発ぶち込む。撃墜成功。
「あとさ、あれでけっこう料理が得意だったりするでしょ。レイはあいつの料理を食べたこと――」
「一回だけ。碇君が初号機に取り込まれた前の日の夜。すごく上手だった」
「ああ、そうだったっけ。ほら、そこでため撃ちの用意」
再びエイもどきが出現。レイとアスカが連続して撃ち込んだ必殺シュートの前に、浮遊機雷を射出する間もなくあえなく撃破される。
「あんたはさ、あいつが帰ってきたら、やらせたいこととかないわけ。一ヶ月もサボってたんだから働かせてリハビリさせてやんないといけないじゃない」
うん、とレイ。
カラス天狗の動きからキレが失われた。敵弾をもろに喰らって黒羽が飛び散った。残機ゼロ。コンティニューの残数はあと四回。
「……学校」
え? とアスカは聞き返した。たしか学校と聞こえた気がする。レイの口から聞くには意外すぎる単語だった。
「なんか言った?」
「学校。もう一度碇君と行きたい。碇君がいてアスカがいて、ヒカリも鈴原君も相田君もみんながいる学校」
「……あんた、学校なんかに興味ないと思ってた。いっつもつまらなそうに窓の外を見てるか本を読んでるかしててさ。命令だから行ってたんじゃなかったんだ」
「命令だからよ。でもそれだけじゃない、あの場所にはみんながいたもの。そのことには意味があるわ」
「はあん、なんか小難しいこと言っちゃって。つまりはさ、シンジとおてて繋いで登校して昼にはこれ食べてぇとか手作りお弁当差し入れて、下駄箱にラブレターとか裏庭の一本桜の下で告白とかってゆー、嬉し恥ずかしい学園生活を送りたいと、そういうことなんでしょ?」
「第壱中学の裏庭に桜なんてない」
「つまらないツッコミ入れてんじゃないわよ」
本格的な敵の猛攻が始まった。
ゲームメーカーの『そろそろゲームオーバーになりましょうよ。次の百円玉を投入してくれたらサービスで難易度だって下げちゃいますし、悪くない取引でしょ、ね、ね?』という囁き声が漏れ聞こえてくる。
そんな甘言に乗ってやるわけにはいかなかった。中ボスの凶悪ぶりを考えればここで一機だってやられるわけにはいかない。今度こそ奴を撃破する。撃破して炎上する奴を鼻で笑ってやるのだ。
「初めてじゃないそうよ」
熱中のあまり危うく聞き逃してしまいそうになった。
「……なにがよ」
「サルベージ。十年前にも同じようなことがあったって。今回のサルベージ計画の概要は、もともと碇君のお母さんを初号機から救うために立案されたものなの」
ショットボタンを連打していた指が止まる。――まずい。敵に追い込まれる前に気を取り直した。
「ちょっと待ちなさいよ……あいつのお母様はまだ、」
「そう、失敗。サルベージ計画は十年前に一度失敗しているのよ」
敵の猛攻がやんだ。コントローラを握る手を下ろし、茫然とレイの白い横顔を見つめる。赤い瞳の中に、中ボスの幼生体がゆっくりと浮かんでくるシーンが血に溺れるように写りこんでいた。
雰囲気を盛り上げるテンポの速い曲が白々しく響いている。
アスカはコントローラーを握り締めて叫ぶように言った。
「帰ってくるわよ、バカ! ミサトだってシンジだって帰ってくるに決まってる! ふざけんじゃないわよ、あのバカシンジがね、そんなこと、絶対、絶対、ありっこないでしょ! ミサトだってそう、あの女がただ捕まって大人しくやられっぱなしになってるタマじゃないってのはね、あたしがね、あたしがよく知ってんのよ! 国連だか特別査問委員会だかなんだか知ったこっちゃない、そんな奴らぶっちめてヘラヘラ笑って帰ってくるに決まってる! そうに決まってんのよ!! 当然でしょうが、そんなことっ!!」
行き場のない憤りのすべてを中ボスにぶつけるようにしてショットボタンを叩き続ける。
こいつが悪い。
二日も三日も何十回となく挑戦しつづけてきたというのに、いまだに一度たりとも突破を許さない、こいつがなにもかも悪い。
気色悪い格好をして、しつこく行く手を阻むこいつが絶対に悪い。なんと言っても悪いのだ。
だからショットボタンを叩く。
壊さんばかりに叩き続ける。
◇◆◇
ディスプレイに美しい数式が流れていく。
溜息が出る。
やっぱり先輩はすごい、そう思う。
「たった一ヶ月でこんな計画を完成させるなんて、やっぱり先輩ってすごいです。尊敬しちゃいます」
思ったことがそのまま言葉になっていた。もしかすると瞳がきらきら状態かもしれない。
マヤの背後から覆い被さるようにしていたリツコは、サルベージ計画の概要説明をいったん中断した。
「……残念だけれど、これは私が作った計画じゃないの。母の手になるものよ」
「先輩のお母様というと……赤木ナオコ博士ですか。MAGIシステムの開発者の」
「そう。十年前にも似たようなことがあったのよ。そのときの試みは失敗に終わったのだけれどね。シンジ君のお母さんがその披検体だったらしいわ」
マヤは驚きを隠せなかった。この理論と数式は完璧に見える。完璧なものだけが有する独自の美が感じられたからだ。
「驚いたみたいね」
「あ……はい。だって、これほどの計画が失敗するなんて、それだと明日のシンジ君のサルベージ計画も……」
「条件が違うわ。計画の立案と責任者が私の母で、その被検体がシンジ君のお母さん――ユイさんだったということが十年前の最大の過ちだったのよ。あれは失敗するべくして失敗した計画だったということね」
「どういう……意味ですか」
「あなたが気にすることじゃないわ。今回のサルベージは理論的には完璧。マヤの言ったとおりよ。私がつい一桁だけ計算を間違うような真似をしなければね」
「先輩に限ってそんなこと! それに――それに私もこうして追試をしているんですし、これは絶対に完璧ですよ!」
マヤの全身が硬直した。リツコが背後から抱きしめてきたからだ。驚くほど早く心臓が鼓動を打ち、思ったように舌が回らない。
「すせせせせんぱひっ!?」
「そうね、私にはマヤがいる。あなたがいれば、私が間違ってしまうなんてことないわよね。きっとそうだわ」
まるで自分に言い聞かせているような言葉だった。
何かが違う。リツコが計算間違いなどといったケアレスミスの心配をしているのではないということがマヤにはわかった。それでは、いったいなんの過ちを恐れているというのだろうか。
「いい事を教えてあげる。この計画はもう成功しているのよ。三日前にテストをして、そのときにはサルベージに成功しているの。だからマヤは心配しなくてもいいのよ」
リツコの腕の中で居場所を探して身じろぎしていたマヤは、驚きにくりくりの眼を見開いていた。ゆっくりと振り返ると目の前にリツコの赤い唇。
「で、でも、テストといったってどうやって――」
「ダミープラグ。あれにはね、ヒト一人分の構成物質があらかじめ溶けているのよ。そうでなければ擬似的とはいえ魂を宿らせることは不可能だから」
綾波レイの予備体――その言葉をリツコは飲み込んでいた。
ニセモノの魂に自我境界線を強制的に意識させて、『自分の姿をイメージ』させた。その結果、ダミープラグから現われたモノ――あんなモノをヒトと呼べるのであれば確かにテストは成功していたのだ。
たまらない嘔吐感が胃の奥からせりあがってくる。
マヤを抱きしめる腕にさらに力をこめてそれを押さえ込んだ。
まだだ。
壊れるにはまだ早すぎる。
翌日は雨だった。
いまいましいとアスカは思う。
毎日イヤになるほど暑いというのに、こういう日に限って雨が降る。厚く垂れ込めた雲のせいで気温もぐっと落ち込み、ノースリーブでは肌寒い。なにか不吉な未来を告げられてしまったようで、アスカはどこぞの誰ともわからない相手にむかって口汚く罵ってやりたくてしかたがなかった。
制御室にはリツコとマヤ、その他の技術部のメインスタッフが勢ぞろいしている。
ケイジにはエヴァ初号機が拘束されている。脊髄の位置から突き出ているエントリープラグには幾本ものケーブルがつながれ、サルベージ計画にむけてカウントダウンが開始されていた。
アスカとレイは並んでその様子を眺めている。
少し離れた位置にはフィフスチルドレン、渚カヲルもいた。
アスカはカヲルを極力無視するようにしていた。
カヲルが弐号機への搭乗を拒否したことで、アスカは暫定ではあるが弐号機の専属パイロットの地位に返り咲いていた。もちろんシンクロは不可能でチルドレン登録は凍結されたままだ。
屈辱だった。
自分の力で弐号機を取り戻したのではない、「譲られた」という認識がアスカのカヲルに対する態度を硬化させている。あんなやつはいない、どこにも存在していない――そう思うことでどうにか心のバランスを保っている状態であった。
カヲルの存在を認識すればおそらくは飛び掛って殴りつけてしまうだろう。それは他人から見れば凶行以外の何物でもなくて、アスカ自身もそんな自分を見たくなどないのだ。
だから無視する。
あんな奴は存在しない。ただの人形。
フィフスのことなどどうでもいい。いま重要なのはサルベージ計画のはずだ。
「バカシンジ」
はじめに母親に裏切られ、弐号機は自分の前から消えてしまった。
次にはミサトが消え、そしてシンジが消えた。
まるでうちあわせていたかのように<彼>と<彼女>までが消え、アスカは心のよりどころを次々に失ってきた。
もし今日シンジが帰ってくれば、消えたすべてのものが一度に戻ってくるような気がするのだ。
<彼>はシンジと一緒に帰ってくるだろう。
あの喧しい<彼女>も、<彼>にくっついて帰ってくるに決まっている。
ミサトだって帰ってくる。きっとそうだ。
そしてたぶん、自分は弐号機の母親とも心を通わすことができる。シンクロ率が復活してエヴァパイロットとしての自分も復活するのだ。そうすれば、フィフスだって恐れる理由はなくなる。なにもかもがうまくいく。そうなるはずなのだ――――
そしてそのための第一歩こそが、『シンジ』だった。
帰ってこいと心の底から祈った。
帰ってきたら少しぐらいならサービスしてあげてもいい。
こんな美少女がそう言ってくれることなど、シンジの人生ではこれっきりのビッグチャンスに違いない。誰に聞いたってそう断言するに決まっている。
だから帰ってこい。そんなところに独りでいたって面白くないはずだ。
帰ってくればいいのだ。
自分の所に。
レイの所に。
「帰ってきなさいよ、シンジ……」
十一時十八分。
サルベージ計画が開始された。
◇◆◇
コンフォートマンション17の402号室。
一ヶ月ぶりの我が家は埃っぽかった。雨のしずくが足跡になった部分が、埃で固まってしまいそうな気がする。
ずぶ濡れの全身からぽたぽたと水滴を垂らしていたアスカは、バスタオルで頭をわしわしと拭く。髪が痛むことに頓着しない手つきはいっそ潔いほどだ。
濡れた服をあちこちに脱ぎ捨てて、下着姿でキッチンに足を運んだ。
冷蔵庫を開ける。
一ヶ月前のパック牛乳がえらいことになっている。
シンジが最後に作り置きしていおいた野菜炒めが、ラップの下で緑っぽい何かを自家栽培していた。
アスカは爪を噛み、ミサトの買い置きであるエビチュに手を伸ばす。
プルタブを引き、一気にあおった。
「ぐへ、がほっ!! …………まず」
叩きつけるように冷蔵庫の扉を閉め、もう一口エビチュをあおったとき、視界の隅に緑色に点滅するランプを発見した。
留守電。録音があることを示す点滅。
ずるずると足を引きずって電話機に近づく。『再生』ボタンを押した。
『よお。俺だ』
「加持……さん?」
聞きなれた声。昔は憧れていたはずなのに、ここしばらくは思い出すこともしなかった声。
『この録音を聞いているのはアスカかな。それともシンジ君か。できることならシンジ君であって欲しい。もしもアスカで、これを独りで聞いているのだとしたら……』
「そうよ、加持さん。あたし独り。他には誰もいやしない」
『あまり落ち込むな、アスカ。シンジ君はきっと帰ってくるさ。アスカやレイちゃんみたいな女の子に想われていながら帰ってこないようなやつは男じゃない』
「……ウソツキ」
思いだす。
制御室を飛び交う焦りを含んだ声。リツコが次々と下す指示と、それが効果ないことを告げるオペレータの報告。
最後にマヤの悲鳴のような甲高い声が響いた。
エントリープラグのハッチが勝手に開放されていた。
内部に満たされていたLCLが流れ出て、零れ落ちていく。
シンジだったものが溶けているLCLが、外へと零れ落ちて誰も何もできないまま流れて消えていった。
「加持さんのウソツキ」
『シンジ君なら帰ってくるさ。絶対だ。それから葛城のことだがな、あいつのことは俺に任せておいて欲しい。なんとかしてみせる。信じてくれ』
ウソツキだ。
やっとわかった。
加持リョウジという男はウソツキなのだ。
ウソツキだから優しいのだ。だから大人だと思えて、だから憧れてもいた。
もう騙されない。
ウソツキは嫌いだ。加持リョウジもシンジもミサトもレイもリツコもみんなウソツキだった。だれもホントのことは言わなくて、誰も約束を守ってはくれない。
ウソツキの加持リョウジが、まだ空約束を吐きつづけている。
『葛城には俺も言わなけりゃならんことがある。八年間も言いそびれて、さぞやあいつも怒っているだろうな。はは。だから安心して待っていてくれアスカ。葛城はきっとつれて帰る。そのときにはシンジ君も戻ってきていて、元通りの毎日が――』
唐突に録音が切れた。
ピーという電子音の後に、録音された日時が合成音で告げられる。
――二週間前だった。
「……やっぱり。ウソツキじゃない、加持さん」
気付かなかっただけで、加持リョウジも消えてしまっていたのだ。
誰も彼もがいなくなる。約束なんかひとつも守らずにみんないなくなってしまう。
次はレイの番だ。
きっと彼女も消えてしまう。
それは今日のことかもしれない。たった一人で第十五使徒の迎撃に出たのだから。
使徒はシンジのサルベージ計画が失敗するのを待っていたかのようなタイミングで出現した。
衛星軌道上に浮かぶ輝く羽。もしくは鳥の骨格のような姿。
近接戦闘が不可能な以上、暴走することしかできない弐号機には出番などない。迎撃にはレイの零号機が単独であたることが決定された。
『碇君は帰ってくるわ』
ロッカールームでプラグスーツに着替えながらレイは言った。
『碇君は帰ってくる。信じているもの。――いいえ、私が連れ戻す。諦めたりしないわ』
『無理。見たでしょ、あいつの身体はどっかに流れってっちゃたのよ。あのバカ、帰ってくるのがイヤであたしたちが手出しできないとこに逃げ込んだのよ。つれて帰る? はっ! 冗談も休み休み言いなさいよ』
『アスカはそれでいいの、碇君がいなくなってしまって。私はいや。認めない』
アスカはロッカーを殴りつけていた。ダンボール紙で出来ているかのように、べこりとあっけなくへこんだ。
『認めようが認めまいが、あいつはもう帰ってきやしないのよ! もう帰ってこないの! ミサトもママもシンジも、もう誰も帰ってこないっ!!』
『アスカ』
レイが真正面からアスカを睨みつけていた。それはまるで駄々をこねる子供を叱り付けるかのような表情。冷血とすら思えるレイとは信じられない姿だった。
『碇君は帰ってくる。私がそうするから。だから信じて。信じていれば必ず――――』
「――帰ってきやしないわよ」
バスタオルで頭をすっぽりと包み、アスカは床に座り込んでいた。
心の底の震えが表に出てくるように身体が小刻みに震えている。
寒い。
雨に濡れた身体がすっかり体温を失って、このまま凍りついてしまいそうだった。
第十五使徒が零号機によって撃破されたという知らせが届いたのは、深夜を過ぎた明け方近くのことであった。