優しさは時に裏切りとなる。 うそを誠に変えるのはうそを付いた者しかいない。 それは、この誠には無理だ。 美しい空はその方法を知っているかもしれない。 しかし空はそれを教えてはくれない。 だから、 今は微笑み続けよう。 今は黙っていよう。 今は…。 うその少年 by葉月 アスカはいつものように残業にならないよう適度な仕事をして帰路へ着いていた。 赤いニットに黒のスカート、黒のヒール、黒のバック。 25のアスカにはまだ早いのか、それともこれくらいがちょうどいいのか、道を通るほとんどの人々が振り向きざまにアスカの後ろ姿を見る。 それもいつもの事だ。 見られる事に対して良い気分ではないがもう慣れてしまった、早く家へ帰るのみだ。家へ向けての最後の少し長めである坂道を上りながらアスカはそう思った。 何色なのだろう。強いて言えば藍かもしれない。そんな色の微風がこの街すべてを包んだような気がする。6月だまだ夜は寒いだろう、アスカは身震いをした。 コツコツとヒールの音を響かせながらいつものようにマンションの正面に立ったとき、アスカはいつもでは見られないような光景を見る。 少年。 中学生ほどだろうか、少年が不思議なオーラを漂わせ佇んでいた。座るでもなしになにかを探すでもなしに。非常に中性的である。アスカが少年だとかろうじでわかったのは彼が普通男子が身に纏う学生服を着ていたからだった。彼は目を閉じている。 そのまま通り過ぎるのはあまりにも酷いのではないか、そうアスカの優秀な頭脳はいう。 やはり声をかけた方がいいと結論を出し意を決して少年に歩み寄った。 「僕、見かけないけどどうかしたの?」 いきなり話かけられ驚いたのかどうか、少年は目を見開いた。彼の長いまつげが震える。瞳が純粋な黒、キラキラと輝いていた。アスカはそれを冷静な気持ちで見る事が出来なかった。綺麗、かわいい、そして儚い。色々な思いが身体を駆け巡る。 「…。」 一瞬の驚きの後、少年は何事もなかったかのようにまた目を瞑った。それがアスカにはカチンと来た。さっき感じたあの想いを持て余す。 「ちょっとあんた、無視してんじゃないわよ。」 「…。」 「ちょっと。」 「…。」 「なんか言いなさいよ。」 「…。」 それでも依然無視を続けた少年にアスカは一言叫んだ。 「サイアク。」 そして黒のヒールを鳴らし、アスカは不機嫌なまま自分の家へ帰る事になる。少年はそれでも目を閉じただ風に身をまかすかのように佇んでいた。それがアスカには気取っているように見えてさらに苛立った。 前編 嘘 「気持ち悪い少年ねえ〜。」 「ほんとにサイアクなのよ。」 アスカが務めているのは世界最大の薬品メーカーである。入社試験の倍率は百倍とも二百倍とも言われているので文字通りこの会社に入ることは一種のステータスでもあった。 「でもそういうのもいいわね。非現実的で。」 「はあ!?信じてないいでしょ。」 友人であるヒカリはあまり信じてない様子でアスカは不満だ。 「まあいいから仕事しないと、もう8時25分よ。アスカは研究室行かないといけないんじゃないの? 「はあ、もうわかったわよ。じゃあお昼にね、ヒカリ。」 手をヒラヒラと振るアスカ。昨日の黒ヒールではなく今日はうすピンクのサンダルだ、本当になんでも似合う。人を引きつけて離さない瞳、笑顔、輝く金の髪、すべてが整い過ぎている彼女にヒカリはアスカと出会った時に覚えたほんの少しの嫉妬をふと思った。 「おはようございます。」 『薬品開発検討チームB』とかかれたプレートは少しさび付いている。手元に持っている白衣に素早く身を通し、アスカは仕事の顔へと変えた。 「惣流君、2分遅刻だ。とりあえずテーブルにあるものを片付けてから『研究室B』にきてくれたまえ。」 「そうよ、矢島さんの言う通りよ。」 見た目からして悪代官のような矢島にどうもアスカは好きになれない。もちろん見た目だけでなく中身も悪代官なのだが。そういえばどこかで聞いた話によると文部科学省からの天下りらしい。真っ赤なYシャツはまったく似合っていない。 「惣流さん、これとこれもコピーお願いねー。」 矢島の娘である矢島ヨウコは茶色く染めた髪をいじりながら紫の口紅のついた唇でいやらしく言葉を紡いだ。去年の夏にアスカが開発したボディーソープがこの冬の一番のヒット商品になった事をまだ根に持っているのだろうか。 ヨウコの子分達は意地悪く笑うと研究室に向かっていく。 アスカは反論しなかった。内心殴り倒したい気持ちでいっぱいだがあんな事ごときで会社を首になったらそれこそシャレにならない。今は不景気なのだ、まだ若いとはいえうまく転職できるとは限らない。 「わかりました。」 こういう時は素直に頷くしかない、後でヒカリに愚痴るしかないのだ。さっさと片付けてコピーをとり研究室に向かった方がどれくらいましか。テーブルを片付け始めたアスカを彼等はギラついた瞳で見つめていた。彼女の溢れんばかりの美貌と才能に嫉妬をえいているのかもしれない。 あの後片付けが遅かったという理由で矢島達に押し付けられた残業のせいで会社を出る頃にはもう九時になってしまった。 「はー、サイアク。って最近この言葉ばっかり、やっぱり欲求不満なのかな。」 昨日の藍より更に濃く深い色の空をアスカは目を細めて見た。しかし長い坂道のアスファルトよりは柔らかい、それが自然のものだからだ。少しばかり感傷に浸りながら坂道を上りマンションの正面に来た時また昨日の少年をまた見ることになる。 今日の朝はいなかったはずだ。もう目的を達することが出来たんだと勝手に解釈していたがやはり違っていた。少年は昨日よりさらにマンションに近づいた形で目を閉じ、ただ佇んでいた。 一つ違っていた点は彼の顔色が優れない点だ。それがまたその少年を神秘的にさせているのだが。 アスカは溜息をつくと少年の真正面に立ち口を開いた。 「ちょっとアンタ、ずっとここに居られちゃ困るのよ。」 「…。」 昨日と同じで無言であった。やはり通り過ぎた方がよかったと思ったが次の瞬間そんな考えは吹き飛んだ。 ぐらりと言ったらいいのか、まさにそんな音をたてるかのようにその少年の身体は傾いていく。 「ちょ、ちょっとアンタ。」 慌てて抱きかかえると少年の暖かさが確かにアスカの手から身体へと伝わる。初めてこの少年に出会った時のあの感じが蘇る。アスカは無意識のうちに笑みをたたえるとそのまま少年を自分の家へと連れて行った。 少年が目を覚ました時、部屋は暗かった。すぐにたち上がったがまたふらっとバランスがとれないまま崩れ落ちる。何度かそのような事を繰り返すと疲れ果てたのかその場に腰をお下ろした。 「起きたの?」 透明な声が部屋中に響き渡る。アスカは少年の下へ駆け寄るとすぐさま冷たい麦茶の入ったコップを差し出した。 「ホントはアタシが飲むとこだったんだけどあんたに譲ったげるわ。」 少年の瞳がなぜだか一瞬揺らいだのだがコップに手を伸ばすと一気に喉へ流し込んだ。 「で、今度はちゃんと答えてもらうけどあんたの名前は?」 「シンジ。」 「名字は?」 「…。」 「なんなのよ?」 「…。」 無言と共に出来る静寂が部屋を支配した。秒針の動く音にアスカは妙にいらつく、ちらっと時計に目をやるとちょうど長針は3をさしていた。 「もういいわ。」 空になったコップを台所へ持って行こうとした時自分からは決して話そうとしなかった少年が口を開いた。 「なんで僕をここに連れてきたの?」 「あんた自己主張はできるみたいね。私めがけて倒れこんできたからよ。」 「運命なのかもしれない。」 「何言ってんの?それよりさあ行くとこないの?」 「わからない。」 シンジは哀しいという言葉を知らないかのように無表情で答える。窓からの風で彼が寝たときにそうなったくしゃくしゃ髪の毛がほどけた。 「アタシのとこに居れば。」 アスカはアスカ自身自分が今言った言葉に驚いた。財政的には大丈夫だろう、部屋の広さも部屋数もアスカ一人では有り余るくらいなのでそれも安心だ。 でもモラル的には? まだ子供とはいえ外見は中学生か高校生くらいに見える。力はアスカより弱そうな感じだがわからない。やはりマンションの住人にばれるとウワサになることもある。 「いいの?」 「アンタはいいの?」 「…。」 考えるというよりは何も知らないという感じ。不思議な子だ。今までいろんな人と出会い別れ、時にはすれ違ってきたが彼のような人は初めてだった。 「どうなの?」 無言で頷くシンジにアスカはどうしてだろう、ホッとした。 アスカの家にハンバーグの良い匂いが漂っている。シンジはアスカの帰りをいまかいまかと待っている。アスカも今日は早く帰って来ると言っていた。ポツポツと降り出した雨を視界に止めながら今朝カバンに入らないと言って持って行かなかった赤い折りたたみ傘の事を想った。 「ごめん、ちょっと遅くなったかな?」 服は少しばかり濡れている、やはり雨に降られたのだろう駅からマンションの前の坂さえも自分のために走ってきてくれたのかと思うとうれしい。そして何より昨日、何のココロもなかった自分を変える事が出来たのがうれしい。 「ううん、ちょうどよかったよ。ハンバーグ作ってたから。」 「へっ!?ハンバーグ?」 アスカは目を大きく見開いた。昨日の段階でシンジに料理が出来ると誰が予想しただろうか。なにより彼が元気な声で自分と会話をした事だ。帰って来てからの言葉とて返事を期待したものではない。しかし一瞬怪訝な表情を見せたアスカも深くは考えなかったのか二人で食べようと買っておいた冷凍のピザの入った袋を床に置き、さっさとシンジのそばへとやってきた。 「どういう風の吹き回し?あんた昨日死にそうだったじゃない。」 「生き返ったんだ。これが本来の僕だよ。」 一瞬硬い表情を見せたシンジをアスカが見逃すはずがない。これ以上この事に触れても良い結果は見出せないだろう。本当に昨日、シンジがどうかしていたのかもしれないしそれはわからない。わからない事をぐだぐだ言っていてもしょうがないのだ。 「ふーん。でもよくわかったね。アタシがハンバーグ大好物だって。」 「えっそうなの?」 「うん、知らなかったんだ。」 「ちょうどよかったよ。ふふふ。」 シンジの純粋な笑顔は普段会社で疲れきっているアスカを癒した。 「んじゃ冷めないうちにさっさといただきましょうか。アタシ着替えてお皿とか出すからさ。」 「いいよ、お皿とかも僕が出すからさ。」 「わかった。お願いねー。」 ただジュウッと音をたてているハンバーグは、アスカの知らないところで黒くなりつつあった。
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