いまでも鮮明に思い出すことができる。

あの日、わたしとあいつとの関係が壊れる一番最初のきっかけになったのであろう、あの
瞬間のことを。



     *     *     *     *     *     *



「ねえシンジ。キスしよっか?」

悶々としてた想いを振り払うように、わたしは唐突に口にした。
本当は、いつ言おうかずっとタイミングを探してたその言葉を、いかにもいま思いつきま
した、という感じで、なんでもないことみたいに。

けれど、イヤホンで耳をふさいでたシンジは聞こえてなかったみたいで。

「? なに?」

乙女が思いきってとんでもないセリフを言ったってのに、このバカシンジ!
ホントにデリカシーの欠片もないんだから。

そんな不満が、胸の中では爆発していたけど。

でも、ムキになったらさっきからずっとこのことを考えてたのがばれちゃうんじゃないか
と不安になったから、ぼんやりした調子を崩すことなくわたしは言葉を繰り返した。

「キスよ。キス。したことないでしょう?」

「うん……」

やっぱり。
そうは思ったけど、安心もしてた。
もしかしたら、ファーストと……って、ほんのちょっとだけ思ってたから。

だから、あいつがわたしとおんなじ、なんにも知らないお子さまなんだってコトが嬉しか
った。
あいつがわたしと同じところに立ってくれていたことが、とてもとても嬉しかった。

「じゃあしよう」

「どうして!?」

「退屈だからよ」

違う。
そんな理由で、突然こんなことを言いだしたわけじゃなかった。

好奇心から、という部分は少なからずあったとは思う。
加持さんとミサトが今頃そうしてるんじゃないか、そんなことを考えると、自分たちと彼
らとが果たしてどう違うのか、彼らが見ている景色というのがどんなものなのか、それを
知りたいと思ったのは確かだ。

でも、その相手にあいつを選んだのは。





わたしはそのとき、あいつに「わたしにとっての特別な存在」になって欲しいと望んだの
だと思う。





加持さんに対する想いには、そのときすでに、どこかで整理をつけてしまっていたから。
加持さんはもうミサトのものなんだって、諦めてしまっていたから。

いつの間にか、わたしの中で加持さんと同じくらい大きな存在になっていたあいつの手で、
最後の決着をつけて欲しかったのかもしれない。

その日はたまたま特別な日で。
あいつがはじめて聴かせてくれたチェロの音色が、わたしの心を安らぎで満たしてくれて。
チェロを夢中で弾き続けるあいつの後ろ姿に、わたしはちょっだけドキドキして。

少しだけ、ほんの少しだけ、いつもよりも雰囲気が良かったから。

だから、ミサトから電話があって、もしかしたら加持さんと、って思ったときに、わたし
はその計画を思い立ったのだ。

あいつがわたしを意識してくれているのは知っていた。
だから、きっと受け止めてくれる。
いつかの加持さんのように、わたしの方を見もせずに拒絶した、あんなことは絶対しない
に決まってる。

だって、シンジは優しいから。
優柔不断でイジイジしてて、ちょっとネクラで冴えなくて。
それでもあいつは、いつもわたしを助けてくれたから。

だからきっと、今回も。

あいつはバカで鈍感だけど。
でも、わたしがあいつに見せる態度が特別なんだって、気づいてくれてるはずだから。
イジメてるんじゃなくて甘えてるんだって、どこかで解ってくれてるはずだから。
わたしのことを……好きでいてくれてるはずだから。



そんなことを考えて、悩んで悩んで、ずっとタイミングを探し続けて。
なんでもない風を装って、いかにもたまたま思いつきましたって調子を偽って。

わたしはあいつを誘ってみたのだ。

尻込みするのはわかってたから、皮肉と挑発を織り交ぜて。
なんだかんだで負けず嫌いなシンジのことだから、そうすればきっと乗ってくる。
そんな予想は、案の定的中して。

「歯、磨いてるわよね」

ファーストキスが、さっき食べたお夕飯の味だなんて厭だった。
それから、ほんの少しの照れ隠し。

肯くシンジの姿に覚悟を決めて、わたしはシンジに近づいた。

そのときのわたしの歩き方といったらひどいものだった。
軽く拳を握って肩を怒らせて、足音も荒くずかずかと、顔は眉間にしわ寄せて。
まるで、これから使徒との戦いに赴くみたいに。
ムードもなにもありゃしない。

でも、そのときは本当に必死で。
顔が赤くならないように、声が震えないように、自分を抑えるので精一杯で。



大丈夫。
きっと大丈夫。

ほんのちょっとだけ怖かったけど。

キスをすることも、シンジの反応も。

けど――シンジはわたしを受け容れてくれるって、そう信じてた。







……それが、世間知らずでバカな小娘のガキっぽい幻想でしかなかったってコトに気づく
のは、ほんの数分後のお話。















そして、わたしたちの関係は、徐々に徐々に壊れはじめた。



















この時の流れの中で (前編)


「ヘル・ミューラー。申し訳ありませんが、この報告書ではとうてい納得できません」 わたしの冷淡な言葉に、目の前の紳士が屈辱で肩を震わせるのがわかった。 娘のような年齢の女に尊大に振る舞われ、不愉快に思う気持ちはわからないでもない。 けれど、わたしの心には微かな同情も湧き起こらなかった。 よぎるのは、むしろ軽侮と落胆だけ。 「なにか弁明がありますか?」 「……いえ。速やかに作成し直します、フロイライン・ソーリュー」 表面だけは恭しく従順に、けれど傍目でもわかるほどの敵愾心をにじませて、男はわたし の手からディスクを受け取った。 ……ふん。お嬢さん、ね。 わたしを上司としては認めない、つまりそう主張しているってわけ。 下らない男。 まあ、いちいち部下に「ヘル」なんてつけて呼んでいるわたしに言えた義理でもないんで しょうけれど。 わたしみたいな小娘に従うのが厭というなら、きちんと能力でわたしを超えることを証明 してみせればいい。 それができないからわたしを上司と仰がなくてはならなくなるというのに、根本的なとこ ろでそれがわかっていない。 男尊女卑に根ざす下らないプライドばかりに凝り固まった、旧世紀の悪しき遺物。 それが、わたしのこの男に対する――いえ、この支部に所属するほとんどの男性所員に対 する評価だった。 結局、わたしの人生でまともな男に巡り会えたのは、幼いあの頃だけだったというわけね。 時計を見る。 いつものように、定時はとうに過ぎている。 それなのに、作業状況は15パーセントの遅延。 ……本部でなら考えられない数値だわ。少なくとも10年前なら。 まだまだ、あなたには遠く及ばないということかしら。 取り立てて親しかったというほどでもない、むしろ内心では嫌っていたであろう女性の姿 を脳裏に思い浮かべながら、わたしは嘆息する。 使徒という常識外の敵の脅威によって、所員の心がひとつにまとまっていたというのはあ るだろう。 それにしても、彼女が現在の自分と同じ苛立ちを抱えるさまは想像できなかった。 それだけ彼女の能力が認められていた、ということなのだろうか。 いずれにしても確かなのは、これ以上わたしがここにいても部下たちの気持ちをささくれ 立たせるだけで、作業効率の向上の阻害にしかならないだろう、という現実だった。 「……今日はもう上がらせてもらうわ。  みんなもあまり根を詰めすぎないで、きりのいいところで上がってちょうだい」 おざなりに声をかけ、わたしはバッグを取り上げて席を立つと、忙しくキーボードを叩く 部下たちには目もくれずに部屋を出る。 自動扉が閉ざされた途端に、室内の空気が一気に弛まる気配がドア越しに伝わってきた。 ……明日出勤したときに、劇的に仕事が進んでるなんて夢を抱かないほうがいいわね。 このあとは、どうせわたしの陰口やあげつらいで盛り上がるんでしょうから。 わたしが男たちからなんて呼ばれているのかくらい知っている。 アイゼルネ・ユングフラウ――鉄の処女。 中世の処刑道具とおんなじ、実にありふれた俗っぽい渾名。 もしかしたら、氷とも掛けているのかもしれない。 このドイツ支部に配属されてから10年、わたしは数多の男性たちの誘いを受けてきた。 けれど、その求愛に応えたことは皆無。 そもそもあの連中にとっては、わたしの外見と「かつてのセカンドチルドレン」という称 号だけが重要だったのであって、「惣流アスカ=ラングレー」というひとりの人間を見よ うともしてくれない相手に、なんでいちいちまともな受け答えをしてあげなくちゃいけな いのか。 けれど、あいつらはそうは受け取らない。 わたしがいつまでも独り身を通しているのは、わたしが男を見下しているからだと考える。 わたしの言動の厳しさを、男を受け入れたことがないせいだと揶揄する。 そして、24にもなってまともに男と付き合ったこともない可哀想な女だと、わたしのこ とをバカにする。 そうすることで、自分たちのプライドを保っている。 ……どうしようもないゲスども。 あんたたちがそんなだから、わたしが頑なになるしかないのよ。 まともな男なんて、どこにもいやしない。 生まれてはじめて恋心を抱いたあの人は、わたしの知らないところで知らないうちにいな くなってしまった。 いったいなにがあの人の身に起こったのか、今でもわたしにはわからない。 そして、あいつは――      *     *     *     *     *     * 「ただいま、シンジ!」 玄関に入るなりそう声をかける。 部屋の奥の方から、ばたばたと駆け寄ってくる気配。 飛びつくようにじゃれついてきたたったひとりの家族を、わたしは力一杯の愛情を込めて 抱きしめた。 シンジは犬だ。 雑種らしくて犬種はよくわからないけれど、白くてちっちゃい犬。 わたしが住むこのマンションの前に捨てられていたのを、なんとなく拾ったのだ。 その可愛らしさに心動かされなかったというわけではないけど、飼おうと思うほどのもの でもなかった。 そもそもわたしに生き物の世話が務まるなんて、とても考えられなかったし。 自分の家でこの犬にじゃれつかれたりするのは疎ましいとも思ったし、風呂やトイレの世 話なんて面倒でいちいちやっていられない。散歩だってそうだ。 けれど……なぜだかわたしは、この子を家に連れ帰っていた。 ……さびしかったのよね、要するに。 ママやミサトと一緒。 心の隙間を埋めてくれるんだったらなんでもよかった。 人間の、男以外だったらなんでも。 それから、理由がもうひとつ。 ボロボロの段ボール箱の中からわたしを見上げる、濡れた黒い瞳が。 人間に対する不信を露わにしながらも、それでもだれかの温もりを求めずにいられない、 そう主張するように寂しげに揺らめく瞳が。 まるで、自分の瞳を見ているようで。 遠い記憶の中に埋もれたはずの、あいつの瞳を見ているようで。 だから、わたしはこの子をシンジと名付けた。 名付けたというよりは、 「あんた、シンジみたいね」 なんて言葉を繰り返しかけてやってるうちに、この子がその名前を自分の名前だと勘違い してしまったという、それだけのことだったけれど。 シンジは甘えるように鼻を鳴らし、ぺろぺろとわたしの頬を舐めてくる。 「こら、くすぐったいわよバカシンジ」 そんなことを言いながらも、そうやって親愛の情を示されることに喜び安らいでいる自分 がいる。 この子と出会ったときは、そんな行為も疎ましいだけだろうなんて考えていたのに。 シンジと暮らしはじめてから、もう3年。 この子の顔を見るたびに、あいつとともに過ごした時間を懐かしんでいる自分に気づく。 つまらないことでケンカして、それでも毎日楽しくて、一緒にいられる時間を純粋に幸せ だと感じていられた、あいつと出会って間もない頃を。 苦笑いしか出てこない。 身勝手な、バカな女。 あいつから逃げ出したのは、他ならぬわたし自身なのに。 別に赦したわけじゃない。 シンジの餌を用意してやりながら、無意識に首筋を撫でる。 わたしは、あいつに殺されそうになったんだから。 あのとき、わたしの首から手を放したあいつが、すすり泣きながら流した涙が悔恨による ものだったとしても。 わたしを殺そうとしたその行為を、わたしは絶対に赦すことができない。 ……そのはず、なのに。 一心不乱に、シンジが餌を食べている。 わたしなんかと暮らしているせいで、食事は不定期、散歩も不定期。 こんな環境が犬にとっていいはずないことくらい、生き物に疎いわたしにだってわかる。 それなのに、この子はわたしのことを責めたり詰ったりするような真似はしないで、わた しの帰りを毎日いい子にして待ち続け、わたしを慕って甘えてくれる。 名前が同じものだから、混同してしまっているのかしら。 もしかしたら、あいつもわたしに対して、この子みたいに振る舞ってくれるかもしれない、 なんて。 わたしのことだけを考えて、わたしの寂しさを埋めてくれるかもしれない、なんて。 そんなバカなこと、あるはずもないのに。 「ねえシンジ。わたしと一緒で、あんたは幸せ……?」 首筋を撫でてやると、シンジは食事を中断し、甘えるようにわたしの太股に頭をこすりつ けてきた。 飢えを満たすことよりも心を満たすことを優先している、そんなしぐさ。 その相手がわたしであることに、たまらない幸福感がこみ上げてくる。 「……わたしがあんたを、あいつの代わりに見てるだけだとしても……?」 唇から漏れる残酷な言葉。 けれど、偽悪的な、あるいは嗜虐的な気分は不思議と起こらなかった。 胸を衝くような切なさに、涙がこぼれ落ちそうになる。 こんな幸せな時間を、もしかしたらあいつと一緒に過ごすこともできたんだろうか。 あのとき、どこかでなにかが狂ってしまい、わたしたちはかつてのようにまっすぐお互い を見つめることができなくなってしまったけれど。 その、だれが犯したとも知れぬ過ちを正すことができていたなら、わたしとあいつは今も 同じ時間を共有することができていたんだろうか……。 食事を終えてじゃれついてくるシンジの体を抱き上げて、わたしはデスクの上のPCの電 源を入れた。 毎日の日課。 日本にいるわたしのたったひとりの親友から届く、メールの確認。 この10年間、ヒカリはわたしに欠かさずメールを送り続けてくれている。 2年前に結婚してからは閑になったのか、ほとんど毎日の状態だ。 あれから直接には一度も会っていないというのに、よくも続くものだと我ながら感心する。 無論、それもヒカリによる、わたしとの交流を絶やさぬようにとの不断の努力があっても のだ。 良い親友を持ったんだと、今さらながらに実感できる。 ヒカリのメールの内容は、だいたいが近況の報告だ。 最近は旦那である鈴原とのノロケ話がやたらと多いが、彼女が幸せな証と考えればそれほ ど腹も立たない。 この10年、一度として日本の土は踏んでいないわたしだけど、ヒカリからのメールがい ろいろなことを教えてくれる。 青葉さんとマヤが結婚したこと、 日向さんがサードインパクトによる孤児たちを保護するために孤児院を開いたこと、 相田がその手伝いをしていること、そこで10歳年下の女のコと最近いい雰囲気になって るらしいこと、 冬月副司令が亡くなったこと、 ペンペンに奥さんができたこと……。 けれど、その中にあいつに関する情報はひとつもない。 最初の頃はヒカリもあいつのことを報告してくれていたのだが、わたしはその部分だけを 読みもせず、返信メールでもあいつのことに関してだけは一切触れなかった。 他の連中のことに関しては、ひとつひとつ丁寧なレスをつけていたので、それはなおさら 目立ったはずだ。 ヒカリもわたしがあいつのことを話題にしたくないことに気づいたらしく、いつからかメ ールにその名前が記されることはなくなっていた。 今では……少しだけ、後悔している。 あいつが今、なにをしているのか。 元気でやっているのか。 もしかしたら、可愛い奥さんを見つけて幸せな家庭を築いているんじゃないか。 事故や病気で死んでしまったりはしてないだろうけど……。 そんなことをどれだけ考えたところで、知ることはできないのだ。 今さらあいつの名前を出して、どうしているか教えて欲しいだなんて、尋ねることもでき ない。 だから、わたしはヒカリに、犬のシンジのことも教えていない。 あの子にあいつの名前をつけて寂しさを紛らわせているなんて、そんなのあんまりにも惨 めだから。 メールソフトを立ち上げ、新着メールを確認。 来てる来てる。 本当に筆まめな子だと、わたしは少しだけ苦笑いした。 『アスカ、元気してる?  今日は、ビッグニュースがあります。  なんと、マヤさんがまた妊娠したらしいです!』 わたしは呆気にとられてディスプレイを見つめた。 マヤももう、35だか36のはずよね……。 なんていうか、頑張ってるのね、あのふたり……。 『現在2ヶ月目だって。  いいなあ。わたしもそろそろ、トウジとの赤ちゃん欲しい〜。  でも、トウジも最近忙しいからあんまりワガママ言えないし……』 鈴原は、現在ネルフ本部の技術開発部に所属している。 正直、これは意外だったけど、、忙しくてろくに家に帰っても 来ないし、帰ってきてもパタンキュウですぐ寝てしまうらしい。 一度、からかい半分に浮気してるんじゃないのかと苛めてみたことがあったけど、答えは 自信満々に「それは有り得ないわ」ですって。 なんでも、鈴原の上司がとっても真面目で誠実な男性で、おかしなことをしないように鈴 原の手綱を握ってくれているそうなのだ。 そんな話を抜きにしても、ヒカリは鈴原のことを信頼しているようだ。 はいはい御馳走様と、わたしとしてはそう言うしかない。 『あ、それから、ペンペンが浮気したのよ!  ペンギンのくせに不潔! 信じられない!  奥さんに何度も何度も噛みつかれて、土下座して謝ってました』 あはは、ペンペンもやるもんだわ。 ちなみに、ペンペンの奥さんっていうのはペンギンじゃなくって猫。 正直、馴れ初めはヒカリからのメールをもらっても理解できないんだけど……とにかくヒ カリによると、種族を越えた愛、らしい。 なんていうか、ペンペンもなんでもアリよね、本当に……。 それにしても浮気って……相手はやっぱり猫かしら? そんな調子で、とりとめもなくヒカリからのメールは続く。 なんでも相田は、最近自分がロリコンなんじゃないかと悩んでいるらしい。 相談を受けてなんて答えたらいいか迷った、ですって。 なんじゃないかじゃなくって正真正銘のロリコンよ、相田! ……多分、わたしの部下たちは想像もできないだろう。 わたしがこうして、PCの前で子供みたいにニコニコしながらメールを読んでる姿なんて。 ヒカリからのメールを読んでいるときは、わたしはあの頃に戻れる。 14歳の頃、無邪気で何も知らなかったあの少女の心に戻ることができる。 ……それなのに。 メールには、相変わらずあいつのことが書かれていない。 心が14歳に戻っても、あいつの姿だけがここにはない。 『そうそう、ねえアスカ、あなた、まだ恋人とかできないの?  できてないんでしょうね、なんにも報告がないところを見ると』 その一文に、わたしはムッと眉をひそめた。 最近、ヒカリはやたらとわたしに恋人の有無を確認してくる。 わたしが何度、そんな意志は毛頭ないということを告げても、だ。 鈴原と結婚して幸せなのはわかるけれど、正直疎ましい。 『どうして作ろうとしないの?  アスカだったら美人なんだから、どんな男の人だってよりどりみどりでしょう?』 その文章が、いっそうわたしの不快感を煽る。 よく、自分が幸せになった途端、周囲の人間の世話をはじめたがるタイプの人間がいるけ れど、まさかヒカリがそうだとは思わなかった。 無神経だし……なによりも、今のわたしにはとっても辛い。 シンジを拾う前であれば軽く流すことができただろうだけに、なおさら。 恋人なんて、要らないわよ……! ヒカリに対する黒い感情をそれ以上直視したくなくて、わたしは途中までしか読んでいな いにも関わらず、メールボックスを閉じた。 PCの電源を落とし、椅子から立ち上がる。 わたしの膝の上で大人しくしているシンジに視線を落とした。 それは、逃避でしかなかったのかもしれないけれど。 「お散歩行こっか、シンジ?」 ワン! とシンジは元気に吠えた。      *     *     *     *     *     * シンジは散歩が大好きだ。 賢いシンジは綱が要らない。 そんなものがなくっても、わたしとの距離を見失ったりしないから。 そのおかげで散歩中は自由気ままに振る舞うんだけど。 とにかくはしゃぐ。駆け回る。 足が短いせいなのか、走るのはあんまり得意じゃなくてすぐ転ぶのに、それでも元気に駆 けずりまくる。そして豪快に転びまくる。 今日もそのパターンの連続だった。 「ほら、バカシンジ。あんまりはしゃぐんじゃないわよ」 ドイツの冬は寒い。 10年前、はじめて日本を訪れたとき、そのあまりの暑さに辟易としたものだけど、その 日本から1年ぶりに帰ってきたとき、ここの寒さにうんざりしたものだ。 わたしはあの頃、自分で考えていた以上に日本に馴染んでいたのかもしれない。 日本の風土というよりも、日本でわたしを取り巻いていた人々との生活に。 そして、ドイツで感じた寒さとは、心細さによるものだったのかもしれない。 『まだ恋人とかできないの?』 ヒカリの言葉が思い出される。 ……一度だけ、というか一瞬だけ、男を好きになってみようかと思ったことはあった。 相手は、ネルフとはなんの関係もない、画家志望の貧乏学生。 当時、わたしはまだ17か18か、それくらいの小娘で。 わたしをモデルに絵を描きたいと、そう彼から持ちかけてきたのがきっかけだった。 わたしはそのとき、まだ現在のような管理職にも就いていなくてそれなりに閑だったから、 なんとなく――そう、なんとなくとしか言えないような理由でOKをして。 それからだいたい2ヶ月くらい、週に一度のペースで、わたしは彼のカンヴァスの前に立 つことになった。 今にして思えば、わたしは彼の冴えない風体に、あいつの姿を重ねていたのかもしれない。 それくらい、取り立てて特筆するところのない、凡庸な男だった。 絵にしても、特に夢があるわけじゃない、他になんにも持ってないからそれにしがみつく しかなかったっていうだけで。 ……思い返せば思い返すほど、あいつにそっくり。わたしにも、ね。 当時はそんなこと、考えもしなかったのだけれど。 彼は、あいつと違って、強気で乱雑な印象もあったから。 ある日、わたしは彼に告白された。 その瞬間のわたしはただただ呆然とするばかりで。 あいつの姿を重ねていると、そんな自覚もなかったわたしにとって、彼は単なる気分転換 の相手でしかなくて、好意とかそんな感情からはかけ離れたところにいたのだ。 いつまでたっても答えを返さないわたしに業を煮やして、彼は突然わたしを抱きすくめた。 そのとき、わたしは……別にいいか、と思った。 わたしをモデルとして見つめているときの目に邪心を感じたことはなかったし、付き合っ て無駄と感じるほどに下らない男というわけでもなかったし。 けれど。 わたしに受け容れる覚悟があると考えたのか、彼が唇を寄せてきたとき。 彼の鼻息が、わたしの顔をくすぐったとき。 わたしの脳裏に蘇ったのは、あの忌々しいファーストキスの記憶だった。 (鼻息がこそばゆいから、息しないで) あのとき、わたしの言葉に驚いて目を開いたあいつの顔と、直後に触れ合った唇の生暖か い感触が。 ほんの一瞬、心にかつてない温もりと充足感を与え、病を数えるごとにわたしの心を凍て つかせ痛めつけたあの行為が。 あいつにはじめて拒絶されたと感じた、あの瞬間の喪失感が。 まざまざと思い起こされ、気がついたとき、わたしは彼の体をはね除けていた。 「悪いけど」と一言だけ告げて、わたしはそのまま、彼のアトリエから立ち去って。 彼は追いかけてこなかった。 それ以来、彼とは会っていない。 多少の罪悪感はあったけれど、それを償おうとは思わなかった。 はっきり言えば、わたしにはもとから恋愛のつもりもなかったし、彼はそうした相手とし てわたしが認めることのできる人間ではなかった。 それだけのことだ。 なによりも、わたしはあのとき、思い知ってしまったから。 わたしの時間が、10年前のあのときから動いていないことを。 呼吸を求めて、わたしから身を引き剥がしたあいつ。 それを拒絶としか感じることのできなかった自分。 もしもあのとき、ほんの少しでもなにかが違っていたならば。。 わたしとあいつの関係も、もっと違うものになっていた可能性もあったのではないか。 もっと、優しく穏やかな想いを互いに抱きあうことができていたのではないか―― 体は成長し、心が変化してもなお、わたしはあの時間から抜け出せないでいる。 あの瞬間に帰りたいと願っている。 あの瞬間からもう一度やり直したいと、想い続けている……。 歩みを促すシンジの鳴き声に、わたしははっと我に返った。 物思いに沈むうち、足を止めてしまっていたらしい。 わたしより少し前のほうで、シンジが可愛らしくお座りをして待っている。 今にも走り回りたいのだろう、体のあちこちがうずうずしているのがわかった。 「はいはい、待たせて悪かったわよ、シンジ」 さっきも言ったけど、シンジは賢い。 多分、ペンペンとおんなじくらいには。 どんなにはしゃいで興奮しているように見えても、わたしの足が止まれば待ってくれるし、 わたしが突然行き先を変えてもちゃんと付いてくる。 ほんと、あんたみたいな犬を捨てた主人は、よっぽどのバカだわ。 あいつと違って、こんなに可愛くてお利口さんなのに。 シンジに追いつき、頭を撫でてやろうとしたとき。 突然、シンジが耳をピンと立てて、路地裏に向かって駆け出した。 「ちょっと、シンジ!?」 まったく、褒めた傍からこれなわけ? 前言撤回、やっぱりあんたもバカシンジだわ。 シンジを追って路地裏に駆け込む。 T字路になった、3つの路地が交差するそこにシンジはいた。 銀髪の男性に戯れながら。 「ご、ごめんなさい! わたしの犬なんです、その子!」 しゃがみ込んでシンジの頭を撫でてやっていた男性が顔を上げる。 あらまあ、綺麗な子。 というのが第一印象。 夜目にも鮮やかな銀髪に赤い瞳、整った顔立ち。 わたしは、10年前に亡くなった知り合いの少女の姿を咄嗟に思い浮かべていた。 髪の色は彼女の方がもう少し濃かったかも知れないが、その赤い瞳は同じもの。 顔立ちは似ていないから、近親者なんてことはないだろうけど。 男性とは言ったが、年齢は若い。 多分、10代の半ばくらいだろう。 日本の学生が着るような開襟シャツと黒いズボンは、このドイツではかなり異質な姿だ。 わたしは、ちょっと毒気を抜かれる。 銀色の髪から老人を想像していたのだが、相手が10歳は年下であろう少年だったせいで、 緊張がほどけた気がした。 「可愛らしい犬ですね」 少年の口から、流暢な日本語が紡ぎ出される。 服装からまさかとは思ったけれど、やっぱり日本人らしい。 それにしても、ドイツで初対面の、それも明らかに日本人でないとわかる外見の相手に日 本語で話しかけるなんて。 繊細な外見に似合わぬマイペースぶりに、わたしは少し呆れた。 「ありがとう。  ……あなた、日本人?」 お詫びの気持ちと、郷愁の念にも似た懐かしさに駆られて、我知らずわたしは日本語で尋 ねていた。 10年ぶりに口にする言語だというのに、不思議と違和感はない。 外見的にはまったく似ていない。 中性的ではあったけれどこの少年のように美貌と呼べるレベルじゃない。 どこか冴えない、目立たない風貌をしていた。 それなのに、わたしは目の前の少年に、10年前のあいつの姿をダブらせている。 それは単に、彼の服装のせいかもしれなかったけれど。 少年は肩をすくめて微笑んで見せた。 「日本語が一番馴染み深いというだけです。  服装は……同じ理由かな。  日本で過ごした時間が一番鮮烈で大切な記憶なので」 なんとなく、おかしな言葉遣いをする子だと思った。 言い回しが硬い。この年代の少年は、もっと砕けた表現を好むはずなのに。 そんな違和感も覚えたが、同時に共感もまた、わたしは彼に対して抱いていた。 日本で過ごした時間が一番鮮烈で大切な記憶…… 彼が言っているのはわたしとは全く違う意味なのだろうけど、その言葉はわたしの心情を 正確に表現したものだったから。 「ほら、いい加減にしなさい、シンジ」 まだ少年にじゃれついているシンジを、わたしは後ろから抱き上げた。 シンジは少しだけもがいたが、わたしの腕の中に収まるとようやく本来の主人を思い出し たのか、頬に鼻をこすりつけて甘えてくる。 ……まあ、叱るのはやめといてやるか。 「うちのコが迷惑をかけてしまったみたいでごめんなさい」 ひどく穏やかな気持ちになったわたしは、自分でも驚くくらい素直に、少年に謝罪の言葉 を述べていた。 もしもあの頃、こんな素直さを少しでも持てていたのなら。 微かな悔恨が湧き起こる。 少年は、そんなわたしをあやすように目を細めた。 「構いませんよ。どうせ閑でしたから」 「そういえば、こんなところでなにをしているの?」 「もしも売りです」 「……モシモウリ?」 わたしのボキャブラリーの中にはない単語だ。 さも当然のことのように答えた少年を、わたしはぽかんとした表情で見返した。 少年は、静かな微笑を湛えたままわたしのことを見つめている。 「人は誰しも、自分の過去に癒すことのできない傷を抱えている。後悔という名のね。  その傷を負った瞬間に帰ることができたなら――誰もが心の何処かでそう望んでいる。  もしもあのときこうしていたら――誰もがシミュレーションを繰り返している。  僕は、人の想いを過去に飛ばして、その『もしも』を実現する手伝いをしているんです。  無論、それは程なく醒める夢、水面に映る泡沫のようなものでしかないけれど」 「……ああ、そう。  それはご苦労様。  これからも頑張ってね」 突如として白けたわたしは、一方的に少年に告げてきびすを返した。 つまりはこの少年、妄想に囚われた可哀想な子だったわけだ。 憐憫は感じるが、そんな相手にいちいち付き合っていられるほどわたしも閑じゃない。 けれど。 「――もしもあの頃、こんな素直さを少しでも持てていたのなら」 背後でつぶやかれたその言葉に、わたしは足を止めた。 それは。 その言葉は。 「あなたが僕に謝罪をしたとき、そんな表情をしていたように見えたので。  もしかしたら力になれるんじゃないかと、そう思ったのだけど」 「……見当違いも甚だしいわね。  あいにくわたし、人生に後悔はしないようにしているの」 「自分が思っているだけで後悔をなくすことができるのであれば、人は誰も傷つかない。  記憶は時として鎖となり、持ち主を十重二十重に束縛する。  君の体にその鎖が見える、と言えば信じてもらえるかな?」 「知った風なクチ利くんじゃないわよ!」 瞬間、わたしは激発して叫んでいた。 ドイツに帰ってきてから一度も発したことのないような、怒りに震えた鋭い声。 そのときあたしは、何重にも着重ねた鎧で本当の姿を覆い隠し取り繕った24歳のわたし ではなく、あの頃のままがんじがらめになって一歩も動けずもがいている14歳のあたし に戻っていた。 「もしも売り!? ワケわかんない寝言ほざかないでよ!  なにが過去に戻れるよ! そんなこと、できるわけないじゃない!」 「できないことを口には出さないよ。  僕にはたまたまその力がある。  そして、人の中にはそれを求めている者が多い――それだけのことさ」 「はんッ! だったらやって見せなさいよ、今すぐ!」 バカにするような口調で――けれど、どこかにひたむきな願いを乗せて、あたしは少年に 叫んでいた。 「そんな神様みたいな真似が、あんたなんかにできるっていうなら!  あの日のあの瞬間にあたしを戻せるっていうなら、やって見せなさいよ!!」 それは、もしかしたら期待だったのかもしれない。 その非現実性に目を背けようとはしたけれど。 あたしがずっと考えていたこと。 あたしがずっと望んでいたこと。 もしも、それが叶うなら。 気付けばあたしは泣いていた。 「痛いのかい?」 「違うわよ」 本当は痛い。とても痛いの。 「苦しいのかい?」 「あんたをバカにしてんのよ」 本当は苦しい。とても苦しいの。 「忘れることができないのかい?」 「あんたをからかってるだけよ!」 変えたいの。この記憶を。 なくしたいの。この後悔を。 もう一度。 もう一度、あいつと。 胸によぎる姿。 どうしても忘れられなかった、時がたてばたつほどに鮮明になり、狂おしいまでにあたし の胸を焦がし続けた笑顔。 シンジに、もう一度会いたいと、心の底から願ったから。 「強く純粋な想い――君もまた、好意に値するね。  だから、君が本当に願うのであれば――」 その言葉に突き動かされるように、腕の中にある温もりの存在も忘れ、あたしはすがりつ く思いで叫んでいた。 「あの日のあの場所に――  シンジとキスしたあの瞬間に、あたしを戻して……!」 「叶えるよ――その願い」 突然――あたしの視界が真っ暗になった。 浮揚感とも落下感ともつかない不安定な感覚があたしの全身を包み込み、虚無の世界に放 り出されたような喪失感があたしを襲う。 「けれど、それは一時の夢でしかないんだ。  君の傷を癒すための祈りのようなものなんだ」 あたしの周囲から世界が消えていく――それを実感したとき、あたしの意識は薄れ。 「本当の希望は別にある。新たなる痛みとともに」 ただ、囁くような声だけが―― 「そのことを決して忘れないで。リリン――」      *     *     *     *     *     * 温もりがあった。 空気を通して確かに伝わる、人の存在。 あたしを取り巻く世界の実在。 そして――唇に触れ合った、間違えることのないその感触。 温もり。 あたしがずっと、求めていたもの。 それがきっと、心を癒してくれるのだと信じ続けて―― 手放したくない。 夢心地のままそんな思いに支配され、あたしはそのまま身動きひとつせずにいた。 どれくらいの時間が過ぎたのか。 いくつかの物音を聞いた気もしたけど、それに意識を奪われることもなく。 やがて。 「ぷはあーッ!」 突然温もりが離れると同時に、正面からそんな声が聞こえた。 眠りから無理矢理引き戻されたように、あたしはビックリして目を見開く。 目の前にいる、男の子。 苦しげに顔を青ざめさせ、酸素を求めて深呼吸を繰り返している。 整ってはいるけれど印象には残らない、そんな容姿の男の子。 碇――シンジ。 周囲を見回す。 懐かしいと言うよりも、馴染み深い。 記憶を掘り起こすまでもなく、細部まで思い出すことのできるこの部屋は。 10年前にあたしが暮らしたコンフォート17、11−A−2号室。 そのダイニングで、あたしとシンジは向かい合っている。 あの日と寸分違わぬ光景が、眼前に広がっていた。 現状が把握できない。 いや、いったいなにが起こったのか、それは理解できているはずなんだけど。 それを現実の出来事として納得することができない。 あたしがしばらく呆然と立ち尽くしていると。 「ひどいよアスカぁ。口も鼻もふさがれたんじゃ、息できないじゃないか」 拗ねたような、でもどこか甘えたような様子でシンジが抗議してくる。 でも、あたしはあんまりその言葉を聞いてなくて。 腕を伸ばして、シンジのほっぺたを無造作につねり上げた。 渾身の力を込めて、ぎゅうっと。 「あいたっ!? 痛い痛い! 痛いよアスカ!」 当然のことだけど、シンジが悲鳴を上げる。 あたしはあわてて手を放した。 「あ、ご、ゴメン。  ……って、痛いの?」 「痛いに決まってるだろ!? いきなりつねられたんだから!  なんなんだよもう、いきなりキスしようとかつねったりとか」 ……キス? キスした? 「キス……したの、あたしたち……?」 「はあ?  な、なに言ってんだよ、アスカが急に言い出したんだろ。  退屈だから、キ……き、きききキスしようとか言ってさ」 言いながら、シンジは見る見るうちに真っ赤になってあたしから目を逸らしたんだけど。 あたしはそんなシンジを見ている余裕なんてあるはずもなく。 ……ちょっと待て。 ていうことは。 ていうことは、つまり。 まさかここは。 あたしがいる今この瞬間は。 (僕は、人の想いを過去に飛ばして――) その言葉が紛れもない真実だったのだと認識したとき。 「ウっソおおぉぉぉぉっ!?」 真っ青になったあたしの悲鳴が、コンフォート17中に響き渡った。 続く


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