小さなあたしが泣いている。
寒さに凍えて泣いている。

胸に抱かれたサルのぬいぐるみ。
幼いあたしのお気に入り。
けれど、それが与えてくれる温もりだけじゃ、足りなくて。

小さなあたしが泣いている。
あたしを見てと泣いている。

死ぬのはイヤだと泣いている。

ふと、全身を包み込む優しい気配。
顔を上げると、光に包まれた人影が。

(ママ……)

笑顔で、あたしに両腕を差し伸べて。
それは、あたしがずっと思い描き、憧れ続けた、理想の中のママの姿。
あたしを愛して護ってくれる、優しい優しいママの姿。

(ここにいたのね――ママ!)

そして、あたしはママの匂いと温もりに包まれて――






この時の流れの中で (中編 A−part)


夏の日射しに頬をくすぐられ、わたしはゆっくり覚醒した。 ……また、随分と懐かしい夢を見たものね。 あれは、弐号機の中にママの存在を感じ取った瞬間の夢。 あのとき確かに、あたしはママとひとつになっていた。 思い返すと笑ってしまうけれど。 14歳にもなって、ママを求めて泣き喚いて。 ママの温もりを感じた瞬間に喜びはしゃいで敵を虐殺。 ……まるっきり、幼児そのもの。 自嘲ばかりしていても建設的なことはなにもない。 時計を見ると、6時40分。 いつもより少し遅いものの、定刻には充分間に合う。 それはいいのだが。 ……わたしの時計、こんなデザインだったかしら? 違和感を覚えて身を起こす。 部屋を見渡すと、そこは明らかにわたしが暮らすマンションではなかった。 一瞬驚きに目を見開いて――そして、わたしは即座に納得する。 帰って……来たんだ……。 そう。そこは、確かにわたしの部屋ではなかった。 だが、決して記憶にない部屋というわけではない。 そこは、わたしが10年前、少女時代のほんの一時期を過ごした部屋。 あたしの――部屋だ。 ベッドから降りて、窓を開ける。 そこから見えるのは、もちろんドイツの寒々しい空に見下ろされた光景ではなく、 常夏の暑気に晒される、第3新東京市の懐かしい街並みだった。 一夜が明けて、自分に起こった出来事が現実のものだったのだと、実感を新たにする。 照りつける夏の太陽。 10年前はあれほど疎ましく感じたものだが、今ではこんなに心地よい。 それも全て、心の持ちようの問題でしかないのだろうけれど。 あたしは日射しに目を細め、昨夜のことを回想した。      *     *     *     *     *     * 人間、あんまりにも予想外の事態に直面すると、パニックするより先にフリーズするらしい。 あたしは真っ青になって悲鳴を上げた状態のまま、こちんこちんに凍り付いていた。 だって。 いきなりこんな状況の中に放り込まれても、どうすればいいのかなんてわからない。 「ア、アスカ? その……どうしたの?」 戸惑ったようにかけられたその声に、あたしはびくっと身を震わせた。 おそるおそる視線を向ける。 そこにはもちろん、シンジの姿があった。 10年間、心のどこかで追い求め続けていた少年。 正直、自分でもちょっと異常なんじゃないだろうか、なんて思うこともあった。 言い交わしたわけでもない。 体を許したわけでもない。 子供の頃にほんの半年程度一緒に過ごしただけの男の子。 確かにシンジとは色々なことがあったけれど、甘い記憶なんてものはひとつとしてなくて。 あるのはただ、わずかばかりの楽しかった思い出と。 互いに傷つけあい憎しみあった傷痕と。 そしてあの、心に空洞を穿つばかりだったたった一度のキス。 特殊な状況下に置かれていたとはいっても、 ただそれだけの相手でしかなかったはずなのに、 わたしは結局、10年もの間、こいつ以外の男を見ようとさえしなかった―― そのシンジが、今、目の前にいる。 10年の時を越えて。 あの日と全く同じ姿で。 あたしのことを、見つめている。 誰よりもあたしに近かった男。 誰よりもあたしを傷つけた男。 誰よりもあたしが憎んだ男。 誰よりもあたしの心を――囚えた男。 碇、シンジ。 胸に満ちる感慨と。 蘇る唇の感触に。 あたしは頬に血が上るのを自覚しながら、握り拳を固めた。 そうだ、これは夢でも幻覚でもない、現実なんだ。 あの銀髪の少年の力によって、あたしはこの時間に帰還した。 だったら、それを無駄にすることなんて死んでもできない。 ――アスカ、いくわよ! あたしは不意に、決然と意志を固めてシンジの瞳を見つめた。 「シンジ!」 「な、なに!?」 「どうだったの!?」 言葉足らずな問いだとは、自分でもわかっていた。 だけど、とてもじゃないけど詳しくなんて言えない。 こんな風にこんなことを訊いているというだけで、 あたしの脳味噌は羞恥のあまり沸騰しそうになっているのだ。 今だって、顔が真っ赤になってるのが自分でもわかるもの。 だけど、シンジはきょとんとして首を傾げ、ボケボケした調子で尋ね返してきた。 「どうって……なにが?」 「あっ……あんたバカァ!?」 信じらんない。信じらんない! 予想してなかったわけじゃないけれど、あたしはその無神経さに爆発する。 「あたしとのキスよ! どうだったの!?」 「え……ええっ!?」 真っ赤になってうろたえるシンジ。 だけど、赦してなんかやらない。逃がしてなんかやらない。 あたしだって、どうしたらいいのかわからなくて一生懸命なんだから。 あたしはシンジににじり寄り、腰をかがめて見上げるようににらみつけた。 「さっさと言いなさい! さもないとひどいわよ!」 「そ、そんなの……」 「ど・う・だっ・た・の!?」 「い……息できなくて苦しくって、それどころじゃなかったよ!」 観念したように、シンジが叫ぶ。 ……って、なによそれ!? 「あ、あんたねえ!  乙女のファーストキスもらっておいて感想がそれなわけ!?  女のコにどれだけ恥かかせる気なのよ! この、バカシンジ!!」 そう叫んだ瞬間。 あたしはなんだか、心がとても軽くなるのを感じていた。 ……バカシンジ。 「ご、ごめん――だけど」 「なにが悪いのかわかってないくせに謝ってんじゃないわよ!  ……本当にバカなんだから。バカシンジ」 ああ――そうだ。 シンジの顔を見ながらそう呼ぶことで、 あたしは10年前の感情をまざまざと思い出すことができた。 あたしはこいつをそう呼んでいた。 バカで鈍感でドンくさくておっちょこちょいで間抜けでとんちんかんでボンクラで。 だけど、優しくて無茶ばっかりしていざというときには頼りになるこいつのことを。 あたしなりの愛着の証として、バカシンジって。 そうやって呼んだときの、こいつのちょっと困ったような、 けれどあたしを受け容れてくれている、そんな表情が大好きだったから。 「バカシンジ」 「だから……ごめんってば」 「バーカバーカ、バカシンジ」 「……そんなに連呼することないだろ」 「やーだもん! もっと言ってやる。  バカシンジバカシンジバカシンジバカシンジバカシンジ!」 言うたびに、あたしはさっきまでの恥じらいを忘れて、笑顔になっていく自分を感じていた。 だって、シンジが怒っていないことがわかったから。 こんなに罵声まがいの言葉浴びせてるのに、 いつの間にかシンジの顔からはさっきまでのおどおどした雰囲気もなくなって、 苦笑い混じりの、けれどとっても優しい表情に変わっていったから。 あたしが一番こいつを好きだった頃のあの表情に、戻っていったから。 言葉が自然と紡がれる。 顔が自然と笑みを形作る。 さっきの失礼極まりないキスの感想なんて、忘れてしまうくらいに。 すごい。 ねえ、大発見よ、バカシンジ。 あたし、自分がこんなにおしゃべりで、こんなによく笑う人間だったなんて、忘れてた。 あんたは全然気づいてないんでしょうけどね、バカシンジ。 あたし、本当は24歳なのよ? あんたなんかより10歳も年上の、オトナのオンナなんだから。 あたしのパパみたいな年齢の男どもが、あたしの言葉にびくびくして、 あたしの機嫌を伺いながらあたしの命令を聞いているのよ。 なのに。 こうやって、あんたのことをバカシンジって呼ぶたびに。 その呼び方を許してくれるあんたの表情を見るたびに。 あたしの心は、どんどん戻っていく。 14歳のあたしに、どんどん戻っていく。 あんたにとってはそうじゃなくても、あたしにとっては10年ぶりで。 その間、言葉を交わしたことも、顔を合わせたこともなかったのに。 こんなにも当たり前のように口ゲンカできる。 止まっていた時間が動き始めているのが自分でもわかる。 壊れた時間が打ち捨てられて、優しい時間が上書きされていく。 その実感に、あたしの心が幸福感に包み込まれたとき。 玄関の扉が開かれる音が聞こえた。 「ほら、着いたぞ! しっかりしろ」 「うえ〜……」 あ……この声。 瞬間、あたしは思わず玄関のほうに注意を向けた。 「あ、いいよ、僕が行くから」 シンジがすかさず出迎えのために玄関へ走る。 相変わらずマメなやつ。 そうは思ったけど、あたしもその後を着いていくことにした。 会いたかったのだ。 あたしが会いたいと願っていたのは、シンジだけではなかったのだ。 そして――あたしは、期待していたふたりの姿に胸を詰まらせた。 せっかくの新しいスーツをヨレヨレにして、青い顔で嘔吐感を堪えながら呻くミサト。 そんなミサトに苦笑しながらも、確かな慈愛で彼女を傍らで支える加持さん。 10年前と寸分違わぬふたりの姿。 ふたりとも、あたしの知らない場所で死んでしまったという話は聞いた。 だから、彼らと会うことなんて二度とあるはずがなかったのに。 そのふたりが今、目の前にいる。 込み上げてくる形容しがたい感情を必死になだめながら、 シンジと一緒にミサトを部屋まで運ぶのを手伝う。 その間、あたしはミサトの温もりを感じていた。 不思議ね。 ミサトのこと、好きじゃなかった。 わざとらしいくらい奔放に振る舞って、他人との距離を気にしないふりをして、 本当は他人と正面から真面目に向き合うのが怖いだけの臆病で卑怯な大人。 そのくせ、加持さんには媚売って牝丸出しの仕種で縋りつく、 バカでみっともない女だって軽蔑してたことさえあったのに。 今はこんなに、彼女ともう一度会えたことが嬉しいだなんて。 そして、加持さん。 あたしの大切な、初恋の人。 あたしをはじめて、普通の女のコとして扱ってくれた人。 EVAのパイロットというストレスからの逃げ道を、笑顔で引き受けてくれた人。 恋に恋する世間知らずな小娘の幻想、そう言われてしまえばそれまでなんだろうけど、 それでもあたしは、彼に対する想いがそんな単純なものではなかったと信じたい。 それでも、今こうして10年のときを隔てて再会した加持さんの姿は、 かつてのような甘い疼きをあたしの胸にもたらしてくれはしなかった。 再会への感慨はある。 慕わしさも感じる。 けれど、かつてのように彼の匂いと温もりに体と心を埋めたいという欲求は覚えない。 そうしてあたしは、今さらながらに自分の初恋の終焉を自覚したのだった。 「それじゃあ、俺は帰るから」 ミサトを布団に寝かしつけた後、加持さんがあたしたちに告げる。 「あ、はい。わざわざありがとうございました」 「ほ〜んと、ミサトったらあいかわらずだらしないわよね〜」 あたしの言葉に、加持さんが苦笑いを返す。 「まあ、今日は大目に見てやってくれよ。葛城も色々大変なのさ」 ……うん。そうよね。 10年前はわからなかったけど、今ならわかるよ、ミサト。 朝晩欠かさず、アル中みたいにビールを飲んで。 あの頃のあたしは、そんなミサトをだらしない女だって捉えることしかできなかったけど。 多分、そうしないと「無駄に元気で明るい脳天気女」なんて演じてられなかったのよね。 不安と寂しさに押し潰されちゃいそうだったのよね。 あたしももしかすると、ミサトみたいになってたかもしれない。 あたしは仕事に逃げ込んで、自分を律することでストレスから目を背けていただけ。 表面は正反対に見えたとしても、本質はミサトと変わりなかったのだ。 結局、あたしとミサトはよく似ているということなのだろう。 あのときあんなにミサトを嫌っていたのも、もしかすると同族嫌悪だったのかもしれない。 だけど、そんなことを言うわけにもいかないから。 「ま、今日は加持さんに免じて許してあげとくわ」 「はは、そうしてやってくれ」 そのとき、シンジが妙にきょとんとした顔であたしを見つめていたんだけど。 あたしはその視線に気づきながら、加持さんの笑みに色濃く漂う疲労に気を取られていた。 10年前のあの日には、夢にも思わなかったこと。 あの頃のあたしにとって、加持さんはスーパーマンだったから。 加持さんでも疲れたり苛立ったりすることがあるなんて、想像することもできなかった。 上辺だけの笑顔。 それは、ミサトやシンジと同じもの。 こうして改めて加持さんを前にして、あたしはようやくこの人の本質を知った気がした。 だから、あたしは加持さんに相手にされなかったのね。 加持さんがあたしを拒んだのは、ただあたしが子供だったからというわけじゃない。 それは、あたしがミサトを拒んだのと同じ理由。 ずけずけと無神経に加持さんの内側に入り込もうとするあたしを、 きっと加持さんは兄として振る舞う一方で、少なからず疎んでいたんだ。 そのことを悟ったあたしは、それ以上加持さんに近づくことができず、 間にシンジを挟むように位置をとりながら、加持さんを玄関まで見送った。 それが、初恋の人にできる、あたしのせめてもの気遣いだったから。 「ねえシンジ。お茶飲む?」 「あ……うん、ありがと」 時間は結構遅いけど、ゆっくりシンジと話をしたい気分だった。 あたしは冷蔵庫を開けて、あたしたち用にストックされてるウーロン茶の缶を二つ取り出す。 ちなみに、冷蔵庫に入ってる缶の90%はミサト専用缶ビール。 変わってない、当たり前のことが嬉しくて、あたしは少し頬を弛めた。 「はい。座って飲もうよ。ちょっと話もしたいし」 「あ、うん。……アスカ、ウーロン茶飲めるようになったんだ」 「ん? ああ……ま、たまにはね」 そういえば、日本にいた頃は苦手だったのよね、東洋のお茶って。 シンジはときどき自分で緑茶とか淹れてけど、あたしがそれを飲むことは一度もなかった。 ミサトはミサトで甘いお菓子をビールで食べるような悪食だったから、 この家にあるお茶の缶やペットボトルはシンジ専用みたいな感じになってたんだっけ。 あたしが東洋のお茶を飲めるようになったのは、二十歳をすぎた頃。 ドイツ支部の休憩所に設置された自動販売機で、シンジがよく飲んでた銘柄の ウーロン茶――つまり、いま手に持ってるこれね――を見つけたのがきっかけだった。 繋がりを求めたという意識は特になかったけど……多分、そういうことだったんだろう。 苦くて美味しくなくて、それでも頑張って飲んで、飲み続けて。 今でも好物というわけではないけど、 缶と言えばこのウーロン茶というくらいに馴染んでしまった。 なんだかね。 こうしてこの10年の行動をいちいち振り返ってみると、 あたしって自分が思ってたよりずっと可愛い女だったんだなって気づく。 ちょっとした行動のひとつひとつに、なにかとシンジの存在が絡んでいるんだもの。 そんな気持ちが表情に出ていたのかもしれない。 シンジが、隣に座るあたしの顔を覗き込むようにして言った。 「なんだか……今日はご機嫌だね、アスカ」 「そう?」 「うん。いつもと違って、なんか……優しい感じがするし」 「なによそれ? まるで、普段はあたしが凶暴みたいじゃないのよ〜」 「いや、みたいじゃなくてその通り……  あ、ウソ! ゴメン、そういう意味じゃないんだよ!」 ジト目でにらむあたしの圧力に負けて、あわてて前言を撤回するシンジ。 ……ま、いいけどね。 10年前の所行に関しては、あたし自身否定しきれるもんでもないし。 「バーカ。そんなにあわてなくても、イジメたりしないわよ」 「だ、だからそういうこと言ってるんじゃなくてさ。  なんか……さっきまで、ちょっとイライラしてなかった?」 「イライラ? そうだった?」 「……うん。  ほら、ミサトさんが遅くなるって電話があったときから……」 「ああ……」 あたしは思い出した。 そういえば、シンジにキスしようって持ちかけた直接の原因はそれだったのよね。 加持さんと一緒にいるのに遅くなる。 それが、ミサトと加持さんの関係を暗に物語っているような気がして厭だったのだ。 ふたりは大人の関係なんだと、きっとよりを戻してしまったんだと思って。 初恋の人と保護者が、ふたりだけの世界を築いてしまう。 そうなれば、あたしなんか捨てられてしまうんじゃないかという――恐怖感。 「そうかもね、確かに」 「うん。だから、いつの間に機嫌直ったかなって思って……」 いつの間にって言われても……教えられるはずがない。 あんたとキスしてる間に10年後のあたしが心に宿ったから、だなんて。 でも。 せっかくだから、ちょっとイタズラしてやろうかしら。 「いつの間にっていうか。どうして機嫌直ったと思う?」 別に期待してそんなことを言ったわけじゃないんだけど、予想に反して効果は覿面。 シンジは突然耳まで真っ赤になったかと思うと、あわてた様子であたしから視線を外した。 ちょ、ちょっと。 そういう反応されると……あたしも照れるんだけど。 「わ、わかんないよ、そんなの」 「……ウソつき」 「ウソじゃないよ……」 「じゃあドンカン」 「そんなこと、言われたって……」 自覚はあるけど自信はないの? それとも――怖いのかな、期待してしまうことが。 ……そうなのかもしれない。 結局、あたしとシンジは似ていたのだろう。 それも、悪いところばかりが。 あたしはそれに堪えきれなくて、10年前、シンジの前から逃げ出したのかもしれない。 だって、あの頃のあたしたちはそうしたマイナスの側面ばかりが表に出ていて、 お互いの顔を見るたびに、まるで自分の醜い本性をさらけ出す悪魔の鏡の前に 立っているような気持ちにさせられたから。 それに苛ついて鏡を壊しても、鏡に映る自分自身の姿を壊すだけのことでしかないのに、 それでもあたしたちはそうせずにはいられなかった。 互いに互いを傷つけあう、それがあの頃のあたしたちに許された、 たったひとつのコミュニケーションだったのだ。 (あんたが全部あたしのものにならないなら、あたし、何も要らない……!) 多分、シンジもそうだったのだろう。 一部分だけでは安心できない。 心の全てをくれないのなら信じられない。 だって、自分のものになっていない部分があるということは、 そのせいでいつか裏切られるかもしれないということだから。 生まれたばかりの赤ん坊のように、永遠に続く無償の愛情を欲しているだけ。 シンジはあたしにそれをくれることはなかった。 あたしはシンジにそれをあげることはなかった。 だけど。 たとえお互いに全てを投げ打ち与えあっていたのでなくても、 あたしとシンジには、ともに笑いながら過ごしていた時間があったのだ。 そのことを、追い詰められたあたしたちはすっかり忘れてしまったけれど。 あたしはそっと、隣に座るシンジの手を握りしめた。 男の子のそれとは思えないくらい、華奢で柔らかな手。 「ア、アスカ!?」 「うっさい! うろたえんじゃないわよ、こんなことで!」 そんなことを言いながら、実はあたしの頬も赤い。 自分から男の子の手を握るのなんて、生まれて初めてなのだから仕方がない。 だけど……何もしないのは、もう厭だから。 「……あったかいでしょ、あたしの手」 「ひんやりしてて、冷たいよ……」 「……ホントにつまんない男ね、あんたって……」 「なんだよそれ。……でも、なんか、アスカがいるんだなって気がする」 思わぬセリフに、あたしは動揺した。 決して気が利いたセリフというわけでもなかったのに。 シンジの口から素直にそういうことを言われるのが……恥ずかしいけど、嬉しい。 「あ、あたしも、こうしてるとシンジがいるんだなって安心する」 「安心?」 「うん。ひ、ひとりぼっちじゃないんだな……って」 「……なんか、アスカらしくないね、そういうのって」 「そう?」 「うん。だって、アスカっていつも、自信満々で傍若無人……ウソ、ごめん」 「……あんたがあたしのことどう思ってるのか、よーくわかったわ」 「だ、だからウソだってば……」 などと言いながら、シンジは決してあたしと視線を合わせようとしない。 どーやら本気でそう思ってたみたいね……。 あたしがどれだけ健気か知らないで。お仕置きしてやんないと。 でも……まあいっか。 今、こんなに胸が温かいもの。 あの赤い海のほとりで触れ合うことのできなかった手と手が。 今、こんなにも優しく繋がれて、お互いの存在を伝えあっている。 最初からこうしていればよかったね、あたしたち。 そうすれば、こんなにも優しい気持ちになることができたのに。 あたしはこのとき確信した。 あたしたちがかつて辿った時間は、もう失われた。 あの、お互い憎みあい罵りあい傷つけあうばかりだった時間は消えてなくなった。 あたしたちはこれから、新しい時間を一緒に作り上げていくんだわ。 そう考えたとき。 あたしは、小さな棘が刺さったような、そんな違和感を胸の奥に覚えていた。 ……なんだろう、これ。 どうしても気になるってわけじゃない。無視しようと思えばできてしまう程度の。 けれど、確かに感じるこの感覚。 なんだか……胸がざらざらするような、厭な感じ。 あたしは思わず、シンジの手を握る力を強めた。 驚いたようにシンジがあたしのことを見たけど、あたしは気づかないフリをする。 今はとにかく、シンジの温もりだけを感じていよう。 ようやく取り戻すことができた、この温もりだけを。 この違和感の正体がなんであったとしても、今のあたしにとって、 シンジの存在ほど確かものなんてありはしないのだから。 だけど、この胸のざわめきから目を背けたくて。 「ね、シンジ」 「なに?」 「……さっきのキス、やっぱり暇潰しじゃないって言ったら……どうする?」 「えっ……!?」 心底から驚いた顔。耳まで真っ赤に染めて。 あたしは少しだけ期待を含んだ視線でシンジを見上げたけれど、 当然というかなんていうか、シンジはフリーズしたまま動くことはなかった。 まあ……これでいきなり積極的になったりされても困るんだけどさ。 あたしは胸の中でつぶやいて、イタズラっぽい笑いを投げかけるとともに、 シンジの鼻を思いっきりつまんでやった。 「なに鼻の下伸ばしてんのよ、このスケベ!」 「いだっ! の゙、の゙ばじでな゙んがな゙いだろ!?」 「あっはは、なに言ってるかわかんないわよーだ!」 そうやってからかってから、シンジの鼻を解放してやると。 あたしは立ち上がりざま、恨みがましい視線を向けてくるシンジの頬に。 かすめるような、キスをした。 真っ赤になってぽか〜んとしているシンジを、ちらりと確認して。 「あたしに暇潰しじゃないって思わせたいんなら、今度はあんたの方からしなさいよね!」 それ以上は、恥ずかしくって無理だった。 シンジがなにか言おうとしたみたいだったけど、あたしは火がついたみたいに 熱くなる顔に気づかれたくなくて、ダッシュで自分の部屋に駆け込んだ。 ぴしゃんと音を立てて閉めたふすまに寄りかかり、ずるずると崩れ落ちる。 すごいことをやってしまった。すごいことを言ってしまった。 シンジ、変に思ったりしなかったかしら? 思ったに決まってるわよね。 あいつにとって、今のあたしはキスする直前までとおんなじあたしなんだから。 でも……でも、少なくとも厭がってはなかった。 それは絶対に間違いない。 戸惑ってはいただろうけど、迷惑だって顔じゃなかった。 それにしても。 あたしったら、なんてハシタナイ真似を。 24歳っていっても、恋愛経験絶無のれっきとした乙女なんだから、 せめてもうちょっとやりようってもんがあったんじゃないかしら自分。 でも……正直。 ちょっと。いや、かなり。 コーフンしちゃった。 思いっきり叫び出したい衝動をなんとか堪えて、あたしは必死に手で顔を扇ぐ。 とにかく、やっちゃったものはしょうがないんだから。 これぐらい大胆なコトしないと、あの鈍感バカはあたしのこと意識しやしないだろうし。 10年前には感じたことのなかった、胸が締めつけられるように切ない、 けれど、それと考えただけで喜びに浮き立たずにはいられないこの想い。 シンジに対してずっと抱いていた、言葉では説明のできない複雑で異常な執着心。 それが、今ではこれほどまでに明快な形をとっている。 あたし、シンジに恋しちゃったんだわ……たった今。 あのとき、さまざまな状況に追い詰められて、 奇形として育つことしかできなかったあたしの想いは。 10年という時間を飛び越えることで胎芽にまで還元されて、 今ようやく、恋という果実を結ぶことができたんだ。 だから……今この瞬間が、あたしとシンジの、本当のスタートライン。 今度こそは、あんなことにならないように。 正しい姿に成長することのできたこの気持ちを護るために。 (あんたのおかげだわ……ありがとう) 銀髪に赤い瞳の、少年の姿を借りた天使に感謝の言葉を述べて。 あたしは、火照った顔を両手で挟み込みながら、ベッドの上に寝そべった。 さっきの不快な感覚は、ただの勘違いでしかなかったのだと。 自分にそう、言い聞かせて。      *     *     *     *     *     * まあ……実際、昨夜はすぐに眠れたわけでもなかった。 過去に戻ってきたのだという興奮、 シンジと……その、いい雰囲気になっちゃったことへの高揚、 そして明日からシンジとどんな風に関係を築いていこうかという期待で、 そりゃあもう悶々とした夜を過ごしてしまったのだ。 これでもあたし、職場では「心臓が氷でできている」なんて陰口叩かれるぐらい、 クールで無表情、無愛想な女として通ってたんだけどね……。 まあいいや。それより、早く朝ご飯を作らないと。 10年前のことだけどよく覚えている。 キス事件の翌朝は、あたしが食事当番だった。 なんでかというと簡単で、10年前、シンジが期待に応えてくれなかったことや、 加持さんが振り向いてくれることはもうないのだと自覚したせいでふてくされたあたしは、 翌朝の食事当番をサボってシンジに押しつけたのだ。 本当は……シンジと顔をあわせづらかったというのも、かなりの部分あったのだけど。 でも、今はそんな気まずさもない。 むしろ、昨夜あれだけアプローチかけた以上、間を置かずにポイントを稼いでおかないと。 どうせ、押しの一手しか知らない女なんだから。 ……加持さんに相談して、コイのカケヒキとか教えてもらおっかなあ……。 あたしはちょっとご機嫌に鼻歌など歌いながら、ふすまを開けた。 全く同時に、向かいの部屋のふすまも開く。 目の前に、突然シンジの姿。 全く心の準備もしていなかったあたしは、思わずそのまま固まってしまう。 顔がどんどん紅潮していくのが自分でもわかる。 そして、それはシンジも全くおんなじで。 廊下を挟んで向き合いながら、お互いを見つめ合って真っ赤になってる中学生の男女。 端から見てれば微笑ましいんだろうけど、もちろん本人たちにそんな余裕なんてない。 「お、おはよう、アスカ……」 「お、おはよ、シンジ……」 どちらからともなくうつむいて視線を外し、 ようやくあたしたちは朝の挨拶を交わすことに成功した。 「あ、あの……早いね」 「え? あ、う、うん。ほら、あたし今日、朝食当番だし。  シ、シンジこそ、今日は当番じゃないのに早いね」 「な、なんか目が覚めちゃって……  いや、あの、眠れなかったわけじゃないんだ、ほんとに」 ……一睡もできなかったということなのだろう、つまり。 目の下にクマが浮いているし。肌が白い分、シンジはそういうのが非常によく目立つのだ。 なんだかんだでぐっすり眠ってしまったあたしとしては、 あたしの方が神経図太いって言われてる気がして複雑な気分になった。 いや、シンジに比べれば、もちろんそうに決まっているのだろうけれど。 よく言えば繊細、悪く言えば臆病で小心者、というのが碇シンジという少年なのだから。 でも、なんていうか、恋する乙女としては……ねえ? 好きな男の子の方が神経細いっていうのは、ちょっと切ないっていうか。 いいんだけどね、別に。 「そうなんだ。……あ、じゃああたし、ゴハン作っちゃうから」 「あ、う、うん。そしたら僕、お風呂湧かしておくよ。入るでしょ?」 「え……い、いいわよそんなの。あたしが当番なんだから」 「でも、なんかやることないから。二度寝とかもできそうにないし」 「……じゃ、じゃあ、お願いしちゃっていい?」 「うん。ちゃんと、その……アスカの好きな湯加減にしておくから」 瞬間、血が沸騰したみたいにあたしの頭から湯気が上がった。 いや、これって絶対に比喩じゃない。だってこんなに熱いなんておかしいもん。 別にシンジのセリフに変なところはないのに……ないと思う、多分。 でも、なんていうか、なんかその……あ、あたしの好きな湯加減、ていうので、その。 いや、もちろんわかってはいるのだ。 あたしの妄想だってことくらい、わかってはいるのだけど。 お風呂の中で、シンジに抱きしめられる様を想像しちゃって。 っきゃーーーーーっっっ! なにあたし! 変態!? もしかしなくってもあたし変態!! なんであんな言葉でこんなこと想像しちゃうわけよ!? ……あ、鼻血出そう。 や、やるわねシンジ。 なんてゆーか、たった一晩でここまで壊れちゃうあたしもあたしだけど。 ……あたしって、やっぱり思い込み激しいところあんのかしら。 シンジに恋しちゃったって思った途端にこれだもの。 自分でも今まで全く知らなかった自分自身の一側面。 加持さんに対して抱いていた想いともまた違う、強烈で抗い難いこの欲求。 それに従うことに喜びを見出している自分が確かに存在している。 恋する乙女としての表情、だなんて自分でも嗤ってしまうけれど。 でも……厭じゃない。 こういう気持ちが自分の中にあることが。 こんな風に、シンジのことで思い悩んだりできることが。 言葉にできないくらい、たまらなく嬉しい。 落ち着かない様子で風呂場に急ぐシンジを見送って、あたしもようやく再起動。 ……どうしよう。 さっきから、顔の綻びが収まらない。 いやもう、綻びっていうか。 ものすごくだらしない、完全に壊れたでれでれ笑い浮かべてるわ、今のあたし。 でも、いつもの表情に戻そうと、つり上がる唇の端を一所懸命引き締めて。 ……ああ、鼻の下が伸びるって、多分いまのあたしみたいな感じなのね。 うきうき気分で思わず鼻歌なんか歌っちゃったりして、 お昼は購買部のパンなんかじゃなくてお弁当作ってみようかなー、 なんて考えながら、冷蔵庫と冷凍庫の中身を確認しようとしたとき。 自分の部屋から顔だけ覗かせ、ニヤニヤ笑ってこっちを見ているミサトと目が合った。 「アスカちゃ〜ん、今日は随分ご機嫌なのね〜ん♪」 人をからかう気満々の声。 あたしは動揺したものの、それを表情に出さないように努めてしらを切る。 「べ、べっつに〜。ご機嫌なのはミサトの方なんじゃないの?  すっかり加持さんとヨリ戻しちゃったみたいで、うらやましいわ」 「あ〜ら、アスカったら手厳しいのね〜。お姉さん悲しいわん」 ふんっ。なにが悲しいわんよ。付き合ってらんないわ。 あたしにとっては10年ぶりの会話だってのに、感動もなにもありゃしない。 そりゃあ、ミサトにそんなことわかれっていう方が無理なんだけどさ。 今度はミサトにももう少し優しく接したいと思ってたあたしは、 ちょっと複雑な気分でミサトに背を向けた。 まあでも、あの頃と違って、加持さんへの気持ちにも完全に整理が付いているし。 ミサトの顔も見たくないなんて気持ちにはなるはずないから、 これから少しずつ仲良くなっていけばいいわよね。 とりあえず朝食はハムエッグでも作るとして……お弁当はどうしよう。 今から作るんじゃおかずの種類もかなり限られちゃうしなあ……。 人生の中ではじめて覚える種類の悩みに頭をひねるあたしの背中に、 ミサトによる最初の爆撃が行われたのは、まさにそのときだった。 「あ〜ら、アスカがメニューのこと考えるなんて。  やっぱり恋を知るとオンナは変わるのね〜」 ぎくっ。 あたしは思わず動きを止めた。 ま、まさか。大丈夫。 いくらミサトが勘だけで第十使徒の落下地点を的中させた化け物だからって、 たったこれだけのやりとりだけでバレるはずがないわ。 ここで振り向くとむしろ動揺してると思われそうな気がしたので、 あたしはとりあえずハムと卵を冷蔵庫から取り出して、調理を始めながら言葉を返した。 「ま、まあね。  ほら、いつか加持さんのために毎日料理作ること考えたら、  今のうちにバリエーション増やしといた方がいいじゃん?」 「あ〜ら、加持のためなんだあ? あたしはてっきり、シンジ君のためかと思ったわ」 「はんっ。ミサトったら朝からボケないでよね。  な、なんであたしがバカシンジなんかのために……」 「だって、キスしたんでしょう?」 ぐしゃっ。 あたしは思わず卵を握りつぶしていた。 「……あ」 「あちゃ〜、勿体ない……」 「ミ、ミサトがいきなり変なこと言うからよ!」 「あら。だって本当のことじゃないのよ〜」 「そんなわけないじゃないの! なにを証拠にそんな――」 「さっきのキスぅ、暇潰しなんかじゃないって言ったらぁ、どうするぅ?」 両手を胸の前で握り合わせ、目を少女マンガみたいにウルウルさせて、 腰をくねくねさせながらとんでもない甘えた声でミサトが言う。 あたしは青くなればいいのか赤くなればいいのかわからず、結局赤くなった。 そっ、それはっ! そのセリフはっっっ! 「ミ、ミサト! なんであんたがそんな!」 「そりゃあ、夜中だってのにあ〜んな大声でいちゃいちゃされたらね〜」 「だ、だってあんた酔いつぶれて寝てたはずじゃ――」 「ふっ、甘いわねアスカっ!  朝晩ビール飲んで鍛えてるこの葛城ミサトが、いつまでも潰れたままだと思った!?  あのときにはすでに酔いも醒めてバッチリ耳ダンボ状態だったわっ!」 「ふ、不覚……! 惣流アスカ=ラングレー、一生の不覚だわっっっ!」 「自分の未熟さに気づいたときにはもう手遅れなのよアスカ!  ……いや〜、それにしても昨日はいいモン見させてもらったわ〜。  若いってのはいいわねえ、青春だーねー♪」 「う、うるさいわよこの嫁かず後家!  いいからあんたはせっかく捕まえた加持さんを  逃がさないようにすることだけ考えてればいいのよ!」 「んまっ! アスカったら、随分怖いもの知らずね〜。  ネルフに出勤したら早速リツコに教えてあげなくちゃ」 「な、なんで赤木博士が出てくんのよ!?」 「あ〜ら、アスカ知らないの?  リツコってあたしより年齢はひとつ上なのよん♪  しかもあたしと違って男の影もナッシング!  いやあ〜、そっか〜、リツコも嫁かず後家かあ。  そーいえばリツコ、なんか新薬開発したから被験者欲しいって言ってたわねえ」 「いやああああっ! 死ぬのはいやあああああっ!」 「な、なに騒いでるの……ふたりとも……?」 「あっらぁ〜、シンちゃ〜ん♪」 「ダメえっ! 逃げるのよシンジ!」 「え?」 「ちょっとシンちゃん、あたしの知らない間に大人になっちゃて〜、このこのぉっ♪」 「あ、あの……ミサトさん?」 「ファースト・キッスおめでと〜♪ アスカのお・あ・じ、は、どうだった?」 「ええっ!? なんでミサトさんがそんなこと!?」 「ぬ、ぬぁにがお味よこの中年オヤジ女! 思考が変態そのものよあんたっ!」 「こーなったらお次はあれよね!?  アスカがシンちゃんのベッドの上で体にリボン巻いて裸で待ってて、  ダーリぃン、あたしを召・し・上・が・れ♪  なーんつってもうこのこのぉっ! ぐへへへへじゅるりっ!  たまんないわね男のロマン爆発ねっ!  きゃーっシンちゃんとアスカったら不潔うーっっっ!!」 「黙んなさいよこの色ボケ年増あーっ!」 そんなこんなで。 結局あたしは朝食もお弁当も作れず、 朝ご飯は抜きの上、昼食は購買部のパンですませることになったのだった。 ……覚えてなさいよ、ミサト……。      *     *     *     *     *     * 10年前、あたしはその建造物を確かにバカにしていたはずだった。 13歳にして大学の課程を修了し学士号を修得したあたしにとって、 日本の中学校なんてものは幼児の遊戯場も同然の存在でしかなかったからだ。 実際、そこで行われる授業は、 あたしには幼稚としか表現できない、実にレベルの低いものでしかなかった。 腰を据えて望まなければいけないのは国語と日本史くらい。 定期的に行われる減点式のテストにしたって、ナンセンスとしか言いようがない。 上司であるミサトに命令されたから、という以外、 あたしがこんなところに通っていた理由はなにもないはずだった。 それでも、10年ぶりに訪れる教室は、やっぱり懐かしく、そして少し切なかった。 面倒だと思って通っていた当時は全く気づかなかったこと。 この教室は、あたしにとってなによりも安らぎに満ちた空間だった。 幼い頃から厳しい訓練を義務づけられ、 その中にこそ自分の存在意義を見出していたあたしがはじめて体験した、 平和ボケした日本の中学生たちと一緒に過ごす時間は、 退屈でバカバカしかったけれど安楽な日常の象徴でもあったのだ。 今まで感じたことのない解放感と平穏、それがあたしは、本当は大好きだった。 だから、学ぶものなどなにもないと知りながら、 大して不平を言うこともなく毎日ここに通い続けていたのだ。 ミサトの命令にかこつけて。 あれほど見下していた鈴原と相田の2バカですら、今のあたしには懐かしい。 喋ったことなんか一度もない、名前も知らない級友たちもまた。 「どうしたの、アスカ? そんなところで立ち止まってたらみんなの邪魔だよ?」 「わかってるわよ、バカシンジ」 感慨に水を差されたあたしは、ちょっと不機嫌になってシンジをにらんだ。 でもまあ、確かに教室の入口を塞いでたんじゃ、みんなが通れなくなるものね。 あたしは素直にシンジの忠告に従って教室の中に入る。 まず最初に探した姿は、もちろん決まっている。 「おはよう、ヒカリ!」 「あら、おはようアスカ」 あたしの声に気づいて、ヒカリが笑顔を向けてくれる。 胸が詰まるような喜びが、あたしの心を満たした。 ヒカリ。 あたしの生涯でただひとりの親友のヒカリ。 10年前、ボロボロだったあたしをただひとり受け容れてくれたヒカリ。 中学時代に半年一緒に学校に通っただけで、10年間一度も直接には会っていない、 そんなあたしに欠かさずメールを送ってくれていたヒカリ。 あたしとしては飛びついて抱きしめたい気分だったけれど、 ヒカリにしてみれば、あたしは昨日も会ってる相手に過ぎないのだ。 あたしのような、まさに10年ぶりの再会なんていう感動など抱けようはずもない。 だから、あたしはなるべく喜びを押し殺して、普通を装いながらヒカリに近付いていった。 だけど、ヒカリにはそんな演技なんか一目で見抜かれてしまったようで。 「……アスカ、なんだか今日はご機嫌ね?」 「え? そ、そうかな?」 「うん。なんだか、うきうきしてるみたいに見えるわ」 「あはは……ま、まあちょっと、色々とね」 なんてごまかしてはみたものの、本当にいいことがあったのだから仕方がない。 シンジとやり直せたこともそうだけど、こうしてまた、ヒカリと友情を育めることも。 ……朝っぱらからミサトには冷やかされたけどね……。 と、ヒカリがちょっと眉をひそめて、小声でささやきかけてきた。 「昨日のデート、そんなに楽しかったの?」 「へ? デート?」 本気できょとんとしたあたしに、ヒカリは目を丸くして。 「ま、まあ、忘れちゃう程度の話なんだったら別にいいのよ。  わたしも半分無理矢理みたいな感じでお願いしちゃったから気になってたんだけど」 「……ああ」 あたしはぽんと手を打った。 そうそう、そういえば昨日は、ヒカリのお姉ちゃんの友達とやらとデートしてたのよね。 もちろん、今のあたしにとっては10年前の記憶なんでまるで覚えてないけど。 ていうか、本当にデートしたんだっけ? 顔も名前も、どこに遊び行ったかも思い出せないんだけど……。 でも、デートを途中で抜け出した記憶は確かに残っている。 正確には、デートを途中で抜け出してシンジのチェロを聴いた、っていう記憶なんだけど。 あのバカシンジにそんな芸術的な特技があったこともビックリだったし、 演奏も上手で正直少しジーンときたし、 チェロを弾くシンジの後ろ姿が普段よりもカッコよく見えたし。 まあ、いわゆるギャップにときめいたってやつよね。 もしかしたら、あのチェロの音色を聴いていなかったら、 シンジとキスしようだなんて思わなかったかもしれない。 と、鈴原たちの方に行ったシンジに視線をやると、シンジもあたしのことを見ていて。 あたしたちはまたしても真っ赤になって、どちらからともなく目を逸らした。 そしてもちろん、あたしたちのこんな反応をヒカリたちが見逃すはずもなく。 「な、なんやお前ら、そのらぶらぶ〜な感じのフインキは?」 「顔見るだけで真っ赤になるなんて、イヤ〜ンな感じぃ」 「ア、アスカ、碇くん、あなたたちまさかっ……!」 ってどこまで想像してんのよヒカリ! ていうか、あたしもだけど、シンジもいい加減慣れなさいよね! 朝から何度、このパターンが繰り返されたことか……。 ええもう、登校中だってず〜っとふたりして、顔を真っ赤にしてましたともさ。 だけど。 シンジの顔を見るだけで恥ずかしくて堪らなくて、 どうしても胸が高鳴ってしまうんだから、これはもうどうしようもない。 病気……よね、やっぱり。 恋が病っていうのは、比喩でもなんでもなかったんだわ、とちょっと納得。 なんてことを今は言ってる場合じゃない。 「ち、違うわよ!  なんであたしがシンジの顔見ただけで赤くなんなくっちゃいけないのよ!」 「せやかてお前、実際真っ赤になっとるやんか。シンジも」 「い、いや、これは別に……」 「言い訳なんてシンジらしくないぞ。認めちまえよ」 「せやせや。なんせ一緒に暮らしとるんやもんなあ、なんも間違いがない方が不思議やで」 「そうそう。EVAのパイロットとはいえふたりとも多感な年頃だしなあ?」 興が乗ってきたのか盛り上がる2バカ、その横でイヤンイヤンと首を振ってるヒカリ。 あんたたち、それでも友達なわけ!? それにしても……ま、間違いだなんて、そんな。 でも、それは決して思い過ごしとかではないのだ。 昨日は結局なんにも進展なかったと言っても、今夜もそうだとは限らないのだから。 あたしの記憶では、これからミサトは急速に加持さんと親密になっていくから、 帰ってくるのが遅くなりがちになるはず(理由はまあ、訊かないけどね)。 あたしとシンジは、毎晩のようにふたりっきりで夜を過ごすことになる。 前回は、例のキスの気まずさから特に変な雰囲気になることもなかったが、今回は……。 ど、どうしよう。 (あたしに暇潰しじゃないって思わせたいんなら、今度はあんたの方からしなさいよね!) 昨夜、シンジに向けて言った言葉が思い出される。 無論、それを後悔するつもりはないけれど。 もしも、シンジから迫られたりなんかしちゃったら。 10年前のあたしだったら問答無用に叩きのめしていただろう。 だけど、今のあたしには、どんなに頑張ってもそんなことは絶対にできそうにない。 だって……簡単に腰砕けになって受け容れちゃいそうだもん。 ましてや、迫られるだけならまだしも、か、かかかかか、可愛がられるなんて事態はっ。 む、むしろこちらの方からお願いしたいっっっ!! ……あ。 鼻の奥からとろりとした生暖かい感触が伝い下り、唇を濡らした。 こ、これってまさか……。 「きゃーーーーーっ!? アスカ、鼻血鼻血!」 「わあっ!? ど、どうしたんだよアスカ!」 「な、なんやこの女!? なんで急に鼻血出しとんねん!?」 すかさず同時にティッシュを取り出すシンジとヒカリ。 シンジには申し訳なかったけれど、あたしは迷わずヒカリの好意に甘えることにした。 だって、シンジにティッシュを鼻に詰められるだなんて恥ずかしいし。 ……なんて言うか、鼻血がもっとひどいことになりそうだし。 それにしても。 4歳の頃からEVAのパイロットになるための英才教育を施され、 学問・運動・戦闘訓練、あらゆる分野において完璧な成績を修め続け、 途中パイロットとしての限界に突き当たり一度は挫折を味わいこそしたものの、 長じては24歳の若さにして世界的科学研究機関であるNERVドイツ支部の 技術開発部第一課長を務める史上屈指の才媛、この惣流アスカ=ラングレーが、 男の子に可愛がられること妄想して、あろうことか教室のど真ん中ではなぢぶーなんて……。 す、すごいのね、恋って……。 「それにしても、どうしていきなり鼻血なんて……」 鼻に詰め物をしてくれながらヒカリ。 うう、我ながら鏡を見るのが怖いわ。 「そらあイインチョ、訊くだけ野暮ってもんやで」 「そうそう、この話の流れでいきなり鼻血なんて、理由はひとつだろ?」 「エロいこと考えとったに決まっとるやん」 「普通はこういう場合、男のシンジが流すもんだけどな」 「え!? ぼ、僕はそんな変なこと考えてないよ!」 「へ、変なことって……そうなのアスカ!?」 「ち、違うわよ! 好き勝手なこと言ってんじゃないわよこの3バカトリオが!」 いや……違わないんだけどさ。 「ほな、なんで鼻血出したんか言うてみんかい!」 「なんせ、ミサトさんだって昇進してから忙しくなってるはずだもんな。  シンジと惣流がふたりっきりになるなんて簡単なんだよなあ」 ぎく。 「お、今ふたりともぎくっとしよったで!?」 「これは……まさか、ミサトさんがいないことをいいことに!」 「若い身体と情熱を持て余すふたりは越えたらあかん一線を!」 「アスカ! 碇くん! あなたたち、まだ中学生なのよ!?」 「ち、違うわよヒカリ! あたしとシンジがそんなことになるわけないでしょ!?」 「そ、そうだよ! 僕とアスカがキスなんかするはず……」 …………。 ……………………。 し〜ん……。 シンジの叫びに、教室中が水を打ったように静まりかえる。 その中心に立たされて、自分の失言を悟ったシンジが口を押さえた。 「……あ」 「……きす……?」 「ま、マジで……しよったんかいな……?」 否定しようと口を開きかけたけど。 頭が真っ白になってたあたしは口をぱくぱくさせるだけで。 真っ青になってたあたしとシンジは。 沈黙が深くなるにつれ、トマトが熟していくように真っ赤になっていった。 そして、それはシンジの言葉を裏付けるには充分すぎるもので。 「スクープだあ! シンジと惣流がキスしたぞぉぉぉぉぉっ!」 「う、裏切りモォン!」 「不潔よぉふたりともぉぉぉぉぉっっっ!!」 途端に騒然となる教室。 あまりの騒ぎに隣のクラスからも生徒が駆けつけてきて、 電光石火の早業でうちのクラスの連中が情報リークを行っている。 ま、まずい! まずいわ! このままじゃ授業が終わる頃には全校中に知れ渡ってるかも! 「こ、このバカシンジ! なんであんたってそんな迂闊なのよ!?」 「ご、ごめん! ついうっかり口がぽろっと!」 「ついうっかりじゃないわよどーすんのよ責任とんなさいよ!」 「え……せ、責任……?」 「なっ……ぬぁに真っ赤になってんのよそーいう意味じゃないわよ!!」 「いやああああっ! セキニンなんて早すぎるわあああああっ!!」 「つーことはなにかい、  キスどころやなくてセキニンとらなあかんことまでしよったんかお前らはあっ!!」 「ご、誤解よ! 誤解だわっ!!」 「そうだよ! キスまでしかしてないよ!」 「いーからあんたはもう喋るなバカシンジぃぃぃぃぃっ!!」 あたしのすらりとした白く長い足が弧を描き、 竜巻のような回し蹴りをシンジの顔面に叩き込んだ。 るー、と涙を流しながらシンジが崩れ落ちる。 「ひどいよ、アスカ……」 「なんや、いきなりドメスティックバイオレンスかいな」 「ダメよアスカ! DVは子供の成長にも深刻な悪影響を与えるのよ!」 「とりあえずシンジ、遺言なら惣流の下着の色以外は却下だからな」 「あーんーたーたーちーっ!!」 髪を逆立てて怒鳴り声をあげながらも―― あたしは、楽しかった。 これは、本当だったらとっくの昔に失われてしまったはずの時間。 あたしが人生の中でただの一度だけ、下らないことでバカ騒ぎして笑っていられた時間。 それは、余りにも短くて、まるで夢のような時間だったけど―― 今また、あたしはその時間の中にいるのだ、と。 そうか――騒ぎながらも、あたしは不意に気づく。 学校に来る余裕がなくなりはじめた頃から、あたしたちは少しずつおかしくなっていたのだ。 あたしもシンジも――ファーストも。 そして、その予兆とも言うべき事件が、 鈴原がフォースチルドレンとして選出されたことだった。 もし今回も鈴原が参号機のパイロットに選出されたとしたら。 そして、また参号機が使徒に乗っ取られることになりでもしたら。 ヒカリにちらりと視線をやる。 楽しそうに笑っているヒカリ。 あたしたちのことをからかいながらも、ちょくちょく鈴原に視線を走らせているヒカリ。 思えば、あたしたちがあまり学校に姿を見せなくなったのは、 鈴原を傷つけてしまったことへの罪悪感と、 それを咎められることに対する恐怖のためだったように思う。 あたしは鈴原のことはあまり好きではなかった――率直に言えば嫌いだったから、 鈴原が片足を失ったと聞いたときも、微かな憐憫を覚えこそしたものの、 なんの訓練もしていない一般人如きがパイロット面しようとした報いだ、 なんて結構ひどいことを考えていたりした。 ただ、ヒカリが鈴原のことを好きだっていうことは知っていたから、 彼女と顔を合わせることだけは怖かった。 彼女と顔を合わせることで責められて、 せっかく得ることのできた貴重な友人を喪うことが怖かったのだ。 無論、実際にはそんなことはなかった。 なにせ、鈴原を襲った不幸については参号機起動実験時の事故として処理されている。 つまり、参号機が使徒に乗っ取られたこと、及び初号機との戦闘行為、 その結果による破壊という様々な事実は、全て隠蔽され闇に葬られたのだ。 鈴原自身、使徒に乗っ取られていたときの記憶が残っていなかったのは幸いだった。 もしも彼がそのときのことを覚えていたなら――間違いなく「処理」されていただろうから。 だから、ヒカリは一度も鈴原のことであたしやシンジを責めたことはなかった。 それどころか、パイロットとしての自信を失ったあたしが彼女に縋ったときも、 あたしを軽蔑したりせず、温もりと励ましをくれた―― たとえそれが、あたしの惨めさをいや増すばかりだったとしても。 そして、10年経ってもなお、あたしを友人として想い続け、欠かさずメールをくれる。 多少、無神経でお節介なところもあったけれど。 でも、それは単純に、彼女がなにも知らないせいなのだ。 そして、たとえ直接の原因があたしたちにはないのだとしても、 彼女がNERVという組織とそこに所属するあたしたちに対し、 なんらかのわだかまりを抱いていたであろうことは間違いない。 この時間に戻る以前のあたしが一度もヒカリと直接会おうとしなかったのは、 それを事実として認識することが怖かったからだ。 ヒカリはいい友人だと、無邪気に信じ込んでいたかったからだ。 身勝手で浅ましい、そして寂しい女。 年ばかりとっても、結局正面から人と向き合うことができないままで。 こうして戻ってきてからというものの、あたしは自分の幼さを痛感してばかりいる。 14歳の頃のあたしばかりではない。 24歳のわたしが、いかに成長していなかったかということも。 鉄の処女。そんな陰口を、どこかでステイタスのように感じていたけれど。 そんなカッコいいもんじゃなかったのね。 大人になりきれない、幼さを鉄の鎧で覆っているだけの、ただの子供。 それが――24歳のわたしだったんだわ。 でも。 今度は、あんなひどい結果になんかさせない。 鈴原がフォースチルドレンに選出されたとき、 あたしはその事実を認めたくなくてなにもしなかったけれど。 今度は、鈴原に思い留まるよう説得してみよう。 ヒカリのために。 そして、あたしとシンジのために。 今度こそ、あたしはこの、小さいけれど平和で素晴らしい世界を守るんだ。 改めて、あたしは強く決意を固めたのだった。 続く


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