この時の流れの中で (中編 B−part)


あたしは10年ぶりに感じる懐かしい匂いの中に身を浸していた。 シンクロテストのためのテストプラグの中。 けれど、弐号機のコアの気配は確かに感じる。 これが本物のエントリープラグの中だったら、もっと身近に感じることができるはずなのに。 ただいま、ママ。 あたし――帰ってきたよ。 これからまた、よろしくね。 心の中で語りかける。 返ってくる言葉はなくても、あたしは確かにママの存在を感じ取っていた。 戦略自衛隊襲来の中ではじめて知覚できたママの存在。 忌まわしい量産機との戦いでは、あたしとママは完全にひとつとなっていた。 あのときの高揚感、恍惚感は忘れ難い。 もっと早くママの存在を知ることができていれば―― あたしは幾度となくそのことを後悔したけれど、こうしてまた、ママと出会えるなんて。 自分でもわかる。 多分、今のあたしのシンクロ率とハーモニクスは、 普段とは比較にならない値を示しているはずだ。 あの最後の戦いと同じとまではいかなくても、それに近い状態なのは間違いない。 EVAにシンクロできず壊れてしまったかつてのあたし。 だけど、今回はあんなことには絶対にならない。 残る使徒はあと6体。 そいつら全部を、あたしとママで殲滅するんだ。 大丈夫。きっと大丈夫。 今のあたしとママのシンクロ率なら、 A.T.フィールドの意味と使い方を完全に理解した今のあたしなら、 あの第14使徒にだって負けるはずがない。 特に、あたしを辱めたあいつ―― あたしの心を暴いて犯した、あの第15使徒だけは絶対にこの手で殺してやる……! 拳を握りしめたとき、通信回線から赤木博士の声が聞こえた。 [どうしたの、アスカ? 心理グラフが乱れているわよ] 「……ごめん。ちゃんと集中するわ」 [つまり、集中しないでこれというわけね……] 赤木博士にしては珍しい、素直な感嘆のため息。 正直、もうかつてのようにEVAが人生の全てと縋るつもりはないけれど、 それでもこうして褒められるのは悪い気分のするものじゃない。 それだけ、あたしとママの心がひとつになっているということだから。 (心配しなくっても、使徒が攻めてきたら無敵のシンジ様がやっつけてくれるわよ!  あたしたちはなんにもしなくっていいのよ、シンジだけがいればいいのよ!) 不意にフラッシュバックする記憶。 ……大バカ野郎だわ、あたしは。 シンジに負けたと思い込んで、嫉妬して、僻んで、拗ねて、現実から目を背けて。 そんな幼いプライドにしがみつくばかりで前に進もうとさえしなかったから、 加持さんにもミサトにも、シンジにもちゃんと向き合ってもらうことができなかったのよ。 辛い戦いの中で心を壊されはじめていたのは、シンジだって一緒だったのに。 今度は、あたしがあんたを助けてあげるからね、シンジ。 だから、今度こそふたりとも壊れることなく、幸せを手に入れよう。 そうじゃなければ、こんな苦しい思いをして戦っているあたしたちが報われないもの。 そうじゃなければ、あたしがこうしてここに帰ってきた意味がないもの……。 [お疲れさま。3人とも上がってちょうだい] 赤木博士の一声で、あたしの10年ぶりのシンクロテストは終了を告げられた。 「シンクロ率84%、ハーモニクス97。  やや安定感には欠けるけど、素晴らしい数値だわ、アスカ」 シンクロテスト終了後恒例の、実験管制室でのミーティング。 あたしは、赤木博士から今日の成績を絶賛された。 シンクロ率が少し低い気がするけど……まあ、色々考えごとしてたから仕方ないか。 横から赤木博士の持つデータを覗き見たミサトも目を丸くする。 「あらほんと。今日一日で随分伸びてるじゃないの」 「ええ、大したものだわ。  これが戦闘中に安定した数値として出せるなら、今後はかなり楽になるわね」 「フォーメーションも色々試せそうね。すごいじゃないの、アスカ」 「へへん。まあね」 あたしは得意げに胸を張った。 以前のあたしは、70%台半ばから後半で頭打ちになってた感があるから、 ふたりがこれだけ喜ぶのも当然のことと言えるだろう。 でもね、ミサト、赤木博士。 あたしの武器は、そのシンクロ率だけじゃないの。 あたしは、この脳内に使徒のデータを持っている。 もちろん公にそんなことを言うことはできないけれど、 戦闘中、閃きによる進言という形でなら活かすことができるはずだ。 それに、使徒戦なんかよりも重大な、あたしたちの心身を苛む出来事についても。 「最近、シンジ君も着実に成績を上げてきたけれど……  これでまた、アスカが頭ひとつ飛び出たわね」 ……あ、ちょっとまずいかな? シンジをちらりと見ると、ちょっと複雑そうな表情で赤木博士の言葉を聞いていた。 確か、この頃のシンジって碇司令から褒められることに 喜びを見出していた時期だから、結構シンクロ率のこと気にしてたのよね……。 シンジのことだから、まさか以前のあたしみたいなことにはならないと思うけど。 あたしが見ていることに気づいたのか、シンジが視線をこっちに向ける。 微かな落胆と隔意が瞳をよぎり、それから力ない微笑が口元に張り付いた。 「良かったね、アスカ……」 ああもう、やっぱり気にしてる! ミサトや赤木博士も、もう少しシンジに気を遣ってあげてもいいじゃないの! 「ちょっとシンジ! そんなお愛想言われても、あたしはちっとも嬉しくないのよ!」 腰に手を当ててシンジを指さすいつものポーズ。 シンジが目を丸くしてあたしを見ている。うん、つかみは成功だわ。 「あんただって成績上げてきてるって言われたばっかりじゃないのよ、今!  だったらそんなに落ち込まないの!」 「べ、別に落ち込んでなんか……」 「あんたバカァ!? 見え見えなのよ!  あたしはあたしで頑張るから、あんたはあんたで頑張りなさい!  あたしたちはパー……チームなんだから、別に勝ち負け競う必要なんてないの。  大事なのは生き残ること、そのために互いを補い合うこと、  そして相手に背中を預けられるだけの信頼関係を築くことよ!  第10使徒も第11使徒も、だから倒すことができたんでしょ?  どっちが高い低いとか関係なし! わかった!?」 我ながら良く言うものだと、あたしは自嘲を堪えながらもシンジに言い放った。 前回それにこだわって足並みを乱していたのはあたしなのにね。 でも……言ってみてから自分でも改めて思ったけれど、まさにその通りなのだ。 誰が一番とか、誰が誰より優れているとか、そんなことはどうでもいい。 互いに互いを刺激しあう程度には競争意識も必要かもしれないけれど、 それで人間関係がぎくしゃくしたりしたんじゃ本末転倒だもの。 あたしは前回、それがわからなかった。 多分、今でも本当の意味でわかっているとは言い難いんだろう。 だけど、二度とシンジとあんなことになるのはいやだから。 ちなみに、ファーストに気を遣ってチームと言い直したけれど、 本当はパートナーと言いたかったっていうのはトップシークレット。 まあ、ファーストはこの騒ぎの真横でも知らん顔してるから、 気を遣う必要なんてまるでなかったかもしれないけどね。 あたしの言葉に、シンジはぽかんとしているようだった。 いや、シンジだけじゃなくて、管制室にいる全員があたしのことを呆然と見つめている。 あたしらしくないこと言ってるって自分でもわかってるけど、 やっぱりこういう反応をされるとちょっぴり傷つく。 ふん、どうせあたしは高飛車で傲慢で一番じゃなきゃ気が済まない女ですよーだ。 あたしがむくれてそっぽを向いたとき、赤木博士がぱちぱちと手を叩いた。 「アスカの言う通りね。  誰が一番だろうと構わない。使徒迎撃こそがわたしたちの任務なのだから。  煽るようなことを言ってごめんなさいね、シンジ君」 「あ……い、いえ」 素直な謝罪を口にする赤木博士に、しどろもどろになってシンジが頭を下げる。 なによ、あたしの言葉にはまるで反応しなかったくせに。 ちょっと恨みがましい目をしてシンジをにらんでいたら、 ミサトがニヤニヤ笑いを浮かべてあたしの顔を覗き込んできた。 「あ〜らアスカ、せっかくシンクロ率が上がったってのに不満顔ね〜?  愛しのシンちゃんに相手されないのがそんなに寂しい?」 「なっ……バ、バカ言ってんじゃないわよ!」 「そ、そうですよミサトさん! 変なこと言わないでくださいよ!」 「あら、少し興味があるわね。シンジ君とアスカがそんな関係になっていたの、ミサト?」 「いや〜、それがちょっと聞いてよリツコ〜。  このふたりったらアツアツでさあ、参っちゃうのよね〜」 「ぎゃーーーっ! それ以上口開くんじゃないわよこの飲んだくれ!  シンジ、あんたも止めるのよ!」 「うん!」 「あら、見事なユニゾン」 ふたりして必死になって口を押さえるあたしとシンジに、からかうような赤木博士の一言。 管制室が笑いに包まれ、あたしとシンジはまたしても真っ赤になる羽目になった。 「まあでも、ふたりには悪いけど、ミサトには詳しく話を聞く必要があるわね。  アスカのおかげで目立たないけど、シンジ君も今日は最高記録をマークしているの。  ふたりに何があったのか知らないけれど、それが原因である可能性は非常に高いわ。  ――というわけで葛城三佐、技術部主任として、  セカンド、サード両名の関係について正式に作戦部に報告を依頼します」 「作戦部諒承します、赤木博士」 「き、汚いわよあんたたち!」 「僕たちのプライバシーとか無視なんですか!?」 悲鳴のような声を上げるあたしとシンジにも、ふたりは顔色ひとつ変えなかった。 「ごめんね〜ふたりとも。あたしたちもこれが仕事だからさあ」 「別に興味本位でやってるわけじゃないのよ?  酒の肴にするつもりはないから安心してちょうだい」 「しれっとウソ言ってんじゃないわよ! 目が笑ってんのよあんたたち!」 「ひどいですよミサトさんもリツコさんも!」 「あら、嘘やでまかせばかりじゃないわ。  あなたたちも知っているとは思うけど、わたしたちは、  EVAのテクノロジーを完全に理解しているわけではないのよ。  だから、少しでもイレギュラーか事態が観測された場合には  詳細なデータと綿密な検討が必要となるの」 「詭弁だわ!」 「詭弁だろうとなんだろうと、それが事実なのよ。  それに、もしも葛城三佐の報告と今回のテストの結果に明確な因果関係が  認められるようなら、NERVとしてはあなたたちのシンクロ率を維持するために、  全面的なバックアップを惜しまないわよ?」 それって……あたしとシンジの仲がNERV公認になるってこと? そ、それは嬉しい気もするけれど……でも、ダメよ! 絶対にダメ! ネルフのバックアップを受けるって、 要するにあたしとシンジが命令でくっつけられちゃうってことじゃない。 そんなので結ばれても嬉しくもなんともないもの。 それどころか、ちょっといい感じになりかけてるかもって時期なのに変な横槍入ったら、 あたしはともかく、シンジはそのことを気にして素直な気持ちを出してくれなくなる。 そうしたらお互い気まずくなって、前より雰囲気が悪くなってしまうかもしれない。 そんなの絶対にいやよ! さすがにミサトもその辺のことはわかっているらしい。 あわてた様子で赤木博士をなだめにかかりはじめる。 「ちょ、ちょっとリツコ、なにもそこまで話を大げさにしなくても……。  ほら、恋愛は本人たちの自由なんだし、NERVを持ち出すことはないんじゃない?」 「ミサト、あなた、それでも作戦部長なの? もしも――」 ミサトに冷たい視線を向けた赤木博士は、ちらりとあたしたちを一瞥して言葉を切った。 その表情には珍しく気まずさのようなものが浮かんでいる。 「やめましょう、子供の前でする話じゃないわ」 って、いったいどんなとんでもないこと口走るつもりだったのよ!? 「とにかく、これはE計画責任者としての決定です。反論は許しません。  ――シンジ君もアスカも、いいわね?」 その肩書きを持ち出されてしまっては、 パイロットであるあたしたちに逆らうことなんてできるはずもない。 あたしは渋々ながらも口をつぐまざるをえなかった。 ミサトが手を合わせて無言で謝罪してたけど、絶対赦してやるもんか! 「わかったわよ!  どうせあたしたちパイロットにプライバシーなんてないんだから、  報告だろうと密告だろうと好きにしたらいいでしょ!?  ほんと、大人って信じらんない!」 自分でも無意識のうちにそんなセリフを言えてしまうのが不思議だった。 あたしはもう、完全に、24歳のわたしではなくなってしまったのかもしれない。 ドイツで課長職に就いていたときは、こんな裏の駆け引きなんて日常茶飯事だったのに、 今はそれをいやらしく汚らわしいものだと感じてしまっている。 それが良いことなのか悪いことなのか、自分でも判断はつかなかった。 「帰るわよ、シンジ!」 「あ……ご、ごめんアスカ、先に帰ってもらってていいかな?」 「はあ? なに言ってんのよ、今日の夕食当番はあんたじゃない!」 「あ、そんなに遅くならないと思うから、食事はちゃんと作るよ。  でも、待っててもらうのも悪いから……」 そう言いながら、シンジはミサトと赤木博士の方をちらちら伺っている。 ふたりに用事があるらしいのは一目瞭然だけど……ふたりともきょとんとした顔してるし。 ふん、まあいいわ。 今日はこれ以上、ミサトの顔も赤木博士の顔も見たくないもの。 「わかったわよ、先に帰ってるから。  でも、すぐに帰ってくんのよ!? あたし、お腹ぺこぺこなんだからね!」 「うん、わかってるよ。――あ、それから」 「なによ?」 「……さっきは、変なこと気にしちゃってごめん。  怒ってもらえて、う、嬉しかったよ」 「ばっ……バッカじゃないの!?」 照れくさそうに言うシンジにもっと激しく照れてしまったあたしは。 自分でも滑稽なくらい動揺した大声を出して、憤然とした足取りで管制室を出ていった。 ……でも、さ。 これって良い傾向よね。 シンジがあんなこと言うなんて、以前じゃ考えられなかったもの。 それに……単純に、お礼を言ってもらえて嬉しくて。 だれの視線もないことを確認すると、あたしはさっきまでの不機嫌なんてどこへやら、 半ばスキップするような調子で更衣室に向かったのだった。      *     *     *     *     *     * 「あんたさあ」 「なに?」 「そんな風に生きてて、つまんないと思ったりすることってないの?」 「別に」 「……あっそ」 ……やっぱり、シンジのこと待ってれば良かったかしら。 本部施設を出るなり、あたしは早速後悔に苛まれることになった。 なぜかはわからないが、あたしよりも先に更衣室を出たはずのファーストと、 モノレールの駅へ向かう途中に出くわしてしまったのだ。 おかげで今、あたしはファーストとふたりっきりで夜道を歩くという、 なんとも言い難い事態に追い込まれている。 無言のまま隣を歩くファーストをちらりと見遣る。 あたしの視線に気づいているのかいないのか、その赤い瞳がこちらを向くことはない。 さっきから何度か会話を振ってはいるものの、それが継続することもなかった。 まあ、わかっていたことではあったんだけど。 せっかくだから、今回はファーストとも仲良くしたいとは思うのだが、 なにぶんにもあたしにとって、彼女は不倶戴天の仇敵とも呼ぶべき存在なのだ。 その人形のような澄まし顔も嫌いだったし、感情の見えない平坦な喋り口調も嫌いだった。 会話してるときに人の目を見ないところなんて殺意すら覚える。 そのくせ人を見つめるときの瞳には彼女自身の意志がまるで感じられなくて、 無機物を相手にしているかのような錯覚さえ抱かせる。 それに――10年前は明確に意識したことはなかったが、シンジのこともある。 ファーストとシンジが好きあっているんじゃないかという疑惑は、 ずいぶん以前からあたしの中にわだかまっていたような気がする。 もちろん、ふたりの間に恋愛関係があったなどとは思わないが、 立ち入ることのできない緊密な絆をふたりの間に感じることは、一度ならずあったのだ。 だからあたしは、シンジがファーストに笑顔を向けたり、 何くれと世話を焼いたりするのを見るのが厭だった。 はっきり言えば、シンジがファーストを見つめているだけで不快な気分になった。 「あんたさあ、なんで今日学校休んだの?」 「あなたに関係ない」 「仲間でしょ? 教えてくれたっていいんじゃないの?」 「ダメ」 「なんでよ?」 「言えない」 「なんで言えないのかも言えないってわけ?」 「ええ」 「……あっそ」 とりつく島もないとはまさにこのことだ。 あたしは嘆息する以外、この居心地の悪さを埋め合わせる手段を知らなかった。 そう、ファーストは今日、10年前と同様に学校を休んでいた。 このことは、実は非常によく覚えている。 だって、10年前、シンジは主のいないファーストの席をじっと見つめていたから。 まるで、あたしと前の晩にキスしたことなんて忘れてしまったみたいに、 あたしのことになんか注意ひとつ払わずに。 あたしが、そんなシンジのことをずっと見つめていたなんて夢にも思わないで。 昨夜のキスのことずっと考えて、シンジはどう思ってるんだろうって気になって。 キスの後のあたしの言動でシンジが傷ついていたことは知っていた。 だから、少しでも――ほんの少しでも、シンジがあたしに期待する素振りを見せれば、 あたしだって優しく接してやるつもりだったのだ。 なのに、シンジはあたしを見ようとさえしないで。 その様が、まるで「昨日キスしたのがアスカじゃなくて綾波だったら」って 言っているように見えて、あたしは辛くて苦しくて、そしてシンジが憎かった。 あたしの特別な存在にはなってくれなかったくせに。 ファーストの特別な存在にはなりたがっているかもしれないって。 あの辺りから、あたしがシンジに対して抱いていた恋の種子は、 少しずつ少しずつ歪んだ方向へ成長をはじめていったのだろう。 きっかけひとつで、今のあたしが抱いているような、 まっすぐで健やかな恋心になっていたはずなのに。 そして、シンジの想いもまた、10年前とは違ってあたしに向きはじめている。 これはもう、絶対に間違いない。 10年前と違って、シンジはファーストよりも、あたしのことを気にかけてくれたから。 と言うよりも、もうずっと気にしっぱなし。 ファーストの席なんて、欠席だと知ったときに一度見ただけで、それ以降は見向きもしない。 授業中でも休み時間でも、あたしの方をちらちらちらちら。 もちろんあたしもシンジを見つめてたりするので、しょっちゅう視線が合う。 その度にお互い真っ赤になって、視線を逸らす。 その度にあたしたちの周辺の席の連中は、やってられるかとばかりに顔をしかめる。 もうね、なんていうか。 自分たちのことながら、お前らアホかと。 あたしとシンジがこんな状態になるなんて、10年前では考えられなかったことだ。 フラッシュバックする、シンジとの泥沼の記憶。 何もかもが変わってきている。 あたしもシンジも、あの辛い日々を繰り返さなくてすむ。 そう考えた、その途端に。 ちくり、と。 胸を棘が刺すような感覚が襲った。 ……まただ。 胸に湧き起こる強烈な違和感。 なんだろう、これ。 言葉では表現のできない、厭な感じ。 あたしは眉をひそめてそれをやり過ごすと、調子を変えてファーストに話しかけた。 「ねえ、ファースト。あんた、シンジのことどう思ってんのよ?」 それは、以前のあたしだったら絶対に訊けなかったこと。 ファーストがシンジをどう思っていようが、あたしには関係ない。 シンジがファーストをどう思っていようが、あたしには関係ない。 そんなことを尋ねるなんて、あたしがシンジを気にしていると証明するようなものだから。 そんなプライドが邪魔をして、直接疑問をぶつけることもできず、 けれどどうしても気になって、あたしは不安に苛まれた。 忘れることのできない、プラットホームでの出来事。 遠くで見つめるあたしに気づかず、ファーストと楽しそうに会話をしているシンジ。 その頃すでに、あたしには久しく見せなくなっていた本当の笑顔を浮かべて。 あの笑顔を、今度はファーストには渡さない。渡してたまるもんですか。 「……どうしてそんなことを訊くの?」 「知りたいからよ」 「どうして知りたいの?」 「あんたバカァ? あたしがシンジのことを好きだからに決まってんじゃん」 なるべくいつもの調子で言ったつもりだった。 けれど、やっぱり声が上擦るのを完全に抑えることはできなかった。 当然のことながら、顔はすでに耳まで真っ赤だ。 ファーストは微かな驚きを浮かべてあたしに向き直った。 ふん、やっぱりシンジのことになると様子が変わるじゃないの。 「……好き?」 「そ、そうよ。悪い?」 一度さらっと言ってのけたものの、改めて問い返されると気恥ずかしい。 特に、ファーストのように無表情で尋ねられるとなおのこと。 さらに、ファーストはとんでもない爆弾発言をかましてくれた。 「碇くんとひとつになりたいの?」 「ぷふぅぅぅぅぅぅぅぅっ!?」 あたしは盛大に唾を噴き出した。 こ、この女、無表情でなんてこと言うのよ!? 「あんた、女としての慎みとか恥じらいはないの!?  ひ、ひとつにって……フケツよフケツ! 信じらんない!」 「そう」 「そうよ! どう考えたって異常よ!」 「それじゃあ、ひとつになりたくないのね」 「なっ……!」 ここでファーストの言葉にうなずいてしまうのは明らかな敗北宣言だ。 けれど、だからって「ひとつになる」なんて…… いやあーーーーーっ! か、考えられないわーーーーーっ! 想像もできないわーーーーーーっ!! 悪かったわね、どーせ精神年齢24歳のくせに免疫ないわよ! エッチはおろか、キスや手を繋いだことさえロクに経験ないわよ! と、とにかく。 「す、好きっていうのはそういうことだけじゃないでしょ!?  ひとつにとかなんとかはもっと後の段階よ!  あ、あたしとシンジはキスもすませてるんだからね!」 「キス。家族や恋人同士が行う、親愛を表現するためのコミュニケーション手段……」 「そうよ!」   ファーストはあたしの言葉に「そう」とうなずくと、また正面を向いた。 「……わたしも、碇くんのこと好きなのかもしれない」 「はあっ!?」 今度はあたしが驚く番だった。 いや、そのこと自体は知ってたけど、まさかここでこう告白されるとは…… こ、これはちょっと予想外の展開だわ。 「あ、あんたなにさらっとぶっちゃけてんのよ!?  ていうか、あたしの話の後でそーゆうこと言う、普通!?」 「いけなかった?」 「当たり前じゃないのよ!  あんたねえ、それ、いわゆるライバル宣言ってやつよ!」 「そう。よくわからない」 「とぼけてんじゃないわよムカつくわねえ!」 「だって、本当によくわからないもの。  でも、あなたが碇くんを好きなのはとてもイヤ」 無表情でズバッとケンカ売ってくれるじゃないのよ、この女……。 上等じゃないのよ、買ったわそのケンカ! あたしは、傲然と胸を反らしてファーストを見下してやった。 「はんっ!  あんたがイヤだろうとなんだろうと、もうあたしとシンジはキスしちゃったのよ!  いわば既成事実ってやつよね〜。  はっきり言って、あんたの立ち入る隙間はどこにもないわ!」 「いい。わたしも碇くんとキスするから」 「さ、させるわけないでしょおっ!? あんたなに考えてんのよ!?」 「わたしも碇くんが好きだもの」 「あんた、さっきは『かもしれない』って言ってたじゃないのよ!?」 「確信できたから」 「勝手にすんじゃないわよそんなもん!  とにかく! シンジはあたしのものなんだから、横から手出ししないでちょうだい!」 「ダメ」 「ムっカっつっくっわっね〜〜〜っ!!」 錨に拳をわななかせながら、あたしは新鮮な驚きを感じていた。 ファーストとこんな風に会話が長続きしたのははじめてなんじゃないだろうか。 もちろん、決して友好的とは言えない内容のものだけど、 それでも互いに視線も合わせず会話もない、そんな関係に比べればずっと健全に思えた。 「……わかったわ、ファースト!」 「なに?」 「あんたの宣戦布告、正面から受けて立ってやるわ!  あたしとあんたのどっちがシンジの恋人になるか、勝負よ!」 「ダメ」 「はあっ!? なんでよ!?」 「あなたが諦めて」 「一方的にあんたの都合押しつけてんじゃないわよっ!」 「後から来たのはあなた。わたしの方が先。だからあなたが諦めて」 「だからって理屈つけて説得しようとしてんじゃないわよっっっ!!  諦めるのはあんた!  あたしは絶対、シンジと結ばれて幸せになるんだから!」 そうよ。 シンジのことを好きだって自覚したらしいファーストには悪いけど。 絶対あんたにシンジは渡さない。 あたしは、シンジを求めて。 シンジだけを求めて。 シンジとやり直すことだけを求めて。 時を越えて、この時代に帰ってきたんだから。 「あなたは、それでいいの?」 突然―― ファーストが、それまでとは全く違った口調で囁いた。 いや、特になにが違っているというわけではない。 さっきまでと全く同じ、平坦で感情を伺わせることのないぼそぼそとした口調。 それなのに。 あたしは、目の前に立つ少女が、 突然別の人間にすり替わってしまったかのような錯覚を抱いていた。 「ファースト……?」 ファーストは、赤い瞳であたしのことを見つめている。 だけど――違う。 これは、ファーストじゃない。 少なくとも、あたしの知ってるファーストなんかじゃない……! 「あなたは、それでいいの?」 「あんた……なに言ってんのよ……?」 確かな恐怖を感じながら、あたしは震える声でつぶやいた。 この感覚。 あたし、どこかで感じたことがある……? 「……なにが?」 不思議そうな、ファーストのつぶやきが。 その空間に満ちていた緊張感を、一気に解き放った。 呼吸が荒い。 気がつけば、全身が冷や汗でぐっしょり濡れていた。 けれど、その原因となった少女からは、さっきまでの異様な感覚は伝わってこない。 「すごい汗」 「あんた……の……」 せいよと、そう言おうとして、あたしは口を閉ざした。 下手に追求したら、またさっきのファーストに変わってしまうのではないか、と。 そんな恐怖が、あたしの心臓を鷲掴みにしたのだ。 「なんでもないわよ……」 「そう」 素っ気なく言うと、ファーストはすたすたと歩きはじめた。 さっきまでの会話の流れが嘘のように、深く重い沈黙があたしたちの間に横たわる。 けれど、あたしはそれをあえて破ろうとは思わなかった。思えなかった。 それっきり、あたしたちは一言も喋ることはなく。 モノレールを降りて、別れ際にファーストが「負けないから」とぼそりと言ったが、 あたしにはもう、その言葉に反論するだけの元気も残されていなかった。      *     *     *     *     *     * シンジが帰ってきたのは、結局、あたしに遅れること2時間後のことだった。 けれど、あたしにはそれを問い詰める気力はない。 あたしは自分の部屋に閉じ籠もったまま電気もつけず、ベッドの上に座り込んでいた。 疲労ではない。 確かに消耗はしていたけれど、それが理由なんかじゃない。 ――恐怖。 あの瞬間の、ファーストとの対峙を思いだしただけでも身がすくむ。 ファーストが怖かったというのとは少し違う。 むしろ、あのときのファーストが口にした言葉こそが怖かったのだ。 (あなたは、それでいいの?) 思い返してみれば、こんな言葉のなにがあたしを脅かしたのか、全く理解できない。 ただ、ファーストがどんなつもりでこれを言ったのか、それが気になるが。 少なくとも、あの会話の流れの中に、こんな言葉が混ざる要素などなかったはずなのだから。 そう……ない、はずだ。 それなのに。 なんだって言うのよ、いったい。 この、全身を刺し貫くような途方もない不安は、いったいなんだって言うのよ……! それは、度々あたしが感じてきた例の違和感にも似て。 けれど、もっと具体的な姿をとって、徐々にあたしに忍び寄ろうとしているようだった。 そして、なによりも問題なのは。 多分、あたしはこいつの正体を知っていることだった。 知っていながら、それを自覚することができないでいるのだ。 「アスカー」 シンジの脳天気な声が、ダイニングの方から聞こえてくる。 ほんのついさっきまでは、あたしの胸を甘く溶ろかせた声。 それが、今はこんなにも煩わしい。 いいわよね、あんたはなにも悩みがなくって……。 胸に湧き起こる黒い感情。 それを知覚した瞬間、あたしは大きくかぶりを振った。 なに考えてんのよ、あたしは。 せっかく、シンジとの関係がうまくいきそうだってのに、また台無しにするつもりなの? あんたいったい、なんのために戻ってきたのよ、アスカ……! シンジの足音が、あたしの部屋の前で止まった。 軽いノックの音。 「アスカ? 寝ちゃったの?」 このまま寝たふりをしようかという誘惑を、あたしははね除けた。 ここでシンジを拒絶したんじゃ、心を閉ざした前回と一緒じゃないのよ。 そうよ、こんな不安なんかただの勘違いなんだから。 ふすまを開ける。 目の前にシンジの姿。 「ああ、良かった。遅くなったから、もう眠っちゃったのかと思った。  ごめんね、思ったよりも話が長引いちゃってさ。  お弁当買ってきたから一緒に食べようよ」 心に染み通るような優しい笑顔に、あたしはなんだか泣きたくなってしまった。 だけど、ここで変な顔をしてシンジを心配させたくなかったから。 あたしは少し強張りながらもなんとか笑顔を浮かべて、シンジの言葉にうなずいた。 シンジはあたしの様子に一瞬怪訝そうな表情を浮かべたけれど、なにも訊いてはこなかった。 食欲なんかないものと思っていたが、 一口食べると、思ったよりも空腹を感じていたのだと実感した。 ろくに会話もせず、貪るようにお弁当を掻き込む。 「あんまり急いで食べると体に悪いよ」 そういってお茶を用意してくれるシンジの気遣いが嬉しくて、 そして同時になんだか気恥ずかしくて、あたしはさらに食べるスピードを上げた。 「……で、なんでこんなに遅くなったのよ?」 食べ終わるのとほとんど同時に、あたしはシンジに尋ねていた。 シンジはまだ半分くらいしか食べていなかったけれど、知ったことじゃない。 だいたい、あんたが残ったりしないであたしと一緒に帰ってくれてれば、 あたしがあんなおかしな思い味わうことだったなかったんだからね。 ……もちろん、そんなことは口に出しては言えないけど。 いきなりの質問に驚いたのか、シンジは軽くむせた。 お茶を飲み干して一息つくと、真面目な表情になって箸を置く。 「あ、いいわよ別に、食べ終わってからでも」 「い、いやその……こういうのって、時間をあけるとダメな気がして……」 それは、言葉自体はなんの変哲もないものでしかなかった。 けれど、その口調に含まれた普段とは違う響きに、あたしはどきりと胸を高鳴らせる。 シンジは一度息を呑み、あたしをまっすぐに見つめてきた。 その表情は、普段のシンジからは想像もできないくらいひたむきで、凛々しくて。 あたし、その顔知ってるよ、シンジ。 はじめてあんたと会ったとき、 一緒に入った弐号機のプラグの中で、あんたはその顔を見せてくれたわよね。 あたしの膝の上に身を乗り出して、レバーを握りしめて。 プラグスーツ越しに密着してたのに、あんたはいやらしい顔なんてしなかった。 目の前の使徒を倒すことだけ考えて、雑念なんてひとつもなくて。 恥ずかしがってたあたしの方が、バカみたいに感じられたっけ。 あのときあたし、ちょっとだけあんたのことカッコいいって思ったんだよ。 ユニゾンの特訓中も、あんたその顔してたのよ。多分、自覚はないだろうけど。 あんたってばニブチンでとろくてドンくさくて、何度やっても失敗ばかりで。 でも、あたしにどんなにけなされても怒鳴られも罵られても、 あんたはその顔で特訓をやり遂げた。 決戦前にモニター越しに話したとき、あんたがその顔をしてたおかげで、 あたし、絶対使徒を倒せるって確信したんだからね。 直接は見られなかったけど、 あたしを助けにマグマの中に飛び込んできてくれたときも、きっとその顔だったよね。 あたしがあのとき、どれだけあんたにときめいたか知ってる? もしもあのとき、あんたのその顔見てたら、絶対恋に落ちてたはずよ。 停電のときも、空から落ちてくるでかいのを受け止めるときも、 あんたはその表情で初号機を操縦していた。 あの頃のあんたって、本当に素敵だったんだよ。 いつからだろう、あんたのその表情に苛立ちを感じるようになったのは。 あんたのその表情を、素直に好きだと思えなくなったのは。 でもね、今ならちゃんと言えるよ。 あたし、あんたのその顔が大好き。 だから、言ってよその顔のままで。 いつもみたいに、愛想笑い浮かべたりしないで。おどおど目を逸らしたりしないで。 「アスカ――その……ぼ、僕……」 うん。ちゃんと聞いてるよ。 どんなにつっかえてもいいよ。 しどろもどろでもいい。 逃げないで言ってくれるなら。 あたし、こうして待ってるから。 「僕……」 真っ赤な顔を、さらに赤くして。 シンジが大きく息を吸い込んだ。 あたしの瞳を見つめたままで。 「僕……アスカのこと、好きみたいなんだ!」 ……。 ……はい? 「そ、その――だから、アスカは僕のことどう思ってるのかなって……」 「……ちょっと待って」 「あ、も、もちろん今すぐ返事が欲しいとかじゃなくて――」 「そうじゃなくて。  ……なによ、『みたい』ってのは?」 「え?」 「だ・か・らっ!!  なんなのよいったい、その不明瞭で不鮮明で不確定な物言いは!?」 「え……い、いや、だって明瞭でも鮮明でも確定的でもないから……」 「あっ……あんたバカァ!?」 とうとう堪忍袋の緒が切れて、あたしは絶叫していた。 だんっと椅子の上に立ち上がってシンジのことを見下ろす。 「あんたねえ、自分の気持ちでしょうが!  それをなんなのよ、なにが明瞭でも鮮明でも確定的でもないよ!?  ドキドキしてあんたの言葉待ってたあたしの純情どうしてくれんのよ!  そんな曖昧な告白されて嬉しいわけないでしょうが、バカシンジ!」 「そ、そんなこと言われても……」 「そんなこと言われてもはこっちのセリフよ!  『好きみたい』『へえそうなんだ』で付き合えるわけないでしょうが!」 「うん……それは、わかってるんだけど……」 「なにがどうわかってるってえのよ!?  せめて自分の気持ちがはっきりするまで待つとか、やりようあったでしょうが!」 「……それじゃあダメなんだ!」 突然張り上げられた大声に、あたしは動きを止めてしまった。 普段そんな声を出し慣れていないせいだろう、シンジは気まずそうにうつむいて あたしの視線をかわすと、何度か咳払いしてから小声で付け加える。 「……だって、僕たち、いつ死んじゃうかわかんないだろ。  だから、言えるうちに言っておきなさいって、ミサトさんが……」 「……なあに?  残ったのって、このことをミサトたちに相談するためだったわけ?」 「うん……。  本当は加持さんに相談したかったんだけど、連絡取れなかったから……」 まあ確かに、加持さんを除くと相談できそうな大人なんて他にいない、か。 それに、どのみち赤木博士に報告されるんならってこいつが開き直ったのも納得がいく。 それにしても、ミサトと赤木博士、ねえ……。 とっちも青少年の悩みを打ち明けるには不向きな気もするけど。 「……で? ミサトたちに告白しろって言われたからしたってわけ?」 「そ、そういうわけじゃないよ。  ミサトさんたちには……その、確かにそう言われたけど。  でも、そもそも僕、こんな気持ちはじめてだからよくわかんなくて……」 「こんな気持ち……って……」 あたしは思わず赤くなった。 「バ、バカ! なに言ってんのよ!」 「で、でもそうなんだよ!  そりゃあ、前からアスカのこと可愛いとは思ってたし……  その、ユニゾンのときもキスしようとしたりはしたけど、  でも、好きとか付き合いたいとか、そんなんじゃなかったんだ。  正直言うと、綾波のことも気になってたし……」 ……それは正直すぎよ、バカシンジ。 まあ、とりあえず今は聞き流してあげるけどさ。 「そ、それに、アスカって前から僕のことバカにしてたから……  だから、女のコって言うよりはトウジやケンスケとおんなじ感じで考えてて……  加持さんのこと好きだっておおっぴらにしてたから、  ますますそういう対象じゃなかったっていうか……」 「……け、結構傷つくわね、それは……」 「ご、ごめん。  とにかく、アスカのことはそんな風に思ってたんだ。  昨日のキスだって……その、本当に深く考えないで……  ちょ、ちょっとだけ、ラッキーだとは思ったけど、別にアスカが僕のこと好きだとか、  そんな風に自惚れるつもりなんて全然なくて、暇潰しなんだって……。  そ、それに、なんか息できなくて苦しくってそれどころじゃなかったし……」 と、シンジはそこで、一気に顔を真っ赤にした。 「で、でも、なんかさ……。  キスの後から、アスカ、なんだか変だっただろ?  妙に僕に優しくって穏やかで、それに、なんか……か、可愛くってさ。  そ、それで……なんだか、昨日からアスカ見ると落ち着かなくて……  ア、アスカの顔見るだけでドキドキして、頭に血が上っちゃって……」 そ、それは……まあ、そうなってくれないと困るわけで。 ていうか、面と向かってこういうこと言われるのって死ぬほど恥ずかしいよう。 あたしだってそうなんだからね、シンジ。 なんてことを素直に言えたら、なにも苦労はないんだけど……。 「つ、つまり、それって好きってことじゃないのよ。  問題ないわよ、ちゃんと断言しなさいよ」 「そ、そうだとは思ったんだけど……  でも、昨日まではそんなことなかったのに、いきなりこんなの、変だろ?」 「へ、変じゃないわよ! そんなのはそういうもんなのよ、いきなりなの!」 「う、うん……。それは、ミサトさんもそう言ってたんだけど……。  でも、なんかさ……  キスしたからアスカのこと好きだと思ったんじゃないかって、そんなこと考えちゃって。  その……た、ただの勘違いなんじゃないかって」 「そっ……!  それは……まあ、あるかもしれないけれど……」 あたしは、恥ずかしさのあまりうつむいた。 シンジが言ってるのはあたしのことだ。 だって、あたしはシンジが言っていることを目的として、シンジにキスを迫ったんだから。 シンジに特別な存在になってほしくて。 その理由を作るために、あたしはシンジとキスをしたんだから……。 勘違い――そうだったのかもしれない。 あたしはもしかしたら、勘違いしたいだけだったのではないだろうか? 加持さんを想い続けることが辛くて、 ミサトに負けたと考えることが悔しくて、 それで一番身近な異性だったシンジを標的にしただけなのではないだろうか? あたしは……本当に、シンジのことが好きなの? もしかしたら、あたしは―― 取り返しのつかない絶望的な方向へ思考を走らせそうになったそのとき、 シンジの噛み締めるような言葉があたしを押しとどめた。 「でも……ミサトさんが言ったんだ。  そんな風に、自分の想いを分析して説明しようとしちゃダメだって。  そんなことをやってしまうと、心は本当にその通りの形になってしまうから。  理由がなんだろうと、今感じてる気持ちは本当のはずだからって……」 「今……感じてる、気持ち?」 「うん。リツコさんも言ってた。  人間の感情なんてロジックじゃないんだから、理屈を当てはめようとしても無理だって。  だから、いま一番僕が強く感じてる想いを信じなさいって、そう言われたんだ。  でも、やっぱり断言できるほど自信がなくて……  そしたら、僕たちはまだ14歳なんだからそれでいいんだって。  自分の感情がなんなのか把握するのは、大人でも難しいんだからって」 多分、ミサトとリツコの言葉は、シンジにとってはじめて触れるものだったんだろう。 シンジがふたりの言葉にすっかり影響を受けて、 得意げに語っている様子はなんだか可愛らしくて。 あたしは、思わず噴き出してしまっていた。 「なんか、伝聞ばっかね、あんた」 「し、仕方ないだろ、そんなの。  と、とにかく、だから僕がいま感じてることを言おうと思って。  アスカのことは好きだと思うけど、  やっぱりまだ、好きってどういうことかよくわからないから……。  その、ごめん。  僕、前いたところでも、ちゃんと人と向き合ったことないから、  慣れてないんだ、こういうのって」 「ふ〜ん。  ……で、結局のところ、あんたいったいどうしたいのよ?」 あたしの問いかけに、シンジは見る見るうちに真っ赤になって。 「だ、だから……  じ、自分でも自分の気持ちがよくわかってないなんて情けないって思うけど……  でも、それでもアスカと一緒にいたいって、そう思ったのは本当だと思うんだ。  だから……ア、アスカがいいって思ってる間だけでいいから……」 そこで一度、シンジは言葉を切って。 「ぼ、僕と一緒に……いて、下さい……」 「最初っからそう言えばいいのよ、バカシンジ!」 「わあっ!?」 あたしはシンジが椅子に座ったままなことも忘れて、シンジの胸に飛び込んだ。 もちろんシンジにそんな姿勢であたしを受け止められるはずもなく、 あたしたちは一緒になって、椅子もろとも床に倒れる。 でも、体の痛みなんて気にならないくらい、今はシンジの温もりが欲しかった。 そうよ――勘違いだとかなんだとか、そんなのどうでもいいじゃない。 少なくとも、あたしが今、こうしてシンジを求めてる、その気持ちは本物だもの。 「い、痛いよアスカ!」 「うるさい! 回りくどいこと言ってあたしをやきもきさせた罰よ!」 「や……やきもき、したの?」 「したわ。したわよ、ず〜っとしてたんだから!」 「そ、それで……あの……」 「返事は? なんて野暮ったいこと訊いたら、ブッ飛ばすからね」 「えっ……だ、だって……」 あたしはシンジの唇を指で押さえた。 それから、シンジに立ち上がるように促して、再び彼の腕の中に収まる。 シンジが緊張して体を硬くしているのがおかしかった。 あたしはシンジに頬を寄せ、お互いの熱が溶け合うのを感じながら、 とろんとして口調で甘えるようにシンジの耳元で囁いた。 「ね、シンジ。昨日のあたしの言葉、覚えてる?」 「……う、うん。  本当は、ずっとそのこと考えてた……」 「考えてた、だけ?」 「あ、あの……」 「今日は、あたしからはしないからね」 「で、でも……へ、返事……」 「もう一度言ったらブッ飛ばす」 「あう……」 弱り果てたようなため息がシンジの口から漏れ、あたしの耳と髪をくすぐった。 それだけで背筋がぞくぞくと熱くなる。 シンジが身体を少し離した。 あたしは、温もりが少しでも遠ざかるのが厭でしがみつこうとしたんだけど、 あたしの肩をつかむシンジの力は思ったよりも強く、 あたしを見つめるシンジの黒い瞳は怖いくらいにまっすぐで。 その表情から全てを悟ったあたしは、導かれるように目を閉じた。 なにも見えなくても感じるシンジの鼓動、息づかい、体熱。 それが、徐々に近付いてくる。 唇が敏感にシンジの気配を探り当て、無意識のうちに開かれる。 まるで、シンジを受け容れる準備が整ったことを知らせるように。 絡み合う吐息。 混じり合う体温。 それが、突然ぴたりと止まって。 「は、鼻で息するの……やめた方がいいのかな?」 ぴしっと、あたしのこめかみに青筋が浮かんだ。 「……ラストチャンスだからね……」 「あ、ご、ごめん……」 謝ってるヒマがあるなら――あたしがそう罵声を張り上げようとした瞬間。 あたしの唇が、温かく柔らかなもので塞がれた。 それは、まさに不意打ちで。 あたしは思わず目を白黒させてしまったのだけれど。 技巧もなにもない、重ね合わせるというのとも少し違う、覆い被さるようなキス。 ドラマや映画でよく見るような、情熱的な貪り合うキスではなく、 ヒカリに借りたことのある恋愛小説で読んだようなついばみあうキスでもなく。 お互いの唇をぴったりと隙間なく塞ぐだけの、ただの唇と唇の接触。 キスなんて色っぽい単語を冠せられるようなものでは全くなかった。 けれど、その不器用で朴訥な行為は、あたしとシンジにぴったりで。 ロマンチックでもなんでもない、素朴で純粋な想いの交歓。 けれど、お互いの存在を伝えあうためには最も相応しいコミュニケーション。 重ね合わせた唇が通路となって、ふたりの魂を直接触れ合わせているようで。 あたしは甘美な陶酔感に、うっとりと意識を委ねていた。 どれくらい、そうしていたのだろうか。 やがて、どちらからともなく唇が離れ、今度は堅い抱擁に移行する。 「……キス、しちゃったね……」 あたしはシンジの耳元で囁いた。 大きな声なんて要らない。 この声でもちゃんと届く近さ――その距離感が、あたしをいっそう酩酊させる。 「……うん……」 シンジの声も、やっぱり人に聞かせるものでは有り得ない小ささで。 それは、あたしのためだけの声。 あたしに聞かせるためだけに放たれた声。 世界中の誰にだって、今のシンジの声は聞かせてあげない。 今のあたしの声を、シンジ以外の誰にも聞かせてなんかあげないように。 「……今度は、暇潰しなんかじゃないよ……」 「……うん……」 「……もっと、きつく抱きしめてよ、シンジ……」 「……苦しくない……?」 「……ちょっとだけ……。でも、なんか……満たされすぎてて苦しいっていう感じ……」 「うん……。僕も、そんな感じがする……」 「えへへ……。おんなじ、だね……」 「……アスカ……」 「……なあに……?」 「ずっと、一緒にいようね……」 「……うん……」 「僕、アスカのこと離さないから……」 「……うん……」 「僕が、アスカのこと守るから……」 「バァカ……。そんなの、あんたには似合わないわよ……」 「……ダメ……?」 「……ううん……。ダメじゃない……。  あたしのこと、守って、シンジ……」 ……もっと抱きしめてよ、シンジ。 あたしをシンジの想いで塗り潰して。 あたしの心をシンジで独占してしまってよ。 そして――あたしの中から、あの不安を追い出して。 あたし、今、とても幸せだよ、シンジ。 多分、今があたしの人生の中で一番至福に包まれている瞬間なんだと思う。 だから、これが夢なんかじゃないってあたしに教えてよ。 あんたがくれるこの充足感を、あたしの中に刻みつけて。 そうすれば、あたし、なにもかも忘れてしまえるから。 あの、度々胸を刺す違和感も。 ファーストの変貌によって与えられた恐怖も。 なにもかも忘れて、あんただけに夢中になることができるから。 (あなたは、それでいいの?) ……いいのよ、ファースト。 あたしはこれでいいの。 あたしはこれがいいの。 こうしてシンジに包み込んでもらうために―― あたしの首を絞めて泣きじゃくるシンジなんかじゃない、 あたしを愛して抱きしめてくれるシンジに巡り会うために、 あたしは時を遡ってきたんだから。 あたしの中にいる、理想のシンジに恋するためだけに……。 (あなたは、それでいいの?) ……いいの。 あたしはこれで―― ……これでいいんだよね、シンジ……? あたしはシンジを抱きしめる腕に力を込めて、再びキスをねだった。 一度、自分からキスをすることで羞恥も薄まったのか、 シンジはさっきよりも自然な動作で唇を重ねてくる。 あたしは当然とまぶたを閉じて、シンジの唇を受け容れた。 その夜、あたしたちは数え切れないくらいキスをした。 回数を重ねるたびに、あたしもシンジも大胆に、巧みになってゆくようで。 繰り返すほどにいや増される悦楽は、あたしたちを行為にのめり込ませた。 そこから先へ進まなかったのは、我ながら大した自制心と言うべきか。 シンジも唇以上のものを求めようとしなかったのは、 やはり自分たちの年齢や立場に対する責任を自覚していたからなのだろう。 あるいは、ミサトや赤木博士に言い含められていたのかもしれないが。 ともあれ、あたしたちにはとりあえずはキスだけでも充分だった。 唇を重ねて抱きしめあうだけで、心の結びつきを実感することができた。 それこそが、あたしの中から全ての不安を拭い去ってくれるものに違いないと、 あたしは縋りつくようにシンジの唇だけを求めて夜を過ごした。 これでようやく、「あの夜」の呪縛から解き放たれることができる―― あの呪縛をなかったことにして、新たな一歩を踏み出せる、単純にそう信じ込んで。 あたしとシンジが「彼」と出会ったのは、その翌日のことだった。 学校帰りの通学路、道端に打ち捨てられた段ボールの中で、彼は小さな体を震わせていた。 シンジは彼を哀れみ、近くのコンビニでミルクを買って与えてやった上、 家に連れ帰って飼ってやろうとまで言いだした。 けれど――あたしは、体の震えを堪えるのに精一杯で、 シンジの言葉に同調することも反発することもできなかった。 「彼」は――その、子犬は。 あたしがこの時代に帰ってくる前、ドイツでともに暮らしていたシンジに瓜二つだったから。 犬のシンジの存在を意図的に思い出すことを避けていたあたしを責めるように。 子犬の黒い瞳が、あたしのことを見つめていた。 続く


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