その犬はみすぼらしく弱り果て、今にも死にかけている風に見えた。

ボロボロのダンボール箱の中、一枚のタオルを寝床にして浅い呼吸を繰り返す小さな姿。
体毛は元の色がわからなくなるくらい薄汚れて黒ずみ、身を切る寒さに震えている。

その姿に哀れみを覚えなかったと言えば嘘になる。

だからといって、この小さな命を救ってやろうなどと考えるには、
わたしはあまりにも利己的で、器量の狭い人間だった。

なによりも、迂闊に触れて情が移った場合、餌や散歩、
下の世話までしてやらなければならなくなる。
率直に言って、そんな面倒なのは真っ平ごめんだった。

わたしほどペットを飼うのに向いていない人間もいないと自覚できる程度には、
わたしは自分自身のことを正確に認識しているつもりだった。

段ボールの中を覗き込んだわたしを見上げる潤んだ瞳。
ケダモノのくせに妙に複雑で入り組んだ情念を感じさせる、黒い輝き。
それを数秒見つめただけで、わたしは立ち上がってアパートメントの中に入っていった。
もっといい人に拾われなさいと、声をかけることさえしなかった。

熱いシャワーを全身に浴びて、コーヒーを淹れる。
湯気を立てるそれを胃の中に流し込むと、わたしはなんとなく窓の外に視線を転じた。

空から散らばる、真っ白い欠片。

シャワーを浴びている間に降りはじめたらしい。
冬のドイツでは対して珍しくもないそれを、わたしはぼんやりと見つめていた。

考えていたのは、無論さっきの犬のことではなかった。
凍え死ぬかもしれないとは思ったものの、心配してやる義理でもない。
たまたまわたしの住んでいるアパートメントの前に捨てられていただけ、
それ以上の接点をあの子犬に見出すつもりなど毛頭なかった。

それよりも、そのときわたしの脳裏に映し出されていたのは、日本の常夏の情景だった。

日本には、当然のことながら雪など降らない。
一年を通して日射しが弱まることはなく、セミがそこかしこで鳴き続ける。
空気が粘り着くようにじめじめと蒸し暑い、異常な気候。

雪を見てあの国を思い出すとは、なんて逆説的なのだろう。
わたしはとことんまでひねくれているらしい自分の思考回路を嗤った。

そして、あの風景と体感とともに蘇るひとりの少年の面差しに、胸を疼かせた。

おそらく、二度と会うことのないであろうあの少年。
あいつは今頃どうしているのだろう。
わたしのことなんかすっかり忘れて、楽しく過ごしているのだろうか。

多分それはないだろうと、根拠もなにもなくわたしは思った。

たとえ表面には出さなくても、あいつの心の奥底にはわたしの姿が焼きついている。
あいつもときどきは、こうして遠く離れたかつての同居人の姿に思いを巡らせ、
切ないため息をつく夜をまんじりともせず過ごしているのに違いない。

それは、単なる願望ではあった。
ただ、わたしには、あいつがあれだけ激しく傷つけあった相手をすっかり忘れ、
自分だけ明るく無邪気に生きているなんてことが信じられないのだ。

だって、あいつはそういうやつだから。

自分に優しくしてくれる相手には尻尾をパタパタ振って近づいて。
そのくせ心の底から打ち解けようとしないでどこか距離を置いて。
けれど自分を見てほしいと潤んだ瞳で訴えかける。

どこまでもアンビバレンツな黒い瞳。
あたしの蒼い瞳を鏡に映したかのような黒い瞳。

……ああ、そうか。
不意に、わたしは納得した。
簡単に着替えてコートを羽織り、アパートメントの入口に駆け下りていく。

すでにだれかに拾われているか、
そうでなければわたしのガードによって処分されているかもしれないと思ったが、
幸いダンボール箱はさっきと変わらず置き去りにされていた。

再び覗き込む。

見上げてくるのは黒い瞳。
見知らぬ他人に対する不信と警戒に凝り固まった黒い瞳。
けれど、人の温もりと優しさを求めて潤んだ黒い瞳。

どこまでもアンビバレンツな黒い瞳。
あたしの蒼い瞳を鏡に映したかのような黒い瞳。

「あんた、シンジみたいね」

くすりと笑ってわたしは言った。
その名前がわたしの口から出てくるのは実に10年ぶりのことだったけど。
わたしは全く、そのことに違和感を覚えたりしなかった。

「おいで。お利口さんにしてわたしに迷惑かけないんなら、うちで――」

飼ってあげるわ。
そう言おうとして。



わたしの胸に、10年前の穏やかな日々の記憶が蘇った。
生まれてはじめての、「家族」との生活の日々の記憶が。





「――わたしと一緒に、暮らしましょう?」





子犬は不思議そうに首を傾げて。
懐くような気配は見せず、それでも抱き上げるわたしの腕に逆らう気配も見せなかった。





そうしてわたしは、それまでの伴侶だった孤独と寂しさを失い。

ドイツに戻ってからはじめて、家族の温もりと心休まる時間とを手に入れた……。






この時の流れの中で (後編 A−part)


「シンジ」のはずはない。 わたしはその子犬に見つめられながら、自分にそう言い聞かせた。 わたしと出会ったとき、「シンジ」はせいぜい1歳くらいだった。 10年前のこの第三新東京市に、「シンジ」が生きて存在しているはずはないのだ。 偶然と呼ぶにはあまりにも数奇で。 運命と呼ぶのであれば悪趣味で。 それほどに、「シンジ」とこの子犬とは酷似していたけれど。 「シンジ」のはずがない。 あの子がここにいるはずがない。 「――ねえアスカ。アスカはどう思う?」 シンジの声が、あたしを回想の淵から現実へと引き戻した。 「え?――あ、ああ……」 シンジの腕の中に、微かな怯えを見せながらも大人しく収まる子犬。 落ち着かない。 ちりちりと、焦燥にも似た疼きが首筋を這っていた。 「ミサトさん、犬とか好きそうだし。  頼めば飼ってもらえるんじゃないかと思うんだけどさ」 そう言って微笑むシンジの表情は、本当に穏やかであどけなくて。 その腕の中であたしを見つめる子犬の瞳は、あのときの「シンジ」と全く同じ輝きを秘めて。 あの雪の夜にあたしの心を震わせた瞳。 あの夜は思い出の中の少年と現実の中の子犬とを重ね合わせたけれど。 今は、そのふたりがともに眼前の現実として、あたしのことを見つめている。 ――それなのに。 あの夜と違って、わたしはその瞳を直視することができなかった。 「……どうかしらね。あ、あたしは反対だけど……」 あたしは目を逸らしながらぼそぼそと答えた。 シンジが意外そうな顔をする。 「どうして? アスカって、動物嫌いなの?」 「嫌いってわけじゃ……ないけど……」 あるいは、10年前のあたしであれば 「動物好きなんてガキっぽい」と一笑に付していたかもしれない。 けれど、たとえば子供のように無邪気に好きだということはできないが、 孤独を癒してくれる相手としてはペットとしては最適な存在なのだ。 「シンジ」の存在によって救われた記憶を持つ今のあたしには、 口が裂けても動物が嫌いだなどということはできなかった。 けれど……その記憶が、あたしの胸を締めつけるのだ。 不安という姿を取って。 自分の様子が尋常ではないことは自覚していた。 血の気が引いているのだろうことはわかったし、身体も小刻みに震えていたから。 お腹の底が凍ったように冷たくなり、そこから全身に寒さが広がっていくような感覚。 ――恐怖。 まるで、昨夜、ファーストが突然の変貌を遂げた瞬間のような。 シンジはそんなあたしの異常に気づいてくれたようだった。 抱えていた子犬を段ボールに戻し、小皿に注いだミルクを残して。 そして、鼻を鳴らして見上げる子犬に微笑みかけながら、なにも言葉をかけることはなく。 「……そろそろ帰ろ、アスカ」 差し伸べられた笑顔と細い手に、あたしは泣き出しそうになってしまった。 「ごめん……ごめんね、シンジ……」 「仕方ないよ。アスカが意地悪で言ってるわけじゃないことくらい僕にもわかるし。  僕の方こそ、ごめんね。  アスカがそんなに犬が嫌いだなんて知らなかったから」 違う。違うのよ、シンジ。 あたしは、自分がどれだけ卑怯で残酷で醜悪な人間か、 自らの胸を突きたいほどに痛感しながら。 それでも、シンジに本当の理由を話すことができなかった。 どうせ信じてもらえるはずがないからと、あたしの心は自分の行動を意味づけようとする。 けれど、それが自分をごまかすための言い訳でしかないことは、自分が一番知っていた。 本当は、シンジに知られることが怖かったのだ。 今、あたしの中で働いている冷酷な打算の存在を。 あれほど瓜二つの姿を目にすれば、「シンジ」を思い出さずにはいられなくなる。 だからあたしは、あの子犬を頑なに拒んだのだ。 あの姿は、ただそこにあるだけであたしの罪を糾弾するものだから。 ひとりこの過去の世界で幸せになろうとしているあたしの浅ましさを突きつけるから。 あたしのしていることは、「シンジ」に対する裏切りだから……。 ――それなのに。 そんな自分の醜さを認識してしまったのに。 あたしの手を握りしめるシンジの掌は、とても温かくて。 ごめんね――「シンジ」。 たとえどんなに罵られても、蔑まれても、憎まれても。 それでもわたし……この温もりを、喪いたくない……! あたしはシンジの手に引かれながら、逍遙とした足取りで家路についた。      *     *     *     *     *     * 家に帰ってから、シンジは一言もあの子犬のことを口に出さなかった。 ミサトに話を持ちかけることも、あたしを説得するようなこともしなかった。 いつも通りに家事に勤しみ、宿題をやって、テレビを観て寝る。 普段のシンジとなにひとつ変わることのないその行動は、けれどどこか芝居じみていて。 ときおりぼんやりと玄関の方に目を向けたり、外の天気を気にしたり。 話題にすることはなくても、シンジがあの子犬のことを気にかけているのは明白で。 その一方で、シンジは普段以上にあたしに気を遣った。 夕食にはあたしの好物ばかりを用意し、なにかと話題を持ちかけて、笑顔を振り撒く。 ミサトは、そんなシンジの態度に、自分の助言が功を奏したものと思ったみたいだったけど。 当のあたし本人は、シンジに応える明るい笑顔と甘えた言葉ほどには、 その優しさに陶酔していたわけではなかった。 これが昨日であれば、あたしの脳味噌はチョコレートみたいに溶けていたかもしれない。 昨日でなくても、今日の昼頃までなら、 あたしはシンジの態度になんの疑念も差し挟むことなく、 至福の絶頂に浸っていることができたのだろう。 けれど――今は。 あたしに話しかけるシンジが、その笑顔の裏であの子犬のことを案じているように。 あたしもまた、常にあの子犬の影に怯え続けていた。 シンジが優しくしてくれる理由はわかっている。 無論、恋人としての新たな関係を築こうとしているというのもあるだろう。 だが、それ以上に、自分があの子犬を気にかけていることを隠そうとしているからだと思う。 浮気を隠す男は、恋人に必要以上に優しくなるという。 シンジの今の心理状態としては、おそらくそれに近いものがあるのではないだろうか。 正直、シンジがそれほどにあの犬に執着を残しているというのは意外ではあったけれど。 あたしやミサトの要求に応えるために家事の腕を上げていったことを考えれば、 シンジには元から世話好きという側面があったのかもしれない。 人の世話を好んで焼きたがる人間は、そうして自分の存在意義を確立させるものだから。 自信というものが希薄なシンジにしてみれば、 精神的に余裕があるとき、そういう方向に思考が向くのは当然のことなのかもしれなかった。 だから、あの犬に庇護欲をかき立てられたのか。 ……それとも。 あたしは、あの雪の夜のことを思い出した。 あたしを見上げる黒い瞳。 見知らぬ他人に対する不信と警戒に凝り固まった黒い瞳。 けれど、人の温もりと優しさを求めて潤んだ黒い瞳―― あの夜のあたしと同じように、あの子犬に自分の姿を見出したのだろうか……。 いずれにしても、シンジはそれから、 あたしの前では決してあの子犬のことを話題にすることはなかった。 ただ、早朝と夕方、そして深夜に、 買い物に行くと口実を作っては子犬の様子を見に行くようになった。 無論、あたしに隠れてこそこそしてはいるし、 あたしもすぐにそれと悟ったもののなにも言ったりすることはなかったけれど。 それでも、あたしと一緒に歩く登下校時は、 通学路に転がるダンボール箱に視線を向けることさえしなくて。 あの犬を前にして過剰な反応を見せたあたしに対する、シンジなりの心遣い。 繊細だけど不器用な、いかにもシンジらしい思いやりに、 あたしはますます、自らを恥じる思いが強くなっていって。 自分の罪から目を背け、ごまかしの日常を送る自分が赦せなくて。 それでも……シンジの温もりを手放すことができなくて。 そんなあたしの内面は、シンクロ率の低下という形によってすぐに表面化した。      *     *     *     *     *     * [アスカ。シンクロ率、また昨日より落ちてるわよ。ちゃんと集中して] 「――やってるわよ!」 蔑むような赤木博士の言葉に、あたしは刺々しい怒鳴り声で返した。 通信から漏れ聞こえる、諦めたようなため息。 言葉はなくとも、そのため息が雄弁に内心を語っていた。 あれから一週間が過ぎ、あたしのシンクログラフは下降の一途を辿っていた。 シンクロ率40%前後、おまけに生理まではじまって、体調も最悪だった。 だが、問題はそんなことではない。 あたしは自分が内面に抱えている暗黒を認識していた。 その上で、どうやってその中から抜け出せばいいのかがわからないでいるのだ。 否が応でも蘇る、かつて心が壊れたときの記憶。 シンジに負けたと思いこみ、日常から目を背け、外界から心を閉ざし。 そして心はEVAから離れ、シンクロ率は低下を続け。 肉体は望みもしない女の証しに苛まれていた。 同じ状況――同じ不安。 違うのは、あのときと違って、今のあたしはEVAの中に眠るママの存在を知っていること。 そう、ママはあたしを見てくれている。 沈んだ表情で集中できずにいるあたしを心配してくれている。 それなのに。 あたしは、そんなママに心を委ねることができないでいる。 心をいまだに、あの雪の日の情景に縛られている。 あの子犬の影に苛まれ続けている……。 シンジとの関係を変え、志を変え、他人とのスタンスも変えた。 それでもかつての悲劇を繰り返そうとしている事実は、あたしの心を恐怖で満たす。 いったいどうすれば、この迷宮の中から抜け出せるのか。 結局答えの出せないままに、テスト終了を告げられて。 暗雲を背負ったまま着替えたあたしは、エレベーターへと向かった。 チンと、軽い音とともに開かれる扉。 ふたつに分かれるその中から姿を現した人影に、あたしは軽く息を呑んだ。 「……乗らないの?」 足がすくんだみたいに立ち尽くすあたしに向かって。 無表情に、ファーストが告げた。 扉の前に立つファースト。 できる限りの距離を置き、壁にもたれかかるあたし。 ふたりの間に横たわるのは、冷たく重い沈黙の壁。 強い既視感に囚われながらも、あたしは言葉を発することができないでいた。 いくら、今のあたしの状態があの頃と似ているからって。 なにもこんなシチュエーションまで再現することはないじゃない。 神様なんてものがもしいるんだとすれば、そいつは相当の根性曲がりだ。 内心のぼやきを聞きつけたわけでもないだろうけど。 ぼそりと、ファーストがあたしに視線も向けずつぶやいた。 「碇くんは?」 ……少しだけ、あたしはほっとした。 もしもこれであのときと同じ言葉を言われでもすれば、あたしは逆上していただろうから。 それに――ファーストの雰囲気が、あの日のそれとは違う、いつもの彼女のものだったから。 「先に帰ったわ。今日はあいつ、夕食当番だもの」 ちょっとだけウソ。 ひとりになりたいから先に帰ってほしいと、あたしがシンジにお願いしたのだ。 「一緒に帰らないのね」 「……関係ないでしょ、あんたには」 「あるわ」 「なんでよ!?」 「わたしも碇くんのこと好きだもの」 ファーストの背中から威圧感を覚え、あたしは言葉を詰まらせた。 そういえば、そういう事態になっていたのだ。 実際、あたしとファーストがこうして会話するのはあの日以来だった。 もともと仲が良かったわけじゃない。 性質自体正反対だし、お互いにお互いのことを敬遠しあっていたのだと思う。 無意識下での、シンジを巡るわだかまりのようなものもあったのかもしれない。 それに加えて、あたしはこの一週間、「シンジ」の幻影に悩まされ続け。 なによりも、あの日にファーストが見せた異様な雰囲気ばかりが印象に残っていたから。 はっきり言えば、ファーストにライバル宣言したこととかなんて、すっかり忘れていたのだ。 自分のことばかりに精一杯だったあたしは、やにわに焦燥感に囚われた。 この一週間、シンジの外出は単純に例の子犬の世話をするためなのだと思っていた。 けれど、考えてみれば、そんな保証はどこにもないのだ。 あたしはなにも訊いていないのだし、シンジもなにも言っていないのだから。 もし仮に――シンジが外で、ファーストと逢っているのだとすれば? 「あんた! シンジに手ェ出したら赦さないわよ!?」 あたしはファーストの肩をつかんでこちらを振り向かせた。 ようやくあたしを視界に収めた赤い瞳に、しかし怯えや驚きの色は見えず。 「どうしてそういうこと言うの?」 「どうして、ですって!?  シンジはあたしのものだって言ったでしょ!?  あんたなんかお呼びじゃないのよ!」 「勝負って言ったもの」 「あっ……あれは……!  あれはあんたの方からダメ出ししてきたんじゃないのよ!」 「そう。でもいいの」 「良くないわよ!」 追い詰められた気持ちになって、あたしは絶叫していた。 怖い。 このコが――ファーストのことが怖い。 忘れることのできない、プラットホームでの出来事。 遠くで見つめるあたしに気づかず、ファーストと楽しそうに会話をしているシンジ。 その頃すでに、あたしには久しく見せなくなっていた本当の笑顔を浮かべて。 あのときと同じように――また、シンジがこのコに奪られたら。 ……そんなはずはない。 シンジには、毎晩のようにキスをせがんでいる。 シンジの存在を感じるために。 あたしの不安を追い出すために。 優しくあたしの唇をついばむシンジが、他の女に心奪われるなんてことがあるはずがない。 なによりも――シンジは、あたしのことを好きだと言ってくれたもの。 それなのに。 不安が拭い去れない。 あれから、たった一週間。 至福を感じたあの夜から、まだ一週間しか経っていないのに。 「信じられないの? 碇くんのこと」 あたしの心を見透かしたようなファーストの言葉に、あたしは体を強張らせた。 刺し貫くような眼光を放つ赤い瞳。 それは、単にあたしの弱気がもたらした錯覚なのかも知れないけれど。 あたしは、それを直視することができなかった。 「信じられないのね。碇くんのこと」 「違う……」 「違わない。あなた、疑ってるもの」 「違う!」 本当に? 本当に、違うと言い切れるの? あれほどシンジを罵倒して傷つけたのは、他ならぬあたし自身なのに。 残忍な愉悦のにじむ表情でシンジに首を絞められたのは、他ならぬあたし自身なのに。 ……そうだ。 あたしはシンジを信じていない。 だって、あたしは知っているから。 追い詰められたあいつの、無様で惨めな醜態を。 (ねえ! アスカじゃなきゃダメなんだ!) (……ウソね) 図星を指されて強張る瞳。 あたしはそれを、冷たく蔑んだ瞳で見上げて。 (あんた、だれでもいいんでしょ?  ミサトもファーストも怖いから。  お父さんもお母さんも怖いから!  あたしに逃げてるだけじゃないの!) (助けてよ――) (それが一番楽で傷つかないもの) (ねえ、僕を助けてよ!) (ほんとに他人を好きになったことないのよ!) 「――違う!!」 違う違う違う! もう、シンジはあのシンジじゃない。 あたしのことを本当に好きになってくれる。 ずっとあたしだけを見つめてくれる。 あんな諍いがあたしたちの間に起こることは絶対にない。 あの時間は喪われたのだから。 あたしは二度と、シンジを憎まない。 シンジは二度と、あたしを傷つけない。 あたしたちは、二度とお互いを拒まない―― 「碇くんを信じられないのは、あなたの心が揺れているから」 あたしはぎくりと表情を強張らせた。 顔を上げてファーストを見る。 ファーストは、なんの感情も見えない静かな瞳で、あたしを見つめていた。 「あなた、引き裂かれてしまいそうに見える。  ――なにに怯えているの?」 「怯えてなんて……ないわよっ……!」 それは、単なる苦し紛れの言葉でしかなくて。 恐ろしいほど的確に図星を言い当てられて、あたしは全身を冷や汗で濡らしていた。 シンジと。 「シンジ」が。 あたしの中でせめぎ合っている。 ……ううん。そうじゃない。 それだけじゃない。 そんな単純な問題じゃなくて―― もっと根深いなにかがあたしを追い詰めている……。 だけど、あたしはそれを突き詰める勇気さえ持てなくて。 「あたしは揺れてなんかない。  あたしが見てるのはシンジだけだもの。  シンジがいてくれればそれでいいの。  シンジの温もりさえ感じられればそれでいいの!  シンジとやり直すことができれば、なににだって堪えられるのよ!」 「――本当に、それでいいの?」 心臓を鷲掴みにされたような気分になって、あたしはファーストを見上げた。 漂う違和感。 喪われる現実感。 あのときと同じ――変貌。 慄然と肌を泡立たせるあたしを見つめながら、ファーストは言葉を続ける。 「あなたももう、気づいているはず」 声と口調は、ファーストのもの。 姿形も、ファーストのもの。 「それは、やり直しじゃない」 それなのに。 「それは、苦しみと寂しさから逃げているだけ。  夢のスキマから覗く幻に浸っているだけ」 「……なに……を……」 こいつはファーストじゃない。 「本当の希望から目を背けている。  虚像に願いを託して。  どんなに似ていても、それは本物ではないのに」 「……わけ……わかんないわよ……」 けれど、あたしはこいつを知っている。 「すでにあなたは感じている。  心の中の不整合。  拭い切れない違和感」 「……うるさい……」 銀の髪、赤い瞳、謎かけのような言葉―― 「それが答え」 「……だまれ……」 こいつは―― 「あなたがしていることは、ただの――現実の埋め合わせ」 「黙れ……!!」 こいつは、あのときの「もしも売り」――! 「弐号機のコアに母親を見出して心を子供に戻した、あのときと同じことをしているだけ」 (ここにいたのね――ママ!) 14歳にもなってママを求めて、その温もりと匂いの中に逃げ込んで。 自分自身として立ち上がり現実に立ち向かうのではなく、 母親に庇護される幼児として、ママの腕の中から傲然と世界を見下した。 そうすることでしか世界と向き合うことができなかった、滑稽なあたし。 その頃からなにも成長していないのだと指摘され、あたしの思考は灼熱化した。 「黙れって言ってんのよ!!」 絶叫して、わたしは目の前の「そいつ」を殴りつけた。 拳に走る、確かな感触。 幻なんかじゃない。 わたしは逆上した。 「今さらなに言ってんのよ!  わたしをここに連れてきて!  わたしにこんな――夢みたいな希望を与えておいて!」 幸せだったのだ。 シンジと再び一緒に暮らすことができて。 シンジと再び笑顔を交わしあうことができて。 シンジと――幼い恋を育むことができて。 それは、わたしがずっと願っていたこと。 10年の歳月の中、苦い思い出が浮かぶ度、後悔とともにわたしが夢に描いてきたこと。 帰らぬあの日々に想いを馳せて。 二度と取り返すことのできない歳月を、ともにあいつと過ごすことができたなら、と。 「そうして目を背けるのね。  あなたの本当の心から。  あなたの本当の希望から」 「うるさい! うるさいうるさい、うるさい!!  わたしはそんなことしてない!  本当に心の底から望んでいるから、わたしはここにいるのよ!」 「違うわ」 冷淡に「そいつ」は断定して。 「あなたは単に、本当の希望を手に入れるために傷つくことが怖いだけ」 「それの――なにが悪いのよぉっ!!」 あたしはすべてを拒絶する悲鳴を上げて。 そして、そのまま意識を失った。      *     *     *     *     *     * ……泣いている。 子供のわたしが泣いている。 胸に古ぼけた一冊のアルバムを抱えて。 深い森の中で、ひとりぼっちで泣いている。 幼いわたしはアルバムを開く。 そこに貼られた写真はどれも、ところどころが破れてて。 中には血が黒くこびりついているものまであって。 ひとつ残らず捨ててしまいたい、そう思って写真をひっぺがそうとして。 どうしても無理だということに気づき、幼いわたしは諦める。 アルバムごと捨ててしまおうか。 そんな欲求も頭をよぎったけれど、もちろんそんなことなんかできるはずもなくて。 結局写真を見ることが辛くなり、わたしはアルバムを閉ざしてうずくまった。 と、目の前を、アルバムに写っていた人が通りかかる。 長い黒髪の、綺麗な女の人。 わたしはあわてて立ち上がり、アルバムを開いてその人に見せた。 「ごめんなさい。ずっと謝りたかったの」 そうすれば、きっと写真が綺麗になる。 わたしは無邪気にそう信じて、その人に謝った。 けれど、その人はアルバムを見て、驚いたように目を丸くした。 「あら。これはわたしじゃないわ」 わたしは写真とその人を見比べる。 本当だ。 よく似ているけど違う人だ。 と、目の前を、アルバムに写っていた人が通りかかる。 煙草の匂いのする、背の高い男の人。 わたしはあわてて立ち上がり、アルバムを開いてその人に見せた。 「ごめんなさい。ずっと謝りたかったの」 そうすれば、きっと写真が綺麗になる。 わたしは無邪気にそう信じて、その人に謝った。 けれど、その人はアルバムを見て、驚いたように目を丸くした。 「おや。こいつは俺じゃないな」 わたしは写真とその人を見比べる。 本当だ。 よく似ているけど違う人だ。 と、目の前を、アルバムに写っていた人が通りかかる。 そばかすの目立つ可愛い女のコ。 わたしはあわてて立ち上がり、アルバムを開いてそのコに見せた。 「ありがとう。ずっとそう言いたかったの」 そうすれば、きっと写真が綺麗になる。 わたしは無邪気にそう信じて、そのコにお礼を言った。 けれど、そのコはアルバムを見て、驚いたように目を丸くした。 「これ、わたしじゃないよ。ごめんね」 わたしは写真とそのコを見比べる。 本当だ。 よく似ているけど違うコだ。 と、目の前を、アルバムに写っていた人が通りかかる。 ちょっとボケボケっとした、とっても懐かしい男のコ。 わたしはあわてて立ち上がり、アルバムの角でそのコの頭を殴りつけた。 「いつまで待たせんのよ! ずっと言いたいことがあったんだからね!」 そうすれば、きっと写真が綺麗になる。 わたしは無邪気にそう信じて、そのコをどつきまわした。 そのコは涙目になってわたしを見上げて、拗ねたように唇を尖らせた。 「なんだよいきなり! なにするんだよ!?」 「うるっさいわね! これ見なさいよ!  あんたのせいで、あたしサンザンだったんだから!」 そう言ってアルバムを開き、そのコが写ってる写真を見せる。 けれど、そのコはアルバムを見て、驚いたように目を丸くした。 「これ、僕じゃないよ」 「はあ!? なにバカ言ってんのよ、どう見たってあんたじゃない!」 「僕じゃないよ。似ているけど違うよ」 「あたしがあんたを見間違えるわけないでしょ!」 「だけど違うよ。よく見てよ」 わたしは写真とそのコを見比べる。 やっぱりこのコだ。間違いない。 そう思ったけれど、ページをめくればめくるほど、 新しい写真になればなるほど、写真の男のコと目の前の男のコの姿はかけ離れていく。 「ほら、やっぱり違うよ。僕じゃない」 あたしは目の前が真っ暗になってしまって、大声を上げて泣き出した。 「それじゃああたし、どうやって仲直りすればいいの?」 「そのコを探せばいいじゃないか」 「ダメなの。どこにもいないの。ここにはあんたしかいないの」 「だから、僕と仲直りするの?」 「そうよ。あんたと仲直りしたいの」 「だって、僕たちケンカなんかしてないじゃないか」 「それでもいいの。仲直りしたいの」 「僕でいいの?」 「あんたがいいの」 「本当に?」 優しくそう微笑んで、少年はあたしの手からアルバムを取り上げた。 そして、ゆっくりと昔のほうのページを開く。 そこには、光り輝くくらいに美しい、たくさんの写真が散りばめられていた。 「とっても綺麗な写真ね」 「ここに写ってるのは確かに俺たちだな」 「でも、後ろのほうの写真に写ってるのはあたしたちじゃないの」 「本当に、僕たちの写真に取り替えてしまってもいいの?」 彼らと写る写真は、きっと同じくらい光り輝いてくれるだろうと考えて。 わたしは無邪気にそう信じて、満面の笑顔で肯いた。 「こっちの、汚い方の写真はなくなってしまうけど、本当にいいの?」 重ねて問いかけられて、幼いわたしは返答に窮した。 新しい写真はとても魅力的だけど、古い写真を捨ててしまうのはとても悲しい。 「両方取っておくことはできないの?」 「わたしたちが写ってる写真は全部残せるわ。  だけど、わたしたちに似た人たちが写っているこっちの写真は捨てなくちゃいけないの」 「君が覚えておくことはできる。  でも、それを誰かと一緒に見ることはできないんだ」 「……じゃあ……しょうがないよね……」 「本当にいいの?」 「本当に捨ててしまうの?」 「いいの。もういらないの。  だって、こんな写真、見てもつらいだけだもの。  綺麗な写真だけあればいいの。  汚い写真はもういらないの」 「そう。それじゃあ、捨てちゃいましょっか」 そう言って、長い黒髪の女の人が、わたしの手からアルバムを取り上げる。 わたしがどれだけ頑張っても剥がすことのできなかった汚い写真、 それを次々と剥がしていっては、びりびりに破り捨て、地面に打ち捨ててゆく。 「なるほど、これは酷い写真ばっかりだ。  捨てたくなっても無理はないな」 煙草臭い男の人が、その作業に加わった。 くすんで汚れた写真たちが、次々に引き裂かれてゆく。 「今度からは、あたしたちが一緒に綺麗な写真を撮ってあげるからね」 そばかすの目立つ女のコが、その作業に加わった。 細かくちぎられ地面に落ちた写真たちが、めらめらと音を立てて燃えてゆく。 「だから、君はもう泣かなくていいんだよ。苦しまなくていいんだよ。  謝ることも、お礼を言うことも、仲直りすることも考えなくていいんだよ」 ボケボケっとした男のコが、その作業に加わった。 わたしは――その言葉に、奇妙な焦燥感を覚えていた。 「謝らなくてもいいの?」 「いいのよ。だって、それはわたしじゃないから」 黒髪の女の人は優しく答えた。 「謝らなくてもいいの?」 「いいんだよ。だって、それは俺じゃないからな」 煙草臭い男の人は優しく答えた。 「お礼を言わなくてもいいの?」 「いいのよ。だって、それはあたしじゃないもの」 そばかすの目立つ女の子は優しく答えた。 「仲直りしなくて……いいの?」 「いいんだよ。だって、それは僕じゃないもの」 ボケボケっとした男の子は優しく答えた。 ……だけど。 幼いわたしは、なんだか酷い違和感のようなものを覚えずにはいられなかった。 「忘れちゃいなさい、そんなこと」 「忘れてしまえばいいのさ」 「忘れちゃっていいのよ」 「忘れればいいんだよ」 忘れて……いいの? みんなが一斉に肯いた。 わたしはみんなから許されて、そしてその違和感を無理矢理忘れることにした。 だって、これはとてもつらくて苦しいことだから。 それを忘れてもいいのなら、それ以上のことなんてないと、そう思ったから。 なぜか痛みを訴える胸のことなんて、無視して笑顔を浮かべていた。 「この写真で最後ね」 「おや――でも、この写真だけは綺麗だな」 その言葉に顔を上げると、そこには光り輝く写真が一枚。 「あ――それは……」 とても大切な写真だった。 わたしにとっては、数少ない温もりを思い出させてくれる写真だった。 「ダメよ。この写真も捨てなくちゃいけないの」 「ど、どうして……?」 「僕たちと一緒に作るアルバムに、この写真を入れるスペースはないんだ」 「だって、こんなに綺麗なのに!」 「そうね。だけど、どうしようもないのよ」 「今まで破り捨てた写真をすべて拾い集めて繋ぎ合わせ、  またアルバムに戻すなら、その写真を捨てずに残すことができる。  それが厭なら、その写真も同じように破り捨てるしかないんだ。  君が選べ。後悔のないようにな」 わたしの小さな手に渡される写真。 その輝きは、見ているだけで心を浄め、涙が出るくらいに安らぐものだったけれど。 「……この写真を捨てれば、ずっと一緒にいてくれる……?」 「ええ。ずっと一緒よ」 「……この写真を捨てれば、あたし、幸せになれる……?」 「それは君次第だよ。  ――だけど、ほら」 ボケボケっとした男のコが、手に何枚かの写真を持ってわたしに見せる。 「僕たちと一緒に撮った新しい写真。  とっても綺麗で、温かいだろ?」 それは――幸せの象徴。 わたしがずっと欲しがっていたもの。 わたしは追い詰められた目をして手元の写真を見下ろした。 この写真を破り捨てれば、わたしのアルバムは綺麗な写真だけになる。 わたしは苦痛を堪えるように唇を噛みしめて、一息に写真を引き裂いた。 これで、わたしのアルバムを貼り替えることができる。 それはとても嬉しいことのはずだった。 そのはずなのに。 どうしてわたしは泣いているのだろう。 どうしてわたしの胸は、こんなに大きな喪失感に苛まれているのだろう。 突然景色が変わる。 見覚えのあるアパートメントの一室。 帰る者さえなく、明かりが消え去り酷寒によって支配された無人の部屋。 その、片隅で。 小さな白い犬が、寂しさに憔悴し飢え果てた様子で息絶えていた。 わたしは絶叫する。 亡骸に駆け寄って抱きしめてやりたいのに、どうしても近づくことができない。 「どこへ行くの?」 「あのコのところよ!」 「どうしてだい? どうでもいいじゃないか」 「どうでもよくなんかない! あのコが死んじゃう!」 「もう死んでるわ」 「ウソよ! どうしてあのコが死ななくちゃいけないのよ!?」 「君がそれを望んだから」 「そんなことない! わたしはそんなこと、一度も望んでなんかない!」 「だったらどうして、あの写真を捨てたりしたの?」 「写真……?」 「君はあの犬よりも俺たちの方を選んだ。そうだろ?」 「違う――違う、そういうことじゃない……!」 「なにが違うの?」 「だって、こんなことになるなんて思わなかったから!」 「ウソだ。本当はわかってたんだろ?」 「やめてよ! そんなこと言わないで!」 「だから――これでいいのって訊いたのに」 冷たくわたしを貫く赤い瞳。 わたしを残酷な嗤い声が包み込む。 やめて。 やめて。 わたしをいじめないで。 わたしはただ――幸せになりたかっただけなのに。 不意に立ち上るきつい匂い。 ――どろりと濁った、それは腐臭。 顔をしかめて鼻を塞ぎ、わたしは匂いの元を探す。 だけど、どこにも腐ってるところなんてない。 それなのに、鼻を塞いでも腐臭はやまない。 そして気づく。 このおぞましい悪臭は、なにから放たれているわけでもない。 ――わたしだ。 この匂いの主は。 腐っているのは。 他のだれでもない、わたし自身だ。 黒く変色して崩れ落ちていく自分の肉体に狂乱しながら。 わたしは―― 「――アスカ!」 わたしを懸命に呼びかける声が、わたしの意識を現実に引き戻した。 はっと目を開くと、そこにはわたしを心配そうに見下ろすシンジの顔がある。 シンジは顔をくしゃくしゃにして、わたしに覆い被さるような姿勢でうつむいた。 「よかった……。ものすごくうなされてたから、心配したんだよ、アスカ……!」 言われてはじめて、わたしは全身が汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。 心臓の鼓動も早い。 高鳴っているというのではなくて、冷えた体に血液を流し込んでいる、そんな感じ。 おまけに、よほど身をよじってうなされていたのか、シーツもめちゃくちゃになっていた。 わたしはゆっくりと自分の腕を上げ、掌を閉じたり開いたりしてそれを見つめる。 「……くさって、ない……」 「え……?」 わたしの言葉を捉え損ねたのか、シンジが聞き返してきたがそれは無視した。 うつろな視線で自分の手だけを見ているわたしに居心地の悪さを感じたのか、 シンジがわざとらしく明るい声でわたしに話しかけてきた。 「綾波が連れてきてくれたんだよ。  エレベーターの中で、いきなりアスカが気絶しちゃったからって」 「ファーストが……?」 「うん。  アスカのこと、心配してる。  今ね、綾波がお粥作ってくれてるんだ」 そのときわたしの裡に沸き起こったのは、ファーストに対する感謝なんかじゃなかった。 ――嫉妬。 全身を灼き焦がしてしまいそうな強烈な黒い炎が、憤怒となって噴き上がった。 「あたしが怖い夢を見てる間に、ファーストとよろしくやってたってわけ……?」 「え……」 「あたしが――あたしがどれだけあの女のこと嫌いか知ってて、あの女を家に上げたの!?  それで、あの女といちゃいちゃしてたってわけ、恋人のあたしを放っといて!」 「な、なに言ってんだよ、アスカ!  綾波は意識のないアスカを背負ってここまで運んでくれたんだよ!?  お礼を言うのは当然じゃないか!」 「あんな女に助けられるぐらいなら死んだほうがマシよ!」 「アスカ……!?」 シンジが驚愕の表情でわたしのことを見つめている。 いや、驚愕ではなく、それはむしろ恐怖だったかもしれない。 わたしがファーストの突然の変貌に向けたのと、同じ感情。 おそらくはそれが、今のシンジの内心を表すのに最も適したもののはずだった。 自分でもバカなことをしているとはわかっていた。 ここまで取り繕っていた「10年前の今頃らしいあたし」の仮面を わたしは完全にかなぐり捨てて、負の感情の塊だった頃のあたしになっていた。 その理由も原因も分かっている。 けれど、一度吐露された激情は沈静されることもなく、嵐のように荒れ狂った。 「なんてこと――なんてこと言うんだよ、アスカ!  いくらなんでもそんなのひどいじゃないか!」 「なにがひどいのよ!?  あたしが気絶しててラッキーだって思ってたんでしょ!?  これでファーストのやつと仲良くできるって、そう思ってたんでしょ!」 「そんなはずないだろ!?  おかしいよアスカ、いったいどうしたんだよ!」 「おかしくなんかないわよ!!」 「おかしいよ!  確かに綾波とはそんなに仲良くなかったかも知れないけど、  最近はうまくやってたじゃないか!  なのになんで急にそんなこと言うんだよ!  そんなの、アスカらしくないよ!」 突如として――わたしの胸中に萌したものは、絶望だった。 それがいったいどうして生まれたものなのか。 なにに対して感じたものなのか。 それすらもわからないまま、わたしの心は均衡を完全に失った。 「なんにもわかってないくせに、知った風な口利くんじゃないわよ!」 わたしは絶叫し、シンジを突き倒した。 「あんた、なんにも知らないじゃない!  あたしのこと! 自分のこと!  あたしがどんなに汚い人間か――自分がどんなに情けない人間か!  なんにもわかってないくせに、なにが『アスカらしくない』よ!」 どろどろとした感情が、コールタールみたいに粘つきながら渦を巻く。 息苦しいほどの罪悪感。 夢で破り捨てられた――写真。 「あたしは汚い人間なのよ!  自分勝手で醜くて浅ましくて!  心も体も腐ってるの!  明るくて傲慢で颯爽としてるなんて、そんなの全部ウソなの!  本当はあたし――卑怯で、臆病で、ずるくて……弱虫で……!」 「なに……なに言ってんだよ、アスカ……」 突かれた胸を押さえて咳き込みながら、シンジがよろよろ立ち上がる。 わたしを見上げる瞳に混じった色濃い怯えの色に、わたしの神経はさらに棘を増した。 「あんただっておんなじよ!  あんた今、あたしのことが怖いんでしょ?  あたしのことが理解できないと思ってる。  あたしが知らない人間になったと思ってる!  そうやって、あんたはあたしに怯えて、ファーストのところに逃げるのよ!  前にファーストからあたしに逃げ込んだみたいに!  今度はあたしからファーストに逃げ込むのよ!!  それなのに、なに善人ぶってんのよ! このバカ!!」 「やめろよ! なんでそんなこと言うんだよ!?」 悲鳴のようなシンジの声に、わたしは突然、正気に立ち返った。 目の前には、うつむき拳を震わせるシンジ。 わたしの言葉に傷つき怒って、わたしのことを拒絶しているシンジ。 ――こんなはずじゃなかった。 こんなことになるのを望んでいたわけじゃなかった。 ファーストに自分の浅ましさを突きつけられて。 夢で腐りゆく自分の躯に恐怖して。 激情のままにシンジに叩きつけたあの言葉は。 いま目の前にいる「この」シンジには「まだ」わかるはずもない、未来への断罪の言葉。 シンジはまだ、なにも知らないのに。 自分やあたしの弱さも黒さも、なにも知らないのに。 互いにすべてをさらけ出し醜くぶつかり合ったことなんて、知っているはずがないのに。 「この」シンジは――わたしが想い焦がれたシンジじゃないのに。 そう考えた、その瞬間―― わたしの中で、すべてが氷解した。 度々胸を刺した違和感。 繰り返されたファーストの言葉。 そして、さっき感じた絶望の本当の意味。 わたしは……バカだ……。 こぼれ落ちる涙を拭うことさえできず、わたしは子供のように泣きじゃくりはじめた。 「ごめんね……」 素直に滑り落ちる言葉。 シンジが驚いて顔を上げるのが、気配でわかった。 「ごめんね……ごめんね、シンジ……ごめんなさい……!」 その言葉は、だれに対して向けられたものだったのだろうか。 あるいは――だれに対しても向けられたものだったのかも知れないけれど。 「あ――ご、ごめん、アスカ。泣かないでよ。  僕も言いすぎたから……ごめんね、アスカ……」 そうじゃない。 そうじゃないの、シンジ。 どんなに言葉を尽くしても、きっとあなたにはわからない。 あなたとわたしの間に横たわる断絶を埋める術は、どこにもない。 それでも。 シンジはわたしのことを、優しく抱きしめてくれて。 その温もりがもたらす確かな癒しに、わたしはまた涙を流した。 ……やっぱりわたしは、最低の人間だ。 なにもかもを悟って。 それでもまた、この温もりを手放したくないと考えている。 たとえすべての真実から目を背けてでも、この安らぎに騙されたいと願っている……。 縋りつくようにシンジの背中に手を回す。 シンジもそれに応えて力を籠める。 そのとき。 いきなり部屋の襖が開いた。 「お粥。できたけど」 あわてて身をもぎはなそうとするシンジに、わたしはいっそう力を籠めてしがみついた。 「ア、アスカ!?」 シンジが狼狽するけど、そんなの気にしている余裕なんてない。 ――怖かったのだ。 今この温もりを手放したら、そのまま永遠に取り戻すことができないのではないか、と。 そんなことを考えてしまって。 ファーストの赤い瞳が冷酷にわたしを射抜く。 あんたはファースト? それとも――あの、「もしも売り」? けれど、わたしもまた、そのファーストを真っ向からにらみ返して。 どちらだとしても、わたしは……。 シンジから身を離そうとしないわたしに向かって、ファーストが口を開きかけた、そのとき。 シンジの携帯が着信音を奏でた。 「ア、アスカ、ちょっとごめん」 シンジがわたしの体を引き離そうとする。 ……が、わたしはしがみつく手を弛めようとはしなかった。 諦めたのか、シンジはポケットから携帯を取り出して耳に当てる。 それとほとんど同時くらいの勢いで、 わたしの耳にまで届く、訛りの強いやかましい声が聞こえてきた。 『シンジか!?』 「ト……トウジ? どうしたんだよ、そんなにあわてて。  あ、今日はどうもありがとう。ケンスケと委員長にも――」 『そない悠長なこと言うてる場合やあらへんのや!  ――頼むから泣かんでくれ、イインチョ。イインチョのせいやない!』 鈴原の声が、いつもの単純な騒々しさではなく、 切迫した雰囲気を持っていることはすぐにわかった。 わたしなんかより鈴原とのつきあいが深いシンジには、 そのことがもっと切実に理解できたのだろう、表情が厳しいものに改まる。 「トウジ? 委員長もそこにいるの?  とにかく落ち着いて説明してよ。いったいどうしたの?」 『あの犬――今日、シンジに世話頼まれとったあの捨て犬、  チンピラどもにやられてもうた……』 掠れるように聞こえてくる鈴原の声。 わたしは一瞬、言葉の意味が理解できず――次の瞬間には単なる聞き違いだと考えた。 重く沈んで力を失った鈴原の声。 わたしは別に、携帯に直接耳を付けているわけではなくて、漏れ聞いているだけ。 だから、正確に聞き取ることができなかったのだろうと、そんなことを考えた。 けれど、鈴原は残酷にも同じ言葉を繰り返して。 『すまん。ホンマにすまん、シンジ。  ワイの力が足りんせいで、あの犬守ってやれへんかった。  まだ息はしとるけど、ボロボロにされてしもて……  どこの病院に電話しても繋がらんし、どないすればええかわからへん……。  こんな小そうて弱いモン助けてやれんで……ワイは、男失格や!』 鈴原の声が震える。 けれど――わたしの体は、それよりもずっと強く震えて。 ……死ぬ? あの――「シンジ」によく似た捨て犬が? 頭の中がぐしゃぐしゃになる。 ひどい目眩と嘔吐感に襲われて。 見上げてくるのは黒い瞳。 見知らぬ他人に対する不信と警戒に凝り固まった黒い瞳。 けれど、人の温もりと優しさを求めて潤んだ黒い瞳。 どこまでもアンビバレンツな黒い瞳。 あたしの蒼い瞳を鏡に映したかのような黒い瞳。 愛しい「シンジ」の黒い瞳―― わたしは、矢も楯もたまらずに部屋を飛び出していた。 続く


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