「…いいなぁ…」
ぼそっと、小さく漏らした彼の呟きをリツコは聞き漏らさなかった。
今日はエヴァパイロット(元)の健康診断の日で、シンジはメディカルチェック後にリツコと少し話に来ていた。これは毎回の習慣で、その度にアスカの健康状態を聞きだして毎日のメニュー決定の参考にしているのが何とも彼らしかったりする。
「あら、この子が羨ましい?」
からかうように言いながら、胸の辺りに顔をすり寄せている「この子」に目をやる。
「この子」はリツコが研究室でこっそり飼っている猫のうちの一匹だった。もっとも、サードインパクト以降、使徒撃退という名目を失ったNERVは大らかなもので、リツコの猫も知らない者のほうが珍しいくらいだったが。
その猫とじゃれあっているのを見ながら呟いたのが冒頭のセリフだったため、ついからかいたくなってしまったのだが、
「あ、違うんです」
と、即答したということは、そういう訳ではないらしい。
(まあ、シンジ君はアスカ一筋だものねえ…?それにしては?…)
「…顔、赤いわよ」
「う……」
予想していたのとは違ったが、どうやら少々恥ずかしい想像をしていたようだ。
しばらく話を逸らそうと頑張ったシンジだったが、NERVの誇るマッド(失礼)サイエンティストの尋問にとうとう根を上げ、目線を落ち着かせずに語りだした。
「…いや、実はアスカのこと考えてたんですよ」
「アスカの?」
「ええ、……そんな風に、あ、甘えてくれたら良いなぁ…と…」
かの天才美少女が同居人の告白に応えて一月ほどになる。告白されたほうは望んでいたこととはいえ予想外だったのでビックリし、告白したほうもダメモトと思っていたので心臓が止まるかと思うほど驚いた。…もっとも、それは当人同士だけのことで、周囲からは
(ようやくか)
とか
(まだだったの?)
なんて感想しかなかったのだが。件の少女の親友の言葉を借りれば
「知らぬは当人ばかりなり」
である。
さて、こうして二人の関係は同居人から恋人同意に(つまりは同居から同棲に)グレードアップしたわけだが、彼には少々贅沢な悩みがあった。
「…アスカって本当は恥ずかしがり屋なんですよ。自分から抱きついてきたり、寝込みを襲ったり(!)、風呂上がりにバスタオル一枚でぶらぶらしてるのに、僕が手握るだけで真っ赤になって逃げ出しちゃうんです」
しかも、上記のようなアスカの求愛行動(?)も、告白以降、若干(かなり?)大胆になったシンジが喜んで反応(抱き返す、襲い返す、押し倒す)を示すようになるに従い、随分と少なくなってしまった。思春期真っ只中のシンジ君としては憤懣やるかたない。
「なるほどね…!そうだわ」
シンジの微笑ましい悩みを面白そうに聞いていたリツコだったが、やおら立ち上がると、戸棚から書類の束を持ってきた。
「シンジ君、バイトを頼まれてくれないかしら」
「へ?バイト、ですか?」
「そう、資料のMAGIへの打ち込み。本当ならマヤに頼むんだけど、あの子も最近忙しいしね、困ってたとこなのよ」
「はあ、良いですけど」
シンジは帰宅部なのでテスト前でなければ基本的に暇だ。同じく暇な同居人に常に引っ張りまわされるため自分の時間は少なくとも、である。
(それに、バイトってことはお小遣いもらえるよね。アスカに何か買ってあげられるな)
そんなことを考えていると、リツコが思いがけないことを口にした。
「ありがとう、じゃあバイト代は『さっきの願いを叶える』ってことでいいわね?」
「へ?」
「だから、さっきの『アスカを猫可愛がりしたい』って願いよ」
「で、で、出来るんですか?」
「ふふ、私の辞書に不可能の文字は無いわ!」
と、高らかに宣言するリツコに一抹の不安を感じつつも、シンジはバイトを引き受けることになった。
3日後、シンジは打ち込みの済んだディスクを持って再び赤木研究室を訪れていた。
ディスクを受け取ったリツコは中身にざっと目を通すと満足げに頷く。
「上出来よ、これなら毎回お願いしたいぐらいね」
「そうですか、良かった。…それで、あの…」
「ああ、ちゃんと出来てるから安心して。」
言いながらリツコが取り出したのは、固形燃料のようなブロックだった。リツコはブロックを手に取ると嬉々として説明を始める。
「これは言うなれば『人用のマタタビ』ね」
「アタタビ?」
「そうよ、猫にマタタビというように、マタタビには猫を酔ったような状態にする成分が多く含まれているの。これは人間に同じような効果をもたらすものよ」
「…危険じゃないんですか?」
「大丈夫、効果は1時間くらいだし、成分は皆安全なものだから」
「そういえば、僕まで酔っちゃったりしないんですか?」
「その為に、使う10分前までにこれを飲んで。」
リツコはカプセルを手渡した。解毒剤のようなものらしい。
「ブロックは炙って効果を出すものだから、お香の器か何かを使えば良いんじゃないかしら。30分くらいでリビングに充満するはずよ」
「分かりました。ありがたく使わせてもらいます」
「良かったら、次のときに当たり障りの無い範囲で結果を教えてね。」
今後の参考にしたい、という言葉とは裏腹に、その笑みにミサトのそれと同じものを感じたシンジは、何も言うまいと心に誓うのだった。
それからしばらくして、葛城邸。シンジは帰りがけに買ったお香の壷にブロックを詰め、既に火をつけていた。リツコからの電話によれば、程なくアスカが帰ってくるはずだ。
ここでアスカが寄り道すればシンジの計画はおじゃんなのだが、アスカは最近まっすぐ家に帰ってくる。
(僕の顔が見たいから、なんて自惚れてもいいのかな)
と、そこでタイミングよく玄関のドアがスライドする。
「ただいまシンジ…?」
「おかえり。早かったね、アスカ…どうしたの?」
アスカは玄関で靴も脱がずに鼻をひくひくさせている。
「なんか妙な匂いがするのよね、香ばしいというか」
「あ、ああリツコさんに貰ったお香をたいてみたんだ。リラックスできるんだって…気に入らない?」
「別に嫌な匂いじゃないけど、アンタ、リツコに貰ったようなものをひょいひょい使うなんて、自分で注射を打つモルモットみたいなもんよ」
「…アスカ、そりゃ流石にあんまりだよ」
あんまりな言い方ではあるが、あながち間違ってはいない。現にシンジもこの間
「新作の風邪薬よ」
と言われて飲んでみたら正体不明の発疹が3日間続いたことがある。4日目の朝、起きたら綺麗になっていたので事なきを得たが、あと少し遅れればアスカがロケットランチャーを担いで赤木研究室を襲撃するところだったらしい。
「ふ〜。健康診断なんか面倒くさいからやめて欲しいのに。ホント嫌んなっちゃうわ」
「まあタダで健康診断してもらってると思えば良いじゃないか…って、牛乳はコップに入れて飲んでって何度言ったら分かるのさ…」
「ぶう、良いじゃないのよぉ…」
頬を膨らましているアスカを微笑ましく見ていたシンジだったが、ふとアスカの頬に赤みが差しているのに気づいた。それに、何だか語尾が怪しくなってきている」
「どうしたの?眠い?」
「ん?…ちがうのぉ…なんか、力が入らないっていうか…ぼーっとしちゃうっていうかぁ…」
(これは、効き始めたと思っていいのかな?) シンジは確かめるべくアスカの座っているソファーの隣に腰を下ろした。
「リツコさんの言ってたリラックス効果なのかな?それともどっか悪いのかなあ」
言いながら、アスカの首に手を回して顔を引き寄せる。いつもならここで真っ赤になって抵抗されるのだが、今日は呆けたような表情をしたまま、されるがままだ。
とりあえず、こつんと額を合わせてみる。心なしか熱い。薬のせいか、それともこんなに近づいているかは定かではない。
「熱は無いみたいだけど…アスカ?!」
と、不意にアスカの腕がのびてきて、手が躊躇いがちにシンジの肩を掴む。しがみつくような格好だ。
「えへへ、しんじぃー」
そのまま顔をシンジの胸に埋めて擦り寄るアスカ。シンジのほうはというと、余りに上手くことが進んで戸惑いを隠せない。
(…ひょっとして、リツコさんが何か言ったのかな?)
しかし、流石にリツコにしても計画が確実に失敗するようなことをするとも思えない。しばらく考えたが、擦り寄って甘えるアスカの柔らかな抱き心地に、やがて何も考えたくなくなってきた。
(僕にマタタビはいらないよね。アスカが居るだけで骨抜きだ…)
輝くような赤茶色の髪を手で梳くと、いい香りが漂う。
「アスカはいつもいい香りだよね」
やあぁ、と言いつつもぜんぜん嫌そうに感じられない様子のアスカ。
「しんじのために洗ってるんだもん。とーぜんよぉ…」
その答えに微笑んだシンジは、ふと思いついて、アスカの首の前のほうをくすぐってみた。
「やあぁ、くすぐったいぃ…」
甘えたように言いながら頭を肩に乗せる。そのまま頭を傾けて、頬を摺り寄せてきた。
「…今日は、何だか甘えんぼだね」
「…嫌ぁ?」
「ううん、凄く嬉しいよ」
「よかったぁ…」
あのね、と言いながらアスカが目を合わせてくる。少し下から見上げるような目線だ。シンジはそのまま唇を奪ってしまいたい衝動に駆られたが、アスカが何を言うのかも気になったので自粛する。
「あのね、リツコとおしゃべりしてたのよ」
「そうしたら、猫がね…」
「猫?」
「うん、猫がリツコに甘えてたの。その、今のあ、アタシみたいに…」
「そ、それで?」
「そしたらね、アタシもあんな風にシンジに甘えてみたいなあ…ってね」
言ってから恥ずかしくなったのか、アスカはまた顔をシンジの胸に埋める。そんなアスカが愛しくて、シンジは思わずアスカを抱きしめた。
「…同じだね」
「え?」
「僕もさ、リツコさんに猫が甘えてるのを見てさ、その、あ、アスカにこんな風に甘えて欲しいなって」
「そうなんだぁ。…なんか嬉しぃ」
「そうだね」
「ねえ、シンジ」
「ん?」
「もうしばらくこのまま…」
「…と、言うわけなんだよ」
昨日の格闘ゲーム対決の罰ゲームに、「最近、一番幸せだったこと」を披露する羽目になったシンジは、糞真面目に本当に幸せだったエピソードを語った。
トウジとケンスケは始めこそニヤニヤと聞いていたが、途中で背中を掻き始め、次いでゴロゴロと転がり、最後はうんざりしていた。
「結局惚気話になるんか…」
「当たり前だよ。シンジの幸せなんて惣流のこと以外考えられないじゃないか」
「そやな。まあ、わしは委員長の弁当食べてるときが一番幸せやけどな」
…なんとも判断に困るセリフではある。
「けっ、お前らだけ幸せになりやがって」
相田氏は『委員長の』を重視したらしい。
「さて、センセに続きを話してもらおか」
「げ、まだ聞くきかよ」
「おう、貰えるものは惚気話でも何でも貰っとかんとな」
「………」
「続きっていってもなあ、その後1時間くらい、その、抱き合ってて、その後はアスカの好きなハンバーグにして、それだけだよ?」
「「へ?」」
「へ?って…なにさ。文句あるかい?」
「その後、お約束の展開があるんじゃないのか?」
「…お約束?」
「そや、あんなことやそんなことや…」
「なっ、何言ってるんだよ。そんなこと…」
「…ほな、本当に何もせんかったのか。センセも意外と淡白やな」
「淡白というか純朴すぎるんだよ。小学生でも今日日そんなのはやらないぞ」
2人して勝手なこと言ってるよ、と思いつつ、彼は心の中で呟いた
(ごめん、その後は教えられないんだ、たとえ二人であってもね…)
(あのアスカは・・・)
(僕だけのアスカにしておきたいから)
F I N
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