蒼い髪と真っ赤な目を特徴としている少女は玄関を開けていた。監査部を除いて誰も居ない廃墟みたいな団地。綾波レイはそんな場所に住んでいた。
 部屋に入った彼女を迎えたのは殺風景としか表現できない部屋があった。同年代の女の子なら必ずあるであろうかわいいグッズどころか、飾りといえるものさえ無い。あるのは生活に必要なものだけ。茶赤色の染みをつけた包帯は、その部屋に酷く気味の悪い印象を与えていた。まるで逃亡したスパイや犯罪者のような部屋。しかし綾波レイはそんな部屋に嫌悪感を抱くことも無く、ただ生きるだけであった。
 食事はネルフで彼女専用のものが出される。クローンである彼女を支えるにはそれなりの配慮が必要なのだ。だから夕食は取らない。その代わりとしてレイは寝る前に飲むべき薬を冷蔵庫から取り出した。
ふと壊れた眼鏡に目が行く。それは生活に必要なものしか揃っていない彼女の合理的な生活空間にあるただ一つの例外だった。
 レイの中に僅かではあるが、心の違和感が生じた。先程まで生きることに対し、機械のような対応をしてきた彼女の中に変化が訪れた。眼鏡―碇ゲンドウのものであり、碇シンジとの接触を思い出される何故か大切なもの。
レイは心というものをあまり理解してはいなかった。いや、その存在や性質は知識として彼女の脳に収められてはいたし、シンジにアスカとのことで忠告するほどの把握力はあった。だが結局それは心を一つの要素として捉えたものであり、人の営みの中でも大切なものであるということを理解しているわけではなかった。
 眼鏡―それはそんな彼女に心の営みをもたらすものだった。何か暖かく、かつ冷たいものが彼女の心を支配し始める。連想されるのは二人の男―そして二人の女。男の一人―中年の男は自分を優しく見つめるが、結局見ているのは自分の奥に存在する一人の女。もう一人の男―少年は一人の少女を見つめるばかり。
 何故か心が不安と悲しみで支配される。心が痛かった。いつからこうなったのか。中年の男が自分ではない存在を自分に見ていることに気付いてからか。それとも、少年が少女を見ていることを知ってからか。綾波レイにはそういった感情を処理できる能力はまだ無かった。感情自体彼女にはまだ新しいものなのだから。
「・・・・・・」、僅かな言葉が彼女の口から漏れた。碇という名だった。それがどちらの男性を示すかは、彼女にしかわからない。


安らかな寝顔
KNIGHT OF A PRINCESS
作:名無し

CHAPTER FIVE:ワタシヲミテ


 暗闇に環状に浮かぶモノリス。碇ゲンドウはその中心にいた。
「ロンギヌスの槍、回収は我らの手では不可能だよ」
「何故使用した?」
「エヴァシリーズ、まだ予定には揃っていないのだぞ」
 その尋問ともいうべき質問にゲンドウは答えた、「使徒殲滅を優先させました。やむをえない事象です」、微かに決して気持ちのいいものではない笑みを浮かべながら。
「しかし槍の無断使用は我らの認めるものではない」
「左様、シナリオに遅れが出ることは今の段階では許されないものなのだよ」
 ゲンドウはその白い手袋をはめ組んだ手の下で笑みを浮かべていた。老人達は動揺している。そう、この高慢な老人達は自分達の計画通りに行かなくなってきたことをうすうす感じ取っているのだ。
 ゼーレの面々がさらなる追求を続けようとしたとき、電話が鳴った。
「冬月、今は審議中だぞ・・・・そうか」、ゲンドウが受話器を置く。笑みは消している。
「使徒が現在接近中です。続きはまた後ほど」、無表情な顔に僅かな安堵が隠れていた。
「そのとき君の席が残っていたならな」
 ゲンドウの姿が消える。それを確認したモノリスが口を開いた。
「碇、ゼーレを裏切る気か」

 郊外にあるマンション―コンフォート17にある静かな部屋。そこに碇シンジはいた。傍らには彼がもっとも大切にし、好きだということが認められる唯一の少女が彼に寄りかかって静かな寝息を立てていた。
 シンジはアスカの寝顔を見ていた。ここ数日の彼女は本当に可愛かった。その原因が自分にあることは分かっていたが。
シンジが目を覚ました直後、アスカはシンジに飛びつくように抱きついた。守ってくれる騎士が目を覚ましたのだ。溢れる感情を抑えることは、シンジの前では幼児化してしまう彼女にとって無理な話だった。シンジは彼女を優しく抱きとめた後、アスカの耳元で囁いた。
「アスカ、大好きだよ」、と。もう一人の自分と一緒に認めることができた自分の気持ち。アスカを守りたいという本当の動機。決意を忘れてしまわないうちに。言えなくなってしまう前に。
 それを聞いたアスカは涙を流して自分に抱きついた。彼女の待ち望んだ言葉。やっとはっきり言ってくれた愛情の表現。不安が消えた。責任感が消えた。そして、彼女はよりシンジに依存してしまった。
だからそれからの数日間、アスカはシンジに徹底的に甘えた。それまで自分達の特別な世界に入り込んで欲しくなかったがために、学校では普段どおりの態度をとっていたが、それも消えた。ネルフ・学校・そしてここ葛城家でもアスカは他人の目を気にせずシンジに甘えたのであった。
 シンジはそんなアスカを可愛く思いながら、自分の中で彼女に対する愛情が日増しに高まっていくことを実感していた。認めた彼女への気持ち―それは彼自身に様々な好影響を与えていた。あのどうしようもない疲れはあまり感じなくなったし、自らの心が本当に休まるのを実感したからだ。
 シンジは幸せそうに眠るアスカを抱きしめた。幸せな時間だった。シンジは生まれて初めて愛情をささげる対象を見つけたのだ。それが例え彼女をより依存させてしまうとしても。やはり自己中心的なのだろうか、という疑問を無意識に考えながら。
 電話が突如鳴り出した。シンジは仕方が無く起き上がると、シンジが居なくなったことに気付き目を覚ました。アスカにウインクして受話器を取りに行った。本当は留守電にしてもいいのだが、パイロットとしての責任がそれを不可能なものにしていた。
 シンジは受話器を取り上げ、恨めしそうな声で言った。
「葛城ですが」
「シンジ君?使徒よ。非常召集、急いで」

 第二発令所。突然の使徒出現で毎度のように慌しい情景が展開されていた。
「弐号機・・・どうしますか?」、マヤがリツコに聞いてくる。
「シンクロ率は?」
「一桁を切っています」、残念そうな表情でマヤが答える。
「そう・・・仕方が無いわ、弐号機は発進見送りで」
「いや、発進だ」、突如ゲンドウが命令した。
「ですが、シンクロ率は」
「かまわん、囮ぐらいには役に立つ」
 その言葉に発令所の人間は皆顔をしかめる。それは初号機に待機していたシンジも同様であった。せっかくアスカを守ると決めたのに、これでは意味が無い。
「僕がまた一緒に弐号機に乗ります」、耐えかねたシンジが言った。
「だめだ」
「どうして!?」
「前回の戦い、忘れたわけではないな」
「でも!」
「決定だ。弐号機、発進させろ」、有無を言わさない言葉だった。
 シンジは諦めた。下手に逆らってもネルフに内乱が起こるようなものだから、アスカを危険にするだけだ。同時に、いざというときは勝手に出撃する決意をした。彼は冷静な判断を下していた。使徒という相手からアスカを守るためには、決して感情的になりすぎてはいけないことを、彼は経験的に学んでいた。

 森林の多い山で息を潜めたレイと零号機は使徒の様子を伺っていた。発令所からもそうするよう命令が出ている。同時に、通信回線から弐号機発進のやり取りが聞こえてくる。
 前途したように、レイは感情というものをあまり持っていなかったが、シンジの声を聞いた時それは一挙に増大した。アスカを守ろうとするシンジ。その声を直接聞いたレイの心の中に何か黒いものを生ませた。耐えられなくなったレイは通信ウインドウを閉る。音声もカットする。命令があるなら向こうから通信ウインドウを開くであろうから、問題は無かった。
レイは意識を集中させるために使徒を凝視した。眼前にはゆっくりと回転する発光体、それだけだった。
「―来るわ」、レイが呟く。自分でも何故そう感じたのかわからない。次の瞬間、輪から紐になった使徒は自分に向ってきた。

「零号機、侵食されています!」、オペレーターの叫びともいえる報告がゲンドウの耳に届いた。様子を伺うだけだったネルフは、その使徒の突如の攻撃に動けなかった。紐状になった零号機の腹に刺さるようにくっつく。
「エヴァ弐号機発進!」、ミサトが命令を下す。アスカと弐号機のシンクロはもはや戦闘が不可能なレベルまで落ちていたが、ゲンドウの命令はミサトにそうするよう強要していた。それに、現段階で囮でも効果が無いわけではない。うまくすれば零号機から使徒を離せる。ミサトはそう判断すると同時に、人間としての感情からどうしようもない自己嫌悪に陥った。
 弐号機が射出されたという報告が聞こえた。ミサトは自分を奮い立たせた。今はそういった人間的な感情に浸っている場合ではないからだ。使えない弐号機と侵食されている零号機だけでどうやって使徒を倒すか、それを考えなくてはならない。初号機は使えないのだから。

 使徒に侵食されたアスカを待っていたのは、自分―綾波レイの姿をした使徒であった。
・・・私と一つにならない?
 レイは黙っていた。おとなしく、使徒の言葉を聞く。
・・・私の心をあなたにもわけてあげる。この気持ち、あなたにもわけてあげる―痛いでしょ。ほら、心が痛いでしょ
「痛い?いいえ、違うわ。寂しい?そう、寂しいのね」
使徒とのやりとりは、それまで止まっていたレイの心の時間を動かし始めた。彼女は自分の心がざわめき始めたのを脳のどこか別のところで理解していた。だから、使徒がその言葉を言ったとき、彼女は心に痛みをおぼえた。
悲しみに満ちている。あなた自身の心よ
 そう、悲しかったのだ。誰も自分を見ていないのだ。誰もかも。だから、痛かった。使徒の言葉が、何よりも。
 使徒は同じなのだ。自分と。使徒もまた、自分と同じように絶えようも無い孤独感を感じているのだ。誰も見てくれない。綾波レイを。碇ユイを自分に見られても嬉しくない。ファーストチルドレンを見られても嬉しくない。レイを見て欲しい。自分を見て欲しい。
 ふっ、と意識が戻る。膝に落ちた水滴の冷たい感触が原因だった。LCLの中でも周りに混ざることなく、はっきりとわかる水滴。自分の目からゆっくりと膝に落ちていく水滴。
「これが涙?私、泣いているのは、私?」
 綾波レイは生涯初めて流した涙を見ていた。

 どこか遠くで声が聞こえる。
「エヴァンゲリオン弐号機、リフトオフ!」
 レイの中に衝撃が走った。エヴァンゲリオン弐号機―セカンドチルドレンの乗機。そう、セカンドチルドレン。碇シンジの愛を全て受けている少女。
 レイは自分の心の騒ぐのがはっきりとわかった。
 欲しい。誰かみてくれる人が。自分を、綾波レイを見てくれる人が。
あの人にはいる。弐号機パイロットには見てくれる人がいる。
そう・・・あなたは彼を望むのね」、使徒が口を開いた。
途端に、零号機に喰いついていた使徒が跳ねる。そして、もう片方の先っぽが唸るような音をあげて弐号機に向った。

 アスカのシンクロ率は極端に下がっていた。ミサトが催促してもエヴァは動かなかった。だから、使徒の攻撃を避けることはできなかった。
 僅かなATフィールドを突き破り、使徒の先端は弐号機の腹部にめり込んだ。使徒はそこにあった何層もある特殊装甲を貫き、弐号機の生体部分と接触しそこで侵入を止めた。
 エヴァの防御システムがATフィールドを自動的に発生させ、使徒を排除しようとする。だが、アスカのシンクロ率ではろくなATフィールドを保てなかった。使徒の侵食は防げなかった。

 アスカは使徒が接触したのを僅かに感じ取った。だが、極端に低下していたそのシンクロ率では、それを痛みや苦しみとして捉えることはできなかった。ただ、腹部に妙な圧迫感を感じ取っただけだった。物理的なダメージはもちろん、無かった。
『アスカ!』、心配するシンジの声が聞こえた。だが、アスカは黙っていた。
今日、弐号機に乗り込んだ直後からアスカはエントリープラグ内でそうしていた。シンジがいない時間、彼女はいつもそうだった。ただ黙ってシンジと会えるのを待つだけ。通信も嫌だった。自分とシンジの間に何かあるという感じが、彼女にシンジとの通信を躊躇わせていた。だからアスカは使徒の攻撃を受けた後も、黙っていた。何の反応を示さずに。人形みたいに。

 レイは自分や使徒以外の誰か別の心を感じ取った。それは彼女が妬みという種類の感情を憶えるセカンドチルドレンのものだった。一瞬、レイは歯を食いしばりきつい目つきで後ろにいる弐号機を睨みつけた。そして、同時に自分のこういう感情が出せることに驚くレイがいた。
 そのとき、また心がざわめいた。零号機を侵食している使徒が、何か伝えてきた。レイの姿をした使徒が微かに悲しんだ。同時にレイは自分の心の中にある少女の悲しみ・苦しみが流れ込んでくるのがわかった。
人形を抱きしめて涙を流す女の子。力なくぶら下がり、少女の前で死んでいる人間。そしてエヴァという存在に振り回され、依存してしまった少女。その全てが少女にとって酷く残酷な映像であることをレイにはわかった。自分も似たような感情を心の奥底に隠していたから。
 そして、少女を見つめる少年が現れた。中世的な顔立ちの少年―碇シンジだった。
レイは一瞬にして少女が誰であるかを悟った。そう、自分と同じような少女は先程まで妬みを感じていた弐号機パイロット―アスカだったのだ。
 妬みは親近感にかわり、愛情となった。
 同じではないか。自分も彼女も碇君も。皆エヴァという存在に振り回され、大人たちのいいように扱われてきた道具―人形なのだ。だったら、彼女が碇君の愛情を受けるのは、自分がそうなるのと同じでは無いか。そう、チルドレンは皆同じなのだ。一つなのだ。
 レイは急に心が開放された気分になった。そして、同じように悲しみをまた増した。
 仲間を見つけた。しかし誰も見てくれないことには代わりない。
 苦しみは消えた。だが、悲しみは増大した。

「出撃だ」、碇ゲンドウが短く、簡素に告げた。状況が好転しないまま、発令所の面々は頭を抱えていた。このままでは最悪の結果となってしまう。そんな中、ゲンドウの一言は希望をもたらした。
「え?」、ミサトが聞き返す。
「初号機の凍結、現時刻をもって解除。出撃させろ」、短く、有無を言わせない命令であった。

「アスカ!綾波!」、地上に出たシンジはそう叫んだ。無理も無い。自分の愛する少女の乗っている弐号機と、同僚であり母親というものを感じていたレイの乗る零号機は胴体のほとんどが侵食されていたからだ。事前の状況説明や発令所の交信で頭では分かっていたものの、見ると聞くでは差が大きすぎる。
 シンジが弐号機に近寄ろうとした瞬間、使徒に動きがあった。弐号機に張り付いていた使徒が急激に離れ、自分に向ってきたのだ。
 シンジはその高いシンクロ率と訓練で鍛えた反射神経を証明するかのようにそれを簡単によけた。だがその反動でライフルを落とし、使徒に叩き割られてしまう。シンジはとりあえず下がった。弐号機への侵食は無くなったし、このまま感情の赴くままに戦っても仕方が無いからだ。
 シンジは様子を伺いながら解放された弐号機に接触した。使徒はおとなしくしている。大丈夫だ。シンジは弐号機との通信ウィンドウを開いた。アスカの様子を確かめるために。
「アスカ、大丈夫?」、心配そうに声をかける。
「・・・・」、アスカは黙っていた。自分を見ているから、聞こえていないわけではない。
「アスカ・・?」、シンジは聞き返した。少し心配になる。同時に使徒を確認する。まだ大丈夫。
「あ・・・シンジ・・うん、大丈夫」、そう言ってアスカはシンジに微笑んだ。何か考え込んでいたのは明らかだった。
シンジは微笑み返し、戦闘中ということを思い出して素早く状況確認に移った。同時に、心のどこかでアスカを心配した。彼はアスカという少女に関してはミサトも逃げ出すほどの観察眼を持つ。

「碇君!?」、アスカとの心の交流に浸かり、自分みたいな人間が多く居るということを感じ取っていたとき、レイはシンジに気付いた。
 その瞬間、使徒は行動に出た。弐号機から離れ、そのまま初号機に向ったのだ。
 アスカという少女の心とのつながりが断ち切られた。同時に、少年の姿が微かに見える。
「これは私の心?碇君と一つになりたい?」、レイは使徒をかわす初号機を横目にそう思った。そして、結論に至る。
「ダメ・・・・彼には彼女がいるもの」
 レイは座席の後ろにあるレバーを取り出した。発令所からの脱出命令をも無視する。少し躊躇いがあったが、すぐにレバーを引く。唸り出す機械音とディスクの回転する音。
 全てが光り出す、と同時に何かを感じる。振り向いた先には男がいた。自分に微笑みかけていた。そう、碇ユイではなく綾波レイに。自分に。涙が溢れんばかりに出てきた。涙が止まらない。
 そう、見てくれればいいというわけではない。見て欲しい相手でなくてはいけない。碇シンジは違う。彼は見て欲しい相手ではない。見て欲しかったのは、今、自分に微笑みかけている男。ごくたまに碇ユイでは無く綾波レイを見てくれた男。碇ゲンドウ。
涙が止まらなかった。自分を見ている。彼が。碇司令が。溢れんばかりの涙が流れた。
 そして、全てが光に飲み込まれた。


マナ:もぉ。シンジに頼りっきりじゃないのっ。

アスカ:アタシだって頑張ってるのっ。

マナ:アスカはいいけど、綾波さん大丈夫かしら?

アスカ:なんとかしたいけど、どうしたらいいのよ。

マナ:無事を祈りたいけど・・・。

アスカ:かなりまずい状況ね。
作者"名無し"様へのメール/小説の感想はこちら。
ijn_agano@yahoo.co.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

inserted by FC2 system