寒い。とても寒い。ぬくもりが無い。いつも傍らにいた人のぬくもりを感じ取れない。体が凍えそうだ。
 あまりの寒さに目を覚ます。目に入ってきた光景は、廃墟だった。崩れかけたビルや家屋。瓦礫だらけの床。そして、僅かに残っていた毛布とベッド。そう、昨日の夜はここで休むことにしたのだ。
傍らには愛しい人が作ってくれた刺繍入りの赤いスポーツバッグ。オーバー・ザ・レインボーで着替えるときに使ったあの赤いバッグ。同居するようになってから、シンジに無理言って縫ってもらったASUKAの文字。自分でこっそりとSHINJIと小さく中側に縫ったのは秘密だった。
今はその幸せの時間の産物も、虚しく涙を誘うだけだった。自分はシンジから離れたのだから。もう二度とあの場所に戻ることは無い。いつしか、彼は別の人を見つけるだろう。そして、自分のことなど記憶の片隅に消えてしまうだろう。
枯れることの無い涙が再び溢れ出した。そうだ、自分はシンジとはもう会わない。シンジにこれ以上迷惑はかけられない。
自分は彼を支えることの出来ない人間だ。だから彼の横にいる資格など、無いのだ。
惣流・アスカ・ラングレーはシンジから逃れるべく、再び歩み出した。

安らかな寝顔
KNIGHT OF A PRINCESS
作者:名無し

CHAPTER SEVEN:そばに居るだけで

 いつもの朝。そうなるはずであった。
 シンジは暖かな世界を提供してくれる夢から覚めた。そして、冷たい現実を目の当たりにした。いない。彼女がいない。アスカがいない。
 トイレのでも行っているのかと思い、とりあえず自分の部屋を出る。どうしようもない胸騒ぎが心をかき乱す。トイレにはいなかった。風呂にも。キッチンにも。アスカの部屋にも。ミサトの部屋にも。
 シンジが暴れ出す心を無理やり押さえつけ外に探しに行こうとしたとき、彼はテーブルの上の手紙に気付いた。今にも崩れ落ちそうな震える手でそれを取る。指の震えが止まらない。
 手紙を広げる。シンジの目に過酷な現実がつきつけられた。
 さようなら。その言葉が痛かった。アスカの心がシンジに絶望感をもたらす。好きだと言ったのに。愛しているって、言えたのに。なんで君は僕から離れたんだ!絶叫だった。涙が出てこなかった。あまりに衝撃的だったから。しばらく動けなかった。力なく床に腰をおろす。
 同時に、成長した彼は気を取り直す努力を続けていた。
「僕がアスカを守る」
 そうだ、決めたじゃないか。守るって。自分の力でできるだけ。だったら、再び伝えよう。アスカと会って再び伝えよう。彼女が支えてくれなくても、僕はかまわない。いや、それよりもアスカがいないことのほうが、どれだけ苦痛であるか。
 アスカの騎士であるシンジは、諦めなかった。アスカのことになると、彼の心は誰よりも強く、誰よりも諦めが悪かった。

「保安部は何やってんのよ」、葛城ミサトはそう文句を言った。
ネルフ本部―赤木リツコ博士研究室。談話室のような性格を含んできたその部屋で、ミサトは保安部の報告を受けた。シンジからの連絡があったのはつい半時間ほど前。保安部は大慌てで捜索を開始した。
「マンションの監視レベルを最低ランクまで落としたのはあなたなのよ、ミサト。辛うじてだけどアスカでさえ抜け出せる程度のものよ」、リツコが指摘した。
「それは、まあ、そうだけど」、ミサトが歯切れ悪そうに言った。彼女としても、シンジとアスカの精神的な面から監視体制を緩和したのだが。それが裏目に出てしまったということだ。まさかアスカがシンジから離れるとは思いもしなかった。
「いずれにせよ、早くアスカを見つけないと・・・シンジ君が精神・肉体的限界に疲労しきってしわまないうちに」、リツコはデータを見ながら呟いた。
 シンジは、アスカ失踪の連絡をするとすぐに自分で彼女を探しに行ってしまった。パイロットの待機状態としては最悪だが、下手に押さえつけて恨みを買っても戦闘において支障をきたす。一四歳の少年少女をパイロットとして扱わなくてはならないジレンマであった。
 ネルフがアスカを探すのはパイロットの価値としてではない。すでにアスカのパイロットとしての限界は明らかであったからだ。アスカはシンジの精神安定剤として扱われているようなものなのだ。それはあまり良い感情を抱くものでは無かった。だから、ミサトは作戦部長らしからぬ行動を示した。
「決めた!」、ミサトがふいに叫んだ、「私も探しに行くわ」
 リツコが一瞬文句を言いたそうな顔をしたが、すぐに改める。自分だって彼らに情を感じ始めている。ミサトが家族として彼らを考えていてもしょうがない。
「ええ、いってらっしゃい」
リツコはそうミサトを見送ると、今度はジオンフロントに向うことにした。ミサトに話した真実を片付けるために。ジオンフロントにある綾波レイの肉体を破壊しに。ゲンドウと決別するために。見届ける人間はいない。ミサトには話しかしていない。だが、そのほうがいい。もう涙は流したから。決別するには、一人でやったほうがいい。
これもあの二人の影響かしら、とリツコは思う。あの見てて歯がゆくなる関係は、ネルフに一種の暖かさをもたらしていた。この子達のためにもがんばろうじゃないか、という奴だった。事実関係を見つめるだけの科学者であるリツコも、その影響から逃げられることは無かった。当たり前だった。あの二人はあまりにも不幸な環境の中であまりにも幸せな関係を築いていたのだから。
リツコはそれが母性という感情であることを、まだ理解してはいなかった。そして、それがゲンドウと決別できる原因であることも、自分だけでなくネルフ職員の心をほんの僅かだけど、強くしていたことに。

 アスカは瓦礫を掻き分けながら芦ノ湖を目指していた。ミサトのマンションはこの平野の外周部に位置していたが、そのまま山を登っても発見される確立が低いと彼女の軍事訓練が悟らせていた。ならばより捜索密度の薄い芦ノ湖方面からこの地域を出るしかない。
 ここまで来る途中、何度も振り返った。そして、何度も戻ろうとする衝動に駆られた。だが、そのたびにシンジへの気持ち働いた。彼をこれ以上苦しめたく無い。これ以上彼に負担をかけたくない。そう自分に言い聞かせてアスカは第三新東京市から離れた。
 日がもうすぐ沈むかというころ、アスカは第三芦ノ湖―最も新しい芦ノ湖―の湖畔に座り込んだ。そして、バッグから残り少なくなった食パンを取り出した。シンジがよくこれでトーストを焼いてくれたことを思い出す。また涙が出てきた。アスカはパンに何もつけず、そのまま食べた。決して不味くは無いが、シンジの料理を思い出すと味気が無い。中学生であるシンジの料理は美味というほどでは無かったが、アスカにとっては何にも勝る料理であったからだ。
 パンを一切れ食べ終え、アスカはバッグを持ち上げた。シャワーを浴びたかったし、この目立つ黄色のワンピースも着替えなくてはいけなかったから、アスカは手近な建物を探そうとした。

 シンジは疲れていた。アスカを見つけられない。それが疲労の原因だった。探すための肉体的な疲労は関係無かった。見つけられれば、そんな疲労等消えてしまうのだから。足が棒になっても、腹が不満の音をあげても、シンジは休まなかった。
 依存していた。それはわかっていた。自分もまた、アスカに依存していた。アスカという少女を守ると同時に、彼もまた無意識のうちに彼女に心の安らぎを求めていた。だから、アスカがいなくなったシンジは、まるで子供を隠された親ウサギのように賢明に彼女を探していた。
 シンジは無意識のうちに芦ノ湖に向っていた。何故か、彼女がこちらにいるような気がしたのだ。ネルフは主に山のほうを探していた。そちらのほうが確立の高いことを、シンジもわかっていた。だが、チルドレンとしての何かか、あるいはユニゾンの影響か、シンジはアスカが芦ノ湖に向っていると感じていた。
 ミサトがルノーで一緒に探そうかと持ちかけてきたときも、シンジは断った。それが車の音ではアスカが隠れてしまうかもしれないという理論的な理由であるか、自分の足でアスカを見つけたいという感情的な理由なのかは、シンジはわからなかった。ただ、シンジは自分の足でアスカを探していた。必死に。そう、まさに片割れを探すかのように。
 シンジの努力は半分、報われた。湖畔に、赤いスポーツバッグを見つけたからだ。自分が縫ったASUKAの刺繍。間違いない。彼女の荷物だ。
 シンジの焦りは高まった。何故、バッグがここにあるのにアスカはいないのだろう。何故。どこにもいない。辺りを走り回っても、いない。息を切らして探し回ってから、シンジは今思い出したかのように携帯電話でネルフに連絡を取った。
シンジは叫んだ。
「アスカ!どこにいるんだよ!帰ってきてよ!お願いだから!僕にはアスカが必要なんだよ!お願いだよ!アスカぁ!!!」
 返事は無かった。動きも無かった。シンジは力無く湖畔に膝をついた。涙が溢れ出した。会いたい。今すぐ会いたい。最愛の少女に。アスカに。
「アスカぁああああ!」
 叫びが虚しく響いた。

 何かが崩れ落ちた音がした。シンジは振り返る。そして、見つける。僅かだが、赤い髪の毛が。おそらく、最愛の少女のものであろう、赤い髪の毛が。
 シンジは走り出していた。足がくたくたになっていたことを感じなせない速さだった。シンジの人生の中でこれほど速く走ったことはないというほどの速さで。他のことは何も見えなかった。他のことなんてどうでもよかった。
 捜し求めた少女さえいれば。足が痛くても、息があがっていても、彼女さえいれば。それでいい。自分の幸せはそこにある。彼女こそが自分の居場所なのだ。

シンジはアスカを見つけた。廃ビルの中で寝ていた彼女を。悲しみをこらえ、決して安らかなものではない寝顔で。
 言いたいことはいっぱいあった。だが、アスカを見た途端、シンジは何もいえなかった。僅か半日、一二時間程度の別れ。しかしシンジはその短い時間に何もかも失った気持ちになっていたのだ。アスカを見た途端、何もいえなくなっても仕方が無い。
 シンジは黙ってアスカを見つめていた。涙が出ていた。抱きしめたかった。けれど、待つことにする。アスカが目を覚ますまで。そして、話そう。アスカと。二度と離れたくないから。いつまでも一緒にいたいから。

 アスカが目を覚ますまで、シンジは何もしなかった。ネルフに連絡することも無く、アスカを抱きしめることも無く。ただアスカのことを考えているだけだった。そして、不安は大きくなる。いつしか、シンジの思考は負の方向へ働いていた。
 アスカは自分のことを苦痛としているのだろうか、とシンジは思う。シンクロ率やらなんやらで、自分はアスカにとって苦痛なのであろうか、と。そう考えるとシンジは不安を憶えざるをえなかった。自分を犠牲にしてまでもアスカを守る、その決心は確かにあった。だが、同時にそれはアスカが自分を求めているという前提があってこそ、成り立つことだった。だから、アスカが自分を拒絶した場合、シンジはこれまで以上に心に傷を作ってしまうことになる。そして、それは彼にとって許容しえないものだった。
 彼らは一四歳の少年であり少女であった。そして幼きころの記憶から、その心は同世代より遥かに弱かった。だから、ようやく見つけた安らぎから拒絶されることを何よりも恐れていた。
 シンジは恐怖に支配された。そして、殺意が生じる。アスカの細く、白い首。手が固まる。心が凍る。その手を、アスカの首に。自分を拒否するなら、自分が拒否してやるまでだ。
「シン・・ジぃ」、突如アスカの唇から自分の名前が漏れる。そして、シンジは我に返る。アスカを守る勇気。アスカを愛する勇気。アスカへの愛情―それは裏を返せば拒絶への恐怖であったが―はその勇気を捻り出してくれた。
アスカが翌朝目を覚ましたとき、シンジはアスカに問い掛けた。新たな勇気を持って。

 抱擁。涙。再会の儀式を終えたシンジは、これ以上アスカを失いたくなかったから、聞きたくないことを聞いた。
「アスカ・・・何で僕から離れたの?」、シンジは恐る恐る言った。彼としても、アスカから拒絶されることは怖かった。今になって拒絶されることが。
 アスカは黙っていた。
「僕が・・・嫌い・・なの?」
 その問いに、アスカは首を振った。
「手紙、見たよ。僕が支えられないって、書いてあった。それって、あのときのこと?僕がアスカに支えてって、言ったときのこと?」
 アスカは無反応だった。
「アスカ。違うんだ。アスカ。僕はあんなことどうでもいい。アスカが支えてくれなくても、いいんだ。アスカさえいればいいんだ」、感情が高まる。
 だが、アスカはシンジを見なかった。頭を下げたまま、何もすることも無く。
 シンジの中で感情が爆発した。もう抑えきれなかった。彼女は自分だから。好きだから。愛しているから。だから、きつい言葉を口から出した。愛しているが故の言葉。それまでとは遥かに深くなった愛情。そして、拒絶される可能性を無視してでも手に入れたい彼女の愛情。
「逃げるなよ!」
 アスカはびくっ、と肩を奮わせた。
「アスカは逃げてるんだろう!僕から!」、シンジは涙を流しながら叫んだ。
「アスカに何があったかは知らない!だけど!僕から逃げないでよ!話してよ!僕に!」
 涙を流し心の底からの言葉をひねり出していたシンジに、アスカは答える他無かった。それまで黙っていた彼女は、それでもシンジを見ることなく喋り始めた。
「使徒が・・侵食したとき、ファーストの心に触れたの・・・あの子、アタシと同じだった・・・誰かに見て欲しかったの・・・アンタにも、司令にも」
 シンジは黙って聞いていた。
「ファーストは、アタシと違った。アンタを守ろうと、支えようとする気持ちがあったの・・・でも・・アタシには・・・アタシには無かった」
「シンジを守ることが怖かった。支えることが怖かった。誰か他の人の心を支えることが、怖かったの!」、アスカは叫んだ。涙が止まらなくなる。
「アタシはダメなの!アタシは臆病なの!守れないの!シンジを支えられないの!だから!」、アスカが続ける前に、これ以上心を壊す前に、シンジは行動に出た。
 唇。触れる唇。キス。シンジとのキス。
シンジ、はアスカにキスをしていた。不安を消し去るかのように。アスカを抱きしめ、深い愛情を示すかのように優しく、かつ積極的にアスカと唇を重ねた。
アスカの心から、そしてシンジの心から不安が消えていった。目の前に最愛の人がいる。それだけで、不安が消えた。離れたら不安は戻るだろう。だがそれでも、今だけは不安が消えた。
アスカはシンジから離れたくないという、その気持ちが著しく大きくなっていくことを感じていた。そうだ。何て馬鹿なんだろう。自分は。なんでシンジから離れなきゃならないんだろう。離れたくないのに。シンジを支えなきゃならない?いいじゃない。それだけでシンジといられるのなら。
愛情が高ぶった。いつのまにかキスは激しくなっていた。不安を消すかのように。絆を深めるかのように。体を重ねたのは、自然の成り行きだった。

 それから、二人は話あった。お互いの心を理解しようと。触れ合うだけで、言葉が自然に出てくるようになった。自分の本当の気持ちが流れ出るようになった。二人の間にある最後の壁は消え去り、心と心が繋がった。
「シンジ・・・アタシまだシンジを支えられない」
「いいんだよ」
「うん、まだ支えられない。でも、いつか、アタシが強くなったとき、支える。だから」
「大丈夫。僕は大丈夫。アスカがいるだけでいい」
「うん・・アタシもやっぱりシンジがいないとダメ」
「いつか、支えあおう。でも、それまでは」
「それまでは一緒にいるだけでいい」

 逃げないこと。それが大事だったのだ。何も今支えることはない。それをアスカが行うにはまだ、彼女は弱すぎた。だがいつか心が強くなったとき、アスカは支えるのだ、シンジを。それまでは、待てばいい。逃げる必要は無い。
 一緒にいるだけで、心は癒されるから。一緒にいるだけで、強くなれるから。相手は自分の欠けた部分。一緒にいれば、心が満たされる。それは傷を舐めあうような、そんな関係。お互いを慰めるだけ。でも、本当はそれ以上の関係。本当は何よりも必要な愛情を与え、与えてくれる関係。
 一緒にいよう。二人で強くなろう。二人で。二人だけで。他の世界なんてどうでもいい。アスカ、シンジさえいれば。

 二人は外の世界に目を背けた。二人の間のATフィールドは消えた。だが、同時にその周りのATフィールドは、さらに強くなった。


マナ:シンジが見つけてくれなかったら、どうするつもりだったわけ?

アスカ:なんとかして、自分の力で生きて行こうって思ってたわ。

マナ:14歳の女の子が1人で生きていけるわけないでしょ。

アスカ:アンタ、アタシをみくびってない?

マナ:だって、どうやってお金稼ぐのよ。

アスカ:ツケよ。ツケでご飯食べれるじゃん。

マナ:・・・・・・。(ーー)

アスカ:なによその顔。

マナ:勝手にツケたら、ネルフの人が怒ってくるわよ?

アスカ:大丈夫っ! ほら、アンタの生徒手帳。これ見せて、アンタにツケるから。ネルフに迷惑は書けないわ。

マナ:あなたって人はぁぁぁぁっ!!!(ーー#
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