「今、僕にできる事」

概略

度重なる使徒との戦いの中、自分自身の存在意義を見失って自壊していく少女、惣流・アスカ・ラングレー。

同情される事を嫌う彼女は誰一人寄せ付けようとせず、自分の殻の中に閉じこもっていく。

アスカの心を救おうと努力するシンジだったが彼の心にあるためらいがアスカの心を苛立たせる。

そんなアスカの態度、言葉に傷つけられるシンジ。そしてアスカもまたそんなシンジの姿に自分の心を

傷つけていってしまう。そんな傷つけあう2人の姿を見守るミサト。

お互いが自分にとって大切な人である事を感じ取りながらも、傷つけ合う事しかできないふたり。

そんな中でヒカリの一言がシンジにアスカの深い哀しみに気づかせる。

アスカの哀しみを知ったシンジはアスカの心を癒す為に彼女のすべてを受けとめようと決意をする。

その事で例え自分が傷つくことになろうとも…それがアスカを少しでも癒す事ができればいい。

今まで辛い事、哀しい事からずっと逃れようとしていた少年は少女の傷ついた心を救う為に

正面からそれらに立ち向かう事を決意する。

● 1

夜、第3新東京市の葛城ミサトのマンション。

エヴァンゲリオン弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーは暖かな湯気をたてるバスの水面を

空ろな瞳で見つめていた。栓を開かれたシャワーの音だけが浴室に響く。

(以前は暖かいお湯に浸かれば嫌な事や疲れを拭い去ることができたのに…。

お風呂からあがれば、そこにはご飯の支度をしているシンジがいて、その傍らでミサトがビールを

飲んでいて、あたしに気づくと二人とも笑顔で話かけてくれた。他愛のない、けれど温かい会話。

家族ってこういうものなのかなと思った…あたし幸せだった。

でも、もう…ダメ。あたしはエヴァを動かせなくなった、チルドレン失格となってしまった。

なんの価値もないの…。シンジもミサトも変わらない態度で接してくれているけど…嫌なの、同情で

優しくされるなんて!シンジには、同情なんかで優しくされたく…ない…の…。)

いつの間にかアスカの頬を一筋の涙が流れていった。

● 2

葛城家、ダイニングルーム。

手際良く夕食の支度を整えるシンジの後ろをお風呂あがりのアスカが無言で通り過ぎる。

「あ…アスカ、お風呂どうだった。お湯熱くなかったかな?すぐ夕食にするからね。」

そんなアスカにシンジが努めて明るく話かける。

以前のアスカならお湯が熱いの冷たいのとなんやかんやシンジに文句をつけたのだが、

今は何も言わずに、シンジの顔さえ見ることなく、ただ黙って自分の席に座ってしまう。

そして彼女の好きなものばかり集めた夕食を無言で、ただ口に運ぶだけだった。

夕食時に一番賑やかだったアスカが一言も話さない今、聞き役だったシンジがアスカに話しかけるように

なっていた。もともと口下手で人に話かける事に慣れていないシンジだったが、料理の事とか学校での

出来事とかをアスカに話し、懸命に会話を続けようと努力をしていた。けれどもアスカは一言も話さず

ついにはシンジの顔を見ることもなく、食事を終えるとそのまま自分の部屋に引きこもってしまい、

シンジが一人残されてしまうのが常であった。

 

それでもシンジはあきらめなかった。

それは以前のシンジを知っている者だったら驚くような変化だった。

自分が話かけなければアスカが一層遠くにいってしまう、そんな焦燥がシンジを突き動かしていた。

アスカの元気な笑顔が見たい、声が聞きたい…それだけが今のシンジの望みだった。

彼らの保護者である葛城ミサトはアスカを心配すると同時にそんなシンジの変化を好ましく思っていた。

そしてアスカの心を開こうと努力するシンジの姿にアスカの事をすべて任せてみようと考えていた。

なぜアスカが他人を拒絶し、自分の殻に閉じこもろうとするのか?

なぜシンジに辛くあたってしまうのか?ミサトにはわかっていた。そしてその解決策も…。

ただ、それをそのままシンジに教えることはできない…そう思っていた。

(こればっかりはね〜、人から教えてもらうものじゃないもんね。まあ今のシンちゃんならきっと気づいて

くれるでしょ!時に言葉はとても無力な物になってしまうって事を…。

そして言葉では伝えられなくても、自分の心を相手に伝える術はいくらでもあるって事を…ね。

シンちゃん、あなたが自分を傷つく事を恐れなければ、アスカの心をきっと救ってあげられる。

気づかせてあげて、自分を大切に思っている人がいる事を、決して一人ぼっちじゃないってことを…。)

ミサトは二人に気づかれないようそっと扉をしめると、えびちゅを片手に自分の部屋へと戻っていった。

● 3

いつものようにアスカが一言もしゃべらないまま食事が終わった。

シンジは軽い脱力感を感じながらもアスカの食器がきれいに片付けられているのをみて満足していた。

そして洗い物をしようとキッチンに行こうとしたシンジの背中につぶやくようなアスカの声が聞こえた。

「……よ。」思わずアスカを振り向くシンジ。下を向いたままアスカが口を開く。

「何で…そんなあたしにかまうのよ…。」それは喉の奥から絞り出すような苦しげな声だった。

「何でって…、アスカの事が心配だから…」突然の事に上手く言葉が出ない。

「はん、あたしも落ちたもんね、あんたに心配されるなんてさ。」大袈裟なゼスチャーであてこするアスカ。

「そんな言い方しなくたって…。」悲しげにつぶやくシンジの言葉にアスカの心がズキリと痛む。

その痛みを紛らわせようと更にシンジにきつい言葉を浴びせてしまう。言葉が口から出る度にシンジを

傷つけていく、そして傷ついたシンジの姿にアスカの心もまた傷ついていく。

相手を思いやるはずの言葉が相手を傷つけていく。互いに分かり合おうと言葉を交わせば交わすほど

気持ちが離れて行ってしまう。けれども何も言わなければ擦れ違ったまま心はやはり離れて行ってしまう。

そんなジレンマの中にシンジとアスカは陥っていた。

傷ついた心を隠す為、次第にアスカの言葉が激しくなっていく。

「エヴァを動かせないあたしなんて、何の価値もないのよ!あんたとファーストさえいれば世界の平和は

守れるのよ。そう、あたしはもう必要ないの。あんただって本当はそう思っているんでしょ、

アスカなんかもういらないって!」堰が切れたかのように溢れ出すアスカの言葉。

「そんなこと思うもんか!僕は…。」アスカの暴言に反論しようとするが、言葉に詰まってしまう。

心で思っている事の10分の1も言葉にできない自分にシンジは苛立ちを越え、悲しみさえ覚えていた。

(なんで…なんでアスカに僕が思っている事が伝わらないのだろう…。アスカが必要ないわけないのに。

僕はアスカにずっと一緒にいてほしいと思っているのに…、どうして…。)

 

心の中の悲しみを表せないまま、アスカの暴言に傷つけられていくシンジの心。

「他人に同情されて生きていくなんて嫌!ましてやあんたに同情されるなんて絶対に嫌!!」

エスカレートしていくアスカ。シンジが何一つ反論しない事が更にアスカを苛立たせていく。

(あたしこんな事…こんな事を言いたいわけじゃないのに…)

目の前のうなだれたシンジの姿がアスカの心をも傷つけていく。

(シンジ…、お願い!あたしを止めて。殴ってでもいいからあたしを止めて…。お願いよ…。)

そんなアスカの思いとはうらはらに言葉は剣となり、ふたりの心をズタズタに傷つけ続けた。

やがて爆発したアスカの感情が収束する。

そこに残されたのは心に無数の傷を負った少年と少女の姿だった。

「あんたも、ミサトも嫌いよ。嫌い、嫌い、大嫌い!!」

悲しげなシンジの瞳から逃げるように自分の部屋に飛込むアスカ。

部屋の襖を閉め、誰も入れないように身体全体を押しつけると今まで堪えていた涙が瞳から溢れ出す。

(みんな嫌い…でも一番嫌いなのは…あたし……。シンジはあたしを気遣ってくれているのに…。)

部屋に逃げ込む前に見たシンジの悲しげな瞳がアスカの脳裏に焼き付いていた。

切なく苦い思いがアスカの心にこみ上げてくる。

(でも、だめなの!…自分でもどうしようもないの…ごめんね、シンジ…。)

背中を壁に当てたまま崩れるようにしゃがみこむアスカ。ひざを抱えたまま赤ん坊のように身体を

丸める。そんな彼女の鳴咽だけが薄暗い部屋に響いていた。

● 4

翌朝、アスカは起きてこなかった。

毎朝、シャワーを浴びるアスカの為にシンジが準備しておくアスカお気に入りの赤いバスタオルも今日は

畳まれたままだった。昨夜のアスカの様子から不安を募らせていたシンジはアスカの部屋の前まで来ると

そっとアスカに呼びかけた。「アスカ、そろそろ起きないと遅刻しちゃうよ。」

何の返事も聞こえてこない。もう一度声を掛けようとした時、か細いアスカの声が聞こえた。

「今日は学校休む。一人にしておいて。」それだけだった。再びしんと静まりかえった部屋。

かつてのアスカからは想像もできないような弱々しい声にシンジは襖を開けたい衝動にかられ、

縁に手をかけた。けれども、そのまま氷ついたように動けなくなる。

(襖をあけて…どうするんだ…。アスカに何て声をかけるんだ…。僕は…僕は…。)

シンジは逃げるようにアスカの部屋の前を離れていった。

傷つき疲れたアスカを支えてあげたい、けれど自分が何をすれば良いのかがわからない、そんな行き場の無い

迷路をさまようシンジだった。

● 5

結局アスカに何もしてやれないままシンジは彼女の朝食と昼食の用意を整え、短い手紙を添えて

一人学校に向かうのだった。空は青く晴れ渡り、路上には通勤や通学の人が溢れていた。

いつもと変わらない朝の喧騒の中でシンジは心の殆どが欠けてしまったような空虚さを感じていた。

アスカがいない通学路。彼女が自分の隣にいないだけで他は何も変わらない街なのに…。

 

突然現れ、その後いつも彼のすぐ側にいた元気で明るい魅力的な少女。

その自信に溢れる言動が彼には夏の太陽のように眩しかった。

少しわがままで勝ち気で彼を振り回した、優しさを不器用にしか伝えられない女の子。

彼にとって初めて自然に接することができた異性であり、そして心ひかれた女性であった。

傍らにアスカがいない…それだけでこんなにも世界が違ってしまうのか…。

アスカを失いかけて初めて気がつくなんて…僕はバカだ。そう心の中で繰り返しつぶやくシンジだった。

● 6

シンジの出掛けた後の葛城家ではアスカが枕を抱きしめベッドの上にけだるそうに横たわっていた。

昨夜は結局泣いたまま眠ってしまい、朝その事に気がついた時にはアスカの目は真っ赤になっていた。

(こんな顔…シンジに見せられるわけないじゃない…。)一層落ち込んでしまうアスカだった。

その時、廊下からアスカを学校に誘うシンジの声が聞こえてきた。

シンジにこんな姿見られたくない…そんな思いから寝たふりをしてしまう。少しして再びシンジの声が届く。

(シンジ…。)自分の事を気遣ってくれるシンジの優しさがアスカの心に響いてくる。

シンジに甘えたい心を必死に抑え、小さな声で学校を休む事を告げるのが精一杯だった。

部屋の前から去ってゆくシンジの足音にアスカは寂しさとすまなさと自己嫌悪を感じていた。

「シンジ…もう出掛けたよね?」そうつぶやくと横になったままの姿勢で耳を澄ませてみる。

しんと静まりかえった部屋、風に乗って遠くに電車の音が響いているだけだった。

(シンジ、いないんだ…)改めてその事を確認し、また寂しさがこみ上げてくる。

寂しさを忘れようと頭から蒲団を被り眠ろうとするが、昨夜のシンジの瞳が浮かびどうしても眠れない。

10分程努力してあきらめたアスカは起き上がると、Tシャツ一枚の姿でシャワーを浴びる為に部屋を出た。

寝起きでボサボサの赤い髪の毛をなびかせ、下着の上に短めのTシャツ一枚を羽織っただけという、

ラフな姿で廊下を歩いていく。ペタペタという足音すらどこか寂しい。

(ミサトも出掛けたのかしら?)いつもなら高いびきが聞こえる葛城ミサトの部屋も今日は静かなままだ。

自分が今一人ぼっちという事を嫌というほど思い知らされるアスカだった。

脱衣所で服を脱ぐと鏡の前に立つ。赤い髪の白い肌の裸の少女が鏡の中で哀しそうな顔をしている。

澄んだ青い瞳はうっすらと赤く染まり、捨てられた子犬のような寂しい姿。

鏡の中の自分に微笑みかけてみるが、ひきつった笑顔は更にアスカを落ち込ませるだけだった。

(思ったよりやつれていないみたいね…シンジの料理のおかげかな?)

頬にあてた掌は瑞々しい肌の弾力を感じ取っていた。それは以前と変わらないものだった。

(あいつ、毎日あたしの好きなものばかり作って…落ち込んでいるのについ食べちゃうじゃない…。)

シンジの事を思った瞬間、鏡の中のアスカが優しく微笑む。

温かなその笑顔にドキリとする鏡の前のアスカ。思わず両手を自分の頬にあてる。

そう、微笑んでいるのは自分。シンジの事を思っただけなのに…。

目元がジワっと熱くなっていくのに気がついたアスカは慌てて浴室に飛び込んだ。

(シンジ…)泣き出したくなる自分の心を奮い立たせるかのように思いっきりシャワーの栓を開く。

吹き出す水流を顔を上げ、正面から受ける。ギュっと目を閉じて耐えるアスカ。

水滴と共に堪えきれなかった涙が飛び散っていくのだった。

 

● 7

熱いシャワーを浴び、少し気分が晴れたアスカは、今度はクークーと鳴くお腹を満足させるために

食べ物を探しにキッチンに向かった。

(急に休む事にしたからな…、シンジ何も用意できなかっただろうな…。仕方ないミサトのおつまみの缶詰でも

探すか、何かあるでしょう。)バスタオルで髪を拭きながら人気の無い薄暗いキッチンに入る。

(何でこれがここにあるの…?)驚きのあまりアスカの視線はそれに釘付けになってしまう。

アスカの視線の先、テーブルの上には青いチェックのハンカチで包まれたお弁当箱と色違いで

おそろいのチェックの赤いハンカチに包まれたお弁当箱が仲良く並んでいた。

それはいつもシンジがアスカの為に用意してくれるふたりのお弁当箱だった

(シンジがお弁当忘れるなんて…ないわよね。)仲良く並べられたお弁当に不審げに近づくアスカ。

海苔のいい香りがアスカの鼻をくすぐる。まだ温もりの残っているお弁当だ。

おそらくシンジが今朝作ったものだろう、アスカの好きなハンバーグの香りもしている。

クウー!食欲を刺激する香りに思わずアスカのお腹が音をたてる。

静かな家中に響き渡る音に真っ赤になるアスカ。つい回りを振り返ってしまう。

(誰も聞いてないわよね…?)そのことを確認してホッと胸を撫で下ろす。

その時になってようやくアスカはお弁当の真ん中に置かれたメモに気づいた。

A4版のルーズリーフにアスカの良く知っている字が書かれている。

慌てていたのか少し右に傾いているが、几帳面でどこか優しいシンジの字に間違いなかった。

ドキドキしながら手にとってシンジのメモを読み始める。文字を追うアスカの目が次第に潤んでいく。

そして手紙を読み終えると堪えきれずにポロポロと涙をこぼしてしまうのだった。

アスカへ

急な事なので準備できなくて、ごめん。朝食は冷蔵庫にハムエッグとサラダが入っています。

鍋の中にアスカの好きな豆腐と油揚げのお味噌汁があります。暖めて食べて下さい。

それとお昼御飯の準備ができなかったので今日のアスカのお弁当と僕のお弁当を置いてゆきます。

中身はアスカの大好きなハンバーグです。アスカはハンバーグの時はいつも僕の分まで

食べてしまうから、お弁当をふたつ置いて行きます。遠慮しないで食べて下さい。

僕はトウジやケンスケ達とパンを買うから心配しないで下さい。

もっとアスカが元気になるような事ができたらいいんだけれど…僕にはこれぐらいしかできないのが

残念です。たくさん食べて早く元気なアスカに戻って下さい。

でも、もしもお腹が一杯だとか、気分が優れないようだったら無理せず残して下さい。

それじゃ行ってきます。

シンジ

「シンジ…シンジ、シンジ……。」思わずシンジの名前を呼んでしまう。

昂ぶる思いに耐え切れずアスカはシンジの手紙を抱きしめたままぺたんと床に座り込んでいた。

「シンジ…ごめんなさい。貴方にあんな酷い事言ったのに…。あたしなんかシンジに嫌われても仕方ないのに…」

胸に抱いたシンジの手紙を更にギュっと抱きしめる。

 

短い手紙の中に込められたシンジの優しさがアスカの心を苦しいほど締め付けていた。

「シンジ…好きよ、大好き。でも、あたしはもうシンジに好きになってもらえる資格がないの…」

初めて言えた‘好き’という言葉、けれどもそれは血を吐くような絶望の叫びの中でだった。

それでもシンジに伝えたかった自分の思いを涙と一緒に吐露した事で少し気持ちが軽くなったのか、

涙を拭いながらシンジのお弁当を手にするアスカの表情にはかすかだが微笑みが浮かんでいた。

「お弁当いただくね、シンジ。」そう言うときちんと椅子に座りお弁当箱の蓋を開けてみる。

いい香りと共にアスカの好きなハンバーグが顔をのぞかせる。ハンバーグの中に仕込まれたシンジ特製の

デミグラソースが絶品のお弁当用にシンジの工夫が詰まったアスカの大好物である。

栄養の事を考えてか、ちゃんと野菜も彩り良く添えられている。

「わあ!美味しそうなハンバーグ。さすがはシンジね!…うん、美味しい!」

あたかもシンジが目の前にいるように話かけお弁当を食べる。それはアスカがシンジとこんな風に

話せたらいいなとずっと思い続けていた光景だった。

素直にシンジの料理を褒める事、シンジに甘える事、いつも心の中でシンジにああしてあげたい、

こうしてあげたいと密かに思っていた事をアスカは今一人芝居で演じていた。

「はい、シンジ。あたしが食べさせてあげる。あ〜んして!」

「シンジ、今度の日曜日一緒に買い物に行こうよ。かわいいお店みつけたんだ!」

「今度シンジにお料理教えてもらおうかな。シンジ、何が食べたい?」

「ほんと美味しいよ。シンジのハンバーグも頂戴ね!ほら、も〜らった!」

シンジの作ってくれたお弁当を食べながらひとり幸せな情景を演じる。

アスカの弾むような声がダイニングルームに響く。

「ごちそうさま、シンジ。とっても美味しかった。」そう言いながら幻のシンジに向かって微笑む。

「いつもこんな風に素直に自分の気持ちをシンジに話せたら良かったのにね。」

「あたし…こんなにシンジと話したい事があったんだ……。ううん、まだ全然話し足りない。

もっとあたしの事シンジに知ってほしいし、もっとシンジの事が知りたい。でも…。」

不意に言葉途切れ、俯いてしまうアスカ。

「シンジはエヴァのエースパイロット、それに比べてあたしはシンクロ率ゼロの役立たずのお荷物。

もう相手になんかしてもらえないね。……シンジ…優しいからそんなこと言わないだろうけど…。」

先程までの快活さがうそのような寂しげな言葉がアスカの唇からこぼれる。

「でも、シンジに相手にしてもらえないなら、あたし…シンジの側にいない方がいいのかもしれない。」

ゆっくりと顔をあげるアスカ。

先程の一人芝居の時とは異なりその目は深い哀しみに沈んでしまっていた。

「シンジがあたし以外の女の子を好きになるのを見るなんて…あたしには耐えられない。」

アスカの瞳からはいつの間にか涙が溢れ始めていた。

それはシンジの手紙を読んだ時のものとは違う冷たく悲しい涙だった。

彼女の目の前にいた幻のシンジはいつの間にか消えてしまっていた。

ひとりきりのダイニングルーム。

ひっく…ひっく…というアスカのすすり泣く声だけが葛城家に響いていった

 

 

● 8

それから2時間後、簡単な身支度を整えたアスカは後ろ髪を引かれるような思いを振り切って、

彼女が初めて得た幸せな時間の詰まった葛城家を後にしようとしていた。

シンジに買って貰った(買わせた?)クリーム色のワンピースが午後の陽光に揺れていた。

名残惜しげに家の中を見てまわるアスカ。綺麗に整頓した自分の部屋、そしていつも賑やかだったリビングルーム、シンジの聖域だったキッチン、シンジと初めてくちづけを交わした冷蔵庫の前、様々な思い出を

振り返りながら家の中を歩く。そして意を決したようにシンジの部屋の前で立ち止まった。

大きく深呼吸をするとアスカは襖に手をかけ、一気に開いた。

主の人柄をあらわすようなその部屋は綺麗に整頓されていた。同じ年頃の男の子の部屋…アスカは

ちょっとためらいながら、それでも興味深げにシンジの部屋の中に入っていった。

音楽好きのシンジらしく割と高価なオーデイオとチェロが目をひく他はあまり物のない部屋だった。

しばらく見るともなく部屋を眺めていたアスカだったが目的のものを捜すためシンジの本棚を調べ始めた。

初めて触るシンジの本棚。教科書や参考書に混じってチェロやクラッシック音楽の本が並んでいる。

(へえ〜、シンジこんな本読むんだ…。知らなかったな…あたし。)

順々に本を手にとってはパラパラとめくってみる。そうする事でシンジの気持ちを理解するかのように…。

(あたしの知らないシンジの世界か、もっと知りたかったな…。)

その時、風に吹かれたカーテンが大きく揺れた。その音に我に返るアスカ。

(…と、いけない。こんな事をしてる場合じゃなかったんだわ。)思ったより時間を費やしてしまったらしく

アスカは急いでシンジの本棚を漁りだした。

「あ、あったあ!」しばらくして弾んだ声が響く。

アスカが手にしていたのはシンジのアルバム、これがアスカの探していたものだった。

アルバムを床に置くとドキドキする心を抑えながらページを開く。

(あいつ、小さい頃の写真ってほとんどないのね…。)シンジの写真を物色しながら、アスカは自分が

いつの間にかワクワクしながらアルバムを見ている事に気がついていた。

やがてこの街に来てからのシンジの写真を見つける。そこにはたくさんのシンジの姿があった。

アスカ、ミサト、レイ、加持、トウジ、ケンスケ、ヒカリと写っている楽しそうなシンジの姿。

(あ、この時覚えてる。…やだ、こんな写真いつ撮ったのよ!)一人はしゃぎながら写真を見るアスカ。

(シンジのやつ、結構いい表情してるじゃない。…それにしてもあたしとの写真が多いわよね…。)

学校での制服姿、ネルフでのプラグスーツ姿のもの、それにこの家でとった私服姿と様々な姿で

じゃれあっている2人が写されていた。大半の写真はアスカからシンジにくっついているものだったが…。

考え抜いた末、アスカはその中から一葉の写真を選び出した。

それはケンスケが撮ったものであろうか、ふざけたアスカに首に抱き付かれながら、それでも嬉しそうに

笑っているシンジの姿が写されていた。2人とも制服姿だから学校でのひとコマだろうか?

自然な自分とシンジの姿がそこにはあった。

写真の中で仲睦まじげに微笑んでいる14歳のごく普通の少年と少女。

いつの間にか写真を見つめるアスカにも微笑みが浮かんでいた。

 

 

 

(いいな、この写真。エヴァもネルフも関係のない…幸せそうな姿よね。シンジもあたしも楽しそう。)

しばらくその写真に魅入ってしまうアスカだったが、やがて大切そうに写真を胸のポケットにしまうと

アルバムを書棚に戻そうとした。その時…アルバムのポケットからひらりと一葉の写真が落ちてきた。

何の気なしにその写真を拾ったアスカは写真を見た瞬間、雷が落ちたような衝撃を受けた。

(こ…これって…いったい…いつの間に…・)恥ずかしさから真っ赤になってしまう。

そこには制服姿のままで壁にもたれかかって眠ってしまったアスカの寝姿が写されていた。

柔らかく閉じられたまぶた、長いまつげ、かすかに開かれたピンク色の唇、やすらかな表情、

それはまるで翼をたたんだ天使が休息している、そんなアスカの姿だった。

(こんな写真いつの間に…こんな無防備な所を隠し撮りされていたなんて…あれ?これって、この家よね。

しかもポラロイドってことは…この写真って、もしかしてシンジが撮ったのお?)

一瞬茫然としてしまうアスカ。(シンジが…あたしの写真を撮っていたの…?)

あのシンジが自分の写真を隠し撮りしていた…それは普段のシンジからは想像できない事であった。

しかしこの写真から読み取れる様々な条件を検討した結果、この写真を撮ったのはシンジしかいないという

結論に達した時、アスカの顔には隠し切れない笑みが溢れていた。

(まったく、あたしの写真が欲しければ幾らでも撮らしてあげたのに…相田のような隠し撮りみたいな事

しなくてもね…。でもこの写真のあたし、とても幸せそうに見える…。シンジが側に居てくれたからかな?

シンジ、あたしのこんな写真をずっと持っていたんだ…。)

恥じらいながらも喜びを押さえ切れないアスカだったが、やがて写真を手にしたまま俯いてしまう。

(ホントあんたってタイミングが悪いんだから…。なにもこんな時に見つからなくてもいいじゃない…。

もう、あたしはあんたに相応しくない役立たずになっちゃったんだからあ…)

アスカの瞳から再び涙がこぼれ始めた。

(もっと早く気がついていれば、あんたの気持ちに応えてあげられたのにね…。)

シンジの部屋を渡る午後の風がすすり泣くアスカを優しく包んでいた。

やがてアスカは涙をハンカチで拭うとゆっくりと立ち上がった。そしてシンジが大切に隠し持っていた

自分の写真をアルバムに戻すとシンジの部屋を後にするのだった。

ダイニングルームに来たアスカは胸ポケットの写真を手元に置くとシンジへの手紙を書き始めた。

アスカがシンジに宛てて初めて書く手紙だった。

もっとも、こんな形で書く事になるとは想像もしていなかったが…。

何度も何度も書き直してようやくシンジへの手紙を書き上げる。

そして手紙をテーブルの上に置くと、お弁当箱を手にとり丁寧に洗い始める。

水の流れる音だけがキッチンに寒々しく響く。一心不乱にお弁当箱を洗うアスカ。

それはシンジへの痛々しいまでに純粋な思いのすべてを込めるかの様であった。

やがて綺麗に洗われ、テーブルの上に並べられるお弁当箱。

もう一度それを丁寧に並べ直すとアスカはそっと先程の手紙をそれに添えた。

手紙には震える字でこう書かれていた。

 

 

 

 

碇 シンジ 様

お弁当とても美味しかったです。今までわがままばかり言ってごめんなさい。

シンジが優しいからつい甘えてしまったみたいです。

シンジさえ許してくれるならずっと甘えていたかったな…なんてね。

でも、あたしみたいな役立たずがいつまでもシンジの側にいたら迷惑よね。

だからシンジに嫌われてしまう前に、この家を出る事にしました。

シンジに会うと辛くなるので、このまま出て行きます。

これからシンジにはきっとシンジに相応しいおとなしくて優しい可愛い娘があらわれると思います。

そうしたらあたしの事など忘れてしまうでしょうね。仕方ない事だとわかっています。

ただ、時々でいいからあたしの事思い出してほしいな。

こんな女の子があなたの側にいた事を…。

ごめんね、シンジ。わがままばかり言って…。

ありがとう、シンジ。そして、さようなら。

惣流・アスカ・ラングレー

涙で字がにじんでしまった手紙。

溢れそうになるシンジへの思いを抑え、精一杯強がって書いた手紙だった。

最後まで‘好き’と言えなかった。

その言葉を口にしたら二度とシンジの側から離れられなくなる気がしたから…。

シンジに同情で優しくされたくない…それはアスカのささやかなプライドだった。

けれども同情でもいいからシンジの側に居たいという思いがそんなアスカの決意をせめたてていた。

何度も何度も振り返りながらアスカは玄関の扉を閉めた。

誰もいなくなった部屋で、窓から入る風がカーテンを揺らめかせていた。

まるで、アスカの心を映すかの様に…。

● 9

「起立!礼!」クラス委員長 洞木ヒカリの声が教室に響き渡った。今日一日の授業から解放されて

ドーッとクラス中がざわめく。クラブに行く者、帰りがけに何処に寄り道するか相談している者と、

にぎやかなクラスメート達の中、シンジは一人急いで帰り支度をしていた。

今のシンジの頭の中にあるのはどうすればアスカを喜ばせる事ができるのか、ただそれだけだった。

(お昼はハンバーグだったから、夕食は何にしよう?アスカが喜びそうなものは…)

心ここにあらずのシンジに悪友達が声をかける。

「シンジ、帰りにゲーセンよってかへんかあ!」いまではすっかり元気になったトウジだ。

「ごめん、トウジ。早く帰ってアスカのご飯作りたいから、今日は遠慮するよ。」

「今日はじゃなくて今日もだろ。碇、近頃付き合い悪いぞ。」眼鏡の縁を押さえながらケンスケが突っ込む。

「ごめん、ケンスケ。アスカ調子良くないみたいなんだ。だから…。」

「シンジ〜、アスカ、アスカって最近お前惣流の事甘やかしすぎなんやないか!?」

「そんなこと…。本当にアスカ、元気ないんだ!」 トウジの言葉に少しカッとなるシンジ。

 

 

「かあー、全く情けないやっちゃなあ。ええか女なんてもんはな、ほっておくくらいが丁度いいんや!

お前が甘い顔するから惣流の奴がつけあがるんや。わーとるんか、シンジ!」

「アスカはつけあがってなんていない!」アスカの名をだされ、思わず声を荒げてしまうシンジ。

「なんやシンジ、わいに逆らうんか!」思いもかけないシンジの言葉についトウジも熱くなる。

「これ以上アスカのことを悪く言うなら、たとえトウジでも許さない!」と、トウジを睨み付けるシンジ。

「おー、よう言うたわ!いったいどないするちゅうねん。」トウジも負けじと睨み返す。

今にも殴り合わんばかりの友人ふたりを前にケンスケは何とか仲直りさせる方法を模索していた。

しかしケンスケが答えを出す前におさげ髪の救世主が後ろからトウジの耳をいきなり引っ張った。

「あいたたた…。誰や!いきなり人の耳、引っ張るんわ!」不意の攻撃に流石のトウジも悲鳴をあげる。

「す・ず・は・ら…。」 そこには目が据わってしまっている洞木ヒカリが立っていた。

「うわ!委員長やないか。いきなり後ろから何すんのや。びっくりするやないか。」

「さっきから聞いていれば言いたい放題な事言って…、何であんたはそんなにデリカシーがないのっ!」

圧倒的なヒカリの迫力の前に手も足もでないトウジ。まさに蛇に睨まれたカエルである。

「せやかて、シンジの奴が…。」必死の抵抗を試みるトウジだったがヒカリに一蹴されてしまう。

「あんたが悪いの!碇君はアスカの事を心配しているんじゃない。それをあんたが……。」

「わー、勘弁してくれや委員長。わしが悪かった。」遂に拝むようにしてヒカリに謝るトウジ。

「はあー、無様だね。シンジの事言えないぞ、トウジ。」ケンスケが情けない友人の姿に溜息をつく。

一方的なヒカリの勝利で夫婦喧嘩が集結しようとしている中、シンジがヒカリに声をかける。

「あの…委員長?僕、もう帰っていいかな?アスカが気になるんで。」おそるおそる尋ねるシンジ。

シンジの言葉にトウジをどつく手を休めてヒカリがニッコリと微笑んでシンジに言う。

「いいわ、碇君。私が許可します。…アスカの事お願いね。」優しげなヒカリの表情とトウジの襟首を掴んだ

その姿とのギャップに女性の恐ろしさを感じたのはシンジとトウジだけではなかったろう。

「委員長…、ありがとう。」修羅場から急いで立ち去ろうとするシンジの背中にヒカリが声を掛ける。

「碇くん…アスカには碇くんしかいないの…。アスカのこと見捨てないであげてね…。」

不安げにシンジに話かけるヒカリのあまりにも意外な言葉の内容にシンジは暫し呆気にとられていた。

「えっ?…見捨てる…僕が……アスカを…?」 何で…という顔でヒカリを見る。

「うん。」シンジの言葉に首を立てに大きく振るヒカリ。

「何言っているんだよ、委員長。アスカに見捨てられかけているのは僕の方だよ。」シンジが慌てて答える。

「だって、僕はドジでとろくて意気地なしでさ…、それに比べてアスカは積極的で勇敢で、その上

頭がよくて…美人でさ、誰が見たってとても釣り合いがとれないよ…」

やや自嘲気味のシンジの言葉にヒカリは激しく首を横に振って叫んだ。

「違うの、アスカはそんなスーパーマンじゃないの。」どうしてわかってあげないのと言わんばかりにヒカリは

両手の拳を振った。その両肩が震えている。そして意を決したようにシンジに再び話しかけた。

「お願い、碇くん。アスカを普通の女の子として見てあげて。今までの様な強いアスカのイメージで見るの

じゃなくて、傷つきやすい、好きな人に嫌われてしまう事に怯えている繊細な女の子として今のアスカを

見てあげてほしいの。」真剣なヒカリの眼差しにシンジは圧倒され、思わず肯いていた。

「…わかったよ、委員長。じゃあ、また明日。」逃げるようにヒカリの元から駆け出すシンジ。

頭の中をヒカリの言葉がぐるぐる駆け回る。稲妻の様にアスカの顔がフラッシュバックする。

混乱したままシンジは走り続けた。そうしなければ答えがでないかのように…。

● 10

学校を出て街中を急ぎ足で歩くシンジ。しかし先程のヒカリの言葉が彼の耳から離れなかった。

(僕がアスカを見捨てる?どうして?)ヒカリの問いに自問自答する。

シンジはアスカが自分を避けるようになったのがいつ頃からだったのか思いだそうとしていた。

(アスカの元気が無くなっていったのは…そう、アスカのシンクロ率が下がりはじめた頃からだった、それが

あの使徒との戦いで心を覗かれ、傷つけられてから加速するようにアスカは荒んでいった。

そして綾波が自爆した時、アスカのシンクロ率はゼロになり、アスカはエヴァから降ろされた…。)

しばらくエヴァから降ろされる事をミサトさんより通告された時のアスカの悔しいような、哀しいような顔が

シンジの脳裏に浮かんだ。そんなアスカの姿を見ているのが辛かった。

なんとかアスカを元気づけてあげたい、そう思うシンジだったが何をしていいのか分からなかった。

(あの時、僕はアスカに何て言えばよかったのだろう…。)アスカに声をかける事もできず、アスカの後ろを

ついていくように帰ったあの日。傷ついたアスカに掛ける言葉を探し、見つからないまま、只アスカの側に

居る事しかできなかった自分の不甲斐なさを思い出した。

そう、あの日からだ…アスカが誰にも心を開かなくなったのは。

(僕はアスカの為に一生懸命やったつもりだったけど、本当にアスカの気持ちをわかろうとしたんだろうか?)

(自分にとってアスカがどんなに大事な存在なのかわかっていたはずなのに…その事をアスカに伝える

ことができなかった。僕はアスカに笑われたらどうしようなんて考えていたんだ…。)

(自分の気持ちをアスカに伝えることもしないで、アスカの気持ちを理解しようなんてできるわけないよね。)

(アスカが僕に辛く当るのは、僕がはっきりしない事がアスカを不安にさせているからなのかもしれない。)

ヒカリの一言がシンジの心の迷宮にしるべとなる一条の光を差し込ませてくれた。迷い、おどおどしていた

シンジの顔が何かを決意した男の表情に変わっていく。

(そう、まだ遅くないはずだ…。アスカに伝えてみよう、僕の気持ちを…。)

その時になってようやくシンジは自分が夕食の買い物をしないで商店街を通り抜けようとしている事に気がついた。(しまった!どうしよう、今からじゃ帰りが遅くなっちゃうし…。でも早くアスカに伝えたい…。)

迷うシンジの前にケーキ店の看板が目に入った。そこは以前アスカと夕食の買い物に来た時など

必ずアスカに引きずられて入らされたドイツ、オーストリアのお菓子を扱っているお店だった。

…「ねえ、シンジ!ここでおやつ買って行こうよ。」

…「またあ?アスカと買い物に来ると必ずここで、しかもたくさんのお菓子を買う事になるからなあ…。」

…「何よ!シンジ、あんたあたしと買い物に来るのが嫌だって言うの!」

…「そ…そんな事ないよ…。」

…「当たり前でしょ、この美少女アスカ様と一緒に買い物できるなんて、あんたくらいなものよ。光栄に

思いなさいよ。…という事でさっさと行くわよ!」

…「はいはい、わかったよ。でも夕食が食べられるくらいにしといてよ。ホント、アスカ太るよ…。」

…「むっきー!あんた一言多いのよ!頭っきた!あんたのお小遣いなくなるくらい買ってやるから!」

…「ちょっと、アスカ。アスカってば!待ってよ。」

……………

 

 

 

…「…本当にそんなたくさん買うんだもんな。」

…「あたしは、やると言ったらやる女なのよ。反省しなさい、ばかシンジ!」

…「はあ〜あ…。」

…「ほら、情けない顔しないの!ミサトにはあたしが説明してあげるから。ほら食べなさいよ。美味しいわよ」

…「…ホントだ、うん、美味しいよ。」

…「でしょ、あたしがシンジに不味いものなんて勧めるわけないじゃない。…機嫌直ったみたいね。

よかった!シンジ、怒っているかと思ったから。」

…「え?何で?」

…「…だって、あたしシンジにわがままばかり言っているから…。」

…「そんな、わがままだなんて思っていないよ。むしろアスカらしくて良いと思っているよ。」

…「ほんと?ホントにそう思ってくれているの?ありがとう!シンジ、優しい〜!!」

アスカとの他愛のない、けれど大切な記憶をシンジは思い出していた。あの時シンジの腕に飛びついてきた

アスカの柔らかい感触まで思い出す事ができた。

(あの時のアスカ、可愛かったな…。あんな風に一生アスカと一緒にいられたらいいなって、あの時

思ったんだよな…。)今のシンジにはアスカの仕草や声、表情の細部まで思い出せた。

(そういえば委員長、好きな人に嫌われる事を怯えているって言ってたけど…まさか…)

ヒカリの言葉が鮮やかにシンジの記憶から蘇る。期待する心と臆病な心がシンジの心を揺れ動かす。

(そんなことあるわけ…。でも、もしかしたら…。)

突然、笑ったり暗くなったりブツブツ言いながら店自慢のザッハトルテを買う少年の姿に周囲の人は

引いてしまっていたのだが、シンジはなんとか無事にアスカへのプレゼントを買う事に成功した。

店を出たシンジは空を振り仰ぎながら先程の決意をもう一度確認してみた。

(とにかくアスカと話してみよう、そしてぼくの気持ちをアスカに伝えてみよう。…もしかしたらアスカにバカに

されるだけかもしれないけど、それでアスカが少しでも元気になるなら、それでもいいや。)

アスカの為に買ったケーキを壊さないよう、けれどもできるだけ早足でシンジはアスカの待つマンションに

向かっていくのであった。

● 11

陽光が朱色味を帯びてきはじめた頃、シンジはマンションに着いた。

「ただいま。アスカ、起きてる?」靴を脱ぐのももどかしげにアスカの部屋に向かうシンジ。

薄く朱色に染まりはじめた陽光がシンジの顔を照らす。その顔が赤いのは陽光を浴びたせいだけではなかった。アスカの部屋の前に立ったシンジはひとつ深呼吸をすると部屋の中に声をかけた。

「アスカ、起きてる。アスカの好きなケーキ買ってきたよ。…それとアスカに聞いてほしい事があるんだ。」

生まれて初めての積極的な行動にドキドキしながらアスカの返事を待つ。

しかし、アスカの部屋はシンと静まったままなんの返事もなかった。

一度深呼吸をして、もう一度声をかけるシンジ。だが、それでも返事はなかった。

遂に精一杯の勇気でシンジはアスカの部屋の扉に手をかけた。乱舞する鼓動を抑え、扉を開ける。

「アスカ、寝てるの?」少しずつ扉が開かれ、アスカの部屋の中が視界に広がってゆく。

しかし部屋の中にはアスカの姿はどこにも無かった。キチンと畳まれた蒲団、整頓された机の上、

閉じられた洋服タンスの扉がシンジの不安を掻き立てた。

アスカの部屋を飛び出ると、キッチン、お風呂、ミサトの部屋、自分の部屋と片っ端から探し回る。

しかし何処にもアスカの姿はなかった。そしてダイニングルームに置かれた綺麗に洗われたお弁当箱を見た時、

シンジはアスカが家を出た事を確信した。

(アスカがこの家を出て行った?でも、どうして?)

シンジの頭は混乱し、パニック状態になりかけていた。しかしひとつの必死な思いがシンジに理性を

取り戻させた。(とにかくアスカを、アスカを探さなければ。)

混乱した思惟の中でその思いだけがはっきりとしていた。

シンジの頭の中に夕暮れの街をとぼとぼ歩いていくアスカの寂しげな後ろ姿が浮かぶ。追いかけても

追いかけても次第に小さくなってゆくアスカの姿がシンジを焦燥させる。

心配で千切れそうな心を必死に堪える。良くない想像が浮かんでは消え、また浮かんでは消えてゆく。

(落ち着け、落ち着くんだ。闇雲に探してもアスカを見つけることはできない。

1分でも1秒でも早くアスカを見つけるには…。)焦る思いを必死に押さえつけ考えをまとめようとする。

シンジは無限とも思えるジリジリとした焦燥の中でアスカとシンジにとって近しい人の顔を思い出した。

(そうだ。あの人なら…。)その人を思い出したシンジは電話に駆け寄ると手帳を取り出し、確認した番号を

急いで押した。何度かの呼び出し音の後、電話が繋がった。

「もしもし…。」聞きなれた声が受話器から響く。温かく心を落ち着かせてくれる声。

「あ、加持さん!」加持の声を聞いて思わず大きな声をだしてしまうシンジだった。

「どうしたんだ、シンジ君。何かあったのかい。」いつもと変わらない加持の落ち着いた声がシンジの

焦燥した気持ちを包み込んでくれる。自然にシンジの気持ちが落ち着いてくる。

シンジは手短にアスカが家を出た事を説明した。加持はアスカ捜索の手配をすると同時にすぐにマンションに

行くから、その場にいるようシンジに告げた。加持の声を聞いて少し安心したのかシンジはダイニングの

椅子に崩れるように腰を下ろした。そんなシンジの目の前には綺麗に洗われたお弁当箱があった。

(アスカ、全部食べてくれたんだ。よかった。)その点については安堵の息をもらすシンジだった。

その時シンジの視線がお弁当箱の下に置かれていた手紙を捉えた。

(これは…もしかして、アスカの…!)あわてて手紙を手に取る。お弁当箱がテーブルから落ちる音も

構わず、シンジはその手紙を開けると貪る様に読みはじめた。

長い手紙ではなかったがシンジはそこにアスカの心が込められている事に気づいて、何度も何度も読み返した。

かすかに震えた文字、そして涙の跡がシンジの心を貫いた。

(アスカ…ごめん。こんなつらい思いをさせていたなんて…。)

アスカのせつない気持ちを読むうちにシンジから鳴咽が漏れはじめていた。

誰もいない夕陽に照らされた部屋でシンジはアスカの哀しみを自分のものとして感じていた。

● 12

ミサトのマンションを後にしたアスカはどこへ行く当てもなく街をさ迷っていた。

第3新東京市一番の繁華街である新歌舞伎町は平日の午後だというのに人で溢れていた。

その人ごみに押されるようにふらふらとアスカは歩いていた。

(こんなに沢山の人がいるのに誰もあたしの事を気にしてくれない…。孤独ってこういうことなのかな…。)

フラフラと歩くアスカを人はまるで目に入らないかのように通りすぎてゆく。人の波の中でアスカはこづかれ

はじかれ、道端の店のショウウィンドウまで飛ばされてしまった。

ショウウィンドウにもたれかかったまま動かないアスカを人は振り向きもせずに通り過ぎてゆく。

(どうせ、あたしなんか…。)自嘲気味に笑うアスカ。

その時アスカの目にとまったのはショウウィンドウの中に飾られていた真紅のナイフだった。

銀色の刃先と真紅の柄がまるでアスカを誘うかの様にキラリと光った。

(綺麗…。まるで弐号機みたいな色ね)魅入られるかのようにナイフの前に立ち止まる。

(あたしの弐号機…もう二度と乗ることのない、あたしの宝物…。)

(永遠に失ってしまった…弐号機も、シンジも….)絶望に包まれるアスカの心をナイフが捕らえる。

(このナイフで手首を切れば綺麗に死ねるかな…)そんな考えがアスカの脳裏をよぎる。

(もう生きていたってね…)再び自嘲気味な笑いが浮かぶ。

(誰もあたしの事をみてくれない…。誰にも相手にされない…。でも、シンジさえ、シンジさえあたしを見て

いてくれれば、それでも良かった…。だけど、もうだめ…。こんな役立たずでわがままなあたしをシンジが

相手にしてくれるわけないもの…。)知らない内にアスカの瞳から涙が流れ始めていた。

まわりの人は楽しげにアスカの横を通り過ぎていく、まるでアスカなどそこにいないかのように…。

自分で自分を抱きしめ、孤独から逃れようとするが耐え切れず、ショウウィンドウに縋りつくかのように

しゃがみこんでしまう。そんなアスカを誘うように更にナイフが妖しく光を放つ。

(そうよね…、こんなに苦しい思いをして生きるくらいなら…。どうせあたしがいなくなっても誰も困ったり、

悲しんだりしないんだから…それなら、いっそ…。)絶望がアスカの思考を加速させていく。

ゆらりと立ち上がるアスカ。それは以前のような生気溢れる若々しい少女のイメージとはかけ離れた

幽鬼のような姿だった。目だけがギラギラと狂気を帯びて光っている。

そして、その視線はただショウウィンドウに飾られた真紅のナイフに注がれていた。

(ママ、もうあたし疲れたの…。ママの所に行ってもいいでしょう?)

アスカの問いに答えるように再びナイフがアスカに赤い光を放つ。アスカの瞳が妖しく赤に染まる。

アスカはナイフに誘われるように、ふらふらとその店の中に入っていった。

● 13

「さてと…これで手配は済んだ。たとえ第3新東京市から出たとしても30分もあれば見つかるはずだ。」

アスカ捜索の手配を済ませた加持がマンションについたのはシンジの電話を受けてからわずか10分後の

事だった。素早い加持の到着にシンジの顔に少し生気がもどっていた。

「ありがとうございます、加持さん。」それがまるで一晩中泣き明かしたかのように真っ赤になった目で

加持を迎えたシンジの最初の一言だった。アスカの失踪に強い衝撃を受けたであろうシンジに加持は

元気づけるようにその肩を叩くと何も言わずリビングルームに腰を下ろした。

加持はシンジから最近のアスカの様子等を詳しく聞き、シンジに2、3の質問をするとこうシンジに尋ねた。

「なあに心配することはない。アスカはすぐに見つかるよ。だがアスカを見つけた後君はどうするつもりだい、

シンジ君。」 責めるわけでもない、茶化すわけでもない自然な加持の口調にシンジはアスカの手紙を

読んでから加持がマンションに来るまでの間ずっと考えていた自分の決心を話してみようと思った。

「加持さん、今お話したように近頃のアスカは僕に反発ばかりしていました。そして僕にはどうしてアスカが僕に辛くあたるのかわからなかったんです。」できるだけ淡々と話そうとするシンジだったが、その時の事を思い出すだけで心が抉られるような痛みを感じていた。そんなシンジを加持は黙ってみていた。

 

「今日、学校でアスカの親友に言われたんです…アスカを見捨てないで、アスカを傷つきやすい普通の

女の子として見てあげてって…。」

加持はシンジの話をただ黙って聞いていた。そんな加持の心遣いがシンジにはありがたかった。

「彼女に言われて僕は初めて気がついたんです…アスカはとても不安だったんじゃないかって。」

それまで淡々と話そうと努力していたシンジの口調が次第に激しくなっていく。

「アスカはエヴァを動かせなくなった事で凄く落ち込んでいたから、それですべての事に自信をなくして

しまったんじゃないかと思うんです。自信をなくして、不安で仕方なくて、それで誰かに自分の事を認めて

欲しかったのだと思います。エヴァに乗れない自分でも今までと同じ惣流・アスカ・ラングレーとして認めてくれる

人をアスカは必要としていたんです。」膝の上に置かれたシンジの拳が震えていた。

加持に話しながらシンジは今自分がアスカの心の推移をはっきりと理解している事を感じていた。

それはシンジの心を更に傷つける事であったが…。

「そして、それができたのはアスカの一番近くにいた僕だったのに…僕は気づいてあげられなかった。

いえ、気づこうとしなかったのかもしれません。アスカがあんなにたくさんのSOSを出していたのに僕は…、

僕は自分が傷つく事を恐れてアスカに応えてあげなかった…。最低です、僕は。」

シンジの心の葛藤を表すかのように掌は血が流れそうな程強く握られていた。

「もしアスカに僕の気持ちを伝える事ができていたら、アスカを苦しめずにすんだのではないでしょうか…。

自惚れかもしれないけど、アスカも心のどこかでそれを期待していたんじゃないかと思うんです。

それなのに僕がはっきりしないからアスカを一層不安にさせてしまった。」

更に強く握られたシンジの拳から今のシンジの悲しみと憤りの強さを感じとることができた。

けれど、加持はシンジを慰めることも肯定することも否定することもしなかった。

ただ黙ってシンジの話を聞いていた。

加持はシンジが自分に話す事で自分の気持ちを整理、確認している事に気がついていた。

(ここはシンジ君に任せてみるか…。君もそう考えているんだろう、葛城?)

「加持さん、これアスカの置き手紙です。…僕は自分が情けないです。何でこんなになるまでアスカの

気持ちをわかってあげられなかったのかと思うと…。」加持は黙ってシンジから手紙を受け取った。

加持は手紙の中に込められたアスカの思いを読み取るとシンジに気づかれないよう息をついた。

(アスカ、さぞ辛かっただろう。だがなシンジ君も同じように辛い思いをしているぞ。

俺には君たちの手助けしかできない。後は君たち次第だぞ。)

加持は心の中でそう呟くと、初めてシンジに問い掛けた。

「…それでシンジ君、アスカに会えたら君はどうするつもりなんだ。」

「僕は…アスカに伝えたいんです…僕がアスカを誰よりも大切に思っているという事を…。」

シンジは加持の視線を真っ直ぐ見つめたまま話し続けた。

「もちろん僕なんかじゃアスカの心を癒すことはできないかもしれません。でもアスカがひとりで傷ついて

いく事を黙って見ていられないんです。…もし、アスカを必要としている人がいるという事実を伝える事で

アスカの心が少しでも救われるならば…僕はアスカに僕の気持ちを告白しようと思います。」

シンジの決意が固い事は加持には容易に察することができた。けれど敢えて加持はシンジに訊ねた。

「彼女を救おうとして自分の気持ちを伝える事で君が傷つく事になるかもしれないし、それが全くの徒労に

終わるかもしれない。それでもいいのかい、シンジ君。」

穏やかなけれども毅然とした加持の問いだったがシンジは間髪入れずに答えた。

「かまいません。ほんのわずかでもアスカの心を救う事ができる可能性があるならば…。

やっと、わかったんです…自分の心が傷つくよりもアスカが傷ついていくのを見る事の方が何十倍も、

何百倍も辛いんだっていう事が…。」シンジの言葉に頷きながら加持はもうひとつだけシンジに訊ねた。

「シンジ君、君が本気でアスカを救おうとしている事はよくわかった。だがその気持ちが同情や間違った

優しさだとしたら…。」そう言いかけた加持の言葉を打ち消すようにシンジが言う。

「何度も自分に問い掛けました…加持さん、僕はアスカが好きです…エヴァなんかは関係無い、

僕と一緒に暮していたそのままのアスカが好きなんです。きっと世界中の誰よりも…。」

少しの迷いも、躊躇もないシンジの答えに加持は静かに微笑んだ。

それは父親が息子の成長を喜ぶような慈愛に満ちた笑顔だった。

「いい答えだ。シンジ君、君はもう一人前の男だ。」加持の言葉に頬を染めるシンジ。

「だがシンジ君、今の台詞は言う相手が違うぞ。直接アスカに言ってやらなきゃな。」

絶妙のタイミングで繰り出された加持の軽口に思わず微笑みをみせるシンジだった。

その時、加持の携帯が鳴った。一瞬ふたりの間に緊張が走る。加持の指先が素早く動き懐の携帯をとる。

加持の一挙一動を見逃すまいとするかのようにシンジの視線が動く。

「ああ、加持だ。…そうか、ごくろうさん。助かったよ。」短い会話を交わした加持は携帯を耳にあてたまま

シンジに微笑んだ。加持のそんな仕草が吉報だったことをシンジに悟らせる。

「見つかったよ。」携帯をしまいながら加持がシンジに言う。

「本当ですか!」不安と後悔に押しつぶされそうだったシンジの顔にようやく笑顔が戻る。

そんなシンジの様子を満足そうに見つめながら加持はシンジの肩に手をかけるとそのまま話かけた。

「これからアスカのいる所の近くまで車で送らせる。だがそこから先はシンジ君、君一人で行くんだ。」

真剣な加持の視線を真っ向から受けとめるシンジ。

「アスカを救えるのは君しかいない。俺は君にすべてを任せる。アスカの事を頼んだぞ、俺にとっては実の

妹みたいなものだからな。」その時シンジの肩を掴む加持の手に少し力が入った事をシンジは感じた。

「俺から言うことはもう何もない。行くんだシンジ君。アスカもきっと君を待っている。」そう言うと加持は

シンジの肩に乗せていた手を離し、軽くシンジの肩をたたいた。

「あ…ありがとうございます、加持さん。」そう言って一礼するとシンジはアスカの所に駆け出していった。

そんなシンジの姿を満足そうに見送る加持だったが、シンジの姿が見えなくなると正面をむいたまま

背後の扉に向かって声をかけた。「もう出てきたらどうだ?葛城。」

すると加持の声に応えるようにクローゼットの扉が開いた。そこから左手にえびちゅを持ち、右手で

こめかみを掻きながらバツの悪そうな顔で現われたのは葛城ミサトだった。

「流石、諜報部。最初から気づいていたんでしょ、私がここにいる事。」わざと茶化して尋ねる。

「ああ、察するところアスカが出ていった時もそこにいたんだろ。いったいどういうつもりだ葛城。」

そんなミサトに加持は少しきつい言葉で訊ね返す。しかし本当に怒っているわけでない事はミサトも重々

承知していた。えびちゅを高く掲げ加持の目の前で揺らせながら答える。

「きっと加持君がさっき考えていた事と同じだと思うわ。アスカの事はシンジ君に任せる事にしたの。」

「それでアスカが出て行くのを黙って見ていたというのか?」加持の目が鋭く光る。

「そんな怖い顔しないで、ちゃんとアスカの事はフォローしてたんだからさ。」

「碇司令の名で諜報部にアスカに危険が及ばないようフォローするよう指示をだしたのは、やはり君か。」

「そういうこと!大変だったんだから、朝早くから今までここに隠れたままで、いろいろ手配するのは。」

えびちゅ片手に得意気に自慢するミサトに苦笑するしかない加持だった。

「ふ…それで葛城の目から見てどうなんだい、あの2人は?」苦笑を微笑みに変えて加持が尋ねる。

ミサトは小さくうつむいて顔を上げるとえびちゅの缶に語りかけるように話始めた。

「アスカはね、本当はとても臆病で、不器用な娘なの。本人達は気づいていないと思うけどよく似ているのよ

シンジ君とアスカって。傷つきやすい優しい心をもっていて、それでいて不器用で…ね。」

何かを思い出したのかクスッと笑う。ふたりの事を語るミサトの表情が母のように優しい事に気づいていた。

「ふたりともね他人と関わりを持つ事で傷つくことをとても恐れていた。だからシンジ君は無感動、無関心に

なる事で、アスカは常に誰よりも優位に立つ事で自分の心を守っていたのね。」

ふたりの事を語り続けるミサトを加持は静かに見守っていた。

「消極的で内罰的で人との関わりを避けるシンジ君、積極的で明るく元気で衆目の関心を集めるアスカ。表面上は正反対だったけど実はよく似ているふたり。エヴァのパイロットとして一緒に暮らすようになって、

少しずつ心を通わせるようになっていった。本当、じれったいくらいゆっくりとね。」

ミサトの手にしたえびちゅの缶に夕陽に成り始めた陽光が反射した。

「シンジ君もアスカも心の奥ではお互いがお互いに必要なひとだってことはわかっているの。」

「それがわかっているからこそアスカはシンジ君に辛くあたってしまうのね。エヴァで勝つ事が今までの

アスカの存在意義だったからエヴァに乗れなくなったことで自分のすべてが否定されてしまったと

思い込んでしまった。その時シンジ君に必要とされている自分も一緒に否定してしまったのね…。」

ミサトはそこで言葉を切ると一口えびちゅを飲んだ。

「自分がシンジ君に必要とされていない…今のアスカにとっては死の宣告に近いわね。」

その一言を口にした時、アスカの心とミサトの心が一瞬重なった事に加持は気づいていた。

「シンジ君にとってはアスカがエヴァのパイロットであろうがなかろうが関係ないのにね。

今のアスカにはそれがわからなくなっているの。エヴァに乗れない自分はシンジ君に相手にしてもらえる

資格がないって思っているんじゃないかしら。シンジ君の事が好きだから、尚更辛いんでしょうね。

…そんな不安な気持ちと以前と変わらないシンジ君の優しさが一層アスカを苦しめているの。」

ミサトはえびちゅをテーブルの上に置くと夕陽を浴びるかの様に髪をかき上げた。

「自分の気持ちに素直になれればいいんだけど、今のアスカにはできないでしょうね…。」

「今のままではアスカは精神に深刻な障害を起こしてしまいかねないし、最悪自ら命を絶つことも

考えられるわ。…でもね、そんな彼女を救ってあげる方法はひとつしかないの…。」

ミサトはそう言いながらゆっくりと加持の方を振り向いた。夕陽を背にしたミサトの全身が輝いている。

そのミサトの姿に加持は一瞬運命を告げる女神の姿を見ているような思いを感じていた。

そんな加持の思いに気づかないかのように淡々とミサトは言葉を続けた。

「今のアスカには自分が誰かに必要とされている、自分が愛されているって実感が必要なのよ…。

そして、それができるのはシンジ君しかいない。他の誰かでは本当にアスカの心を救う事はできないの。」

「葛城…。」加持はまるで神託を受けているような思いを感じていた。

「私は信じているわ、シンジ君とアスカを…。」そう言うとミサトはニコリと微笑んだ。

それとともに神々しい雰囲気は消え、そこには加持の良く知っているいつものミサトの姿があった。

そんなミサトの姿に加持はホッとしている自分が存在している事に気づいた。

(なるほど、女神様よりいつもの葛城がいいわけか…。)そんな自分の気持ちを隠すかの様にミサトに尋ねる。

「シンジ君は上手くアスカに自分の心を伝えられるかな?」

「大丈夫よ。シンジ君は誰かさんみたいに飾った台詞は言えないけれど…。」そこで言葉を切るとミサトは

チラリと加持を見て悪戯っぽく微笑んだ。「こういう時には言葉は多くはいらないわ。」

テーブルの上に置いたえびちゅの缶をもてあそびながらミサトは話を続けた。

「男の子はね…ただ黙って女の子を抱きしめてあげればいいの。」

「その時、言葉は必要ないの。ただその娘への思いのすべてを、その娘に注ぎ込むような気持ちで優しく

抱きしめてあげればいい。それで心は伝わるわ…その人がどんなにその娘を大切に思っているかね。」

開け放たれたバルコニーから入る風がゆったりとミサトの髪を巻き上げる。右手で髪を押さえながら

ミサトは加持の正面に立つと一直線に加持の瞳を見つめた。

加持を見つめるミサトの顔が29歳の今から20歳の加持と初めて出会った頃に戻っていく。

「あたしにも覚えがあるわ…世界中で自分一人だけが取り残されてしまったと思っていた時代…。

父を失い、言葉も感情も失い、ただ使徒への復讐への思いだけで生きていたあの頃…」

「そんな私にいろいろな事を教え、与えてくれた男性がいたわ…。」

ミサトの言葉を聞きながら加持はあの頃のふたりの事を思い返していた。

(あの頃の君は明るく、人生を謳歌しているようだったが、俺には生きている事が辛そうにみえた…。)

「その男性は私に世界はまだ捨てたものじゃない事を教えてくれた。私に生きていく事の喜びを教えて

くれた…。そして…私はその男性の強さと優しさに惹かれていった…。」

ミサトの右手が自分の心を確かめるかの様に左胸にそっとあてられる。

「付き合うようになってしばらくして、その人から生まれて初めて告白を受けたわ。普段と全然変わらない調子で

とてもロマンチックとは言えなかったけど…嬉しかった。私を必要としてくれる人がいたんだって…。」

話しながら次第にミサトの瞳が深いブルーに染まっていく。それは哀しみと悔恨の色。

「でも、その時私はその男性の気持ちに応える事ができなかった…。あの時、素直にその男性の胸に

飛込めていたら…。」感極まったように言葉につまるミサト。その唇からかすかな鳴咽がこぼれている。

ふたりの間に流れる沈黙。暮れかけた夕陽がふたりを包む。

やがて静かに加持が語りかけた。

「じゃあ、あの時俺の気持ちは君に伝わっていたんだな、葛城。」

「伝わっていたわ…。でも、あたし…あたし…、あなたに愛してもらえる自信がなかったの…。

父の面影とあなたとを重ねて見ていた事を自分で気づいていたの。だから 父の代わりに

私の事を認めてくれる人を探していただけなんじゃないかって思うと、不安になってそれで

あなたから逃げ出してしまった…。ごめんなさい、加持くん、ごめんなさい。あなたを傷つけてしまって…。」

ミサトの瞳から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちていく。その涙を加持はじっと見ていた。

加持は今までミサトの心の中にあった悔恨という氷が溶けるのを静かに待っていた。

やがてミサトは右手で涙を拭うともう一度加持の顔を正面から見つめ直した。今まで彼女の心の中に

存在していたわだかまりをすべて涙と一緒に流してしまったかのようにその瞳は澄み切っていた。

そんな彼女の瞳を加持は正面から見つめ返した。そして穏やかな口調でミサトに尋ねた。

「あの時の返事を聞かせてもらえるのかな。」

加持の言葉に再びミサトの瞳に涙が浮かぶ。そして…。

「返事は…これよっ!」言うや否やミサトは加持の胸に勢いよく飛込んだ。

ミサトの突然の行動にも加持は当然のようにしっかりとミサトを受けとめ、微動だにすらしなかった。

 

黄昏の光の中、ミサトのすべてをその全身で受けとめる加持。

ミサトはそんな加持の背中に両手を回し、胸に顔を埋め、その思いのすべてを伝えようとしていた。

あの時伝えられなかった互いの思いをふたりは今ひとつ残らず届けようとしていた。

やがて加持の胸に埋めていた顔を上げてミサトが笑顔で尋ねる。

「加持くん…、伝わった?あたしの気持ち。」少しはにかんだ少女のようなミサトに加持もまた笑顔で答えた。

「ああ、しっかり伝わったよ葛城、君の気持ち……ありがとう。」

ふたりの間の7年余りの空白が今、満たされていく。

トクン…トクン…お互いの鼓動が間近に感じられる。その音を聞くだけで幸せな気持ちになっていくふたりだった。自分が求めて止まなかった人が自分の腕の中で自分を思ってくれている喜びにミサトも加持も浸っていた。

加持の身体に染みついた煙草の臭いがミサトの鼻をくすぐる。

(加持君の匂い…久し振り…。こうしていると落ち着く…。)加持の胸に顔を埋めたままミサトは猫のように

顔をすりつけた。(リツコじゃないけど、ニャアニャアって気分ね…。)

その時上からの視線を感じたミサトは埋めていた顔をガバッとあげた。ミサトの仕草を愛しそうに見つめて

いる加持と視線がぶつかってしまう。ビックリして言葉が出ないミサトに加持は優しく微笑む。

ボッという音が聞こえるようにミサトの顔が真っ赤に染まる。

(全く…女の心をすべて見通しているかのようなこいつの態度…かわいくないのよね…。)

そんな思いからつい憎まれ口を叩いてしまうミサトだった。

「いい、今まで何人かの男に私を抱きしめさせてあげたけど、こんな長い時間私を抱きしめていたのは

あんたが初めてなんですからね、感謝しなさいよ!」まるでアスカのような物言いである。

「それは、光栄だな。」そんなミサトを加持は優しく受けとめる。

その時、加持を抱きしめるミサトの腕により一層力がこもる。

「葛城…?」意外なミサトの行動にめずらしく加持の声が上ずる。

「黙って…。お願い、もう少しこのままでいさせて…。」ミサトは加持のぬくもりを逃がさないかのように強く

彼の身体を抱きしめた。「加持くん、ありがとう…。」ミサトの唇が小さくその言葉をつぶやいた。

そんなミサトの髪に手をあてると加持は黙って優しくなで上げた。

初めて恋を知った少女のように初々しいミサトの横顔を穏やかな風がなでていた。

「素直な葛城もいいもんだな。」ごく自然な口調で加持がつぶやく。

「ばか……。」真っ赤になった顔を隠すかのように再び加持の胸に顔を埋めるミサトだった。

「ねえ…加持くん、シンジ君とアスカ大丈夫よね?」先程の加持の質問を繰り返す。

「ああ、大丈夫さ…俺達のようにきっと上手くいくよ。」加持の言葉にコクンと頷くミサトだった。

● 14

あてもなく新歌舞伎町をさまよっていたアスカはいつしか第3新東京市を一望する公園に来ていた。

公園には人影はなく、アスカを乗せてきたバスが去ってしまうと辺りに人の気配は無くなってしまった。

アスカはふらふらと公園の中を歩くと展望のよいベンチの前に立った。

目の前には陽光を反射し煌く銀のビル群が広がっていた。

(あたしの街…あたしと、シンジとファーストで守った街。あたしの大好きな人たちが住んでいる街。)

夕陽に染まる街を見ながら、アスカはこの街に来てから経験した様々な事を思い返していた。

(楽しかった…生まれて来て良かった、はじめてそう思えた…。)

夕陽がアスカの頬を流れる涙を朱色に染めていた。アスカは涙を拭う事もせず街を見ていた。

(ヒカリがいて、ミサトがいて、リツコ、マヤ、加持さんに…そしてシンジ、シンジがいた…。)

(大好きだった街、大好きだった…ううん、今でも大好きな…シンジ。)

(せめてこの街を見ながら綺麗に死にたいな…。あたしが死んだら、シンジ悲しんでくれるかな?)

そんな事を思いながらアスカはベンチに腰を下ろすとカバンの中から赤いナイフを取り出した。

夕陽に照らされたナイフは更に深い赤になっていた。それはアスカに真紅の鮮血を連想させるものだった。

そして意外にある重量感がこのナイフが命を絶つ道具である事をアスカに実感させた。

ためらいながら両手でナイフを掴み、顔の高さまであげてみる。

刀身に映るアスカの顔は歪み、赤く染まっていた。

(どうすれば一番綺麗に死ねるかな?)ナイフを見ながらアスカは自分が死んだ後の事を考えていた。

幼い頃目にした母の亡骸が一瞬アスカの脳裏に甦る。天井から吊り下がりゆらりと揺れていた母の身体。

それはアスカにとって生涯忘れられない光景だった。

(そう…例え死体だとしてもシンジに汚いって思われるのは嫌。まるで生きているみたいだって言われるのが

理想よね。シンジにだけは汚いあたしを見せたくない。)

バラの花のような真っ赤な血だまりの中にまるで眠っているかの様に横たわる自分の姿をアスカは

想像していた。その死に顔はとても穏やかで、微笑みさえ浮かべているようにみえた。

(…きっとシンジの事だから私の為に泣いてくれるわよね。)

アスカの脳裏に今までのシンジとの思い出が浮かんでいく。自分のどんなわがままにもやれやれといった

感じで応えてくれたシンジの笑顔がアスカの心の琴線を震わせる。

(シンジ、シンジ…あたしシンジの大切な人になりたかった…。)心が切り裂かれいるかのように痛む。

深い哀しみのあまりナイフを手にしたまま地面に座り込んでしまうアスカ。

誰もいない公園にアスカの鳴咽だけが響いていった。

その時だった。「アスカ!!」彼女の名を呼ぶ声が公園に轟いた。

それは間違いようがない、アスカが一番聞きたかったひとの声。

うつむいていた顔をあげたアスカの視界にシンジの姿が飛込んでくる。遠く離れたアスカからもわかる程

肩が激しく上下している。必死になってアスカを探していた事が一目でわかる姿だった。

「シンジ!!」思わずアスカの唇からシンジを呼ぶ声がもれる。素直な澄んだ声だった。

そんなアスカの切なる思いがこもった一言をシンジは聞き逃さなかった。

声の聞こえた方向を振り向くシンジ。その視線がシンジを見つめるアスカの視線とぶつかる。

アスカの姿を認めた瞬間、シンジの顔に喜びと安堵の表情が浮かぶ。そんなシンジの様子にアスカも

また深いやすらぎと安堵を感じていた。(シンジ…あたしを探しに来てくれたんだ…。シンジ…。)

駆け寄ってくるシンジを受け入れる為両手を広げるアスカ。このままシンジの腕の中に抱かれてしまえば…

だが、アスカのプライドはそれを許さなかった。

(だめよ!シンジは同情からあたしを探しに来てくれたのかもしれない…。シンジの優しさに甘えちゃいけない。

何の為に家を出たの、アスカ!シンジに本当に幸せになってもらうには、あたしは邪魔なのよ…。

でも、あたしシンジのいない所で生きていく自信がないの…、だからこうするしかないのよ…。)

そう決断するとアスカは駆け寄ってくるシンジに見えるようにナイフを高く掲げ、叫んだ。

「それ以上近づかないで!」厳しく、そして哀しいアスカの声と夕陽を反射するナイフに気づいた

シンジの足が停まる。あとわずか2、3歩の距離で見つめあうふたり。

信じられないという表情のシンジに笑顔をつくろうとするアスカ。だが、その努力はぎくしゃくとした笑顔らしいものを作るのが精一杯だった。シンジを見ているだけで涙がこぼれそうになってしまう。

「どうして…。アスカ、そのナイフを捨てるんだ。そして一緒に帰ろう。」アスカを説得しようとするシンジ。

そんなシンジの優しさに胸が締め付けられるような嬉しさを感じながらアスカは自分の思いを話し始めた。

「もう、いいの…。あたしなんか生きていたって…仕方ないの。」

「そんな事あるもんか。」アスカの哀しい言葉に声を荒げるシンジ。

「もうあたしエヴァに乗れないのよ!パイロット不適確の烙印を押されてしまったのよ!」

「それが何だって言うんだ!エヴァに乗らなくてもアスカはアスカじゃないか!」

「エヴァに乗れないあたしは何の価値もないの…。ただの役立たず、誰からも振り向いてもらえない

人間なのよ…。シンジに優しくしてもらう資格がないの…。」

「そんな…何でそんな哀しい事を言うんだよ。僕はそんなつもりでアスカと…。」

「わかってる。シンジが打算とかで優しくしてるのじゃない事は。シンジの優しい所、あたし好きだよ。

でも、あたしはシンジに同情で優しくされたくないの…。シンジの邪魔になりたくないのよ…。」

思いつめているアスカの心を開くため、シンジは決意した自分の思いをアスカに告げようとした。

「アスカ聞いてほしい!僕はアスカの事が…。」

「やめて,シンジ!」アスカの強い拒絶に言葉を飲み込んでしまうシンジ。

アスカは言葉の出ないシンジに寂しげに微笑むと諭すかのように言った。

「いいのよ、無理しなくて。あたしを思いとどまらせる為に自分の気持ちを偽らなくていいのよ。」

「同情なんかでシンジの気持ちを無理矢理縛りたくないの…そんな嫌な女になりたくないの…。」

「そんな…アスカ、僕は!」シンジは上手く言葉がでない自分をもどかしく思っていた。だが、焦れば

焦るほど気持ちが言葉になってくれない。そんなシンジにアスカは優しく語り続ける。

「ありがとう、シンジ。ホント優しいねシンジは。…でもその優しさが苦しい時もあるのよ。」

そこで言葉を切ってシンジに微笑みかけるアスカ。透けるような儚い笑顔。

「だからこれからは本当にシンジが好きになった女性にだけ優しくしてあげてね。」

「アスカ…。」ただならないアスカの様子に不安を感じながらも言葉の出ないシンジ。

「さよなら、シンジ。最後にシンジに会えて嬉しかったよ。」満面に笑みを浮かべるアスカ。

そしてアスカは手に持っていたナイフを両手で握り直すとそのまま左胸に向けて振り下ろした。

振り下ろされるナイフに考えるよりも早くシンジは動いていた。2、3歩の距離をシンジは一気に跳躍した。

「アスカ、やめろー!!」アスカを思うシンジの心がシンジの身体を突き動かす。

心臓が早鐘のように激しく連打される。まるでスローモーションのように流れる世界。

恐怖も迷いも今のシンジにはなかった…そこには、ただアスカへの思いだけがあった。

ナイフがアスカの左胸を突こうとした瞬間、シンジの身体がその間に分け入った。

シンジの左腕がアスカの手からナイフを弾き飛ばす。

弾き飛ばされた拍子に回転したナイフがシンジの左腕をかすめ遠くに落ちる。

勢い余って頭から地面に倒れるシンジ。土煙がシンジを包む。

朱色の夕陽の中を赤い鮮血が周囲に飛び散り、声にならないアスカの悲鳴が赤い世界に溶けていく。

赤い沈黙の世界の中での一瞬の出来事だった。

シンジにナイフを弾かれた勢いでアスカはバランスを崩しペタンとしりもちをついてしまっていた。

一方シンジはアスカより2m程離れた場所にうつぶせに倒れていた。

シンジの左腕から血が滲み、ワイシャツを赤く染めていた。

「シンジ――――!」倒れたまま動かないシンジの姿に再びアスカの悲鳴が響く。

立ち上がりシンジの所に駆け寄ろうとするアスカ。その瞳からは止めど無く涙が溢れている。

(どうして…どうしてこんな事に?あたしシンジを傷つけるつもりなんてなかったのに…。)

心を切り刻まれるような深い悔恨と哀しみがアスカの心を走る。心の痛みはアスカの身体をも縛り

アスカはその場から立ち上がる事さえできなくなっていた。

右手を伸ばし少しでもシンジに近づこうとするが、それすら叶わないことだった。

(まさか…シンジ、死んじゃったんじゃ……。)微動だにしないシンジの姿にアスカの不安が膨れ上がる。

自分が先程まで望んでいた死、残された者にとってそれがこんなにも哀しくこんなにも苦しいものだったと

いう事をアスカは痛切に感じていた。自分が死んだらきっとシンジもこんな思いを…。

(シンジ…シンジ、お願い生きていて!死んじゃやだようっ!)

その時、痛みを堪えるような声と共に倒れていたシンジの上体が起き上がった。

「シンジ!」アスカの心に湧き上がる喜びが言葉になって弾ける。

「シンジ、大丈夫?」急いで駆け寄ろうとするアスカをシンジは右手で制した。

シンジの無言の制止にはっとなるアスカ。そしてシンジの迫力にそのまま、その場に立ちすくんでしまう。

「大丈夫だよ、アスカ。」苦痛に耐えるシンジの静かな声がアスカの緊張を解く。

「アスカに聞いてほしい事があるんだ。アスカの顔を間近で見ると上手く話せなくなっちゃうから、

そのままで聞いてほしいんだ。」そう言うとシンジは立ち上がりアスカを正面から見つめた。

「シンジ…」アスカはシンジの熱く真剣な眼差しに、その場でコクリと肯いた。

「…僕は、卑怯で弱虫で、臆病でずるくて男らしくなくて、アスカには相応しい男じゃないかもしれないけれど、

でも…でも、僕はいつもアスカの側に居て、アスカを守ってあげたい…。」

「そんなこと、アスカには迷惑かもしれないね、けれど僕はそうしたいんだ…。」

「それは…」言葉を切ってアスカの瞳をじっと見つめるシンジ。アスカもまたシンジを見つめ返す。

「それは?」一呼吸おいてアスカはシンジの言葉を繰り返した。

「アスカは僕にとって…かけがえのない唯一人の大切な女性だから。」そう言うとシンジはアスカに微笑んだ。

「大好きだよ、アスカ。」

夕陽が正面からシンジを照らしている。

朱色に染められたシンジの顔、夕陽のせいだけではなく赤く染まっている。

いつもならアスカが見つめるとうつむいて視線を逸らしてしまうシンジが今日は真っ直ぐにアスカの瞳を

見つめ返していた。その瞳からはアスカの傷ついた心を包み込むような優しさとアスカのすべてを

受けとめようとする強い決意が感じられた。

アスカの胸にずっとこらえていたシンジへの思いがこみ上げて来る。

「シンジ、あたし…。」自分の気持ちを言葉にしようとするアスカにシンジは首を軽く横に振って制する。

そしてアスカに向かって両手を大きく広げるとひとことだけ言った。

「アスカ、おいで。」優しく、そして力強いシンジの声がアスカに届く。

それはすでに気弱な少年ではなく、アスカのすべてを受けとめようとする一人の男の姿だった。

今までアスカが求めてやまなかったアスカの心の居場所がそこにあった。

 

 

気がついた時には、アスカはシンジの腕の中に飛び込んでいた。

その僅かな時間にアスカの心を縛っていた様々な鎖が解かれていく。シンジに近づくごとに鎖が解け、

心が軽くなり加速していく。そして、その勢いのままにアスカはシンジの腕の中に飛込んだ。

「シンジ!」

「アスカ!」

しっかりとアスカを受けとめるシンジ。アスカの柔らかい身体が確かな質感をもって感じられる。

(アスカ、アスカ、アスカ!やっと君を抱きしめることができた。もう離さないからね。)

そんなシンジの思いはまたアスカの思いでもあった。

(シンジ、シンジ!嬉しい!シンジに抱きしめてもらえるなんて!大切な女性って言ってもらえるなんて!)

素直になれず、迷い傷つきながらそれでも求め合っていたふたつの純粋な若い魂は今、ようやくひとつに

なることができた。重なり合ったふたりのシルエットはそのまま夕陽の中で踊り続けていた。

そんなふたりを夕陽を映した第3新東京市の銀色の高層ビル群がスポットライトの様に照らしていた。

● 15

ジオ・フロント ネルフ司令室内。

薄暗い闇の中、赤や緑や黄色の光りが錯綜する部屋でシンジとアスカの抱擁をモニター越しにじっと

見つめる二人の男の姿があった。

「どうやら立ち直ったようだな、セカンドチルドレンは。」初老の男が立ったまま話かける。

「ああ…。」もう一人の男が椅子に座ったまま答える。

その声にはなんの感情も込められていないように聞こえる。

「たいしたものじゃないかシンジ君は…、」初老の男、ネルフ副司令 冬月コウゾウが感慨深げにつぶやく。

「計画には無いことだが…問題無い。」ネルフ司令 碇ゲンドウの口調に変化はみられない、が…

「まったくお前というやつは…碇、左足がリズムを刻んでいるぞ。」

冬月の指摘にハッとなるゲンドウ。確かにゲンドウの左足が軽快なリズムを刻んでいる。

「昔からそうだな、何かいい事があると左足に現われるお前のその癖は。」

冬月の言葉に沈黙で返そうとするゲンドウだったが、おかまいなしに冬月はしゃべり続ける。

「まったく素直じゃないな。嬉しければ嬉しいと言えば良いものを…まあ、おまえも人の親だったと

いうことか、正直言って安心したよ、碇。」

冬月の言葉に憮然としたままモニターを見つめ続けるゲンドウだったが不意に背後からかかる声に

ピクリと眉を動かした。そこにはいつの間に来たのか加持リョウジの姿があった。

「自分の子供の成長を喜ばない親などいませんよ、副司令。」

「おお、加持君か…」後ろを振り向きもしないゲンドウに代わり呼びかける冬月。

「今回の事では君には苦労をかけたな。結果的には葛城3佐も欺いた事になってしまい大変だったろう?」

冬月のねぎらいの言葉を片手で制すと加持は答えた。

「私は何もしてませんよ。すべてはシンジ君とアスカの強い心のつながりによって為し得た事です。

私や葛城3佐のした事などほんの手助けにしかすぎません。」

淡々とした加持の言葉にうなずく冬月だったが、その時ゲンドウが不意に口を開いた。

「ご苦労だった加持3佐、これでセカンドチルドレンも補完計画に投入できる目途がついた。」

「それだけですか,碇指令?」おいおいと言った表情で加持がゲンドウに言葉を返す。

「ほめてやったらどうですか、シンジ君は我々に新たな可能性を示してくれたのですから…。

ひとによるひとのこころの補完という可能性をね…」

モニター画面の夕陽の中抱き合ったままの若い恋人達の姿を見ながら加持は素直な感想をのべた。

「ひとは神にならなくても、ひととしてお互いのこころを補完できる…そうは思いませんか、碇司令?」

加持はモニターを見つめ続けるゲンドウの背中に命題を投げかけた。

加持が掴んでいる人類補完計画はシンジとアスカが示したようなひとのこころとこころの触れ合いを

ある意味無くしてしまう事であり、ゲンドウがシンジとアスカの姿を見て考え方を変えるか知りたかった。

「詭弁だな…ヒトはもっと愚かな存在だ。」

「…だからこそ、人類補完計画が必要なのだ。」ゲンドウの言葉にはわずかの迷いもなかった。

「それがお前の答えか…やれやれ相変わらず強情なことだな。」あきらめたような冬月の声。

「なるほど、指令のお考えはよくわかりました。」踵を返して加持が司令室を後にしようとした時、

背後からゲンドウの静かなそして錐のように鋭い敵意に満ちた質問が飛んだ。

「加持、貴様はいつまで我々の味方でいるつもりだ?」

先程と打って変わって加持を見つめるゲンドウと冬月の視線は氷のように冷たかった。

「碇司令、ひとつ言っておきましょう。私は誰の敵でも味方でもなかった、けれどこれからはシンジ君とアスカの

味方でいるつもりです。もしあなたが2人を傷つけようとするなら、あなたは私の敵ということです。」

「なるほど、覚えておくことにしよう。」組んだ手の合間からゲンドウの目が怪しく光った。

司令室の扉を出た加持はその場にいない葛城ミサトに話かけるようにつぶやいた。

「おまえを抱けないような世界にするわけにはいかないよな、葛城。

やっと心を通じ合える事ができるようになったんだからな、シンジ君達も俺達も…。」

ジオフロントに出た加持はポケットから煙草を取り出し火をつけた。風に乗り流れる煙の先を目で追う。

加持が振り仰いだその先には黒いピラミッドが不気味にそびえていた。

● 16

夕暮れ。第3新東京市を一望できる公園から駅へむかう坂道。

アスカを背負い家路につくシンジ。傷ついた腕にはアスカのものだろうか、白いハンカチが結ばれている。

傷の痛みなど感じていないような力強さを感じさせるシンジに対し、どこか不安そうなアスカの姿。

そんな二人を夕陽が包んでいる。やがて躊躇いがちにアスカが口を開く。

「ねえ、シンジ。腕痛くない?」

「痛くないよ。」

しばらくして、またアスカが尋ねる

「ねえ、シンジ。あたし重たくない…?」

「重たくないよ。」

「ねえ、シンジ。」

「なんだい、アスカ。」

「…本当にシンジはあたしを必要としてくれるの?こんなわがままで自分勝手なあたしを…。」

それは、まだアスカの心の中に残っている不安。

優しいシンジの心を自分が無理矢理縛っているのではないかというおびえ。

 

そんな自分の迷いを吹き消すようなはっきりとした答えをシンジに言ってほしかった。

以前のシンジなら期待する事もできなかった事、だけど今なら…。そう、今のふたりなら…。

そしてアスカを背負ったままシンジが首を傾け微笑みながら問いに答える。

「あたりまえじゃないか。アスカがいない世界なんてもう考えられないよ。…そう、アスカがいてくれるから

僕は生きていけるんだ。僕には誰でもないアスカが必要なんだ、いいかな?」

寸分の迷いもないシンジの言葉にアスカの不安が消えていく。

そして不安の代わりに押さえ切れない喜びがアスカの心に満ち溢れていく。

「本当?」弾むようなアスカの声。

「本当だよ、アスカ。」落ち着いた、それでいて優しいシンジの声が重なる。

「…シンジ…ありがとう…。」 それ以上は言葉にならず、アスカはシンジを背中から思い切り抱きしめた。

(言葉であらわしきれない今のあたしのこころがシンジの背中を通して伝わればいいのにね。)

そう思うアスカの瞳からは温かい涙が次から次ぎへと溢れていた。

けれどそれは今までの涙とは違いとても心地よいものに感じられた。

(涙を流すのは嫌いだったけど、なんでこの涙は気持ちいいんだろう。不思議だね、シンジ。)

夕陽の色に染まる涙のしずく。確かめる様に更に強くシンジを抱きしめるアスカだった。

アスカがシンジを背中から抱きしめたまましばらくして…

「ア…アスカ〜、あの…そのさ…。」真っ赤な顔をしたシンジが背中のアスカを振り向く。

「ん?なあに、シ〜ンジ?」満面の笑みでシンジに応えるアスカ。

「あ…あのさ、ぼ…僕は嬉しいんだけど…さっきからアスカの…む…胸がさ…。」 耳まで真っ赤なシンジ。

「胸が…どうしたの?」そう言いながら更にシンジの背中に胸を押しつける確信犯のアスカ。

「おおっ!」強すぎる刺激に反応してしまう。クスクスというアスカの笑い声が耳元に響く。

鼓動が跳ね上がるシンジの状態を知ってか知らずか更に悪戯を仕掛けるアスカ。

唇をシンジの耳元に寄せると吐息を吹きかけながら囁く。

「シンジ…」「どう?あたしの胸?」「大きいかな?」「柔らかい?」

催眠術のようなアスカの攻撃にKO寸前のシンジ。

「そのうちシンジにだけ見せてあげるね、あたしの胸。」と更にシンジに押しつける。

「ア…アスカあ…。」 熱が出たかのように赤い顔のシンジ。もはや立っているのがやっとという状況だ。

「いいの、シンジになら…。シンジになら、あたしのこころも身体も見せていいの!」

そう言って自分も真っ赤になるアスカだった。

穏やかな風がそんなふたりを優しく包んでいった。

夕暮れの坂道をアスカを背負いながらしっかりと歩いていくシンジ。

シンジの背中に身を委ね、シンジに甘えるように話かけるアスカ。

自分にはシンジが必要であり、シンジもまた自分を必要としてくれている。

その思いがすさんでいた自分のこころを優しく癒してくれているのがわかる。

シンジによるアスカのこころの補完。

アスカによるシンジのこころの補完。

ひとによるひとのこころの補完。

それこそがシンジとアスカが示したひとつの、そして大きな可能性だった。 FIN.


マナ:なるさん、感動物のご投稿ありがとうございましたぁ。

アスカ:あぁ、いい話よねぇ。

マナ:やっぱり、人の心を癒すのは、人の心なのね。

アスカ:アタシって健気ねぇ。

マナ:思いやりの心が、どんなに綺麗なものかって、伝わってくるわね。

アスカ:なんて、アタシっていい娘なのかしらっ。

マナ:ちょっとっ! 人が、感動してるのにっ! 話聞いてるのっ!?

アスカ:だってっ! ほら見て見てっ! アタシってこんなに健気よっ!

マナ:素直じゃないだけじゃないっ!

アスカ:シンジの為を想ってのことでしょっ! わっかんないかなぁ、アタシのこのいたいけな心が。(ニコニコ)

マナ:あぁ、おもいっきりのLAS作品が来たから、かなり舞い上がってるわ。(ーー)

アスカ:やっぱり、これこそがエヴァSSよねっ!

マナ:今度は、マナxシンジを書いて下さいねぇっ!

アスカ:そんなの、即却下よっ!(ーー)
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