「決意」
平成12年10月30日初稿/平成12年12月01日改訂
第1章  白い部屋
ピッ、ピッ、ピッ。
そこには規則正しい電子音だけが響き、消毒液と薬品の臭いで満ちていた。
白い壁、白い天井、白いシーツ。清潔そのもの、だが生気の感じられない部屋。
窓ひとつない監獄のような白い部屋のベッドにひとりの少女が横たえられていた。
白いシーツの上に力なく伸ばされた手足は余りにも白く、ぬくもりすら感じられなかった。
瞼こそ開かれていたが、精気のない青い瞳には何も映っておらず、
その色褪せた唇が開かれる事もなかった。
かすかに聞こえる息遣いと、わずかに上下する胸が辛うじて少女の生命を感じさせた。
彼女の名は、惣流・アスカ・ラングレー。元エヴァンゲリオン弐号機パイロット。
使徒と戦う為にひとりドイツから来日した勝気で聡明な、わずか14歳の少女。
この戦いこそが自分の能力を世界に知らしめる為のものだと彼女は確信していた。
過激なまでの自己顕示。それは彼女の弱さの裏返し。
常に自分の能力の高さを示す事。それは、そうしなければ誰も自分の事を
気にかけてくれなくなってしまうという恐れから自分に課した掟。
本来は無条件に与えられるはずの両親からの温かい愛情を全く知らず、
ずっと独りで生きてきた少女を縛る哀しい枷だった。
少女は他人に気づかれないように血を吐くような努力を積み重ねてきた。
天才少女として他の人々から認められる為に…。
そんな常にギリギリの所に自分を追いつめていた少女が初めて出会ったやすらぎ、
それは碇 シンジという同い年の少年との同居生活。
少年もまた少女と同じように両親の愛情を知らずに生きてきた。
彼は自分の心を守る為、すべてをあきらめようとしてきた。
期待をするから裏切られ、心が傷つく。それならば初めから期待しなければ良い…。
少年はそう考え、生きてきた。けれど、そんな少年の姿は少女には我慢できなかった。
それは近すぎる故の反発だったのかもしれない。当然の様に生じる衝突。
だがその中で、少女はいつしか少年の前では素直な自分でいられるようになっていた。
一方で少年も華やかな少女のイメージに惑わされる事なく、心の奥に隠した寂しさ、弱さ、
そして優しさを感じ取れるようになっていった。
少年と一緒にいる事…少女はそれがいつまでも続くと思うようになっていた。
少女の笑顔を守りたい…いつしか少年はそう思うようになっていた。
一緒に生活しながら次第に深くこころを触れ合わせていく。
同じ寂しさ、悲しみを知っているふたりは誰よりも理解し合える可能性を持っていた。
けれども少女の高いプライドと硝子の様な脆い心は少年に救いを求める事を良しとしなかった。
そして、そんな少女の複雑な思いのすべてを包み込むには少年はまだ幼すぎた。
すれ違うふたりの思い。素直にこころを通じ合えないまま使徒との戦いは苛烈さを増していく。
度重なる敗北に焦燥する少女。少年の成長が更に少女を追いつめる。
少女を守れるようになろうとする少年とそれを素直に受け入れられない少女。
そんな彼女に止めをさしたのは、使徒による心の凌辱だった。
戦いの最中、無理矢理抉じ開けられ、踏みにじられた彼女の心。
幼い頃の傷痕、虚勢を張っていた心の奥底をすべて晒される事は
14歳の少女にとって死よりも辛く酷い事であった。
少年の前で心を凌辱される羞恥と哀しみに彼女は耐えられなかった。
そして彼女は心を閉ざしてしまった。少年に助けを求める事なく…。
外界とのつながりをすべて断ち切ってしまった少女であったが、その心の中は
少年の事を思い、現在も千々に乱れたままであった。
(シンジ…今日も来てくれないな…。)
空ろな瞳で天井を見上げながらアスカはまたシンジの事を考えていた。
入院させられて既に1週間が過ぎていた。
既にミサトやリツコは日に数回、加持も激務をぬって幾度か顔を出していた。
けれどもシンジはまだ一度もアスカを尋ねてきてくれなかった。
(当たり前よね…あたし、あいつに酷い事ばかりして来たんだもん。
今更来てくれっていう方が無理な話よね…。)
心の中で自嘲気味に笑うアスカ。そうやって自分を納得させようとする、しかし…。
(でも、来てほしい。あたしの側にいてほしい…。アスカって呼んでほしい…。)
抑えようとしても抑え切れない思いが湧き上がってくる。
それは今のアスカの心の中の偽ることのない真実の思いだった。
その思いの強さゆえ、ついシンジがこの部屋に来てくれた時を空想してしまう。
(シンジが来たら、最初に何て言おう?元気!じゃ変よね…、あたし病人なのに。
でも来てくれて嬉しいわ、なんて言えるわけないし…。)
あれこれ心の中で思いをめぐらせるアスカだった。心の中で笑みが浮かべる、が…。
(だめね…。)ふっと、ひとつ哀しげな溜息をつく。
(わざわざ心を傷つけられる事がわかっていてシンジが来てくれるわけないよね…。)
空想の中ですらシンジに素直な自分の思いを伝えられないアスカだった。
(一緒にいてもあいつに優しくしてあげられないなら…、あいつを傷つけてしまうだけなら…。)
アスカの瞳が深い青に染まる。心の中にふっと浮かぶ哀しい選択。
(あたしは、あいつの側にいない方が良いのかもしれない…。)
シンジの前から消える事…それは今のアスカにとって生きる事を放棄する事であった。
それほど深くアスカは傷ついていた。もはや自分だけでは癒しきれない心の傷。
差し伸べられる救いの手も望めない今、彼女に選択肢は無かった。
(誰も傷つける事もない、誰にも傷つけられることもない、何もない世界。)
(そう環る…あたしは無に還るの…。人を傷つけることない無に…。)
意識のないはずのアスカの瞳から一筋の涙が零れていった。
それはアスカのこころが流した涙だったのかもしれない。
アスカの哀しみなど知る由もなく機械だけが正確に作動していた。
無機質な音に埋没してゆくアスカのこころ。もはや望むものは緩やかな死だけだった。
その時、病室の扉が開いた。

第2章.乱れるこころ
病室の扉が開いた事をアスカは意識の隅で知覚していた。
入院当初は扉が開く度にシンジの姿がある事を期待したのだが、その期待は
いつも裏切られていた。そして、いつしかアスカは期待する事を止めてしまった。
(また検診…?やめてほしいな。もう、そっとしておいてほしいのに…。)
いつものお決まりの検診の煩わしさを想像し、更に沈んだ気分になってしまう。
そんなアスカの耳に懐かしい声が届く。
「アスカ、入るよ。」同時にコツコツという足音が部屋の中に響く。
(シンジなの!?)突然のシンジの来室にアスカの心がざわめき立つ。
アスカの枕元には彼女が来てくれる事を願ってやまなかった碇シンジの姿があった。
かすかな違和感を覚えながらもアスカはそれが夢でも幻でもないと確信した。
少しやつれた様だったが、穏やかな黒い瞳は変わらぬ優しさをたたえていた
緊張しているのか、微かに開かれた唇からは早めの呼吸の音が聞こえる。
そして身体をしっかりと包む青と白のプラグスーツ。
(プラグスーツ…?)先程アスカが感じた違和感はそれだった。
病人のお見舞いに戦闘服で来てくるほどシンジは無神経ではないはずだと
アスカは思っていた。それなのに、どうして…?
(何故、どうしてあんたプラグスーツなんか着ているの?)
プラグスーツ、それはエヴァのパイロットの象徴であり、エヴァを起動できなくなった
アスカにとっては心を抉るような痛みを呼び起こすものでしかなかった。
(やっぱりあたしの事、許してくれないのね…シンジ。)
…こころが痛かった。
再び溢れそうになる哀しい涙を必死の思いでこらえようとする。
だがそんなアスカの思いに気がつくわけもなくシンジが近づいてくる。
(いけない!シンジに泣いた顔を見られちゃう!)
慌てて顔を隠そうとするが、心と遊離した身体が動くはずもなかった。
そっとシンジがアスカの顔を覗き込む。間近に見えるシンジにアスカの鼓動が早くなる。
シンジはアスカの頬に残る涙の跡に気づくと、少し驚いた様な顔をしたが
寂しげに微笑むとハンカチを取り出し涙の後を優しく拭き取った。
頬を撫でる繊細なシンジの指先の感触を感じる。それは心地良いものであった。
さりげないシンジの優しさが今のアスカには嬉しく、そして哀しかった。
ハンカチをしまうと、そのままベッドの傍らの椅子に腰を下ろして
じっとアスカの顔を見つめる。優しく、そして哀しい色をたたえるシンジの瞳。
シンジは部屋に入ってから一言も話していなかった。
普段から自分からは余り話さないシンジだったが、今日のシンジは
緊張して話す事が浮かばなかったり、照れて上手く話せないという感じではなかった。
それよりも言葉を選んでいる…アスカはそんな感じを受けた。
いつもと違う雰囲気のシンジにアスカの心が警鐘を鳴らす。
(どうしたの、シンジ?何かあったの?)心の中からシンジに問いかける。
その時、不意にシンジの両手が力なく投げ出されていたアスカの掌を掴んだ。
それは、いつもの穏やかなシンジとは違い、荒々しく、そして痛いぐらいの力だった。
突然のシンジの行動に驚きを隠せないアスカだったが、その時になって初めて気づいた。
自分の手を握るシンジの掌が熱く、そして震えている事に…。

第3章.決意
「ごめんね、アスカ。」アスカの掌を握りしめたまま、シンジは静かに話始めた。
「アスカが入院したのを知っていたのに、今までお見舞いにも来なくて…。」
シンジはうつむいていた顔を上げるとジッとアスカの瞳を見つめた。
「でも忘れていたわけじゃない、それだけは信じてほしい…。」
そうアスカに語りかけるシンジの瞳には一点の曇りもなかった。
「多分、怖かったんだと思う。疲れて変わり果てたアスカの姿を見る事が…。」
アスカは自分の掌を握るシンジの掌に少し力が加わるのを感じた。
「僕がアスカをそんなふうにしてしまったんだって認める事が怖かったんだ。」
そう言うとアスカの手を握ったままうつむいてしまう。
(そんな風に考えていてくれたんだ…。あんたの所為じゃないのに…。
あたしの我侭であんたの事傷つけていたのに…。ばか…シンジなんだから。)
「卑怯だよね…。僕にだってアスカの為に何かできたかもしれないのに、
ただアスカが傷ついていくのを黙って見ているだけだったなんて…。」
シンジのアスカを思う一言一言がアスカのこころに静かに沁み込んでくる。
自分を思いやってくれるシンジの優しさがとても嬉しかった。
そして、その優しさに応えられない自分がとても哀しかった。
傷つけ合う事でしかシンジと触れ合う事ができない自分が悔しかった…。
シンジが優しいから…、だから自分を見捨てて欲しかった。
その優しさに応えられない自分を…。
それがアスカにとってどんなに哀しい事であっても。
「アスカに会えるのも、これが最後になるかもしれない…。だからアスカに
謝りたかったんだ……、ごめんねアスカ。」
そう言い終えたシンジの顔は心の重荷を下ろせた為か、安堵の色が見えた。
それはアスカも同じ気持ちだった。
シンジの優しい言葉に、今まで迷い続けていた自分の心を決める事ができた。
それは、アスカにとってとても哀しい決意だったけれど…。
すべてをあきらめ、ひとり無に環る事。シンジの優しさに触れた今、アスカの心は
自分でも驚くほど穏やかであった。まるで小波ひとつ立たない鏡のような湖面の様に。
(あたしこそ、ゴメンねシンジ。ありがとう、あたし…これで安心して環れるわ。)
素直に言えるシンジへの謝罪と感謝。それはアスカがシンジに伝えたい本当のこころ。
(最後…なんだ。そう…そうよね。もう、あたしなんかに関らない方がいいよね。)
先程のシンジの一言がアスカの心の琴線に触れる。アスカはそれを自分との訣別の
言葉と受け取った。彼女がその本当の意味を知るのはもう少し後になる…。
別れの言葉…けれども今のアスカにはシンジへの怒りや怨みの気持ちは全く無かった。
(幸せになってね。…あたしじゃシンジを傷つけるだけだから。
シンジを幸せにしてくれる優しい女の子と巡り合えるといいね…。)
今、アスカは心からシンジの幸せを願っていた。
自分の事で精一杯だったアスカが、人の事を思いやる…それは大きな心の成長だった。
もっと早く、もっと素直になれていたら。けれど、もう遅すぎる…、アスカの心がズキンと痛む。
やがてシンジはこの部屋を出て行き、そして自分の元には戻らないだろう。
アスカはそう確信していた。そして、立ち去るシンジを止める術もない事も…。
シンジが出て行ってしまったら、するべきことは決まっていた。
今、自分の命をつないでいる数本の管を振りほどき、手首を傷つけて
静かに、誰にも知られることなく無へと環る…そうするつもりだった。
それで、ようやくこの苦しみ、哀しみから解放される…そう考えていた。
そんな自分の決意を知らずに微笑むシンジの顔を見ると胸が張り裂けてしまいそうな痛みを感じた。
自分の事を見守ってくれているシンジの瞳の優しさが辛かった。
死を覚悟した今も、少しでも長くシンジに自分の側に居てほしかった。
どんなに辛くても、どんなに哀しくても自分はシンジと一緒に居たかったんだ…。
ようやく気づいた本当の自分のこころだった。
けれど、そんな自分の我侭にシンジを巻き込む事などできなかった。
シンジを傷つけることしかできない自分に縛りつけるなんて事は…。
だから、環るしかなかった。何もない、無へと…。
だがシンジが語った次の一言はそんなアスカの切ない思いを吹き飛ばしてしまう程衝撃的なものであった。そして、アスカはシンジの“最後の”という言葉の本当の意味を知ることになる。
「さっきネルフ本部に戦略自衛隊が突入して来たんだ。」
まるで教科書を読むかの様に凄惨な現状をシンジは淡々と語った。
次々と突破されるゲート。抵抗虚しく次々と倒れていくネルフの職員達。
殺戮のプロである彼らにとっては赤子の手を捻るよりたやすい事なのだろうか。
10分もしない内にネルフ本部は人の血で赤く染められた。
シンジの話にアスカはふと血の臭いがしたような気がした。
「量産型のエヴァも間もなく来るだろうってミサトさんが言っていた。」
量産型エヴァ…そんな衝撃的な情報を話す時すらシンジの口調に変化はなかった。
「沢山の人達が殺されてしまった。」まるで機械のようなシンジの口調。
余りにも凄惨な現実の前にシンジが壊れてしまったのではないかと気が気でないアスカだった。
「戦略自衛隊もゼーレも目的は僕たちを全滅させる事だって加持さんが教えてくれた。」
それまで抑揚のなかったシンジの声が不意に熱を帯びる。
「なんで、そんな事するんだろうね。誰だって傷つけられるのは嫌なのにね。」
アスカの掌を握るシンジの手に更に力が加わる。
「怖いよ…アスカ。」うつむいたままポツリとシンジが呟く。
小刻みに震える身体。それは母親に救いを求める幼子の様な姿だった。
シンジの姿にアスカの胸がズキンと痛む。
怯えるシンジを抱きしめてやる事もできない自分が情けなかった。
そんなアスカに血を吐くようなシンジの声が響く。
「怖くて、怖くてたまらないよ…。でも、行かなくちゃいけないんだ。」
(何でよ、そんなに怖いんなら逃げちゃえばいいじゃない!あんただけでも生き延びなさいよ!)
アスカの手を握ったまま死への恐怖に震えるシンジにアスカはこころの中で叫んでいた。
生きていてほしかった…。シンジだけでも生きていてほしいと思った。
例え自分が無へ環るとしても、シンジには幸せになってほしかったから。
けれど、震えたまま呟くシンジの一言がアスカのこころを打ち震わせる。
「そうしないと、アスカが死んじゃうから…。」
(えっ!?)予想もしなかったシンジの言葉に一瞬アスカの頭が真っ白になる。
(あんた、今なんて言ったの?)混乱するアスカにシンジの澄んだ声が響く。
「だからアスカを守る為に、僕は戦いに行く。自分でそう決めたんだ。」
先程までの震えが嘘の様に収まっていた。
「アスカ、褒めてくれるかな?僕が自分の意志で決めたんだよ。」
そう言ってアスカに微笑みかけるシンジの顔は一点の迷いも感じられない清々しいものであった。
それはアスカが初めて見るシンジの顔だった。
「僕はアスカを守る為に…、戦いに行く。」
自分の意志を確認するかのようにもう一度シンジが噛み締めるように呟く。
「そう決めたら急に心が楽になったんだ。怖いのは変わらないけどね。」
アスカを安心させる様に少しおどけたシンジが微笑む。
シンジの澄んだ黒い瞳がアスカを見つめている、そしてゆっくりとアスカに話かける。
「僕はずっと傷つく事を恐れて生きてきたんだと思う。」
静かな、けれどどこか力強いシンジの声がアスカの心に響いてくる。
「でも気づいたんだ、たとえ傷つくことがあっても構わないって事に。」
「それが誰かの為に…自分の大切な人を守る為のものならば恐れる事なんかないんだって、ね。」
「だって、そうする事で人は変わっていけるんだから…、自分が望む通りに。」
(どうしたの…?一体何があんたをそんな風に変えたの…。シンジ…。)
急に大人びたシンジの言動に自分だけが取り残されてしまった様な不安を感じてしまう。
(今のあんたには、もう私なんか必要ない…そんな気がする。)
自己嫌悪に陥っていくアスカ。そんなアスカにシンジの言葉が届く。
「こんな風に思えるようになったのも、みんなアスカのおかげなんだよ。」
(え、あたしの…?)心の中のアスカが思わずシンジの顔を見直す。
「アスカが疲れた時にアスカを支えられるようになりたい。アスカを傷つけるすべてのものから
アスカを守ってあげたい。…そんな強い自分になりたい、そう思ったんだ。」
強く、優しい黒い瞳がアスカを見つめていた。アスカのこころをシンジの思いが温めていく。
「その為には自分が傷つくことなんて、問題じゃない。ようやく、その事に気づいたんだ。」
シンジは一度言葉を切ると、ジッとアスカの顔を見つめた。
「アスカの為になら僕は変われる。」
「僕は今までの自分が嫌いだった。でもアスカが居てくれれば、
僕は自分の事を好きになれる様な気がするんだ。」
そう言うとシンジはニッコリとアスカに笑いかけた。
「アスカがいないと僕は一生「バカシンジ」のままだね、きっと。」
(ばか…。)シンジの冗談に心の中で泣き笑いしてしまうアスカだった。
「そして、もしアスカが僕を必要としてくれたら、こんな嬉しい事はない。だからアスカに
必要とされる僕になれるようにがんばるからね。」
(あたしにはあんたが必要よ。絶対、絶対必要なんだから!)そう、こころの中で叫ぶ。
「アスカ、僕はずっとアスカと一緒にいたい…。」
一瞬、シンジの言葉がそこで途切れる。
何かを決意するようなシンジの表情にアスカも緊張の色を隠せないでいた。
静寂の中、機械の音だけが部屋の中に響いていた。
アスカはシンジの掌に力がこもるのを感じた。シンジの頬がうっすらと朱に染まっていく。
心の中で瞳を閉じてシンジの言葉を待つ。そして…
「アスカ、大好きだよ。」
シンジの優しい一言がアスカのこころに沁み込んでいく。
それは、少女がこころの奥でずっと待ち望んでいた言葉。
そして傷ついた少女のこころを癒す事ができる唯ひとりの少年の唯ひとつの言葉。
アスカは今、いくつもの深い傷を負っていたこころを包み込む温かな思いを感じていた。
「それだけアスカに伝えたかったんだ…。」
そう言いながらシンジは、ほつれたアスカの前髪を指先で梳かし始めた。
何気ないそんな仕草にもアスカへの愛しさが溢れていた。
(髪、気持ちいいよ…。いつまでもシンジにそうしていてほしいな。)
シンジの告白にこころも身体も温められ、まるで日だまりの中にいる様な感じがしていた。
(こんなに気持ちいい事だったんだ、シンジに好きって言われる事が…。)
この世界に自分をこころから大切に愛しく思ってくれている男性がいる。
そのことが、こんなにも自分のこころを救ってくれるなんて…。
(シンジ、ありがとう。あたし、とっても嬉しい…。あれ…?)
そんなアスカのこころを映すかの様に、その青い瞳からこらえきれない温かな涙が
次から次へと溢れていくのだった。
(涙をながす事ってこんなに気持ち良いことだったんだね、シンジ。)
冷たく白い部屋に今、暖かな灯火がひとつともった。
そう決して消えない灯火が…。

第4章.目覚め
「シンジ君、時間だ。いいかい?」扉の外から落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「はい、加持さん。ありがとうございました。」アスカの手をそっと放し、シンジが答える。
「ようし、じゃあお姫様の身支度を整えて貰おうか。」
加持の言葉に数名のネルフの制服を着た女性が病室に入って来る。
女性隊員達の手によって手際良くプラグスーツに着替えさせられていくアスカに
背を向けながらシンジと加持は話を続けていた。
加持がシンジに伝えている情報から自分達を取り巻く状況が想像以上に
厳しく、追いつめられているという事がアスカにもわかった。
「…つまり、量産型のエヴァをすべて破壊するしかないんですね。」
「そうだ、敵にエヴァが無くなれば戦いはそこで終りだ。後は俺達の仕事になる。
だがゼーレにエヴァが1機でも残っていれば彼らは戦いを止めまい。」
「わかりました。やってみます、それしかアスカを守る方法がないなら…。」
「最悪、初号機が量産機すべてと相討ちに持ち込めば、こちらには弐号機が残る。だが…。」
「わかっています、加持さん。アスカに負担はかけませんよ。」シンジが笑顔で答える。
「そうか…、だが容易い事ではないぞ。量産機すべてを殲滅し、なお且つ初号機の
戦闘能力を保持するというのは、奇跡を起こす事に近い。」
加持はそこで言葉を切ると正面からシンジの瞳を直視した。
それは数々の修羅場を生き抜いて来た男だけが持つ厳しい視線だった。
けれども、シンジの決意は微塵も揺るがなかった。
「はい、わかっています。」短く、はっきりと答えるシンジの姿に加持の眼の厳しさが緩む。
「そうか…もう俺から言う事はないが、ひとつだけ言わせてくれ。」
加持はシンジの両肩を掴むと、シンジの心に刻み込むように告げた。
「必ず生きて帰るんだぞ、みんな君を待っている。俺も葛城も、そしてアスカもな。」
アスカは加持の態度からシンジが死を覚悟して戦いに身を投じようとしている事を悟った。
そのシンジの決意が嬉しくて、そして愛しかった。
(何で…何であたしなんかの為に命をかけようとするの…。)
(シンジの…バカ…。)シンジの固い決意を知り再びアスカの頬を熱い涙が濡らす。
(あんたがあたしの為に命を賭けてくれるなら、あたしだって…。)
温かな思いで胸がいっぱいになり、それ以上言葉にできないアスカだった。
その時、軽い浮遊感を伴い、アスカの身体が宙に浮いた。
気がついた時にはアスカはシンジの腕の中に抱かれていた。
(やだ…シンジ、あんたいつの間にこんな力強くなったのよ…。)
思いもしなかった大胆なシンジの行動に慌てふためくアスカ。
だがシンジはその重みを確かめながら、寂しそうな笑顔でアスカに話かけた。
「アスカ、随分軽くなっちゃったね…。眠り続けているんだもの、無理ないよね。
ごめんねアスカ、ずっと放っておいて…。この戦いが終ったらアスカの好きなもの沢山つくるからね。
アスカはもう少しふっくらしていた方が可愛いと思うよ。」そう言って真っ赤になるシンジだった。
慎重に自走担架の上にアスカを横たえたシンジに加持が嬉しそうに声をかける。
「シンジ君、アスカに挨拶しなくていいのか?」
「挨拶なら、もうしましたけど…?」怪訝そうに答えるシンジに加持が笑って答える。
「その挨拶じゃない。男と女の挨拶だよ、わかるだろ?」加持が意味ありげに目配せする。
「それって…、まさか加持さんの得意な、あれですか?」
「得意っていうわけじゃないが。まあ、嫌いではないがね。シンジ君もそうだろ?」
「それはそうですけど…。でも、アスカの意識がないのに…。」
「おいおい、まさか経験がないわけじゃないだろう?」
加持の言葉にシンジの脳裏にアスカとの苦いキスの思い出が浮かぶ。
どこか苛ついた感じのアスカに挑発されるまましてしまった初めてのキス。
キスの後、暇つぶしと言われ、うがいまでされてしまい傷ついたあの夜。
(あの時は僕も子供だったんだな…。)
どうしてアスカが唐突にあんな事を言い出したのか、キスした後どうしてあんな事を言ったのか、
あの時は見当もつかなかったけれど、今ならわかるような気がしていた。
(アスカは助けてほしかったんだと思う。ミサトさんと加持さんの関係に気づいたアスカは
加持さんを取られてしまう気がして、それで寂しくて僕にSOSを出したんだ。)
  「ミサト、遅いわね〜」苛立つアスカの姿がシンジの脳裏に蘇る。
(アスカはそういう面では不器用だから、あんな言い方しかできなかった。僕もそんなアスカの
心の寂しさに気づいてやれる程大人じゃなかったから…。)
  「ふ〜ん、怖いんだ。男のくせに、意気地なし!」−挑発的な言葉、でも本当は…。
(アスカを傷つけてしまった…。バカだな、僕は…アスカの言い訳を真に受けてしまって。)
  「あんた、バカ〜。ただの暇つぶしよ、こんなの。」−いつもと同じと思っていた、けど…。
(アスカが好きでもない人と冗談でキスするような女の子じゃない事位わかっていたはずなのに…。)
(僕がその事に気づいてあげられていたら、アスカだってこんな事には…。)
あの時とは違う意味でシンジにとっては今も苦い思い出のキスだった。
そんなシンジを奮い立たせるように加持が言葉を続ける。
「何も照れる事はないさ。古来、戦に臨む漢はみんな愛する女にそうやって自分の決意を伝えたものさ。」
加持の言葉にシンジはもうアスカを悲しませない誓いとしてキスを決意する。
横たわるアスカに顔を近づけると、そっと耳元で囁く。
「アスカ、必ず帰ってくるから…。また、一緒に暮らそう。」
そのまま顔を近づけアスカの唇にそっと唇を重ねる。二度目のキスだった。
色褪せ冷たいアスカの唇にぬくもりを移そうとするかの様なシンジの思いを感じとるアスカ。
(シンジ、温かいよ。シンジのぬくもりが伝わってくるよ…。)
時間にすればわずか10秒程だっただろうか、それでもシンジは自分の思いを充分に
アスカに伝えられたような気がしていた。
心なしかアスカの唇に少し輝きが戻っているように思えた。
「まだまだぎこちないが、なあに直ぐに慣れるさ。シンジ君の決意はきっと伝わっているよ。」
穏やかなシンジの表情に加持が先輩として言葉をかける。
「ただ、唇にするとは俺も予想しなかったがね。」
最後の一言でシンジの顔が火がついた様に真っ赤に染まる。
そんなシンジの様子を加持は笑顔で見ていたが、やがて腕時計を見るとシンジに告げた。
「そろそろ時間だ、シンジ君。すまないが、一時の別れだ。」加持の言葉に頷くシンジ。
「じゃあ、アスカ行くよ。」そう言って最後にもう一度アスカの手をとる。
アスカの冷たい白い手を少しでも温めようと掌をあわせて包み込むように握る。
ひんやりとした感触がシンジには哀しかった。
名残惜しげにシンジがアスカの手を放そうとした時…
「アスカ…?」
まるで離れる事を拒むかのようにアスカの白い指先がシンジの掌に絡み付いていた。
慌ててアスカの顔を見直すシンジ。だがアスカはまだ眠ったままであった。
落胆し、深い溜息をつくシンジであったが、心の中でアスカはシンジに懸命に呼びかけていた。
(シンジ、あたしなりたい。シンジが好きになってくれる素敵な女の子になりたい。)
自分の事を優しい眼差しで見守る少年のこころに直接届くよう呼びかける。
(あたし、なれるかな?シンジ!)
そんなアスカの思いが伝わったのだろうか?シンジには一瞬アスカの声が聞こえた気がした。
(アスカ…。)シンジの脳裏に明るく躍動するアスカの元気な姿が浮かぶ。
「アスカ、また後でね…。」そうアスカに呼びかけると、シンジは加持に一礼して反対方向に
歩き始めた。そんなシンジの後ろ姿をアスカと加持が見送る。
正面でシンジを待つミサトに手をあげると、加持はポツリと呟いた。
「もう一人前の男だな、シンジ君。」
加持の言葉にアスカは涙が出るほどの嬉しさを感じていた。
(シンジ、素敵だよ…。いつかあんたに直接言ってあげるね、だから…。)
コツコツというシンジの足音だけが廊下に響いていく。
加持はそっと自走式担架のレバーを握るとシンジとミサトに背を向けて歩き出した。
遠ざかるシンジの背中にそっと呼びかけるアスカ。
(死なないで、シンジ。ううん、あたしの返事を聞かずに死ぬなんて絶対、許さないからね!)

5分程で加持とアスカは地下の弐号機のゲージに着くことができた。初号機は既に迎撃態勢に
入っている為、広いゲージ内には加持とアスカと弐号機しかいなかった。
さすがに戦略自衛隊もここまでは辿り着いてはいないようだった。
人気のないゲージにたたずむ真紅のエヴァ弐号機。
「頼んだぞ、アスカを守ってやってくれ。」弐号機を見上げながら加持が呟く。
加持は手早くコンソールを操作するとエントリープラグを射出させた。
壊れ物を扱うかの様にそっとアスカの身体を抱えるとエントリープラグの扉を開き、
操縦席のシートに座らせる。エヴァの操縦席で静かに眠り続けるアスカ。
以前の凛としたアスカからは想像もできない程、か弱く頼りなげな姿だった。
「アスカ、もう少しおやすみ。シンジ君と起こしにくるからな、眠り姫様。」
そう言って加持がエントリープラグの扉を閉めようとした時、アスカの指先がわずかに
動いた。それはかすかな動きだったが、加持の眼は見逃さなかった。
「アスカ…。」
眠り続けるアスカの顔を見つめながら呟く。
「戦うのか、シンジ君と一緒に…。」
それは確信だった。この心を深く傷つけられ眠り続ける少女は、大切なひとを守る為に
自らの意志で目覚めようとしているのだと…。
「俺はセカンドインパクト以来、人の愚かさ、醜さを嫌という程見てきた。人はこんなにも
自分勝手で独り善がりなのかと絶望した事も何回もあった。」
エントリープラグの壁に寄りかかると加持はアスカに向かって話始めた。
「だがなアスカ、人は愛しいもの為に何かをしようとする時やそれを守ろうとする時に
信じられない力を発揮する事がある。俺は何度もそれを見た。」
セカンドインパクトの混乱以後、ずっと心の中に秘めてきた加持の人に対する思い…
加持は今それをアスカに伝えようとしていた。今のアスカならわかってくれると信じたから。
「どうしようもない程、愚かでぶざまで哀しい人という存在が、その時だけは何よりも
美しく、尊いものに思えるんだ。」
加持はそこで一度言葉を切るとアスカを見つめて言った。
「それが人の可能性だと俺は思っている。」
アスカは加持の言葉に心の中で何度も何度も頷いていた。
(可能性…そう、あたしにもできるかもしれない…シンジと一緒に生きていく事が!)
加持のいう通りひとは愚かで自分勝手な存在かもしれない。だからお互い傷つけ合ってしまう。
(あたしがいるとシンジが苦しむだけかと思っていた…。)
そう思ったから自分は無に環ろうと決めた、けれどシンジや加持が言っていた様に、もし…。
(好きな人の為に何かしようとする事、それで人は変わる事ができるなら…それなら、あたしも
変われるかもしれない…シンジの為に、シンジに相応しい女の子に。)
今、アスカのこころに先程のシンジの言葉が鮮やかに蘇る。
(ううん、きっと変われる。だってシンジがあたしの事待っていくれるんだもの!
シンジがあたしの事、好きって言ってくれたんだもの!)
今までアスカを縛りつけていた冷たい鎖が弾け飛び、消え去ったような解放感がアスカを包む。
(今度はあたしから言ってあげなくちゃ、シンジに大好きだよ、って!)
アスカに微笑みかけるシンジの姿がこころにいっぱいになる。少女にもう迷いはなかった。

そんなアスカの思いが伝わったのか、加持にはアスカが微笑んでいる様に思えた。
いつしか加持の顔にも微笑みが浮かんでいた。
使徒との戦いの中、懸命に生き、傷つき、そして倒れた妹のように大切に思っていた少女。
そして戦いの中、迷い戸惑いながら男として成長していった弟のような少年。
そんな少年と少女が自らの意志で過酷な運命に立ち向かおうとしている…それが加持には嬉しかった。
「生き残って、皆でワインでも開けて一晩中大騒ぎしようか。きっと楽しいぞ。」
生と死の狭間にいる事を自覚しながら加持は本気でそう思っていた。
「楽しみにしてるからな。」最後にアスカの頭を優しく撫でると、エントリープラグの扉を閉めた。
暗闇の中、音もなくLCL溶液が注入され、アスカの身体を包んでいく。
やがて真紅のライトがエントリープラグに灯る。
エヴァのシートで眠っているアスカの姿がぼんやりと浮かび上がる。
とその時、再びアスカの指先が動く。先程よりも確かに、そして力強く。
まるで弐号機のトリガーを探すかのように…。

天空より飛来する12機の量産型エヴァ。
地上でそれを待ち受ける初号機。
地底湖の底でまだ眠っている弐号機。
長く辛い逡巡の末、ようやくこころを通じ合えた少年と少女。
少年は少女の為に生還を期して、死を覚悟した戦いに臨もうとしていた。
少女は自分のこころを伝える為、長い眠りから覚めようとしていた。
ふたり一緒に生きていこうと決めた少年と少女。
その決意を相手に伝える為に、古い大人達が定めた運命に立ち向かう。
お互いを思いやるこころだけを武器にして…
黒い月の地に過酷な、そして凄絶な戦いの開幕を告げるベルが今、鳴り響く。
(FIN)


アスカ:いいわねぇ。(*^^*)

マナ:最後の戦い。きっと、大丈夫よね。

アスカ:あったりまえよ。もう迷いはないわっ!

マナ:仲間を想う気持ち。大事よね。

アスカ:病室でシンジが言ってくれたこと。ジーンときちゃった。

マナ:いよいよ決戦。頑張ってっ。

アスカ:うんっ! ありがとう。頑張るわっ!

マナ:平和になったら、わたしも自分の気持ちに素直になるわ。

アスカ:はぁ?

マナ:シンジを迎えに行くの。

アスカ:シンジは、もうアタシのものよっ!

マナ:仲間としては貸してあげるけど、平和になったらわたしのものよっ!

アスカ:弐号機・・・攻撃目標、エヴァシリーズからマナに変更よっ!(ーー#
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