「 ただいま… 」
平成12年04月24日初稿/平成13年02月07日改訂

第1章 小春日和
晩秋、ひだまりの暖かさが心地良い穏やかな季節。
「この〜、ばかシンジ〜!」高く澄んだ空にアスカの元気な声が響き渡る。
「うわ〜、ごめんよう、アスカ!」そして悲痛なシンジの声もこれまた響き渡る。(合掌)
(こらこら、まだ6時じゃない…。)蒲団の中で寝ぼけ眼のミサトが呟く。
慣れたとはいえ早朝からテンションの高い少年と少女の会話は二日酔いの頭に響く。
と言っても元気で睦まじいふたりの会話はミサトにとって煩わしいものではなかった。
心を切り刻まれるような凄惨な試練を越え、ようやく取り戻した14歳の姿。
このまま、いつまでも居られたら…そう思うミサトだった。
そしてズキズキと痛む頭を抱えながら、再びふたりの遣り取りに耳を澄ます。
どうやら出掛ける支度を終えたアスカがまだ寝ていたシンジを責めているようだ。
「どうして、あんたはそんなにノロマなのよ!今日はあたしのお買物に付き合う約束でしょ!」
「約束って…、あれはアスカが勝手に…。」
「何ですって!言い訳はいいから、とっとと着替えて出掛ける支度しなさいよ!」
「ちょっと、アスカ待って。今はまずい…。」
(はは〜ん!)シンジの慌てた声にピンとくるミサト。次の展開を予想し、ほくそえむ。
シンジの抵抗虚しく、アスカの手で蒲団を剥がれたらしい。そして数秒の沈黙の後…。
パシイ―――ンッ!
「うそ、バカ、変態、もう〜信じらんない!女の子の前で…あんたって最低!」
「仕方ないじゃないか!朝なんだから…。」
襖を開け、ドタバタとアスカが廊下を駈けていく音が聞こえる。
そして少ししてから、慌ててアスカの部屋に向かうシンジの足音。
ミサトは蒲団の中で笑い声をこらえるのに必死だった。
「まったく可愛いわね、アスカも…。」
思春期の少年の生理現象を見て真っ赤になるアスカと慌てふためくシンジの
姿を思い浮かべ、心から愛しく思うのであった。
「それにしても毎朝毎朝よく飽きないわね、シンちゃんもアスカも…。」
寝癖で跳ねた髪の毛を指先で弄びながら呟く。
「まあ、あれがふたりの幸せのかたちなのかもね…。」
手元に置いてあるえびちゅの缶を引き寄せると、封を開け一気に飲み干した。
「ぷは〜っ!やっぱり二日酔いには迎え酒よねっ!きくわ〜。」
こうして今日も賑やかな葛城家の一日が始まるのだった。
使徒との戦いを終え、ようやく掴みとった平和。
平凡だが、かけがえのない時間をふたりは過ごしていた。

第2章 黄昏
夕暮れ、アスカの買物を終えてマンションまでの道を仲良く並んで歩くふたり。
山のような荷物を抱えて、よたよた歩くシンジの前や後ろに回りながら、からかうアスカ。
シンジと一緒にいる時間が嬉しくて嬉しくて仕方がない、そんな風に思える姿だった。
「ほらほら、もっと早く歩きなさいよ!」笑顔でシンジを急かす。
「そんな事言ったってさ、この荷物じゃ…それに何で僕がアスカの荷物を全部持たなきゃ
いけないのさ。」珍しく不満を口にするシンジにやはり笑顔で答えるアスカ。
「あんたが朝遅いのがいけないのよ!罰として荷物を持つくらい当然じゃない。」
「そんな〜。」情けない声をあげるシンジにアスカがコロコロと笑い声をたてる。
夕陽に映えるアスカの明るく元気な笑顔に、シンジの顔にも微笑みが浮かぶ。
アスカと一緒の優しく穏やかな時間。それは、ふたりにとってかけがえのない時間。
シンジは今、「幸せ」という言葉を実感していた。
それはシンジが生まれて初めて得る事ができた思いであった。
温かな幸せの余韻にひたるシンジにアスカの元気な声が響く。
「わ〜、綺麗な夕焼け!シンジ、あんたも見なさいよ。綺麗よ〜。」
「そ…そんな事言ったって、これじゃ…。」重ねられた洋服の箱の隙間からなんとか
夕陽をのぞこうとするが、どうにも上手くいかない。
「それもそうね。ハイ、半分持ってあげる!」そう言うとさっと上半分の荷物を取る。
「あ…ありがとう。」余りに素早いアスカの行動に咄嗟に言葉がでない。
「どういたしまして!」ニッコリと笑顔を投げかけるアスカにドキンとするシンジだった。
そして、その場に立ち止まり、肩を寄せ合いながら夕陽を見つめる。
沈み行く夕陽の光が一日の疲れを優しく包み込んでくれているような気がした。
「ねえ、シンジ。」シンジの肩にもたれかかったままアスカがそっと呟く。
「ん、なに?」心地良い安らぎを感じながらアスカの呼びかけに答える。
「あたし達、このまま…いつまでも一緒にいられるかなあ?」
ズキン!
突然投げかけられた何気ないアスカの問いがシンジのこころを抉る。
鉄の棒でこころを貫かれたような重く鈍い痛みを覚え、一瞬シンジの顔が苦痛に歪んだ。
「当たり前じゃないか!」その為か、自分でも驚くほど烈しい言葉が出てしまう。
普段見られない強い口調のシンジの言葉に目を丸くするアスカ。
自分をまじまじと見つめるアスカにシンジは慌ててその場を取り繕うとする。
「ご、ごめん。びっくりさせちゃったね。」
「うん…あんなシンジ、初めて見た気がする。」アスカの呼吸が少し乱れていた。
「ごめん…。」そんなアスカの様子にシンジは謝る事しかできなかった。
「もう、いいのよ。元はと言えば、あたしがあんな事聞いたのがいけないんだから。」
そう言うと、再び夕陽を見つめる。そんなアスカの姿にシンジは言葉にできない寂しさを感じた。
「どうしたのさ、今日のアスカ、変だよ…。」シンジの黒い瞳がアスカの青い瞳を見つめる。
黒い瞳に浮かぶ哀しみと不安を敏感に感じ取ったアスカは、笑顔をつくって話しかける。
「ごめん。あたしシンジを驚かせるつもりなんてなかったのよ。」
幼子をあやすかの様な温かなアスカの声がシンジを包み込む。
「じゃあ、どうしてあんな事を…。」
アスカの思いやりを感じながらも少し拗ねた風になってしまう。
「そうね…夕陽があんまり綺麗で、哀しかったから…かな?」
再び夕陽を見つめるアスカの哀しげな横顔に、シンジはかける言葉が見つからなかった。
「さあ、帰ろう!あたしお腹が空いちゃったよ。」
そんなシンジの心配を払うかの様に明るく声をかけると、先に立って歩き出す。
「シンジ〜、早く〜!」荷物を持ったまま軽やかにターンしてシンジに呼びかける。
夕陽の中で踊るようにはしゃぐアスカの姿を見つめながらシンジは漠然とした、けれど
胸を締め付けられるような不安を感じていた。
思えば、唐突とも思えるアスカの問いも、それに対する過剰なシンジの反応もこれから
起こる深い哀しみを無意識の内に察知していたのかも知れない。
それはお互いを深く思いやる者達だけが感じ取れる…人知を超えた感覚だったのだろうか?

第3章 奈落
朝、新しい一日の始まり。
葛城家は今日もシンジとアスカの元気な声で賑やかなはずだった。
そう、いつもの様に…。
台所で3人分の朝食の用意をするシンジが、そろそろアスカを起こそうかと
壁の時計を見ようとした時だった。
いつもならシンジが来るまで蒲団から出ようとしないアスカがパジャマ姿のまま
ふらふらとキッチンに入って来るのに気がついた。
元気のないアスカの様子にシンジが心配そうに声をかける。
「どうしたの、アスカ?顔色が良くないよ。」
そんなシンジの気遣いに笑顔をつくって答えるアスカ。
「大丈夫よ、夕べちょっと夜更かしをしただけだから…。」
これは事実だった。アスカも昨日の夕暮れの出来事が頭から離れず、
なかなか眠れなかったので、ついアルバムの整理を始めてしまった。
そしてシンジと出会いから今までを思い返すうち何時の間にか眠りについたのだった。
辛い事、苦しい事もあったが、それ以上に大きな喜びがあった。
それはアスカのこころの中のかけがえのない宝物。
もっとも、気恥ずかしくてシンジにはまだ言えない事だったけれど…。
「まったく、心配性なんだから…。まあ、あんたらしいけどね。」
そう言って、まだ心配そうな顔のシンジにもう一度微笑みかけようとする。
その時、不意に地面が歪んだような不快な感覚がアスカを襲った。
目の前の光景がグルグルと回り始め、自分が真っ直ぐ立っているのか
倒れてしまっているのかもわからなくなっていた。
平衡感覚が失われた影響か、息苦しく、嘔吐感までも感じていた。
まるでマジックで塗り潰されていくように急速に視界が狭くなり、
わずかにシンジの顔だけが暗闇の中にポツリと浮かぶ。
ジッとシンジの顔を見つめる事で、なんとか意識を保とうとするアスカだったが
めまいは治まるどころか、ますます激しさを増していく。
自分を呼ぶシンジの声だけが、かすかに聞こえてくる。
(シンジ…あたし、どうしちゃったのかな…。シンジ…助けて。)
シンジに伸ばしたはずの自分の手の感覚すら無くなってしまっていた。
恐怖が…、言葉にできない強烈な恐怖がアスカを襲う。
その時、崩れ落ちそうになる自分の身体を誰かが支えようとしているのを感じた。
温かく力強い腕が自分の背中にまわされている。
(シンジ…。)自分を支えようとしてくれているシンジの存在を確かに感じて
アスカの恐怖が少し薄れていく。自分を守ろうとするシンジの意志が伝わってくる。
安堵したその瞬間、アスカは身体中のすべての力が抜けていくのを感じた。
まるで奈落の底に落ちていくような強い滑落感と共に薄れていく意識。
やがてアスカのすべてが闇の中に包まれていくのだった。

「ミサトさん!アスカが、アスカが…!」
シンジの絶叫に慌ててキッチンに駆けつけるミサト。
取り乱したシンジの様子とぐったりと抱きかかえられたアスカの様子を一目見た瞬間に
状況の深刻さを悟り、直ぐに救急車を呼び赤木リツコ博士に連絡をとった。
ミサトからの説明を受けたリツコも事態の深刻さを察知し、救急車を直接ネルフ本部に
移動するよう指示を出すと同時に経路の確保、受入態勢の準備を整えた。
その為わずか15分という短い時間でアスカは世界最高レベルの医療能力を持つ
ネルフ本部にその身を移す事ができたのだった。
手術室の赤いランプが灯ってから既に6時間余りが経っていた。
シンジはアスカが運び込まれてからずっと、手術室の前の廊下のソファーに
身を沈めたまま、身動きひとつせずアスカの名を呟き続けていた。
そんなシンジにミサトはかける言葉を見つける事ができないでいた。
重く凍るような時間の中、ふたりは唯アスカの無事を祈り続けた。
やがて唐突に赤いランプが消えると、手術服姿のリツコが姿を現した。
「リツコ!」 「リツコさん!」ふたりがリツコに駆け寄る。
「聞きたい事はわかってる…。アスカは今眠っているわ。そのまま集中治療室に入るし、
まだ目覚めるまでに時間があるから、私の部屋で話しましょう。いい、ふたりとも?」
有無を言わせない重いリツコの言葉にふたりは頷くしかなかった。
可愛らしい猫のプレートが掛けられたリツコの研究室の扉を開き、部屋に入るや否や
堰が切れたかのようにシンジはリツコに掴み掛からんばかりの勢いで訊ねた。
「それでアスカは、アスカは…!」
必死なシンジの表情にリツコには珍しく困惑した表情が浮かぶ。
「落ち着いて、シンジ君。それじゃリツコだって話したくとも話せないわよ。」
慌ててミサトが助け船を出す。シンジの肩に両手を置くと優しく椅子に座らせた。
「す、すみません…リツコさん。」
自分で自分の行動にびっくりしてしまっているシンジに代わりミサトが口火を切る。
「単刀直入に聞くわ。リツコ、アスカは何処が悪いの。はっきりと言って頂戴。」
ミサトの言葉にリツコは黙って頷くと、唇を開いた。
「アスカの心臓や肺、消化器官は言うに及ばず骨や血液までもが衰弱しているの…。」
リツコそこでは一度言葉を切るとシンジとミサトを見つめた。
「それこそ、いつ機能が停止してもおかしくない位にね。」
「うそでしょ!だってアスカはまだ14歳よ…衰弱なんて。」
冷徹ともいえるリツコの言葉にミサトが悲鳴のような声で反論する。
けれども、リツコは意に介さず言葉を続ける。
「そう…、まるでエヴァに生きるちからをすべて吸い取られたみたいにね。」
そんなリツコの言葉に今度はシンジが反論の叫びをあげる。
「そんな!だって僕は…!」
「シンジ君、あなたが特別なのよ。」
即座に断定するリツコにシンジは瞬間、言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「そんな、そんな事って…酷いよ、酷すぎるよ!」拳を握り締め、憤りに身体を震わせ呟く。
そして次の瞬間、シンジの悲しみと怒り,苛立ちが一気に爆発した。
「アスカは…アスカは自分の命を削る為にエヴァに乗ったっていうんですか!」
激昂し、振り上げた拳をテーブルに叩きつける。
烈しい打撃音と共に上に置かれたコップが床に落ち、砕ける。
そのままテーブルにもたれかかるように床に崩れ落ちる少年の痛ましい姿を
2人の女性はただ黙って見守る事しかできなかった。
その時ノックの音がして、すーっと扉が開いた。
「先輩、シンジ君はここに居ますか?」
半分ほど開かれた扉から顔を出したのは伊吹 マヤだった。
「シンジ君…、アスカちゃんが呼んでいるんだけど…。」
部屋に入った途端、その場の重い雰囲気を感じ取ったマヤが言いにくそうにシンジに告げる。
「アスカが?アスカが目を覚ましたんですか!」
マヤの言葉に喜びの声とともに勢いよくシンジが立ち上がる。
嬉しげなシンジの姿を見る事ができず、リツコは視線を逸らした。
そんなふたりの様子をミサトは痛ましい目で見つめるのだった…。

第4章 約束
「アスカちゃん、シンジ君を連れてきたわよ。」
マヤに案内されて病室に入るシンジだったが、直ぐにアスカを見る事ができなかった。
白い壁から天井、窓、カーテンと視線を移して、ようやく部屋の中央にあるベッドを見る。
そこには哀しいほど蒼白い頬を枕に埋め、横たわっているアスカの姿があった。
生命力溢れ、いつも耀いていた青い瞳からは光が失われ、瑞々しかった桃色の唇も
潤いを失っていた。艶やかだった金色の髪もシーツの上に色褪せたまま広がっていた。
変わり果てたアスカの姿に言葉の出ないシンジにアスカのかすれた声が届く。
「…ごめんね、シンジ。あたし、もうだめみたい…。」
「何、言ってるんだよ…。」か細いアスカの声に弾かれたかの様にベッドに駆け寄る。
そして、そのまま掌で包み込むようにアスカの右手を握り締める。
冷たく、張りのないアスカの掌の感触に愕然とするシンジだった。
先程のリツコの言葉がシンジの頭の中をリフレインする。
そんなシンジの様子を見つめるアスカの瞳が哀しみに曇る。
「きっと…きっと、戻ってくるから…あたしの事待っていてくれる?」
「バカな事言わないでよ…アスカが何処かに行くわけないじゃないか。」
リツコの言葉が嘘でない事は既にシンジにもわかっていた。
だから…だからこそ認めたくなかった。アスカがいなくなってしまうなんて事を…。
「直ぐに元気になるよ。ちょっと疲れが出ただけだよ。」
揺れ動く感情を抑えて、なんとかアスカを力づけようとする。
「優しいね、シンジ。あんたならきっとそう言うと思ったわ。」
そんなシンジの優しさを感じ取って、笑みを浮かべながらアスカが答える。
「でも、わかるのよ。自分の身体の事だもの。」
深刻な言葉をさらりと言うと、そのままシンジの瞳を見つめる。
心から自分の事を案じてくれているシンジにアスカの瞳から涙が零れそうになる。
そんなせつない思いを振り切るかの様に精一杯明るく話しかける。
「このままあたしが死んじゃったら、あんた一生あたしを待ち続けそうだから言っておくわ…。」
死という言葉にシンジの身体がビクンと揺れたのがわかった。
けれど気づかない振りをしてそのまま話を続ける。
「3年…3年だけ待っていて。」
それは病院で目覚め、死が間近に迫った事を悟った時からずっと考えていた言葉…。
「3年待ってもあたしが帰らなかったら…、あたしの事は忘れて。」
それは今のアスカにできるシンジに対しての精一杯の思いやりだった。
「アスカを忘れる事なんて、できるわけないじゃないかっ!」
シンジにもアスカの思いは痛いほどわかっていた…だから、つい大声になってしまう。
アスカに何もしてやれない自分の無力さが哀しく、悔しかった。
「マナだってマユミだっているじゃない…。あんた結構もてるんだから、もっと自信持ちなさい。」
そんなシンジの心の中を読んだかの様に優しく語りかけるアスカ。
「悔しいけれど、シンジが他の女の子と付き合う事許してあげる。」
少し寂しそうに、けれどニコリと笑顔を見せる。
「アスカ以外の娘と付き合うつもりなんてないよ!」強い口調でシンジが答える。
「バカね…、でも…嬉しいよシンジの気持ち。」
そう言うと静かに笑みを浮かべたまま、じっとシンジを見つめる。
まるですべてを悟ってしまったかのような澄んだアスカの瞳に
胸を錐でつらぬかれたような痛みと哀しみを感じる。
アスカは必死で涙をこらえるシンジを愛しそうな眼差しでみつめていた。
その時、不意にアスカの瞼が閉じられる。
眠るかのような静かなアスカの仕草にその場にいる全員が一瞬凍りつく。
シンジは自分を囲む世界がグラリと大きく揺れたような気がした。
「大丈夫、眠っただけです。」看護婦の言葉が静まりかえった病室に響く。
その場にいた全員が安堵の息をつく。
そんな中でシンジは席を立つと、真っ直ぐリツコの前に向かった。
「リツコさん、お願いです。アスカを…アスカを助けてあげて下さい。このままじゃ…。」
「ごめんなさい、シンジ君。もう打つ手はないの。」シンジの懇願に冷静にリツコが答える。
「リツコさん…何でも、何でもしますから。」
「シンジ君、私は神様じゃないの。人にはね、できる事とできない事があるのよ。」
そう言い残すとリツコはシンジを振り払うかの様に病室から出て行ってしまった。
余りにも冷たいリツコの態度に茫然とする一同だったが、一瞬の間をおいて
ミサトが病室を飛び出た。廊下でリツコに追いつくと、その腕を掴んで怒鳴りつける。
「ちょっとリツコ、あんな態度はないんじゃない!」
学生時代からの長い付き合いであるが、あんな非情なリツコを見たのは初めてだった。
自分の知らない姿に苛立ちを隠し切れないミサトはリツコを強引に振り向かせた。
「リツコ、あんた…。」
ミサトが見たのは彼女が初めて見る親友の涙だった。
絶句したまま立ち尽くすミサトにリツコがポツリと呟きかける。
「人は無力なものね…。」自嘲気味なリツコの言葉にまたも驚かされる。
「さんざんあの子達の人生を弄んで、その挙げ句こんな時に何の力にもなって
やれないなんて…最低ね。碇司令からもくれぐれもと、頼まれていたのに…。」
「リツコ…。」親友の本心を知り胸を撫で下ろすミサトだったが、慰める言葉を持たなかった。
「眠ったんじゃないのよ…。」俯いたままポツリとリツコが呟く。
「えっ?」リツコの言葉の意味を計りかねて、思わず尋ね返す。
「…もう起きている事すらできないのよ、アスカは。」
「そんな…それじゃ…。」ミサトの脳裏にシンジのすがるような瞳が蘇る。
そのまま病院の廊下で立ち尽くすふたりだった。

アスカはそのまま眠り続けた。シンジはそんなアスカの傍らから離れようとしなかった。
コチコチという時計の音だけが深夜の病院に響く。
シンジはアスカの手を握り締めたまま、その横顔をじっと見つめていた。
この世界で誰よりも、何よりも愛しく大切に思っている少女。
それが、こんな事になるなんて…。
(どうしてアスカがこんな酷い目に遭わなければいけないんだ…。)
怒りと哀しみと悔しさでシンジの身体は震えていた。そんな時…。
「…シンジ…。」か細い声がシンジを呼んだ。
「アスカ、目を覚ましたの?」
シンジはアスカの手を握り締めたまま、アスカの枕元に顔を近づけた。
「シンジ、3年間だからね。」
シンジの瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。
「約束ね…!」そう言うと、アスカはシンジにニコリと微笑みかけた。
それは哀しいまでに透明な笑顔だった。
シンジに微笑みかけたまま、静かにアスカの瞳が閉じられていく。
まるで眠りにつくかの様な、やすらかな表情がシンジの瞳に焼き付けられる。
自分の命より大切な少女が今、自分の手の届かない世界に逝こうとしている。
その事を理解しながらも、少年は引き止める術を持たなかった。
「アスカ、アスカ――!」
少年にできるのは唯大声で少女の名を呼び続ける事だけだった。
けれども、ひとたび閉じられた少女の瞳が再び開かれる事はなかった。
静まり返った病院に血を吐くような少年の絶望の叫びだけがいつまでも響いていた。

第5章 誓い
アスカの死は夜明けと共に世界中に伝えられた。
エヴァンゲリオン弐号機パイロットとして人類を救った14歳の少女の余りにも
早すぎる死は世界中の人々の驚きと涙を誘った。
ネルフ本部に世界中より次々と届く弔電を前に大人達は黙々と自分の
仕事をこなしていた。それは哀しみを紛らす大人の知恵だったのかもしれない。
葬儀の段取り、血縁者及び関係者への連絡等の事務に忙殺されながら、
ミサトは改めて14歳の少女の家族との縁の薄さを思い知らされていた。
「血縁者、親族の列席者なし…か。」
既に各国の大使や団体、企業からは参列の申し込みが比喩ではなく、山のように届いていた。
それはアスカの死を悼むというよりも、ネルフとの関係における極めて儀礼的なものであった。
大人の世界では当然の事であったが、今度だけはミサトは本当にアスカの死を
悼む人達だけでアスカを送ってあげたいと思っていた。
けれどネルフ関係者、クラスメートと日本でのアスカの親しい人は限られていた。
それゆえドイツにいるアスカの養父母にも出席してくれるよう連絡をしたのだった。
けれど返ってきた答えは、体調不良の為に式は欠席させてほしいという事と
アスカは日本で弔ってほしいという極めて事務的なものであった。
養父母からのFAXを手にしたまま、ミサトは哀しみと怒りと悔しさで動けなくなっていた。
アスカに何不自由なく、けれども腫れ物を扱うように接していたアスカの養父母。
そんな養父母にアスカもまた心を開けないでいた事をミサトは知っていた。
見かけだけの幸せな家庭を演じていた彼らにアスカへの深い愛情を
期待する事は無理かとは思っていた。けれど…。
(こんな事…こんな事って…ないよね、アスカ。)
心の中で自分の妹のように思っていた今は亡き少女に問いかける。
(バカね、なにもミサトが泣く事ないじゃない。いい大人がみっともないわよ!)
そんなアスカの明るい声が聞こえてくるような気がした。
「どうかしたか、葛城?」傍らで作業をしていた加持が声をかける。
ミサトはこみ上げて来る涙をこらえて、いつも以上に明るい声で加持に話しかけた。
「加持クン、アスカは本当に親しい人達だけで送ってあげましょう。」
ミサトの声が少し震えている事に気づきながら、加持はただ黙って頷いた。
そんな加持の優しさが今は嬉しかった。

深夜、アスカの遺体が安置されている霊安室の扉がそっと開かれた。
静かに横たわるアスカ。今はミサトの心遣いでお気に入りのワンピースに着替えていた。
まるで眠っている様なその顔には、微笑みすら浮かんでいるように見えた。
そんなアスカの眠りを妨げまいとするかの様にそっと呼びかける。
「アスカ…。」
薄暗い室内にシンジの声だけが響く。
「もう起きないと、みんな心配するよ。」こみ上げる哀しみにシンジの声が震える。
けれども蒼天のような澄んだ青い瞳がシンジを見つめる事も、その桜色の唇が開かれる事も
なかった。まるで眠るような穏やかな笑顔のままアスカは遠い世界へ旅立ってしまっていた。
「アスカ、目を覚ましてよ!」
沈黙した世界の中にシンジのこらえきれない思いがほとばしる。
「これからじゃないか…、!」
そう呟くシンジの拳がギュッと握り締められる。
震える拳、それは理不尽な運命へのシンジの怒り。
「アスカに伝えたい事がいっぱいあったのに…。」
シンジの瞳から涙がこぼれおちる。次から次へと溢れシンジの頬を濡らす。
それは尽きる事のないシンジのアスカへの思い。
どれくらい時間が経ったのだろうか?シンジは右腕で涙を拭うと深い眠りについた
アスカの白い顔を見つめながら、一言呟いた。
「信じているから…きっと、アスカは戻ってくるって。これは、ほんの短いお別れなんだって…。」

第6章 冬空
その日、空は高く晴れ渡っていた。
葬儀に参加したのは、アスカと苦楽を共にした本当にごくわずかな人々だけだった。
喪主を務める葛城ミサトの意向で弔辞も挨拶もない、静かな葬儀であった。
それぞれが心の中でアスカを思い返し、その早すぎる死を悼み、別れを告げていた。
そこに居た誰もがアスカの死を心から哀しみ、非情な運命に憤りを感じていた。
交わされる短い言葉の中にも、逝ってしまった者への哀悼と
残された者への温かな思いやりが溢れていた。
(アスカ、皆心の底から貴方の事を思ってくれているわ。わかる…?)
壇上に飾られたアスカの遺影に向かってミサトが心の中で語りかける。
一瞬、遺影の中のアスカが微笑んだ…ミサトにはそんな気がした。
ミサトは遺影から視線を逸らすと、さりげなく周囲を見回した。
そんなミサトの視線がある一点で止まる。
(シンジ君…。)
黒いスーツに身を包んだシンジは壇上に安置されたアスカの遺体に寄り添うように
立っていた。この数日の間シンジは殆ど食事らしい食事を取らなかった。
睡眠もアスカの傍らでうとうとする以外は、まともに取っているとはいえなかった。
頬は蒼白く、目だけが異様な光沢を帯び、一種凄愴な雰囲気を感じさせていた。
そんな状態でもシンジは葬儀の最中に涙を見せなかった。
想像を絶する哀しみに出会った時、人は涙を流すことすらできなくなってしまう…、
そこにいる人々は改めてシンジの哀しみの深さを知るのだった。
その事がわかるから、誰もシンジに声をかける事ができなかった。
「準備が整いましたので、最後のお別れをお願い致します。」
無機質な合成音声が不意にホールに流れ、アスカの棺を納めた台車が動き始めた。
プログラムに従いゆっくりと、けれど確実に動き出す…アスカの身体を無に返す為に。
自分の手元を離れていくアスカを止めようとシンジの右手が台車の縁に伸ばされる。
シンジの指先が棺の縁にかかろうとしたその時、加持の声が響く。
「シンジ君!」その一言にシンジの動きが止まる。
一瞬の躊躇いの間に台車はシンジの手の届かない所に進んでいた。
振り返って加持を見るシンジ。それは殺気すら感じられる程、凄絶なものであった。
けれども加持はシンジの視線をしっかりと受けとめると、黙って首を横に振った。
シンジにもわかっていた、アスカがもうここには居ない事が…。
ここにあったのはアスカの存在の名残に過ぎない事を。
でも…、それでも…。
シンジは黙って加持に一礼し、他の皆に向かって会釈をすると、その場を後にした。
誰もが葬儀場を出て行くシンジの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
シンジの背中を見つめながらヒカリが傍らのトウジにそっと話しかける。
「かける言葉がみつからないね、鈴原。」
「そやな、わしもシンジになんて言ってやったらいいか、ようわからんわ。」
「…アスカ、可哀相。これからだったのに…。」こみ上げる哀しみに涙ぐむヒカリ。
「委員長…すまんな、わしにはこんな事しかできんで。」
そう言うとトウジはヒカリの肩を抱き、そっと自分の胸に抱き寄せた。
「鈴原…。」無骨な、けれどトウジらしい優しさにヒカリは頭だけトウジの胸に傾けた。
温かなトウジの温もりがゆっくりとヒカリに伝わって来る。
(アスカ…、碇クン…。)そっと心の中で呼びかけるヒカリだった。

「儚いものね、人って…。」アスカの棺を見送りながらマナがポツリと呟いた。
「私、まだ信じられません…アスカさんが死んでしまうなんて。」
こぼれる涙を眼鏡の縁から拭いながらマユミが答える。
シンジに好意を寄せるふたりの少女。アスカという強力な恋敵の存在があったものの
ふたりはシンジへの思いをあきらめたわけではなかった。
アスカもふたりのシンジへの思いを知り、正々堂々とその挑戦を受けようとしていた。
それだけシンジの自分への思いを信じていたから。
そしてシンジへの自分の思いの深さを信じていたから。
ふたりの絆の深さは少女達にもわかっていた。シンジを振り向かせる事は
できないかもしれない…けれど悔いを残したくはなかった。
だからアスカの潔い姿勢は有り難かった。これからよ!そう思うふたりだった。
そんな矢先に起こった悲劇、少女達は認めざるえなかった。
その死によって少年のこころは永遠にアスカだけのものになってしまった事を。
もしシンジの心の傷を癒す事ができるとしたら、それは時間だけだという事を。
それゆえ彼女達もまた、今のシンジにかける言葉をもたなかった。

冬の澄んだ空にひとすじの煙が立ち昇っていく。
誰もが、言葉もなく煙の行方を見つめていた。
シンジもまた皆から少し離れた草むらに立ち、煙の行方を追っていた。
まるで煙から目を離したらすべてが終わってしまうかのような真摯な瞳で…。
「シンジ君…。」
そんなシンジの思いを察したミサトの胸がギュッと締め付けられる。
思わずシンジに駆け寄ろうとした彼女の肩を誰かの掌がつかみ、押し止める。
慌てて振り向くミサト。そこには、ゆっくりと首を横に振る加持の姿があった。
「今はシンジ君をひとりにしておいてあげよう、な、葛城。」
「そうね…ごめん、取り乱しちゃって。助かったわ、加持クン。」
どんな慰めも今のシンジを癒す事はできない…誰よりも良くわかっていたつもりなのに。
弾けそうになった自分を不甲斐なく思うミサトだった。
そんなミサトの両肩を加持の大きな掌が包み込む。ミサトはその掌にそっと
自分の掌を重ねた。凛とした冷たい空気の中、それは哀しいくらい温かかった。

天高く昇っていく煙の行方を見つめるシンジ
14年間の短い命を熱く、烈しく生きたアスカが昇っていく空は
余りにも蒼く澄みわたり、そして哀しかった。

そして約束した3年の時が過ぎた…アスカは帰って来なかった。
それでもシンジはアスカの帰りを待ち続けていた。
アスカの言葉を信じて…。

第7章 それから…
西暦2017年、初冬。
クリスマスを間近にひかえ第3新東京市は街中がクリスマスソングに包まれていた。
使徒との戦いの形跡を見つける事が難しい程、街は復興し人々は平和を謳歌していた。
そして、それと同時に辛かった時代から目を逸らすようになっていった。
人々は使徒とともにエヴァの事も、その戦いに命を捧げた少女の事も忘れ去っていた。
そのためシンジもごく普通の少年として、トウジやケンスケ、ヒカリやマナ、マユミ達と
同じ高校に進学し、平凡な学生生活を送っていた。
アスカの死後一月余りは誰とも話そうとせず、自殺の恐れもあるという事で
ネルフの監視下におかれ周囲の者達を心配させていた。
それがどうした事か突然回復し、皆を驚かせたのだった。
そんなシンジの突然の変化の原因を問い詰めようとするトウジ達だったが、
シンジは微笑むだけで決してその理由を話そうとはしなかった。
ただ笑顔を見せるようになった事からシンジにとって何か良い事があったのだろう
という事だけは確かであった。今はそれで充分だと思っていた。
アスカを失った哀しみは一朝一夕に癒されるものではない事は皆知っていたから…。
シンジは高校では中学からの親しい友人以外とはできるだけ接触をしないようにしていた。
けれども、時折見せる優しさや細やかな心遣い、そしてどこか影を帯びた雰囲気が
密かに少女達の関心を集め、多くの隠れファンが存在していた。
それゆえ、多くの少女達がシンジにアタックを試みたのだが、ある者はマナに力づくで
追い払われ、あるものはマユミのストーカーまがいの攻撃に挫折していた。
それでもシンジに告白した強者が数名いた。
けれども「ありがとう。でも僕には心に決めた女性がいるから。」と優しく、
そして寂しげな笑顔を向けられて、それ以上言葉がでる者はいなかった。
こうしてシンジの高校生活は穏やかな湖の水面の様に一見静かに過ぎて行った。
気の合う仲間たちとの高校生活…それはシンジにとって心地良いものであった。
ただ、こころの中にポッカリと空いた大きな穴は決して埋まることはなかったけれど…。
そして今、アスカのいない3度目のクリスマスを迎えようとしていた。
「どや、シンジ。期末試験も終わった事やし、みんなでめしでも食いにいかんか?」
仲間のムードメーカーであるトウジの威勢の良い声が街に響き渡る。
如何に賑やかな街中とはいえ、トウジの大きな声に道行く人が振り返っていく。
真っ赤になって俯いてしまうヒカリにマユミ、やれやれといったゼスチャーをするマナ、
他人の振りのケンスケ、微笑みを浮かべるシンジとそれぞれのリアクションで応じる。
もっともトウジ当人は全く意に介する様子はなかったが。
「いや、今日は遠慮しとくよ。皆で行ってよ。」控えめにシンジが答えるが、
「かあ〜っ、冷たいやっちゃな〜。よーし、わかった。わしも男や!
霧島と山岸をお前につけちゃる。どや?これで、行く気になったやろ!」
そう言ってシンジの肩を抱くと強引にマナとマユミの方を向かせる。
少し困った表情のシンジに笑顔で両手を振るマナ、ペコリとお辞儀をするマユミ。
そんなふたりにシンジも微笑みを返す。
シンジの反応にもしかしたら?と期待するトウジ達であったが、
「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ。」やはり答えは同じであった。
皆の返事を待たずに、シンジは後ろを向くとスタスタと歩き出した。
そんなシンジの後ろ姿にトウジが怒りの混じった言葉を投げつける。
「ちょっとまてや、シンジ!」
「鈴原!」ヒカリが追いかけようとするトウジの腕にすがりつく。
「そっとしておいてやろうよ、トウジ。」ケンスケもトウジに声をかける。
「せやけど…、あれから3年もたったんやぞ。もう、ええやないか…。
わし、あんなシンジ見とうないわ…。」泣き出してしまいそうなトウジの声。
「鈴原…。」うなだれるトウジの手をギュッと握り締めるヒカリ。
そんな一部始終を見ていたマナが誰にともなく呟く。
「悔しいけれど、シンジの心の中には今もアスカさんが生きているのよ。」
「マナさん…。」
「マユミ、あなたにも分っているはずよ。」
「はい。」
そう言うとふたりはシンジの立ち去った方角をじっと見つめる。
ざわめく雑踏の中すでにシンジの姿は見えなくなっていた。

トウジの腕をつかみながら、ヒカリはこの3年間を思い返していた。
アスカの事を思い出にさせようとマナかマユミと付き合う事を勧めるトウジの真意を
ヒカリは良く理解していた。かつて、その事で大喧嘩したこともあったが…。
その時にトウジのシンジへの、そしてアスカに対する深い思いを理解する事ができた。
それでも、アスカのシンジに対する深い思いを知っているヒカリにとっては
トウジの様に積極的に勧めることはできなかった。
まして、シンジのアスカに対する思いが微塵も変わっていない事を知ってしまった今では…。
(碇君、今も持っているんだろうな、あれを…。)
あの時のシンジの照れた、けれども真剣に選ぶ横顔がヒカリの瞼に浮かぶ。
(アスカ、碇君は今でも貴方の事を待っているわよ。早く帰って来なさいよ。)
蒼く澄んだ冬の空を仰ぎながら、そう心の中で呟くヒカリだった。
フワッ。
その時、ヒカリの横顔を何か柔らかい鳥の羽のようなものが撫でる。
突然の事に慌てたヒカリは、トウジの胸に飛込んでしまう。
「ど、どないしたんや?急に。」柔らかなヒカリの感触に狼狽するトウジ。
「鈴原!今、鳥の羽の様なものが私の頬を撫でたの!」
「何言うとるんや、委員長。鳥なんてこんな街中におるわけないやろ。」
トウジの言葉にキョロキョロと辺りを見回すヒカリ。確かにこんな人ごみの中で
鳥が飛んでいる筈はなかった。
それでも諦めきれないのか見えない翼を探してヒカリが空を仰ぐ。
そんなヒカリにつられる様に皆が空を見上げようとする。その時…
フアン!
柔らかな風がそこにいた全員の頬を優しく叩く。
慌てて風の行方を探し空を仰ぐ。
蒼い空に映える白い翼がみんなの瞳に映る。
そして懐かしい笑い声を聞いたような気がした。
そう…忘れる事のなかったあの声を。

第8章 「ただいま…」
トウジ達と別れた後、シンジは当てもなく街を彷徨していた。
通りのあちらこちらから聞こえてくる楽しそうなクリスマスソングを避けるかのように
シンジは静かな方へと歩いて行った。空は次第に朱色に染まり始めていた。
いつの間にか辺りは賑やかな繁華街から閑静な住宅地に変わっていた。
シンジの右手にある急な坂の頂上に大きな夕陽が沈んで行く。
何故だろうか?不意にシンジは夕陽を眺めたくなった。
何かに急かされるように急な坂を早足で登り始める。
12月だというのにシンジの額にはいつしか汗がにじんでいた。
ようやく坂を登り切ったシンジの前には大きな夕陽が広がっていた。
その光は優しく、すべてのものを朱色に染めていた。
朱色の光を浴びながら、夕陽に向かってひとつ大きく深呼吸をするシンジ。
(あの時もアスカと一緒に夕陽をみたんだよね…。)
アスカが逝ってしまう前日にふたりで見た夕陽の思い出が鮮明に蘇る。
この3年間ずっとこころの奥にしまっていた思いが少しこぼれてしまう。
(アスカ、会いたいよ…。)溢れそうになる涙をこらえる。
その時、シンジを包むように一陣の風が吹いた。突然の事に思わず目をつぶってしまう。
そして、再びシンジが目を開けた時、シンジの前にはひとりの少女が立っていた。
シンジにはまるで夕陽の中から抜け出で来たかのように思えた。
それほど少女は突然シンジの前に現れたのだった。
「……。」少女は言葉もなく、ただシンジを見つめている。
大きな黒い瞳がシンジの漆黒の瞳に映る。瞳と同じ色の艶やかな黒い髪が風に揺れている。
赤いジャケットが夕陽に溶け込み、白いスカートが陽光を弾いていた。
すらりと伸びた健康的な肌色の手足が眩しかった。
(可愛い娘だな…。まるで夕陽の中から現れた妖精みたいだ。)
アスカとは異なるタイプだが、彼女に匹敵する程美しい少女だった。
(でも、僕には関係ないな…。アスカ以外の女の子なんて…。)
一瞬、シンジの脳裏をアスカの笑顔が横切る。
(アスカ…。)シンジのこころの中には今もアスカしかいなかった。
シンジが少女の傍らを通り抜けようと踏み出そうとした時、少女の唇がかすかに動いた。
「…ただいま。」
呟くような小さな声だった。
けれど、そこには溢れそうなたくさんの思いが込められている…そんな一言だった。
見知らぬ少女の一言がシンジのこころの一番奥の扉を叩く。
シンジは慌ててうつむいていた顔を上げた。その直ぐ目の前に少女の顔があった。
少女は何も言わず、ただシンジを見つめていた。
その黒い瞳の中にシンジの姿が映る。
少女はすべてを包み込むような優しい笑顔をシンジに向けていた。
シンジは少女の笑顔に懐かしく、そして愛しい思い感じた。
(…この感じは……?もしかして…。)
まるで吸い寄せられるかのように、少女を見つめるシンジ。
黒い瞳、黒い髪、すらりと伸びた手足、抱けば壊れてしまいそうな華奢な身体…。
全く違う、けれど…。
目の前の少女に今も彼の心の中で生きているアスカの声が、姿が重なっていく。
今、目の前でシンジに向かって微笑んでいるのは、まぎれもなくアスカだった。
瞳の色も髪の色も肌の色も違い、かつてのヴァルキリーを思わせる精悍な容貌に比べ
穏やかになっていたが、シンジにはわかった…少女がアスカであることが。
「…おかえり。」シンジはそう言うと両手を大きく広げた。
間髪入れずに少女がシンジの腕の中に飛込んでくる。
腕の中に感じる確かな重み。
その重みをしっかり受けとめるシンジの瞳からは、いつの間にか涙が溢れだしていた。
「アスカ…アスカ…。」名前を呼ぶのが精一杯だった。
そんなシンジの姿に黒髪の少女は微笑みながら、そっと話しかける。
「ごめん、少し遅れちゃったみたいね。」
そう言う少女の瞳からもいつしか涙が零れ始めている。
「ずっと待っていたんだよ…。帰ってきてくれるのを…。」
そう言うとシンジは更に強く少女の身体を抱きしめた。
余りに強い抱擁に少し息苦しさを感じながらも少女はシンジの為すがままに任せていた。
そして背中に回した両手を動かし、シンジの存在を確かめる。
「…少しじゃなくて、随分待たせちゃったみたいね。シンジ、やせちゃったよ。」
震えるシンジの背中を少女の白い手が優しく撫でる。
それは、まるで幼子をあやす母親のような優しい手つきであった。
少女の思いが伝わったのか昂ぶっていたシンジのこころが次第に静まっていく。
「いいんだ、こうして戻ってきてくれたんだから…アスカが…。あれ?」
抱きしめていた少女の身体を放すと、少女の顔をまじまじとのぞき込む。
「どうしたの、シンジ?」
肩を抱かれたまま、至近距離で顔をのぞき込まれ少女の顔が朱色に染まる。
もっとも顔も髪も身体もすべて夕陽の朱色に染められシンジは気づくはずもなかったが…。
「いや、アスカでいいのかなって思って…。」
真面目な顔で悩むシンジの姿に吹き出しそうになってしまう。
「ばかねっ!」
少女は微笑みながらシンジの瞳を覗き込むようにして答えた。
「アスカでいいのよ!
もっとも天国から帰ってきたばかりだから名字もない、ただのアスカだけどね!」
そんなアスカの答えに今度はシンジが微笑みながら答える。
「名字はさ…あるじゃないか。」
「えっ?」意外なシンジの言葉に一瞬キョトンとするアスカ。
「その…、碇 アスカなんて…。気に入らないかな?」そう言うと真っ赤になるシンジ。
「シンジ…。」
その言葉の意味する事を理解して、たちまち林檎のように赤く染まるアスカの頬。
火照った頬が熱い。そのことをシンジに気づかれないよう、うつむいてしまう。
そんなアスカにポケットからシンジがそっと小さな紙包みを取り出す。
「?…何、これ?」怪訝そうなアスカに微笑みながら話しかけるシンジ。
「今、何月か忘れちゃったのかい?」
「12月よね…えっ?」カンの良いアスカには、それだけでピンと来る。
(ちゃんと覚えていてくれたんだね、シンジ。)
シンジが今も自分の事を思ってくれている事が嬉しかった。
「ハッピーバースデイ、アスカ。少し遅れたちゃったけどね。」
そう言うとシンジは紙包みをアスカの掌に載せた。
「これ、洞木さんに選ぶのを手伝って貰ったんだけど…気に入って貰えるかな?」
シンジの声を聞きながら急いで、けれど丁寧に紙包みを開け始める。
紙包みの中から現れる小さな箱。白くて可愛らしい箱にアスカの胸がトクンと弾む。
「開けても…いいかな?」期待に踊るこころを抑えて小さな声で尋ねる。
「もちろんだよ。サイズ、合っていればいいんだけど…。」
「開けるね。」箱の大きさから何が入っているかの予想はついている。
そして先程のシンジの言葉からそれが何を意味するのかも…。
トクン…トクン…トクン…トクン……アスカの鼓動が次第に早くなっていく。
ひとつ小さな深呼吸をすると、アスカは指先を白い箱にかける。
緊張で震える指先。胸が弾けるかと思うほど高鳴る鼓動。
そんなアスカの様子をシンジがじっと見つめている。
シンジも緊張しているように思え、アスカのこころが少し落ち着く。
ついにアスカの白い指先が箱の縁にかかる。そして…。
「!」シンジの確かな思いに、言葉がでなくなってしまうアスカだった。
箱の中には深い群青色のラピスラズリを中心にダイヤモンドで飾られた小さな指輪があった。
「アスカの誕生石って、ラピスラズリで良かったんだよね。」
首を縦に振ってシンジに答えるアスカ。そうしなければ涙が止まらなくなってしまいそうだったから。
「こういう時は誕生石の指輪をあげるものなんだって洞木さんに教えてもらったんだ。」
シンジの言葉を聞きながら指輪を見つめる。
そして、その言葉と指輪に込められたシンジの思いをしっかりと受けとめる。
ゆっくりと顔を上げると、シンジの思いに答えようとする。
「シンジ…ありがとう、あたし…とっても嬉しい…よ。」
それだけ言うのが精一杯だった。アスカの瞳から溢れ出る涙。とても温かく嬉しい涙。
言葉では表しきれない思いをシンジに伝えたくて、アスカは指輪をシンジの掌に
載せると、そっと左手を差し出した。
「アスカ…」目の前に差し出された白い指先に一瞬戸惑うシンジ。
コクンと頷くアスカ。その頬は夕陽よりも更に赤く染まっている。
今のふたりには、それだけで十分だった。
シンジは躊躇う事なくアスカの左手を取ると、その薬指に
滑らせる様に指輪をはめた。アスカの指先で静かに青い宝石が煌く。
指輪を見つめるアスカの横顔を嬉しそうにシンジが見守る。
アスカの掌からあたたかい体温が伝わって来る。
3年前のあの時に失われたぬくもりが今そこにあった。
シンジはアスカの左手をとったまま、そっと話しかける。
「アスカ、もう一度抱きしめていいかな…?」
シンジの大胆な言葉にアスカの頬が再び紅く染まる。
「確かめたいんだ、アスカがここに…僕の隣に居てくれる事を…。」
そう言うとそっとアスカの腕を引き、抱き寄せる。
「シンジ…。」そのままシンジの腕の中に抱かれる。
シンジのぬくもりがたまらなく嬉しかった。
左胸から聞こえるシンジの鼓動がいつしか自分の鼓動と重なっていく。
トクン…トクン…トクン…。静かな、けれど確かな音が響く。
強くアスカを抱きしめたまま、シンジがそっと語りかける。
「アスカ、もう何処にも行かないでほしい…。」
言葉から溢れ出るシンジの深い思いを感じてアスカのこころが満たされていく。
シンジの胸から顔を上げ、正面からシンジの瞳を見つめると自分の思いを投げかける。
「何処にも行かないわよ!やっと戻って来れたんだもの、あんたの所にね!」
そう言うと再びシンジの腕の勢いよく飛込んだ。
かなりの勢いだったが確かなアスカの存在をシンジはしっかりと受けとめる。
そのまま夕陽に包まれ抱き合うふたりに何処からか穏やかな声が聞こえてくる
(アスカ…、シンジ君…。)
それは優しく穏やかな、それでいて力強い声だった。
耳に、というよりはふたりのこころに直接響いて来る…そんな不思議な声だった。
思わず空を仰ぐシンジ、それを面白そうに見つめるアスカ。
そんなふたりのこころに再び不思議な声が響いて来る。
(君たちの相手を思う強い気持ちに対する私達からの好意だ、是非受け取ってほしい。)
ふたりへの優しさに溢れたその声にニッコリと微笑むアスカだった。
(ありがと、天使長様!いろいろとありがとうございました。)
シンジは少しの間、空を仰いでいたが不思議な声が消えてしまった為、
今の声が何なのかアスカに尋ねようとした。
そんなシンジの頬を風に吹かれたアスカの金色の髪がそっと撫でる。
その時になってシンジはようやく気づいた。
「あ、アスカ…髪が…。」
いつのまにか漆黒だったアスカの髪が以前と同じような赤味がかった金色に変わっていた。
そればかりか瞳の色も肌の白さも、そして勝気で聡明そうな顔もすべてが3年前の
アスカに戻っていた。もっとも少し大人びて、女性らしくなっていたが…。
「ふ〜ん、神様もなかなか粋な事するじゃない!」
シンジの腕に抱かれたまま、天を仰ぐとウインクをひとつ飛ばす。
突然、起こった変化に驚きを隠せないシンジ。
「か…神様って…?」
驚いたままのシンジに微笑みかけると、アスカは一言告げた。
「神様は神様よ!奇跡におまけをつけに来てくれたのよ!」
そう言うと瞳だけで空を仰ぐ。まだ不思議そうな顔で
空とアスカの姿を見比べるシンジについ意地悪したくなる。
「それとも黒髪のあたしの方が良かったのかしら?」
シンジのこころはわかっていたが、それを言葉にして直接聞きたかったのかもしれない。
「姿は変わってもアスカはアスカだよ。僕はアスカが側に居てくれるだけでいいんだよ。」
思っていた通りのシンジの答えにニコリと笑うと大きな声でシンジに呼びかける。
「居てあげるわよ!例えあんたが嫌って言っても、ずっとあんたの側に居てあげるからね!」
そう言うと夕陽の中に飛び込み、悪戯っぽく微笑むと、片足を伸ばしクルリとターンする。
アスカの赤味がかった金色の髪が、真紅のジャケットが、白いスカートが
夕陽の中で、まるで踊っているかの様に揺れる。
ポーっとした顔でアスカの姿にしばし見とれてしまうシンジだった。
そんなシンジに元気良く、大きな喜びと少しのはじらいを込めた一言をアスカが叫ぶ。
「碇 アスカとしてねっ!」その瞬間、左手の薬指の指輪が煌いた。
アスカの言葉にハッとなるシンジ。その胸に温かな思いが湧き上がる。
「それじゃ!」大きな喜びにシンジの声が上ずってしまう。
そんなシンジの様子を嬉しそうな表情で見ていたアスカだったが、シンジの方に
顔を向けると両手を後ろに組んだ姿勢で、茶目っ気たっぷりに一言付け加える。
「よろしくね、旦那様!」
アスカの言葉が終わらないうちに、シンジは走り出していた。
「アスカ!」喜びの勢いのままアスカの身体を抱き上げる。
「きゃん!」微笑みながらシンジの為すがままに身を任せるアスカ。
シンジはアスカの身体を高く抱き上げ、天にかざした。全身に陽光を浴び、耀くアスカ。
その時、シンジは一瞬アスカの背中に白い翼が見えたような気がした。
とても美しい白くしなやかな翼が…。
(天使…?)シンジは白い翼からそんな感じを受けた。
(この3年の間、アスカはずっと僕の事を見守ってくれていた…そんな気がする。)
シンジの脳裏を辛く、苦しかった日々が一瞬駆け抜ける。
そして今、目の前にアスカの笑顔がある。
シンジの全身から抑え切れない喜びが溢れ出る。
アスカの身体を抱きしめたまま、シンジは夕陽の中をクルクルと回り始めた。
そんなシンジにあわせアスカが両手を広げ、嬉しそうに笑い声をたてる。
それは3年間も離れ離れになっていたとは思えない自然な姿だった。
死すらも別つことができなかったふたりの強い絆。
一緒に生きていく事ができる喜びをかみしめるアスカとシンジ。
そんなふたりを世界は静かに、そして優しく見守っている様であった。 
FIN


アスカ:なんて、素敵な話なのかしらぁ〜。(*^^*)

マナ:初めの頃、原稿破りかけてたの誰よ・・・。(ーー)

アスカ:だって、いきなり殺されたと思ったんだもん。

マナ:思ったじゃなくて、あなたは本当に死んだのよ。

アスカ:天使長様のおかげで、感動の再開を果たせたからいいのぉ。(;;)

マナ:あーぁ、おもいっきり感動したみたいね。

アスカ:うんうん。(;;)

マナ:よく天使長様も奇跡をおこしてくれたわねぇ。

アスカ:そりゃ、アタシ達の愛の勝利よっ!(^O^)

マナ:あら? 天使長様から手紙が来てるわ。

アスカ:げっ!(@@;

マナ:”サタンより恐ろしいその娘を2度と天界へ上げぬよう頼む”・・・・・・なにしたのよ・・・。(ーー;

アスカ:戻りたくて・・・ちょ、ちょっと・・・。(ーー;;;;

マナ:あら? 地獄からも・・・。”うちもお断りだ”・・・・・・あなた・・・。(ーー;;;;

アスカ:(ーー;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
作者"なる"様へのメール/小説の感想はこちら。
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感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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