「大嫌い!」
平成13年02月27日初稿/平成13年12月17日改訂
第1章  今日も朝から…
「シンジのバカ〜!あんたなんて嫌い、嫌い、大っ嫌い〜!」
葛城家、AM7:00。聞き慣れたいつもの怒鳴り声が家中に響き渡る。
(またやってんの、あの子達…。全くよく飽きないわね。)
寝不足と軽い二日酔いによる頭の痛みに、こめかみを押さえながらポソっとミサトが呟く。
大きなあくびをひとつすると、横になったまま手を伸ばし目覚し時計で時間を確認する。
(いつもよりちょっと遅いわね、とすると今日の原因は朝食がらみかしら…。)
頭をボリボリと掻くと手に持っていた時計を枕元に放り投げ、再び枕に顔を埋めてしまう。
遠くにアスカがシンジを怒鳴りつける声が聞こえている。
(今日は一体何でもめてるのかしらね…よくネタがつきないものだわ。)
二人のというか、アスカの声をBGMに再びまどろみの世界を漂うミサトだった。そして…。
(7:40か…どれ、そろそろ仲裁に入りますか!)
ゆっくりと布団から身を起こすと、乱れていた服装を一応整え、食堂へと向かう。
次第に大きくなってくるアスカの怒声。この頃になってようやくシンジの声がかすかに聞こえてくる。
(あらあらシンちゃんてば、今日も防戦一方ね。)
殆ど一方的に捲くし立てられるシンジの姿が目に浮ぶようで、つい笑みがこぼれてしまう。
食堂の中を覗き込むと、既にシンジは冷蔵庫の扉まで追いつめられ陥落寸前であった。
「ほらほら。あんた達、朝から何ケンカしてんのよ。」
「聞いてよ、ミサト!シンジったらねー。」ミサトの声にアスカが素早く反応する。
憤懣やる方ないといった表情で振り向くと、そのまま機関銃の様に言葉を撃ち出す。
ミサトはその中から必要な事項だけを拾い上げる。手慣れたものである。
シンジはといえば、アスカの話の合間合間に「そんな…」、「アスカだって…」と反論を試みていたが
片っ端からアスカに叩き潰されてしまい、最後には完全に沈黙させられてしまった。
「はいはい、わかりました。要するにアスカが毎朝飲んでいる牛乳をシンちゃんが
うっかり切らしていた事が原因なのね。」そうまとめると、ミサトは深い溜息をついた。
(いつもながら、ホントつまんない理由でケンカするのよね〜。)
昨日はシャンプーがいつもアスカが使っている銘柄と違っていただったし、確か一昨日は
卵焼きがいつもより塩辛かっただったはず…。
(全くこの子達のケンカって、犬も食わないようなものばっかりなのよね…。)
思わず苦笑いを浮べるミサトに恐る恐るといった様子でシンジが話しかけてくる。
「でも、昨日の夜まではアスカの分くらい残っていたと思うんですけど…。」
「!?ア…アスカの分って、コップにでも入れていたの?」何故かミサトの声が上ずる。
「いえ、でもパックにコップ1杯くらいは残っていたと思うんです。」
「嘘言いなさいよ!パックの中には、ほんの少ししか残ってなかったわよ!」
シンジの弁解に再びアスカの怒りに火がつく。「シンジ、あんた、あたしが嘘を言ってるっていうの!」
「そんなつもりは…、ただ…。」アスカの迫力に再び冷蔵庫に押しつけられてしまう。
シンジ絶体絶命の危機にミサトが助け船を出す。
「はは…まあ、そういう事もあるわよ。はい、これで学校に行く途中で牛乳買いなさい。」
その手には千円札が握られていた。牛乳1本にしては破格の金額である。
「こんなに…、いいんですかミサトさん?」
実質的に家計を預かっているシンジとしては、遂確認をしてしまう。
「いいのよ!アスカもそれでいいわね。」ニッコリと微笑みながらアスカに声をかける。
「しょうがないわ、今日はミサトの顔を立てて上げる。今度から気を付けなさいよ、シンジ!」
そう答えるアスカの声からは既に怒りの色は消えてしまっていた。
シンジに言いたい事を言いたいだけ言ってすっきりしてしまったのだろう。
ミサトからすれば、そんなアスカの行動はシンジに甘えているのと同じ事なのだが
きっとアスカ自身も自覚していないのだろう。もっともシンジは…それ以上にわかっていないだろうが。
そんなふたりの遣り取りがミサトにはとても大切なものに思え、そして好きだった。
だから遂々からかいたくなってしまうのだろうか?
「まったく毎日毎日、よく飽きないわよね。」とミサト。これも毎日同じ台詞である。
「シンジがトロくさいのがいけないのよ!」
お決まりのミサトの台詞にすっきりした顔でアスカが答える。そしていつもの遣り取りが始まる。
一方シンジはと言えば何時の間にかキッチンで朝食の後片付けを始めていた。
流れる水とお皿のカチャカチャという音、それにTVのニュースをBGMにアスカとミサトの会話が弾む。
傍から聞いていると本当の姉妹の様に思え、シンジの口許も優しく緩む。
「ねえアスカ、そんなにシンちゃんに嫌い、嫌いって言い続けていると逆にシンちゃんから
嫌われちゃうかもしれないわよ〜ん?」おどけた調子のミサトの言葉に、
「そんな事あるわけないわよ!」ピシャリとアスカが言い切る。
「おや、まあ。(凄い自信だこと…。)」アスカの言葉に更にミサトの悪戯心が刺激されてしまう。
「でも嫌いって言われて気分が良い人はいないわよ〜。」妖しくミサトの目が光る。
「あたしは特別よ!なんたってシンジの為を思ってやってあげているんだから。」
そう言い切ると、得意気に胸を張るアスカ。まさしくミサトの思うつぼであった。
「そうよね〜、昔から言うものね!嫌い嫌いもなんとやらってね。フフ、特別ね…。」
「なっ…。」ミサトの言葉に真っ赤になるアスカ。
ミサトの言葉の意図を正確に理解しているようだ。それに比べて…。
「?」後片付けを終えたシンジが不思議そうな顔で赤くなったアスカの顔を見つめている。
「な、何ボーっと乙女の顔を見つめてるのよ!」
シンジに見つめられ更に赤くなるアスカの頬。照れ隠しに、つい声も荒くなってしまう。
「いや、別に…。」その一方で怒られた理由すら分らずに途方に暮れるシンジ。
「ほ、ほら…もたもたしてると遅刻しちゃうわ!行くわよ。」
そう言うや否や茫然としているシンジの襟首を掴んで玄関の方に駆け出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ、アスカ。エプロンしたままだよ、…それに鞄も!」
「さっさと支度しなさいよ!ほんとトロイんだから!もう、バカシンジ!」
ドタバタという足音とアスカの怒鳴り声が次第に遠く小さくなって行く。やがてドアの閉まる音。
「あ〜あっ!やっと行ったか〜。」
そう言うと大きくひとつ伸びをする。そんなミサトを朝の眩しい光が照らす。
「クエ?」いつの間にかミサトの足元に眠そうに目をこするペンペンの姿があった。
「おはよ、ペンペン。…夕べの牛乳美味しかった?」
「クエ?」不思議そうに首を傾げながらミサトを見上げる。
「しかし、まいったわよね〜。あの牛乳、アスカのだったなんて…。」
そう呟くと先程の光景を思い出して苦笑いを浮べる。
「まあ、たまにはこういう事もあるわよね!」
そう言うとふたりのケンカの原因の30%程を作っている張本人は屈託のない笑顔で空を見上げた。
「う〜ん、いいお天気!今日は何か良い事あるかしらん!」

第2章  通学路にて
始業時刻間近の為、第壱中学校へ向かう道は油断すると肩が触れてしまうほど混雑していた。
そんな中、500mlの牛乳パックを飲みながら悠々と歩くひとりの少女の姿があった。
赤味がかった金色の髪が歩く度に波打つように揺れ、陽光を弾き煌いていた。
聡明そうな碧い瞳、すらりと伸びた白く長い手足。
第壱中学校の者なら知らぬ者はない校内NO1の美少女惣流・アスカ・ラングレーだった。
誰もが憧れや羨望の眼差しを向ける中、構わずに牛乳を飲み続けるアスカ。
決して行儀が良いとはいえないそんな行為すら納得させてしまう何かが彼女にはあった。
そんな中、おどおどとした少年の声がかすかに響く。
「アスカ〜、こんな所で牛乳飲みながら歩くのはやめようよ。」
少女と肩を並べて歩きながら必死に説得しているのは、やはりシンジだった。
「みっともないし、それに…。」そう話しかけるシンジの頬がかすかに赤く染まっている。
颯爽と歩きながら大胆に牛乳をラッパ飲みするアスカの姿はシンジにとってはみっともないというよりも
目のやり場に困るという方が適切な表現だったかもしれない。
牛乳を飲む度にそっと閉じられる瞼、桜色の唇に注ぎ込まれる白い液体、それを嚥下する度に
かすかに動く細い喉、そして視線をそのまま下ろして行くと柔らかに揺れる胸元があった。
牛乳を飲むという当たり前の行為がシンジの胸の鼓動を跳ね上げる。
改めてシンジはアスカがTVアイドル以上の美少女だという事を痛感させられていた。
自分と一緒にいる時のアスカはバスタオル姿や下着同然の服で今以上に大胆な仕草を見せている。
それはアスカの飾らない自然な姿であり、同時に無防備な姿であった。
一緒に暮らし始めた当初はそんなアスカの態度が自分の事など眼中にないから、もしくは
からかうと面白い玩具の様に思っているからだと考えていた。
けれど家や学校、ネルフで共に同じ時間を過ごすうちに次第にその考えは変わって行った。
粗雑、乱暴、自分勝手…そんなシンジに対する態度のあちらこちら優しさ、甘え、信頼といった
アスカの素直な思いが散りばめられている事にシンジは気づくようになっていた。
自分の事を親しく思っていてくれるから飾らない本当の姿を見せてくれる。自分を信頼してくれているから
無防備な姿でいてくれる、いつしかシンジはそう思うようになっていた。
もっとも、自分を男として見ていないのでは?という不安は拭い去れないでいたが…。
それでも自分にだけには本当の姿を見せてくれている?
そう思うとシンジの胸の中には言葉にできない満足感が湧き上がって来るのだった。
だからこそ、そんなアスカの姿を他の生徒達…特に男子生徒には見せたくなかった。
けれども、そんなシンジの思いを知ってか知らずかシンジの言葉に過激に反応する。
「ねえ、あんた…あたしの保護者なわけ?」
牛乳を持ったままシンジの方を向くと、凛とした顔で下から突き上げる様にシンジを睨みつける。
「そ、そんな訳じゃ…。」間近でアスカに見つめられ普段以上にドギマギしてしまうシンジ。
「なら、お説教はやめてよね!」ピシャリと言い放つアスカ。そのままシンジの顔を見つめ続ける。
息遣いが感じ取れる程の至近距離でのアスカとの睨めっこに真っ赤になる。
その時、睨み合っているのか、見つめ合っているのかわからない二人に声がかけられた。
「なんやセンセイ、また夫婦ゲンカかいな〜。よう飽きんな〜。」
「違うよ!」
「違うわよ!」
ユニゾンするふたりの返事にやれやれといったゼスチャーをするトウジ。
「ケンカしてても返事は一緒かいな。全くお熱いこっちゃな。」
そう言って団扇で扇ぐ仕草をするトウジにアスカの怒りが爆発してしまう。
「うるさいわね、鈴原!あんたには関係ないんだから、黙ってなさいよ!」
「こないな所で夫婦ゲンカは止めろちゅ〜んじゃ!お前ら邪魔やで、ホンマ。」
「何よ、文句があんの?」そう言うと、手に持っていた牛乳をシンジの手に半ば強引に押しつける。
そして軽く脚を開くとファイテイングポーズをとる。アスカの気迫に応えるかの様にトウジも首を
軽く回すと拳を軽く握る。一触即発の状態に牛乳を持ったままオロオロするシンジ。その時…。
「あっ、ヒカリ!おっはよ〜!」人ごみの中に親友 洞木ヒカリの姿を見つけたアスカはトウジを
押しのけると、手を振りながらヒカリの所へ駈けて行った。
「ねえねえ、昨日のドラマ見た?」「うん、アスカも?」「見た見た!」
そして先程までのトウジとの遣り取りなど無かったかの様に、楽しそうにヒカリと話始める。
そんな女の子らしいの他愛のないおしゃべりをしながら立ち去って行くふたりの後ろ姿を見送りながら
トウジが牛乳パックを持ったまま立ち尽くすシンジに呟く。
「シンジ…何やあれは?」完全に逸らかされてされてしまい茫然自失のトウジ。
「何って…見ての通りなんだけど…。」それ以上言い様がなく、困惑するだけのシンジ。
そんなシンジに喝をを入れるかの様にトウジが大声で叫ぶ。
「シンジ〜。お前、惣流の奴に甘すぎるんと違うか?なんや、あの無礼な態度は!」
「そんな事はないと思う…んだけど。」
「ええか。ああいう生意気な女には、たまにガツンと言ってやらないかんのや!」
「ガツン?」使い慣れない言葉に思わず復唱してしまう。
「そや、ガツンや。お前の事なんか大嫌いや!って一発言うたればええんや!」
「そんな…。」恐ろしい事を、という言葉を飲み込むシンジ。
普通の時でさえ一方的に怒られているのに、そんなケンカを売るような事をしたら…。
考えるだに恐ろしい事であった。あたかも悪寒を感じたかの様に思わず身震いをするシンジだった。
「まあ、ええわ。わしの言いたい事はそれだけや。ほな、行こうか。」
そう言うとトウジはさっさと校舎に向かって歩き始めた…シンジの心にひとつ波紋を残して。

第3章  大嫌い
結局、学校ではアスカの機嫌は直らなかった。
HRも、授業中も、お昼休みの時間もアスカはシンジを無視し続けた。
シンジが視線を向けると、これ見よがしにプイと横を向いてしまう。
取りつく島もないとはきっとこんな状況なんだろうな、と思うシンジだった。
結局アスカに話しかける事もできないまま放課後を迎えてしまった。クラブ活動に向かう者、街へ行く者、
次々と教室から出て行く中でアスカは何かを待っているかの様に文庫本を読むとも無しに読んでいた。
「アスカ、帰らないの?」鞄を持ったヒカリが小さな声で尋ねる。
「うん、この本面白い所だから…読み終えたら帰るわ。いいよヒカリ、先に帰って。」
そう言いながらチラリとシンジの方に視線を送る。ヒカリにはそれで十分だった。
「そっか、わかったわ!アスカ。じゃあ、先に帰るね。」そう言うとニッコリ微笑む。
「うん、ごめんねヒカリ。」そう言って微笑み返すアスカだったが、シンジの事が気になっている為、
つい視線がヒカリから外れがちになってしまう。そんなアスカの姿を嬉しそうに見つめるヒカリだった。
そして帰りがけにシンジの傍らを通る際に小さな声で一言残して行く。
「碇君、お先に!アスカの事、お願いね。」
すべてを見透かした様なヒカリの一言にビクンとシンジの身体が跳ね上がる。
慌ててシンジが振り向いた時には既にヒカリの姿はなく、教室に残っているのは
シンジとアスカのふたりだけになってしまっていた。
窓から差し込む西日がお互い意識しながら、言葉を交わす事ができないふたりを照らす。
「アスカ…そろそろ帰らない?」意を決した様にシンジが声をかける。
「ちょ…丁度この本を読み終えた所だから、か…帰ってあげてもいいわよ。」
そう言いながら既に鞄を手に取っているアスカだった。
並んで…それでも、いつもより少し距離を置きながら学校を出るふたり。
こんな時は、いつもなら帰り道でシンジがひたすら謝って、アスカが満足した所でシンジを許して
仲直りするというのがパターンだった。そして仲直りした後はいつも以上にシンジに纏わりつく
というのが、これまたアスカのいつものパターンだった。
それが今日は…ほとんど言葉を交わすこともなく、お互い気まずい雰囲気のまま、
いつしかマンションの前の交差点まで辿り着いてしまっていた。
点滅する青信号を見送るふたり。次に信号が変わったら歩き出さなければならない。
そんな気まずいプレッシャーの中で遂にアスカが口火を切る。
「ちょっと、シンジ。あんたあたしに何か言う事はないの?」
アスカの言葉には苛立ちが隠せないでいた。いつもならば、とっくにシンジが謝って仲直りを
しているはずなのに、今日は一体どうして?そんなアスカの声が聞こえてくるようだった。
「べ…別に。牛乳の事なら、もう何回も謝ったじゃないか。」
思いもしなかったシンジの言葉にアスカの眉がキュっと吊り上る。
「牛乳を切らしていた事は許してあげたけど、学校に行く途中で牛乳を飲んでいるあたしに
文句つけた事は謝っていないでしょ!しかも今日一日あたしの事を避けて、謝ろうともしなかった
じゃない!このあたしを無視した罪は重いんだからね。」
子供の様なアスカの理屈だったが、いつものシンジならここで謝ってしまった事だろう。
けれど今日のシンジは違っていた。朝、トウジに言われた言葉が心に引っ掛かっていた為だろうか?
それとも自分しか知らないアスカの姿が他の男子達にも見られてしまった事への苛立ちの為だろうか?
シンジ自身にも正確な理由はわからなかったかもしれない。
ただ、心の中に溜まっていた憤りのままにアスカの言葉に反抗してしまう。
「そんな…たまには僕のいう事を聞いてくれたった良いじゃないか。」
いつにないシンジの反抗が、朝から燻り続けていたアスカの苛立ちに火を点けてしまう。
「あんたは、あたしの言う通りにしていればいいのよ!あんたトロいんだから。」
「そんな…僕は子供じゃないんだよ。何でも自分で決められるさ!」
いつもなら悪化する事を恐れて受けにまわるシンジが感情的になったままなので、ふたりの口論は
エスカレートする一方だった。そしてシンジが禁句を口にしてしまう。
「綾波なら、そんな事は絶対に言わないのに…。」
「何ですって――――!」綾波という一言がアスカの逆鱗に触れる。
「何でそこにファーストが出てくるのよ。あんた、あたしよりファーストの方が良いっていうの?」
「そんな…でも、少なくても綾波はアスカみたいに頭ごなしに僕の言う事を否定しないよ!」
「あの娘は…本当にあんたの事を心配してないから、何も言わないだけよ!あたしは…。」
アスカはそこまで言いかけて、慌てて右手で口許を覆った。
そんなアスカの動作の意味に気づくこともなくシンジは言葉を続ける。
「とにかく我侭なアスカよりも綾波の方が一緒に居てホッとするんだ。」
このシンジの一言で遂にアスカが切れてしまう。怒りの為にアスカの髪が逆立つ。
そしてギュっと拳を握ると、腕を大きく振り上げてシンジに向かって絶叫する。
「もう、最低!あんたなんて、嫌い、嫌い、大〜嫌い!」
絶叫だけでは収まらない怒りが言葉の刃となってシンジに投げつけられる。
「もう、あんたの顔なんて見たくないわ!どっか行きなさいよ、あたしの前から消えなさいよ!」
もう自分でもどうする事もできなかった。自分のこころを理解してくれないシンジへの怒りが
奔流となってアスカの唇から出て行く。言い過ぎだと思いながらも止める事ができない。
「そんなにファーストが良いなら、あの娘の所に行けばいいじゃない!」
容赦ないアスカの言葉の刃に切り裂かれるシンジの心。その痛みがシンジの中で眠っていた
怒りの感情を呼び起こす。今のシンジにはアスカの本当の心を思いやる余裕はなかった。
アスカの顔をキッと睨みつけると、迸る怒りを言葉に変える。
「僕だって、そうだよっ!」
「えっ?」
激昂するシンジの姿にアスカの顔に一瞬怯えの色が走る。
けれども感情が昂ぶっているシンジには、そんなわずかなアスカの変化に気づく事はできなかった。
そして毎日の様にアスカに言われている言葉を投げつけてしまう。
「アスカなんて、大嫌いだよっ!」
シンジの言葉に、瞬間アスカの表情が凍りついた様に強張る。
大きく開かれた青い瞳からはすべての感情が消え去り、深い哀しみの色だけに
染められてしまったかの様にシンジには思えた。
キュっと閉ざされた唇は小刻みに震え、今にも鳴咽が漏れてくるようであった。
まさか、アスカが泣く…?シンジの胸がズキンと痛む。
けれどアスカは大きく深呼吸すると、今まで以上に大きな声でシンジを怒鳴りつけた。
「こ…こっちだって大嫌いよ!あんたなんか、嫌い、嫌い、大〜嫌い!」
そう言い捨てると、クルリとシンジに背を向けて駆け出した。
アスカの赤味がかった金色の髪が波打つように大きく揺れ、夕陽に煌いた。
いつもなら美しいと思うその光景が今のシンジにはとても哀しく思えた。
哀しみに打ち震えるアスカの後ろ姿がシンジの瞳に残される。
シンジが気づいた時には、既にアスカの姿はマンションの中に消えてしまっていた。
アスカの姿が見えなくなった後でも、強張った表情、そして深い哀しみに染まった青い瞳、
夕陽に煌く赤い髪がシンジの瞳からは消えなかった。
「アスカ…。」
その場の勢いでつい言ってしまったあの一言。てっきり怒鳴られ、罵倒されるものと思っていたのに。
アスカにあんな哀しい表情をさせるなんて…夢にも思わなかった。
シンジは自分の軽率な言動が引き起こした事の大きさに茫然と立ち尽くしていた。 

第4章 縺れるこころ
カチャカチャカチャ…。夕食の洗い物をするシンジの手にアスカの赤い茶碗が揺れている。
茶碗を見つめるシンジに先程のアスカの哀しい表情が蘇る。
(あんなアスカの顔、初めて見た…。僕はそんなに酷い事言ってしまったんだろうか?)
あの後アスカは部屋から出て来なかった。夕食こそミサトに頼んでアスカの部屋まで運んで貰ったので
食べてくれたもののシンジと顔を合わそうとはしなかった。
シンジもアスカに謝ろうと思っていたのだが、何と言って謝れば良いのかわからず、正直
途方に暮れていた。怒りならひたすら謝ればいい、けれど哀しみに対してはどうしたら…?
そんな心ここにあらずのまま機械的に洗い物をするシンジに背後から声がかけられる。
「どしたの、シンちゃん。また、喧嘩でもしたの?」
「ミサトさん。」ミサトの声にシンジの表情にかすかに明るさが戻る。
「今度のはいつもとはちょっち違うみたいね。お姉さんに話してみない?」
そう言うと軽くシンジにウインクする。そんなミサトの軽い仕草がシンジの心を楽にする。
「ミサトさん、実は今日…。」ポツリポツリと話始めるシンジをミサトは優しく受けとめるのだった。


「そっか、そんな事があったんだ…。」シンジの話を聞き終えるとミサトはひとつ軽い溜息をついた。
暫くの間、真剣な表情で何か考えている様だったが、不意にシンジの方を向くと尋ねた。
「ねえシンジ君、アスカの事を嫌いな人っていると思う?もちろん、外向きのアスカの事よ。」
「外向き、ですか…。」突然のミサトの質問に真意を図りかね、戸惑うシンジであったが、
それでも何か大切な意味があるのだろうと思い、真剣に考えそして答える。
「そういう事でしたら、いないと思います。」
これはシンジの正直な思いであった。自他共に認める才色兼備の美少女。アイドル以上の容姿に
抜群の運動神経とセンス、頭脳も既に大学を卒業する程であり、加えて漲る行動力にバイタリテイを持ち、
常に前向きで、努力する事の大切さも知っている。更に外向きという事であれば、これに人当たりの良さ、
その場を華やかにする魅力が加えられ、同時に気の強さ、手の早さ、口の悪さ等のマイナス要素が
削除される。これでは、もはや文句のつけようがないだろう。
「そうね。あの娘もそうなる様に意識して振る舞っているからね…。」
「えっ?」ミサトの言葉に何か感じたシンジが思わず聞き返す。
けれども、そんなシンジの反応に気づかないのかミサトは続けて質問をしてくる。
「ねえ、シンちゃん。ドイツの頃の話って、アスカから聞いた事あるかしら?」
「はい、僕と同じ歳なのに飛び級で大学を卒業していることや、何千人という志願者の中から
選ばれてエヴァのパイロットに選ばれたって…聞きました。何か違う世界の話の様でしたけど。」
余りにも自分とかけ離れた輝かしいアスカの戦歴に圧倒され、何の取り柄もない自分を
情けなく恥ずかしく感じた事を思い出した。そんなシンジの心を読んだかの様にミサトが話を続ける。
「確かに凄い事よ。でもシンジ君、それ以外の話って聞いた事がある?例えば家族の事、
友達の事、お気に入りの場所とかお店とかの話、アスカから聞いたことある?」
「いいえ…そう言えばアスカのドイツの話って勉強やエヴァの事だけだった様な気がします。」
ミサトに指摘されて初めて気づいたが、確かにそれは不自然な事だった。
アスカのドイツ時代は彼女の多感な頃にあたり、色々な事に興味を持つ時期だったはずだ。
「そういう余裕すらなかったのよ、あの頃のアスカには…。」
そんなシンジの疑問に答えるように寂しそうにミサトが呟く。
「自分の力を示す事、ううん見せつける事ね…そうする事でしかあの頃のアスカは
人との係わりを持つ事ができなかった。だから勉強した、訓練もしたわ、強い何でもできる
自分を保つ為に…。それこそ他のすべてを切り捨ててね。」
「そんな。それじゃアスカは…。」
アスカのドイツでの辛い生活を思い肩を震わせるシンジをミサトは温かい眼差しで見ていた。
「アスカの攻撃性は怯えの裏返しなのよ。」
「ああみえてもあの娘、臆病で傷つきやすい所があるから。きっと自分が認められない事、
否定されてしまう事を何よりも恐れていたんでしょうね。」
そう言った時のミサトの瞳がかすかに潤んでいるのにシンジは気づいた。
「それで、誰からも認められ、好かれる完全無欠な自分を創り上げてしまった。そして逆に
その自分に縛りつけられてしまっていたの…哀しい事にね。」
そこで一度言葉を切るとミサトはシンジに向かって微笑んだ。
「だから今朝みたいに自分の素の感情をそのまま出せるっていう事は良い傾向だと思うのよね。
それだけシンジ君に本当の心を開いているって事なんじゃないかなってね…。
まあ、ちょっと行き過ぎのきらいもあるけどね。」
その時になってシンジは初めて気づいた。毎日繰り返される自分とアスカのケンカを見つめる
ミサトの瞳が何故あんなに優しく、温かいのかを…。
「そこんところはシンジ君も良くわかってくれているみたいね。」
ミサトの言葉にシンジはコクリと頷いた。ミサトの言う通りだった。
いつも周囲に見せている活発で、すべてにおいて万能な天才少女の姿が
アスカの本当の姿ではない事にシンジは気づいていた。
優しく傷つき易い純真な心を持っているのに、それを上手くあらわす事ができない不器用な少女。
誰からも好かれる天才少女の姿も、我侭で勝手なシンジに見せる姿も、その不器用さ故に出てきてしまう
アスカの1面だけを強調した見せかけのものなのだとシンジは思い始めていた。
それは家、学校、ネルフと24時間を殆ど一緒に共有するシンジだからわかる事なのかもしれない。
一緒に暮らすようになってシンジはアスカの色々な姿を見てきた。
それは同世代の女の子に対して男が持つ様々なイメージを粉々に打ち砕く様なものから、
少年の心をときめかす異性としての女性の存在を感じさせるものまで様々だった。
そして、それらすべてがアスカなのだという事をシンジは次第に受け入れられる様になっていた。
そんな中でシンジにとって決して忘れる事のできないアスカの姿があった。
それは使徒を倒すべく、ユニゾンを完成させる為に初めてアスカと寝食を共にした時の事だった。
なかなか上手くいかないユニゾンに不満が溜まって行くアスカ。
その苛立ちから直ぐにケンカになってしまう。そんなアスカの不満が頂点に達したのは
シンジと綾波が練習すらせずに完璧なユニゾンを見せた時だった。
自分とは全くといっていいほど合わないシンジが、綾波とは微細な動きも、それどころか心までもが
ユニゾンしているかの様にアスカには思えた。次々と動作をこなすふたりの姿にアスカが感じたもの…
自分とではなく綾波とユニゾンするシンジへの怒り、何の感情も見せず淡々とこなす綾波への屈辱感、
そして加持やミサトの前で恥をかかされたという羞恥、けれどもそれ以上にアスカの心を占めていたのは
仲睦まじげに踊るふたりへの羨望とせつない哀しみだった。
それはアスカにとって予想もしなかった感情であった。自分でも理解出来ない感情に混乱したアスカは
そのまま家を飛び出してしまう。無我夢中で走って、疲れ果ててようやく立ち止まった彼女を
迎えに来てくれたのはシンジだった。不器用ながらもアスカを慰めようとするシンジの気持ちが
切々と伝わって来た。普段なら同情を受けるなんて!と跳ね除けてしまうアスカだったが
何故か素直にシンジの思いを受け入れる事ができたのだった。
その時、お互いの心が瞬間重なった事をシンジもアスカも感じた。
それは、ふたりにとって初めての経験だった。一瞬とはいえ他人と自分の心が同じ思いに
満たされる…それは決して不快なものではなかった。
やがてユニゾンが上手く行くにつれ、更に互いの心が深く通じ合っていく事を
ふたりとも確かな事として感じ取って行くのだった。
そんな或る夜、シンジはなかなか寝付く事ができずウオークマンを聞きながら電気も点けずに
布団の上に身を横たえていた。ミサトが仕事で留守なので、アスカとふたりだけの夜。
襖一枚隔てただけの隣の部屋から聞こえる穏やかなアスカの寝息が、シンジの心に響いてくる。
とても平然と眠れる状況ではなかった。(何で、アスカはあんなにぐっすりと眠れるんだろうか?)
自分を信頼してくれているのか、それとも男として見ていないのかシンジには判断ができなかった。
いずれにしろ理性の面からも、度胸の面からも眠っているアスカに何かしよう等という事は
シンジにはできず、ただ悶々と夜が明けるのを待つしかなかった。
そんな時、不意に隣の部屋の襖が開いた。ドキリとしてCDのスイッチを押してしまう。
CDの回る甲高い音とともにアスカの足音が聞こえた。やがて遠くから灯かりと水の流れる音。
(なんだ、トイレに起きただけか…。)目を閉じたまま、何故かホッとするシンジ。その時…。
突然、シンジの顔の直ぐ側に温かく柔らかいものの存在が感じられた。
慌てて目を開けると、そこには安らかな寝息をたてて眠る無防備なアスカの顔があった。
声を立てずに慌てふためくシンジだが、その視線が知らずにアスカの寝顔に、そして露わな胸元に
吸いつけられてしまう。思っていた以上に柔らかそうな胸のふくらみ。そして可憐な唇。
あまりにも甘美な誘惑にシンジの理性も臆病さも弾け飛んでしまう。
かすかに開かれたアスカの唇に自分の唇を寄せて行くシンジ。同時にその右手がアスカの
胸元に近づいて行く。心臓の鼓動がシンジの頭の中で最大ボリュームで聞こえている。
もう止める事などできなかった。アスカの唇と胸に触れたい…後はどうなっても良かった。
その時だった…あと数センチという所でアスカの唇がかすかに動いた。
瞬間、シンジの動きが止まった。そしてアスカに触れようとしていた右手で毛布を掛け直すと
ほつれたアスカの前髪をそっと直し、自分の毛布を持って部屋の隅へ移動した。
そして頭から毛布を被ると、アスカの寝姿を見ないよう壁の方を向いて横たわった。
(僕は…最低だ。)自己嫌悪に陥るシンジに先程のアスカの姿が鮮やかに蘇る。
月明りに照らされたアスカの涙と「ママ…。」と小さく呟いた唇。
余りにも哀しく、美しいその姿はシンジの男の身勝手な欲望を打ち砕くには十分だった。
心の奥に秘められたアスカの哀しみの深さは、今も思い出す度にシンジのこころをしめつける。
日頃はそんな素振りすら見せないアスカの心に秘められた深い思い。
少しずつ心を通い合わせていた…そう感じていたシンジにとって目の前で哀しみに包まれている
誰にも見せたことのない本当のアスカの姿は余りにも衝撃的であった。
その時から、シンジの心の中でアスカは守ってあげなければいけない大切な存在になっていたの
かもしれない…もっともシンジ本人の自覚は全くなかったが。
(僕はバカだ…。あの時、アスカを守ってあげたいって思ったんじゃないか!それなのに…。)
見せかけのアスカの強さと猛々しさに惑わされ、こぼしてしまったあの一言。
(僕は何であんな事を…。僕は…最低だ…。)
俯き、唇を噛むシンジにミサトは静かに微笑むと、視線をシンジから外したまま優しく声をかけた。
「あの娘、自分が認めている人から嫌いって言われる事を恐れていたんじゃないかしらね…。」
まるで明日のお天気の話をするような明るい調子で話しかける。
「例え本気でないにしても、一番言われたくない人から一番聞きたくない言葉を言われてしまったのよね。」
そう言うとミサトは初めてシンジと視線を合わせた。
そこにはアスカとシンジに対するミサトの温かな思いが溢れていた。
「シンジ君にも言い分はあると思うけど、そこのところわかってあげてほしいな、って
もう充分わかってくれているみたいね!」ミサトの横顔に笑みがこぼれる。
アスカだけでなく自分の事も傷つけない様にと考えてくれているミサトの思いやりに
触れ、涙を堪えながら、ただうなずく事しかできないシンジだった。
「時代錯誤って言われるかもしれないけど、女の子っていつも好きな男の子に守って
貰う事に憧れている…そう思うんだな、あたしとしては!」
一際明るい声でそう言うとミサトは飛び跳ねる様に席を立った。
「後はシンジ君に任せるわ!じゃ、おやすみ。」
自分の部屋に戻ろうとするミサトだったが扉の所で立ち止まると、一言付け加える。
「あっ、そうそう。アスカ、今お風呂に入っているからね。アスカの事…お願いね。」
(ありがとうございます、ミサトさん…。)深深とミサトに一礼をするシンジ。
細やかなミサトの気遣いにシンジはミサトが去った後もしばらく頭を上げる事ができなかった。

第5章 ふたつの涙
薄い硝子の扉ごしに湯船のお湯の揺れる音だけがかすかに聞こえていた。
ミサトの励ましを受けて、なんとか脱衣所まで来たシンジだったが声をかけるきっかけが掴めないでいた。
浴室のアスカもシンジが居る事に気づいているらしく、かすかに緊張感が伝わってくる。
「ア、アスカ。バスタオル洗っておいたから…。ここに置いておくね。」
ようやくのことで毎日繰り返している台詞をかなりぎこちない様子で口にする。
けれども浴室からは何の返事も返って来なかった。
気まずい空気が漂う中、意を決したシンジがずっと言えないでいた一言を口にする。
「その…ごめん、アスカ。」かすかにお湯が揺れる音がした。
返事はなかったが、アスカが聞いてくれている気配は確かに感じていた。
「その場の勢いで、あんな事言っちゃったけど…本気じゃなかったんだ。」
再びお湯の揺れる音だけが聞こえてくる。それでもシンジはアスカに話しかける。
「アスカの事、傷つけてしまって…本当にごめん。それだけ伝えたかったんだ。」
今度はお湯の揺れる音すら聞こえなかった。しんと静まり返った浴室。
「じゃあ、風邪ひかないように…おやすみ、アスカ。」
シンジはそれだけ言うと、静かに脱衣所から出て行った。
浴室の硝子越しにシンジが謝っている間、アスカは湯船の中に身を沈めたまま、身動きひとつせず、
音を立てないようにしていた。それは拒絶ではなくシンジの言葉を、いや心を聞き逃さない為にであった。
そして、シンジの思いは言葉と一緒に確かにアスカの心に届いていた。
アスカの瞳から途切れる事なく流れる温かい涙がその証だった。
「まったく…。何でこんな所で言うのよ。」お湯に浸かったままポツリと呟く。
「こんな姿じゃ、あんたの前に出たくても出られないじゃないの…。」
言葉は乱暴だが、その口調は優しかった。シンジの思いが伝わった為だろうか?
湯船に浸かったまま、先程のシンジの言葉を反芻する。
その度に温かな思いがアスカの胸に湧き上がってくる。
(ちゃんと謝ってくれたね、シンジ…。仕方ない、そろそろ許してあげようかな?)
そんな事を考えている時、ようやくアスカは自分の頬を伝う涙に気づいた。
「うそ、あたし…泣いているの?」指先で頬を撫でる。確かに感じる涙に戸惑いを隠せなかった。
今までのアスカにとって、泣くという行為自体が縁遠いものであった。
泣く暇があるなら努力して、その原因を叩き潰す。それがアスカの信条であった。
泣いたら負け、そう思って頑張ってきた少女にとってこの涙は理解し難いものだった。
「やだ…嬉しいはずなのに、何で?」
お湯で顔を洗い流し、涙を拭き取りながら涙の意味を考える。そして得た答え、それは…。
(アスカ、貴方そんなに心配だったの?シンジに嫌われる事が…。)
嫌われる事への怖れ…それは、アスカにとって初めて覚える感情だった。
その容姿、才能に対する妬みから今までも嫌われる事は度々あった。けれど、そんなものは
アスカにとっては雑音に過ぎなかった。嫌いなら嫌いでもいい、その代わり自分の事を
認めさせてやる…そうやって心のバランスを保ってきたのだった。
嫌われても自分のことを認めさせる事ができれば自分の勝ち、そう思ってきた。
でもシンジにだけは…。
(あいつに言われた一言がこんなに痛いなんて…。やっぱりあたしシンジの事が…。)
掌を胸にそっとあてると自分のこころを確認するかの様に瞳を閉じる。
白い湯気に包まれたまま自分に問いかけてみる。うっすらと桜色に染まる肌。そして…。
「そんな事ないわ!」沈思していたアスカの唇が開かれる。
「きっと、あいつの方が先にあたしの事を…だから、あたしもあいつの事を…」真っ赤に染まる頬。
掌でピタピタと頬を叩きながら、まるでシンジがそこにいるかの様に話しかける。
「あんたにしてはちゃんと謝ったし、あの言葉が本気じゃない事もわかったけど…でも、凄く
傷ついたんだから…当分の間、許してやるもんですか。」
まるで素晴らしいアイデアを思いついたかの様にアスカの瞳が耀く。
「そうよ、泣いて謝るまで許してやるもんですか!当然よね、バカシンジの分際でこのあたしを
傷つけたんだもの。相応の罰を与えないといけないわよね。」
そう言うと湯船の中で立ち上がり、両手でガッツポーズを取る。飛び散った水滴が煌く。
それは一見、いつものアスカに戻った様に見えた、けれど…。
「シンちゃんに嫌われちゃうかもよ〜。」不意に朝のミサトの一言が蘇る。
ズキン!アスカのこころを鈍く重い痛みが襲う。
「アスカなんて、大嫌いだよ。」あの時のシンジの言葉が頭の中でリフレインする。
その度に切り裂かれるような痛みがアスカのこころを走る。
「今日のは本気じゃなかったかもしれないけど…でも…。」
再び湯船に全身を浸すと体育座りをする様に背中を丸めて、肩を両手で抱く。
(シンジ、あたしの事どう思ってくれているんだろう?)
思い返してみれば今まで真剣に考えた事がなかったかもしれない。
何時の間にかシンジが自分の一番近くにいる事が当たり前のようになっていた。
だから、自分がそうであるようにシンジもきっと自分と同じ気持ちに違いないと思っていた。
けれど…。
(嫌われてはいないと思う…でも、あいつ優柔不断で、優しいとこあるから…あたしの事を
何とも思ってなくても、あたしを傷つけないようにしてくれてるだけなのかもしれない。)
一度覚えた不安は消える事なく、少しずつアスカの心に広がっていく。
(ミサトの言葉じゃないけど、嫌い嫌い言っていたら本当に嫌われちゃうかな?)
自分に嫌いと言われる時に見せるシンジの哀しげな顔が浮ぶ。
(もうシンジに嫌いって言うのやめようかな、あいつもなんだか哀しそうな顔するし…。
でも、つい言っちゃうのよね。…あたし、あいつに甘えているのかな?)
考えれば考えるほど大きくなっていく不安に押し出され、アスカの唇からこぼれる本当の思い。
「あたしの事…嫌いじゃないよね、シンジ?」
その一言をきっかけにして不意に蘇る幼い頃の記憶。それは今も忘れる事ができない母の記憶。
アスカが生きている母の姿を見た最後の記憶だった。
「ママ、それはお人形よ!あたしは此処よ、此処に居るの!」
病室の扉を開けて、母に呼びかける幼いアスカ。医師や看護婦がそんなアスカを痛ましげな
目で見つめていた。そして、母はアスカには目もくれず、胸に抱いた壊れた人形にひたすら
話しかけていた。たまりかねたアスカが母の傍らに駆け寄り、シーツの裾を掴む。
「お願い!私を見て、私を嫌いにならないで…。ママ、お願いよっ!」
人形を抱く母親に必死に呼びかける。けれど母の瞳がアスカに向けられる事はなかった。
サルのぬいぐるみをギュッと抱きしめる幼いアスカ。涙で汚れた顔が余りにも痛々しかった。
その時、背後から別の声が聞こえてくる。
「碇君は私のもの…誰にも渡さない…。」
慌てて振り返る14歳のアスカを赤い瞳が容赦なく貫く。敵意に満ちた禍禍しい視線。
「あなたは碇君を傷つけるだけ。碇君には相応しくないの。」
淡々とした口調で語るレイ。それが一層言葉に凄みを与えている。
「わからないの?碇君は貴方の事が嫌いなの。貴方と一緒に居たくないの。」
余りにも厳しいレイの言葉に追いつめられていくアスカ。
「やめて――っ!」思わず唇からこぼれる悲鳴。湯船に幾つもの波紋が広がっていた。
我にかえったアスカを再び不安が包み込む。押し潰されそうになるアスカのこころ。
「ホントにシンジに嫌われたら、あたし…。」
不安から逃れるかのように、肩を抱いていた両手を外すと両膝を抱えて
まるで胎児の様に身体を小さく丸めてしまう。
「バカ…シンジ…。」
小さく呟くアスカの頬を再びひとすじの涙がつたう。
それは先程の温かな涙とは違う、今のアスカの心を映した冷たく哀しい涙だった。

第6章 アスカのこころ
風呂場から戻ったシンジは夕食の後片付けを済ませ、明日の朝食の準備を整えると自分の部屋に戻り、
ベッドに身体を投げ出した。勇気を振り絞った一言…まだ心臓がドキドキしていた。
「許してもらえなかったのかな…。」天井に向かってポツリと呟く。
あの後、お風呂を出たアスカはシンジに会う事もなく自分の部屋に戻ってしまった。
もしかしたら…と淡い期待を持っていたシンジだったが、その一方で簡単には許して貰えないだろうと
考えていた。シンジは自分の軽率な一言がどれだけアスカを傷つけたのか気づいていた。
(仕方ない…また、明日謝ろう。アスカが許してくれるまで…。)
今日一日に起こった様々な出来事を思い返しながら、シンジはいつの間にか深い眠りにおちていた。

どれくらい眠ったのだろうか、シンジはどこからか聞こえてくる泣き声で目を覚ました。
(泣き声…?こんな時間に、一体どこから?)闇の中で泣き声に耳を澄ます。
(幼い子供の泣き声…?いや、この声は…まさか。)
誰が泣いているのか気づいた瞬間、シンジは部屋から飛び出していた。暗い廊下を迷う事なく
アスカの部屋まで走り抜けると慌てて襖を開ける。
暗い部屋の中から聞こえる泣き声…それは確かにアスカのものだった。
手探りでアスカの部屋の電気をつける。煌煌たる光の中、眩しさを堪えアスカの姿を探す。
ピンクのシーツで覆われたベッドの上でアスカはうつぶせになって泣いていた。
お風呂から上がったまま眠ってしまったのだろうか?乱れた長い髪がアスカの泣き顔に被さっていた。
タンクトップとショートパンツ姿のアスカの身体がまるで赤ん坊の様に丸く小さくなって震えていた。
瞳からは今も涙が溢れ、震える唇からかすかに聞こえる呟き…。
「どうしたの、アスカ!」無我夢中でアスカの傍らに駆け寄るシンジ。その耳にアスカの声が届く。
「ごめんなさい、ごめんなさい…、いい子になります。我侭も言いいません。だから…。」
その時アスカの顔がシンジの正面を向いた。シンジの目の前で桜色のアスカの唇が言葉を紡ぐ。
「…お願い、あたしを嫌いにならないで…シンジ。」
ズキン!アスカの一言がシンジの心の中心を貫く。
「アスカ…。」それ以上言葉が出なかった。アスカを思う心がシンジの胸を塞いでしまっていた。
(アスカがそんな事思っていてくれたなんて…、それでこんなに苦しんでいたなんて…。)
目の前で身体を小さく丸めて、まるで幼子の様に泣きじゃくるアスカの姿に
いつしかシンジの瞳からも熱い涙が溢れ出していた。
(僕は、何てバカだったんだろう…。)
シンジは涙を拭うと、そっとアスカに微笑みかけた。泣いていたアスカの表情がすこし緩む。
そしてベッドに腰を下ろすとアスカの背中に手を当て、優しく撫で始めた。
アスカへの思いを込めたシンジの掌のおかげか次第にアスカの震えが収まっていく。
「シンジなの…?」いつもと違う少し怯えたような声。シンジの心がまた痛みを覚える。
「そうだよ、アスカ。僕はいつでも君の側にいるよ。」震えるアスカの心を包み込む様に話しかける。
「あたしの事、嫌いになったんじゃないの…?」泣き出してしまいそうな、哀しい声。
「僕がアスカを嫌いになるわけないじゃないか。」迷うことなくシンジが即答する。
シンジの言葉にアスカが伏せていた顔を上げる。潤んだ瞳がじっとシンジを見つめる。
「ホント…?」
「本当だよ。」
「どんな事があっても?」
「うん、どんな事があっても。」
曇りのないシンジの言葉に、ようやくアスカに笑顔が戻る。
それは幼子の様にあどけなく、純真な笑顔だった。そんな笑顔がシンジの心に勇気を与える。
「ごめんね…アスカ、辛い思いをさせて。でも、もう大丈夫だよ。僕がアスカを守るから…今はまだ
頼りないかもしれないけど、強くなるから。アスカを守れる位、強くね。」
それはシンジが心の奥でずっと思っていた事。そして今、初めて言葉に出来た決意であった。
「シ〜ン〜ジ。」甘えた声でシンジの名を呼ぶと、シンジの胸に抱きつく。
いつもなら、慌ててうろたえてしまうシンジだったが、今日のシンジは違っていた。
そっとアスカを抱きとめると、その髪を優しく撫で、耳元で優しく囁いた。
「だから、安心しておやすみ。アスカが眠るまでここにいるから…。」
「うん、おやすみ。」
力強いシンジの言葉に安心したのか、直ぐにシンジの膝枕で安らかな寝息をたて始める。
そんなアスカの寝顔を見ながらシンジは自分にとって一番大切なものが何かを改めて心に刻むのだった。

第7章 勇気を出して 
チュンチュン…スズメの声が目覚めを誘い、朝の光がシンジの横顔を照らす。
「う〜ん!」ベッドの上で大きな伸びをするシンジ。心地良い目覚めだった。
天にむかって伸ばされた掌をじっと見つめる…鮮やかに蘇る昨夜のアスカの姿。
昨夜の温かく柔らかなアスカの感触が、まだシンジの掌に残っていた。
(昨夜、僕はアスカと…。)
通じ合えたふたりのこころとこころ。アスカを守るという決意を改めて心に誓うシンジ。
手早く着替えを済ませると朝食の準備の為にキッチンへと向かう。
その間も昨夜のアスカとの事が思い出されて、つい顔がほころんでしまう。
丁度キッチンの入口の所でシャワーを浴びたばかりのアスカが出てくるのが見えた。
「おはよう、アスカ!」清々しい笑顔でアスカに話しかけるシンジだったが…。
「?」一瞬訝しげな顔をするアスカ。何で?という当惑の思いが顔に出ていた。
予想もしなかったアスカの反応にシンジもまたどうすれば良いのかわからなくなってしまう。
キッチンの入口で固まってしまうふたり。
やがてアスカがキッとシンジを睨みつけると、怒りを押え込むように一言づつ区切りながら
シンジに話しかける。昨夜と余りに違うアスカに思わず身を引いてしまうシンジ。
「あんたあたしの事、大嫌いなんでしょう…あたしに、気安く話しかけないでほしいわね。」
さも憎々しげにそれだけを言い捨てるとプイと横を向いて自分の部屋に戻ってしまう。
アスカの言葉に茫然と立ち尽くしてしまうシンジだったが、ようやく事態の深刻さに気づく。
(もしかしてアスカ、昨日の事…覚えてないの…?)
ありえない事ではなかった。夢うつつの状態だったからこそ昨夜の様に素直になれたのかもしれない。
そしてシンジの思いを知り、満足し安心したアスカはそれを安らかな眠りに変換してしまったのだろう。
覚えていたとしても夢の中の出来事と思っているのかもしれない。
それゆえアスカの中ではまだシンジとケンカ中なのだろう。
(あんな事…もう一度なんて、言えないよ…。)
昨夜はアスカの素直な言葉に無我夢中で自分の思いをアスカに伝える事ができたが、いつもの…
いやいつもより機嫌の悪いアスカにもう一度自分の思いを伝える事など不可能な事に思えた。
弱気になるシンジの心。そんなシンジの心に昨夜のアスカのせつない姿が浮ぶ。
アスカの涙とあの一言が鮮やかに蘇る。そう、あの時感じた心の痛みまでも…。
(ダメだ!このままじゃダメだ…。ちゃんと伝えなきゃ、アスカを傷つけたままになってしまう。)
(逃げちゃだめだ…、逃げちゃだめだ。)
キッチンの入口に立ったまま、真剣な顔で何事か考えているシンジを不思議そうにペンペンが見ていた。

「じゃあミサト、行ってきま〜す!」 「…行ってきます、ミサトさん。」
明暗のはっきりとした挨拶を残して出掛けるふたりの声を聞きながらミサトは今朝のシンジの
様子を思い出していた。朝食の間も何かを考え続けているようなシンジの姿。
昨夜、アスカのものと思われる泣き声が聞こえていたが、ミサトは敢えて黙殺した。
もちろんシンジに期待しての事であった。そしてシンジはその期待に応えてくれたようだった。
そして、今朝のシンジの態度もそれに関連しての事だとミサトは見抜いていた。
一方アスカといえば一応いつもの元気を取り戻したかの様に見えていたが、まだ心の中の
傷は癒されていない様に感じられた。このままでは心の傷に気づかない振りをしたまま
無理に無理を重ねてしまうのだろう…。そんなアスカを思い、ミサトの心が痛んだ。
(シンジ君…頼んだわよ、アスカの事…。)
ベランダに立ち、ふたりの後ろ姿を見送りながら心の中でそう呟くミサトだった。

「シンジ、そっちは学校へ行く道じゃないわよ?あんた寝惚けてんの。」
いつもと違う道に進もうとしているシンジに気づき、アスカが怪訝そうに声をかける。
「ちょっと疲れちゃってさ。そこの公園で冷たいものでも飲んでいかない?」シンジが笑顔で応える。
「あ、あんたの奢りなら、付き合ってあげてもいいわよ…。」
いつもと何処か違うシンジの様子に少し緊張した声でアスカが答える。
そう言えば今日のシンジはいつものシンジと違っていた。
まだアスカがケンカ中と見なしている為に会話らしい会話もなく、普段より少しだけ距離をおいて
歩いているのはいつもの事であったが、決定的に違っていたのはシンジがアスカの前にいる事だった。
シンジの背中を見て歩くというのはアスカにとって新鮮な感じだった。
いつもならアスカの機嫌を伺いながら付かず離れずついてくるシンジ。「男らしくないわよ!」等と言いつつ
アスカの事を気にかけるているシンジの行動をアスカは嫌いではなかった。
それが今日は…。微かな戸惑いを感じながらも大人しくシンジの後に付いて行くアスカだった。

朝の公園は殆ど人影がなく、アスカとシンジの貸し切り状態であった。
もっと時間が早かったり遅ければウオーキングや通勤するサラリーマンの姿があったかもしれない。
まるでそこだけ別の時間が流れているかのように感じるアスカだった。
戸惑いとわずかな緊張感を感じたままベンチに腰を下ろしたアスカにシンジがそっと寄り添う。
「はい、アスカ。」そう言うとノンカロリーのアイスティーの缶をさりげなく渡す。
シンジの一連の動作を見ながらアスカは感心したようにシンジに微笑みかけた。
「あんたも少しは女性に対してスマートに振る舞えるようになったみたいね。」
「アスカの教育のおかげかな。」そう言うと少し照れた様な顔でアスカに微笑む。
シンジの笑顔にポッとアスカの頬が赤く染まる。そしてシンジに見られないようそのまま俯いてしまう。
そんなアスカをシンジはそっと見守っていた。大人びたシンジの行為に更に熱くなる頬。
「話…あるんでしょ?」俯いたまま、ようやくそれだけを口にする。
「うん。」静かに頷くシンジ。
「昨日の事?」シンジの顔を見ることができないアスカ。
「うん。」落ち着いたシンジの態度が何故か恨めしくなってしまう。
「は…話があるんなら、さ…さっさと言いなさいよ!」つい強い口調になってしまう。
「そうだね…その、あの…。」話を始めようとした途端シンジの様子が変わった事にアスカは気づいた。
今までのどこか大人びた、そうどこか余裕をもった雰囲気がいつものちょっと頼りないシンジに戻る。
こうなれば場のペースはアスカのものだった。
「男ならさっさと言いなさいよ!」シンジの顔を正面から見つめて言う。
「う、うん…。」
アスカの迫力に押され気味のシンジだったが深呼吸をひとつして話始める。
「アスカ、昨日はゴメン。僕が悪かったんだ。アスカの気持ちも考えないで、アスカを傷つけるような
事を言って…。これからはもっと気をつけるから…僕の事、許してほしい…。」
そう言うとシンジはアスカに向かって深深と頭を下げた。
潔い真摯なシンジの謝罪にアスカの心がほわっと温かくなる。「いいわよ…」と言いかけたアスカだったが
昨夜のお風呂での決意が不意に思い出される。そして…。
「嫌よ!」凛としたアスカの声が公園に響いた。
「えっ!?」予想もしなかったアスカの返事に驚きを隠せないシンジ。
「あんたの気持ちはよ〜くわかったわ。反省しているって事も認めてあげる。」
「それなら、どうして?」
そんなすがるようなシンジの問いにアスカは思いっきり溜めた大声で答えた。
「すっごく、すっご〜く傷ついたんだからね、あたし。大体シンジのくせに生意気なのよ!
このあたしにあんな失礼な事を言うなんて…。」アスカの瞳がキラリと光る。
「あんたには空よりも高く、海よりも深い反省が必要よね。」
「だから当分の間許すつもりはないからね!」そう言い放つとプイと背中を向けてしまう。
潔く謝ったシンジだったが、取りつく島もないようなアスカの態度につい反論してしまう。
「そんな…アスカだって直ぐに僕の事を大嫌いだって言うじゃないか…。」
「あたしは良いのよ!」きっぱりと言い放つアスカ。ここまでくると清々しさすら感じさせる。
「そ、そんな勝手な…。」しかし言われた方としてはたまったものではない。
「ひどいよ、アスカ。僕、そんなにアスカに嫌われる様な事をしているつもりはないんだけど…。
ご飯だって洗濯だって僕がやっているじゃないか。」
「何よ、あたし世話してくれなんて頼んだ覚えはないわよ!」
「そ、そんな…。」シンジの必死の抗弁も一言で弾き飛ばされてしまう。
「あたしの繊細な心を傷つけたんだから、もっともっと反省しなさい!わかった、シンジ!」
左手を腰に当て、右手でシンジを指差しながら、そう言い放つアスカ。
そんなアスカの態度につい反発したくなるのも無理のない事だったかもしれない。
「そんな…自分勝手で、わがままばかり言って…、アスカなんか大…。」
そこまで言いかけてシンジは気づいた。シンジが言いかけた言葉を聞いた瞬間、アスカの顔から
血の気がサッと引いてしまい、まるで貧血を起こしたかの様に足元がふらついている事に…。
「アスカ!」シンジは慌てて駆け寄ると、肩を抱いてアスカの身体を支えた。
「だ…大丈夫よ。」そう答えるアスカだったが口で言うほどしっかりとしているようには見えなかった。
いつもより白くなった肌にシンジの胸がズキンと痛む。またアスカを傷つけてしまった事に気づいていた。
「ごめん、アスカ。でもアスカがあんまり酷い事言うから…。」
アスカの肩を抱いたまま言葉を紡ぐシンジ。アスカの肩に触れた掌が熱い。
「僕だってアスカに「嫌い」って言われるの、やっぱり辛いから…。」
それはシンジの本当の気持ちだった。嫌いと言われて気持ちのいい人がいるはずはない…
そう、それが自分の好きな人から言われたら尚更…。
でも、そんな言葉を自分はアスカに使おうとしてしまった…あんなに深くアスカの事を傷つけてしまい、
アスカに謝ろうと思っていたのに…自分の軽率さを後悔する。
肩を抱いたまま俯いてしまうシンジに、呟くようなアスカの声が届く。
「そんなの…本気で言うわけ…ないじゃない。」
「え?」予想もしなかった言葉に思わずアスカの顔を見直すシンジ。
シンジの視線を避けるようにプイと横を向いてしまう。その頬がシンジが気づくほど赤く染まっている。
「あんたの事嫌いだなんて…あたしが本気で言う訳ないじゃない!」
呟くような小さな声…けれどその言葉はシンジのこころに確かに届いていた。
素直でない、不器用な言葉…けれどその中に込められているアスカの本当の思いをシンジは
感じとることができた。温かくなっていくシンジのこころ。
「アスカ…。」
「それくらい察しなさいよね!このバカシンジ!」
照れ隠しの為にキッとした怒ったような顔でシンジを見つめる。不意にその瞳からこぼれ出す涙。
「なみ…だ?」突然のアスカの涙に驚きのあまり言葉がでないシンジだったが、
驚いたのはアスカも同じの様だった。シンジの前で珍しくうろたえてしまう。
「な…何でよ?どうして涙なんて…。ちょっと、こっち見ないでよバカシンジ!」
慌てて涙を拭い、泣き顔をシンジから隠そうとするアスカの姿に昨夜のアスカの姿が重なる。
(これがアスカの本当のこころ…。)
そう気づいた瞬間、シンジのこころの中を様々なアスカが駆け抜けた。
赤いプラグスーツに身を包み、鬼神の様に戦場を切り裂くアスカ。
中学校の制服姿。学校のアイドルとして輝きを放つアスカ。
肌も露わなタンクトップとショートパンツ姿でごろ寝をしながらTVを見ているアスカ。
赤いバスタオル1枚を纏っただけでシンジを怒鳴りつけるアスカ。
月明りの中でシンジの傍らで眠ったまま涙をこぼすアスカ。
そんな沢山のアスカ達の中に隠れるようにひっそりと立っていた本当のアスカ…。
優しくて寂しがりで、甘えん坊のくせに誰よりも強くなろうと無理をしていた少女の姿。
(僕が命に代えても守りたいと思った…優しくて哀しい、大切な女性の本当のこころ。)
泣き顔をシンジに見られないよう背中を向けて懸命に涙を拭うアスカの後ろ姿に
シンジのこころの奥底から愛しさが湧き上がってくる。
そしてその思いに素直に従い硝子細工を扱うかのように背中から優しくアスカを抱きしめる。
突然のシンジの大胆な行為に驚きと恥ずかしさで言葉が出ないアスカ。
真っ赤な顔で何か言おうとしていたが、かすかに唇が開くだけで声にならない。
そんなアスカにシンジは昨夜の言葉をそっと繰り返す。
「僕はいつでもアスカの側にいるからね。そして、どんな事があってもアスカの事を守るから。」
「バ…バカ!い…いきなり何言ってんのよ。」ようやくアスカから出た言葉はやはり憎まれ口だったが、
そんな事は全く気にならなかった。なぜなら、シンジにはわかっていたから…アスカのこころが。
だから迷う事なく自分の素直な思いをアスカに語り続ける事ができた。
「強くなるから…僕、アスカの事を守れるくらい強くなるからね。」
静かな、けれど力強いシンジの言葉はアスカのこころの中に深く響いていた。
「あんたに、そんな事言われたら…あたし、あたし…。」
自分のこころを上手く言葉にする事ができずに混乱してしまうアスカ。
「もう無理しなくていいんだよ。多分、今は僕が一番アスカの事を知っていると思うから…。」
そんなアスカにシンジは思いを語り続ける。それは迷い迷った末に遂に見つけた答え。
「だからアスカが一番自分らしいと思う姿でいてくれればいいんだよ。」
もうシンジのこころは揺るがなかった。
「僕はそのアスカを守る…そう決めたから。」
そう言うと少しだけ…ほんの少しだけアスカを抱きしめる腕に力を入れた。
シンジの思い、決意を全身で感じるアスカ。
「な…何、かっこいい事言ってんのよ!シンジのくせに…生意気なんだから。」
そう言い返して強がるが、もう限界だった。
自分のすべてを…強さも、弱さも、優しさも、厳しさも、甘えも、わがままも、良い所も悪い所も
すべてを受けとめてくれる、今自分を抱きしめている少年はそう言ってくれているのだ。
自分の傷つき易い弱いこころを守る為に重ねて来た無理や苦しみを包み込んでくれる…
少年の言葉は少女にとって彼女が求めて止まなかったものであった。
そして少女にはわかっていた。少年がその一言を告げる事を決意するまで、どれほど悩んだかを…。
だから、嬉しかった。少年の言葉の重さが少女には理解できたから。
「アスカ…?」俯いたまま動かなくなってしまったアスカを案じるシンジ。
その時、アスカの髪が大きく揺れたかと思うと一瞬シンジの腕の中からアスカの姿が消える。
けれど次の瞬間、シンジは自分の胸に顔を埋めて泣きじゃくるアスカの存在を感じていた。
今まで我慢していた思いが弾けてしまったのだろう、アスカはいつ果てるとなく泣き続けていた。
そんなアスカの小さな背中をそっと抱きしめながら、シンジは心の中で呟く。
(ごめんね、アスカ。こんなにアスカが苦しんでいたのに気がつかなくて…。)
そして少年の胸に抱かれながら少女も心の中で呟いていた。
(何だろう…このぬくもり…。あたし、こうしてシンジに抱かれた事があるような気がする?)
優しくお互いのこころを触れ合わせながら、素直な気持ちで、まるで時間が停まったかの様に
いつまでもいつまでもその場で抱き合うふたりだった…。

通学時間を大幅に過ぎ、静かになった学校への坂道を一組の少年と少女が歩いていた。
二人分の鞄を持ちながら懸命に坂を登る少年に、まるでじゃれるかの様に前に後ろに
くるくると走り回る少女。仲睦まじげな姿が太陽の光に照らされている。
「シ〜ンジ!」嬉しくて嬉しくて仕方がないといった感じのアスカの笑顔!
「うん、なあに?」鞄ふたつ抱えて息も絶え絶えのシンジが笑顔を作り答える。
身軽なアスカはそんなシンジの様子を楽しそうに見つめている。
「さっきの台詞、忘れないでよ。あたし一生忘れないからね。」シンジの顔を覗き込む様な仕草を
見せると、そのままシンジの目の前で鮮やかなターンを見せる。
「ちゃんと、あたしの事一生守って頂戴ね!」そう言うとウインクをひとつシンジに投げかける。
「あんたが自分から言い出した事なんだからね!」勝ち誇った様な笑顔をシンジに向ける。
シンジに甘えるようにクルクルと動き回るアスカの姿にシンジにも笑顔が浮ぶ。
「ははっ…御手柔らかにね…。」
そんなシンジの言葉など聞こえないような振りをしてシンジの前に出ると、そのまま歩き出す。
スキップするような軽やかな足取りで前を歩くアスカの後ろ姿に、シンジがそっと声をかける。
「そう…どんな事が起こったとしても僕はアスカを守る。だから、もう怯えなくていいんだよ。」
楽しそうなアスカの横顔が木漏れ日に映し出されている。不安のかけらもないアスカの様子に
シンジも自分のこころの中も光が溢れているような気がしていた。
「無理にいい子にならなくてもいい、我侭を言ってもいいんだよ。だって、僕は…。」
そこでシンジは一息つくと、アスカの後ろ姿にそっと投げかける。
「…大好きだから!そのままのアスカが。」
それはシンジが本当にアスカに伝えたかった思い。
けれど、まだ言えなかった思い。
自分がアスカを守れる様な男になったら、きっと…。だから今は、まだ…
そう誓うシンジだった。

「ねえ、シンジ。今、何か言った?」その時、まるでシンジのこころを読んだかの様な絶妙のタイミングで
アスカがシンジを振り向き、声をかけてくる。
一気に跳ね上がるシンジの鼓動。額から汗がにじんでくるのが自分でもわかる。
そして、そんなシンジの変化に気づかないような鈍いアスカではなかった。
「あんた、何か隠しているでしょ。」笑顔から一転して詰問の体勢に入る。
凛としたその表情がシンジは嫌いではなかった、が今はそんな場合ではなかった。
「な、なにも…隠してなんかいないよ…。」必死に弁解するシンジ。
「嘘!あんたがそういう顔している時は、あたしに何か隠しているんだから!」
そうアスカに断定されてしまい、グウの音もでなくなってしまう。このまま白状させられてしまうのか…?
「まあ、いいわ。」ところがシンジが拍子抜けする程あっさりと追及を打ち切ってしまう。
意外そうなシンジにニッコリと微笑みかけるアスカ。そして一言付足す。
「今日の所は許してあげる。でも必ず白状させてあげるからね、覚えてなさいよ!」
キラリと光るアスカの瞳。使徒も逃げ出すような氷の刃の様な視線がシンジを切る。
「さあ、行こうか。シンジ!」次の瞬間、打って変わって天使の様な笑顔でシンジを誘うアスカ。
強くなるならないは別にして、きっと自分は一生アスカに頭があがらないんだろうな…と思うシンジだった。

そんなこんなでようやく校舎の一部が視界に入ってくる。
既に予鈴も鳴り終わり、学校は授業の前のわずかな静寂のたたずまいを見せていた。
「さあ急ごうか、アスカ。」そう言いながらシンジが右手をアスカに差し出す。
「無理よ、今更急いだって遅刻間違いなしだわ。」チラリと校舎を流し見るとシンジの顔をみつめる。
「どうせなら、ゆっくり行かない?せっかくふたりきりなんだし…。」
そう言うと差し出されたシンジの掌を両手でそっと包み込む。仄かに赤く染まった頬をシンジの目から
隠すかの様に慌てて俯いてしまう。そんなアスカの仕草にシンジの鼓動が跳ね上がる。その時…。
「な〜んてねっ!」
明るいアスカの声と共にシンジは周囲の木々が大きく揺らいだ様な感覚に陥った。
次の瞬間、シンジは自分がペタンと尻餅をついている事に気づいた。
そして目の前には、腰に手を当てて自分を見下ろす立ち姿のアスカが。
「そんな訳ないでしょ!遅刻はあんたひとりでしなさい。あたしに隠し事してる罰よ!」
ポカンとしたままのシンジに一気に捲くし立てると、アスカはニッコリと微笑んだ。
「あっかんべーっ、だ!」
可愛らしいあかんべを残して走り去るシルフの様な後ろ姿を見送りながらシンジが呟く。
「いつか…いつかきっとアスカに言うからね。」
アスカの赤味がかった金色の髪が陽光を弾いている。
「もっと、もっと強くなってアスカを守れるような男になる。そうしたら…。」
アスカの白い、長い脚が地面を蹴って、跳躍する。
「だから…それまで、もう少し待っていてね。」
シンジを振り返るアスカの笑顔。もう一度シンジに向かってあかんべの仕草をしている。
「こら、シンジ!何やってんのよ、本当に置いて行くわよ!」
右手を大きく振り回しながら笑顔でシンジを呼ぶ。それは真夏の太陽の様に眩しい、
シンジが好きないつものアスカの姿だった。知らずにシンジの顔も笑顔になる。
「待ってよ、アスカ!今、行くから。」鞄を脇に抱えると全速力で駆け出す。
「とっとと追いつきなさいよ、バカシンジ!待っててなんかあげないからね!」
嬉しそうなアスカの声が万緑に染まった木々の間に響く。
少年のこころの中に秘めた決意と少女の幸せそうな笑顔を祝福するかの様に
街路の緑の木々たちが大きく、そして優しく揺れた。
「ほら追いついたよ、アスカ。」 「シンジのくせに生意気よ!よ〜し、本気出すからね!」
「ま、待ってよ、アスカ!」 「んも〜、とろい男ね。ホントに嫌いになっちゃうわよ!」 「え〜。」
そんな幸せそうなふたりの声が、いつまでも、いつまでも青い空の下に響いていくのだった。
FIN


マナ:嫌われるのが恐いなら素直にそう言えばいいのに。

アスカ:べつに恐くなんかないもん。

マナ:強がりばっかり言って、可愛くないわよ?

アスカ:アタシは十分かわいいの。

マナ:可愛い子ってのは、「嫌い」「嫌い」なんて言わないわ。

アスカ:いいじゃない。それがアタシの愛情表現なんだから。

マナ:やっぱり、アスカって可愛くなーーーいっ!

アスカ:アンタより、ずっとかーいいわよっ!

マナ:このマナちゃんが、どんなに可愛いか。わかんないのねぇー。

アスカ:ほんと・・・胸が・・・。

マナ:むーーーっ! アスカなんか。夜中にべそかいてるくせにーーっ! 恥かしーぃ。

アスカ:アンタっ! 言っちゃいけないことを口にしたわねっ! ただで済むと思ってないでしょうねっ!(ーー#

マナ:へへーんだ。アスカの弱点がわかったから恐くないもーんっ。

アスカ:弱点っ!? なによっ!?

マナ:マナちゃんに手をだしたら、『アスカなんか大っ嫌〜い』って言うわよーっ! いいのっ!?

アスカ:アンタに言われたってかまやしないってーのっ!(どかっ! ぐしゃっ! ばきっ!)

マナ:わたしじゃ効果ないのね。(バタ)
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