「エンジェル・ウイング −Angel Asuka 2−」

平成12年08月28日初稿/平成14年10月18日改訂

はじめに
本編は拙作「ただいま…」を補完するものです。それゆえ「ただいま…」、「エンジェル・アスカ」を先に
読んで頂けると、多少なりともわかり易いかと思われます。どうぞ宜しくお願い致します。


第1章	天国にて

(青い空…白い雲…、そして白い街並み…。天国って本当にあったのね…。)
柔らかな日差しの差し込む窓辺でアスカは天国の街並みを見るともなしに見ていた。
青い空に包まれた静かで穏やかな街。白で統一された建物と鮮やかな緑の木々や色とりどりの花々が
見事に調和している。白を基調とした服を着た沢山の人々が楽しげに通りを歩いて行く。
それでも人々の声が喧騒にならないのは此処が天国だからだろうか?
そんな穏やかな雰囲気とポカポカとした常春の陽気がアスカを心地良い眠りに誘う。

左腕にコテンと頭をのせると、そのままの姿勢でそっと瞳を閉じる。
さわやかな風がアスカの前髪をかき上げ、おでこにそっと触れて行く。
この地では風までもが優しい…そんな気がしていた。

(ここで、あたしが天使になるなんてね…夢にも思わなかったな。)
シンジと別れてから天使になるまでの出来事が鮮やかにアスカの脳裏に蘇る。
(エンジェル・アスカ、か…。)
かすかに抑揚をつけて呟いてみる。背中の純白の翼が嬉しそうに揺れる。
(ちょっと、いいかも…。シンジに見せてあげたいな、あたしの天使姿…。何て言うだろう、あいつ?)
ニコリと微笑むと、そのまま妄想の世界に突入してしまう。

ミルク色の霧に覆われた世界。甘い臭いが宙を舞うアスカの鼻を擽る。
やがて、その瞳が霧の中を戸惑うように歩くひとりの少年の姿を捉える。
翼をはためかすとアスカは少年の前にゆっくり降り立つ。
突然目の前に現れた美しい天使の姿に声も出せない少年。
優しく少年に微笑みかけるアスカ。その笑顔にようやく少年の口から言葉が出る。

「君は…天使なの?」驚きと喜びと憧れが交じり合った少年の声が霧の中に響く。
「ううん、違うわ…。あたしの事がわからないの?ほんとに仕方ないわね、バカシンジ!」
突然、自分の名前を呼ばれて驚きの余り声も出ない少年だったが、その耳慣れた言葉が記憶の中にいる
大切な少女の姿を思い出させる。見る間に少年の顔に隠し切れない喜びが浮かんでくる。

「アスカ!?本当にアスカなの!」つい大きな声になってしまうのも無理のないことなのだろう。
「そうよ…アスカよ、シンジ…。」そんな少年の素直な反応を優しい笑顔で受け止める。
「本当に…アスカなの?」余りにも落ち着いた物腰のアスカに逆に不安になってしまう。
「本当よ。それともアスカに見えない?」そんな少年の戸惑いすら穏やかに包み込んでしまう
慈愛と知性に満ち溢れたエンジェル・アスカの姿に少年の頬が見る見るうちに赤く染まっていく。

「なんだか神々しくて…、僕なんか言葉を交わすことすら…。」俯いたまま、ようやくそれだけを呟く。
「バカね…アスカだって言ったでしょ。どんなに美しくて、神々しくてもあたしはあたしよ。」
自分への憧憬の余り真っ赤になって、上手く言葉の出ない少年の姿が嬉しくてたまらない。
「でも、余りにも美しくて…これからはアスカ様って呼んでもいいかな?」紅潮した頬で少年が答える。
「もう、シンジったら…そうね、あんたが呼びたければ呼んでもいいわよ…むにゃむにゃ…。」
夢の中でのシンジのドギマギする姿にアスカの顔が夏の水飴のようにデレーッと溶ける。

その時、ふにゃ〜っとした空気を切り裂くかの様に何かが一閃した。そして次の瞬間…。
パカン!コン…コン…コン…コロン。
アークの投げたチョークはアスカのおでこを、ものの見事に直撃していた。
「痛―――いっ!何すんのよ、乙女のおでこに!」
良い所で夢から覚まされた怒りとおでこの痛みに、思わずその場で立ち上がる。
そんなアスカの姿に周囲の生徒達が驚きの目を向ける。天使を養成するこの学校で居眠りをするだけでも
大変な事なのに、あまつさえ起こされて文句を言うなんて…、それもあの方に…。

「それは、こちらの台詞ですよ。アスカ!」シーンとした教室に澄んだ声が響き渡る。
黒板を背にしたままキッとアークがアスカを睨みつけている。右手でカチャカチャいっているのは
先程アスカに命中させたチョークの残りだろうか?
何発でもお見舞いするぞ!という無言の覇気がアスカの闘争本能に火をつける。

「だいたい、なんで天使になったのに、こんな授業を受けなきゃいけないのよ!」
天使になってから既に10日余りが過ぎようとしていた。その間にアスカが教わったのは天国についての
概要や一般知識、それと翼を使った飛行訓練だけだった。
具体的な天使の職務や人として生まれ直す為の条件については全く触れられないまま、天使としての
心得といった観念的な授業を受けさせられていた為、アスカの苛立ちも頂点に達しようとしていた。

「あたしは…!」と言いかけたアスカを掌を広げてアークが制し、アスカの言葉を続けて言う。
「わかっていますよ。一分でも一秒でも時間が惜しいと言うんでしょう。」
自分の台詞を先に言われてしまい、次の言葉が出ないアスカにアークが話かける。
「その言葉、もう耳にたこが出来るほど聞いていますからね。」
そう言いながら指先で自分の両方の耳たぶを引っ張る仕草をする。
クールに見えるアークも随分とアスカの影響を受けているようだ…良くも悪くも。

それでも次の瞬間にはキリっと教師の顔に戻ると、諭すようにアスカに語りかける。
「天使の仕事はとても繊細でデリケートなものなのですからね。ちゃんと自覚して貰わないと…。」
「わかっているわよ。天使の心得でしょ。」アークを見上げながらアスカが不満そうに呟く。
「ひとつ、天使の任務は天国に来るべき迷える魂を誘い、天国に導く事である。」
「ひとつ、天使は魂を誘う際に、魂の憂いを取り除かなければならない。」
「ひとつ、天使は必要と思われる時にのみ、その力を行使する事ができる。」
「ひとつ、天使の存在は秘密であり、いたずらに人を惑わしてはならない。」
「ひとつ、天使は神の代理である事を自覚しなければならない。以上よ!」

「全く…。半分以上眠っているというのに、よく覚えていますね。」
「暗記ものなんて簡単よ!」感心したような、あきれたようなアークに対して得意そうに答える。
いつもやり込められているアークから一本取った事で嬉しさを隠せないようだ。
「ようするに、首に縄を付けてでも天国に引っ張って来ればいいんでしょ!」
「そんな乱暴な…。」過激なアスカの発言に流石のアークも当惑の色を隠せない。
それでもアスカ本人とクラスメートたちが誤った考えを持たないよう、たしなめようとする。

「いいですか、アスカ。魂を導くという事は、その魂を迷わせている原因そのものを解決して
魂の憂いを取り除くという事なのですよ。決して容易い事ではありません。」
「このあたしを誰だと思っているのよ。エヴァンゲリオン弐号機のパイロットの名は伊達じゃないのよ。」
「それと一体何の関係があると…。」アスカの迫力に押されてたじたじのアーク。
「おおありよ!」両手を腰に当てるとエッヘンとばかりに胸を張るアスカ。しかも何故か教室の皆の方を向いて…。
「いい!あたし達エヴァのパイロットは使徒と呼ばれる正体不明の強大な敵と戦ってきたわ。」
使徒の出現から、シンジ、レイとの出会い、そして凄絶な戦いの様子を語り聞かせる。
その迫力は生徒達のみならずアークも引き込んでいく。いつの間にか教室はアスカの独壇場になっていた。

「…という事で予想もつかない使徒の行動や攻撃にあたし達は幾たびか窮地に立たされたの。」
そう言うとアスカはグルリと教室を見渡した。皆、固唾を飲んでアスカの次の言葉を待っている。
「でも、その度にあたし達は切り抜けてきた…シンジやファースト達と一緒に。」
話の中、シンジの名を口にする度、アスカの顔に優しい笑みが浮かぶ。
そんなアスカの様子をアークも優しい微笑みで見守っている。やがて話は佳境を迎える。

「あたし達は決して諦めなかった…自分を、仲間を信じていたから。」アスカの瞼が軽く閉じられる。
「自分を信じられるのは、あたし達が毎日厳しい訓練を受けてきたから。そして仲間を信じられるのは
みんなも同じ厳しい訓練を越えてきた事を知っているから…。」
アスカの心の中に辛かった、けれどかけがえのない大切な日々が蘇る。厳しく、そして優しかったミサトの声、
いつもクールだったリツコ、マヤのねぎらいの言葉、日向と青葉の温かな笑顔、レイの赤い瞳…
忘れられない思い出が次から次へと溢れてくる。
そして誰よりも優しく、誰よりも温かいアスカの大好きな笑顔と彼女を呼ぶ声も…。

アスカのこころが温かい思いで満たされていく。アークにはアスカの翼が柔らかな光に包まれている様に思えた。
「だから、あたし達はどんな状態になっても常に最善の判断をし、行動する事ができるのよ。」
そこで言葉を切るとアスカはアークの方を振り返った。
「だから天使の仕事が何であれ、あたしには達成できる自信があるの!」
そう言い切るアスカからは、わずかの誇張も虚勢も感じられなかった。
数多くの苦難を乗り越えて来た者だけが纏う事ができる静かな自信がそこにあった。

アスカの自然な姿に満足そうに頷くとアークはひとつ提案をする。
「わかりました。そこまで言うのならひとつテストしてみましょう。」
「テスト?」予想もしなかったアークの言葉にオウム返しをしてしまう。
「そう、テストです。まさか、怖じ気づいたんですか、アスカ?」そう言うと意地の悪い笑みを浮かべる。
「そんな事あるわけないでしょ!」他愛のないアークの挑発に直ぐ反応してしまう。
「結構です。では他の皆さんは自習して下さいね。」そう言うとアークはさっさと翼を広げ、出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、アークってば!」そんなアークを慌てて追いかけるアスカ。
しばらくの間ざわめいていた教室だったが、やがていつもの静寂に戻るのであった。


第2章 天使の翼
アークがアスカを連れて行ったのはアスカが何度か飛行訓練を行なった学校のテストコースだった。
「こんな所で何をテストしようっていうの?」説明すらないまま連れて来られて不満気なアスカが尋ねる。
「まあ、そう慌てないで。さあ、どうぞ。」そう言いながら空間から取り出した椅子をアスカに勧める。

「ところでアスカ。貴方の背中の白い翼ですが、何の為にあるのだと思いますか?」
唐突なアークからの問い掛けにアスカの頭の上に幾つものクエスチョンマークが点灯する。
それでも真面目に考え、その時の最善と思われる答えを出そうとする。
「地上に降りたり、天国に昇る時に必要だから…じゃないのかしら?」
そんなアスカの真摯な態度に満足そうに頷くとアークは静かに話始める。

「そう貴方の言う通り、地上から天国に昇る為のものと考えられています。」
「ただし、天使の翼は物理的な力、はばたきによって飛翔力や揚力を発生させて飛ぶ訳ではない…
という事は既に説明しましたよね。」そこで言葉を切るとアスカの顔を覗き込む。
「ええ。」アークの言葉に素直に頷くアスカ。いつの間にか真面目な生徒の顔になっている。
「その意味では翼がなくても天国と地上を往復するのに何の支障もないわけです。」
「えっ?」思ってもみなかったアークの言葉に驚きを隠せない。

そんなアスカのリアクションに優しげな微笑みを浮かべ、更に話を続ける。
「では、何故天使の背中には白い翼があるのでしょうか?」
興味をひかれ思わず身を乗り出し、アークの次の言葉を待つアスカだったが…。
「と、その前に…。」気を入れて聞こうとしていた為ガクッとこけてしまう。
「ひとつ質問していいですか、アスカ?」そんなアスカを気にも留めず真剣な表情でアークが話を続ける。

「これから天使の仕事をしていく上で、魂を苦しめる悪しき想念と戦う機会もあると思われます。
また余りに大きな魂の哀しみを自分のこころを痛める事もあるかもしれません。」
そこで一度言葉を切るとアークはアスカの瞳を正面から見つめた。
それは近頃アスカに対して見せる兄の様な穏やかな表情ではなく、数多の経験を積んできた先任の
天使としての厳しい表情だった。そして、そのままアスカに問いかける。
「それに貴方は耐える事ができますか?」

強大なプレッシャーを伴うアークの一言だったが、アスカは全く気おされる事なく答えた。
「当たり前じゃない。…シンジと別れる時の哀しみ以上のものなんてあるわけないもの。」
そう答えたアスカの瞳に一瞬深い哀しみの色が走る。けれど、そこに迷いはなかった。
アスカの気持ちは充分に理解しているつもりだったが、アスカにとってシンジが如何に
大きな存在であったかを改めて感じるアークだった。

「わかりました。では、天使の翼について話しましょう。」コホンとひとつ咳払いをすると話を始める。
「今お話したように天使の翼は飛ぶ為のものではありません。では唯の飾りなのでしょうか?」
そう言ってアスカの顔をじっと見つめる。アークの真意を計りきれず緊張した面持ちのアスカ。
「いいえ、そんな事はありません。」アスカの答えを待たずに話を続ける。
「その白い翼は悪しき想いと戦う時のあなたの剣であり、同時にあなたを守る楯であるのです。」

「どういうことよ…?」詩の様なアークの言葉に戸惑うアスカ。
「天使の翼とは天使としてのあなたの思いを…そう優しさ、強さを具現化したものなのです。」
「具現…化…?」
「そう具現化です。つまり、貴方の思いが強ければ強いほど、貴方の翼は…力は強くなるのです。だからアスカ、
貴方のシンジ君に対する思いの強さから考えると貴方は強大な力を得る事になるでしょう…。」
アークは一度そこで言葉を切ると、アスカの瞳を見つめた。それは今まで以上に真剣な眼差しだった。

「何だ、良いことじゃない!アークが怖い顔しているから何事かと思ったわよ。」
アークの言葉に無邪気な笑顔を見せるアスカ。シンジへの思いが強大な力になると聞いて
喜びを隠せないでいた。そんなアスカにはアークの小さな溜息に気づくよしもなかった。
「強い力には、必ずそれを使うべき指針、そして制御する心が必要なのです。」
それでも、何かをアスカに伝えようとアークが言葉を続ける。
「それを文章化したのが天使の心得なのですよ、貴方は軽んじているようですがね…。」
アークの言いたい事が上手く理解できず、拗ねるように指先を弄ぶアスカ。

「つまり翼を持つという事は天使としての覚悟をしている…という事なのです。わかりますか、アスカ?」
「わかっているわよ…。」そう答えながらもアークの意図を掴みかねている事は明らかだった。
「本当…ですか?」そんなアスカの焦燥を感じたのかアークが重ねて尋ねる。
「ほ…本当よ!それよりもあたしは早く仕事をしたいの!」苛立ちを隠し切れずアスカの声が大きくなる。
「わかって頂けた…と信じましょう。」
アスカの様子から今はこれ以上言っても無駄だと判断したアークは自らその話題を打ち切った。
そんなアークの態度にアスカはようやく胸を撫で下ろした。
自分が何か大切なものを忘れているんのではないかという不安は残ったままであったけれど…。

自らの気持ちを奮い立たせるかの様に陽気な声でアークが試験を始めようとする。
「では、始めましょうか。何、簡単な事です。」そう言いながら掌をアスカに見えるように差し出す。
アークの掌が揺らめいたかと思うと、そこにはゆらゆらと蠢く黒い炎の様な塊が浮かんでいた。
「これは私が作り出した憎悪や怨恨、侮蔑といった悪しき想念の擬似体です。これから貴方が
戦う事になるかもしれないもの達の中で一番弱いレベルです。」
事も無げに言ったが、高レベルの天使であるアークの作り出す擬似体は最弱といっても
相当のレベルの天使でないと逃げ切る事すら困難なものであった。
「まず、これを退治して下さい。これに手を焼く様では天使の任務はまだ無理です。」

そう言うや否や擬似体をアスカに向かって投げつけた。ゆらゆらとした外見からは想像もつかない
高速でアスカに迫る擬似体。けれどアスカには全く動じる様子は見られなかった。
「アーク、あたしをあんまり甘く見ないでよ!」そう言うと不敵な笑みを浮かべる。
迫る擬似体など意にも介さず、ゆっくりと翼を広げる。

そして翼から羽を1枚抜き取ると、天に掲げ、高らかに呼び放つ。
「エンジェル・ブレード!」
アスカの声に反応して白い羽根が一瞬で細身の剣に変わる。
まるで以前から使いこなしていたかのような手捌きで剣を握る。
剣先が微かに揺れたかの様に見えた瞬間、アスカに襲い掛かろうとしていた
擬似体の動きが凍りついたかの様に静止する。
剣の白い軌跡だけがアスカが動いた事を示す証であった。

やがて真っ二つにされてゆらゆらと落ちて行く擬似体の残骸。
その向こうに得意気なアスカの顔が見える。
「へへ〜んだ!どんなもんよ、アーク。」満足のいく結果に、誇らしげなアスカの表情。
アークが何と評価するのか興味津々という瞳で見つめている。
それはまるで父親に誉められるのをワクワクしながら待っている幼子の様だった。

「まあ、予想はしていましたけどね…。それでも大したものです。」
言葉の通りさほど驚いた様子の見えないアークに少々不満気なアスカ。
ぷくっと桜色の頬が膨れる。そんなアスカの様子にアークにも笑顔が戻る。
「ほらほら、そんな顔をしないで。せっかくの美人が台無しですよ。」
「美人だなんて思っていないくせに…全く、口先だけは達者なんだから。」
「そんな事はありませんよ。アスカは本当に美人ですよ。ほら美人、美人。」
「それが美人に対する態度なの。頭撫でられて喜ぶ美人なんて居ないわよ。」
仲の良い兄妹のようなふたりの会話。シンジ以外でアスカがこんな屈託なく話せるのは
親友の洞木ヒカリとユイくらいかもしれない。

「さあ、アーク。ちゃんと退治したわよ。約束、忘れたなんて言わせないからね。」
「わかりました。…貴方に初任務を与えましょう。」
任務の話になり、今までの兄妹の様な雰囲気から一転して上司と部下の関係に変わる。
アークから今回の任務の対象の情報、状況についての説明が始まる。

「日本の新横須賀市に、つい2週間程前に交通事故で急死した子供がいます。」
アークの説明を神妙な面持ちで聞くアスカ。初任務、さすがに緊張の色が隠せない。
「本来ならば既に天国の門に着いていなければいけないのですが、来られた気配がありません。
どうやらまだ地上に居るようなのです。」

アークは、そこで一度言葉を切ると、ひとつだけ小さな溜息をついた。
「子供心にも何か引き止められるものがあるのかもしれないですね。」
ポツリとこぼした一言。けれど直ぐにいつものアークに戻る。
任務の上では冷厳なアークだったが時折見せるこんな優しさがアスカは気に入っていた。
他人への思いやり…シンジと同じ優しさがアークから感じる事ができたから。
「ただ、このままだと永遠に地上をさまよう事になりかねないのです。ん…どうしました、アスカ。」
アークの優しさを垣間見たアスカの顔がいつの間にか笑顔になっていた。

「別に…。全く、何もたもたしてるのかしらね。いいわ、あたしが直ぐに迎えに行ってあげるわ!」
そう言うとその場で立ち上がる。アスカの背中にある白い翼がふわりと微かに広がる。
「その子の名前は?」振り向いてアークに尋ねる。
「長良 フミヤさん。4歳です。御両親は…。」
「そう…わかったわ!じゃあ行って来るわね、アーク。」そう言うや否や駆け出して行く。
「ちょ、ちょっとアスカ。話はまだ終わっていませんよ!」
「大丈夫、その子のパーソナルパターンはアークから読み取ったから!」
「い、いつの間に……。」
「言ったでしょ!あたしをあんまり甘くみないでよって。」そう言うと可愛い舌を覗かせる。
アスカの背中の羽が次第に大きく広げられ、やがて、ふわりとその体が宙に浮く。
更に2、3度大きくはばたいたかと思うと、あっという間にアークの視界から消え去ってしまう。
天使成り立てとは思えない余りにも見事な飛翔だった。

「遂に旅立ちましたね…。」半ば茫然としているアークの背中に静かな声がかけられる。
「ユイ、見ていたんですか?」振り向きもせず背後の物静かな女性に答える。
「ええ。…ふふっ、アスカさんの事が心配ですか、アーク?」
「もちろんですよ。」いたずらっ子の様な笑みを浮かべるユイに憮然として答える。
「彼女が何をやらかすかと思うと胃が痛くなります。」これはアークの本音である。
「アスカさんでは、まだ力不足という事ですか?」微笑んだままユイが尋ねる。
「いえ、エンジェルの任務を果たすための知識、力には何の問題もありません。ただ…。」
「ただ?」アークの言葉に小首をかしげるユイ。
「天使にとって最も大切なものは知識でも力でもありませんからね。」
「そうですね。」アークの意図を察して肯くユイだったが、笑顔で切り返す。

「確かに心配と言えば、心配ですけど…でも、きっと大丈夫ですよ!」
自信に満ちたユイの言葉にきょとんとするアーク。
「だってアスカさんはあの子が選んだお嬢さんですもの。きっと気づいてくれますよ。」
そう言ってアスカの去った方向を見つめる。
そんなユイの瞳には先程のアスカと同じ静かな自信が浮かんでいた。

ユイの自信に満ちた態度にまるで自分の心配が杞憂なような気がして
何か悔しくなったアークはユイに一矢報いたくなる。
「親バカですね。」ユイに向けて放たれたちょっと皮肉を込めた一言。
「そうですね。」そんなアークの言葉を静かな、優しい微笑みで返す。
たゆとう海のようなユイの応対に、些細な感情毎包み込まれてしまう。
この女性にはかなわない…改めてそう思うアークだった。
そんなアークの心の動きなど気づかない様にアスカの事を案じる。
(がんばってね、アスカさん。)
そう呟くユイの前には蒼い空に溶け込む様に巨大な回廊の入り口が広がっていた。


第3章 地上にて
アークの前から飛び立ったアスカは息もつかず一気に天国の回廊を滑空していた。
人の目に見える事もなく、触れる事もできない天と地を繋ぐ巨大な回廊。十数メートルはあろうかという
天井に高速道路ほどの幅の廊下。透明なそれらを通して外の光景が手に取るように見える。
建造物のように見えるこの回廊こそ天使長の精神の力で形作られているものであり、
この回廊の存在により天使達は世界の何処へでも瞬時に移動する事ができるのであった。
想像を絶した天使長の力を改めて思い知らされるアスカだった。

(凄く偉い方なのよね、天使長様って…。でも、あの時何で懐かしく思ったんだろう…。)
天国に来た直後、初めて天使長に謁見した時の事をアスカは昨日の事の様に覚えていた。
あの時、天使長から感じたのは強大な力を持つ者が放つ威圧感ではなく、アスカに対するいたわりと
優しさだった。だからこそ自分は萎縮することなく自分らしく振る舞えたのかもしれないと思っていた。
もっともシンジやミサトがこの事を聞いたら、威圧感があったらあったで、それに反発する形できっと
同じ行動を取ったに違いないと笑うかもしれないが…。

(シンジ…、ミサト…ヒカリ…会いたいな…。)大切な人達への思いがアスカのこころに湧き上がる。
その瞬間だった。回廊が突然消えたかと思うと、目の前には青い海原が広がっていた。
一瞬戸惑ったアスカだったが、直ぐに気を引き締めると、一気に加速を始めた。
(地上…、随分久し振りのような気がする…。)
青い海がアスカの眼下を猛スピードで走り去って行く。風がアスカの頬を掠め、通り過ぎて行く。

何時の間にかアスカは新横須賀市の上空に達していた。陽は既に傾き、チラホラと街の灯りが点り始めていた
「さてと、やってみますか。」
アスカは街の中心部の上空まで行くと、掌を合わせて瞳を閉じ、そっと天使の力を開放する。
ゆっくりとアスカの白い翼が広がり、それに伴い様々な思いがアスカに伝わって来る。
喜び、悲しみ、怒り、戸惑い、苛立ち、憧れ…水面に円を描く波紋の様にアスカのこころに響いて来る。
その中から先程アークから教わった子供のパターンに近いものを探す。

(これね……。)その子供のものと思われる心を感じ取ると、その方向に飛び立った。
明るい街並みを抜け、川を越え、夜に闇に包まれた山々が見えた所で翼を休める。
「さてと、この辺のはずなんだけどな…。」
キョロキョロと周囲を見渡し、子供の心を感じ取ろうとする。
その時一際高い鉄塔の上でほわっと山吹色の光が揺れている事に気づいた。
温かな、それでいてどこか寂しげなその光に何かを感じ取ったアスカはそっと近づいて行った。
果たして山吹色の光を放っていたのは幼稚園の制服を着た男の子だった。

「こんにちわ。」そっと目の前に立つと驚かさないよう優しく声をかける。
「こんにちわ。」明るいはっきりとした返事にアスカの表情が緩む。
「あたし、アスカ。貴方のお名前教えてくれるかな?」
「フミヤ…長良 フミヤだよ、お姉ちゃん!」しっかりとした答えに目を細める。
「よかった!あなたの事探していたのよ。」
思いの他容易に見つける事ができて、ついアスカの声も弾んでしまう。
「どうして…?」そんなアスカにフミヤが少し不安げに尋ねる。
「あのね、あなたはね…。」そこまで言いかけてアスカは言葉に詰まってしまう。

一体この子に何て言えばいいのだろう…。いきなり貴方は死んでしまったの、
皆と別れて、これから一緒に天国に行くのよ!などと言える訳がなかった。
死の意味すらわからない子供に突然、両親や友達と別れて、ひとりで天国という
未知の世界に行かなければならない…それが、幼い子供にとってどれほど残酷な
事なのかアスカにも容易に想像する事ができた。

どうすればこの子の心を傷つけずに、その事を説明できるのか、
そしてアークが言っていたフミヤの心を地上に縛りつけているものを、どのようにして
探し出せば良いのか、いかなる知識もアスカに答えを与えてはくれなかった。
フミヤの顔を見つめたまま、その場に立ち尽くしてしまう。

そんなアスカを不思議そうに見ていたフミヤだったが、やがて
「わかってるよ、天使のお姉ちゃん。」そう言うとアスカに向かってニッコリと微笑む。
「ボク、死んじゃったんだね…。」フミヤの一言がアスカの胸に痛みを与える。
「フミヤ君、あなた気づいていたの…?」
「うん、お空の方から此方においでって優しい声がするの…。早く行かなくちゃって
思うんだけど…でも行けないんだ。」そう言うとフミヤはうつむいてしまう。
「どうして?」アスカはしゃがんでフミヤと視線を合わせると、優しく尋ねた。
「パパとママが泣いているの。フミヤに行かないでって、毎日泣いているの。」

「!」思いもしなかったフミヤの答えがアスカの心の真ん中に鉛の楔を打ち込む。
ズキンという鈍く重い痛みが滲むように心の中に広がっていく。
「ボクが居なくなっちゃったら、パパとママがずっと泣いたままになっちゃう。だから…。」
(こんな小さな子供が…。)
自分の事よりも両親の事を気遣うフミヤの健気な思いがアスカには痛いほど理解できた。
それと同時に、こんな幼い子供に負担をかけているフミヤの両親に対しての怒りが
アスカの心の中にふつふつと沸き上がっていた。

(大切な人を失った哀しみ…あたしにも良くわかる。でも、でもこのままじゃいけない。)
不安や哀しみをその小さな身体に背負いながら、それでも残された両親の事を
気遣うフミヤの幼い横顔を痛ましい思いで見つめる。
(こんな優しい子にこんな哀しい思いをさせるなんて…あたしが取っちめてやるわ!)
即断即決はアスカの十八番であり、そして行動は更に早かった。

「いいわ、あたしがフミヤ君のパパとママに話をしてあげる。」
「えっ?お姉ちゃん、パパとママと話せるの?」驚きと喜びの混じった声がフミヤから零れる。
「当ったり前よ〜!お姉ちゃん、天使だもの。そんな事ちょちょいのちょいよ。」
アスカの脳裏を一瞬天使の心得が横切る。同時にアークの心配そうな顔も…。
アスカは2、3度軽く頭を振るとそれらを振り払おうとした。
(ゴメンね、アーク。最初から約束破る事になって…。でも、あたし間違ってないと思う。)

「…僕も、パパとママとお話できるかな?」ポツリとフミヤが呟く。
死んでしまった後もずっと両親の側にいたのだろう。嘆き悲しむ両親に話かける事もできず、
ただ見ている事しかできなかったフミヤの心の痛みが再びアスカに伝わって来る。
「当然よ!パパとママに伝えたい事、いっぱいあるんでしょ?」
自信に溢れたアスカの言葉に、フミヤに子供らしい無邪気な笑顔が戻って来る。
「さあ、行こう!フミヤ君のパパとママの所へ!」 「うん!」
アスカはフミヤの小さな手をとると、翼を広げ群青色の街へと飛び立つのだった。


第4章 天使降臨
フミヤの家は新横須賀市の中心近くの高層マンションの一角にあった。
「フミヤ君、此処?」テラスに降り立ち、部屋の中の様子を伺いながらアスカが尋ねる。
「うん。あっ、あれがフミヤのパパとママだよ。」
嬉しそうに部屋の中を指差すフミヤ。その先には畳の上に広げたアルバムを見ながら
言葉を交わしている若い夫婦の姿があった。
ミサト達と同じ位だろうか?二人とも優しそうで、穏やかそうな感じの夫婦だった。
アスカは瞳を閉じると、部屋の中の会話に耳を澄ませた。

「ほら、この時の事覚えてる?フミヤに聞くとみんなネコさんになっちゃったのよね。」
「そうだね、この時は象を見せても、虎をみせてもニャアだったね。」
「そうそう、ニャアニャアってフミヤが猫さんみたいだったわ。」
「ホント楽しかったね、動物園。フミヤも初めてだったから、とっても喜んでいたし…。」
「覚えてる、この写真。フミヤ、まるで光の中にいるみたい…。」
「うん、この世のすべての光を集めているみたいだったね。」
「それなのに……、ううっ……。」堪えきれずに零れる鳴咽。
泣き崩れる妻の背中をそっと摩る夫の顔にも隠しようのない哀しみが浮かんでいた。
そんな夫婦の哀しい思い出の遣り取りにアスカの心がまたズキンと痛む。

子供の突然の死を受け入れられないでいる両親の静かな嘆きの姿を
目の当たりにしてアスカの心の中に迷いが生じていた。
フミヤの両親に対して、彼らの哀しみにフミヤが縛りつけられている事実を教え、
哀しみに負けずに強く生きていくように導くつもりだった。
けれど、そんな教科書通りの対応では彼らの哀しみを癒し、導くどころか
彼らの心の傷を更に深く抉り取るだけだという事に気づいていた。
他人である自分が口を挟んではいけないのでは…そんな思いが
アスカの心の中に湧き上がる。

当初アスカは説得が終わったら、フミヤを実体化させて両親と話をさせる
つもりでいた。フミヤにも両親にも悔いを残させたくなかったから…。
けれども、それは両親の哀しみを更に深くさせるだけなのではないか。
それよりも此の侭そっとしておく方が良いのでは…?
時間が彼らの心の傷を癒してくれるまで。

アスカの心の中を様々な思い、迷いが混沌の嵐となって駆け回っていた。
逡巡し、思い惑うアスカ。自分が何をすれば良いのかわからなくなっていた。
その時、アスカの心の中に優しい声が聞こえてくる。
彼女の事を思っていてくれる少年の声にアスカの心が落ち着きを取り戻していく。
自分を包み込んでいた迷いという霧が晴れていく事をアスカは感じ取っていた。
そして明らかになっていく−天使である自分が今何をしなければいけないのか。

(ううん、やっぱり違う。)迷いを振り切るように頭を振るアスカの金色の髪が大きく揺れる。
(もしも、あたしとシンジがあの夫婦と同じ立場だったら……、
もしあたし達の子供がフミヤ君と同じ立場にいるとしたら…、
あたし達は知らない内に自分の子供を不幸にしてしまう事になる。
そんな事になったら悔やんでも悔やみきれないわ!)

アルバムを見ながら悲しみに暮れる夫婦の姿。
(どんなに辛くても誰かがその事を伝えてあげなければいけない。)
アスカのスカートにしがみつき、両親の姿を見つめているフミヤ。
(そして今、それをできるのは、あたししか居ない。)
アスカの心の中にあった迷いはなくなっていた。

一点の曇りもない心のままにフミヤに呼びかける。
「行くわよ、フミヤ君!」
そう言ってフミヤの両肩に掌を乗せると天使の力の一部を注ぎ込んだ。
そして部屋に飛び込むやいなや自分とフミヤの身体を実体化させる。

「?????」
突然目の前に現れた天使に息をする事も忘れてしまった様なフミヤの両親。
何が起こっているのか状況を把握できないでいるようだ。
「貴方達が、フミヤ君のパパとママね。」
アスカはふたりを驚かさないようゆっくりとした口調で話かける。
「そんなに驚かないで。今日は、あなた方に伝えたい事があって来たの。」
「伝えたい…事?」鸚鵡返しに聞き返すのが精一杯だった。
そんなフミヤの両親を安心させるように微笑むと、優しく呼びかける。
「さあ、出てらっしゃい。」

「ママ!パパ!」出てくるや否や弾丸の様に母親の胸に飛び込むフミヤ。
「フミヤ!」突然の僥倖に驚きと喜びを隠せない両親。
一瞬戸惑ったものの、しっかりとフミヤの身体を受け止めると二度と離さない、
というかの様に互いにギュっと抱きしめ合っている。

再会を喜ぶ家族の姿にアスカの胸の中にも熱いものがこみ上げてくる。
溢れそうになる涙をグッと堪えると努めて冷静に話かける。
「これからフミヤ君は天国に行かなければいけないの。そんなに長い時間は
取れないけどフミヤ君とお話してあげて。」
アスカの言葉に両親の笑顔が凍りついた様に引きつる。
「嫌だ、フミヤは何処にも連れて行かせない!」
「そうよ!もう絶対離さないんだから!」
そして次の瞬間、まるでアスカがフミヤを連れ去る魔物であるかの様に敵意を露にする。

予想していたとはいえフミヤの両親の激しい反応にアスカの心が切り裂かれるように痛む。
もし自分がこんな形で天国に連れて行かれるとしたらシンジはどんな反応をするだろう。
きっとシンジもアスカの事を守ろうとするだろう…例え相手が天使長ミカエルであったとしても。
愛情が深ければ深いほど、引き離そうとする者に対する敵意は強くなる。
わかっていたつもりだったが剥き出しの敵意はアスカの心を鋭く傷つけていく。

(シンジ……あたしに勇気を頂戴…。)
挫けそうになる自分の心を奮い立たせてフミヤの両親を一喝する。
「いい加減にしなさい!あんた達、それでもフミヤ君のパパとママなのっ!」
見目麗しい天使からの激しい叱咤の言葉に驚きを隠せない。
呆気にとられ、毒気の抜けたフミヤの両親にアスカは切々と話かける。

「貴方達の哀しみは良くわかるわ…でも、このままじゃフミヤ君が天国にいけないの。」
「えっ?」ようやく冷静になってアスカの話に耳を傾ける。
「フミヤ君を思う貴方達の心が、フミヤ君を地上に縛りつけてしまっているの。」
「そ、そんな…それじゃ私たちのせいでフミヤは……。」
「じゃあ、もし此の侭フミヤを引き止めたら一体……?」
自分たちの所為で我が子が天国に行けないでいる…衝撃的な事実が両親を打ちのめす。

不安を隠せない両親の問い掛けにアスカは瞳を閉じると、哀しげに頭を振った。
「今はあたしの力で触れ合う事も、話す事もできる。けれど直ぐに姿を見る事も、
声を聞く事もできなくなってしまう。…そしてフミヤ君は永遠にこの地上をさまよう事に
なってしまうの。もう、生まれ変わる事もできなくなってしまうわ。」
「そ、そんな…。それじゃフミヤが……。」
自分たちの行為がフミヤに背負わせる運命の過酷さに慄然とする。

「わかって貰えたかしら…?」
アスカは心の痛みを堪え、精一杯の笑顔をつくって両親に話かける。
「あたしが責任を持ってフミヤ君を天国に連れて行く。だから心配しないで。」
両親に微塵の不安すら与えないよう静かな、されど自信溢れる態度で説得する。
その実、アスカの心の中は祈るような気持ちで一杯だった。
もし両親が納得してくれなければ一体どうしたら良いのだろう…。
強引にフミヤ君を連れて行くのか?それとも他に何か方法が……。
アスカはフミヤにすべてを託す事に心を決めた。

「さあ、フミヤ君。」アスカの手がフミヤに向かってそっと差し伸べられる。
ほんの少しだけ躊躇った後、フミヤはアスカの手を掴んだ。
祈るようなアスカの思いが繋いだ手を通してフミヤに伝わる。
フミヤはクルリと振り返ると満面の笑顔で両親に話かけた。

「パパ、ママ。フミヤね、パパとママの子供で楽しかったよ。だから、もう泣かないで。」
フミヤの笑顔に両親の顔にも微かだが生気が戻ってくる。
「笑っているパパとママが好きだよ!泣いてるパパとママは…嫌いだよ。」
そこで言葉を切るとフミヤは両親の顔をじっと見つめた。

「だから、だからいつも笑っていてね。お空の上から見ているからね。」
元気に…これ以上ないという位に元気な声で両親に呼びかける。
最高の笑顔だった……。
哀しみと苦悩に満ちていた両親の心の中にひとすじの光明が差した事を
アスカは確かに感じ取っていた。

「さあ、行こうか。」そう言うとアスカはフミヤの手を優しく握り返す。
アスカの身体が次第に温かな光に包まれ始める。
アスカと手を繋いだフミヤの身体もまた温かな光を放ち始める。
「パパ…、ママ……ありがとう。」
「「フミヤ……。」」それ以上はもう言葉が出なかった。
半ば光と化しているフミヤとアスカがさよならを告げるように小さくお辞儀をする。

そして、ふたりを包む光が一際眩しく輝いた!と思った次の瞬間
天使と我が子の姿はふたりの目の前から消えてしまっていた。
広げられたままのアルバムに静かに夜の帳がかけられていく。
まるで何事もなかったかの様な静寂だけが残されていた。けれど…。
「あなた…。」
「ああ…。」
互いの手を重ね合う若い夫婦。そのまま先程まで天使とフミヤが居た所を見つめる。
夜の静寂と闇の中でそこだけには、幼い我が子と凛とした天使が
彼らに残してくれた温かな灯がいつまでも点っている様であった。


第5章 月明かり
すっかり暗くなった冬の空に白く大きな月が輝いている。
フミヤの手を引きながらアスカは天国へと続く回廊をゆっくりと昇っていた。
街の灯火が次第に小さくなっていく。繋いだ掌を通してフミヤの温もりがアスカに伝わってくる。
アスカはずっと地上を見ているフミヤにそっと声をかけた。

「…パパとママの声、まだ聞こえる?」
包み込む様な優しいアスカの声にフミヤが顔をあげる。
「うん…でも、泣いている声じゃないよ…ありがとうって言ってる。」
そう答えるフミヤの声には確かに安堵と喜びが感じられた。
「そう…よかったね…。」小さな声でそう答えると、フミヤに微笑みを返す。
アスカにはわかっていた、フミヤが本当のこころをその奥底に沈めている事を…。
何も言わず、フミヤの手をしっかりと握り締めてゆっくりと天国への回廊を昇っていく。
白い月の光がふたりの姿を映し出していた。星々は何も言わず、ただ煌いていた。

やがてフミヤがアスカを見上げると小さな声で呟いた。
「天使のお姉ちゃん。」
「アスカでいいわよ、フミヤ君。」
「アスカちゃん、ちょっとだけ…泣いてもいい?」
懸命に涙を堪えていた、幼い子供の健気さがアスカの胸に沁みてくる。
アスカはフミヤの身体を抱き上げると、その胸にそっと抱いた。
「辛かったね。偉かったよ、フミヤ君。」そう言うとフミヤの背中を優しく抱きしめる。
幼子の温もりがアスカに伝わって来る。微かに震えているフミヤをギュッと抱きしめるとそっと囁く。

「もう、泣いてもいいんだよ。」アスカの言葉にフミヤがビクンと震える。
「ずっと我慢していたんでしょ…パパとママに心配かけないように。」
何も言わずに痛いくらいの力でアスカの身体にギュッとしがみつく。
「大好きなパパとママとお別れするのに哀しくないわけないものね…。」
アスカの言葉がずっと堪えていたフミヤの心の枷を解き放つ。
今までの大人しかった様子からは想像もつかないような大きな声をあげて
泣き出す。その円らな瞳から途切れる事無く涙が溢れる。

「……ママ、……パパ。」月の光の中にフミヤのこころのかけらが零れ落ちていく。
フミヤの身体を抱きかかえたまま、ただ優しくその背中を撫でるアスカの姿を
月は静かに、煌煌と照らしていた。


そんなアスカとフミヤの姿を天上から優しく見つめるふたつの視線があった。
「本来なら、まず私達に状況を報告し、両親に別の天使を派遣して彼らの
心の傷を癒してから改めて子供を連れて来るのですがね…。」
あきれた様な、感心した様などちらにもとれる声でアークが呟く。
「まさか子供と一緒に彼らの前に姿を現して、しかも説得するなんて…。」
「貴方の始末書も2〜3枚じゃすまないかもね。」
天使として重大な違反を犯したアスカをどう処分すべきか悩むアークに
どことなく楽しそうな声でユイがチャチャを入れてくる。

「相変わらずキツイ事を涼しげな顔で言ってくれますね。」憮然とした表情で答える。
けれど、ユイはそんなアークの言葉すらも嬉しそうな微笑みで受け止めてしまう。
ニコニコとしたユイの笑顔に厳しさを保とうとしていたアークからも本音がもれてしまう。

「……でもアスカの優しさとあの子供の思いは御両親のこころに沁み込みました。
きっと、これから彼らが生きて行く上で欠けがえのない、大きな糧になると思いますよ。」
隠そうにも隠し切れない喜びと誇らしさがアークの横顔に浮かぶ。
「人の命は終わったとしても、その思いはずっと残るのですからね…。」
アスカとフミヤの姿を…その背後に広がる地上の灯火を見ながらアークがそっと呟く。
そんなアークにユイが慈愛に満ちた微笑みを投げかける。
ユイの温かな視線を感じたのか慌てて厳しい表情に戻ろうとするアークだったが
なかなか上手くいかず、少々わざとらしい咳払いをすると強引に話を戻そうとする。

「何はともあれ初仕事完了という事でしょうか。」
「ね、私の言った通りでしょう。アスカさん、ちゃんと気づいてくれましたね。」
得意げなユイの言葉に敢えて気づかない振りをして、淡々と今回の査定を始める。
「迷える幼き魂を天国に導いた事…40ポイント」
「哀しみに打ちひしがれた両親の魂を癒した事…30ポイント」
「天使の身でありながら姿を見せ、話をした事…マイナス70ポイント」
マイナス評価をした所でアークは長い吐息をついた。

そんなアークの心を読み取ったかの様にユイが声をかける。
「随分厳しいのね、アーク。プラスマイナスゼロなの?あんなに頑張ったのに…。
これじゃ、アスカさんが悲しむわよ…泣かせてもいいのかしら?」
少々演技過剰気味のユイを敢えて無視して更にもうひとつ書き加える。
「幼き魂の哀しみを癒し、希望を与えた事…100ポイント」
そう付け足すとキッとした顔でユイの顔を睨みつける。

「これで良いのでしょう、ユイ。」
「はい、結構です。きっとアスカさん、喜びますよ。」満面の笑みでアークに答える。
「まったく…貴方には敵いませんね。」そう言うアークもいつしか笑顔になっていた。
「ほら、アスカさん達が帰って来ましたよ。」ユイの弾んだ声にアークも下界を見つめる。
月明かりを浴びたアスカの翼がアークの瞳に飛び込んで来た。


「ほら、あれがユイさんとアークよ。」
フミヤを抱っこしながら右手を伸ばしてユイとアークを指差す。
「わざわざ迎えに来てくれたのね…まったくふたりとも心配性なんだから!」
口ではそう言ったものの、アスカの表情には優しい笑みが浮かんでいた。
巨大な天国の門が近づいて来るに連れ、ようやくアスカの心にも安堵が湧く。
けれどその荘厳さが幼いフミヤには怖く感じられたのかもしれない。

アスカの胸に顔を埋めると、ギュッとアスカの身体にしがみついて来る。
突然のフミヤの行動に狼狽して、少しふらついてしまう。
「キャ!ど、どうしたのフミヤ君。」
しっかりとアスカにしがみついたままフミヤが尋ねてくる。

「アスカちゃん、天国って怖い所じゃないの?」
不安そうなフミヤの姿に年齢相応のいじらしさを感じ嬉しくなってしまう。
「怖くなんかないわよ。と〜っても楽しい所よ!」
本当は自分も来て間もないのだが、フミヤの為にさも楽しそうに話をする。
「ホントに?」そう言ってじっとアスカの瞳を覗き込む。
「大丈夫よ!なんてったって、このエンジェル・アスカ様がついているんだからね!」
「うん、わかった!」力強いアスカの言葉にようやくフミヤがコクンと頷く。
「宜しい!その調子、その調子。」ニコリとフミヤに微笑みかける。
ふたりの笑顔を月の明かりが映し出していた。


天空を見上げたままアスカは心の中でシンジに呼びかける。
(シンジ、これであんたの所に一歩近づいたわよ。きっと…きっと帰るからね、
あんたの所に!ちゃんと待っていなさいよ。)
そんなアスカらしいシンジへの呼びかけを見守るかの様な月明かり。
その穏やかな光にアスカの心の中、静かにひとつの思いが湧き上がる。

(エンジェルの任務…今のあたしに向いているかもしれない。)
アスカの胸の中にアークの言葉が蘇る。少し俯いてその言葉に耳を傾ける。
(エンジェルの仕事…さ迷える魂を導く事。)
心の中に響くアークの声にアスカの声が重なっていく。
(魂の哀しみを自分のものとして、そして一緒に悩み、解決策を探していく…。)
何度も繰り返し呟くアスカの瞳に月明かりに負けない輝きが宿り始める。

(昔のあたしだったら絶対に出来なかった事かもしれない。でも、今のあたしになら…、
シンジとの別れの哀しみを知ったあたしになら…きっと、出来ると思う。)
再び天空を見上げるアスカの横顔を白い月の光が優しく照らし出す。
(アークが何故あんな話をしたのか、今ならわかる。)
アスカの視線の先にふたりを待つアークとユイの姿が入る。

(シンジの所へ帰りたい…その思いがあたしの天使としての力の源。アークが驚く程
とても大きな思い。そう、それはいいの…。)
自分のシンジへの思いがアークに評価された事、それはアスカにとって嬉しい事だった。
(でも、天使としての任務を果たすにはそれだけじゃ足りない…。)

今回の任務に向かう前にアークが見せた寂しげな顔がアスカを迎えるアークの姿に重なる。
(誰にでも大切に思う人が居る…。その人への思いを、すべてのもの達を慈しむ心に変える。
それが具現化されて初めて天使の翼となる。それが本当に翼を纏うという事…。)
あの時、充分に理解する事ができなかったアークの真意が今は理解できる。
(それができない者は本当の天使にはなれない。それどころか、ひとつの思いに
囚われたまま強大な力を放ち続ける禍になってしまうかもしれない。)
アークの焦燥を交えた不安な表情はアスカを案ずるが故の事だった。

その事が今のアスカには痛いほど良く理解する事ができた。
(あたしも、そう…。シンジへの思いをすべてのもの達への慈愛の心に変えていく事…
それがエンジェル・アスカに必要な事だった。アークはあたしにそれを伝えたかったのね。)
今更ながらアークの真剣な思いに気づかなかった自分を情けなく思った。
(ゴメンね、アーク。出来の悪い生徒で…。今回は、そのうえ天使の心得まで…。)

いつしかアスカとフミヤはアークとユイの表情がわかる位の所まで昇って来ていた。
自分たちを見つめるアークとユイの優しい眼差しを感じアスカの心が温かくなる。
(良かった…アークもユイさんも怒っていないみたい。)
正しいと信じた事とはいえ、意識的に天使の心得を破ってしまった事に
密かに罪の意識を感じていたアスカの心がふたりの様子にようやく軽くなる。

その時、アークとユイがアスカとフミヤに優しく微笑みかけた。
アスカは自分の心の中に新しい力が湧き上がってくるのを感じた。
「さあ、フミヤ君。一気に飛ぶわよ!」
アスカの背中の白い翼がまばゆい光を放つと、ひときわ大きく、そして力強くはばたいた。
まるで、すべての魂の哀しみを優しく包み込むかのように…。
惣流・アスカ・ラングレーは天使の翼を纏い、今、本当にエンジェル・アスカになった。
FIN


マナ:天使があんなことしちゃっていいの?

アスカ:+100ポイントだから、ばっちりじゃん。

マナ:でも、天使が姿を見せちゃっていいの?

アスカ:結果が良ければ全て良しってやつよっ。

マナ:ま、今回はフミヤくんの悲しみを癒せたからいっか。

アスカ:この調子で、どんどん頑張るわよーーっ!

マナ:あの・・・あんまり調子に乗らない方が・・・。

アスカ:行けっ! 行けっ! GO! GO! よっ!

マナ:心配だわ・・・。
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