“鏡とピアスと願い事” 「おい、知ってるか?」 「え? 何のこと?」 夏休みも終わり、残暑の厳しい季節。 といってもそれは暦の上での話であり、セカンドインパクトの影響が残る東京では、この暑さがまだまだ続くのだけれど。 まあ、そんな夏の日。学校での、いつもの昼休みの、いつもの雑談中。 ケンスケが、ふとそう切り出した。 「最近、学校ではやってる噂話だよ」 「噂話?」 「あ、それってあの鏡の怪談のこと?」 ヒカリが話に割り込む。 「そう、それだ」 「何や、ヒカリも知っとるんか?」 「ええ。結構有名な話だもの」 「何よ、その鏡の怪談ってのは?」 アスカが聞き返す。知らないらしい。 僕も聞いたことがない。 「鏡って、あの三階の踊り場にあるあの大きい鏡のこと?」 「そう。あの大鏡のことだ」 「でもあれって、確かに大きいけど。普通の鏡にしか見えないよ」 「昼の間は、な」 「昼?」 「ああ」 「せやったら、夜にはどうにかなるっちゅうんか?」 「ああ。実は、夜、あの鏡の前に一人で立つと…」 そこでケンスケは、一度言葉を切った。 訪れた沈黙。辺りの喧騒が急に遠くなった気がする。 皆の顔を見まわしてから、ケンスケは言った。 「…鏡の中に吸い込まれるんだ」 そして、再び沈黙が訪れた。 それを破ったのは、アスカだった。 「何よ、それ。非科学的ね」 フン、と鼻で笑うアスカ。 「それって怪談って言うより、怪奇現象じゃないの?」 「まあ、そうとも言えるが…」 と、そこで僕はあることを思い出した。 「ちょっと待ってよ。あの鏡って、確かあそこに置かれたのって今年の春じゃなかったっけ?」 春休みが終わった始業式に、校長先生が話していた記憶がある。 「ダメやな。そんな置かれて間もない鏡に、何かあるはずあらへんわ」 やれやれ、といった表情のトウジ。だが、ケンスケはあくまで真剣な顔だ。ヒカリも同じく、少し怯えた表情をしている。 「それが、そうじゃないんだ」 「どういうこと?」 「あの鏡、もともとはどこかの学校にあったものらしい。それが、変な噂が立って、生徒が気味悪がって近寄らなくなった。それを、うちの学校が譲り受けたそうなんだ」 「じゃ、あの鏡は新品じゃないの?」 「そう。その前の学校での噂ってのが、さっきの怪談なんだ」 「面白そうじゃない。話してみなさいよ、その怪談ってのを」 「わかった」 そう言って、ケンスケはその『鏡』の怪談を話し始めた。 校舎の西の端、三階へ行く階段の踊り場に飾られている大きな鏡。 高さは2m以上はありそうな、巨大な鏡だ。前の学校では家庭科室に置かれていたらしい。その頃の話だ。 その事件が起きた頃、その学校では丁度生徒会の選挙が行われていたらしい。 事件に遭ったのは、その選挙の管理をしていた女子だ。仮にA子としておこう。 投票の1日前、選挙の準備は家庭科室で行われていた。作業が終わる頃には夜になっていた。 帰ろうとしたとき、そのA子が家庭科室に忘れ物をしたことに気がついた。 数人の友達に先に昇降口に行くように言って、A子は家庭科室に戻った。 だが、いくら待っても彼女は来ない。さすがに変に思って、友達の1人―――B子とする―――が様子を見に行ったんだ。 家庭科室の前まで来ると、部屋の中からA子の声が聞こえた。 なんだまだここにいたんだ、と思ってB子は近づいた。だけど、何か変なんだ。 誰かと会話しているような声。最後に部屋を出たのは彼女達だから、誰もいないはずなのに。 B子は少し恐くなったが、聞こえる声がA子の声だったから、怪しみもせずドアを開けた。 彼女は、鏡の前にいた。驚いたようにこちらを見ている。 その様子が少し気になったが、B子は「どうしたの? 忘れ物、見つかった?」と聞いた。 A子は一瞬変な顔をしたが、すぐにいつもの彼女に戻ったようで「うん、ごめんね。帰ろう」と言って部屋を出ていった。 おかしいとは思ったが、見た感じ何も変わっていないので、その日はそのまま帰ったんだ。 でも、その日から何かがおかしくなった。 例えば、食事のとき、A子は右利きだったはずなのに、左手で食事をしていたり。 右肩から髪を垂らすのが好みだったA子が、左肩から垂らしていたり。 彼女の何もかもが、左右反対になっていたんだ。見た目も性格も、何も変わっていないのに。 別に気にすることでもないかもしれない。利き手だって、実は両利きだったのかもしれないし、髪型だって、ただの気分転換かもしれない。実際、周りの誰も気にしなかった。 でも、あの日A子を探しに行ったB子だけは、おかしいと感じていたんだ。 もう一つ、A子には変わったことがあった。休み時間に、家庭科室に入る所を見たという人が増えた。 それだって、どうという事はない。元々彼女は裁縫が好きで、以前から家庭科室に行くことはあったからだ。 だが、その頻度が増えた。毎日のように、A子は家庭科室へ行った。 怪しく思ったB子は、ある日、こっそり彼女の後をつけていった。 A子が家庭科室に入ると、B子はそっと近づき、少しだけ扉を開けて中の様子をうかがった。何故か、休み時間にも関わらず、廊下には誰もいなかったそうだ。 見ていると、A子は例の鏡の前に立って、何かを言っている。 何を言っているかは聞き取れなかったが、誰かに話し掛けているような様子だった。 B子は、じっとその様子を見ていた。 ふと、A子が動いた。それによって、鏡に映った彼女の姿を見ることができるようになった。 何が映っていたと思う? 映っていたのは、確かにA子だった。だけど、鏡の中のA子はとても悲しそうにしていた。 勿論、鏡の前のA子がそんな表情をしていたわけじゃない。鏡の前のA子は、ぞっとするような笑みを浮かべていた。 映っている背景は普通の鏡と同じだ。だが、A子は違っていた。 鏡の前のA子と、鏡の中のA子は、同じ動きをしていなかった。まるで、同じ顔をした別人が、鏡の向こうとこちらで会話をしているようだった。 ふと、鏡の前のA子が、こちらを向いたようだった。 その瞬間、B子は恐怖を感じ、逃げ出した。そして、教室に戻り、自分の席で震えていた。 周りの人が不審に思って「どうしたの?」と聞いたが、B子は何も話さなかった。話せば、自分の身にも何かが起こるような気がしたからだ。 もうB子は確信していた。 A子は本当の彼女じゃない。彼女と同じ姿をした、別人なんだ。 きっと、あの鏡の中にいたのが本当のA子だ。あの日、あの家庭科室に忘れ物をした日、鏡の中のA子と本当のA子が入れ替わってしまったんだ。 A子が戻ってきたらどうしよう。もしかしたら、さっき気づかれていたのかもしれない。 恐怖に怯えながら、彼女は両腕を抱えて震えていた。 だが、A子は戻ってこなかった。休み時間が終わっても、学校が終わっても、次の日、その次の日になっても、戻ってこなかった。 捜索願いが出されたが、結局A子は見つからなかった。警察は事件の可能性を考えていたようだが、彼女の失踪に関係しそうな事件はなかった。 誰もが、不思議に思っていた。B子を除いては。 それ以来、B子は鏡が恐くなり、手鏡ですら覗けない状態になってしまった。 だが、この話はそれで終わらない。 やがて時間が経ち、事件の恐怖も薄れた頃、B子は別の友達にその話をしたんだ。 別の友達は、その話はただの怪談で、A子の失踪事件とうまく絡めているだけだと思ったらしい。 だが、その時だ。何気なく窓を見た時、B子が悲鳴を上げた。 振り向いた友達は見た。窓ガラスに映ったB子が、こちらに向かってニヤリと笑っていたのを。 B子はそのまま倒れた。それを見て、ようやく友達も我に返った。 悲鳴を聞いて他の人が駆けつけ、救急車が呼ばれてB子は病院に運ばれた。 だが、B子が目を覚ますことはなかった。彼女はそのまま、今も眠り続けているらしい。 「…という訳だ。この話は、その友達から流れたらしいんだが」 ケンスケが話し終えた。誰も言葉を発しない。再び沈黙が訪れていた。 ヒカリは怯えた表情で、トウジのそばに寄り添っている。そのトウジも、少し表情が硬い。 僕も、何だか急に周りの温度が下がったような、嫌な感じだった。 アスカは、というと。 「…よくある話じゃない」 余裕、といった感じだ。元々、アスカはこの手の話を信じない。 「でも、話はこれで終わりじゃない」 「え?」 まだ何かあるのだろうか? ケンスケは輪の中心に顔を寄せた。つられて、僕達も顔を寄せる。 「この学校でも、今話したようなことが起きてるんだ」 「えっ…」 「何や、誰か消えたっちゅうんか?」 「いや、消えたわけじゃない。でも、部活なんかで夜遅くなった人がその鏡を覗くと…」 「覗くと?」 「確かに自分は映っているんだが、鏡の中の背景が変わるらしいんだ」 「変わる…って、どんな風に?」 「場所そのものは変わらないらしいが、何故か昼間の風景が映るらしいんだ。夜だってのに、鏡の中は昼間のように明るいらしい」 「それって単に、そこが明るいってだけのことじゃないの?」 「シンジ、思い出してみろよ。あの踊り場に、昼間と間違えるほど明るいところなんてあったか?」 「…ない、ね」 「それにいくら明るくたって、太陽の光と人工の光くらい見分けがつくさ。鏡の中の映像は、確かに昼間の映像らしい」 「でも、それじゃさっきの話と少し違うんじゃない? さっきの話じゃ、鏡の中の自分と入れ替わるって…」 「そう、そこなんだ」 ケンスケは一拍置いて、続けた。 「…その昼間の映像の中に映っている自分は、必ず笑っているんだそうだ。本人は笑っていないのに、何故か鏡の中の自分だけが笑っているらしい」 「…それ、どういうことよ」 「言った通りさ。鏡の前と鏡の中では、全く違う世界が映っているんだ。異次元への扉って言ったのは、そういうこと」 なるほど。 「でもね、いつも起きるって訳じゃないみたい」 ヒカリが口添えをする。 「それが起きるのは、必ず一人でいるときだけ。二人以上だと、夜でも何も変わらないんだって」 「なんや、それ。せやったら、嘘かホントか分からんやないか」 「だから、噂なんだよ。実際、その現象を確かめようとした奴らもいたらしいが、何人かで見ても何も起きなかったそうだ。だから、今のところ噂が真実なのかどうか、客観的に判断できる要素はないんだ」 「だったら、アタシが判断してあげるわ」 「え?」 そう言って、アスカが立ち上がった。 その瞬間、僕はある予感がした。こう言う場合の予感は、悪い予感と相場が決まっている。そして。 「この天才的な頭脳を持つアタシの判断なら、誰だって信じるでしょ?」 「せやかて、ホンマに何か起こったらどないすんねや? それに、嘘やないっちゅう証拠もあらへんやんか」 「何よ、アタシが信用できないって言うの?…大丈夫よ、ちゃんとシンジを連れていくから」 そう言った途端、皆の視線が僕に集中した。 その表情は皆同じだ。「そうだと思った、まあ頑張ってきなさい」という表情。 僕はため息を一つついた。こう言う場合、僕に拒否権はない。 「分かったよ、アスカ」 「決まりね。じゃ、早速今夜実行するわよ」 「はいはい……」 悪い予感というものは的中するものだ。マーフィーの法則だったかな? という訳で、今僕達は夜の学校に来ているわけだ。 本来こういう事を止めるべき立場のミサトさんは、仕事でいない。たとえいたとして、止めたかどうかは疑問だけど。 まあとにかく、噂の真偽を確かめるべく僕達は学校への侵入を試みている。 に、しても。 「やっぱりここしかないの…?」 「しょうがないじゃない、ここ以外に鍵を開けておけそうな場所はなかったんだから」 あろうことか、アスカが侵入口として昼間のうちに鍵を開けておいたのは、女子トイレだったのだ。 「いくらなんでも、これはまずいと思うけど…」 「だって、他のところじゃ鍵を閉められちゃうわよ?」 確かに、このトイレは玄関や職員室などからは遠く、周りにあるのは資料室や理科準備室などの頻繁に使う教室ではないため、チェックが厳しくない、ということは知っている。 だけど…。 「せめて男子トイレにして欲しかった…」 「…アンタまさか、このアタシに男子トイレに入れとでも言うつもり? アタシに恥をかかせようっての?」 それじゃ僕の恥はどうでもいいのか…と訊いたら「どうでもいいわよそんなの」と答えられるのは分かっているので、それ以上は何も言わないことにした。 まあ誰も見てないし。別に変なことするわけじゃないからいいよね。 夜の校舎に入ること自体変といえば変だけど。 「ほら、さっさと来なさい!」 「はいはい…」 夜の学校は、思っていたよりもずっと暗かった。 いつも僕達が行き交っている廊下のはずなのに、何か見たこともない通路のような気がする。 どこか、違うところへ続いているような、そんな感覚。 半分だけ顔を出している月の光が、窓から射し込んでいる。 そんな廊下に、アスカと二人っきり。…嫌でも、意識させられてしまう。 「…? 何よ?」 「い、いや…なんでもない」 危ない危ない。アスカにこんな事気づかれたら何を言われるか…。 そのうちに、僕達は例の鏡が置かれている階段のところに来た。 「じゃ、アタシが見てくるから。アンタはここにいるのよ?」 二人以上では何も起きないというので、アスカが確認しに行って、その間僕は一階で待っていることになった。 警備員が来たときは、すぐに知らせることにしている。 「気をつけてね、アスカ。噂が本当だったら…」 「何よ、アンタもあんな話信じてるわけ? バッカみたい。アタシがすぐに嘘だってこと証明してあげるわよ。じゃ、見張り頼んだわよ」 「わかったよ。あまり長い時間はダメだよ?」 「わかってるわよ、そんなの」 そう言って、アスカは階段を上っていった。 右耳のピアスが、月の光を受けて一瞬、煌いた。 それから、10分ほどが経ったと思う。 「アスカ…まだかな…」 アスカはまだ戻ってきていない。 まあ、「何か仕掛けがあるかもしれないからじっくり調べる」とは言ってたけど…。 「それにしたって、時間かかりすぎじゃないかな…」 そう言えば、一度も警備員は来なかった。丁度、見回りの時間から外れているのかもしれない。 出来ればこのまま、何事もなく帰りたかった。 と、その時だった。 「キャァッ!?」 突然聞こえた、アスカの悲鳴。 「アスカっ!?」 呼びかけてみるが、返事はない。 …もの凄く、嫌な予感がする。 「アスカっ! どうしたんだ、アスカっ!」 急いで、階段を駆け上がる。 …まさか、アスカ…くそっ! 二階に上がり、三階へと行こうとした、その時! 「わぁっ!?」 「キャッ!!」 ドンッ!! 上から階段を降りてきた、何かとぶつかってしまった。 …今の声は…? 「アスカ!?」 そう、目の前で座り込んでいるのは、紛れもなくアスカだった。 「…ったいわねー! 何なのよ、一体!!」 「あ、ごめん…えと、アスカ?」 「何よ? まったく…」 目の前のアスカは、いつもと全く変わりのないアスカだった。 でも…。 それじゃ、さっきの悲鳴は…? 「アスカ…。さっき、何があったの?」 「さっき? 何のことよ?」 「え…だってさっき、悲鳴あげたじゃないか」 「悲鳴…アタシが?」 「他に誰がいるって言うんだよ」 「アタシは悲鳴なんて上げてないわよ。空耳じゃない?」 「え…?」 そんな馬鹿な。じゃあ、さっきの悲鳴は一体…? アスカの言う通り、空耳なんだろうか。いや、確かに聞こえたはずだ。 だったら、アスカが嘘をついているのか?…いや、そんな風には見えない。 なら、あれは一体…? と。 「シンジ」 「ん? うわぁっ!?」 目の前に、アスカの顔があった。 「な〜に、シンジ? アンタ空耳が聞こえるくらい、アタシのこと心配してたのぉ〜?」 「え…」 いや、あれは空耳じゃ…。 「フフ、真っ赤になっちゃって。図星だったのかな?」 「なっ…! ち、違うよ!」 「じゃ、アタシのことなんか心配してなかったってわけ?」 アスカの目が吊り上がる。 「え…い、いや、心配したよ! すっごく!」 言ってしまってから、とても恥ずかしいことを言ったことに気がつく。 「フフ、分かってるわよ。だって、シンジだもんね」 いたずらっぽく笑うアスカ。 …まあ、いいか。 「それで、どうだったの? 鏡は?」 「ああ、あれ? 別に何もなかったわよ。結局、ただの噂だったってことね」 「そうなんだ…」 「どうせ誰かが適当なこと言って、それを信じたヤツが幻覚でも見たんでしょ」 「そうかな…」 何となく、納得のいかない感じがする。 と、その時。 「シッ! シンジ!」 「え?…あっ!」 廊下の向こうの方が、明るく照らされている。 警備員が来ているんだ。 「ほらっ! 早く逃げるわよっ!」 「あ、待ってよ、アスカ!」 見つかったらとりあえず良くないことになる。 とにかく、僕達は夜の校舎から逃げ出したのだった。 …勿論、脱出経路は例の女子トイレだった。 「おはよう、シンジ、アスカ」 「おはよーさん、お二人さん。どないやった、夜の逢引きは…いてっ!」 次の日の朝。僕とアスカはいつも通り、学校に来ていた。 …そう、いつも通りだった。結局、アスカには何の変化もなかったのだ。 だから、トウジが僕達をからかって、アスカにデコピンされる、いつもの朝。 「何や、結局何もなかったんかいな」 「そうよ。これで噂話ってことが証明できたわね」 「まあ、シンジも何もなかったって言うし…やっぱり、ただの怪談だったってことか」 昨夜の出来事を報告すると、皆一様に納得したらしい。 皆も、ただの噂話だと、少なからず思っていたのだろう。 「シンジ、ホントに何もなかったのか? 実は何かあったんじゃないのか?」 「いや、何もなかったよ。特に」 「ホンマか? 何ややましいことでもあったんとちゃうか?」 「そうだな。夜の校舎に二人っきりだもんな…何かあってもおかしくない」 「だから、何もなかったってば!…だからヒカリ、そんなに引くことないだろ!」 いつの間にかヒカリは、僕達の遥か後ろにいた。 「ふ、不潔よっ! 二人ともっ!」 「…だから…」 昼休み。 「シンジ! お昼食べよ!」 「そうだね。今日は天気がいいから、屋上で食べようか」 「いいわね、それ。行こっ!」 僕とアスカは、昼食は一緒に食べる。 …作ってるのは僕なんだから、これくらいいいじゃないか。 「トウジは?」 「さっき、ヒカリと一緒にどこか行ったわよ。今ごろ二人っきりなんじゃない?」 「ケンスケは?」 「俺は別の奴らと食べるよ。邪魔しちゃ悪いしな」 …ケンスケに、少し感謝。 「ほら、早く行くわよ!」 「今行くよ」 と言うわけで、屋上でのランチタイム。 「今日のお弁当はなに?」 「三色御飯」 「よし! 合格!」 何が? 「いっただきまーす!」 「いただきます」 良く晴れた空の下、アスカと二人っきりで食べるお弁当。 幸せだなぁ…。ちょっと暑いけど。 でも、少しだけ強い風が涼しい。 横目でアスカを見る。右手で風で乱れる髪を抑えながら、僕の作ったお弁当を食べている。 …ちょっと、見とれた。 ……? 「あれ?」 「ん? 何よ、シンジ?」 「いや…、何でもない」 「? 変なの…」 何だろう、今の違和感は…? そのまま何事もなく学校が終わり、下校時刻。 「ほな、お二人さん」 「じゃあね、アスカ、シンジ君」 「うん、またね」 トウジ達と分かれて、帰路につく。ケンスケは大切な用事があるとかで、先に帰った。 何かの発売日だそうだ。まあ、いつもの事だ。 「ほら、早く帰って夕御飯の支度しないと」 「…するのは僕だよ」 なんて、他愛もない会話をしながら、コンフォート17への道を歩く。 チラリ、と右を見る。 夕日に照らされたアスカの顔。髪の色と同じ、茜色に染まっている。 その中で、アスカの青い瞳が、綺麗に輝いている。 視線を感じたのか、アスカがこちらを見る。 「何よ?」 「あ、いや…別に、何でもない」 「変なの…」 …かなり、見とれてた。 こちらを振り向いた時に一瞬煌いた、左耳のピアス。アスカの瞳と同じ、空色の宝石が飾られている。 …あれ? 感じた、違和感。 お昼の時よりもそれは明確な形となって、僕の中に湧き上がった。 「アスカ?」 「何?」 「その、ピアスって確か…」 「ああ、これ?…何よ、あれだけ説明したのに忘れたの?」 「いや、そうじゃなくて…」 アスカがそのピアスをつけたのは、一週間ほど前のこと。 『ほらほら、似合う?』と言って、僕に見せびらかしてきたのだ。 『どうしたの、それ?』 『フフ、おまじない。ヒカリに教えてもらったの』 『へえ、珍しいね、アスカがそんなの信じるなんて。何のおまじない?』 『こうやって、片方の耳にだけ自分の誕生石の飾られたピアスをつけると、願い事が叶うんだって』 そう言って、ピアスを見せびらかす。ピアスには、空色の宝石がつけられている。 (アスカの誕生日は12月4日だっけ…じゃあ、これはターコイズだな) 『で、何を願い事したの?』 『それは…ヒ・ミ・ツ! 第一、それを言ったら叶わなくなっちゃうじゃない』 『そんなものなの…?』 結局、何を願ったのかは教えてくれなかった。…今も、少し気になる。 とにかく、アスカはそのピアスを何度も見せびらかしていた。 だから、しっかりと覚えている。 ・・ アスカは、右耳にピアスをつけていた。 それが、今僕の目の前にいるアスカは、左耳につけている。 これはどういうことだろう? 「そのピアス、右耳につけてなかったっけ?」 「ああ…その事?」 それ以上は答えず、何故かうつむくアスカ。 どうしたんだろう?…何か、あるのだろうか。 何かおかしい。僅かな変化も見逃さないように、僕はアスカを見つめる。 「…い…」 と、アスカが何かを言った。 「え? 何?」 さらに訊く。 アスカは何かためらっている様子だったが、開き直ったらしく、大声で言った。 「だから、失敗したの!!」 …え? 「失敗…って、何を?」 「あのおまじないのこと! あのおまじない、ピアスを左耳につけないと効果がなかったの! つい忘れて、右耳につけちゃったけど…」 失敗したことが恥ずかしかったのか、顔を赤らめるアスカ。 …なんだ、そうだったのか。 あらぬ疑いを抱いていた自分を恥じる。 「ほら! 早く帰るわよっ!」 「あ、待ってよ、アスカ!」 でも、心の中に残るこのしっくりこない感じは、何なんだろう? 二人分の夕食の用意を済ませて、僕はアスカを呼びに行く。ミサトさんは、今日も帰りが遅くなるらしい。 「アスカー、御飯の用意、できたよー?」 いつもなら呼べばすぐに来るアスカ。でも、部屋から出てくる気配がない。 「アスカー?」 部屋の前まで行ってみる。ドアをノックして呼んでみるが、返事はない。 寝てるのかな? 「アスカ、入るよー」 ちゃんとノックもしたし、文句を言われることはないだろう。 ドアを開けて、部屋の中を覗く。 「…あれ?」 いない。鞄はベッドの上に置いてある。 「…どこか出かけたのかな?」 一応、トイレやお風呂も覗いてみるが、いる気配はない。 やっぱり、僕が気がつかないうちにどこかに出かけたのだろうか? 仕方なく、食堂のテーブルに座って待つことにする。アスカは食事時には帰ってくるから、そう長くは待たないだろう。 どこか外で食べてくるなら、その連絡くらいはあるだろう。 ぼーっと、自分で用意した食卓を眺める。 箸を取ろうとして…やめた。アスカより先に食事をしたなんて言ったら、どんな目に合わされるか…。 伸ばした手を戻そうとした時。 不意に、気がついた。 昼間感じた、違和感の正体。 あの時。 アスカは右手で髪を抑えながら、お弁当を食べていた。 つまり。 ・・ アスカは、左手で食事をしていたことになる。 アスカが左利きだから? いや、違う。 少なくとも僕が知っている限り、アスカは右利きだったはずだ。 じゃあなぜ、あの時左手で食事をしていたのか? その瞬間、僕の脳裏に2つのことが浮かんだ。 一つは、今日帰り道で見た、アスカの左耳につけられたピアス。 もう一つは、昨日のケンスケの言葉。 『彼女の何もかもが、左右反対になっていたんだ』 僕は、急いで外に出た。行く先は―――学校。 もう、間違いない。昨夜のあの時、アスカに何かがあったに違いない。 僕が聞いた悲鳴は、空耳なんかじゃなかったんだ。 ケンスケに聞いた話の通りなら、今日僕と一緒にいたアスカは、鏡の中のアスカだ。 本当のアスカは―――あいつの代わりに、鏡の中に引きずり込まれたことになる。 だったら、どうすれば良いのか。 それは分からないけれど、とにかくあの鏡を調べるんだ。 僕は、学校へ走った。 昨夜と同じように、例の女子トイレから校舎内に入る。鍵は、開いていた。 恥ずかしいなんて、微塵も思わなかった。 誰もいない廊下を、僕は走る。向かうのは、あの鏡のある踊り場。 やはり今日も、警備員の姿は見えなかった。 息を切らせて、階段を上る。 一階から、二階へ。そして、あの踊り場へ―――。 「……!!」 鏡の前に、誰かがいる。 一瞬ためらったけれど、そのまま階段を上る。 そして、その姿がはっきりと見えた。 「…ア、スカ…?」 そこにいたのは、アスカだった。 なぜ、アスカがここに? 僕のつぶやきが聞こえたのか、アスカはゆっくりとこちらを向いた。 すると、その瞬間。 「!? うわっ!?」 急に、目の前が明るくなった。 …いや、僕の目の前にあるのは…鏡! そう、鏡が明るく光っていた。 いや、正確に言えば、鏡の中の風景が明るいものだった。当然、今は夜だ。ましてやここは夜の学校だ。明るいはずがない。 だが、鏡に映る風景は、確かに明るい、昼間の風景だった。決して、人工の光ではない。そのくらいはわかる。 …そうだ、これがケンスケの言っていた…。 目が慣れてきた。ようやく、鏡をしっかりと見ることが出来る。 こちらを向いているアスカ。だが、鏡の中のアスカも、こちらを向いている。 一瞬で、理解した。あの鏡の中にいるのが、本当のアスカだと。 じゃあ、今僕の目の前にいるアスカは…。 そのアスカは、ニヤリと笑って、言った。 「もう気づいたんだ…さすがね。まあ、ピアスのこと訊かれたときに予感はしてたけど」 ふてぶてしく、そんなことを言ってのける。 「お前は…誰だ? アスカを、どうした?」 一瞬感じた恐怖。でも、それに負けるわけにはいかない。 目の前のこいつが、アスカを鏡の中に閉じ込めたんだ。 「アタシはアスカよ。それ以外の何者でもないわ」 「ふざけるな!!」 自分でも驚くくらいの大声で、怒鳴りつける。 「お前が鏡の中の者だっていうことは分かってるんだ! 本物のアスカを返せ!!」 「…そんなに、アスカを返して欲しい?」 「当たり前だ!」 「どうして?」 「アスカは…、アスカは、僕の大切な人だからだ!!」 思いもかけない言葉が、僕の口から飛び出た。だが、今は恥ずかしさなんて感じない。 今の僕は、目の前のこいつへの憎しみで一杯だった。 「さあ、アスカをどうした! アスカを返せ!」 “アスカじゃないアスカ”に詰め寄る。 そいつは、しばらく僕とにらみ合っていた。 だけど。 突然、“アスカじゃないアスカ”が笑い出した。 それはもう、心の底から可笑しいといった感じで。 「な…何が可笑しい!!」 思いがけない相手の反応に戸惑いながら、僕はさらに詰め寄る。 しかし、相手は笑うのを止めない。 さすがに不審を抱いた時、“アスカじゃないアスカ”が言った。 「アーッハッハッハッ!! シンジ、最高! だめ、お腹痛い…アハハハハ!!」 「え…」 一体、どうしたんだろう? “アスカじゃないアスカ”のはずなのに。 目の前で笑っているのは、いつものアスカとしか思えない。 「もーだめ、アタシの負け! まさかアンタの口からあんなこと…」 ようやく笑うのを止めた“アスカじゃないアスカ”は、そんなことを言った。 「…どういうこと?」 もう、何が何だか分からない。 “アスカじゃないアスカ”は、涙を拭きながら言った。 「アタシよ、アタシ。正真正銘本物の、惣流・アスカ・ラングレーよ」 「…え?」 どういうことだろう? 目の前にいるのが、本物のアスカ? いや、そんなはずは…でも…本物としか、思えない…。 気がつくと、鏡に映る風景もただの、夜の校舎の風景になっていた。 「アンタ、本当に完璧に騙されたわねー。ここまで引っかかるとは思わなかったわよ」 「…どういうこと?」 「ごめん!!」 突然、アスカが謝った。 「全部、アタシの嘘でした!」 …え? 「えーーーーー!!??」 もう、何がどうなっているのか…。 「どう言うことだよ!? ちゃんと説明してよ!!」 「分かってるわよ。んー…何から説明しようかな…じゃまずは、この鏡から。 この鏡…普通の鏡に見えるでしょ?」 「うん…」 別に凝ったデザインでもない。それどころか、縁さえないのだ。 「まあ、誰でもそう思うだろうけど…えいっ、と」 何やら鏡の横を手探りしていたアスカが、何かをした。 と、その瞬間。 「うわっ!?」 再び、鏡が明るく輝いた。 さっきと同じように、昼間の風景が映し出される。そして、こちらを向いているアスカも。 「これは…?」 「実はこの鏡、特殊な仕掛けがしてあるの。 鏡面全体が一種の録画装置になっていて、ここのフックを引くとその映像が映し出されるの」 そう言って、鏡の横面についている、小さなフックを指差した。一見すると、ただのフックにしか見えない。 「まあ、記憶できるのは一つの映像だけで、別の映像を撮ると前の映像は消えちゃうんだけどね」 アスカの話していることは、混乱した頭でも何とか理解できる。 でも…。 「何でそんなものが、こんなところに…? それに、アスカは何でその事を?」 「実はこれ、十年くらい前のSF映画の撮影に使われた道具なの。 アタシはこの道具のことは知ってたんだけど、まさかこれがそうだとは思わなかったわ。 でも、昨日色々調べてるうちに、この仕掛けを見つけて。で、ピンと来たの。 まあ、さすがにいきなり昼間の映像が現れたときは驚いたけど…。 で、今日調べてみたら、この鏡が前の学校に置かれたのは今から四年前。 多分、あっちの学校の人もこの仕掛けのことは知らなかったんじゃないかしら。」 「え…じゃあ、前の学校や、ここでの怪談は…」 「どうせ、アタシみたいにこの鏡のことを知ってる人が、遊んでたんでしょ。 で、それを知らない人が見て、怪奇現象だと思ったわけ。 前の学校の怪談の女の子だって、どうせただの両利きだとか、気分転換とか、そういうことだったんじゃない? それらの話がごちゃ混ぜになって、あの話が作られたんじゃないの?」 「ちょ、ちょっと待ってよ…」 まあ、アスカの言っている事は分かる。でも…。 「それじゃ、アスカは…?」 「アタシ? ああ、ピアスとかの事ね。 言ったじゃない、ピアスは失敗したって。 左手で食べてたのは、今朝ちょっと右手を痛めて、使い辛かっただけ。 知らなかった? アタシは両利きなのよ」 「…え、っと…」 まだ、頭が混乱していて飲み込みきれない。 でも、確かなことはある。 「とにかく…本物のアスカ、なんだね?」 「そうよ。他に誰に見えるってのよ?」 その言葉を聞いて、何だかとても安心した。 と同時に、何だか妙に力が抜けた。ため息をついてから、アスカに訊ねる。 「あの時、やっぱり悲鳴上げてたんだね?」 「ええ。いきなり鏡が明るくなったから、さすがにびっくりしたわ。 でも、それで仕掛けに気がついて…。 そこへ、アンタの声が聞こえて…。 その時、このイタズラを思いついたの」 「なんでこんな事したんだよ! 本当に心配したんだよ?」 「ごめん!!」 珍しく、素直に謝るアスカ。 さすがに、自分に非があることを認めているのだろう。 「謝らなくていいから、理由を聞かせてくれないか?」 「それは……」 ちょっと口篭もるアスカ。そのまま俯いてしまう。なぜか、顔が赤い。 下を向いたまま、聞こえるかどうかの小さな声で、言った。 「…アンタが、どのくらい心配してくれるか、見たかったから…」 「えっ…」 そ、それって…どういうこと…? 吹っ切れたのか、アスカは顔を上げた。もう、いつものアスカだ。 うろたえる僕に、さらに追い討ちをかける。 「それにしても…まさかアンタの口からあんな言葉が聞けるなんてねー…」 「え…あっ!!」 さっきの僕の言葉を思い出す。 「あっ、違うんだ、その、あれは、勢いで、その、そういうんじゃなくて…」 「何よ? じゃあアレは、嘘だったっていうの?」 「ううん、嘘じゃないよ!!」 慌ててそんなことを口走ってしまう僕。 「…あ…」 「フフ、嬉しいな。シンジにそんな風に思われてたなんて」 顔を赤らめて、笑うアスカ。 …ああ…どうせなら、もっとちゃんと言いたかったな…。 「…願い事、叶っちゃったかな」 そう言って、左耳のピアスに触れる。 「そう言えば、その願い事って何だったの?」 「フフ…ヒ・ミ・ツ!!」 何だよ…叶ったのなら、教えてくれたっていいじゃないか。 僕が憮然としていると、アスカは違う意味に受け取ったらしい。 「何よ、まだ疑ってるの? だったらほら、触ってみなさいよ」 そう言って、僕を鏡の前に連れてくる。 「え、いや、別に疑ってなんか…」 「いいから。ただの鏡だから、触ってみなさいって。そうすれば、信じるでしょ?」 まあ、いいか。 僕は呆れ顔で、色んな意味で人騒がせな、その鏡に手を伸ばした。 鏡の中の僕が笑っているのに気がつくのと、伸ばした手が鏡に触れるのは同時だった。 硬質なガラスの感触ではなく、水を通りぬけるような無抵抗感と共に、僕の手は鏡の中に飲み込まれていった。 何が起きたのか分からないまま、強い力で引っ張られる。 振り向いた僕の目に、笑みを浮かべたアスカの姿が映った。 「あれ?」 それしか、言えなかった。 不気味に笑うアスカの右耳に、ピアス穴なんてなかった。 『願い事は、ずっと二人で一緒にいること。 良かったわね、願いが叶って』
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