世にも恐ろしい、かの戦いからもう4年。 シンジはアスカを伴って、「先生」の家を訪れるために第2東京を訪れていた。 そもそも、シンジの母ユイから見て伯父に当たる人で、シンジから見ると遠縁なのだが、幼い頃から勉強好きで研究熱心だったユイは、植物学の教授である伯父によく懐いて訪れ、尊敬の念を込めて「先生」と呼んでいた。 それが幼かったシンジにも伝染して、「先生」と呼び続けているのである。 思えば、あの唐突な父ゲンドウからのの手紙に呼び出されてから、手紙一つ、電話一本かけたことがない。恩知らずとなじられても、何の申し開きもできない立場だが、育ての親である老夫婦は、二人の来訪を殊の外喜んでくれた。 その姿を見て、シンジは己の盲目ぶりに恥ずかしくなった。 10年も一緒に暮らしていながら、この人達はこの人達のやり方で、自分のことを気遣ってくれていたことに、気付いていなかったのだ。 正直に自分の心境を話すと、 「近すぎると、かえって見えにくくなることもある」 と、やんわりと流してくれた。 見えにくくても、そういうことを忘れてしまうと、くだらないことで破局は訪れかねない。実際にその一歩手前まで行ったことがあるだけに、シンジは真剣な面持ちで、今の言葉を受け止めた。 使徒との戦いのことは、あまり話題にしたくはない。かと言って、老夫婦の近況をアスカを交えてするにも、会話に無理がある。 話の流れは、自然とシンジの昔話になった。 「気晴らしにでもと、シンジ君を動物園に連れて行ったんだが、これが物凄く大変なお出かけだった・・・・」 「はぁ・・・・動物園が遠くにしか無かったんですか?」 懐かしみながら話を切りだす先生の言葉に、やや不可思議そうに、言葉を選びながらアスカが合いの手を入れた。 何の話か既に察知したシンジは、居心地悪そうにしていたが、口をはさめずにムズムズしている。 「いやいや、動物園は万人向けの娯楽施設だ。第2東京も早い時期に開園されたよ」 「?では、どうして大変なんです?」 「・・・シンジ君は、今もあまり気が強い方じゃないでしょうけど、小さい頃はとても恐がりでしたから・・・」 お茶をすすりながら、夫人はやや遠回しな物言いをしたが、察しの良いアスカにはそれで十分だった。 「あ!分かりました。動物園で大泣きしたのですね!」 アスカが極上のネタを仕入れたと、やや意地悪く瞳を輝かせながら横目でシンジを見やると、シンジは気まずげに顔をしかめて、そっぽを向いた。 「ああ、象やキリンはよかったんだが、猛獣がねぇ」 「それでも、虎とかヒョウは、まだ遠くにいたから良かったのよ」 「足早に通り過ぎたから、あまり見に来た意味がなかったのだがなぁ」 長年連れ添ったがゆえか、かわるがわるに口を開いて老夫婦は説明を紡いでいく。 「それでそれで?」 初対面、それも面通しという事を意識して、お上品そうに振る舞っていたアスカだったが、その仮面はすっかり剥がれ落ち、いたずらっ子の地金を晒している。 「ライオン舎は、ガラスのすぐそばに雄ライオンが寝そべっていてね」 「そこで、怖いと大泣きして一歩も動かなくなってしまったのよ」 「・・・・・・・」 「厚いガラスの向こうだから、こっちには来ない、大丈夫だよと、何度言っても首を振って泣くばかりで・・・、あれにはホトホト困り果てたよ」 「手を引いて行こうとしても、ガンとして動かないの」 「・・・・・・・」 「アスカ?」 何かと口を出したがるアスカが、黙っていることに不審を覚え、シンジが振り返ると、アスカは、俯き、肩を震わせているではないか! 「5分ぐらいしたかしらねぇ。ようやく、泣きやんでくれたのだけど」 「泣き声が途絶えたせいか、それまで檻の内側を眺めていた雄ライオンが、こちらを振り向いてしまったのだよ」 「折角、泣きやんだと思ったら、また大噴火されてしまって、仕方な・・・」 「・・・・プッ!プクククククク、クヒャヒャヒャ」 夫人の言葉を遮って、我慢に我慢を重ねていたアスカが、遂に吹き出した。 「仕方ないだろ!・・・まだ、小学校1年だった頃の話なんだから・・・!」 気恥ずかしさに顔を紅潮させて、シンジがくってかかったが、アスカは可笑しさに涙をにじませた目でチラと見て、更に大笑いし、お膳に身を預けてドンドンと叩く。 「あ〜ハハハ!可笑しい!可笑しすぎる!ッッヒャヒャヒャ!バカ、シンジらっしいけど・・おっかしいぃ〜〜〜!」 「先生も!なにもこの話じゃなくて、いいじゃないですか」 会話になりそうもないので、シンジは矛先を老夫婦に向ける。 「まぁ、アスカさんも喜んでいるようだから、いいじゃないか」 「それにシンジ君は、おとなしい子だったから、あんまりパッとしたお話もねぇ・・・」 「〜〜〜〜〜」 あんまりよくないが、話題がないのも確かなので、シンジが苦虫を潰した顔をしていると、文字通り笑い転げているアスカが、お膳だけでは足りずに、畳に崩れ落ちてしまった。 「おなかいった〜い。フフッ、アンタ、そんなんで、よく、エヴァに乗って、使徒と、戦う気に、なれたわね?」 笑いを堪えながらなので、アスカのツッコミはきれぎれだ。 「小一の時と一緒にしないでよ!」 「恐がりの、アンタとしちゃ、エヴァに乗って、戦うだけで、相当、恐怖に、身を縮こませてた、ってぇのね。ハハッ、なんて、言っても、ガラスの、向こうのライオンさえ・・・プヒュヒュヒュ!」 「だ〜から〜〜ぁ、・・・・もういいよ。好きにすれば・・・」 笑いを交えながら話するアスカに、何を言っても無駄だと、シンジが拗ねて諦めたところで、クイクイと袖を引っ張られた。 「ハッフフ!わ、笑い、すぎて、呼吸、できないの。く、くるひい・・・ハハッ!」 「呼吸困難になるほど、おかしいの!?」 「だ、だって、光景が、目に、浮か・・・っっっっっっ!」 そこまで口にして、再度想像してしまったらしいアスカは、声もあげられずにピクピクピクピクぅと細かい痙攣をかます。説明するまでもないが、また笑っているらしい。 「どうしろっていうんだよ!」 文句を言いながら、呼吸が落ち着くようにと、アスカの背中を軽く叩いてあげちゃうシンジである。 そんなやりとりする二人の邪魔をしないように、老夫婦はお茶のお代わりなんかを用意していた。 ひと騒動あったが、年寄りの所でいつまでも大人しくしているのは、若者にとって退屈だし、年寄りもそれは分かっている。 時間は午後3時を30分も回っていて、今から第2東京の繁華街に出るのには、ちょっと遅い。 アスカが「その辺でいいから、どこか出かけよう」と言い出したので、「その辺なら」と散歩に繰り出したのである。 盆地の坂を下って行くと、階段状に建てられている宅地が途切れて、視界が少しだけ開ける。遊歩道のついている細い川があるからだ。 そこまできて、シンジは、あれ?と目を丸くした。 「どうしたのよ?」 隣を歩いていたアスカが、不思議そうに聞いてきた。その姿が自分より、一、二歩前に出ていることで、シンジははじめて自分が立ち止まってしまった事に気付く。 「あ、いや・・・・。手前の家がそのまま残っているから、ちょっと気が付かなかったんだけど・・・」 「?。何言ってんだか、分かんないんだけど?」 アスカは、眉間に小さくしわを作って、自分にもちゃんと分かるように話して、と要求した。 「ああ、ゴメン。そこの家の裏が、大きな空き地になっちゃってるよね?」 「草ぼうぼうに、なってるわねー」 示された方を振り向いて、アスカが見たまんまを口にする。 「道はまだ残ってるみたいだから、そこまでいこうか」 そう言って、シンジは歩を進めたのだが、角を曲がってしばらく進んで、再び立ち止まる。 「うーん、分かっていたけど、見事まで無くなってるなー」 「も〜ぅ、さっきからなんなワケ?」 腰に手を当てて、いぶかしげな顔でアスカが訊ねる。 「この道は、僕が小学校の頃の通学路だったんだけど・・・」 「ツウガクロ?−−−何、ソレ?」 表情をキョトンとさせて、アスカ。それを見て、「あっ、そうだった」と頭を掻きながら、シンジは答える。 「日本の小学校では、近所に住んでいる子供達ごとに、班登校。えーと、グループで学校に来ることになっていて、歩くコースも決められているんだ。それが通学路」 「ふ〜ん、とりあえずの犯罪防止策ってトコ。でもこの際、通り道って言ってくれた方が、分かりやすくて、親切だったんじゃない?」 手短に説明したつもりだったのに、結局ツッコミを入れられて、シンジの表情のはじっこが微妙に引きつるが、話題を元に戻して立て直しをはかる。 「まあ、とにかく。僕が小学生だったころ、ここには避難住宅があったんだ」 避難住宅とは、セカンドインパクト直後の混乱期に、住む家と土地を失った避難民のために、「十年間の期間限定で住まわせる」という条件で、建てられた中層住宅である。 もっとも、行く先をなくした人全員が、なんのトラブルもなく新天地を見出せるはずもなく、十年できちんと撤去された例の方が少なかったが。 100メートル四方はある広い空き地を、改めて見渡すと、まだ以前の建物の基礎跡がのぞいている所と、背の高い雑草に埋め尽くされている所とがある。何年かで、段階的に取り壊されたのだろう。 「なるほどね。これだけまとまった空き地なんて、都市部じゃ滅多に無いもの。全部無くしてから再開発するってワケね。−−−何ができるのかしら?」 「さぁ?」 首を傾げて、疑問の同意をすると、シンジはスタスタと進み始めた。 「あ、ちょっと、待ちなさいよ!」 アスファルトは昔のまんまの道筋で、その通り歩くのは遠回りだから、効率はあまりよくない。でも、シンジには、そうすることにこそ意味があった。 「−−−。・・・・・・」 最初、何事かを口にしようと、息を吸いこんだアスカだったが、シンジの表情にある物を見つけて、口を噤んだ。 シンジの顔に浮かんでいるのは、優しげで、少し微笑んでいるような。それでいて、届かない遠くを見ているような。−−−懐旧の表情。 特別悲しいというほどではない。でも、それは寂しさを窺わせる。 「なんでかな?」 「あんまり、いい思い出なんて無いのに?」 「うん。そうなんだ」 言葉の続きをアスカに先取りされたのに、それはさも自然なことだという感じで、シンジは応じた。 「どーせ、アンタのコトだから、班登校とやらをやんないで、ずーっと一人で学校行ってたんでしょ」 ニヤニヤと人を喰った笑みを浮かべて、アスカがいじめてくる。しかし、全くその通りなので、シンジは苦笑するしかなかった。 「はい。その通りでした」 「もぉぅ。少しは言い訳してくれなきゃ、からかい甲斐がないでしょ!」 そう言いながら、ふざけた調子でシンジの背中をペタンと叩く。 「まぁ、とにかく。ここを毎日通っていたころは、こんな感慨を抱くなんて、思いもしなかったんだよ」 ため息のように声を出すと、チラリとアスカの方に視線を送る。 「そんなもんでしょ」 「ここは変わったんだって感じた。そして、変わってしまうんだ。とも」 「誰だって、自分の日常の場所が、いつかは変わる物だと分かっているつもりで、変わらないことを前提に過ごしている」 アスカは哲学じみた文言を、詩でもそらんじるように紡いだ。彼女の背後で、放逐されたことにより、大きく茂った街路樹が、夏の風を受けて大きくざわめく、一拍遅れて流される髪を抑えながら、アスカは黙って話の先を促し、シンジは目を少し細めながら答えた。 「そんなものなんだね」 「別に、愛着とかがあったわけじゃないけれど、知っている場所が変わるということは、知っている場所が無くなるということ。それがアンタに喪失感を憶えさせた」 「それだけでも、ないよ。なんだか、時間の流れを感じちゃってね。いつまでも、過去の・・・風景っていうか配置っていうか。とにかくそういうのに、囚われてしまう僕が、僕だけが取り残されてるみたいで・・・」 視線を再びどこか遠くへやって、シンジは言葉を流す。 「感謝なさい」 「?」 不意の呼び掛けに、目を丸くしたシンジに、優しげでちょっと得意気な笑みを浮かべながら、アスカは両の手でシンジの右腕をキュッと捕まえた。 「アタシが、アンタの隣にいるのが、アンタが時間の道をちゃあんと歩んできた証拠でしょうが」 その言葉に、シンジもどこか硬かった表情をゆるめ、笑みを返す。 「うん。そうだね。ありがとう」 「なんだか、感謝の念が足りない感じね〜」 短すぎる返礼に、アスカが不満げにぶうタレる。 「そんなことないよ。さっきから聞き役やってくれてるの、分かってたから」 「あら、分かってたの」 「そりゃあね」 破顔するシンジに、アスカは渋々という感じで引き下がった。もっとも、本気で文句を付けたのではなく、単にじゃれついてきただけだということぐらい、シンジもお見通しだった。 そして、二人は手をつないで、歩き始める。 「明日は、ここでお弁当食べようか?」 「・・・そうねー。開放感あって悪い雰囲気じゃないし、いいけれど?」 「このだだっ広い風景も、いずれ変わっちゃうからね」 「だから、いつまでも一緒にいるアタシと思い出を残そうって?」 「バレちゃったか」 もうバレバレのおどけた声音で、シンジは降参の合図を送った。 「な〜に言ってんの!自分からバラしたようなもんでしょ!」 笑いながら、アスカは手をつないでいる左の肘で、軽く小突く。 「じゃ、次はシンジの通ってた小学校いこ」 「あそこは、まだ残っていると思うよ。外壁の塗り直しぐらいは・・・・」 「そうそう、帰る前に、件の動物園にも行かなきゃね?」 「エエッ〜?!」 「アラ?やっぱり恐いとか?」 「そうじゃなくて・・・・」 サンっと気持ちのいい風が渡り、続く草木のざわめきが恋人同士の会話を覆う。 二人の方から見て、三十メートルほどに遠ざかった川沿いの遊歩道では、子供達の自転車が走り、カートを引いた老婦人がゆっくりと歩いている。しかし、彼らが空き地にいる二人を、別段気にした様子はなかったし、二人の方も彼らが通りすがったから、どうだということもない。 何気ない、平和でふつうの光景。 でも、それぞれがそれぞれ持つ、かけがいのない大切な、人の在り方。 執筆コメント とみゅーさんのところに掲載していたものです。99/7/12初出 しばらくぶりに、執筆活動を再開することにしました。スローですが・・・ 03/06/29細部の修正と動物園関係の部分を加筆。全体の流れをシンプルに纏めたよりバランスが悪くなったのかと、ちょっと不安・・・。
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