有難うございます、ミサトさん
Written by take-out7
その時、彼は何を思っていたのか?
少なくとも、今自分がとっている行動とは全く別次元の何かについて、思いを馳せていたのだろう。
彼は、いつものルーティン・ワークをこなしているつもりだった。
だから、つい注意力が散漫になっていたのが事実としても、人間とは時としてこうなってしまうものなのだから、誰も彼の行いを非難などできはすまい。
人はこれを称して、『上の空』と言う……。
ガチャンッ!!!
派手な破壊音が、聞く者に不快感と驚愕を与える。
いや、それはその音を発する原因を作ってしまった当の本人にとっても同じことであろう。
当の本人・碇シンジは我に帰って自分の手元を見た。
彼自身の指先が、両の手の先が、見る見る朱に染まって行く……。
彼は、それをまるで他人事のように見ていた。
「シンジ君?!!」
背後で彼を呼ぶ声が聞こえた。
大声と呼ぶに相応しい声が。
そんな、大声出さなくても聞こえてますよ、ミサトさん。
彼は振り向いてそう言おうとしたのだが、その彼の思惑より早く、彼女、葛城ミサトは彼の元へ駆け寄ってきていた。
「ど、どうしたの、シンジ君?!!」
背後からミサトはシンジの手元を覗き込んだ。
シンジがミサトの顔を見て答える。
「ごめんなさい、ミサトさん。お皿、割っちゃいました……。」
確かにシンクの底、いくつかの破片を散らばらせて、白い大きめの皿が落っこちてはいるが……。
「割っちゃったって……そ、それよりシンジ君、血が出てるじゃない?!!
手、切ったんでしょ?!!」
ミサトが彼の朱色の指先を見て、心配そうに尋ねた。
「ええ……でも、かすり傷ですよ、こんなの。
ごめんなさい。」
シンジは笑顔でもう一度謝った。
「ごめんなさいって、あなた……お皿を割ったことを言ってるんだったら、この際どうでもいいわ。それより、傷の手当てをしなくちゃ。」
「平気ですよ、こんなの。すぐに血も止まると思いますから…。」
「何言ってるの!!
ちょっと待ってなさい!!」
ミサトはそう言うと、救急箱を取りに行く。
夕食の一時。
今日、この場で食事を採っているのは二人、シンジとミサトだった。
アスカは、学校が終わってそのままヒカリと買い物に出かけ、夕食も外で食べてくることになっていたため、不在だった。
シンジとミサトは、それでも結構にぎやかに食事の時を過ごした。
アスカがいる時とはまた別の、にぎやかな食事。
かつては、ミサトが気を使って無理やりにぎやかにしていた食事。
今は、そんな気を使うまでも無く、それなりににぎやかな食事。
少なくともアスカという少女がここで同居するようになって以来、こうした食事の時にもシンジが笑顔を見せる回数が増えた、とミサトは思う。
笑顔が見える食卓は、自然とにぎやかになるものだ……。
で、食事もあらかた終わり、ミサトはテーブルについて引き続き、ビール相手にネクストステージへ突入間近。
シンジは、シンクの所で洗い物を始めた。
いや、始めようとした矢先だった。
何か他のことを考えながら、何気なくお皿を洗い始めたシンジが、手を滑らしてそれを落としそうになり、慌てて受け止めようとしたが間に合わず、お皿は割れ、その拍子でシンジも右手の人差し指と中指の先、左手の親指の付根と人差し指の内側を切ってしまったのだ。
「さ、手を出して。」
ミサトが消毒液とバンソウコウを箱から取り出してシンジに言う。
「だ、大丈夫ですって、ホント。
それに、これくらいの治療、自分で出来ますから。」
シンジが遠慮する。
だが、ミサトは許さなかった。
「何言ってるの。
そうやってる間も、血が出てるじゃない!
さ、早く手を出しなさい!!」
真剣な表情で、有無を言わさぬミサト。
この瞬間、シンジはミサトの顔を見つめ、思った。
……もし……もし……お母さんが……いたら……。
……もし……僕に……お母さんの記憶が…あったら……。
……多分……こんなふうな……。
シンジは無言で手をミサトの前に差し出していた。
……………………………………………………………………………………………
「あうっ、染みますよ、ミサトさん!!」
「当ったり前でしょっ!消毒してんだから!!」
「うわっ!!」
「男の子でしょ!我慢なさい!!!」
テーブルのところに並んで座って治療を始めた二人。
まあ、治療などということ自体が大袈裟ではあるのだが。
「ひぇっ!」
「うるさーーいっ!」
「あたたた……」
「口にバンソウコウ貼るわよ!!」
「で、でも……。」
「まだまだ、とりゃぁっ!!!」
「ぐわぁーーーっ!!」
何をやっているのだ……?
「ミ、ミサトさん、消毒液、ぬ、塗り過ぎじゃないですか?」
「あらん?こういうのは、どぶゎーーっと塗りたくっておいた方が、直りが早いのよん!ほれほれ、行くわよっ!!」
「あたたたたたたたっ……。」
おもちゃにされてるんじゃないか、一瞬そう疑わざるを得ないシンジであった。
……もし……お母さんがいたら……。
……うう、決してこんなことにはならないはずだぁ……。
それは、どうかな…?
「ふう……。」
ようやくミサトの『消毒液どぶゎーーっ攻撃』から開放されたシンジが溜息をつく。
ミサトは、シンジの傷口の大きさ、形状に合わせるべく、伸縮自在のバンソウコウを幾枚かに切り分けているところだ。
だが、シンジから見て、どうも『上手く切れている』ようには見えない。
一言で言って、いびつ過ぎる切り方なのだ。
……決して不器用でないはずのこの人が、どうして料理とか、掃除とか、この手のことになると、途端にこうなっちゃうんだろう……?
シンジは、真剣なミサトの横顔を見てそう思った。
そして、もう一度、今度は小さく溜息をつく。
「ん……どうしたのシンちゃん……やっぱ、痛いの?」
目も顔もバンソウコウと鋏に向けたまま、ミサトが聞いた。
「いえ……。
有難うございます、ミサトさん。」
そう言うシンジに、ミサトは振り向いてニコリっと笑う。
「んもう、シンちゃんたら、水臭いこと言っちゃってぇーーー。」
そして再びバンソウコウと格闘すべく、前を向いて付け加えた。
「家族なんだから、当然のことでしょ。」
シンジは心の中で、語り続ける。
……有難うございます、ミサトさん。
……今日のこと、有難うございます。
……今日までのこと、有難うございます。
……正直、僕はあなたと会わなければ、全く違う生き方をしていたと思います。
……第三新東京市に着いたあの日、迎えに来てくれたのがあなたでなければ、僕は違う生き方をいしていたと思います。
……あなたに『乗りなさい』と言われなければ、エヴァには乗らずにいたかもしれない、そう思います。
……駅へ、あなたが来てくれなければ、僕は次の列車に乗って、逃げ出していたかもしれない、そう思います。
…………あなたのことを、嫌いだって……そう思ったこともあります。
…………父さんからじゃなく…あなたから逃げ出したい……そう思ったこともあります。
……それが、僕の、僕自身の甘えだってことに気付かせてくれたのもあなただったと、そう思います。
……僕のことを、家族だって言ってくれた初めての人があなただった…そう思います。
……有難うございます……。
……あなたは、僕に、居場所を与えてくれました。
……僕が居てもいい場所を、教えてくれました。
……有難うございます……。
いつか、バンソウコウを切り終えたミサトが、シンジの手を取ってそれらを傷口に貼り始めていた。
黙って、ミサトの動きを見つめているシンジ。
ミサトもまた、優しい表情で、彼の手を両手に包み込むようにして手に取り、丁寧にバンソウコウを貼ってやる。
……僕はここに来て、大切なものを見つけました。
……絶対守りたいものを見つけました。
……絶対守り通したいものを、見つけました。
……今の僕の力じゃあ、守りきれるかどうかなんて……分からないけれど…。
……でも、どんなことをしてもそれだけは守り抜く、この決心は揺るぎません。
……ここへ来たから、見つけることが出来たものを……。
……有難うございます……ミサトさん。
ミサトはバンソウコウを貼り終えた。
少し大き過ぎたり、妙にゆがんでいたり……だが、とにかくシンジの傷口にはミサトが切り貼りしたバンソウコウがあてがわれていた。
顔を上げるミサト。
それまで、ずっと彼女を見つめていたシンジと目が合う。
いつもなら、いち早く恥ずかしげに目をそらすシンジだが、今は、ミサトの顔を、目を、見続けていた。
感謝の念を込めて。
ミサトが、モノ問いたげに少し首を傾げる、笑顔のままで。
その手は、まだシンジの手を優しく包み込んだままであった。
ほんの僅か、無言の時が流れる。
やがてミサトが、そしてシンジが同時に何かを言おうとする。
何かを言おうと口を開こうとする。
だが………。
この時、彼ら二人の口からどのような言葉が発せられようとしたのかは、永遠の謎となる。
何故なら………。
「アンタたちーーーーーーーーーーっ!!!!!」
テレビの音量を最大値50まで上げて、オーディオのボリュームをレベル一杯まで回して、更に、250CCバイクを室内に持ち込んでそのスロットルを思いっきりふかす……そうまでしたって敵いそうにない大音量の叫び声が、ダイニング・キッチンに響き渡った。
ミサトとシンジが飛び上がらんばかりに驚いて、その声の方角を見ると。
金色の髪を振り乱し、蒼い目をこれ以上はないというくらいに吊り上げ、肩をわなわなと振るわせ、両手の拳を握り締めた、制服姿の仁王様が立っていた。
肩で息をするほどに呼吸が荒い。
もし、人の眼力が熱を放つものなら、この部屋は一瞬にして灼熱地獄と化していたであろう。
「あ………お帰り……アスカ……。」
ミサトである。
「は、早かったね………晩御飯…済んだ?」
シンジである。
「ア………アンタたち………。」
仁王様である、あ、いや、アスカ嬢である。
地獄の底から湧き上がるような声でアスカが問う。
「アンタたち……………なに……やってんのよ………。」
「なに…?」
「なに……て?」
ミサトとシンジが同時に答える。
そして、互いを見詰め合う。
で、気付いた。
二人とも、まだお互いの手を握り締め合って(アスカにはそう見えた)いたのだ。
「おっと!」
「うわっ!」
思わず、ぱっと互いの手を振り解く二人。
だが、その行為が却って仁王様、じゃなく、アスカ嬢の剣幕に、つまり火に油を注いでしまった。
「な、何よ!!
アンタたち、アタシがいない間に、二人で何やってるのよ!!!
て、手ぇ取り合って……そ……そいでもって………み、見つめ………見つめ合ったりしちゃって………。
何やってんのよっ!!!」
誤解だよっ……とシンジが言いたかったのは言うまでもない。
だが。
アスカは両人に反論の暇すら与えずに叫ぶのであった。
「そ、そう言うことだったわけね!!!
こ、こんな美人の女の子がそばに居ても、なーーんも言いもしない、なーーんもしもしないのは……そういうことだったのねっシンジ!!!」
……何も言わないってのはともかく……何もしないっていう発言は……大胆でしょう、アスカ……?
そこだけは、しっかりと冷静に分析するミサトであった。
「し、信じらんないっ!!
不潔よっ!!!
反吐が出るわ!!!!!」
それだけ言い捨てると、アスカは自室へ飛び込んでいった。
あっちゃーーーーっという感じで、手を額にやるミサトとシンジ。
一瞬にして訪れた嵐は、一瞬のうちに去った。
「……どうしましょう、ミサトさん…。」
しばらくして、シンジがポツリと隣のミサトに問うた。
「……どうするったって……。」
ミサトは髪をポリポリ掻きながら返答する。
「どうするったって、誤解は誤解なんだから……まずはそれを解くことでしょ。」
「どうやって……?」
「んなモン、ホントのこと言うしかないでしょうが。
別に私もシンジ君にも、何もやましい所は無いんだから…そうでしょ?」
そう言って、ミサトは少し微笑んでシンジを見る。
シンジは少し顔を赤らめて俯いてしまった。
……おいおい、そこで俯いてどうするかぁーーー。
……ホントに、純なんだから、シンちゃんは…。
ミサトはそう思うと、急に可笑しさがこみ上げてきた。
「あははははははは、ま、結果としてアスカはシンジ君に自分の気持ちを伝えた……というようなもんだからさ。
これは、シンジ君が何とかすべきでしょうね。」
そう言ってウインク一つ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!
な、何ですか、気持ちを伝えたって?!」
慌てるシンジ。
「こらこら、さっきのアスカのセリフ、聞いてたでしょ?
アスカは、シンジ君が何も言ってくれない、してくれないのが不満なんだって。
どうする、おい?!」
「し、してくれないって……。」
「こら、変なこと考えんじゃないわよ。
要するに、態度に出して何も示してくれないってことを言ってるのよ!!」
「た、態度……?」
「そう、態度!!そして、言葉!!これよっ!!!」
……態度…そして…言葉……。
シンジは考え込んだ。
黙って、優しく見守るミサト。
「……分かりました、ミサトさん。
そうですね。
アスカの誤解は……僕が解かなきゃいけない……。
僕でなきゃ……。
……行って来ますよ、僕。」
やがて、静かにシンジがそう言った。
嬉しそうにシンジの顔を見つめて頷くミサト。
「……ええ……いってらっしゃい……。」
シンジも頷いた。
彼は椅子から立ち上がり、アスカの部屋へ赴くべく、ダイニング・キッチンを出て行こうとする。
……頑張れ……。
彼の後姿を見送るミサト。
だが、出口の所で彼は立ち止まり、ミサトを振り返った。
そして、言った。
「有難うございます、ミサトさん。」
……………………………………………………………………………………………
この後、アスカの部屋を訪れた彼・碇シンジがどのような目に遭ったかということについては……今は語るまい……。
Fin
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