≪4月17日(木) 晴れ 今日から日記をつけようと思って、早速、日記帳をゲット。 ちょっと高かったけど、デザインがいいからすぐに買っちゃった。 日記を書くなんて初めてだから何書いていいか分かんないけど、学校の事でも書こうかな。 今日の午前の授業はサイアクだった。 嫌いな化学の時間にいっぱい差されて、全然答えられなかった。 あの先生もオタクっぽくて気持ち悪いし、ほんっと、サイアク。 でもでも、午後はサイコーってゆーか超ハッピーだった。 数学の時間、差されて問題を黒板に解いたら、先生に褒められちゃった。 予習しといてよかったあ。先生の笑顔を見るためなら毎日やっちゃう。 数学嫌いだったけど、碇先生・・・・・・シンジ先生のためにこれからもガンバローっと。 そういえば、明日も数学の授業があったっけ。 またシンジ先生に会えるなんて超うれしー。今から予習しとこーっと≫ 「・・・・・・短すぎたかな。ま、いっか。最初だし」 暗い部屋の中で、机の明かりだけがついていた。 その机の上には、ブルーの、やや大きめの手帳サイズの真新しい日記帳が広がっていて、 その一ページ目に、崩れた丸文字の文がページの約半分を占める様に羅列されてあった。 惣流アスカは呟いた後、一つ大きなあくびをすると、その日記帳をパタンと閉じて、 学校カバンの中から数学の教科書を取り出し、机の上に広げた。 「今のうちならなんとか分かるけど、そのうちムズくなるんだろうなあ。 そうだ、そん時は先生に質問しに行けばいいんだ。そうすれば、先生と二人っきりに・・・・・・」 暗い部屋の中で、アスカは独り言を呟きながらニヤけた笑みを浮かべていた。 * * * 10日前―4月7日、月曜日。 その日は朝からあいにくの雨だった。 どしゃ降りというわけでもないが、傘を差せば雨粒の当たる音が、 柄を持つ手にしっかり感じられる雨だった。 そんな雨の中を、惣流アスカは、お気に入りの赤い傘をくるくる回しながら歩いていた。 制服のスカートは短く上げられ、よどんだ空の下でも白く長い脚が際立っていた。 今日から高校2年生となるアスカは、新しいクラスのことが気になっていた。 「ヒカリと一緒のクラスがいいなあ・・・・・・」 雨でぬれたアスファルトを見下ろしながら、アスカは呟いた。 中学1年の時からの同級生で、同じ私立の女子高に進んだ洞木ヒカリは、アスカの無二の親友である。 春休み最後である昨日も一緒に遊びに出かけていて、「一緒のクラスだといいね」と交わし合っていた。 実際、去年が一緒のクラスだったので、その思いは強かった。 学校へ行く途中にある小さな児童公園の近くで、アスカは立ち止まった。 あまり多くないが、桜の木が周りに植えてあり、今はちょうどシーズンの時期だったが、 せっかくきれいに咲いた花も、この雨の影響で華やかさに翳りがあった。 その公園はヒカリとの待ち合わせ場所になっている。まだヒカリは来ていない。 「アスカーっ」 1分もしないうちにヒカリがやって来た。 「おはよー」 「おはよーヒカリ」 「待った?」 「ううん、全然。行こう」 「うん」 二人は笑顔で歩き出した。 アスカの通う高校は、自宅から歩いて10分程度の所で、 閑静な住宅街を抜けると、たくさんの木々に囲まれた広い敷地が見えてくる。 大学のキャンパスのような学内を進んでいくと、周りにビルが見えないため、 ひときわ大きな校舎が目の前に現れる。 二人は校舎に入ると、急いで掲示板のところへ向かった。 多くの生徒がそこに集まっていて、全員の目が、掲示されている大きな用紙の上に走っていた。 この学校は、2学年だけで8クラスあり、それぞれ30人学級となっていた。 アスカとヒカリは、人をかき分けて、A組から順に見ていった。 「あっ」 ヒカリが小さく叫んだ。 「あったよ、アスカ。また一緒だよ」 「ホント!?」 アスカが素早くヒカリを見た。 「ほら、C組だって」 ヒカリは、『惣流アスカ』の名前を見つけると、そこを指さした。 その少し下に、『洞木ヒカリ』とある。 「ほんとだ。一緒だあ、よかったね」 「うん。C組は・・・・・・あっちの教室だね。行こっか」 「うん」 満面の笑みを浮かべながら、二人は教室に向かった。 教室にはすでに数人いて、中には見知った顔もあり、アスカたちは会話を弾ませた。 チャイムが鳴り、担任となる中年の女性教師が現れると、生徒達は席についた。 名簿順の並びのため、アスカとヒカリは少し離れた席だった。 担任の教師は、温厚な性格で、生徒からの評判も高い教師なので、アスカは「よかった」と思った。 すぐに始業式が行われるため、生徒達は落ち着く暇もなく体育館へ向かった。 アスカは列の並びを無視して、ヒカリの隣に立っていた。 「ねえ、新しい先生とかいるかなあ」 おおよその隊形が整った状態となっていたが、まだ号令がかからずに騒然とした雰囲気の中、 アスカがヒカリに聞いた。 「そうねえ、いるんじゃない?」 「カッコイイ先生がいいよね」 「そうだね」 ヒカリは少しあきれた目でアスカを見たが、当のアスカはまるで気がついていないようだった。 アスカは、好きな人が出来てはキャーキャー騒ぐたちだったが、 そのくせ恥ずかしくて遠くから見ることしか出来ない。 ヒカリはその事をよく知っていたから、苦笑しながらアスカを見ていた。 (せっかく可愛いのに、妙に照れ屋なんだから・・・・・・いつになったら彼氏ができるのやら) と、ヒカリがアスカを心配するのはいつもの事だった。 始業式が始まり、校歌斉唱、校長挨拶ときて、担任紹介、そしてアスカお待ちかねの新任教師紹介となった。 壇上に、5人の若い男女が並んで立っている。 全員が新しく教師になったばかり、という顔である。 一人、妙な格好をしている男がいたので、生徒の注目がそこに集まった。 しかし、左端の新人教師にマイクが手渡されると、目線はいったんそちらへ切り替わった。 正面左から順に一人ずつ、一歩前に出る形で挨拶が始まった。 「皆さん、始めまして。化学を担当する相田ケンスケです。 えーと・・・・・・早く学校に慣れるように頑張ります。よろしくお願いします」 挨拶の言葉を何も考えてませんでした、というのがバレバレで、 まるで当たり障りのない簡単な言葉を述べたのは、化学を担当すると言っていたように、 スーツの上にさっそく白衣を着込んだ姿で、メガネをかけた少しだらしない感じの男だった。 「あれはダメね。なんかだらしない感じ」 アスカが呟いた。 アスカの立っている位置からは、壇上にいる5人の顔はあまりよく見えなかったが、 その観察眼は鋭いものだった。 ヒカリはその呟きを聞いて、「確かに」と思い、微笑んだ。 壇上では、続いて女性に代わった。 「皆さん、おはようございます。国語を担当する霧島マナです。 私も女子高の出身だったので、皆さんと早く仲良くなれるようになりたいです。 歳もあんまり変わらないので、仲良くして下さいね。よろしくお願いします」 男子校に赴任したら、間違いなく歓声が上がるであろうその容姿は、女性も羨むような美しさだった。 ただ、その美貌は、小悪魔的な感じにも見てとれた。男を、特に中年男性を刺激しそうな雰囲気を持っていた。 しかも、スカートはミニに近いサイズで、男を挑発するかのような格好だった。 実際、男性職員の注目は彼女の脚に注がれていた。 「かわいい先生だね」 ヒカリがアスカにささやいた。 「うん」 アスカは、特に興味はない、という感じの返事をした。 男子校にでも行けばキャーキャー言ってもらえるんじゃない、という風に思っただけで、 興味は次へ次へと先行していた。 続いて、おかしな格好の男性に代わった。 「ども、おはようさんです。体育の教師やらさしてもらいます鈴原トウジです。 いやあ、ワイ、いや、僕は男子校だったもんで、こないな女の子がたくさんおるとこには、 めったに立たんもんですから、緊張してます。よろしゅうお願いします」 関西弁が入り混じった、変なイントネーションの喋り方だった。 他の先生がいるためか、とってつけたように、『です、ます』を付けたり、 ムリヤリ『僕』と言った感じにも聞こえた。さらに、大きな声が印象的だった。 だが、それよりももっとインパクトがあったのは、ジャージ姿である。 普通、こういう場は背広を着ているものだが、彼は地味な紺色のジャージ上下を身にまとっていた。 生徒達は思わず失笑した。そのほとんどは苦笑であった。 それは今に起こったことではなく、紹介のために壇上に上がった時からちらほら聞こえていた。 「なにあれ、信じらんない」 アスカも苦笑しながらヒカリにささやいた。 「いきなりジャージなんて、そーとーキテるよね」 「そうだね。なんか気持ち悪い」 ヒカリも笑いながら言った。 しかし、生徒達の苦笑は、すぐに悲鳴に変わった。 続いての男性にマイクが手渡された。 「やあ、みんな」 そう言っただけで、生徒達の黄色い悲鳴が一斉に上がった。 悲鳴の対象となったその男性は、両手で『おさえて、おさえて』というジェスチャーをした。 少しずつざわめきがおさまると、男性は続けた。 「僕は渚カヲル。英語を担当するよ。異国の言葉を学ぶのはいいもんだね。 この学校の雰囲気に早く慣れて、共にいい学校生活を送れるように僕も頑張りたいと思っているよ」 また黄色い悲鳴が上がった。 壇上の彼は、『まいったな』という顔で笑みを浮かべた。 やや切れ長の目を細めて、口元の端を丸めて微笑む表情がよく似合う顔立ちだった。 細い身体に、ピッタリとした余裕を持たせてないスーツ姿が栄えていた。 「・・・・・カッコイイ」 そう呟いたのは、ヒカリのほうだった。 「ねえねえ、アスカ、超カッコよくない?」 「うん」 アスカはあいまいなニュアンスを入れて返事をした。 ヒカリの目の輝きに比べ、アスカはさして変わりのない表情だった。 アスカの興味は、最後の新任教師に向いていた。 渚カヲルからマイクを渡された男性は、おぼつかない手でマイクを握り、喋り始めた。 「あの、皆さん、おはようございます。僕は数学担当の碇シンジといいます。 数学嫌いな人って多いかもしれませんが、一緒に勉強していきましょう。よろしくお願いします」 ついさっきの悲鳴に気圧された感はあったが、それでもハッキリとした口調で、 喋っている時の態度も真面目っぽい印象だった。 見た目も、これといって特徴がない、というのが特徴であるかのような中性的な雰囲気で、 照れ隠しの笑顔が、さわやか好青年を象徴していた。 「うーん、結構いいセンいってるんじゃない?」 ヒカリは前を向いたままアスカに感想を求めた。 アスカは答えずにボーっと前を見つめたままだった。 「でも、渚先生に比べるとちょっとランクダウンかな。ねえ、アスカ」 今度はアスカの方を向いた。 「アスカ?」 ヒカリはいぶかしげな目をアスカに向けた。 「・・・・・・え? 呼んだ?」 アスカはひとつ大きくまばたきをして、ヒカリの方を向いた。 「どうしたの、アスカ」 「え、別に・・・・・・」 アスカは照れくさそうにうつむいた。その頬はほんのり紅潮している。 ヒカリは不思議そうにアスカの横顔を見つめたが、ハッとなって聞いた。 「もしかして、碇先生?」 その言葉にアスカはビクッと身震いした。 これは図星だな、とヒカリは確信して、さらに聞いた。 「一目惚れしちゃった?」 「・・・・・・うん」 アスカは頷くと、さらに顔を赤らめた。 ヒカリはニヤニヤしながらアスカの横顔を見つめた。 「アスカって、ああいうタイプ好きだもんね」 ヒカリがそう言うと、アスカは上目づかいにもう一度、壇上の碇シンジを見た。 しかし、すぐにまたうつむく。笑みをこぼしながら、それを何度も繰り返した。 繰り返してるうちに、なんとなく目が合ったような気がして、余計に顔が赤くなった。 きっとこれから、碇先生がどーしたこーしたと、毎日騒ぎ立てるようになるんだろうな、 と、ヒカリは思いながら、アスカを見つめていた。 * * * ≪4月18日(金) 晴れ 日記を書き始めて2日目。 今日もシンジ先生の笑顔が見れてとってもハッピーな一日だった。 数学の時間、今日もアタシが差されて、答えると先生はニコッと笑ってくれた。 もう、どうしてあんなにかわいい顔するんだろう。 アタシも笑顔で返してあげられればいいのに、照れちゃってダメだった。 でも、昨日に続いて今日もアタシが最初に差されるなんて、 シンジ先生もしかしてアタシの事・・・・・・なんて、そんな事ないか。 ヒカリは「渚先生の笑顔が見れてとってもハッピー」とか言ってたけど、 シンジ先生に比べたら全然低レベルの笑顔ね。 あ〜あ。明日もあさっても休みなんて、サイアク。 毎日でもシンジ先生に会いたいなあ。 明日、どっかで会えないかなあ。会いたい会いたい会いたいよう≫ アスカはそこまで書くと、いったん顔を上げて、目を閉じた。 頭の中に碇シンジの笑顔が浮かんできて、アスカは、ぐふふ、と下品な笑みを漏らした。 すぐさま目を開いて、日記帳に言葉を追加した。 電気のついていない暗い部屋の中で、机の上だけが、机のスタンドによって明るく照らされていた。 その上に広がっている日記帳の続きには、『会いたい』の文字がたくさん連ねてあった。 「会いたい、会いたい、シンジ先生に会いたいよう」 書き連ねながら、アスカは実際に声に出して呟いた。 ふと、筆の動きを止め、アスカはベッドに伏した。 そして、マクラをつかむと、それを抱きかかえて、アスカはまた呟いた。 「シンジ先生・・・・・・会いたいよう」 アスカは、碇シンジに一目惚れしたその日から、完全に虜となっていた。 今まで、好きな人が出来ても、ここまで想いに耽ることはなかった。 アスカ自身、少し驚いているくらいだった。 ちょっとした会話もまだしたことがなく、碇シンジがどういう人間であるかをよく知らないのにも関わらず、 アスカは勝手なイメージを押し付けて、自分の思い描く碇シンジに恋をしていた。 そのイメージとは、お人よしで、優柔不断で、しかしいざとなった時は頼りになれる、 アスカはそういうタイプに弱かった。 見た目の印象や、授業の様子から、アスカの思うイメージが湧くのも頷けた。 しかし、そのイメージ通りの人間であるかは、まだアスカには分からない。 アスカは、マクラの柔らかい感触に眠気を誘われ、それを抱いたままの格好で眠ってしまった。 すでに寝る準備は出来ていたとはいえ、まだ夜の10時前だった。 早寝早起きという言葉があるが、その言葉通り、アスカが目覚めたのは次の日の朝6時だった。 * * * 「もしもし、アスカ。映画のチケットが2枚あるんだけど、一緒に見に行かない?」 ヒカリからの電話があったのは、朝10時ごろの事だった。 「そのチケットって、どうしたの?」 「お父さんがね、友達からもらったんだって。それを私にくれたの」 「ふーん。何の映画?」 ヒカリは、現在大ヒット中のラブストーリーの映画のタイトルを告げた。 「あ、それ見たかったんだ、アタシ」 「でしょ? 今日これから行かない?」 「いいよ。彼氏いない同士でね」 「そういうこと言わないの」 二人は、電話を通じて笑いあった。 待ち合わせ場所、待ち合わせ時間を決めて、それぞれ電話を置いた。 朝早く起きたアスカは、すでに寝巻きから長袖の白いTシャツに、 ショートパンツというラフな格好に着替えていたが、これから出かけることになったので、 改めて、お気に入りのクリーム色のワンピースに着替えなおした。 そのワンピースは、特別な時にしか着ないもので、単に遊びに行く時に着たことはなかった。 なぜそれを選んだかというと、そこには、碇シンジに出会うのではないか、 という偶然への期待が強く込められていた。 まったくのスッピンのままでも十分すぎる美しさだが、アスカは少しだけ化粧で顔を整えた。 その後、鏡の前で、もしも碇シンジに会ったらと想定して、その時のふるまいの練習をしてみた。 手を前で組んだり、後ろで組んだり、首を傾けたり、色んな笑顔を作ったりして、シミュレーションをしてみた。 これが役に立つかどうかはこれから分かる事である。 母親に外出することを伝えて、アスカは勢いよく外へ飛び出した。 ヒカリとの待ち合わせ場所は、駅前のファーストフード店で、 アスカがその近くまで来ると、店内の窓際にいたヒカリが気付いて、外へ出てきた。 「アスカ、そのワンピースすごく可愛いじゃん」 アスカの全身を見渡してから、ヒカリが感嘆の声を上げた。 「そう? えへへ」 アスカは照れと嬉しさで、満面の笑みを見せた。 「ヒカリだって可愛いじゃん」 「あ、これ?」 アスカの視線が頭に向いているのに気付いて、ヒカリは上目になって、右手で頭を指さした。 いつもの後ろに分けるスタイルではなく、前髪をアップにし、 後ろ髪はピンを使って短くまとめられていた。 「おでこ出してたほうが可愛いよ。似合ってる」 今まで見たことのないスタイルだったので、アスカはしきりに褒めていた。 「ありがと。それじゃ、行こうか」 「うん」 二人は笑顔になって、並んで歩き出した。 駅前にある映画館は、スクリーンが5つあり、それぞれヒット映画を上映していた。 アスカとヒカリはチケットを渡すと、劇場内に入り、見やすい位置に着くことが出来た。 評判の高い映画なので、大体の席が人で埋まっていた。 カップルが多く、その他では、女性がほとんどだった。 席についてからすぐに、照明が落ちて、ビーッという上映開始の音が響き渡った。 「ちょうどよかったね」 ヒカリがアスカにささやいた。 「うん・・・・・・あっ」 アスカはヒカリのほうを向いて頷いてから、正面を向いたとき、ハッとなった。 声にもならない小さな悲鳴だったので、ヒカリはそれに気がついていない。 アスカは、2つ前の列に、見知った後ろ姿を見つけた。 この位置からは、横顔が少しのぞける程度だったが、アスカにはそれが誰だかすぐに分かった。 碇シンジである。 映画のほうは、CMが流れていて、スクリーンが明るく映し出され、 その光が観客を照らしていた。 アスカは、スクリーンではなく、碇シンジのほうばかりを見つめていた。 スクリーンの光に照らされて、やはり碇シンジであるという事がハッキリと分かった。 本編が始まっても、アスカは碇シンジのほうに目を向けていた。 まさかこんな所で会えるなんて、という驚きと、嬉しさを含んだ視線で見つめていた。 しばらく見つめたままだったが、誰かと一緒に来てるのかな、と思い、シンジの周りに目を動かした。 席はどこも埋まっていて、判断しにくい状況だったが、シンジの両隣は男性のようで、 しかもその二人とも、隣の女性のほうに頭を傾けていた。 アスカは少し安心して、またシンジの後ろ姿に見惚れていた。 映画はあっという間に終了し、エンドロールが流れ始めて、観客がちらほらと席を立ちだした。 アスカの隣では、ヒカリが涙を浮かべて、ため息をついていた。 ところがアスカの視線は、相変わらず碇シンジに向けられていた。 シンジはまだ立ち上がろうとせず、時折手を目の辺りにこすりつけていた。 「アスカ」 スクリーンの幕が閉じて、照明がついてから、ヒカリが呼びかけた。 しかしアスカは、聞こえていないのか、ずっと同じ方向を見つめていた。 不思議に思ったヒカリは、アスカの視線の先を追った。 ヒカリは、思わず『あっ』と呟いた。 ヒカリが見たのは、ちょうど立ち上がってこちらに顔を向けた碇シンジだった。 白いTシャツに、柄つきのワイシャツを羽織り、下は少しよれたジーンズという姿だった。 「碇先生だ」 ヒカリは驚いて、少し大きい声で言った。 その声が聞こえたのか、シンジが辺りをキョロキョロとした。 シンジはすぐにアスカたちを見つけると、驚いた顔をした。 視線を向けられたアスカは、恥ずかしくてうつむいてしまった。 碇シンジはアスカたちに近寄ると、声をかけてきた。 「惣流さん、それに君は・・・・・・洞木さんだっけ。君達も来てたんだ」 シンジは、アスカの名前はすぐに出てきたが、ヒカリの名前には一瞬つまっていた。 「先生は一人で来てたんですか?」 名前を思い出すのに少し時間がかかったことを、気にもとめていない様子のヒカリが聞いた。 「うん、まあね」 シンジは少し照れくさそうに言った。 「友達に勧められて見たんだけど、良かったね。泣いちゃったよ」 「よかったですよね。特にあのシーンなんか・・・・・・」 シンジばかりを見ていたアスカとは違い、ちゃんと映画を見ていたヒカリが思い出しながら答えた。 ヒカリとシンジが短い会話を交わしている間、アスカはモジモジとしながらシンジを盗み見ていた。 そのそわそわとした様子にシンジが気がついて、とりあえず劇場から出ることにした。 三人は、アスカとヒカリの待ち合わせ場所であったファーストフード店に入った。 アスカとヒカリは隣同士で、テーブルを挟んで碇シンジが座っていた。 テーブルの上には、シンジが頼んだホットコーヒーと、 アスカとヒカリが頼んだアイスコーヒーが置かれている。 「先生って、この近くに住んでるんですか」 相変わらずモジモジしているアスカを横目で見てから、ヒカリが聞いた。 「うん、学校のすぐ近くなんだ」 スプーンでコーヒーをかき混ぜながら、シンジは言った。 「一人暮らしって初めてなんだけど、なかなか大変でね」 「じゃあ、部屋の中、汚くなってたりして」 「当たり」 と言ってシンジは微笑んだ。アスカはそれを見て、思わずニヤけてしまった。 それを恥ずかしく思って、アスカはすぐに下を向いた。 先ほどから、何か喋りなさいよ、と言いたげにヒカリはテーブルの下でアスカをつついていた。 それでもうつむいたままのアスカを見て、ヒカリは何かを思いついたように軽く頷いた。 「あ、そうだ。先生すいません、ちょっと用事を思い出したんで・・・・・・」 たったいま思い出した、という風にヒカリは言って、席を立った。 アスカは驚いて、見開いた目でヒカリを見つめた。 「あ、あの、それじゃアタシも・・・・・・」 シンジと二人きりにさせようとしてるんだな、とすぐにヒカリの行動を理解したアスカが、 シンジが現れてから初めて喋った言葉がそれだった。 「惣流さんも用事があるの?」 「え、あ、あの」 シンジに聞かれたアスカは、ふだん授業で差された時よりも緊張して、言葉がつまった。 そこを、ヒカリがすかさず突いてきた。 「アスカはこの後なんにもないって言ってたじゃない。なら碇先生とゆっくりしていきなよ。 それじゃ先生、さよなら。アスカ、バイバイ」 「さよなら」 軽く頷きながらシンジはヒカリが店を出て行くのを見やった。 アスカは、「そんなこと言ってない」と言おうとしたが、ヒカリがさっさと逃げてしまったので、 仕方なく中腰になっていた腰をイスに落ち着けた。 「惣流さん」 「はい?」 シンジに名前を呼ばれたアスカは、思わず声が裏返り、 それを無理矢理隠すように咳払いを一つした。 「数学好き?」 「え?」 シンジの唐突な質問に、アスカは一瞬、どう答えたらいいか分からなかった。 「いつも、って言ってもまだ数回だけど、授業を熱心に聞いてくれてるみたいだから」 アスカはその言葉に反応して、シンジの顔を見つめた。 自分の事を見てくれてたんだ、と思って、嬉しさがこみ上げてきた。 アスカの返事はなかったが、シンジはそれを肯定とみて違う話題を振った。 「惣流さんて、その髪は地毛なの?」 シンジは、アスカの赤い髪を見やった。 「あ、アタシ、ドイツ人のクウォーターなんです」 「へえ、そうなんだ。そういえば、蒼い瞳をしているね」 シンジはアスカをまじまじと見つめた。 アスカは恥ずかしくなってすぐに視線をそらした。 「実は僕の目もちょっと青がかってるんだよ。ほら」 シンジは、テーブル越しに、アスカの方へ顔を寄せた。 アスカはシンジの目を見ると、確かに、少し青がかった目をしていた。 しばらくアスカはシンジに顔を近づける格好で見つめていた。見惚れていたといった方が正しい。 「別に僕はクウォーターでもハーフでもないんだけどね」 シンジは微笑みながら、前のめりになった身体を起こした。 「先生」 アスカは聞いた。 「あの・・・・・・恋人とかいるんですか」 「え? あはは、いや、いないよ。確か、最初の授業の時にも誰かに質問されて言ったと思うけど」 「本当ですか?」 「うん、間違いなく・・・・・・っていうか、自信持って言う事じゃないんだけどね」 シンジは苦笑していたが、アスカは安心した笑みを浮かべていた。 アスカは、さっきまでの緊張がいくらかほぐれ、その後しばらく会話を続けた。 といっても、ほとんど質問・回答という形だったが、それだけでもアスカにとっては最高のひとときだった。 * * * ≪4月19日(土) 晴れ やったやったやったあ! 今日は、ヒカリと映画を見に行ったら、シンジ先生とばったり。 私服姿のシンジ先生もカッコよかったなあ。 ヒカリが気を利かせてくれたおかげで、シンジ先生とたくさん話せた。 本当にヒカリには感謝感謝。あとでケーキでもおごってあげようかな。 もう、こんなに早くシンジ先生と二人っきりになれるなんて、もう死んでもいいってカンジ。 カッコイイのは当然だけど、話しやすくて、優しくて、 笑顔がかわいくて、笑顔がかわいくて、もう、超かわいい! それに、話した感じからアタシのイメージ通りの人かもしれない。 どうしよう、本気で好きになっちゃった。 さすがに明日は無理かもしれないけど、また会いたいなあ。 会いたい会いたい会いたいよう≫ 「会いたい会いたい会いたいよう、と」 アスカは、言葉を口にしながら、日記をしたためていた。 お気に入りのワンピースの事には触れられなかったものの、アスカは今日の出来事に十分満足していた。 シンジと別れてから、アスカは嬉しさで、顔がニヤけるのを抑えられなかった。 アスカは日記を書くとき、必ず部屋の電気を消して、机のスタンドだけ灯りをつける。 そうすれば、明るい部屋の中よりもずっと自分の世界に入り込めるような気がしたからだ。 実際、アスカの独り言は、最初は呟く程度だったものの、次第に声が大きくなっていた。 「そうだ、ヒカリに感謝のメールでもしとこーっと」 アスカは、学校カバンの中から折りたたみ式のケータイを取り出すと、手慣れた手つきでボタンを打ち始めた。 「・・・・・・これで、よしっと」 簡単な言葉をいくつか並べて、ヒカリ宛に送信した。 アスカがケータイを閉じようとした時、 「あっ」 ケータイを見つめながら、アスカは叫んだ。 「シンジ先生の番号聞けばよかった・・・・・・あ〜あ」 ガックリとうなだれたアスカは、日記の続きにこう記した。 ≪シンジ先生のケータイの番号が知りたい≫ 意識的に、アスカはそんな事を書いていた。 だんだん日記というよりも、自分の感情をそのまま字に投影した、という風になりつつあった。 アスカは、もしかしたらこの日記に書いたことが現実に起こるのではないかと思っていた。 実際、昨日の日記に≪シンジに会いたい≫と書いた通り、アスカはシンジと会うことが出来た。 だからアスカは意図的に自分の願望を書いていた。 * * * 4月20日、日曜日。 ここ数日はいい天気が続いている。この日も例外ではなかった。 その午前中、アスカはある場所を探しに小さな冒険に出た。 といっても、自宅から数キロと離れていない所でただウロウロするだけ、というものだった。 目的はもちろん、碇シンジに会う事である。 昨日詳しくは聞かなかったが、学校の近くに独りで住んでいるということなので、 とにかくアスカは、学校の周辺を探してみることにした。 「うーん、一軒家ってことはないと思うから、マンションかアパートか・・・・・・アパートかな」 アスカは自宅を出てから、探す家屋を絞り込む事を考えた。 しばらく歩くと、毎朝ヒカリとの待ち合わせ場所にしている公園のそばを通りかかった。 アスカは、ふと公園の中を見やると、なんとそこに碇シンジの姿があった。 シンジは、ベンチに深く座って、何かの本を読んでいるようだった。 思わぬ所での発見にアスカは驚いたが、声をかけようと公園の中に入ろうとした、その時、 「シンジ」 アスカのいる位置の反対側の入り口付近から、シンジを呼ぶ女性の声が聞こえた。 アスカは足を止め、近くの桜の木に身を隠しながら、様子を見た。 声に気付いたシンジは、聞こえた方を向いてこう言った。 「あ、マナ」 アスカとシンジの距離は10メートルほどだったが、他に誰もいない公園の中で、 その声は十分アスカに届いた。 (え? マナ?) 現れたのは、いまやアスカの通う学校の職員室のマドンナ的存在となった、霧島マナであった。 服そのものにはさほど派手さはなかったが、男性を十分惹きつけられる短いスカートをはいていた。 (いま、『霧島先生』でも『霧島さん』でもなく、『マナ』って呼んだわよね。 それに、霧島先生も『シンジ』って呼んでた・・・・・・どうして?) アスカはそれが非常に引っかかった。 まるで恋人を呼ぶかのような口調だったからだ。 眉をひそめながら、アスカは向こうの様子を窺った。 シンジは、座りながら自分の隣に手を差しのべて、そこに座るように促した。 「こんな所に呼ぶなんて、一体どうしたの?」 シンジは本を隅に置きながら聞いた。 「ちょっと買い物に付き合ってほしくってね」 マナはそう言いながらシンジとの距離を少しつめた。 「え、だったら待ち合わせは駅前とかでよかったんじゃない?」 「いいじゃない、久しぶりなんだから」 マナはシンジの右腕に自分の両腕をからめた。 「おい、よせよ」 シンジはその腕を振り払おうとするが、マナはくっついたまま離れない。 (まさか、あの二人って恋人同士なの?) アスカに不安がよぎった。それに、マナが言った「久しぶり」という言葉が気になった。 もしかしたら、むかし恋人同士だったのかもしれない。 「シンジ、行こうよ」 「あ、うん。でもこの腕はやめろよ」 「気にしない気にしない」 二人は立ち上がると、相変わらずマナはシンジに寄り添ったままで歩き出した。 シンジはやや歩きそうなのを表情に出していたが、特にイヤというわけでもなさそうだった。 アスカは、いぶかしげな視線を送りながら、少し距離をとって二人の追跡を開始した。 * * * ≪4月20日(日) 晴れ シンジ先生、恋人いないって言ってたのに、 どうして霧島先生と待ち合わせなんかしてたんだろう。 それに、あの雰囲気も思いっきりカップルって感じだったし、 久しぶりってどういう事なの。 買い物に付き合ってほしいとか言っときながら、ほとんどデートみたいなもんだったし、 霧島先生なんか、ずっとずっとシンジ先生にくっついたまんまだったし・・・・・・ アタシのシンジ先生なのに。 シンジ先生はアタシのものなのに。 邪魔なのよ、あんな女。 きっとシンジ先生はあの女にだまされてるんだわ。 あんな女いなくなればいいのに。 いなくなればいいのに。 いなくなれいなくなれいなくなれいなくなれ≫ 書いているうちに筆圧がどんどん大きくなり、字も雑になっていた。 シャープペンの芯が折れても、アスカは『いなくなれ』を書くのをやめなかった。 あまりに強い筆圧だったので、そのページがベリッと破けた。 そのショックで、アスカは正気に戻った。 「はっ」 例によって、暗い部屋の中で、アスカの顔は机のスタンドの光に照らされていた。 机の上の光景に、アスカは目を見開いた。 「・・・・・・まあいっか。今日の事なんて思い出したくもないし」 アスカは破れた紙を丸めると、くずかごに投げ捨てた。 そして、思い出したくないと口には言ったが、頭の中ではその光景が思い起こされた。 あれから公園を出た後、アスカは、シンジとマナの様子を遠くから窺っていた。 二人は駅前の通りを歩き、さまざまな店を見て回った。 マナの言う買い物というのは名ばかりで、結局はほとんどデートのようなものだった。 常に二人は寄り添っていて―といってもマナが一方的だったのだが―まるでカップルのようだった。 遠くから窺っていたため表情はよく読み取れなかったが、 少なくともアスカには、とても楽しそうな雰囲気に見えた。 アスカにとってはつらい光景を見せつけられる形だったが、一つ得られるものがあった。 昨日の日記に書いた、≪シンジ先生のケータイの番号が知りたい≫の通り、 アスカはシンジのケータイの番号を知る事ができた。 昼時になって、アスカの前を行く男女二人は、ラーメン屋に出来ていた行列に並んだ。 店の外に10人ほど並んでいて、アスカはシンジとマナの間に一人だけ挟んで後に続いた。 アスカの様な容姿なら、すぐにバレてしまうのではないかと思えるが、 ちょうど間に挟まれたのがかなり大柄な男で、アスカの全身が隠れるほどだった。 だから、シンジもマナもまるで気付かずに会話を交わしていた。 「あっ、そうだ」 マナは思い出したように言った。 「私、シンジのケータイの番号聞いてなかった」 「あれ、そうだっけ」 「うん。自宅のは名簿にあるから分かるけど、ケータイのはまだ聞いてないよ」 「そうか。えーとね」 シンジはポケットに手を突っ込もうとした。 が、すぐに「あ」という顔になり、手を引っ込めた。 「そうだ、ケータイ忘れたんだった」 「えーっ、なあんだ。でも、番号は分かるでしょ」 「うん。ちょっと貸して」 シンジはマナのケータイを取ると、自分のケータイの番号とアドレスを打っていった。 しかも、小声で口に出しながら打っていて、それがアスカの耳にも届いた。 アスカは急いで自分のケータイに登録すると、その場を離れた。 思わぬ収穫があったので、この辺でもういいだろうという風に考えたアスカだったが、 実際は、これ以上二人の姿を見ていたくなかったというのが本音だった。 回想から意識が戻したアスカは、ケータイを取ると、メールの本文を打った。 それはシンジ宛で、今日のことを咎める内容を連ねていた。 しかし、全てを書き終える前に電源のボタンを押してケータイを閉じた。 番号を教えてもいない相手からの突然のメールに、驚かれて警戒されては困ると思ったからだ。 「はあ」 ふてくされたアスカは、ため息をつくと、机の上に伏した。 そして、アスカはそのまま眠りに落ちていった・・・・・・ * * * 朝。 アスカは危うく遅刻しそうな時間に起きて、急いで家を出た。 走りながらケータイを見ると、ヒカリのメールがきていて、 先に行ってる、とあった。 アスカは学校に着くと、ちょうどチャイムが鳴り、急いで教室に向かった。 「セーフ」 教室に入ると、まだ担任教師の姿がなかったので、アスカはホッとした。 「あ、アスカ」 アスカが入ってきた事に気がついたヒカリが言った。 「今日どうしたの」 「ごめーん、ヒカリ。寝坊しちゃった」 「珍しいね、アスカが寝坊なんて」 「うん・・・・・・」 アスカの表情が少し曇った。 「アスカ、何かあったの?」 「え、ううん、別に何もないよ」 アスカはそう言うが、声に明るさが感じられなかった。 「大丈夫?」 ヒカリはアスカの顔を覗き込んだ。 「うん、大丈夫だよ。ありがと」 担任教師が入ってきて、生徒達は席に着いた。 いつも穏やかな表情のその女性教師は、今日はやや神妙は面持ちだった。 「皆さん、おはようございます」 その声も、どこか翳りがあった。 「ホームルームを始める前に、残念なお知らせをしなければなりません」 その言葉に、教室は少しどよめいた。 「先生、どうしたんですか」 前の席の生徒が聞いた。 すると女性教師は、ぐん声を低くしてこう言った。 「ええ、実は、霧島先生が昨日、交通事故に遭われて亡くなられました」 「えっ」という声が教室中に上がった。 アスカはあまりの衝撃に声すら出せなかった。 目を見開き、口を開けたまま静止していた。 しばらく呆然として動けなかったが、あることに気がついて急いでカバンを探った。 アスカが取り出したのは、日記帳だった。 それをめくると、なんと、昨日書いた部分がちゃんとそこにあった。 ≪いなくなれ≫とたくさん書き連ねてあるそのページは、昨日確かに破れて捨てたはずだった。 (どうして?) アスカは日記帳を持つ手が震えた。 (昨日破れたはずなのに。もしかして、私のせい?) アスカは恐ろしくなり、その日記帳を机に落とした。 そして、落ちたときのバンという音と共に、アスカはイスごとひっくり返った。 ガタン、と音がして、アスカは教室の床に倒れこんだ。 教室にいた全ての人間が驚いて、アスカに注目した。 一番ビックリしたヒカリがすぐさま駆け寄った。 「アスカ、どうしたの!? ねえ、アスカ、アスカ」 ヒカリはアスカを揺すったが、まったく反応しない。 どうやら気を失っているようだ。 しかし、アスカは次の呼びかけで目を覚ます事になる。 「アスカ、起きなさい」 * * * 4月21日、月曜日の朝。 アスカの母、惣流キョウコの呼びかけに目を覚ましたアスカは、 机に向かってボーっとしていた。 「アスカ、ちゃんとお蒲団に入って寝ないとダメよ。風邪引いちゃうから」 「はい」 「じゃあ、早く起きてきなさいね」 キョウコは優しくアスカをたしなめると、部屋を出て行った。 アスカは机の上に広げたままの日記帳に目を落とした。 昨日書いたページは、確かに破れていて、それはちゃんとくずかごに丸まった状態であった。 (夢だったのか・・・・・・よかった) 起きた瞬間は、恐怖と衝撃が入り混じって引きつった顔をしていたが、 夢を見ていたと分かると、少し落ち着いてきた。 しかし、それでも不安が残っていた。 (でも、もしも同じ事になったら・・・・・・どうしよう) その不安は、家を出て、学校に着いてからもずっと引きずり続けていた。 「ねえ、アスカ。何か元気ないね」 「えっ。そんなことないよ」 アスカとヒカリは、教室へ向かう廊下を渡っていた。 ここ最近快晴が続いていた天気も、今日は雨と変わっていて、 廊下の窓から薄暗い空がのぞけた。 「あっ」 アスカは小さく声を上げた。 「どうしたの」 ヒカリはアスカの顔を覗き込むと、アスカは立ち止まって前を向いたままだった。 その方を見やると、新任教師の霧島マナがこちらに歩いてくる所だった。 相変わらず短いスカートをはいて、まるでモデルのような歩き方をしていた。 「おはようございます」 呆然としているアスカを横目で見ながら、ヒカリは挨拶した。 「おはよう。やーね雨で」 「そうですね」 「惣流さん、おはよう」 マナはアスカの方を向いた。 「あ、おはようございます」 アスカはハッとなって、すぐに言葉を返した。 「昨日惣流さんを見かけたのよ」 「えっ」 アスカは驚いた。 「お昼頃だったかな。駅前のラーメン屋さんの近くで」 「ああ・・・・・・そうですか」 「あ、チャイム鳴っちゃったね。それじゃ」 予鈴が聞こえてくると、マナは二人を通り過ぎていった。 二人は教室に入ると、すぐに担任教師が来たので、それぞれの席についた。 (よかった・・・・・・日記の通りになんてなるわけないわよね) アスカは机の上に目を落としたまま、小さく呟いた。 (でも、あのページを破っちゃったからって事もあるかも・・・・・・そうだ) アスカはふと気がついて顔を上げた。 (シンジ先生と霧島先生の関係を確かめないと。でも、そんな事聞いたら、変に思われるかな。 どうしよう、どうしよう。アタシの気持ち伝えちゃおうかな。でもそんなの早すぎよね。 ・・・・・・今日の数学は4時限目か。よし、昼休みにシンジ先生を屋上に呼ぼう。 あ、今日は雨だった。じゃあどうしよう・・・・・・そうだ、日記だ) アスカは手をポン、と軽く叩くと、ニヤッと笑みを浮かべた。 * * * ≪4月21日(月) 雨 今日の出来事じゃなくて、明日のことを書きます≫ 重要な決断のため、アスカの字は自然とかしこまっていた。 ≪まず、天気予報によると、明日は雨か曇りか微妙みたいだけど、絶対に晴れになります。 そして、昼休みにアタシはシンジ先生を屋上に誘って、昨日の事を聞きます。 さらに、その事情に関係なく、私はシンジ先生に告白をします。 そしてその告白は≫ 必ず成功します、と書こうとしたが、アスカはやめた。 「それだけは自分の力でやらないとダメよね」 アスカは頭の後ろに手を組み、イスに寄りかかった。 「んー、なんて言おうかな。『好きです』じゃ単純すぎるし、『愛してる』じゃちょっと重いしなあ。 ・・・・・・いいや、その時になったらその場の雰囲気でなんとかなるだろう」 アスカは、ベッドに仰向けになった。 と、途端に不安に襲われた。 (やっぱり、日記の通りになるなんて事ありえないよなあ。どうしよう。 屋上に誘うったって、そんなに上手くいくわけもないだろうし、大丈夫かなあ。 でも、シンジ先生のことを想うアタシの気持ちが運命につながってもいいわよね。 そうよ、そういう運命があってもいいじゃない) 開き直ると、アスカは突然睡魔に襲われ、眠りの世界へと誘われていった。 * * * 4月22日、火曜日。 天気予報はものの見事に外れ、一面の青空が広がっていた。 その青空に一番近い場所に、碇シンジは立っていた。 昼休みの屋上は、シンジのほかに誰の姿もなく、 あるとすれば、昨日の雨によって作られた小さな水たまりがそこらに点々とあるだけだった。 「まったく、どういう展開なんだ」 シンジは呟いた。 「まるで予想外の展開だな・・・・・・こんな所に呼び出されたって事は、やっぱりそういう事なのかな」 シンジは手すりに寄りかかって、校庭を見下ろしていた。 校庭では、バレーボールで遊んでいる生徒達の姿が見え、シンジは何の気なしにそれを見つめていた。 「先生」 呼びかけられて、シンジが振り向くと、惣流アスカがそこにいた。 「やあ、どうしたの? こんな所に呼び出して」 「あの・・・・・・」 アスカはモジモジして、言い出すのをためらっていた。 そこで、シンジが先に話を切り出そうとした。 「ねえ、日曜日に駅前で惣流さんを見かけたんだけど」 「その事なんですけど」 シンジが言うと、アスカは少し強い声で言った。 「あの、先生と霧島先生って、恋人同士なんですか」 「えっ!?」 シンジは驚いた。この子は一体何を言い出すんだ、と言わんばかりの表情である。 「どういう事?」 「だって、あの時すごく仲良さそうに歩いてたじゃないですか。 腕組んでくっついて、まるで仲良しカップルでしたよ」 「・・・・・・ああ、なるほど。そうか、だからそう言ったのか」 「あの、どうなんですか」 一人で納得しているシンジを、アスカは上目づかいで見た。 「いや、あのね。実は彼女、僕の妹なんだ」 「・・・・・・・・・」 アスカは、いまシンジが何と言ったのか聞こえなかったか、 まるで表情を変えずにシンジを見つめていた。 「惣流さん?」 「あの、今なんて言ったんですか」 「だから、彼女は僕の妹なんだよ」 「妹?」 「そう」 「でも、どうして苗字が違うんですか」 「実はマナはね、結婚してるんだ」 シンジは、彼女からマナと呼び方を変えた。 「結婚? え? 結婚?」 アスカは驚いて大きな声を上げた。 「いったい誰と」 「誰とっていうのはちょっと答えられないけど、マナが大学3年の時、同級生の人と結婚したんだ。 しかもその人、僕にそっくりでね、驚いたよ」 「はあ・・・・・・それじゃ、同じ年に新しく教師になったのはどうして?」 「ああ、それは僕とマナが一つ違いで、情けないんだけど僕が一浪してるからだよ」 シンジは照れくさそうに頭を掻いた。 「同じ学校に赴任したのはまったくの偶然で、お互いすごくビックリしたんだ。 最近、連絡をほとんど取ってなかったから、お互いの近況は知らなかったんだよ」 「そうだったんですか」 アスカは、安堵の表情を浮かべながら、意外だという風に言った。 「でもすごく仲良さそうにしてましたけど」 「マナは昔から人なつっこくてね」 「・・・・・・・・・」 アスカは、悩みが一つ解決して、しかもいい方向に向いたので安心したが、 もう一つ、極めて大きな試練が待ち構えている事を思い出し、それに立ち向かうかどうか悩んだ。 「どうしたの? 惣流さん」 急に黙ってしまったアスカに、シンジは心配そうな目を向けた。 「先生」 アスカは意を決して、シンジを力強く見つめた。 「なあに?」 「あの、アタシ・・・・・・」 本番を迎えると、どうにもあと一言がすぐに出てこなかった。 しかし、アスカの中で、もう迷いは吹っ切れた。 「先生の事が好きです」 「えっ」 シンジは驚いた表情をしたが、どことなくわざとらしさがあった。 「ああ、ありがとう」 「あの、そういう意味じゃなくて、ほんとに先生の事が好きなんです。 アタシ、先生を初めて見た時から好きでした。ほんとに、ほんとに好きなんです」 アスカの声は真剣そのものだった。 「惣流さん・・・・・・」 「先生」 アスカはそう呼ぶと、シンジに抱きついた。 「あっ、惣流さん、ちょっと」 「先生・・・・・・シンジ先生、好きです。好きなの。大好きなの」 アスカはシンジの胸に顔をうずめて、鳴きそうな声で呟いた。 シンジは、最初は抵抗を見せたが、アスカの想いの強さに、身をそのままゆだねる事にした。 そして、沈黙が訪れた。 実際はほんの数分だが、それは二人にとってとても長い沈黙だった。 その沈黙を打ち破るように、シンジはアスカの肩に手を置いて、優しい声で言った。 「惣流さん、僕は教師で、君は生徒なんだ。君の気持ちはとてもうれしいけど、 僕と君はこのままの関係でいた方がいいと思うんだ」 アスカはそういった答えが返ってくると予想していた。 だから、それに反発する言葉をぶつけようと思った。 しかし、シンジの次の言葉に、アスカはその言葉を飲み込まざるをえなかった。 「でも・・・・・・本当は僕も君の事が好きなんだ」 「えっ!?」 またシンジがアスカを驚かす番になった。 「僕も、君の事が好きだよ」 シンジはもう一度言うと、アスカを強く抱きしめた。 アスカは驚いて、手が宙を舞ったが、 シンジの温もりに気を許して、その手をシンジの背中に回した。 さっきの沈黙とは比べ物にならないほど、二人はこのひとときを長く長く感じた。 * * * ≪4月22日(火) 晴れ 人生最良の日をありがとう≫ アスカはただそれだけ書くと、ブルーの日記帳を閉じ、学校カバンの中から別の日記帳を取り出した。 それは、今日購入したもので、アスカの好きな赤色の日記帳だった。 ≪4月22日(火) 晴れ 今日からこの日記帳に変えようと思う。 これは今日の出来事よりも、アタシのシンジへの想いのほうがたくさん書かれる予定。 さてと、今日はこれ以上ないっていうくらいサイコーの日になった。 アタシが一目惚れしてからまだ2週間しか経ってなかったから、 告白は早すぎたなあと思ったけど、シンジも同じ想いだったなんて・・・・・・ホントにうれしい。 それにしても、あの日記帳に書いたとおりいい天気になった。 あれってホントに書いたとおりの事が起こっちゃうのかな。 だとしたら、告白がうまくいくように、なんて書かなくてよかった。 日記帳のおかげでうまくいっても全然うれしくないもん。 それから、霧島先生がシンジの妹だったなんて、ビックリ。 しかも結婚までしてたなんて、すごいなあ。 アタシも早いうちにシンジと結婚しようかな、なんてね。 今日初めてシンジに抱きしめられたけど、あったかくて、割とがっしりしてて、 超気持ちよかった。うっかり気を失いそうになっちゃった。 これからもずーっとシンジと一緒にいられますよーに≫ 「いられますよーに」 アスカは日記を書き終えると、遠くを見るような目をして、天井を見上げた。 おそらくシンジのことを考えているのだろう。表情が恍惚としている。 それからベッドに伏したアスカは、マクラを抱きしめ、何度もシンジの名を呟いた。 まるでシンジを抱きしめているかのような感覚を覚えて、 安らかな笑みをたたえながらアスカは眠りに落ちていった。 * * * 同じ頃、アパートの自室で、碇シンジは机に向かっていた。 ≪4月22日(火) 晴れ まさか、こんなに早い展開になるとは思ってもみなかった。 アスカの方から告白をしてくるなんて、まったく予想外の事だ。 つまり、アスカは本当に僕の事を想ってくれていたという事になる。 これは本当にうれしかった。 ただ、やはり打ち明けられるのが早すぎたと思う。 この『書いた通りの事が起きる日記帳』を使って、 アスカが卒業を迎えるまでなんとかコントロールできないかという計画は、 簡単に崩されてしまったが、アスカの事を思えば、 計画通りにならなくてよかったと今は思っている。 やはり教師と生徒の間の恋というのは、いささか難しい問題だから、 アスカの卒業を待って行動を移そうと思っていたけど、 僕もアスカを想う気持ちが日に日に膨らんで、抑えが利かなくなっていた。 僕がアスカを好きになった理由が、昔の彼女にそっくりだから、 って言ったらアスカは怒るだろうなあ。 好きになったきっかけはそれだけど、今は本気でアスカの事を想っている。 これからずっとアスカと一緒にいられたらいいなあ。 最後に、この日記帳へ。 短い間だったけど、ご苦労様でした≫ シンジは、そう書き上げると、ブルーの日記帳を閉じ、 アスカとおそろいの赤い日記帳を取り出して、こう書いた。 ≪4月22日(火) 晴れ 今日が、僕とアスカの最初の記念日となった。 これから、僕らの記念日がたくさん追加される事を願って≫ 終わり (あとがき) どうも、うっでぃです。 なんとも長い文章になってしまいました。 その割には内容が薄く、キャラが生かしきれてない感があります。 まだまだ未熟者ですので、これから少しずつ精進していきたいと思います。 それから、他の先生方がまるで登場しなかったので、 その内、この話の続きというか、その後の話を作りたいと思います。 その中で活躍の場を与えてやりたいと考えております。 実はこの話、最初ホラーテイストにしようかと思っていたんですが、 あまりにも霧島マナがかわいそうになってしまう上、 アスカが恐ろしい子になってしまうので、 無理矢理ハッピーエンド型に変えてしまいました。 ですので、ビミョーな流れになっているのは否めません。 すいませんでした。 ということで、ではではまたまた。
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