1.10年前の夏

それは夏を迎えてまだ半月しか経っていなかった時の事。
まだ梅雨明けしていないにもかかわらず、蒸し暑い日々が続いていた。

その頃の日本は、これから高まる気温とは裏腹に、経済状況は芳しいものではなかった。
それが影響してか、その年の犯罪率はここ10年を見ても、
軒並みトップに躍り出るほど大変なものだった。

特に驚異的なのは、例年の倍以上もの殺人事件が発生してしまった事である。
しかし、検挙率は平均的という状況で、警察の意義が問われた年だった。

このような年に、警察の頭をさらに抱えさせるような、世にも惨たらしい殺人事件が起きた。

事の発端は、東京の武蔵野警察署に出された一通の捜索願であった。
「娘がここ3日間帰ってこない」という電話の内容だった。
3日間も捜索願を出すのを渋っていたのは、その家庭の事情に問題があった。

帰ってこないというのは当時21歳の女子大生で、通報をしたのはその母であった。
問題は父親の方で、ちょうどそのころ昇進のかかった仕事を引き受けていて、
事をあまり大きくしたくなかった、というのが本音だったようだ。

そのため3日遅れた通報だったが、直ちに捜索活動がとりおこなわれる事になった。
家の周辺や、大学の周辺などが主に調べられたが、一向に見つからず、
捜索中にふらっと家に帰ってくることもなかった。

捜索を始めて1週間が経とうとした、ある雨の日、彼女が見つかった。
それは、彼女の家から数10キロ離れた、綾瀬川の河川敷であった。
見つかったときの状態は、誰の目にも息のない様子だった。

首を絞められた跡と、暴行をされた跡があったので、
警察はこれを殺人事件とし、新たに捜査活動が行われた。

犯行現場の特定が難しく、証拠が何も残されていなかったため、捜査は難航していた。
そんな時、新たな殺人事件が起きた。

被害者は、また女子大生であった。
今度も発見現場は東京だったが、昭島市の秋川の河川敷であった。
首を絞められた跡と暴行の跡が見られ、犯行の手口が同じであることは明らかだった。
しかし、犯人を特定できる証拠はまるで見つからない。目撃証言もない。
警察は、女子大生連続殺害事件として捜査を進めることになったが、
これほど難解な事件はそうそうあるものではなかった。

残念な事に、これだけでは終わらなかった。
その後も立て続けに3件の殺人事件が起き、被害者はすべて女子大生だった。
発見場所は、それぞれ違っていたが、必ず東京のどこかの河川敷であった。

被害者の通っていた大学はそれぞれ違う所で、それもさらに見当をつけにくくさせていた。
ただし、女子大生ということ以外に、もう一つ被害者に共通する事があった。
全員が全員、美人揃いなのである。
遺体として発見された時ですら、生前美しい女性だった事が分かる雰囲気を持っていた。

警察は、被害者に暴行の後が見受けられることから、
犯人は男だということで捜査を進めていた。
もちろん、そうでない可能性もあるが、冷静な警察であっても、
美人の女子大生の遺体を目にしては、それぞれ思い思いに描く犯人像は自然と男性になっていた。

だが、実際は犯人が男か女かすらも分かっていない状況だったのである。

マスコミもかなり長い期間この事件を取り上げた。
警察も、付近の警察署員総動員で、懸命な捜査を繰り広げた。
が、結局犯人は見つからなかった。
疑わしい人間は数人いたが、どれも決め手がなく、警察は頭を抱え込んだ。

しかし、荒川の河川敷で発見された遺体を最後に、事件は突然途絶えた。

そして、この事件は迷宮入りとなり、現在に至る――




2.恋愛小説家とその担当編集者

閑静なその住宅街は、ため息が出るほどの大きな住宅棟が立ち並んでいた。
昼を過ぎて、日差しも強くなり、家々は日に照らされてきらめいている。
6月も半ばに差しかかり、だんだんと蒸し暑さが感じられる陽気になってきた。

彼は、通りを歩くのはこれで何度目だか覚えていない。
しかし、それでも通る度に感嘆のため息を洩らしていた。

駅を降りてから線路沿いをしばらく歩くと、住宅街がいやでも目につく。
目印として役立っている、家具屋の大きな看板のかかった角を左に折れると、
ひときわ大きな敷地に、屋敷と呼んでもいいような大きな住宅に着く。
そこが彼の目的地である。

「はあ、何度見てもすごいなあ」

門の前に立つと、彼は大きなため息をついた。

家屋の前には噴水があり、周りは鬱蒼と木々が生い茂っている。
何と言っても圧倒されるのは家屋のほうである。
一体どのくらい部屋の数があるのか、外からではまったく窺い知れない。

インターフォンを押すと、すぐに応答があった。

「はい、どちら様でしょうか」

ハッキリとした男性の声だった。

「綾波書店の碇です」

彼はそう答えると、受け口の男性はすぐに開門をした。
大きな門が自動式に開いていく。

彼の名は、碇シンジ。
大手出版社、綾波書店の編集者で、歳はまだ25と若い。
にもかかわらず、いま最も注目されている若手小説家の編集についている。

ちょうど1年前、彼が入社して2年目の春に、
彼の勤める綾波書店主催の、一般公募式の小説大賞が行われ、
当時19歳の女子大生が見事大賞を受賞した。

その小説は、典型的なラブストーリーだったが、
女性らしからぬ男性の観点が事細かに描かれ、
女性ならではの女性の心理がリアルに描かれているという点が受賞の最も大きな勝因だった。

話の内容だけでなく、作者自身のキャラクターも大きく影響していた。
最終選考に残った人には他にも若い女性がいたが、
彼女の場合、目を見張るような美しさがあった。

受賞作品は、直ちに綾波書店からハードカバーの形で出版され、
そのとき編集を任されたのが、碇シンジであった。

いま彼の目の前にある豪邸は、彼女の家である。

門をくぐると、ゆっくりと玄関に向かった。
途中、噴水の水量が変わったのに驚いて立ち止まったが、すぐにきびすを返した。

玄関先に着く前に、先にドアが開いて、初老の男性が姿を現した。

「碇様、どうぞこちらへ」

「あ、どうも、こんにちは」

雰囲気の割にハッキリとした声の老人は、彼を家の中に招き入れた。

「お嬢様はご自分のお部屋におられます」

やけに礼儀正しいこの男性は、この屋敷の執事だという。名前は冬月といった。
今のご時世、執事なんていうものがあったのか、と不思議に思いたくなるが、
この屋敷を目にすれば、その不思議さもいくらか霞んでくる。

家に入るとすぐに、玄関とはまるでかけ離れたホールのような空間に出る。
目の前には大きな階段があり、彼はいつもそれを上って右に曲がる。
すると、数え切れないほどのドアが並んでいるが、彼は迷わずに、
数えて3番目のドアをノックした。

「はい」

ドアの向こうから女性の高い声で返事が聞こえてきた。

「あの、綾波書店の」

「どうぞ」

彼が名乗り終わらないうちに、入室の許可が出た。

「あ、はい、碇です。失礼します」

改めて名乗ると、ドアを開けた。

窓から差し込む日の光に、部屋の中は明るく照らされていた。
15平米ほどのその部屋は、全体的に赤を基調としていた。

壁は真っ白だが、掛かっている複雑なデザインの時計は赤。
ダブルだかトリプルだか分からないような大型ベッドのカバーも赤。
テーブルを囲むように置かれているソファも赤。
そして、デスクに座ってこちらに背を向けている女性の髪の色も赤である。

「あのーいかがですか」

彼は、部屋に入るなりその一言が出た。それはお決まりのパターンである。

「そこに掛けてて」

「あ、はい」

女性は向きを変えずにソファのほうを指差すと、彼は遠慮がちに腰掛けた。

彼は女性の後ろ姿を見ていたが、視線を左にそらすと、これまた大きな本棚が飛び込んでくる。
デスクの隣に置かれた本棚には、文献が山のように置かれてあり、
他には小説や漫画もたくさん置いてあった。

「もうそろそろ仕上がるから、ちょっと待ってて」

女性は軽く後ろを振り向いて、彼の存在を確認すると、またデスクに向かった。

大詰めに入った時の彼女は特に集中しているため、彼は邪魔にならないようにじっと待った。
カリカリカリという小気味いい音が、部屋に響き渡る。

その間、執事の冬月が紅茶を持ってきてくれた。
それをゆっくりと飲みながら静かに待った。

しばらくして、女性は大量の紙の束をデスクの上でトントンと整えると、
立ち上がり、彼の前のテーブルにドサッと置いた。

「はあ、やっと出来た」

彼女はため息をつくと、彼の正面のソファに腰を落ち着けた。

彼女の名は、惣流アスカ。
惣流財閥のひとり娘で、現在20歳の現役女子大生。
ドイツ人のクォーターということもあり、目鼻立ちハッキリした美人で、
蒼い瞳と赤く長い髪がとても印象的である。
この屋敷には執事と二人だけで住んでいる。

勝手に縁談を進めようとする両親に反発して、独り立ちをしようと、
数多くある家のなかでも一番小さい、東京にある今の家に移り住んだ。

昔から恋愛小説が好きだった彼女は、よく空想に耽る癖があった。
その空想を文字にし、小説大賞に応募した結果、見事に大賞を取ってしまった。

生まれ持った美しさと、財閥の生まれがありながら、彼女は男性と付き合おうとしない。
もちろん言い寄ってくる男は数知れないのだが、
自分の思い描いた男性像に見合った人に出会ったことがないのである。

そんなもどかしさを文章にして世に訴えかけたら、予想外の反響を呼び、
大学に通いながら、次々と作品を世に出す人気作家となった。

「『愛に飢えた殺人者』・・・・・・ですか」

碇シンジは、目の前に積み上げられた原稿用紙を数枚手に取った。

惣流アスカは、パソコンやワープロを使わず、原稿用紙に鉛筆という古いスタイルで執筆する。
だから、こうして編集者が原稿の上がりを受け取りに出向くのである。

「今回はずいぶん量が多いですね」

シンジは苦々しい顔をした。

「そうかな。書いた日数はそれほど多くないんだけど」

アスカは、白いロングスカートの端をもってしわを伸ばした。
膝をくっつけて、脚を斜めにして座っている。

「惣流さん、パソコンとか使いましょうよ」

シンジは、アスカを『惣流さん』と呼ぶ。
作家に対しては『先生』と呼ぶのが普通だが、年下の女性、しかも大学生であるので、
自然とさん付けで呼ぶようになった。

アスカは、すべて書き終えるまで誰にも作品を見せない。
だから、シンジはすべての原稿用紙を持って帰らなければならないのだが、
社に着くまでにヘトヘトになってしまうのが常だった。

「アタシ、そういうの苦手だから、ごめんね」

シンジのほうが年上だが、アスカは友達に口を聞くように言う。

「でも、僕の知ってる限りでは惣流さんと同じスタイルで書いている人なんて、
みんなかなり歳のいった作家さんばっかりですよ。しかも結構頑固な」

「アタシが頑固者だって言いたいの?」

「いや、そういう意味じゃなくて、パソコン使ったほうが便利なんですよ。
って前にも何度も言ったと思いますけど、メールを使えば簡単に送れるんですから」

「それは碇さんが便利だから言ってるんでしょ」

シンジはギクッとしたが、すぐに取り繕った。

「まあ、確かにそうなんですけど、やっぱりパソコンの方が効率よく書けますよ」

「アタシはね、これは前にも言った事だけど、一文字一文字に気持ちをこめて書いてるの。
だから手書きにしてるの。パソコンなんかじゃ全然気持ちが入らないわ。ねえ、碇さん」

「はい」

「それを分かってくれてるから、こうしていつも来てくれるんでしょ」

「そうです」

「じゃあ、これからもよろしくね」

アスカは首を傾けて笑顔を見せた。

「あ、はい・・・・・・」

シンジはこの笑顔に弱い。思わず見惚れて何を言おうとしたのかすぐに忘れてしまう。
そうなってしまうのはきっと僕だけじゃないだろう、とシンジはいつも思った。

「ねえ、読んでみてよ」

「え、あ、はい」

ずっと自分の顔を見つめているシンジに、アスカは文章へ目を落とすよう促した。
シンジは思わず慌てて、顔がだんだん赤くなっていった。

アスカは、出来上がった作品のプロローグだけ、この場で読ませるようにしている。
彼女の作品は、途中まで読んでいてもよく分からず、最後まで読んでやっと、
「ああ、なるほどね」という風に終わるタイプのものではなく、
プロローグから読者を引き込めるようにいつも書いている。
だから、ここでシンジにプロローグを読ませて、最初の感想を聞くのが楽しみだった。

「今回、タイトルは後付けですか、先付けですか」

シンジは原稿用紙を数枚持ちながら聞いた。

「そういうのは、あと、あと」

「はい」

早く読んでもらいたいアスカは、シンジの質問をさらりとかわした。

『愛に飢えた殺人者』――そのプロローグの雰囲気は、
これまでに彼女が出した5冊の小説とは明らかに違いがあった。

今までのものは、単純と言うと聞こえが悪いかもしれないが、
とにかく惣流アスカの思い描く理想の男性像がにじみ出た、いわば妄想小説だった。

ところが今回の作品は――タイトルからも想像できるが――いきなり殺人の描写である。
若い女性が、美しくも残酷に殺されていく描写だけでプロローグが終わった。

女性の死にゆくまでの心理が、実際に体験でもしたかのようにリアルに描かれてあった。
そして、第一章では、早くもタイトルの意味が分かるような始まりを迎える。

「今までとは違った雰囲気ですけど、いいですね。面白いですよ」

プロローグを読み終えたシンジは、原稿用紙に目を落としたまま言った。

「ああ、早く続きが読みたいなあ」

「それは会社に戻ってからね」

向かいに座っているアスカは、満足そうに微笑んだ。

「それと、アタシはタイトルはいつも先付けだよ。そうじゃないと書き始められないもん」

「あ、そうでしたね。でも、いいなあ、これ。このまま推理小説にしちゃってもいいかも」

「アタシはそっち系の悲劇・惨劇は苦手だから・・・・・・」

「でも結構エグい表現書いてるじゃないですか。思わず顔歪めちゃうような」

シンジは思い出しながら顔を歪めた。

「その辺はインパクト重視だからね。アタシも変な顔しながら書いてたな」

アスカは無理矢理顔を歪めてみせたが、シンジの目には可愛らしい表情にしか見えなかった。

お嬢様らしく、『清楚』とか『可憐』といった言葉が似合うその雰囲気とは裏腹に、
サッパリとした明るい口調なのも、彼女の魅力の一つだろう。

シンジは、重い荷物を抱えて社に戻る事をのぞけば、
アスカに会いに来ることが楽しみとなっていた。

「アタシ、これ結構気に入ってるんだ」

アスカは原稿用紙の山を見やりながら目を細めた。

「今まで書いたのももちろん好きだけど、今回はかなり趣向を凝らしたからね。
まだ言えないけど、最後の一行がすごく気に入ってるんだ。きっとビックリするよ」

アスカはうれしそうにシンジに微笑みかけた。

「そんなこと言われたらますます読みたくなってくるなあ。あ、それじゃ僕はそろそろ」

「えーっ、もう行っちゃうの」

「ダメですか」

「ダメ」

原稿用紙をまとめて袋に入れ、中腰になったシンジは、またソファに腰を下ろした。

「惣流さん、僕を引っ張るの好きですよね」

「そうだよ。だって碇さんと喋るの好きだもん」

「はあ・・・・・・」

シンジはあいまいに返事をしたが、内心ではうれしかった。

「あ、そうそう、すっかり忘れてました」

シンジは、ポンと手を叩いて言った。

「相変わらずものすごいファンレターの数なんですけど、すごい人から来ちゃいましたよ」

「えっ、誰から?」

「なんと、あの加持リョウジ氏です」

「うそー!」

アスカは両手を口元に当てて目を見開いた。

「ほんとに?」

「ええ、僕もビックリしました。まさかファンレターを送ってくるとは思ってもみませんでしたから、
最初はもちろん疑いましたけど、加持先生の編集やってる先輩に聞いてもらったら、
間違いなく自分が出したものだっておっしゃったそうなんですよ。これなんですけど」

シンジは、バッグの中から白い封筒を取り出した。

「見せて見せて」

アスカは両手を出してソファの上をうれしそうに上下に揺れていた。

加持リョウジとは、10年前に21歳で鮮烈デビューを飾った推理作家で、
現在、出す本すべてベストセラーとなる超売れっ子人気作家である。

さらに、ルックスの良さから、特に女性に絶大の人気を誇っている。
31になったがいまだに独身で、それも人気に影響していた。

アスカは、加持に興味があるのか、食い入るように手紙を読んでいた。

手紙の内容は、アスカの小説の称賛と、是非お会いしたいという至ってシンプルなものだったが、
ワープロで打った文ではなく、ちゃんとした手書きの文章だったので、アスカは感動した。

「すごい、すごい、すっごーい。本当に加持先生から来ちゃったんだ」

アスカは子供のようにはしゃいだ。その様子を少し複雑そうな目でシンジが見ていた。

「それでなんですけどね、今度うちの雑誌で対談シリーズを組む事になったんですけど、
その記念すべき第一回目として、惣流さんと加持先生にお願いしたいなと思いまして」

「ほんと? もちろんオッケーだよ。アタシも一度会ってみたかったんだ」

「あ、そうですか。加持先生も二つ返事で快諾してくれたんですよ」

「へえ。あの人って、アタシの小説に出てくる男性像にピッタリくるんだ、見た目がね。
だからどんな人なのか知りたいなって思ってたんだけど、すごいすごい」

アスカはソファの弾力に合わせて上下に揺れていた。

「そうなんですか。えーと、詳しい日時はまだ決まってませんので、追って連絡します」

「あ、そうだ」

アスカは口の前で手の平を合わせた。

「アタシ、あの人の本読んだこと無いんだけど、大丈夫かな」

「それはちょっとまずいですね。じゃあ、うちから出てる作品を送りましょうか」

「あ、助かります」

アスカはそこだけ丁寧に言った。

「推理小説って全然読まないんだけど、面白い?」

「面白いですよ。彼の作品なんてどんどん引き込まれる感じで、
僕なんか一日に3冊くらい一気に読んだことありますからね」

「へー、ほんとはミステリーが好きなんだ。恋愛小説なんてどうでもいいんだ」

「ちょっと、そんな事言ってませんよ」

シンジは慌てて弁解した。

「確かにミステリーは好きですけど、惣流さんの小説もサイコーですってば」

「そんな、取って付けたように言われても全然うれしくないんだけど」

アスカは明らかに不機嫌そうな顔をした。
シンジは、どんな表情でも映える顔だな、と見惚れたが、すぐに自分を取り戻して謝った。

「すみません」

「あーっ、やっぱりアタシの小説なんてどーだっていいんだ。
もういいもん、碇さんなんてもういいもん」

アスカはプイッとそっぽを向いた。
なんとなくわざとらしい素振りだったので、シンジは少し微笑んだ。

「なに笑ってんの。失礼しちゃうな、もー」

「すみません」

子供のようにすねるアスカを見ていると、どうしても笑みがこぼれてしまった。
笑いながら謝ってもまるで効果はない。

「なんか、ちょームカつく」

アスカのその言い方に、やっぱり普通の女の子なんだな、とシンジは思った。

家柄も、住む家も、身なりも完璧なお嬢様スタイルだが、
ほとんど素になると、アスカは普通の女の子となんら変わりなかった。
そういう事も、シンジに親近感を湧かせていた。

「碇さんってそういう人だったんだ」

「すみません、そういう人でした」

シンジは開き直るように言った。

「でも、惣流さんの小説はほんとに素晴らしいですよ。僕は女性観はあまりよく分からないけど、
男性の心理なんかすごくリアルで、ああ分かる分かるってよく思います」

アスカの表情が少し和らいだのを確認してから、シンジは続けた。

「特に3作目の『緋色の空』なんて、涙なしには読めないっていう帯キャッチの通り、
僕もいち読者としてボロボロ泣きましたよ。あの時は社内で一人浮いてたなあ」

シンジはその時の事を思い出してクスッと笑った。
が、すぐに真面目な顔をして言った。

「笑ってしまったのはごめんなさい。謝ります。
でも、惣流さんの小説がどうでもいいなんて思ったことありません。
僕はいち読者として惣流さんの作品が好きなんですから。
こうやって惣流さんの編集を担当できる事を本当に誇りに思ってます」

シンジの編集者としての正直な思いを、アスカは黙って聞いていた。

「・・・・・・あ、そろそろ僕、帰りますね」

原稿用紙がつまった袋と、ショルダーバッグを持つと、シンジは立ち上がった。

「それでは社に戻ってからゆっくり読ませてもらいます。
それと、対談の件は近いうちに電話で連絡すると思いますので、それじゃ失礼します」

シンジはドアに向かった。今にも部屋を出ようという時、黙っていたアスカが声を掛けた。

「碇さん」

「はい?」

重い荷物を抱えたままのシンジが素早く振り向いた。

「僕なにか忘れましたか」

「いいえ、そうじゃなくて、あの、その」

アスカは次の言葉がなかなか言い出せなかった。

「惣流さん、どうしたんですか」

シンジはいぶかしげな表情でアスカの顔を覗き込んだ。
うつむき加減のアスカは、言う決心をしたように顔を上げた。

「・・・・・・さっきの言葉、うれしかった。ありがとう」

「え? ああ、いや、僕は・・・・・・」

微笑むアスカの顔をまともに見れないシンジは、顔を赤くして目を泳がせた。

「あ、ごめんなさい、引き止めちゃって」

アスカは気がついたように言った。

「いや、あの、それじゃあ失礼しました」

シンジはそそくさと部屋を出て行った。

しばらくアスカはドアを見つめていた。
そして、フッと笑みをこぼすと、遠くを見るような目をしながら呟いた。

「碇シンジ・・・・・・か」

アスカはもう一度微笑んだ。




3.対談

6月下旬、都内某ホテルの一室で、惣流アスカと加持リョウジの対談が行われた。
それに同席するのは、小説雑誌『紅葉』の副編集長で、綾波書店取締役社長の娘でもある、綾波レイと、
惣流アスカ担当編集者、碇シンジである。もう一人、カメラマンがそばでストロボを焚いていた。

「惣流さん、僕の作品を読まれたことはあるのかな」

黒いスーツに身を固め、長い髪を後ろに束ねた加持リョウジは、
一人がけのソファに深々と腰掛けながらも、身を乗り出すように座っていた。

「はい。実は最近になって初めて読んだんですけど・・・・・・」

アスカは正直に告白した。

テーブルを挟んで、加持の向かいに座るアスカは、シックな肌色のワンピースを身に纏い、
落ち着いた様子で背すじを伸ばして座っていた。

「ははは、正直で結構」

加持は笑顔で言った。

「なるほどな。俺もまだまだって事だ」

独り言のように言う時は、『俺』と言った。
テーブルに置いてある水入りのコップを取り、それを一口飲む。
氷のカランという音が心地よく響いた。

加持がコップを置くのを見ると、アスカは言った。

「でも、とても面白かったです。『巨大な密室』とか、『海底2万マイルの惨劇』とか、
密室ミステリー系がすごく良かったと思います」

「と思います、か・・・・・・ありがとう。僕は君の作品は全部読んでるよ」

「加持さんは、惣流さんの作品の中でこれが一番、というのはありますか」

副編集長の綾波レイが口を挟んだ。
彼女は司会役を務めており、二人の間を取る位置に座っていた。

「そうだねえ・・・・・・」

加持はアスカの顔を見つめながら考え込むしぐさをした。

「処女作の『赤い海』かな。あの悲愴感漂う始まり方がいいよね」

「ありがとうございます」

アスカは、シンジと話すときとは違い、丁寧な喋り方をしていた。

「僕はなかなか男女の恋愛感がうまく書けないんだけど、なにかコツみたいなものってあるのかな」

「それは秘密です」

アスカはうれしそうに笑った。

「いくら加持さんとはいえ、アタシの秘密は教えられません」

「うーん、そりゃ残念。・・・・・・ちょっと失礼するよ」

加持はいったん席を外した。そこですかさずシンジがアスカに聞いた。

「どうですか、惣流さん」

「どうって?」

「イメージ通りの人でした?」

「そうね・・・・・・まだ今のとこは分かんない。でも第一印象は悪くないわ」

「そうかしら」

レイがふてぶてしい表情で言った。

「私が彼と会うのはもちろん初めてじゃないけど、第一印象が良いとは思わなかったわ。
なんだか軽いんだかキザなんだか良く分からない調子だし、ちょっと自信過剰なところもあるし」

アスカに負けず劣らずの清楚な雰囲気を醸し出しているレイだが、
その言葉はとげとげしいものだった。
だが、すぐに明るい声で言った。

「あ、これは内輪だけの話にしてね」

綾波レイは、綾波書店取締役社長の娘という肩書きを子供の頃から背負っていたため、
加持の事を自信過剰と言っておきながら、自分もそう大して変わらないことに気がついていなかった。

「僕は別にそういう風には思いませんでしたけど」

シンジは少し不思議そうな顔をした。

「あら、あなたって結構鈍感なのね」

レイは驚いたように言った。

「今まで一緒に仕事したことなかったからよく知らなかったけど、そういうタイプなんだ」

「鈍感・・・・・・ですか。そうかなあ、自分ではそう思ったことないですけど」

「そういうのを、鈍感って言うのよ」

「はあ・・・・・・」

頼りない返事をするシンジを見て、アスカはクスッと笑った。

加持が戻ってきたので、対談が再開された。

「ところで、お互いの作品を褒め合うのもいいのですが、
あえて文句をつけようとするのなら、お互いどういう点にあるとお考えですか」

レイはさっきの態度から一転して、仕事用のスイッチに切り替わっていた。

「なかなかいいテーマだね」

加持は笑顔でレイを見やった。

「そうなんだよな。誌上やネット上だとたくさんの批判を目にするけど、
面と向かって『あんたの小説つまんないよ』って言ってくれる人は少ないからね。
ハッキリとした意見をぶつけ合うのはいい事だよ。それじゃあ、僕から」

加持は、氷が溶けきった水を全部飲み干してから言った。

「人物の心理描写は僕も得意なほうだと思ってるんだけど、これは君もなかなかのもんだね。
ただ、例えば3作目の『緋色の空』に見られるような、お涙頂戴っていう雰囲気への持って行き方は、
すこーし現実味が足りなかったような気がする。普通に読んでいれば普通に泣けたんだろうけど、
僕は少々戸惑いを覚えたな。確かにドラマチックなんだけど、あまりにもドラマチック過ぎというか、
非現実的に思えてしまうんだ。もちろんフィクションなんだからそんな事はどうでもよさそうだけど、
読者の関心を強く引くためには、なさそうでありそうな展開が一番なんだよ」

加持はまくし立てるように言った。

「例えば、僕はサスペンスも書くけど、一見なさそうでありそうっていうのが一番怖いと思うんだ。
読み終わった後で思わず、何かをするのが怖くなってしまうとか、そういうのを期待して僕は書いてるんだ。
君の書く恋愛ものなら、『私もこんな恋愛してみたいわ。でもきっと無理よね』じゃなくて、
『私ももしかしたらこんな出会いがあるかも』なんて読者に思わせるようなものが良いんだな。
・・・・・・まあ、これはあくまで僕個人の意見だから、君がこのままでいいと思えばそれでいいんだけどね。
君の小説に共感してくれている人がたくさんいるわけだから、別に考えを改めようと思う必要はない。
参考までにってことで聞き流してもらって構わないよ」

俺いい事言ったなあ、という風に加持は自信に満ちた笑みを浮かべた。

「すいません、水もらえますか」

誰にも口を挟む隙を与えずに喋り続けて、加持の喉はもう渇いていた。
新しく水をもってきてもらい、それをまた一気に飲み干した。

「じゃあ、今度は惣流さんにバトンタッチだ」

加持は手の平を差し出して、アスカの番だという風に促した。

「私も加持さんの言った事を、最近考えていたんです。
それで、ついこのあいだ脱稿したばかりの作品では、その事をふまえながら書いてみたんです」

「へえ、そいつは楽しみだね」

「ええと、加持さんの作品は最近のを読ませてもらったんですけど、
もう作家デビューして10年経ってるじゃないですか。
だから、作風も少し変わってたりするんじゃないかって思うので、
あんまりとやかくアタシが言う事はないと思ったんですけどね」

「なにかあったら遠慮なく言っていいんだよ」

加持はそう言ったが、本当は自分の作品は完璧だという自信があった。
ところが、アスカは加持が思ってもみない箇所を指摘した。

「ストーリーやキャラクターはとっても面白いんですけど、
その・・・・・・オチがどうも突飛過ぎるというか、飛んじゃってる感じがあるような気がします」

加持は、「ほう」という顔をした。
アスカは淡々と言う。

「なんだか、あまりに意外すぎてちょっと拍子抜けっていうか、冷めちゃったというか。
ただ、アタシがミステリーを読まないからそう感じただけなのかもしれません」

「冷めちゃったか・・・・・・確かに意外性を強くした作品はいくつかあるけど、
ちゃんと終わりには、『なるほど、そうだったのか』っていう風になるようにしたつもりなんだけどなあ」

ミステリーのトリックや結末に一番の自信があった加持は、アスカに指摘されて難しい顔をした。

その場が少し不穏な空気になってきたので、司会役の綾波レイが別の質問を振った。
それは、それぞれの趣味といった少しくだけた話だった。

その後はスムーズに事が運び、レイの挨拶をもって対談が終了した。
午後の3時からスタートした対談は、2時間を要する長いものとなった。

シンジとレイの二人は、その後も仕事が残っているということで、そろって社に戻っていった。
その際シンジは、明日、最新作の出版についての打ち合わせをしたいということをアスカに伝えた。

そして、アスカと加持は――

「惣流さん、よかったら送っていこうか」

ホテルのエレベーターを下りながら、加持は言った。

「あ、でもタクシーつかまえますから」

肌色のワンピースによく合った白いハイバックの帽子をかぶったアスカは、
自分より顔2つ分背の高い加持を見上げて言った。

「遠慮しなくていいよ。っていうか、最近誰も助手席に乗せてないから乗ってほしいんだ」

「はあ・・・・・・」

アスカは生返事をした。加持はそれを勝手に肯定と見なして、一緒に帰る事を決めた。




4.綾波レイの憂慮

「碇君、知ってる?」

「何をですか、副編集長」

「ちょっと、そういう呼び方やめてくれる? そう呼ばれるの好きじゃないんだ」

「あ、すみません。じゃあ、綾波さん」

「まあ、それでいいわ・・・・・・ところでさ、加持リョウジの事なんだけど」

「綾波さん、ちゃんと前見て運転して下さいよ」

綾波レイと碇シンジは、レイの運転するスポーツカーに乗って社に戻ろうとしていた。
シンジは車のことはよく知らないが、それでも一目で高級車である事が分かった。

シンジは運転免許は持っているが、マイカーはまだ持っていない。
同じ歳でもこんなに違うものなのか、とシンジは思っていた。

シンジと同じ25歳の綾波レイは、親の七光りで副編集長の椅子についていると思われがちだが、
年齢の割にしっかりとしていて、部下をまとめる統率力も十分に持っている。
誰も彼女を妬む者はなく、ハッキリとした性格と、その美貌から、
男女問わず憧れの対象となっていた。

そんな彼女ももちろん悩みの一つや二つあるのだが、
一番の悩みは、毎年のように親がもちかけてくる縁談であった。
しかし、恋より仕事を優先するレイは、相手の条件がどんなに良くともいつも断っている。

というような話を、先程までシンジは聞かされていた。
どうして僕にそんな事を話すのだろう、と思いながら。

「で、加持先生の事ってなんですか」

「あの人、これまで結構いろんな人と噂になったじゃない。
小説家なのに見た目がいいからテレビによく出て、そこで共演した女性とどうのこうのって。
よく報道されてるのに人気は全然落ちないってのが不思議なのよね」

「ああ、そういえばそうでしたね」

シンジは、これまでに加持と噂になった女性の顔を思い出していた。
どれも人気のある若い女優ばかりだった。

「今は確か・・・・・・女優の霧島マナと関係があるとかないとか、でしたっけ」

「そう。どうしてこう若い女優とばっかり関係になれるのか良く分からないけど、
それで一つ心配な事があるのよ」

「なんですか」

「さっきの対談の時、彼の惣流さんを見る目が、ちょっと怪しかったかなって」

「は?」

「は? じゃなくてさ」

レイはシンジに顔を近づけるようにして言った。

「もしかしたら惣流さんが次の犠牲者になっちゃうんじゃないかって、
私はそう心配してるのよ。分かった?」

「えーっ、そんな、犠牲者って何ですか」

シンジは少し呆れたように言った。

「それに、どうしてそんな事が分かるんですか」

「勘よ、勘。女の勘ってやつ」

「はあ・・・・・・」

「彼が、女性とどう付き合い始めて、どう別れるのか知らないけど、
悪く言えば若くて可愛い子をとっかえひっかえしてるわけでしょ。
なんだか危ないような気がするのよね。惣流さん、すごく可愛いじゃない」

「ああ、なるほど」

シンジは腕を組んで前を見つめた。
先の信号が赤になり、ゆっくりと止まる。
レイはシンジの方を向いて言った。

「私の見た感じ、惣流さんって恋愛で傷つくタイプだと思うのよね。
フラれたら立ち直るのに時間掛かりそうな感じ」

「そうですかねえ」

シンジは首を傾げて言った。

「彼女が今誰かと交際してるとか、僕は知りませんけど、別にそういう風には見えないですけどね」

「あなたって、本当に鈍感みたいね」

「えっ?」

「私は彼女の小説もふまえて言ったんだけどな。
作品の中にもそう思わせるような要素が含まれてるわよ。
そういうのに気がつかないなんて、編集者として大丈夫なの?」

「すみません」

「すぐに謝るのも感心しないわね」

「あ、すみま・・・・・・いえ、分かりました」

「よろしい」

レイはクスッと笑うと、信号が青に変わったのを見て、アクセルを踏み込んだ。

「ところで碇君」

レイは声のトーンを高くして言った。

「このあと、仕事が終わったら一緒に食事でもどう?」

「えっ、僕とですか」

シンジは目を丸くした。

「そんな、綾波さんと食事なんて行ったらお金が・・・・・・」

「なに心配してるの。もしかしておごってとか言うと思ったの?」

「はい」

「大丈夫よ、私がおごってあげるんだから。上司なのよ私は。
お金のことなんて全然気にしなくていいの」

「でも、男の僕がおごってもらうなんてちょっと・・・・・・」

「そういうの、男女差別だと思うわ」

「あ、すみません」

「『すみません』は無しにするんじゃなかった?」

「すみません」

レイは吹き出して笑った。シンジはバツが悪そうな顔をしたが、つられて笑った。




5.加持の過去

「加持さんは、どうして小説家になろうと思ったんですか」

「こりゃまた単純な質問だね。まあいいや、教えてあげるよ」

加持リョウジと惣流アスカは、加持の運転する4WDに乗っていた。
青い色つきのサングラスをかけた加持は、片手で軽快に車を飛ばしていた。
もう片方の腕は窓の外に投げ出されている。
クーラーをかけるのが嫌いな加持は、窓を開けて運転していた。
それによって、アスカの髪が綺麗になびいていた。

「もう10年も前になるのか。結構長くやってきたもんだな」

加持は独り言のように呟き、一人笑みを浮かべていた。

「僕は、子供の頃――といっても学生の時の事だけど――野球選手になりたかったんだ」

「野球選手ですか」

加持の意外な発言に、アスカは運転席の方を見た。
加持は前を向いたまま淡々と続けた。

「小学校の時からずっと少年野球チームに入ってて、
中学の時も野球部に入ったし、高校では甲子園にも出た」

「すごいですね」

言葉の割に、アスカの声は抑揚がなかった。

「アタシ、野球の事はよく知らないんですけど、どこを打ってたんですか」

「ん? ああ、どこを守ってたかって聞いてくれればすぐ分かったよ。
確かによく知らないみたいだね」

「ごめんなさい」

「いやいや。僕はピッチャーだったんだ。
どこを打ってたかっていう質問に答えるとすれば、3番だよ」

「3番ですか・・・・・・」

アスカは言葉を反復するだけで、意味はよく分かっていなかった。

「まあ、それはいいとして、高校の時までは絶対プロ野球選手になるって思ってたんだ。
ところが、高校最後の夏を前に、怪我をしてしまってね、断念せざるを得なくなった」

「腕を悪くしてしまったんですか」

「そう思うでしょ。実は違うんだな。怪我したのは脚なんだ」

「脚ですか」

「うん。膝が急に悪くなってね、野球はもう続けられないって医者に言われてさ、
自分の思い描いた将来が、ガラガラと崩れ去っていくのを感じたよ。
そんなわけで、野球を捨てた僕は、大学進学をする事になった」

そう言うと加持は、チラッとアスカの方に目をやった。
しかしすぐに前に視線を戻した。

「当時は野球に打ち込んでばっかりだったから、全然勉強してなくてね。
でも、もともと頭は悪い方じゃなかったから、それからの猛勉強でどうにかなったんだけど」

「じゃあ、大学に入ってから小説を書き始めたんですか」

「うん。でも最初に書いたのは大学4年の、
ちょうど今頃・・・・・・いや、7月の終わりごろだったかな」

「それじゃあ、就職活動はとっくに終わって落ち着いた頃ですね」

「いや、僕は就職しなかったんだ。入ったのは商学部だったのにね」

「どうして?」

「高校の時のことを引きずっていたのかもしれない。
もっと言うと、漠然と嫌だったんだな、就職するっていうのが。
そこで、もともと文章を書くのが好きだった僕は、小説に手を出した」

「それを、なにかの賞に応募したんですか」

「そう、そしたら見事大賞受賞だよ」

「・・・・・・でも、不安とかなかったんですか」

アスカはいぶかしげに聞いた。

「これがもし大賞をとれなかったらどうしようっていう風に」

「あ、なるほど・・・・・・」

加持は小さく何度も頷いた。

「いや、そんな不安はなかったね。もう、すごく自信があったんだよ」

「すごいですね。私も初めての作品で賞をもらいましたけど、
絶対取れるなんて自信は全然起きませんでしたよ」

「実はその作品はね、実際に起きた事件を元にして作ったんだ。
それはいまだに解決されていない事件なんだけどね、
犯人の視点で書いたら審査員の興味を引いて、見事受賞ってわけ」

「へえ・・・・・・どういう事件だったんですか」

「それは後で話すよ」

思わせぶりな加持の言葉を不思議に思いながら、アスカは外を眺めた。

車は、いつの間にか有名ホテルの地下駐車場に入ろうとしている所だった。

「あの、ここに何か用事でもあるんですか」

真っ先に家に送ってもらう予定だったアスカは、やや咎めるように聞いた。
加持はアスカのほうを向いて言った。

「せっかくだから、食事も一緒にどうかなって。別にいいでしょ」

「でも、アタシ・・・・・・」

「大丈夫。ホテルに来たからって、ただ食事するだけだからさ」

強引に連れてこられてしまったアスカは、抵抗の余地なくホテルの最上階にある、
展望レストランまで行く事になった。




6.愛に飢えた殺人者

社に戻った碇シンジは、残っていた仕事が早めに切り上がったので、
惣流アスカの最新作、『愛に飢えた殺人者』のゲラを読みかえしていた。

その内容は、結婚の現実にウンザリしていた若い主婦が、
中学の同窓会で久しぶりに昔の彼氏と会い、ちょっとした浮気心が、
どんどん深みにはまっていくという単純な流れだった。

しかし、その昔の彼氏というのが、ある殺人事件の犯人だったのである。

その事件とは、1ヶ月の間に、5人もの若い女性が次々と殺されるというもので、
犯行はいつも絞殺で、5人とも美しい女性だった。

男は、愛した女性に対して、首を絞める事が最高の愛情表現だという屈折した人間だった。
そして、その行為自体が、男の快感となっていた。

その男が殺人者とは気付かずに、主婦は関係を続けた。
ところが、ふとした事から男に疑いを持つようになったが、
会うことをためらうことはなかった。

しかし、彼女のぎこちない素振りに気がついた男は、
彼女を離したくないために、新たな犯行に躍り出ようとする。

追い込まれた彼女は、抵抗する事もなく、殺される事を願った。

男は驚いた。
今までの女性は、抵抗するか、観念しても悪あがきのように罵声をかけたが、彼女は違った。
「あなたの為なら死んでもいい」とまで言った。

彼女の言葉に男は感動して、自分の屈折した愛情を悔いた。
ところが、彼女は男の首すじに手をかけながらこう言った――

「私があなたの代わりをしてあげる・・・・・・か」

シンジは、最後の一行を読み上げると、感慨深い表情で天井を見上げた。

「ちょっとホラーっぽいけど、いいなあ。今回も売れるだろうなあ」

シンジの目は天井を捉えていたが、アスカの顔が浮かんでいた。
首を傾けて微笑むアスカの顔がそこにあった。
しかし、突然、別の顔が彼を覗き込んだ。

「イ・カ・リ君」

「あ、綾波さん」

アスカの顔に重なるようにして、綾波レイが現れた。

「終わった?」

「ええ、もう終わりました」

「それじゃ、行こっか」

「はい」

レイは立ち上がるシンジの腕をとると、笑顔で外へ向かった。




7.異変

「そういえば、加持さんのデビュー作の話、聞いてませんでしたね」

加持の車の助手席に座り、シートベルトを掛けながら、アスカは言った。

「あ、そうだったな。さっきはずっと君が喋ってたからね」

車を出しながら加持が答えた。

食事中は、加持がアスカの最新作の事を聞いてきたので、
言って差し支えない程度の事をアスカは話そうとしたが、
聞いているうちに加持が「もっと詳しく」と言うので、結局は大筋を話していた。

アスカの話を聞きながら、加持の顔色が変化していた事にアスカは気がついていなかった。
今も、外が暗くなっていて、表情はあまり分からない。

「さっき、君が話している時に聞こうかと思ったんだけど、
10年前の夏、東京で連続殺人事件が起きたんだ。
女性が5人、暴行され、首を絞められて殺され、遺体は河川敷に捨てられていたという・・・・・・。
君は当時10歳くらいだと思うけど、この事件を知ってて書いたの?」

「いえ、確かにそんな事件があったような気がしますけど、
書いていた時は全然意識しませんでした。そういえば似てますね」

「僕はその事件を元にして書いたんだけど、犯人しか知り得ないような事がたくさん書いてあるよ。
といっても、作り事なんだけどね。かなりリアルに書いたんで、ちょっと問題にもなったんだ」

「どんな風に書いたんですか」

「例えば、実際の事件では犯人は男か女か分かってないけど、小説の中では犯人は男で、
殺した場所は河川敷ではなく、殺した後に遺体を運んだとか、
犯人と女性達がどう知り合って、どう殺人まで至るとか、ありそうな感じで書いたんだよ」

加持はずっと前を向いたまま喋っていた。

「犯人像なんか、君の小説に似てる所があるね。
首を絞める事が最高の愛情表現だという屈折したところなんて、まったく同じだ。
ただね、実際の事件では、5人が殺害された所で急にパタッと事件がなくなるんだ。
君の小説の場合、6人目の犠牲者になるはずだった女性のおかげで潰える事になるけど、
僕の場合、犯人自身が気付くんだ。こんな事をしていてはならないってね」

車は、いつの間にかアスカの住む家の近くまで来ていた。

暗くなった通りを、レトロな感じの趣のある電気灯がぼんやりと照らしている。
しかし、暗い夜道である事に変わりはなかった。
アスカは、いくらか住み慣れた土地でもやっぱり夜は怖い、と思った。

「惣流さん、聞いてるのかい」

窓の外をボーっと眺めるアスカを見て、加持が言った。

「まだ話は終わってないよ」

「あ、ごめんなさい。さっき少しお酒を飲んだから・・・・・・」

車内は暗くてよく分からないが、ワインを2杯ほど飲んだアスカの顔は少し赤くなっていた。
あまりアルコールに強くないらしく、少しの量で気分が良くなっていた。

「こんな事をしていてはならないと後悔した犯人は、一度、自分を殺そうとする」

加持はまた前に向き直って話を続けた。

「しかし、すんでの所で思いとどまるんだ。今まで5人もの女性を殺してきたのに。
彼が女性を殺す時、これは犯罪だ、殺人だという意識はなかったからね。
だから、いざ自分を殺そうとすると引け目と共に恐怖感に苛まれるんだ。
そんな憤りの中で、彼は、もう一生女性を愛さない事を決意するんだが・・・・・・。
僕の小説の中では、犯人は決意の後、死んでしまうんだ」

「えっ」

アスカは驚いてみせたが、何となく話が読めていたので続きが気になっていた。

「僕はここで少し悩んだよ。どういう形で彼を殺そうかとね。
単純に交通事故とか、自力で犯人を突き止めた被害者の家族に殺されるとか、
果ては病に倒れるとか、突然死とかいろいろ考えた挙句、結局自殺にした」

「えっ」

アスカは、今度はしっかり驚いた。さらに続きが気になる。

「本当は事故でも何でもよかったんだ。現実と違う形にすればいいと思ってた」

「・・・・・・それはどういう意味ですか」

アスカは、加持の言葉がよく理解できなかった。

先程まで、気持ちの良い酔いに任せていたアスカは、加持の話にするすると引き込まれていき、
自分の家から遠ざかっている事に気がついていなかった。

「だから、いくら現実の事件を元にしてるからって、
行く末まで同じにしてしまったら、すぐに僕に疑いがかかってしまうから、
あえて犯人を殺すことで、現実と違う形をとったわけだよ」

「あの、アタシまだよく意味が分かんないんですけど」

「分からないか。そうか、ならいいんだ」

加持の口元が歪んだように見えた。

「ところで、君は今、男はいるのかい」

「は?」

突然の話の変わり様に、アスカはまたも理解しかねた。

「いえ、いませんけど・・・・・・それが何か」

「君は大学に通ってるんだろう。共学?」

「そうですけど」

「誰か気になる人とかいないの?」

「別に、いません」

「ふーん」

加持はサングラス越しに、アスカに視線を投げた。
ちょうどアスカの視線とぶつかる。

「それじゃあ、今までにどのくらいの男と付き合った事があるの?」

「・・・・・・答えなきゃいけないんですか」

「答えてほしいね」

どんどん質問を投げかけてくる加持を、アスカはいぶかしげに思った。
次に出てくる言葉がためらわれたが、あえて言い切ってしまったほうが楽なような気がして、
アスカは思い切って言った。

「アタシ、男性と付き合った事、ありません」

「へえ、本当?」

加持は、信じられないという顔をした。

「君みたいに可愛い子が、どうして」

「どうしてと言われても、これまでに一度も素敵な男性とめぐり会った事がない、
というのが理由になるんでしょうか」

「なるほど、理想が高いんだね」

「そんな事はないですけど」

「いいや、そうだよ」

車はいつの間にか停車していたが、アスカは気がついていない。

「僕と同じだね」

「何がですか」

「理想が高いって事だよ」

「はあ」

「君は僕の理想をはるかに越えている」

加持はサングラスを取りながら言った。

「今まで、たくさんの女性と付き合ったけど、君ほどの子はいなかったよ」

加持は笑みを浮かべていた。
対談中は、素敵だなと思った笑顔も、暗闇に溶け込んでいるのもあいまって、
今のアスカの目には、恐怖を感じさせるような笑みに映った。

ふと、加持の肩越しに外を覗き込むと、そこはほとんど暗闇だったが、
どこかの雑木林の中にいるようだった。

「ここは、どこ?」

アスカは身震いした。




8.メッセージ

奇しくも、加持とアスカが食事をしたホテルの最上階のレストランに、
碇シンジと綾波レイがやって来たのだが、ちょうど入れ違いになり、会うことはなかった。

シンジは、レイに勝手に注文をされてしまったが、
普段ならなかなか食べられない料理ばかりを堪能でき、とても満足した。
それでいておごりなのだから言う事なしだった。

食事を終えた二人は、同じホテルの2階にあるバーに移動した。
客が多い割に雰囲気のいい店で、二人はカウンターに並んで腰を降ろした。

シンジはこういうバーに来たことがなかったので、何を頼めばいいのか分からずにいたが、
ここでもレイが助け舟を出してくれて、レモン色のカクテルがシンジの元にやってきた。
ゆっくりと口をつけると、甘みと酸味がほどよく溶け合って、なかなかおいしかった。

「碇君」

青く透き通ったカクテルがたたえられたグラスに軽く口をつけてから、レイは言った。

「碇君って、彼女いるの?」

「いるように見えます?」

シンジは、苦笑いを浮かべていた。

「あ、いないんだ」

「ええ、まあ」

「ふーん」

レイはカウンターの上で腕を組み、上目づかいでシンジを見た。
何だかうれしそうな表情である。

「何ですか、その顔」

「いえね、碇君って、うちの女子社員の間で結構評判なのよ。知ってた?」

「えっ、本当ですか」

シンジは身を乗り出すように、レイに寄った。

「どんな評判が立ってるんですか」

「頼りない所が母性本能をくすぐって、守ってあげたくなっちゃう、とか」

「はあ」

「あれ? うれしくないの」

「頼りないって思われてるんですか、僕」

「あー、そっか。男としてはちょっといい気はしないよね。
でも、いい意味で言ってるのよ。みんな『かわいー』って言ってるし」

「そうなんですか。初めて聞きました」

『かわいー』に釈然としないシンジは、憮然とした表情になった。

「あはは、碇君かわいー」

レイの屈託のない笑顔に癒されるよりも、からかわれたと思ってシンジはムスッとした。

「もう、『かわいー』でいいですよ」

「あはは、ごめんね」

どうやらレイは酔っ払っているようだった。
頬がほんのり赤く染まり、笑顔が絶えることを知らない。
そういえばさっき、レストランで、レイはワインを何杯も飲んでいた。
シンジは酒をあまり飲まないので、1杯だけにしていた。

「ねえねえ、碇君」

レイはシンジの腕を取った。

「彼女いないんなら、私がなってあげよっか」

「あ、綾波さん、勘弁して下さいよ」

シンジはレイの腕を振り払おうとするが、レイはまったく離れようとせず、
アルコールのおかげでトロンとした、それでいてつぶらな瞳をシンジに向けた。

「遠慮しなくていいのにー。ねえ、この後どうしようか」

「僕は帰ります」

「あー、つめたーい。ねえ、いいじゃんいいじゃん」

何が『いいじゃん』なのかはあえて聞かなかったが、シンジはとりあえず応じなかった。

このままだと、どんどんからまれそうなので、シンジの方から切り上げて帰る事にした。
レイはつまらなそうな顔をしていたが、エレベーターで地下の駐車場まで降りるとき、
二人きりになったところを見計らって、シンジにキスをした。

ほんの一瞬の出来事だったので、シンジは何もする事が出来なかった。
ただ、その状況を受け止めただけで、思考は停止していた。

レイは「えへへ」と照れ隠しの笑いを浮かべて、そそくさとエレベーターを降りていった。

シンジは、レイの車でここまで来たので、急いで後を追っていったが、
いまさっきの出来事を考えると、一緒にいる事が気恥ずかしく思えて、
レイの車には乗り込まず、タクシーを拾って帰る事にした。

「それじゃあ、また明日ね」

「はい、気をつけて」

表に出て、窓ごしに別れの挨拶をかけると、レイの車はネオンできらめく街の中へ消えていった。
完璧な飲酒運転なので、シンジは心配したが、運転席に着いたレイは、
先程の酔い振りとは一転して、いつもの顔をしていたので、少し安心した。

だが、かすかに残る唇の感触を思い出すと、シンジは照れて顔を緩めた。
もちろんキスは初めてではなかったが、あれほどの美人にされたのは初めてで、
思いのほか興奮が抑えられなかった。

しかし、相手は酔っていたのだから、その勢いか、ほんの冗談だろう。
そういう風に考えると、シンジはいくらか落ち着きを取り戻した。

タクシーはすぐに拾えて、自宅のマンションへ帰るだけとなった。
いまは午後の10時ちょっと前。
帰って、風呂に入って、あとは寝るだけ。
疲れた脚を、前の座席の下に潜り込むように伸ばし、身体をダランともたれかけた。
タクシーの走る振動が心地よく、シンジの目はトロンとしてきた。

その時、カバンの中から、トゥルルルルというけたたましい音が鳴り響いた。

運転手は「ワオ」と驚き、シンジも身体をビクンとさせた。

シンジは一言謝ってから、急いでカバンを探り、折りたたみ式のケータイを取り出した。
いつもはマナーモードにしてあるはずが、この時はなにかのはずみで解除されていた。
その音量は最大になっていて、カバンの中からでもかなりの音だった。
今までよくも鳴らなかったな、とホッとしつつ、シンジはケータイを開いた。

『メッセージを受信しました』

という表示がなされてあり、それを開くと、惣流アスカからのメールが着ていた。

「あれ、惣流さんだ」

シンジのケータイの番号もアドレスも、名刺に書いてあるので知っているはずだが、
一度も電話やメールをよこした事がないアスカからのメールに、シンジは驚いた。

不思議に思いながらも、一体どんな内容なのか期待しつつシンジはそのメールを開いた。



『たすけつ』



本文に、ただそう書かれてあるだけだった。

「たすけつ?」

何の事だかサッパリ分からないシンジは、差出人を確かめた。
が、やはりアスカからのメールである。

「何だ、『たすけつ』って」

「どうかしましたか、お客さん」

後ろの様子が気になった運転手が声を掛けてきた。

「いえ、別になんでもないです」

シンジはバックミラー越しに運転手の顔を見ると、平静を取り繕った。
しかし、再びケータイのディスプレイに目を落とすと、意味の分からない言葉に顔を歪めた。

(たすけつ・・・・・・たすけつ・・・・・・何だろう、全然分からないぞ。
惣流さんはこんな変な事する人じゃないと思ってたのになあ。
どういう事だ、たすけつって。多数決じゃないよな、もっと意味分かなくなるし)

シンジはケータイとにらめっこしながら、ぶつぶつ呟いた。

(そうだ、電話して直接聞いてみればいいじゃないか)

「すいません、ちょっと電話掛けてもいいですか」

「あ、いいですよ」

シンジはちゃんと断ってから、アスカに電話を掛けた。

1コール目が終わらないうちに、すぐにつながった。

「もしもし、碇ですけど、さっきのあれ何だったんですか」

返事がない。

「惣流さん、もしもし、聞いてます?」

返事がない。

「おかしいな・・・・・・」

ケータイを耳から離してディスプレイを見るが、ちゃんとつながっている。
しかし、受話口からは何も聞こえてこなかった。

シンジがもう一度耳に当てて呼びかけようとした時、

「ほら、相手が心配してるよ。何か言ってあげたらどうだい」

という男の声が小さく聞こえてきた。

さらに、ハッと息を呑む声もかすかに聞こえた。

男の声はすぐに加持リョウジのものであることが分かった。
電話の向こうで、一体何が起こっているのか、シンジにはまるで分からないが、
もう一度ちゃんと呼びかけてみた。

「惣流さん、聞こえてますか。加持さんと一緒なんですか」

しかし返事がない。

さっきから何度も電話で呼びかけるシンジの様子を、
タクシーの運転手はバックミラー越しに、いぶかしげにチラチラと見ていた。
シンジはその視線に気付きもせずに、何度も呼びかける。

と、ついにアスカの言葉を聞く事が出来たのだが、その言葉は――

「たすけて」

アスカの悲痛な叫びが、シンジの耳元で響いた。




9.再犯

≪加持リョウジの書記≫

獄中から書き物の仕事を頼まれるとは思っても見なかったが、
どうせこの先短い運命にあるのだから、全てを明らかにしておこう。
謎を残したまま、というのも乙なもんだが、それは俺の性に合わないからちゃんとハッキリさせる。

実のところ自分を『僕』と呼ぶようになったのは10年前の事件の後からだ。
姿形は同じでも、違う人間として生きようと『俺』から『僕』に変えたのだった。
ただ、やはりそれも俺の性に合わかった。だから『俺』という表現を使わせてもらう。

野球ばかりに打ち込んできた少年時代。
頭の中は野球の事しかなかった。
それほど野球を愛していた。
だから、挫折した時のショックは人一倍、いや、二倍も三倍も大きいものだった。

大学へ進むと、野球を奪われた俺は、新たな興味を持ち始めた。

女である。

中学・高校時代、野球部のエースだった俺は、確かに女にモテた。
だが、当時の俺は、女よりも野球、三度の飯よりも野球だったので、
女にちやほやされようが何とも思わなかった。むしろうざったいくらいだった。

野球が俺の中から消えていくと、すぐさま女への興味がクローズアップしてきた。
自分で言うのもなんだが、容姿の良さと、巧みな話術から、すぐに恋人を作る事が出来た。

あえて名前だけにしておくが、最初の女はトモコといった。
大学に入って3ヶ月経った頃、同じ学年の彼女と知り合った。
人目を引くハッキリとした目鼻立ちと、明るい性格の、いい女だった。
ただ、我が強く、ワガママな所もあったが、別段ひどいものでもなく、割とうまくいっていた。

それから4年に上がるまで、特に問題もなく彼女との関係が続いていた。
そして、6月最初の土曜日。
すでに就職の決まっていた彼女と、デートをしていた。
すっかり解放されきっていた彼女は、家に帰らず、
当時アパートに1人暮らしだった俺の部屋に上がった。
もちろん寝るためだ。

男女の行為の最中、トモコに馬乗りになった形の俺は、
ふと、彼女の首を締め付けてみた。
その時、なぜそんな事をしたのか、その心理はよく覚えていない。

彼女の表情は、悦楽にひたっている様だった。
もちろんそれは俺の思い違いである。
苦しそうな顔をしていたに違いない。
だが、彼女が快感を得ていると勘違いした俺は、さらにきつく首を絞めた。

彼女は、喉元を押さえられて叫び声も上げられず、
声にならない声をあげて、急にグッタリとなった。

おそらく、その時俺は、彼女はあまりの快楽に果ててしまったのだと思った。
確かに、その言葉に間違いなかった。本当に果てていたのである。
しかし、俺はまったく恐れを感じなかった。
最高の快楽を手にしたまま、彼女は果てていったのだ、満足だろう、と思っていたのだ。

しかし、このまま社会的生命が絶たれては、
最高の快楽を得る喜びを、世の女に与える事が出来なくなってしまう。
俺はそう考えた。なんとも屈折した人間だ、と今更ながら呆れている。

行為の最中だったため、その痕跡を残す事はなかった。
日付が変わって次の日の深夜に、彼女を綾瀬川の河川敷に運んだ。
あまりにも冷静な姿勢だったので、自分で驚いた事を思い出した。

幸い、彼女は周りに、俺と付き合っていると言う事をまったく公言していなかった。
もちろん彼女の友人と会ったことは何度もあったが、ただの友達だと思われていたようだ。
そういえば確かに彼女は、自分のことをあまり話さないし、
話そうとしても照れて口ごもったりしていた。
だから俺は、ただの友人の1人として、警察から簡単な質問をされるだけで済んだ。

トモコはおそらく知る由もなかったと思うが、俺は他に4人の女と関係を持っていた。

大学2年の春頃、バイト先で、別の大学に通うサキという女と知り合った。
事件の発生順から言えば、最後になるのだが、俺にとっては2人目の女だった。

・・・・・・これから先、個人の事について書くのは面倒だし、
あまり思い出したくないので、省略させてもらう。
あえて2人分の名前を出したが、俺が特に気に入った2人だというそれだけの理由である。

そのサキも、他の3人も、トモコとまったく同じ方法で殺し、遺体を捨てた。
いや、その時は殺すなどという概念はまるでなかった。
まさしくこれが最高の愛情表現だと思い込んでいたのだ。
5人も殺しておきながら、まるで足がつかなかったのは警察の怠慢ではなく、
俺自身の巧みな工作だという風に思っていた。自信過剰である。

・・・・・・と、ここまで書いてきて、かなり自己嫌悪に陥っている自分がいる。
かといって、今の俺が正常な認識力を持っているかというと、そうとも言いがたい。
そんなことはどうでもいい。続きを記そう。
などとわざわざ書いている時点で、俺が正気でないのは一目瞭然だろう。
だが、わざとやっているわけではない。続きを急ごう。

俺は、急に殺人を犯す事をやめた。
屈折した俺を改めさせてくれたのは、最後に殺したサキだった。

彼女の首を絞めた時、彼女はかすれた声でこう言った。

「あなたに殺されるのなら、私かまわない」

それが本心から出た言葉かは分からないが、俺はとにかく感動してしまった。

だが、その感動はほんの一瞬で、俺は別の事に気がつき、ハッとなった。

俺は殺人を犯していた――

その時になって、ようやく俺は自分を取り戻した。
相当俺の精神状態はおかしくなっていたのだろう。
よくも不安がられなかったものだ。

気がついた時には、すでにサキの息はなかった。

その時、確かに俺は罪を悔いたが、だからといってこのまま自首をしようなどとは考えなかった。
自分を変えよう、などと思い、この屈折した精神を抑える方法はないかと考えた。

まったく、屈折した精神を抑える方法を考えていたはずなのに、
この事件を元にした小説を書こうなどと思いつくとは、俺は俺のままだった。

それを綾波書店の文学大賞に応募した。
大賞を取れる自身は大いにあった。
なにせ、事件の犯人自身が書いているのだから。

おかげで、俺はいつの間にか有名人になった。
これが俺の狙いだったのだ。
有名になれば、社会的体裁を気にする俺にとって、
もうあの様な事は出来まいと考えたのだ。

狙いは見事だった。
しかも、それから付き合った女性はすべて人気女優で、
それならば、俺も例の屈折した行動に出る事は避けられる、と安心していた。

もちろん、俺はおかしな行動は一度足りともなかった。

なかった、と言いたいところだが、
10年も我慢していたのに、俺は思わず手を出してしまいそうになった。

つい最近まで関係のあった、女優の霧島マナに対して、
久々にあの歪んだ精神が見え隠れしたのだ。

彼女を優しく抱いていたはずなのに、いつの間にか首すじに手を掛けている自分がいた。
大きな声で驚いた彼女のおかげで、俺も我に返ることが出来たのだが、
その場はどうにかして取り繕えたので、安心した。
そして、どうして今になって再発したのか、と考えた。

その答えは、惣流アスカだった。

彼女の本をはじめて読んだ時、著者近影に彼女の写真を見ると、
俺は言いようのない衝撃を受けた。

今までに付き合ってきた女など、比べ物にならないその美貌に、
俺は一瞬にして虜になった。

どうにかして彼女と接触したいと考えた俺は、ファンレターを送ってみた。
それならば、不躾と取られないだろうし、確実にこちらの意思が伝わるだろうと思ったからだ。

対談の話は願ってもない事だった。
もちろん二つ返事で承諾すると、俺ははやる気持ちを抑え切れなかった。
それが、霧島マナに出てしまったのだろう。

実際、惣流アスカに会ってみると、俺の気持ちが高まるのが自分で分かった。
この女を、俺のものにしてやる・・・・・・と。

しかし、俺の中のどこかに、10年間で培ったまともな自分がまだ生きていた。
だから、抑えられるだろうと思っていたのだが、彼女の話を聞いてすべてが切れてしまった。

彼女の最新作の話が、俺の起こした事件にそっくりだったのである。
犯人の性格まで同じだったので、激しく動揺した。
もちろんその素振りは気付かれないようにしたつもりだったが・・・・・・。

彼女の言葉を聞いているうちに、俺の中でスイッチが切り替わってしまった。

俺は、また元の俺に戻ってしまった――




10.告白

「惣流さん、すごいですよ。増刷に次ぐ増刷。200万部突破も時間の問題ですね」

「そう」

電話の受話口から聞こえるシンジの明るい声に、アスカはそっけなく返事をした。

「あれ? どうしたんですか、惣流さん」

「ううん、別に」

「あ・・・・・・すみません、僕ちょっと無神経でした」

加持の事件を思い出して、シンジは謝った。

事件が起きてから、1ヶ月が経とうとしていたが、アスカはまだ引きずっている様子だった。

「いいえ、いいのよ。もう大丈夫だから」

「ほんとですか」

「うん。それに、碇さんにはすっごく感謝してるんだから」

「あ、いや、僕はただ・・・・・・」

電話を通しても、シンジの顔が赤くなっている事が分かった。
その時、シンジはあの事件の事を思い出していた――

シンジのケータイから、アスカの声で「たすけて」と聞こえてきてから、
急いでアスカの居場所を突き止めようとした。

が、居場所などまるで分かるはずもなかったが、
タクシーの運転手に――もちろん事情は伏せて――アスカの家のほうへ行き先を変えるよう頼んだ。

ところがその途中、ある雑木林の近くの交差点で、赤信号につかまった時、
偶然にもシンジは、雑木林の中に、車が停めてあるのを見つけた。
すでに夜の10時を過ぎていたが、月明かりに照らされて、
黒光りする車体が暗闇の中に浮かび上がっているのを見つけたのだ。
明らかに不審な場所に停めてあるその車を見ると、シンジは直感的に「あれだ」と思った。

テレビドラマのようなこの偶然性が、結果としてアスカを救う事になったのだが、
シンジもアスカも、いま思えば、恐ろしいほどの偶然に首を傾げるばかりだった。

車内では、加持がアスカにかぶさるようになっていて、
アスカが首を絞められているのが見えた。

シンジは助手席側のドアを勢いよく開けた。
ロックが解除されていたのは、アスカが逃げ出そうとした時に開けられていたためだった。

その瞬間まで、シンジの存在に気がつかなかった車内の二人は、
一瞬固まった表情でシンジを見た。

だが、すぐに二人の表情はまったく対称的に変わった。

アスカは、シンジが来てくれた事のうれしさに涙を浮かべ、
加持は、邪魔者は消えうせろ、と言わんばかりの歪んだ表情だった。

一瞬の隙をついて、シンジはアスカを救出する事に成功した。
そして、停めてもらっておいたタクシーまで急いで駆けると、その場を後にした。

振り返ってみると、加持は膝から崩れ落ちるように倒れこみ、
ただ呆然とこちらを見ていた。

加持は、シンジが呼んでおいた警察に、その場で逮捕された。
そのニュースは、一面のトップを飾るほどの反響だった。

そのニュースも手伝って、惣流アスカの最新作、『愛に飢えた殺人者』は、
初版で50万部を突破し、今までの作品の中でも最高の売り上げを見せている。

シンジが後になって、アスカから聞いた話だが、
最初に『たすけつ』というメールをよこした時の事である。

あの時すでに、加持は自分が10年前の事件の犯人である事をアスカに告白していた。
身の危険を感じ取ったアスカは、バッグに手を突っ込んだまま、
ケータイを開き、加持に感づかれないようにシンジにメールを出したのだった。
しかし、途中で加持が襲いかかってきそうになり、反射的に送信ボタンを押したため、
『たすけて』が『たすけつ』のままシンジの元に送られてきたのである。

そしてその後、シンジから電話が掛かってきた。
おかげでケータイをいじっていた事が加持にバレたが、
結果的には、シンジに異変を気付かせるものとなったのだった。

「ほんとにありがとう、碇さん」

アスカは、明るい声を出してみせた。
電話の向こうのシンジは、照れくさそうに「あ、どうも」と呟くだけだった。

アスカは急にかしこまって呼びかけた。

「あの、碇さん」

「はい」

「あの・・・・・・」

「何ですか」

「あの・・・・・・」

「どうしました」

「あの・・・・・・」

「惣流さん?」

シンジのいぶかしげな声が聞こえてくる。

「どうしたんですか。何か言いたい事があったら遠慮なく言って下さい」

「あの・・・・・・」

アスカは依然として口ごもっていた。
が、ようやく言葉を口に出した。

「これからも、ずっとずっと、私の担当でいて下さい」

そう言うと、アスカは、咄嗟に受話器を切ってしまった。
「あ、惣流さ・・・・・・」というシンジの言葉を残して、電話は切れた。

アスカの胸は、動悸がしていた。
顔は赤く染まり、呼吸が少し乱れている。

気持ちを落ち着けると、アスカは呟いた。

「言っちゃった・・・・・・」

『好き』という言葉を素直に言えないアスカの、精一杯の告白はシンジに届いただろうか。
もし、この後すぐ電話が掛かってきたら、おそらく届いていなかったのだろう。

アスカは、恐る恐る電話機から離れていった。

トゥルルルル。

アスカの身体はビクンとして、固くなった。
ゆっくりと電話に近づくと、シンジからの電話だということが分かった。

届いていなかった――

そう思うと、アスカは出るのをためらった。
これ以上ないというくらいの一大決心だったのに、さっきのは何だったんだろう。
どんな声で電話に出ればいいか分からなかったが、しぶしぶ受話器を取った。

「もしもし、惣流です」

その声はひどく落ち込んでいた。

「あ、惣流さん。よかった、急に切れちゃったから」

シンジの声はさっきと変わらないテンションだった。
しかし、それは今だけの事だった。

「惣流さん」

急にシンジの声が緊張した。

「あの・・・・・・これからも、ずっとずっと、惣流さんの担当でいるつもりです。
ずっとずっと、惣流さんのそばにいても構いませんか」

「えっ」

アスカの目が大きく開いた。

「あ・・・・・・はい」

小さく呟くと、アスカは力が抜けて、受話器を落としそうになった。

「惣流さん」

耳から離れた受話器から、シンジが呼びかける。

「僕の編集者としての用件はさっき伝えた通りのことです。
それで、ここからは僕個人の勝手な用件なんですけど・・・・・・」

シンジは少し間を置いてから言った。

「もしよければ、一緒に食事でもどうですか。
僕、今日は6時には仕事が終わる予定なんですけど」

「・・・・・・はい」

アスカの目は、どこか一点を見つめていたが、焦点は合っていなかった。

「よかった。じゃあ、6時半にお伺いします」

「えっ、うちに来るんですか」

「ええ。あ、もしかして、外で食事する方がよかったですか」

「え?」

アスカはシンジの言っている意味がよく分からなかった。

「それじゃあ、どこで食事を?」

「僕のうち、というのはダメですか?」

「ダメなんて、そんな事ないけど・・・・・・」

「それじゃあ、6時半に、車で伺います」

「車?」

アスカは驚いた。

「車持ってたの?」

「ええ、最近やっと購入したんですよ。中古車ですけどね。それじゃあ、後で」

シンジの方から電話が切れた。

アスカはしばし受話器を耳に当てたまま、呆然としていた。

そして、我に返ると、アスカの顔は次第に緩み、喜びを噛みしめるように手を強く握った。

「やったあ!」

アスカは、これ以上ないくらいのうれしさを声に上げた。

大きく響いたその声は、部屋の外まで十分に届いていた。
執事の冬月は、突然聞こえたアスカの叫びに、心配そうな声で呼びかけた。

「どうかしましたか、お嬢様」

冬月の声は、いまのアスカにはまったく届いていなかった。




終わり




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

すげー長ったらしいのを書いてしまいました。
しかも、ほとんどオリジナルと言ってもいいような内容です。

最初は普通にLASでいこうと思ってたのですが、
何かひねりを入れたいと考えた結果、サスペンス調になってしまいました。
つまり、出だしの部分は後になって付け加えたものになってます。

『いいひと』加持さんには、今回悪役になってもらいました。
加持さんしか適役がいなかったもので、仕方なく引き受けてもらう事になったのです。
すみませんでした、加持さん。

いやー、一日2ページずつ位しか書けていなかったので、
これには結構な日数をかけてしまいました。
短編って難しいですね。

ではではまたまた。


マナ:まさか、あの加持さんがねぇ。

アスカ:簡単に人は信用しちゃいけないわね。

マナ:アスカが単純過ぎるのよ。

アスカ:だって、親切で送ってくれるんだと思うじゃん。

マナ:人の車なんか、すぐ乗っちゃダメよ。

アスカ:ほんとよねぇ。下心どころか、殺意があったなんて・・・。車は恐いわ。

マナ:葛城さんの車なんか、殺意がなくても、加持さん以上にデンジャラスだしさ。

アスカ:っていうか、あれに自分から乗ろうってヤツは、自殺願望があるヤツだけだってば。
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