1.死の憂い


碇シンジはその瞬間、言いようのない恐怖に襲われた。
目前に迫った、視覚的な恐怖ももちろんだったが、
頭に大きく浮かび上がったのは、愛する者を失う怖さだった。

正確には、その人自身を失うのではなく、その人の記憶を失うという意味である。

『あの世』という世界が死後に待っているのか、そんなことは知らないが、
自分の生命が絶たれた瞬間、愛する人の記憶が消えてしまうのではないかと恐怖した。

そして、もう一つの恐怖が頭をよぎった瞬間、彼の生命は途切れた。

そのもう一つの恐怖とは・・・・・・
愛する人の、自分に対する記憶が薄れていってしまわないか。
これだった。

高校2年の夏休み最終日、8月31日。
碇シンジは、帰らぬ人となった。




その日の早朝、東京の閑静な住宅街にたたずむ碇宅の一室で、信じられない事態が起こった。
それは、碇シンジの部屋で起こった。

2階の自分の部屋で眠っていたシンジは、突然金縛りにあったような感覚を覚えた。

夏休みということもあって、遅寝遅起きが完全に定着していたのだが、
そろそろ学校が始まるので、さすがに夜の1時前にはベッドに入っていた。

だから、特に睡眠時間に関して欠いているわけでもないのだが、
金縛りにあったように身体が動かせなかった。

最近疲れるようなことをした覚えがないので、原因はサッパリ分からない。

シンジは、目をつむったま、ベッドの中で身動きが取れないでいた。
しかし、彼の網膜は何かをとらえていた。


            *      *      *


それは夢だった。
いや、実際には意識があるので、単なる幻想である。

いま、シンジは自分のベッドの上に横になっている。それは現実と同じだった。
ただし、彼の隣に、髪の長い女性が背を向けて横になっているのは幻想である。

シンジは幻想の中の女性に声をかけた。

「アスカ」

アスカと呼ばれた女性が、クルッとこちらに顔を向けた。

「あ、シンジ、おはよ」

トロンとした目を、猫がやるようにかきながら、彼女は笑みを浮かべた。

惣流アスカは、シンジの幼なじみで、かつ恋人である。
中学2年までは、アスカはシンジの世話焼き女房のように振舞っていたが、
3年に進級してからは、シンジを男性として意識するようになった。

ちょうど中学2年までは、2人の身長は一緒だったが、
3年になってから、シンジの背が急激に伸び出し、体つきも青年らしくなってきた。
性格はまったく変わっていなかったが、外見の変化がアスカの心を動かす要因となった。

しかし、2人が恋人として付き合うようになるのはもう少し先のことだった。

2人とも都立の高校に進学し、最初の夏休み、しかも最終日がその日だった。

想いを打ち明けたのはアスカのほうだった。
シンジはそれを聞くと、驚きの表情を浮かべたが、すぐに引っ込めて、
満面の笑みをアスカに向けた。それが彼の精いっぱいの返事だった。

ただの幼なじみから、恋人へと関係がステップアップしたのをきっかけに、
2人の仲は急速に深まっていった。

いま、ベッドの上でシンジを見つめるアスカは、シーツにくるまっているが、
その下にはしなやかな肢体を持つ彼女の裸身がある。
シンジも同じで、何も身につけていなかった。
カーテンの越しの太陽の光に照らされ、シーツに2人の身体の影が映し出されている。

「ねえ、シンジ」

甘えた声を出しながら、アスカは身体をシンジに寄せた。

「『おはようのキス』しよう」

アスカは、シンジに返事をさせる間も与えずに、そっとくちびるをシンジのくちびるに当てた。
小鳥がつつくようなほんの少しだけ触れる程度のキスだったが、温もりは十分に伝わってきた。

ふふっ、と笑みをこぼしながらアスカはシンジの胸に顔をうずめた。

「う〜ん、シンジのにおいがする」

「ぼくのにおい? どんなにおいがするの」

「なんてゆーのかな」

シンジのほうに顔を向けると、アスカはにこにこ顔で言った。

「あったかくて、あったかいの」

「あったかくて、あったかいのか・・・・・・よく分かんないな」

「よーするに、チョー気持ちいいってこと」

「においが気持ちいいの?」

「そう、気持ちいーの」

アスカは、鼻から抜けるような甘ったるい声を出したが、イヤな気だるさはなく、
シンジはこうしたアスカの声が好きだった。

こんな声を出すのは、こうして2人きりでいる時だけだった。
普段は、以前とたいして変わらない接し方だったが、2人きりになると甘えだす。
他人には見せない一面を自分だけに見せてくれることが、シンジはうれしかった。

「アスカ、好きだよ」

アスカの頭を優しく撫でながら、シンジはそっと囁いた。

「なあに、突然」

アスカはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に変わった。

「何となく、言ってみたかっただけだよ」

「ふ〜ん・・・・・・でも、うれしい」

シンジの胸の辺りからアゴ辺りまで顔を近づけるとアスカは、
今度はシンジの首筋に顔をうずめた。

アスカの吐息が首にかかって、シンジはくすぐったさに身をよじらせた。

「くすぐったいよ、アスカ」

シンジは声に出して訴えたが、アスカは構わずに耳元で囁いた。

「アタシも大好きだよ、シ・ン・ジ」

アスカは自分の身体を腕で持ち上げ、仰向けになったシンジと顔が向き合う格好になった。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、くちびるが触れ合おうとした瞬間――

シンジは現実世界に引きずり込まれた。


            *      *      *


頭の中でアスカとじゃれあっていたシンジは、目を開けたとき、
その状況に一瞬、何が起こっているのかが分からなかった。

いまさっき見ていた幻想によって、身体が動かない事をすっかり忘れていた。
それは最初、金縛りにあったのだと思われた。
だが、いま、ハッキリとそれを否定した。

シンジは、確かにベッドの上に仰向けになっていた。
おそらく昨日から着たままの寝巻きをまとっているだろう。
しかし、それを確認することは出来ない。

なんとシンジは、ロープのようなものでベッドと一緒に縛られていたのだ。
口元はタオルの猿ぐつわを噛まされていて喋れない。
まるで非現実的な状況に、シンジはしばし天井の上に視線を泳がせた。

とりあえず首だけは動かせたので、周りの状況を確認してみた。
すると、全身黒ずくめの人物が2人、シンジの足元と、部屋の窓際に立っているのが見えた。

「んー、んー」

悲鳴を上げようとしたが、噛まされたタオルに声のほとんどが吸収されてしまった。

「お、目が覚めたようだな」

2人いるうち、窓際にいたほうの人物が口を聞いた。
その声からして男のようである。渋めだが、若い声だ。

「おはよう、碇シンジ君」

男は黒の覆面型ニット帽をかぶっていて、目と口が少し覗いている。
銀行強盗がかぶったりするようなアレだ。シンジの恐怖が募った。
動きやすそうな、ピッチリとした服装で、手袋もはめている。
シンジの近くに立つと、男は穏やかな声で言った。

「念のため、こうして君を拘束させてもらったけど、少し苦しかったかな。
それから、いきなりこんな格好の人間が現れたら驚くのは当たり前だから、謝っておこう」

シンジは、口が聞けないかわりに「お前たちは誰なんだ」という風に目で訴えた。

それを察知した男は、覆面の下で口元を歪めているのがよく分かるほど、
イヤミたらしい笑みを浮かべて言った。

「おれたちが誰なのか聞きたいんだろう。残念だけど、教えられないよ。
・・・・・・いや、どうせだから教えてもいいかな」

男は意味あり気に言葉を言い換えた。

「いや、やっぱりやめとこう。秘密は守るものだからね。安易に教えられない」

男の言葉に、シンジの足元に立つもう1人の人物がホッとしたような雰囲気を呈した。
そちらの人物の性別はまだ分からないが、スラッとした感じが女性のように感じられた。
男と同様の格好をしていて、その手には何か黒いものが握られていた。
全身黒ずくめなので、黒の中に溶け込んでそれが何なのかは分からない。

だが、シンジは直感的にそれが何かを悟った。

(まさか・・・・・・拳銃)

そう思ったら、もうそれは拳銃だとしか思えなくなってきてしまった。
シンジは身動きの取れないベッドの上で震えた。

「ふふふふ」

男が突然含み笑いをした。

シンジの身体がビクッと波打った。
彼は見ていなかったが、もう1人の人物も同じようにビクッとしていた。

「いやいや、まったく理不尽だね。君に同情するよ」

男の言葉の意味は正確には分からないが、『同情する』と拳銃のことから、
これから自分は殺されるのだろうな、と推測できた。
『殺されるのだろうな』と、客観的に思っていないとどうかなってしまいそうだった。

「恨むなら、おれたちじゃなくて君のオヤジさんを恨むんだよ。
おれたちを恨んでもまったく意味がないし、的外れだからね。
絶対に化けて出てこないことを約束してくれるかな」

と、男は笑いながら、もう1人の黒ずくめの人物にアゴをしゃくって合図をした。

何の合図かは、シンジにもすぐに分かった。

「悪いけど、これは仕事だから」

もう1人の人物が、拳銃をシンジの顔面に向けて呟いた。
その声は女性のものだった。こちらもわりと若い声だ。
だが、シンジはそんなことに注意する余裕がなかった。

(父さんを恨めってどういう意味だよ。どうしてぼくが死ななきゃならないんだ。
母さんはいまどうしてるんだ。父さんは一体どこにいるんだ。こいつら一体何者なんだ)

自分に向けられた銃口を見つめながら、シンジは次々と浮かんでくる疑問を口の中で呟いた。
しかし、その疑問を解決してくれる者は誰もいない。

シンジの父、碇ゲンドウは、おとといから出張に行っていて、帰るのは今日の夜だという。
だから、いま家の中にはシンジと母、ユイだけのはずだ。

シンジは、何よりも母の身を案じた。
自分がこういう状態なのだから、きっと母も同じ目にあっているだろう。

父はいつも寡黙なので、家の中では必然的に母と話をしていた。
いつでも優しい笑みを向けてくれる母が、シンジは大好きだった。
父が一体何をしたのかは知る由もないが、このような状況を引き起こした父が許せなかった。

「さようなら、シンジ君」

女の一言に、シンジはいよいよ覚悟を決めなければならなくなった。
だが、いまの女の言葉に何か引っかかるものがあった。

(どこかで聞いた声だな)

男の声は聞いたことがなかったが、女の声には聞き覚えがあった。
だが、誰の声だか思い出せない。

いよいよ拳銃を持つ女の手に力が入った。
引き金がゆっくりと引かれて、ギッギッと音を立てると、シンジは恐ろしさで目を閉じた。

シンジは、このまま痛みを知る前に気を失ってしまいたかった。

銃口は額の辺りに向けられていたので、そこに弾丸が打ち込まれるのだろう。
どのくらい痛いのだろうか。痛みを感じながら死ぬのだろうか。
頭を直撃したら、ショックですぐに死んでしまうのではないか。
どうせだから苦しまずに死にたい。

そんなことを引き金が引かれる一瞬のうちに思っていた。

すると、ついに聞きたくなかった『音』が耳に飛び込んでこようとした。
だが――

ポン。

なんとも情けない、弱々しい音が拳銃から放たれた。
そして、シンジは額に何かが当たったのを感じた。

蚊が止まったような、というのは言い過ぎだったが、額にはほとんど痛みはなかった。

シンジはまだ自分が死んでいないことを深呼吸をすることによって確認すると、
ゆっくりと目を開けた。

顔の横に、小さなコルクの欠片が落ちていた。

黒ずくめの2人が、ははは、と気の抜けた笑いをした。

(何だこれ、どういうことなんだ)

シンジはこの状況に顔をしかめ、眉間にしわを寄せた。
その表情を見た女が、覆面に手をかけながら言った。

「ごめんね、シンジ君」

やはりその声には聞き覚えがあった。

女は覆面を取り、その素顔を明らかにするとシンジは、

「んー!」

と、驚きの声を上げて目を見開いた。

すると、横にいた男がシンジの猿ぐつわをほどいた。

「葛城さんじゃないですか!」

口が自由になったシンジは、女に向かって開口一番に叫んだ。

葛城と呼ばれた女性――葛城ミサト――は、
シンジの父、ゲンドウが勤める『ネルフ』という会社の社員で、
母、ユイがその『ネルフ』に勤めていた頃の直属の部下だったこともあり、
よく家に招かれていたので、シンジもよく知っていた。

シンジの母は、父とは職場結婚だったが、シンジが生まれた後も働き続け、
辞めたのは、ゲンドウが管理職に就いたとき、ちょうど1年前だった。

父は仕事のことをまったく話さない人間なので、どんな仕事をしているのかシンジは知らない。
母とは、学校であったことや、相談をもちかけるなど、話をよくしたが、
仕事のことを聞いたことはなかった。

「どうして葛城さんが」

シンジはまだ動けない身体を揺すって驚きを表現した。

「ほんとにごめんね。全部あなたのお父さんのせいなのよ」

「父さんの?」

「そう」

「父さんのせいってどういう意味ですか」

「実はね・・・・・・」

葛城ミサトの説明によると、事情はこうだった。

これまでのこと全て、シンジの父、碇ゲンドウがシンジの気を引こうとして仕掛けたものだった。
どうやらゲンドウは、この3日間の出張というのは名ばかりで、
『ある場所』で家族サービスのためのイベントの準備をしていたという。
そして、その場所へ連れて行くために、迎えの2人に変な演出を施させたという。

「あのオヤジ・・・・・・会ったときぶっとばしてやる」

事情を聞くと、シンジはこめかみに青筋を立てて呟いた。

シンジは普通、怒っても『ぶっとばす』『ぶっ殺す』等の暴言を吐かない。
父のことを『オヤジ』と呼んだこともなかった。
それほど彼は怒り心頭におこっていた。

「まあまあ、シンジ君、そう怒らないでやってくれ」

隣にいた男が、覆面を取りながら言った。
その男は、かなりハンサムなマスクで、長い髪を後ろで束ねていた。

「所長はあまり素直にものを言うタイプじゃないから。君もよく知ってるだろ」

男はシンジの父親のことを『所長』と呼んだが、シンジはその肩書きだけは聞いていた。
だから、別に気にとめることはなかった。
ただ、なんの『所長』なのかはまったく知らない。

「ええ、まあ・・・・・・あの、あなたは」

「あ、おれは君のお父さんの下で働いてる、加持というんだ。この葛城とは同僚だよ」

加持という男は、おもちゃの拳銃を持ったミサトを指差した。
ミサトは加持のほうをチラッと見たが、表情を変えずにすぐにシンジの方に向いた。

「怒るなと言った手前で悪いんだけど、実はおれも結構呆れてるんだ」

加持は苦笑しながら言った。

「いくらなんでも、こんな凝った・・・・・・いや、悪く言うとバカげた演出だな。
それをやってくれと言われた時は、正直、心の中で思いっきりため息をついたよ。
もう、呆れ返ったなんてもんじゃなかったな。とにかくビックリした。
すごいよほんとに、なんたって君のオヤジさんは・・・・・・」

「加持」

ミサトが鋭い声で加持の言葉をさえぎった。

「シンジ君に愚痴をこぼしてどうすんのよ」

「あ、そうだな、悪い悪い」

加持は片手を縦に水平にし、それを顔の前にもっていき、片目をつぶって謝る仕草をした。
シンジは、この加持という男に対して、特にイヤな印象を受けなかった。
謝る仕草もわざとらしさが無く、自然な感じに見てとれた。
覆面をつけていたときに見えたイヤミたらしい笑みがうそのようだった。

「いつからここにいたんですか」

加持に向かってシンジは聞いた。

「ぼくが起きたときにはもういたから、7時ごろですか」

「いや、もっと前からいた。6時ごろかな」

「どうしてそんな早くから」

「どうしてだろうね」

と言って、加持はミサトに笑顔を向けた。

「あんた、何か言いたいことでもあるの」

ミサトが鋭くにらむと、加持はまたシンジに向き直った。

「別に何でもありませんよ」

加持の思わせぶりな言葉に、ミサトは憮然とした顔になったが、
シンジはいまいち理解できなかった。

「それじゃあ、ぼくが起きるまでずっと待ってたんですか」

シンジは話題を自分に戻した。

「まあね、準備を整えてからはずっと待ってた」

再び加持が答えた。

「起きるまで待ってあげるなんて、優しいだろ」

「優しさをそんな所に向けないで下さい」

シンジは呆れたように加持をにらんだ。
加持は、あはは、と空笑いすると、また謝るポーズをした。

「あのう」

シンジは疲れた表情で言った。

「これ、そろそろなんとかしてくれませんか」

ベッドと共に身体に巻きつけられたロープの上に視線を落とすと、シンジはため息をついた。


            *      *      *


「母さんはビックリしなかったの」

「いいえ、私は何もされなかったから」

非常識的な朝の目覚めから10分も経っていない午前8時過ぎ。
碇ゲンドウの待つ『ある場所』へ向かう乗用車の後部座席で、
シンジとその母であるユイが顔を向け合っていた。

かなり強い雨風がフロントガラスに叩きつけられ、ワイパーも最速になっている。

「えっ、それじゃあ、ぼくだけあんなことされたの?」

運転席に座るミサトと助手席に座る加持に向けて、シンジは咎めるように聞いた。

「ごめんね」

と、答えたのはミサトのほうだった。

「本当は、当初の計画だとユイさんにも同じようなことをするはずだったんだけど、
いくらなんでもユイさんを怖がらせるのはひどい、って私が勝手に取りやめたの」

「だったらぼくのほうも取りやめて下さい」

「だから、ごめんね、って言ってるじゃない」

「とかなんとか言っときながら、結構楽しんでたよな、葛城」

加持が横から口を挟んだ。

「『さようなら、シンジ君』とか言っちゃって、さながら殺人鬼だったよな」

「何が殺人鬼よ! あんただっていきなり笑い出したりして、気が触れたのかと思ったわよ」

「おれ、結構うまかっただろ、演技」

加持がうしろを振り返ってシンジに笑顔を向けた。
当のシンジは呆れて物も言えない。

「・・・・・・あ、すみません」

加持は、シンジの隣に座るユイの顔を見て、思わず詫びた。
すでに車に乗り込む前にきちんと陳謝をしたのだが、ユイの表情は硬いものだった。

「いえ、あなたたちが謝ることはないのよ」

ユイは、さきほど加持とミサトが礼をして謝った時と同じセリフを言った。

「全部あの人が悪いんだから」

静かな落ち着いた声だったが、夫への軽蔑と怒りを含んだ声だった。

「そうだよ、全部父さんが悪いんだ」

シンジも同調した。

「もしも葛城さんじゃなくて、全然知らない人をよこしていたら警察沙汰になってたよ」

「そうね。自分の家庭を苦しめるなんて、ひどい人」

ユイは作り笑いをみせたが、シンジには怒り心頭の母親の顔にしか見えなかった。
自分の怒りが知れたものに見えるほど、母は怒っていた。

何に対して怒っているのだろうか。
使いの者に勝手に家に上がりこまれたこと。
バカげた演出でシンジを恐怖させたこと。
それとも・・・・・・知らないところでこそこそと妙な計画を準備していたこと?

母子としての仲はとても良かったとシンジは思っていたが、
よく思い出してみると、いつも母の考えていることが分からなかった。

自分に向けられる表情は、笑顔が多かった。
40に手が届こうとしていたが、肌のツヤ、スタイル共に崩れを見せず、
もともと生まれ持った美貌が、歳を重ねることによって深みを増しているようだった。

だが、それはシンジに向けられる顔であり、彼の父、ゲンドウに対しては違った。
いつも冷たい視線を投げかけ、2人の間にはほとんど会話がなかった。
ぼくは本当にこの2人の間に出来た子供なんだろうか、と疑いたくなるほど2人の仲は冷めていた。

夫婦の間がギクシャクしだしたのは、母が勤めを辞めた頃だった。
何があったのかは詳しくは知らないが、不穏な雰囲気は子供にすぐバレてしまうものだ。
シンジはもちろんすぐに気がついたが、取り立てて母に疑問を呈したりはしなかった。
母の口から愚痴を聞きたくなかったからだ。

シンジは、こうした夫婦のすれ違いを見ているから、自分はこうありたくないと思っていた。
愛するアスカと喋るとき、見つめ合うとき、手をつなぐとき、抱きしめあうとき、
キスを交わすとき、常に愛情を注いでいようと思った。
もちろんムリヤリ思うのではなく、心の底から好きだという想いがいつまでも続くように、
という意味である。

母のことは大好きだが、アスカには母のようになってほしくない。
だからこそ、いつまでも仲良くいられるように努力しようと思っていた。

その思いがまもなく断たれようとしていることを、彼は夢にも思っていなかった。

「もう、ほんとにすごい雨なんだから」

運転席のミサトが、重々しい車内の空気を断ち切るように、わざと大きな声で言った。

「おい、葛城。安全運転だぞ、安全運転」

「わかってるわよ。あんたは黙ってなさい」

外のどしゃ降りを見やる加持の心配そうな言葉を、ミサトはピシャリと封じた。

「葛城さん、あんまり飛ばさないでね」

加持のかわりにユイが穏やかに慎めた。

ミサトの運転は、「乱暴かつスピード狂」の定評があり、
それを身をもって知っているから、加持とユイは心配をしていたのだ。

だが、さすがに視界もままならないこの大雨では、ミサトも暴走を沈めざるを得なかった。
しかも、いま通っているのは高速道路ではなく、市街地のど真ん中なので、
前方に何台も車がズラズラと続いているため、スピードの出しようがなかった。

「・・・・・・それにしてもすごい雨だなあ」

シンジが呟いた。

後部座席の窓は、雨が滝のように打たれて外の景色があまり覗けない。
それは、フロントガラスでも同じような状況だった。
最速で動くワイパーもほとんど意味を成していない。

「あっ!」

ミサトが突然叫んだ。

「どうした!」

それに驚いた加持も叫ぶ。

「ハンドルがとられて・・・・・・」

というミサトの緊張した声が響くのと同時に、車内全員の身体が助手席側に引っ張られた。

シンジは母を押し込むように、ミサトは加持につんのめるように身を投げ出された。
そのため、空になったハンドルがくるくると回り、車の自由が完全にきかなくなっていた。
スピードは大したことがなかったが、車内の雰囲気は騒然としていた。

「ああああ、葛城、ハンドルをとれ、とれ、とれ」

加持がわめく。

「きゃああああ」

ミサトはただ叫ぶだけ。

「ああ、ぶつかる、ぶつかる、ぶつかる」

後部座席左側の窓から、ガードレールの端がいまにも飛び込んでくるのがシンジの目に映った。

「シンジ、シンジ」

ユイは、息子の名前を呼び続けていた。

そして、ガシャーンという大きな音を立てて、車が止まった。


            *      *      *


誰も助からなかった。
正確には、1人だけ即死をまぬがれた者がいた。

碇シンジである。

衝撃で気を失っていたのはほんの数秒のことで、すぐに目を開けると、
眼前に何か大きな物体が迫ってきていた。
彼の身体は、全体的に打撲を受けて動かせない状況にあった。

左ドアのほうからガードレールの端に勢い良く突っ込んだ車は、
さらにその近くにあった電柱と正面衝突し、無残な状態でそこにたたずんでいた。

シンジは1人、車の外に投げ出され、車体に寄りかかるように座り込んでいた。
それも、右側のドアである。
彼はもはや車内を見られる身体ではなかったが、中を見ようとはしなかった。
車外に吹っ飛ばされる瞬間、あまりにも残酷なシーンを目撃してしまったからだ。

衝撃で飛ばされたのではなかった。
母、ユイが渾身の力を振り絞って、シンジを突き飛ばしたのだ。
そのとき、シンジは母の最期を見てしまった。

そしていま、彼の目の前に大型トラックが迫っていた。
目の前で事故を目撃したことによる動転と、雨にハンドルをとられたため、
操作機能を失ったトラックが、シンジめがけて突っ込んでこようとしていた。

ああ、終わるんだな・・・・・・と思った。
意外にも、死ぬことの恐怖は、多少なりともあったが、気が動転するほどではなかった。
そして、瞬間的に、シンジの脳裏にアスカの笑顔が映った。
上目づかいで甘えながら、にっこりと微笑むアスカの顔が思い浮かんだ。

早朝の、まさかの出来事の驚きで、シンジはアスカとの約束をすっかり忘れていた。
今日の正午に決めた場所で落ち合い、デートをする約束だ。
しかし、約束はデートをすることだけではなかった。
恋人同士になって1年目の今日、2人は初めて結ばれようということになっていた。
だから、シンジが見た幻想は、想像もしくは妄想といってもよかった。

家を出たのは9時ごろだったから、こちらの用事をすっぽかせば時間的には十分間に合う。
そう考えるとシンジは「よかった・・・・・・」と呟いて、もう一度アスカの顔を思い浮かべた。
その時、彼は言いようのない恐怖に襲われた。

そして、事故車とトラックとの衝突音が大きく響き渡った。




2.悲劇の知らせ


惣流アスカは夢を見ていた。

そのとき彼女は、これが夢だと分かっていた。
だが、のちに二重の意味でこれは夢じゃないと思うようになる。

それは碇シンジが見ていた幻想と同じだった。
アスカはいま、シンジが見ていたところの続きを見ていた。

「うふふ」

『おはようのキス』よりも少し濃厚なくちづけを交わすと、アスカはうれしそうに微笑んだ。
仰向けのシンジも、はにかむように口元を緩めた。

「ねえ」

再びシンジの隣に横になると、アスカは言った。

「なんて名前にしよっか」

「何が?」

アスカの質問の意味が分からずに、シンジはとぼけた声を出した。

「だから、名前だよ」

「何の?」

シンジはまた聞き返した。

「あー、とぼけてるー、昨日あんなに愛し合ったのに」

「えっ、何だよ。何のこと?」

「分かんないんなら言ってあげる。アタシたちの子供の名前よ」

「子供?」

「そう。もし出来たらなんて名前にしようかなって」

「でも昨日は・・・・・・」

安全日じゃなかったのか、とまで言わなかったが、アスカはすぐに察した。

「ごめん、うそなの」

「・・・・・・・・・」

「怒った?」

「・・・・・・・・・」

シンジは天井を無言で見つめていた。

「ねえ、シンジ、なんか言ってよ」

「・・・・・・アスカ」

シンジはアスカの顔を真剣なまなざしで見つめた。
アスカは微笑みながら謝る。

「ごめんね」

「怒ってないよ」

「うそだ、声が怒ってるよ」

「ううん、怒ってない」

そう言うとシンジは、横になったままアスカを抱き寄せた。
お互いの素肌がこすれ合い、温もりがダイレクトに伝わってくる。

「・・・・・・シンジ?」

アスカは突然抱きすくめられて、目をパチパチさせた。

「ねえ、シンジ、どうしたの」

「もし、ほんとに子供が出来たら・・・・・・アスカ、どうする?」

「産みたい」

アスカは即答した。

「だって、シンジとの子供だもん。絶対に産みたい」

「うん」

シンジは頷いた。
その揺さぶりで、アスカはシンジの肩に口をつける格好になった。
アスカの暖かい吐息を肩に感じながら、シンジは言った。

「ぼくも、アスカとの子供が欲しい」

「えっ、ほんと?」

アスカはシンジに顔を向けた。

「ほんとだよ、アスカ。愛してる」

シンジはそっとくちびるを重ねた。
ただ合わせただけのくちびるが次第に激しい動きになっていき、
2人はお互いの口を吸うようにキスをした。

長い長いくちづけを終えると、見つめ合いながらシンジはもう一度言った。

「愛してるよ、アスカ」

そこでアスカは目が覚めた。


            *      *      *


夏休み最後の日、8月31日の朝。
同時に、シンジと付き合い始めてちょうど1年目の朝。
抱いたマクラに顔をうずめたままの格好で、アスカは目を覚ました。

そのマクラは、ちょうど口の当たっていた辺りがよだれで濡れていた。
ハッとなって口元をぬぐうと、今度は自分の格好に驚いた。

ピチッとしたTシャツとショートパンツ姿でベッドに入ったはずなのに、
どちらも下着と共に半分脱げた状態で、ほとんど全裸と変わらなかった。

見ていた夢の内容は全て覚えていたが、ここまで身をくねらせていたという事実に、
アスカは顔を赤らめた。

恥ずかしさを感じながらも、夢の中のシンジが忘れられなくて、
アスカはその乱れた格好のままボーっと天井を眺めていた。

ふと、いまが何時なのかが気になった。
ベッドの横にある机の上に、シンプルなアナログの目覚まし時計が置いてある。
それは、ちょうど10時をさそうとしているところだった。

約束の時間まであと2時間ある。
寝過ぎないでよかった、と安心すると、アスカは身なりを整えて起き上がった。
と、突然――

トゥルルルルル、トゥルルルルル、トゥルルルルル・・・・・・。

階下から、自宅電話のコール音がアスカの部屋まで響き渡ってきた。
2階にいても充分聞こえるように設定してあるので、部屋のドアを閉めていても聞こえてくる。

「・・・・・・何で出ないんだろう」

もう6コール目が鳴り終わろうとするのを聞いて、アスカは眉をひそめた。

アスカにとっては今日はまだ夏休みだが、父にとっては平日である。
だから、会社へ行く父を見送る母もとっくに起きているはずなのに、一向に電話が取られる気配がない。

「もう、めんどいなあ」

他に誰もいないのに、まるで聞こえよがしのように大きなため息をつくと、アスカは部屋を出た。

階段を下りるにつれてコール音が大きくなってくる。
まったく途切れることを知らないその音は、せかすように鳴り続けている。

「はいはい、いま出ますよ」

リビングのドアを開くと、音はひときわ大きくなった。
1階にいるときに突然電話がかかってくると、思わず身体がビクンとするくらい大きな音である。

「あれ、ママ。いるなら出てよ、電話」

アスカの母は、テーブルのイスにちょこんと座り、テレビのニュースに目を向けていた。
アスカは、まったくもー、という風に鼻息を洩らすと、受話器を取り上げた。

「もしもし、惣流ですけど」

「あ、アスカか、父さんだ」

受話口から父の声が響いてきた。その声はなんだか落ち着かない感じだ。

「パパ、どうしたの」

「母さんはいないのか」

「いるよ。なんかボーっとテレビ見てる」

アスカは母のほうを向いた。
テレビを食い入るように見ている母をいぶかしげに見やりながら、アスカはたずねた。

「パパ、どこからかけてるの」

「会社だ。それよりアスカ、いまテレビを見てるんだな」

「うん、ついてるよ。ニュースだけど」

「お前もよく見ろ」

「なんで?」

不思議に思いながら、アスカは受話器を耳に当てたままテレビ画面に注目した。

テレビでは、交通事故のニュースが伝えられていた。
乗用車にトラックが突っ込み、乗用車は見るも無残な形となっている。
さらにそこへ何台も車が突っ込んだようで、かなり大きな玉突き事故のようだ。

リポーターの様子から、事故現場の様子が生中継で映されていることが分かった。
場所は東京で、ここからそう離れた所ではない。
それは画面隅に出ている字幕から分かったことだった。
さらに、死傷者は少なくとも15人以上出ているらしく、その内5人の死亡が確認されたという。

リポーターが「もう一度お伝えします」と言ってから、その死亡者の名前を挙げた。

まず、最初に乗用車に乗っていたという4人のうち、3人の名前が挙げられた。
3人目に挙げられた名前を聞くと、アスカは思わず受話器を落とした。
「アスカ、アスカ」という父の声が小さく洩れている。

「シ、シンジのお母さん・・・・・・」

碇ユイという名前を聞いた瞬間、アスカは身震いをした。
シンジの母親には悪いが、何よりもシンジのことが気にかかった。

(シンジは・・・・・・シンジもまさかあそこに?)

乗用車に乗っていたのは4人で、挙げられた名前は3人だった。
アスカは、残りのもう1人がシンジのような気がしてならなかった。
すぐにシンジのケータイに電話をして確かめたかったが、リポーターは無情にも事実を伝えた。

『えー、もう1人、乗用車に乗っていた死亡者の男性の身元はまだ分かっていないのですが、
その男性はおそらく10代後半の青年だということです』

そのリポーターによると、5人目の死亡者は乗用車に最初に突っ込んだトラックの運転手だという。

アスカはそれを聞くともなしに聞きながら、視線をテレビ画面に泳がせた。
もう1人の犠牲者の姿が映し出されないかどうかを見るためである。
だが、そんな場面が流れるわけもなく、死傷者はすでに病院に運ばれていたため、
シンジなのかどうかは正確には分からない。

しかし、10代後半というリポーターの言葉がアスカの胸を苦しめた。

「まさか、まさか・・・・・・」

アスカは心配を口に出していた。

床に落ちた電話からはまだ父がアスカを呼ぶ声がしていたが、アスカはすっかりそれを忘れ、
身を震わせながらテレビ画面を見つめていた。

「ア・・・・・・スカ・・・・・・」

アスカの母が、アスカのほうを振り向き、その存在に初めて気がついたように驚いた。

だが、今度はアスカが、母の存在を知らないかのように呆然となっていた。
そして、

「シンジ!」

と叫ぶと、アスカは起きたままの格好で外へ飛び出していった。


            *      *      *


「ユイ・・・・・・」

アスカが家を飛び出したのと同時刻――
都内の病院の霊安室で、物を言わなくなった妻と対面した碇ゲンドウは、
震える手をユイの顔に添えた。

その死に顔はとてもきれいだった。
キズひとつついていないその顔を見ただけでは、死んでいると言われても信じられない。

彼女の死因は身体の外傷だった。
その状態は真っ白なシーツに隠されて見えないが、
医者から説明を聞いたゲンドウはあまりのショックで自分を失いそうになった。
そのくらい、ひどい最期だったのである。

「ユイ・・・・・・」

ゲンドウはもう一度呟くと、メガネを取り、裸眼で妻の顔を見つめた。
ぼんやりと映るその美しい顔が、さらにぼやけてきた。
視界に広がる世界がきらめき、次第に波打つように揺らめいてきた。

それが涙によって引き起こされているのに、ゲンドウは気がついた。
透明な液体が頬をつたって、髭を剃ったばかりのあごまで流れていく。
そのあごでしたたる涙が、震えでしずくとなってユイの顔に落ちた。

それが、ちょうど目の辺りに落ち、まるでユイが涙を流しているかのように頬をつたっていった。

「ユイ・・・・・・すまない」

ユイの眠るベッドに伏し、ゲンドウは声を押し殺して泣いた。

事故の知らせは直ちにゲンドウの元に届いた。
それを聞くと、すぐさま車を飛ばして都内の病院へ駆けつけた。
だが、ユイは事故現場ですでに死亡しており、ここへは遺体となって運ばれてきていた。
息子のシンジもその病院にあった。

シンジのなきがらは、トラックの直撃を受けたため、もはや人の形を保っていなかった。
だから、家族といえども見せられる状態ではない、と医者に言われ、
ゲンドウはシンジと対面することが出来なかった。

ミサトはシンジに、『家族サービスのためのイベントを準備していた』という説明をしたが、
実際は、ただ家族3人で食事をするだけのことだった。
なぜそれだけのために3日も必要としたのか。
それは、碇夫婦の関係の悪化に起因していた。

2人がまだ共に働いていた当時は、会話こそ少なかったものの、それほど冷めた関係ではなかった。
とくに結婚したときは、お互い愛情を持っていたし、相手を思いやる気持ちもあった。
それが年月を重ねることによって、さらにはシンジという子供ができたことによって、
徐々に薄れつつあったのはお互いに分かっていた。

それでも、世間体やシンジの存在から、かろうじて夫婦関係は壊れることなく続いていた。
しかし、その関係はもろく、壊れやすかった。
ちょうど1年前、夫婦間に亀裂が入る事態が起きた。
その原因となったのが、ゲンドウの浮気である。

ミサトと加持の同僚で、赤木リツコという女性がいた。
彼女がゲンドウの浮気相手だった。

ただし、ゲンドウから彼女に手を出したのではなかった。
リツコは、上司としてだけでなく、一人の男としてゲンドウを敬愛していた。
もちろん、彼が妻子ある身であることを承知で。

リツコからの誘いに、ゲンドウはつい乗ってしまった。
彼は、妻の美しさと優しさに引かれてユイと結婚したのだが、
その夫婦生活に、何か足りないものを感じていた。

それは、妻の、自分に対する愛情だった。
自分のあまり物を言わない性格が禍したのか、ユイは夫の自慢やのろけをまるで見せなかった。
口の重いゲンドウですら、結婚当初は会社の連中に小さく妻の自慢をしたものだったが、
ユイはまるでそんな素振りを見せたことがなかった。

ゲンドウは、自分に甘えてくれる存在が欲しかった。
そのため、彼はリツコの誘惑にふらふらと吸い寄せられてしまった。

そんな2人の関係を、ユイが気付かないはずがなかった。
家庭と職場では、きちんと割り切るタイプの彼女は、ヘタに干渉しなかった。
そして、せめてもの抵抗として、辞職をすることにしたのである。

ゲンドウは、リツコとの清算をするために時間を要したのだった。
ユイが職場を離れ、家庭についてから、自分に対する態度がさらに悪くなったのを見て、
すぐに後悔の念にかられた。

だが、リツコに別れ話を切り出そうとするも、非常に執念深いタイプのリツコは、
なかなかゲンドウとの関係を切り離そうとしなかった。
涼しい声で「あなたと別れるくらいなら、死んでやる」とまで言うほどだった。

ずるずる引きずることになってしまった不倫関係も、ようやく終止符が打てたと言う矢先に、
家族の悲劇の知らせが舞い込んできたのである。
ゲンドウは自分を憎んだ。自分を殺してしまいたいほど憎んだ。
しかし――

「・・・・・・私は、きみたちの分まで生きよう」

ベッドに伏せたまま、碇ゲンドウは決意した。
自分勝手な行為で家族と部下を殺してしまった罪を、一生かけて背負うとする決意である。


            *      *      *


アスカは、碇シンジの家の玄関先で激しく動揺していた。

「ねえ、お願い、お願いだから出てきてよお」

インターフォンを何度も押しながら、悲痛な叫びを上げる。
さっきからずっとこうしているのだが、中からは誰も出てくる気配がない。

「シンジ、出てきてよシンジ・・・・・・」

アスカの顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
愛する人の無事を思うあまり溢れる涙だった。
それには、考えたくもない事態を否定しきれない恐怖も含まれていた。

もはやシンジの母親が亡くなったことは事実となっていたので、
アスカは、このドアを開けて第一に出てくるのはシンジだと思っていた。
いや、そういう期待を抱いていた。

「あれ、アスカ。どうしたの」と、シンジが不思議そうな顔で出てくるのを想像していた。
そしてシンジに抱きつき、泣きながら「よかった、よかった」と叫ぶ自分を想像した。
しかしアスカは、それがただの想像で終わるような気がしてならなかった。

恐怖で手足が震えた。インターフォンがまともに押せなくなった。
立つのもやっとというくらい動揺し、涙はとめどなく流れていく。

アスカはとうとうその場にひざまずき、両手で顔を覆い、嗚咽を洩らした。

「シンジ・・・・・・」

希望を捨てたくはなかったが、どうしても最悪のイメージしか浮かんでこなかった。
そんなにシンジが死んでしまったほうがいいのか、と自分を咎めながら、
『シンジ』と『死』を簡単に結び付けている自分に恐怖し、腹が立った。

「アスカーっ」

後ろからアスカを呼ぶ声が聞こえてきた。
振り向くと、彼女の母が駆け寄ってくる所だった。

「アスカ、あなたそんな格好で・・・・・・」

「ママ、シンジが、シンジが出てきてくれないの。ねえ、どうして、どうして」

膝を地面につけたまま母に抱きつくと、アスカはさらに涙が溢れてきた。

「アスカ、とりあえずうちの中に入りましょう。ここにいてもどうにも・・・・・・」

言いかけてから、アスカの母は思い直して言葉を呑み込んだ。

「とにかく帰りましょう、アスカ」

「ねえ、ここにいても、なに?」

アスカは、母の言葉尻を追及した。

「ねえママ、もしかして、ここにいてもどうにも仕様がないっていうの?
ねえ、もしかして、ここにはいま誰もいないの?
どうしてそんなこと知ってるの? シンジはここにいないの?
ねえママ、言って。知ってるんだったら言ってよ」

「・・・・・・アスカ、おうちに入ってから話すから、立ち上がって」

「でも、ママ」

「アスカ、いいから帰りましょう」

なおも食い下がろうとするアスカを、母は優しくたしなめた。

「あなたは少し落ち着かなきゃダメよ。ここにいてはダメ。さあ、立ちなさい」

そういう母の声も、不安と絶望の入り混じった声だったのにアスカは気がついた。
その声色が指し示すものを想像すると、アスカはまた涙が溢れてきた。

アスカの母は、シンジの母親と同期で入社し、特に2人は仲がよかった。
この住宅街に一軒家を建てようと夫に提案したのも、碇ユイが先にここにいたからだった。
2人の間は友情を超えた関係で結ばれていたのだ。
だからアスカは、母の目尻に浮かぶ涙の意味が分かっていた。

母に肩を助けられるように、アスカは自分の家に戻っていった。

そして、ついさっきテレビで明らかになったもう一人の犠牲者の名前を聞いたアスカは、
悲しみと同時に、恐怖を感じた。

頭の中に襲いかかってきた、もう愛する人に会えないという事実への恐怖だった。
アスカは、これは夢だと思った。悪夢だと思った。
同時に、朝見ていた夢こそ現実だったと自分に言い聞かせようとした。
現実から目をそむけようとする、一種の現実逃避を意識的に彼女はしていた。

しかし、アスカは思わぬところからもう一度、夢と現実を混同することになる。
もちろん、まだ彼女は気がついていない――




3.思慕の情


「ヒカリ、どうしたの」

下校途中の並木道を歩いていたアスカは、隣を歩く相手の様子をいぶかしがった。

「はあ〜」

と、ため息をつくのは、アスカの中学時代からの親友、洞木ヒカリである。
彼女は朝からこの調子だった。
いまアスカがしたように問いかけても、「はあ〜」しか口から出てこないのだ。

「ねえ、ヒカリ。いいかげん何か喋ったらどうなのよ」

「はあ〜」

「もー、ため息ばっかじゃ分かんないよ。何か悩みがあるんでしょ」

「・・・・・・聞いてくれる?」

ようやくため息をやめ、ヒカリはうつむきながら呟いた。

「聞く聞く」

アスカは安心して表情を緩めた。

「で、どんな悩みなの」

「・・・・・・恋の悩み」

「ほうほう、いいじゃないの。ヒカリにもとうとう恋の季節が来たのね」

「まあね」

「それで、お相手は?」

「お相手っていっても、片想いだけど」

「ふんふん、どんな人なのよ。同じ学校の人?」

「うん」

「へー。うちの学校に純情なヒカリちゃんのハートを射止められるような男なんていたっけ」

「いたよ」

「ねえ、誰なの。吐いちゃったほうがスッキリするわよ」

「・・・・・・彼はね」

ヒカリは少し濁して言った。

「彼は、全然私のことなんか眼中にないんだ」

「えー、そんなことないよ。ヒカリ、チョー可愛いんだから。
あ、もしかして、喋ったこととかなかったりするの」

「ううん、そんなに多くなかったけど、喋ったことあるよ。いつも挨拶してくれたし」

「え? てゆーことは・・・・・・同じクラスだったりして」

「うん」

「・・・・・・・・・」

アスカは同じクラスの男子の顔を思い浮かべていた。
だが、アスカの主観で見ると、どれも大した顔ではなかった。

「で、誰なの」

そこまで絞り込んだのに、もうお手上げだという風にアスカは回答を求めた。

「アスカもよく知ってる人だよ」

「そりゃ、同じクラスなら知ってるだろうけどさ。もう降参。教えて」

「ねえアスカ」

ヒカリは答えずに、逆に質問をした。

「絶対に手が届かないって分かってて想うのはバカかな」

「なーに言ってんの。絶対に手が届かないなんて、やってみなきゃ分かんないじゃない」

「ううん、絶対なの」

「恋に絶対はないよ。もっと自信持ったほうがいいよ、ヒカリ」

「彼にはもう彼女がいるの」

「そうなの? だったらその彼女から奪い取ってやろうとかそのくらい強気でいかないと」

「無理よ」

「ダメ。無理とか思っちゃダメだよ」

「でも、やっぱり無理なのよ」

「恋に絶対は無し。この言葉を信じなさい」

「だって・・・・・・」

ヒカリの言葉がつまった。
一瞬の沈黙のあとに、ヒカリは言った。

「だって、彼、もうこの世にいないんだもん」

「・・・・・・・・・」

アスカはヒカリを見つめたまま、その場に立ち尽くした。
ヒカリも歩みを止め、アスカに向き直って言った。

「私の片想いの相手はね、碇君だったの」

「・・・・・・・・・」

言葉が出ないアスカをよそに、ヒカリは続けた。

「彼のことを意識するようになったのは、去年の春先ごろだった」

ヒカリは並木道の先を見やりながら、語り口調になって話しはじめた。

「まだ、アスカと付き合い始める前だった。でも、アスカが碇君を好きなのはもちろん知ってた。
だから、必死に気持ちを抑えたの。アスカは私の一番の親友だから・・・・・・」

「バカ」

アスカは地面を見つめて呟いた。

「そんな、親友とか友達とか、気にしてたら何も出来ないじゃない」

「だって、アスカは大切な友達だし、アスカのこと大好きだから」

「・・・・・・・・・」

「アスカが碇君のことうれしそうに話すのを見てたら、
ああ、絶対にこの気持ちは隠したままにしなくちゃいけない、って思ったの」

「ヒカリ・・・・・・」

「私ってば、お人よしっていうか、人のことを先に考えちゃう性格だから、
こんな私なんかよりアスカのほうが碇君にお似合いだし、諦めようって思ったの」

ヒカリはクスッと笑った。自虐的な笑みだった。

「でもね、それでも、どうしても諦められなくて、ある日言っちゃったんだ」

「えっ」

アスカがハッと顔を上げた。

「なに・・・・・・を?」

「去年の夏休み前。ちょうど明日から夏休みっていう終業式の日だった」

ヒカリはアスカのほうを向き、また語り口調になって言った。

「ホームルームが終わると、私は碇君を校舎裏に呼び出した。
ちょうどアスカがトイレに行ってたから、碇君に来てもらうように頼むのは楽だった」

「そういえば・・・・・・」

アスカはその時のことを思い出した。
トイレから戻ると、シンジに「ちょっと用事があるから先に帰ってていいよ」と言われた。
なんの用事かたずねると、「ちょっとね」と軽くごまかされたが、
とくに気にすることなくそのまま1人で帰っていった。

よくよく思い出してみると、そのときヒカリはまだ教室にいたような気がした。
ヒカリに「一緒に帰ろう」と聞いたかどうかは忘れたが、確かそこにいたと思う。

「呼び出したというよりは、一緒に校舎裏まで来てもらったって感じだった」

ヒカリはうつむきながら続けた。

「そして、私は顔を真っ赤にしながら――きっと自分の顔が見えたらそうだったと思うけど――
碇君に思いのたけを全て伝えた。いまこうしてアスカに話しているようにね」

「・・・・・・そしたら?」

アスカは聞いた。回答を分かっていながら、思わず聞いた。

「そしたら・・・・・・そしたらって、アスカは聞かなくても知ってると思うけど、
もちろん返事は『ノー』だったわ。正確には『ゴメンなさい』だけど」

「・・・・・・・・・」

アスカは黙ってしまった。
ヒカリの声は穏やかだったが、「分かりきったことを聞かないで」と言いたげな口調だったので、
そこは口をつぐむよりなかった。

「でも、優しい碇君は、私のことに興味がないから、っていうようなひどいことは一つも言わなかった。
すごく単純なわけだったけど、『ぼくには他に好きな人がいるから』――そう言ったわ。
もちろん、それが誰なのかは聞かなくても分かった。だけど、あえて聞いたの。
『それって、アスカのことでしょう』って」

「・・・・・・・・・」

アスカは、今度は口で先を促すことはしなかったが、
その真剣なまなざしが、続きが気になっていることを明らかに示していた。

「彼は顔を真っ赤にして、コクンとうなずいたわ。とてもかわいい顔だった。
私はその顔に見惚れるのと同時に、激しく嫉妬したわ。もちろんあなたによ」

ヒカリはアスカを鋭い視線で見つめた。
にらむというよりは、ただ相手を見据えるという感じだった。

アスカはその視線をじっと見つめながら、悲しくなった。
自分のことを『あなた』と呼んだヒカリに、距離を感じてしまったからだ。
親友は自分に対して敵愾心を持っていた――そう思うとやるせなかった。

「こんなに優しくて、かわいくて、ステキな碇君を、アスカが独り占めにできるなんて考えたら、
ほんとに羨ましかった。やきもちを焼いたわ。すごく嫉妬した」

ヒカリはその気持ちをいろいろな表現で示した。
すでに『アスカ』という呼び方に戻っていたのにヒカリは気がついていなかった。

「もしかしたらっていう望みに賭けていた私は、所詮それはたんなる夢だったことに気がつくと、
思わず・・・・・・思わず泣いちゃった」

「ヒカリ・・・・・・」

「アスカのこと大好きなのに、勝手に恋敵みたいに思ってたり、
答えは最初から分かりきってるのに、碇君に告白したり、
もしかしたら、なんて自分ひとりで盛り上がったり・・・・・・。
なんてバカだったんだろう、って思ったら、すごく悲しくなっちゃって」

そう言うヒカリの瞳は、涙で溢れていた。
頬も紅潮し、肩も小刻みに揺れている。
アスカももらい泣きしそうになった。

「そしたらね、碇君が私の手をとって、こう言ったの。
『きみの気持ちに応えられなくて、本当にゴメン。ぼくは自分に嘘をつけないんだ。
ぼくは、ずっと前からアスカを守ろうって決めてて、それは誰も止めることは出来ないんだ』」

「・・・・・・・・・」

「なんだか、そこまでアスカを想ってたことを聞くと、嫉妬するよりも逆に驚いちゃった。
私が碇君を想う気持ちなんて、全然比べものにならないじゃないって。
でもね、それでも、私の心のどこかにいつも碇君がいたんだ」

「ヒカリ・・・・・・」

アスカは再三再四、親友の名を呟いた。
その声はいつの間にか涙声になっており、言葉が震えるほどだった。

「ヒカリ、ごめんね。アタシ、ヒカリの気持ち全然知らなかった」

「アスカ・・・・・・ダメよ」

ヒカリは目をつむり、首を左右に振った。

「なにが?」

鼻をすすりながらアスカは聞いた。

「なにがダメなの」

「私のことなんかで泣かないでよ。こういうのを本末転倒っていうのよ」

「そんな・・・・・・どうしてそんなこと言うの」

「アスカ、本末転倒の意味、分かってる?」

ヒカリはアスカに一歩近づいた。
それだけで、ずい分お互いの顔がハッキリと窺えた。
どちらの顔も涙でくしゃくしゃになっている。

「ヒカリのことが、どうして、些細なことなのよ」

アスカは少し声を大きくした。
だが、涙が混じって言葉が途切れがちになる。

「アスカ、私が言いたいことはね、どうしてそんなに平然としていられるかってことよ」

「平然・・・・・・」

アスカは反復しながら、分かりかねる、という風に眉をひそめた。

「ハッキリ言うけどね、アスカ。碇君がいなくなってしまったのにどうして平気でいられるの?
私ですらこんなに落ち込んでるっていうのに、どうしてアスカは平気な顔してられるのよ」

「・・・・・・・・・」

「あんな・・・・・・あんなひどい事故に巻き込まれて碇君は死んじゃったのよ。
しかも昨日よ、昨日。私のことなんかで泣いてる場合じゃないはずなのに、あんたったら」

ヒカリがアスカを呼ぶ『あんた』には、まるで相手を突き放すかのような響きがあった。

「あんたったら、私のことばっかり気にして、まるで彼のことなんて忘れたみたいに・・・・・・」

「ヒカリ」

親友の悲痛な言葉を、アスカは静かな声でさえぎった。

「心配させて、ごめんね」

笑顔を取り繕ったつもりだったが、涙が自然とアスカの頬を流れていった。

「シンジが死んじゃって、悲しいのはヒカリだけじゃないよ。
アタシだって、アタシだって悲しいのは当たり前だよ。だって、だって・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

今度はヒカリが黙る番になった。

「だって、シンジが、シンジが、シンジが・・・・・・」

アスカはわなわなと震えて、子供がやるように立ち尽くしたまま泣いた。

シンジがいなくなったのに、アスカがまるで悲しい素振りを見せないのを不審に思ったヒカリは、
アスカはムリヤリ悲しみを隠し、本当はヒカリ以上に悲嘆していたことを知ると、
なぜ親友としてそのことに気付かなかったのか、と自分を責め、アスカに申し訳なく思い、
そっと彼女を抱き寄せた。

ヒカリの胸の中でアスカは、いまはもういない愛しい人の名前を叫び続けた。


            *      *      *


その日の夜――
葬儀が終わり、アスカはシンジの部屋にいた。
学生服のブレザーを身につけたアスカは、残暑きびしい気候に汗を抑えきれず、
手に持ったハンカチはじっとりと湿っている。

シンジの父、碇ゲンドウに断りを入れて、アスカは2階へ上がり、
恋人の部屋に入ると、アスカは電気もつけずにベッドに座り込んでいた。

ふとマクラに目をやると、アスカはそれを抱きかかえて、大好きなシンジの残り香を感じた。
シンジに抱かれることを夢見ていた彼女は、そのままベッドに横になり、
マクラをシンジの代わりのようにして強く強く抱きしめた。
そして、いつの間にかまぶたは閉じられ、アスカは眠りに落ちていった――




「アスカ」

誰かがアスカを呼ぶ声がする。

「アスカ」

その声はアスカの間近で聞こえている。
まるでそっと囁くように、優しい声がしている。

アスカは目を開けると、すぐ目の前に彼の顔があった。

「えっ」

アスカは驚いたが、口から出たのは思ったより小さな叫びだった。
いままで、ベッドに横になったまま、シンジの柔らかいマクラを抱いていたはずなのに、
それはいつの間にかシンジに変わっていた。
彼は、アスカと同様に制服を着ていたが、夏服の格好だった。

アスカは、これが夢なのか幻なのか、はたまた現実なのか、まるで分からなかった。
しかし、そんなことはいまのアスカにはどうでもよかった。

「シンジ・・・・・・」

恋人の名前を呟くアスカの目から、涙が溢れた。
手で、肌で、くちびるで相手の存在を確かめ、アスカはうれしさで感極まった。

「アスカ、ゴメンね」

どちらからともなくくちびるを離すと、シンジは言った。

「本当だったら、昨日デートするはずだったのに、すっぽかしちゃってゴメン。
昨日はぼくたちが恋人同士になって1周年の日だったのに、1人にさせて悪かったよ」

「悪かっただけじゃすまないわよ。ほんとに、ほんとに淋しかったんだから」

アスカの涙が横に流れていく。
シンジはそれを指で拭いてやると、微笑をたたえながら囁いた。

「分かってるよ。だから、一日遅くなったけど、約束通り・・・・・・」

アスカはその先を聞かなくても分かった。
すでに夜となったいま、シンジがこれからデートをしようと言うはずはなかった。
つまり、もう一つの約束をここでしようということを言おうとしているのだ。

「うん、シンジ、愛してる」

涙で濡らした顔でシンジに微笑みかけると、アスカはくちびるを重ねた。

薄い白カーテン越しの月明かりに照らされながら、2人はたおやかに結ばれた。
その顔には、愛情で満たされた、幸せいっぱいの表情が浮かんでいた。




「アスカ」

シンジは、背中を向けたアスカに呼びかけた。

「あ、シンジ、おはよ」

アスカは顔をシンジの方に向けると、目をかきながら返事をした。

「ねえ、シンジ」

身体をシンジに寄せると、アスカは囁いた。

「『おはようのキス』しよう」

と言って、軽くくちびるを突き出し、チュッと触れ合うと、アスカは気がついた。
これは昨日の朝見ていた夢と同じではないか、と。

すると、それに気がついた瞬間、アスカは本当の現実世界に引き戻された。




暗い部屋の中で、シンジのマクラを抱き、ベッドに横になっている。
制服はしわが寄っていたが、特に乱れはなかった。

シンジの部屋に入ってから、ほとんど時間が経っていなかった。
やっぱりいまのは夢だったのか、と、アスカは悲しくなった。

マクラは汗と涙とよだれで濡れていて、そこにシンジの温もりはなかった。
だが、アスカは突きつけられた現実を初めて認め、悲しみと恐怖を感じ、
そのマクラにすがりついた。

まるでシンジにすがりつくように――




4.彼が残したモノ


あれから3ヵ月後――
惣流アスカは、碇シンジの部屋にいた。

彼女は、あれから毎日のようにここに来ていた。
碇家と惣流家の信頼関係も手伝い、シンジの部屋に来たいがために家のカギをもらっていた。

今日は日曜日だったが、碇ゲンドウは外出をしていて、いまはアスカ1人だけである。

アスカはシンジの机に向かい、その上に手帳を広げていた。
それは、彼がつけていた日記である。

その日記は、ちょうど去年の夏休み最終日から、毎日こまめにつけられていた。
つまり、アスカとの交際を機につけられたものである。

中身は、ごく普通に、その日の出来事が書いてあったり、
アスカとデートをした日などは、彼女への想いを綴ってあったりもした。

アスカは、葬儀があった日にこの部屋で日記帳を見つけ、
一日ずつ、ちょうど同じ日の日記をここで読むようにしていた。

今日は12月4日。アスカの誕生日である。
彼女はこの日を楽しみにしていた。
一体、去年のこの日、シンジはどんなことを日記に書いていたのか・・・・・・

書き出しはこうだった。

≪あんなにかわいいアスカを見たのは初めてだった≫

アスカは、その時のことを思い出しながら読み進めていった。

≪アスカと付き合うようになってからも、ずっと以前と変わらない関係が続いていた。
ちょっと手と手が触れただけなのに「スケベ」とか言って引っぱたかれたり、
ことあるごとに「バカシンジ」って呼ばれるのも相変わらずだった≫

(そういえば、そうだったっけ。アタシって全然素直じゃなかったんだなあ)

アスカは心の中で呟いた。

≪でも、今日はまったく違うアスカだった。
これまでにも何回かデートをしたけど、今日のアスカの様子は特別だった。
言葉少なで、声もいつもより小さく、何よりもおしとやかな雰囲気だったのが驚きだった。

なんとなくいつものように声をかけられなかった。それはぼくの心境もあったからだ。
いつもより女の子らしい、かわいいアスカがそばにいると、とてもドキドキした。
そういえば、アスカがぼくに告白してくれたときも同じような感じだった気がする≫

(あー、そうだったなあ。アタシもすごくドキドキしてた。なんでだろう)

日記は続いて、そのときに寄った場所でのことが書かれており、
アスカは思い出しながら微笑んだり、顔を赤くしたりした。
この日の日記は他の日よりも長く、ようやく半分が終わったところだった。

≪そろそろ空も夕闇がかり、ぼくらは家路に着こうとしていた。
しかし、なるべく一緒にいたいため、その足取りはゆったりしたものだった≫

(なんだか、お話を読んでるみたいだなあ)

アスカが思うように、シンジの日記は少し小説気取りの部分があった。
だが、その言い回しのおかげで、当時のことを思い出しやすくさせていた。

≪アスカは何も言わなかったが、もちろん今日が彼女の誕生日だということは分かっていた。
ぼくは用意していたプレゼントを渡すため、家の近くにある小さな公園に連れて行った。
アスカは不思議そうにぼくの顔を見ていたが、その表情も非常に愛らしく、ぼくは緊張した。

ベンチに腰掛けると、ぼくは言った。

「アスカ、お誕生日おめでとう」

ぼくの言葉を聞いたアスカは、驚いたように大きな瞳でぼくを見つめた。
そのかわいいまなざしに気圧されないように、ぼくはさりげなくプレゼントを出した。

バイトもしてない平凡な高校生だから、おこづかいも知れた額だし、
ダイヤの指輪みたいな高価なものは買えなかったが、プレゼントはハート型のネックレスにした。
それは決して安物ではなく、おこづかいをためて買ったものだった。
アスカのためなら、と思えば、少しくらい高くても全然気にならなかった。

渡した箱からそれを取り出し、アスカに付けてあげると、彼女はとても喜んでくれた。
「好き、好き、大好き」と、ぼくに抱きつき、涙を流して喜んでくれた。
ぼくも、アスカの気持ちを分けてもらったようにうれしくなった。思わず彼女を強く抱きしめた。

その時、ぼく達は初めてキスをした。
ぼくのファーストキスの相手は、アスカだった。夢が叶ったのだ。
いま思えばそういう風に考えられるが、その時は何がなんだか分からなかった。

その時――
抱きしめた身体を起こすと、アスカがゆっくり目を閉じ、ぼくは反射的にくちびるを重ねた。
感触は・・・・・・実はよく覚えていない。よほどぼくが緊張していたことが分かる。
しかし、ぼくとアスカの距離はこれでかなり縮まったと思う。

ぼく達は照れ隠しの笑顔を交わし合うと、お互いの家に帰っていった≫

12月4日の日記はそこで終わった。

「・・・・・・シンジ」

アスカの瞳は、いつの間にか涙で溢れていた。
日記に涙が落ちないよう、右腕の袖で何度も拭くが、どんどん溢れてくる。
左手は、自分の胸元をつかむようにギュッと握りしめられていた。

アスカはいま、シンジからもらったネックレスをつけていた。
それを握りしめながら、彼女は溢れる涙をこらえていた。

しばらくそうしていたが、ようやく気持ちが落ち着いてきたところで、
アスカは日記帳を閉じた。
すると――
アスカは、その日記帳になにか紙切れがはさまっているのを見つけた。

(こんなもの、はさんであったっけ)

アスカはこの日記帳を最初に見つけたとき、パラパラとめくってみたことがあったが、
その時は何もはさまっておらず、間から落ちてくるものも何もなかった。

不思議に思いながらも、アスカはその紙を抜き取るのではなく、
紙がはさまっているページを開けてみることにした。

そのページは、さっき読んだ12月辺りからずっと先なのが分かった。
おそらく今年の夏休みごろのページだろう、と思いながら、アスカはそれをめくった。

「・・・・・・えっ」

アスカは小さくうめき声を洩らした。
それは、目の前の信じがたい状況に驚いて上げた声だった。

アスカが見たものは、そこにあるはずのない日記だったのだ。

「ど、ど、ど・・・・・・」

あまりの衝撃で、うまく言葉が出てこない。

「どうして・・・・・・どうして」

アスカは次に発する言葉が、非現実的であるものだと分かっていた。
だが、こう言うより他なかった。

「どうして今年の9月の日記が書いてあるの」

8月30日で終わっているはずの日記が、それ以降も続いていたのだ!

アスカは驚き固まった手でページを戻してみた。
すると、事故があった8月31日にも、シンジの筆跡で日記がしたためられていた。

(どうして)

今度は心の中で呟いた。

いまアスカは、シンジの死後も日記が続いていることに動揺していて、
肝心のその中身を読もうとしていなかった。

しかし、はさんであった紙の存在を忘れてはいなかった。
その紙は、ページをめくった時に外に飛び出し、机の上に横たわっている。
手帳のサイズよりやや小さめのその紙は、表も裏も何も書いてなかった。
まるで、アスカにこのページのことを気付かせるようにわざとはさんであったように思えた。

(どうして)

アスカの頭の中は信じられない疑問で渦巻いていた。

(待って、待ってよ。これはたぶん何かの間違いだわ。こんなのあり得ない。
そうよ。きっとアタシ、いま夢を見てるんだ。夢に違いない)

アスカは目を強く閉じた。
早く目が覚めますように、と口の中で呟きながら。
そして、ゆっくりと目を開けてみた。

強くつぶりすぎたため、初めは視界がぼやけた。
日記帳のほうは見ず、まっすぐ前を見つめているうちに、徐々にそれは回復してきた。
そして、意を決して机の上に視線を落とした。

「ああ・・・・・・」

アスカはため息をついた。
安心のため息ではなく、落胆のそれだった。

開かれたページは、8月31日の所で、間違いなくそこに日記が書いてある。
誰かがシンジの筆跡をマネして書いたものだとすると、そんなことが出来るのは、
この家に住む碇ゲンドウか、それとも、アスカしかいない。
仮に別の人物だったとしても、まるで意味のある行動ではないため考えにくい。

「まさか、シンジのお父様が・・・・・・?」

アスカはそう呟いた瞬間、首を左右に振ってその考えを否定した。
葬儀や告別式などで、いくらアスカが落胆しているのを見たからといって、
こんなことをしてアスカを元気付けようなどと考えるような人ではない。
むしろ、シンジよりも妻を失ったことで落胆するようなタイプだ。
ほとんど会話をしたことはないが、アスカはシンジの父に対してそういったイメージを持っていた。

「・・・・・・・・・」

アスカは、もう1人、これが可能な人間について考えてみた。
自分のことである。

もしかしたら、ここへ来るたびに無意識的に書いていたのかもしれなかった。
そう考えてみたが、どう見てもシンジの筆跡で書いてある。

アスカはさらに非現実的な仮定を立てた。
それは、シンジの霊が自分に乗り移ってこれを書いていたという仮定である。
客観的に見れば、あまりにも非現実的な考えだった。
だがアスカには、シンジを失った悲しみに暮れるあまり、何か霊的な力が働いたのでは、
という風に考えられた。もちろん、そんなことあり得ない、と思う気持ちもある。

アスカはまず、現実的かつ論理的にこれが説明可能かどうか見極めるため、
気持ちを落ち着けて、8月31日の日記を読んでみることにした。

「・・・・・・今日はおかしな一日だった」

そういう書き出しだった。

早朝に、葛城ミサトと加持リョウジからの信じがたい目覚ましを喰らい、
それから車に乗って父親が待つ『ある場所』へ向かうというくだりが書かれてある。

「これだけ?」

車で『ある場所』へ向かっている、というところでその日の日記は終わってしまった。

アスカは、もしかするとその直後に事故が起きてしまったから、この先は書いてないのでは、
と思ったが、それでは論理的説明になっていなかった。
シンジが車の中でこれを書いていたとしたら、いま、ここにこの日記帳があるはずないからだ。

アスカは続いて9月1日の日記に目を通した。
その日は学校の帰りにヒカリと泣きながら抱き合い、かつ葬儀のあった日でもあり、
通夜の後にシンジの部屋で、シンジに抱かれる夢を見た日だった。

「うそ・・・・・・」

何が書いてあるかと思えば、アスカが体験した全てが書かれてあったのだ。

下校時にヒカリと語り合った並木道は、ほとんど人が通ってなかったはずなのに、
その時の2人の様子がこと細かに書かれており、
さらには、シンジに抱かれる夢が、シンジの視点で書かれてあった。

「まさか」

アスカは思わず口走った。
まさか、本当にシンジが書いたものなんじゃないか――
そんなことは考えられない。しかし、それしか考えられなかった。
さらに、そう考えたくなってきた。

その先を読んでいっても、全てアスカのことがシンジの視点で書かれてあるので、
もしかしたら、シンジがどこかで見守ってくれていて、
彼の霊が文字を通じてここに表れたのではないか――
アスカはそう考えると、妙に納得し、シンジの温もりをここに感じた。

「シンジ」

アスカは部屋のあらゆる方向に目を向けて言った。

「シンジ、ずっとアタシのこと見ていてくれたのね。
ねえ、そうなんでしょう。そうだったら、お願い、姿を見せて」

アスカの頭の中で、『それは出来ない』という言葉が響いた。
それはアスカがシンジの霊を感じ取って聞こえてきたものではなく、
冷静な自分がシンジの声を投影して語りかけているものだった。

「どうしてよ、シンジ。ねえお願いだから、本当に、一生のお願いよ」

『ゴメン、アスカ。ダメなんだ』

シンジの声が響いた。

『でも、その内きっと、アスカの前にもう一度現れると思うよ』

「えっ」

アスカは驚いた。
『ゴメン』と謝るシンジは、アスカの頭の中で思った彼だったが、
その後の言葉は、どこか別のところから聞こえたような気がした。
シンジの言葉の意味がよく分からなかったことからも、自分が思ったことじゃない、と分かった。

「ん」

アスカは軽くうめき声を上げると、部屋を駆け出していった。
突然気分が悪くなり、吐き気をもよおしたのだ。

シンジの家には何度も上がりこんでいるから、2階のトイレの場所はすぐに分かる。
そこに駆け込むと、アスカは胃の中のものを全て吐き出した。

(どうして・・・・・・)

アスカはまた疑問に思った。

あるはずのない日記に驚き、シンジの霊がいるのかもしれない、と思ったものの、
恐怖を感じるよりも、むしろどこかでそれを歓迎する気持ちがあったのに、
どうして気持ち悪さを感じたのだろう、という疑問である。

アスカはその時、まだ気がついていなかった。
自分の胎内に新しい命が宿っているということを――


            *     *      *


それからさらに半年が経った。
夏に入ってまだ少しというのにもかかわらず、暑い日々が続いている。
梅雨はまだやって来ないのか、毎日すがすがしい晴れの日が続いていた。

そんな夏のある日、惣流アスカは1人の男児を出産した。

彼女の両親には、妊娠のことは、シンジとの間に出来た子供だという説明をした。
両親はその説明を聞く前は、おなかの大きくなったアスカに向かって、
まだ高校生なのに早すぎる、とか、中絶しなさい、など言いたいことを言っていたが、
シンジのことを言うと、死人に口無しではないが、産むことを許してくれた。
そのかわり、アスカが一人で全ての面倒を見るという条件付きだったが。

一も二も無くその条件に従うことを決意すると、アスカは出産後を見据えて、
高校をやめることにした。

そして、どこかで働きながら子育てをする――
アスカはそういう決意を固めていた。

ただ、一つ、アスカは最後の最後まで気にかかることがあった。
気にかかるというよりも、最大級の謎といってもいいくらいのものだ。

アスカは、両親にシンジとの子供だという説明をしたが、
実際彼女はシンジと結ばれていないのだ。
夢の中では何度となくあった行為も、現実では一度もなかったのに、アスカは妊娠をした。

おなかが少しふくれてきたのを見て、最初は想像妊娠だと思った。
だが、産婦人科に行ってみると、「妊娠しています」と言われ、
機械を使って胎内を見せてもらうと、そこにはまだ成長途中の赤ちゃんがいた。

アスカは、まさかあの夢は夢などではなかった、と思い始めた。
だが、現実的には、夢にすぎないのである。
だから、アスカは子供を産んで初めて答えが分かると思った。
そして、その答えが出た。

「元気な男の子ですよー」

看護婦はそう言いながら、アスカに、生まれたばかりの赤ん坊を見せた。

その瞬間、出産後もなお続く痛みが全て吹き飛ぶほど、アスカは驚いた。

さすがに生まれたばかりで、赤い猿のような容貌だが、
その赤ん坊は、間違いなく碇シンジだった。

一度洗われるために遠くにもっていかれてしまったが、キレイになって戻ってきて、
自分の腕に抱いてみると、なおさらシンジの面影が息子の顔にのぞいていた。

アスカは思った。
事故の日の朝や葬儀の後に見た夢は、夢を越えて、現実となって現れたのだ。
それも全て、シンジを想う気持ちと、シンジがアスカを想う気持ちがあってこそだったのだ。

しかも、アスカはこうまでも思っていた。
シンジは、自分のことを忘れてほしくなかったのではないか。
だから、日記を記したり、こうして生まれ変わることで、
碇シンジをいつまでも心に置いて欲しかったのではないか、と。

さらに、もしかすると、事故があった日の朝に見ていた夢は、
そういうシンジの気持ちが表れた夢だったのではないか。
しかもそれは、シンジと結ばれる夢につながるためのものだったのではないか。
アスカはあの夢をそんな風に感じた。

それは、まさにシンジが思っていた切ない思いそのままだった。

シンジ――惣流シンジが生まれた日を境に、それまで続いていた日記がピタリと止んだ。
しかもその日は6月6日――奇しくも碇シンジの誕生日と同じ日だった。




終わり




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

いやー、またまた長いのを書いてしまいました。
よく途中で投げ出さずに書けたもんだ、と自分で驚いています。

話の区切りが中途半端に長くなってしまったので、
最初は分けてしまおうかとも思ったんですが、
これは全て一気にしてしまったほうがいいと考え直し、
結果、果てしなく長いものと相成りました。

今回は自分でも結構気に入っております。特にラスト。
「うまい!」とかほざきながら書きました。
単なる自己満足ですけどね。

こう長たらしいのを書いてると、
別のアイデアがどんどん浮かんできてしまって、
早く次の作品を書きたい書きたいと思ってしまいます。
同時進行だと割り切るのが難しいので、
一つの作品に一辺倒する私には、なかなかつらい問題です。

しかし、それでも全く懲りずにまた長いのを書くと思います。
じっくり時間をかけながら。

ではではまたまた。


マナ:愛の結晶とは、昔の人はほんとよくいったものね。

アスカ:この子は本当に、愛の結晶だわ。

マナ:お互いを想う気持ちが形になったのね。

アスカ:普通なら、あんな日記見たら恐くなるんだろうけど、相手がシンジだと霊でもいいから出てきて欲しいわ。

マナ:綾波さん?

アスカ:それは「レイ」(ーー; つまんないわよ。 出てこなくていいし。

マナ:(^^;

アスカ:これから、アタシのシンジとの新しい生活が始まるのね。

マナ:ただ・・・大丈夫かな。

アスカ:大丈夫よ。頑張って育てるわ。

マナ:違う。違う。この子、奇跡の子よ?

アスカ:はっ!(@@) ど、どうなるのかしら。

マナ:どんな子に育つか、末が楽しみね。
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