■1 綾波レイが転校してきたその日の下校時―― 碇シンジは、惣流アスカと綾波レイにはさまれる形で歩いていた。 うしろから見ると、シンジの背中は少し丸まっているようで、 何となく申し訳なさそうな姿勢である。 実際、彼は2人の女の子の会話の中に入れてもらえなかった。 「じゃあアスカと碇くんは、ちっちゃい頃からの付き合いなんだ」 レイはシンジの顔を横目にとらえながら、アスカに言った。 「そうなのよ。もう、こいつったら小さい頃からこんな調子でさあ」 アスカは、自分はシンジと長い付き合いなんだ、ということを強調した。 「幼稚園も小学校も一緒でね、こいついじめられっこだったんだけどさ、 いっつもアタシが助けてあげてたのよ。こいつの立場ったらなかったわね」 この時には、すでにレイに対しても自分を『アタシ』と呼んでいた。 だが、シンジのことは『こいつ』だった。 こいつと言われたシンジは、ふたりの会話を聞きながら、 その視線は下方に置いたまま頼りなげに歩いていた。 「へえ、アスカって強い女の子だったんだね」 レイとアスカの会話が続く。 「そうよー。こういう弱っちいヤツが身近にいると、どうしてもそうなっちゃうものよ」 「ふーん、いいなあ。私、そういう仲のいい友達がいなかったから・・・・・・」 レイの声のトーンが少し弱くなったので、シンジは視線を彼女に移した。 「レイが昔住んでた所のことは・・・・・・訊いちゃダメだよね」 アスカは独り言のように言ったが、レイはその質問に応じた。 「ううん、別に話してもいいよ」 レイは、話し伝えるというよりも、思い出すように語り始めた。 「私が育ての親の所に預けられたのは、まだ1歳にも満たない時のことだった。 ・・・・・・もちろん、それは聞いた話だから、私が覚えてるはずないんだけどね。 育ての――『育ての』って言うのいちいち面倒だからこれから先は言わないけど―― お父さんもお母さんも、私のこと、まるで本当の娘のようにかわいがってくれた」 育ての両親を語るときのレイは、とても穏やかな顔をしていた。 彼女の言葉どおり、とてもかわいがってくれたことが窺われる。 「裕福な家庭だったから、好きなものを買ってもらえて、外国にもたくさん行ったわ。 ハワイとかグアムみたいな所じゃなくて、ヨーロッパとか、アメリカとかそういう所。 お父さんは有名な会社の海外事業部とかいう所の一番偉い人だったから、 外国でもとても頼りになるステキなお父さんだった」 レイはため息をひとつついてから、話を続けた。 「お母さんは、もともといい所の生まれで、お姫様みたいな人だった。 高飛車で自信過剰とかそういうんじゃなくて、とても身のこなしが上品なの。 それに、とっても美人で、かわいい人だった。私はお母さんが大好きだった」 その『お母さん』、つまりレイの育ての母、ではなく、彼女の『本当のお母さん』は、 シンジの母と従兄弟同士だというが、彼はレイの実の母親に会ったことがない。 もしかしたら会った事があるのかもしれないが、記憶になかった。 「私は、とても優しい両親に育てられたおかげで、逆に口達者に育った。 口達者っていうか、何て言うのかな、結構あけすけに言える性格ってやつかな。 それが災いして、小学5年の時、いじめられたことがあった」 自分とは違う理由でいじめに遭うこともあるんだな、とシンジは思った。 彼の場合は、見た目がおとなしそうで、しかも実際におとなしい性格だから、 何も言えず反抗も出来ないのをいいことに、よくからかわれていた。 しかし、彼には惣流アスカという救世主がいた。 いじめられても、いつもアスカが助けてくれたのだ。 初めのうちはアスカの助けを期待する自分がいたのだが、歳を重ねるにつれて、 女の子に守られるということを恥ずかしく思い、いつしか彼は、 「アスカを守れるような男」になろうと思うようになっていた。 だが、いまの所はまだアスカに助けられている部分が多い。 シンジは自分と対比させながら、レイの話を聞いていた。 「『生意気』とか、『でしゃばり』とか、最初はそういうからかいだったけど、 それが、私の外見のこととか、両親への勝手な悪口になったりして、つらい思いをした。 いじめのことは、心配すると思ったから両親には言えなかった。 ずっと、ひとりで抱え込んでた。友達はいたけど、親友と呼べる仲のコはいなかったから」 レイがうつむいてしまうので、シンジもアスカも同じように地面に視線を落とした。 やっぱり訊かなければよかった、とアスカは後悔していた。 学校で話していた時に、すでに重苦しい内容だったのを聞いていたのに、 さらに具体的なことを訊こうとするのは、やはり無神経だったと思った。 「ゴメン」 アスカが謝ろうかと思ったその時、シンジが先にそう言った。 「・・・・・・どうして謝るの」 レイはうつむいたまま言った。 「いや、やっぱり聞いちゃいけない話だったんだと思ってさ。 本当は言いたくない話だったんじゃないかと思って」 アスカは、自分が思ったことをシンジが言ったので、少し驚いていた。 「気にしないで、碇くん」 レイは微笑みながら言ったが、シンジの目には、哀しみを含んだ笑みに見えた。 ■2 「それじゃあ、バイバイ、アスカ」 一戸建ての家の前に着くと、シンジはアスカに手を振った。 レイも同じように「バイバイ」と言って手を振る。 アスカは「それじゃ」と言い残して、自分の家に入っていった。 いくら家が隣といっても、隣は隣である。 別れなくてはならないのが、アスカは少し悲しかった。 特に、シンジは綾波レイと一緒に家に入っていくのだ。 自分だけひとりぼっちになった気がして、無性に悲しい思いをした。 そんなアスカの思いはまったく知らずに、シンジとレイは並んで家に入っていった。 「ただいま」 玄関でシンジが帰宅を告げると、リビングからスリッパの音が近づいてきた。 「おかえりなさい。あ、レイちゃん、いらっしゃい」 奥から現れたのは、シンジの母・碇ユイである。 猛暑のため、上下とも短いスウェットを着ていた。 寝巻きのような格好だが、家にいるぶんには障りのない格好である。 ちょっと家庭じみすぎの恰好だな、とシンジはため息をついた。 「お世話になります」 レイは、少しばかり緊張した声で言った。 「あの、私の荷物って届きました?」 「ええ、届いてるわよ。ほら、ふたりともそんな所に立ってないで、早く中に入りなさい」 「はい」 レイは、家の中を見定めるように見回しながら、リビングに入っていった。 シンジもそのあとに続いて、涼しい部屋の中に入った。 「そういえば、きみは昨日はどうしてたの」 落ち着いたところで、シンジはレイに訊いた。 「どうしてたって?」 「いや、だってきみは今朝、ぼくと路地でぶつかったじゃないか。 昨日はいったいどこに泊まったのかなって思って」 「あー、なるほど」 「ぶつかったって、どういうこと?」 話を聞いていたユイが、疑問を呈した。 「実は・・・・・・」 レイは、朝の出来事を詳細に話した。 ソファに並んで座っているシンジは、横でバツが悪そうな顔をしていた。 そんなこと話さなくていいのに、という風にため息をつく。 「あー、シンジったら、女の子のスカートの中覗いて、エッチなのね」 話を聞いたユイは、意外にも笑いながらシンジに言った。 言い方もはしゃぐような感じで、見た目の聡明さとは違い、子供っぽい所がある。 そもそも、スウェットという恰好が聡明さを失わせる確たる原因となっていた。 「か、母さん」 シンジは顔を赤くした。 「あれは偶然だよ。偶然」 「そうかなあ」 レイが疑わしげに言った。 「どさくさにまぎれて、って感じだったような」 「違うよ! ぼ、ぼくはそんなつもりは」 「そんなつもりなかったんなら、どうしてそんなに慌てるの」 「・・・・・・・・・」 シンジは黙りこくった。 「やっぱりね。あーあ、これから大変だなー」 「何がだよ」 シンジはレイのほうを見ないで言った。 「だってさ、これから暮らす家の中に、すごーくエッチな男の子がいるんだよ。 ふたりきりになった時とか気をつけなくちゃ」 「なっ、なっ、なっ」 そいつは心外だ、と怒りを表に出そうとしたが、シンジは言葉がつまった。 「あはは、碇くんって面白いね」 「えっ?」 レイがからかいのまなざしになったので、シンジはキョトンとした。 「碇くん、もしかして、私が本気で言ってると思ってたの?」 「・・・・・・違うの?」 「もちろん、全然違うってわけじゃないけど、半分は冗談で言ったのよ。 碇くんって、結構本気にするタイプなんだね」 「よかった。ずっと色眼鏡で見られるようになったらどうしよう、って思ったよ」 「それはどうかなあ」 レイが思わせぶりな口調で言ったので、シンジはギクッとした。 「やっぱり私にとって、朝のことはショックだったからなあ」 「ああ、だから、その・・・・・・ゴメン」 「ふふふ、うそよ。わざとじゃないって分かるから、その目を見れば。 私ももう気にしてないからさ」 「ほんと? よかったあ」 シンジはホッと胸をなで下ろした。 彼の母は、ふたりの中学生の様子を楽しそうに見ていた。 (お隣のアスカちゃんもいて、レイちゃんが加わったら、にぎやかになりそうだわ。 まったく、シンジも我が子ながら罪な男ね) と、息子を心配しているのか、面白がっているのか分からない。 「ところで、私が昨日どこに泊まったかっていうと」 レイは冷たい麦茶を一気に飲み干してから言った。 「実はね、昨日の夜にここに着いてる予定だったの。でもちょっとドジっちゃってさ」 「何をドジったの?」 シンジが訊いた。 「駅からこの家までの地図があったんだけど、それを失くしちゃったの。 電話番号もそれに書いてあったから、電話のしようもなくてさ。 だから、昨夜は駅前のホテルに泊まったの」 「えっ、ホテルに? きみひとりで?」 「そうよ。さすがに中学生1人で泊まるのはダメかなって思ったけど、 お金持ってるのを見せたら一発で泊めてくれることになって」 「そんなお金、持ってたの?」 「ええ、まあね」 「レイちゃんの育ての両親っていうのがね」 碇ユイが事情を話した。 「子供がいない家庭だったのよ。それで、レイちゃんを養子として引き取ったの。 それで・・・・・・その両親が亡くなってしまったから、遺産が彼女に引き継がれたってわけ」 「あ、なるほど。そのお金を使ったんだね」 シンジは、とりあえず理解したが、どうも腑に落ちない所があった。 「でも、養子に遺産っていくものなの?」 「遺書があったのよ」 ユイはポツリと言った。 「遺書? どうして? 交通事故じゃなかったの?」 「そう、確かに交通事故だったわ。でもね、彼らはレイちゃんのために、 すでに遺書を作っておいたのよ。遺産は全て彼女のものに、っていう内容の遺書が」 「へえ。とても愛されていたんだね、綾波は」 シンジがそう言うと、レイは少し照れたように笑みを浮かべた。 「それじゃあ、レイちゃんの荷物の整理しよっか」 ユイは、思いついたように手を叩くと、ふたりを2階に促した。 ■3 碇家の間取りは、1階にLDKと和室が一部屋あり、2階は洋室が3部屋となっている。 一戸建ての住居としては、一般的な配置だが、広さはなかなかのものである。 例えば、一口にLDKといっても、それが全てくっついている家もあるが、 碇宅はそれぞれきちんと部屋として主張していて、広さにもゆとりがある。 碇シンジの部屋は8畳で、約3畳のロフトが付いている。 そこにベッドや勉強机、タンス、本棚などを置いても、わりと充分な広さが残る。 ちなみにロフトは物置となっていた。 碇ゲンドウ・ユイ夫婦の寝室は2階にあり、もう1部屋が空いていた。 そこが、綾波レイの部屋となる場所である。 2階の洋室は全て8畳で、レイに充てられた部屋は日当たりの良い所だった。 窓が北向きについていて、日差しが強く差し込んでくる。 いまのような猛暑ではありがたいものではなかったが、レイは気にならなかった。 「はーい、ご苦労様」 ユイが、麦茶の入ったコップをのせたおぼんを片手に、レイの部屋に入ってきた。 「まあ、きれいになったわね」 勉強机におぼんを置きながら、ユイは部屋を見回した。 彼女も部屋の整理を手伝おうと思っていたのだが、レイが小声で、 シンジとふたりでやる、と耳打ちしたので、ユイは笑って引き下がった。 本当はこっそりふたりの様子を観察したかったのだが、一応階下でおとなしくしていた。 そして、そろそろ終わった頃かな、と見計らって登場した次第である。 綾波レイの部屋は、彼女の白が好きだという好みがよく表れていた。 壁はもともと白の壁紙だったが、タンスや本棚という家具も白である。 ベッドや机を加えたそれらの家具は、もちろんすでに運ばれていたものである。 レイとシンジの作業は、ダンボールにつめられたものを一つ一つ整理することだった。 「碇くんったら、私の下着に手を伸ばそうとしたんですよー」 ベッドに腰掛けたレイは、にやにやと顔をゆるめながら、隣に座るシンジを見た。 「もう、この子はしょうがないわね」 ユイもシンジへのからかいに乗った。 「だって、ダンボールだから何が入ってるか分からないじゃないか」 シンジは必死に弁解しようとしたが、レイはまた冗談交じりの疑いの視線を投げかけた。 これ以上何を言っても変わらない、と思ったシンジは、開き直るように呟いた。 「どうせぼくは変態ですよ」 「あれあれ? そんな素直に認めちゃうの?」 レイはまだからかい口調だった。 「冗談を冗談として軽く流すとか出来ないの?」 「悪いけど、ぼくはそういう性格じゃないから」 「へー、お堅いかたなのね」 「そうなのよ。この子ったら変に堅い所があってね」 ユイは、レイとシンジに麦茶を渡しながら言った。 「まったく誰に似たんだか・・・・・・」 「少なくともおばさまじゃなさそうですね」 「そうね」 レイが言うと、ユイは笑ってうなずいた。 「あら、もうこんな時間なのね。夕飯の仕度しなくちゃ」 勉強机の上に掲げられたアナログ時計を見ると、ユイは部屋を出て行った。 ちょうど午後の5時をさした所だった。 「・・・・・・ちょっと、訊いてもいい?」 再びふたりになったところで、シンジは訊いた。 「なあに」 「きみは、亡くなった育ての両親のことや、いじめられたことを話したよね」 「うん」 「どうして?」 「・・・・・・どうして? 何がどうしてなの?」 レイは首を傾げた。 彼女の愛らしい仕草を見つめたまま、シンジは言った。 「だってさ、普通、そういう話はしないものじゃない。 話すと相手も自分も気分が沈んじゃって、雰囲気が暗くなっちゃわない?」 「あー、そっか。そうだよね」 レイは麦茶を一口飲んだ。 「でもさ、私ね、一緒に住む同居人じゃなくて、家族として接して欲しいんだ。 だから、自分のことをちゃんと分かってもらっておいたほうがいいと思って。 アスカに話したのも、女の子としてのいい相談相手になって欲しいから、 っていうか、気のおける友達になって欲しかったから言ったの」 「そうか・・・・・・そうだね。今日からきみは家族になるんだね」 「そう。よろしくね、碇シンジくん」 「うん」 「あのさ、出来れば私のこと『きみ』って呼ぶのやめて欲しいんだけど」 「え・・・・・・じゃあ、どう呼べばいいの」 「うー」 レイはあらぬほうを向いて腕組みをしながら唸った。 そして、少しはにかむようにして言った。 「レイ・・・・・・ってあなたに呼ばれるのはちょっと恥ずかしいなあ」 「ぼくもちょっと、名前で呼ぶのは抵抗あるかも」 「でも、アスカのことは下の名前で呼んでるじゃん」 レイに言われて、シンジはギクッとなったが、すぐに言い繕った。 「だってそれは、小さい頃からの幼なじみだから」 「ふーん」 レイは明らかに信用していない顔をした。 「何だよ、その顔」 「本当にそれだけの理由なの?」 「え?」 シンジは眉をひそめ、分からないという風にかぶりを振った。 「どういう意味?」 「だから、本当に幼なじみっていうだけの関係なのかなあって」 「べ、別にただの幼なじみだよ」 「何か、動揺してない?」 「してないしてない」 シンジは首を小刻みに左右に振った。 「でもやっぱり家族になるんだし、下の名前で呼び合うほうがいいかな」 レイは話を戻した。 「・・・・・・でも、男の子に下の名前で呼ばれるのはやっぱり恥ずかしいな」 「じゃあ、苗字で、綾波って呼ぶことにするよ」 「それじゃあ、私もこのまま、碇くんって呼ぶね」 「うん」 (何だか、別にどうでもいいようなやりとりだった気がする) うなずきながら、シンジはそういう冷めた感じでレイを見つめていた。 だが、彼女が微笑みかけてくるので、シンジはつい照れてしまった。 照れ隠しのために、シンジは立ち上がって背伸びをした。 「うーん、疲れたなあ」 「碇くん、手伝ってくれてありがとうね」 「・・・・・・手伝うっていうか、作業はほとんどぼくがやってた気がするんだけど」 「えっ、そう?」 レイはとぼけた顔をした。 実際、荷物の整理はシンジが主にやり、レイはもっぱら指示を出すだけだった。 だから、シンジひとりで部屋の中を駆け回っていたため、彼は本当に疲れていた。 「はあ」 ため息をつくと、シンジは自分の部屋に行き、すぐさまベッドに倒れこんだ。 彼の部屋のドア側で、綾波レイは静かな笑みをたたえていた。 ■4 「・・・・・・というわけだ。分かったな、シンジ」 碇ゲンドウは、ぬるくなったお茶を一気に飲み下した。 彼はいま、レイが我が家にやって来た理由をシンジに話したばかりである。 シンジは、レイから聞いていたし、母の補足などもあってすでに心得ていたが、 その総括ともいうべきまとめの話を、いま父から長々と聞かされていた。 父の隣では、話を聞きながらレイが何度もうなずいていた。 ちょうど相対するようにソファに座っていたシンジは、父のいかめしい顔と、 レイの敬虔な表情を対比させながら、終始黙って聞いていた。 父の話は、いままでに聞いていたことの、まさしくまとめであり、 追加情報は何もなかった。だから、聞いていて退屈だった。 夕食後であったので、少し眠気に襲われた時は対処するのに苦労した。 「レイちゃーん、お風呂沸いたわよー」 ユイが台所からレイに呼びかけた。 「え、私が先に入っちゃっていいんですか」 「いいのいいの。お部屋の片付けして疲れてるだろうから、先に入っちゃって」 「はーい」 レイは幼稚園児がやるような返事をして立ち上がった。 疲れてるのはぼくのほうなんだけどな、とシンジは思いながら、 風呂場に姿を消すレイの後ろ姿を見やった。 「シンジ」 レイが見えなくなると、父が呼びかけてきた。 シンジは慌てて父のほうを向く。 「こっちへ来い」 と言って、碇ゲンドウはリビングから和室に向かった。 「こっちへ来い」などと言って和室に呼びつける場合は、必ず何か説教をされるのだ。 それを分かっているから、シンジはイヤそうな顔で立ち上がった。 「そこを閉めろ」 和室に入ると、ゲンドウは上座の座椅子に座って、こちらを見ずに言った。 シンジは黙って、リビングと和室の境にあるふすまを閉じた。 閉める時、台所から覗く母の顔が見えた。 表情は読み取れなかったが、何となく笑っているようだった。 「そこに座れ」 シンジはお決まりの場所に座った。 それは、ちょうど父とテーブル越しに向き合う場所である。 テーブルといっても、こたつから毛布をはいだだけのものだ。 1階の和室には、そのこたつの他、デスクトップのパソコンや、タンスが置いてある。 シンジの背には大型のテレビが置かれてあった。 ゲンドウは家にいる時、この部屋にいることが多い、というかほとんどである。 しかも、いま座っている座椅子から離れないのだ。 ここが彼にとっての言わばお決まりの場所だった。 「・・・・・・・・・」 シンジは正座で座ると、相手の言葉を待った。 余計な口を訊くと怒られそうなので、シンジはジッと父の胸元辺りを見つめていた。 何となく顔を見たくないからだ。 シンジの父は、かけている度入りの薄いサングラスに軽く触れて位置を正すと、 テーブルの上で手を組み、口元を隠しながら言った。 「どうだ」 いつも説教される時とはまるで違う、小さめの父のボイスに、 シンジはハッとなって視線を父親の顔に向けた。 「どうだ」とは一体どういう意味なのか、シンジはまるで分からなかった。 サングラスの向こうの父の目を見つめると、彼はあくまで据えた目でシンジを睨んでいた。 「・・・・・・シンジ、聞いているのか」 「は、はい」 問いかけに答えないシンジをいぶかしがって、ゲンドウは息子を呼びかけると、 シンジは怒られたような気分になって反射的に返事をした。 その声は微妙に裏返っていて、この重い雰囲気にそぐわなかった。 「もう一度訊く」 シンジの父は、手を組むポーズを崩さずに言った。 「どうだ」 「・・・・・・・・・」 シンジは、訊き返そうかどうか迷った。 何度「どうだ」と言われても、おそらく答えを導き出せそうにない。 だが、訊き返したら怒られそうな気がして腰が引けた。 すると、そんなシンジの心境を察するようにゲンドウは言った。 「私の言っている意味が分からなかったか」 「・・・・・・うん」 父親とふたりきりでいると、どうも緊張してしまう。 小さい頃からそうだった。 「そうか・・・・・・ならば、簡潔に言おう」 シンジは緊張で、何度もまばたきをした。 それに対し、向かいの父は目元を微動だにしていない。 「レイ――綾波レイは、お前にとってどうなんだ」 「・・・・・・は?」 シンジはキョトンとなった。 「どうなんだ、と訊いている」 「・・・・・・どうなんだ、とは」 シンジは思わず訊き返した。すると、父は露骨なため息を洩らした。 「まだ分からんのか、シンジ」 「分からないよ」 シンジは少し反抗的な態度をとった。 父の言わんとすることがまだつかめないからだ。 「それなら、頭の鈍いお前のために、もう少しくだけた言いかたにしてやろう」 「む」 シンジは父の言葉にカチンときたが、黙って促した。 「お前は、レイのことをどう思っているのだ」 「ど、どう思ってるって・・・・・・どうしてそんなこと訊くんだよ」 「いいから答えろ、シンジ」 父の威圧的な視線がシンジを圧倒した。 「いや、答えろって言われても・・・・・・」 「好きなのか、嫌いなのか、どっちだ」 シンジに衝撃が走った。 まさか、この父に、女の子の好き嫌いを訊かれるとは夢にも思わなかったからだ。 「ちょ、ちょっと待ってよ、父さん。綾波とは今日会ったばかりなんだよ」 「そうだ」 「なのに、いきなりそんなことを訊かれても」 「お前、レイを見て何とも思わなかったのか」 またシンジに衝撃が走った。いまの父の言葉を言い換えたら、 「私は、レイを見て心情の変化があった」と言うのと同然ではないか。 父は、綾波レイに心動かされたのかもしれないのだ。 「な、何とも思わなかったよ」 驚きを隠しながらシンジは言ったが、それはうそだった。 いきなり変態扱いされてしまったのはショックだったが、 彼女を見て何も感じないわけがなかった。 綾波レイの仕草の一つ一つがチャーミングなのだ。 口は達者かもしれないが、黙っていたら、どこぞのお嬢様という雰囲気だった。 だから、シンジは彼女と話す時、少なからずあがっているのを感じていた。 「うそをつけ」 とゲンドウが声を荒げたので、シンジはいよいよ父の心を疑った。 「かわいい、と思わなかったのか、シンジ」 シンジは聞いてはならないことを耳にした。 父は、レイをかわいいと思っている―― しかも、保護者としてではなく、おそらく男の感性として―― シンジは焦った。 何に焦っているのかわからないが、この気持ちは焦りと表現するのが適当だった。 (まさか、父さんは・・・・・・ロリコンなのか?) シンジの疑惑は境地に達した。 (そういえば、母さんは歳のわりに若い、というよりも子供っぽい所があるし、 もしかしたら、若い頃はもっと幼い感じだったのかも) (いつも何考えてるか分からなかったけど、父さんにはそういう性癖があったのか?) (まずい、何だか知らないけどまずいぞ。ぼくがそう感じ取ったのを父さんが知ったら、 ・・・・・・大変だ。ムリにでも思い違いだと思わなきゃ) (そうだ、これはきっとぼくの思い違いだ。父さんは正常なんだ。 ぼくが変な風に考えるのがいけないんだ。思い違いだ思い違いだ・・・・・・) 中学2年生のシンジは、父親のことを真剣に心配するあまり、自分を見失っていた。 「おい、シンジ」 (思い違いだ思い違いだ・・・・・・) 「シンジ、聞いているのか」 (父さんは正常父さんは正常・・・・・・) 「シンジ!」 ゲンドウはついに大声を張り上げ、テーブルをバンと叩いた。 シンジはハッとなって目の前の父を見た。 その様子を汲み取って、ゲンドウは小声で言った。 「いいか、シンジ。私は彼女をお前の結婚相手と考えている」 ■5 「け!・・・・・・け、け、け」 父の口から飛び出した言葉に、シンジの動転は最高潮に達した。 「結婚だって?」 「そうだ」 父はまた手を組むポーズをとった。口ぶりは冷静である。 「だからこう訊いているのだ。どうだ、とな」 「どうだ、って・・・・・・待ってよ。待ってよ父さん」 「何だ」 「どうして急にそんな話をするのさ」 「別に急いているわけではない」 「・・・・・・ちょっと訊いてもいい?」 シンジは思いつくことあって、ひとつ訊ねてみた。 「さっき父さんは、綾波を引き取ることになった、って説明をしたけど、 実際は、父さんと母さんのどっちがそれを決めたの?」 「母さんだ」 「本当に?」 「本当だ。何を疑っているのだ」 「だって、おかしいじゃないか」 シンジは両手を振って、持論を誇張した。 「引き取ることになった綾波とぼくをくっ付けようだなんて、おかしいよ。 しかも彼女はうちに来たばっかりなんだよ」 「別におかしいことではない」 シンジの父はサングラスを取り、それをテーブル脇に置くと、また手を組むポーズをとった。 「それとも何か、お前はレイのことが気に入らないのか」 「そんなこと言ってないだろ。おかしいよ、父さん」 「私のどこがおかしい」 「だって、ぼくや綾波の気持ちを確かめもしないでいきなりそんなことを・・・・・・」 「確かめていないわけではない」 シンジの言葉にかぶせるように、ゲンドウは言った。 「え?」 「お前にも訊いたように、ちゃんとレイにも訊いてある」 「何だって! いつの間に・・・・・・」 「シンジ、お前と違って、レイは『どうだ』の一言で察したぞ」 「・・・・・・・・・」 シンジは皮肉を言われても何とも思わなかった。 というよりも、何かを思う余裕がなかった。 「私の問いにレイは言葉を濁したが、おそらく好感触と見ていいだろう」 「好感触って、何がだよ」 「無論、レイとお前は今日会ったばかりだが、第一印象はまんざらでもないということだ」 「えっ、だって・・・・・・」 シンジは今朝のことを話そうかと思ったが、逆に父が喜びそうなのでやめた。 「そういえば、お前のちゃんとした答えを聞いていなかった。どうなんだ、シンジ」 「ど、どうなんだって言われても・・・・・・」 「なぜそこで言葉がつまるのだ」 「だって、父さんとこんな話をしたことないだろ。恥ずかしいんだよ」 「何を恥ずかしがる必要がある。こうして男同士で話してるんだ、照れは要らん」 頑とした父に降参して、シンジは仕方なく腹をくくった。 「・・・・・・別に、嫌いじゃないよ。ちょっと口うるさいかもしれないけど」 「・・・・・・・・・」 シンジの答えを噛みしめるように、ゲンドウは小さくうなずいていた。 「分かった」 ゲンドウはそう言うと、ふすまを開けて出ていった。 シンジはまだテレビを背にして座ったままである。 「母さん、風呂だ」 という父の声が聞こえた。 レイはすでに風呂から出ていたようで、リビングのテレビに合わせて、 彼女の笑い声が聞こえた。 「何てこった・・・・・・」 シンジは小さく呟いた。 「父さんは、まさか本気でぼくと綾波を・・・・・・?」 「なんか呼んだ?」 レイが、開いたふすまから顔を覗かせた。 さすがに風呂上がりで、彼女の白い顔は赤みがかっている。 「な、何でもないよ」 シンジは手をパタパタと振った。 レイは「ふーん」と言って、またテレビに目を向けた。 (どうしよう、父さんがあんなこと言うから意識しちゃうじゃないか) シンジは、これから先が思いやられるな、という風に天井を仰いだ。 つづく
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