■1

胸が圧迫されるような感じを覚えて、碇シンジは目を開けた。

まっすぐ前には、白い天井が明るみを帯びていた。
部屋のカーテンは引かれていて、一段と暑い日差しが差し込む。

下着一枚という恰好でも、汗びっしょりの暑さだ。
シンジは言いようのないだるさに、あくびと一緒にため息をついた。

その時、胸を圧迫しているモノに気がついた。
ベッドに横たわっているシンジの胸元に、『それ』は乗っかっていた。

「だあだあ。あうあう」

『それ』は、まったく意味のない音――言葉とは呼べないような『音』を口にして、
露わになっているシンジの平たい胸をパチパチと叩いた。

(ど、ど、どうしてこんなところに赤ちゃんが!?)

シンジはビックリして口から言葉が出なかった。
ところが、それは驚いた拍子のものではなく、なぜかどうあがいても喋れなかった。

1歳ていどと見られる赤ん坊が、シンジの胸の上にちょこんと座っているのだ。
小さな、まさに紅葉のようなかわいらしい手で、シンジの身体を叩いている。

(こ、この子はいったい何なんだ。いったいどこから来たんだ)

シンジは狼狽して、両手を宙に泳がせた。

「あう、あう」

赤ん坊がシンジの顔に近づいてきた。
まんまるのほっぺを赤く染め、にこにこ顔でシンジと顔を突き合わせる。

(あれっ?)

シンジは赤ん坊を見て、気がついた。

いままで、赤ん坊の存在に驚いていて、容貌に注目していなかったが、
改めて間近で見ると、それは誰かにそっくりだった。

髪の色から、誰に似ているのか一目瞭然であった。

(あ、あ、あ・・・・・・)

口の中で、その名前を言おうとするも、驚きが勝ってつっかえる。

(あ、綾波!?)

青い髪と赤い瞳。よく見れば顔も綾波レイの面影がある。
彼女の幼い頃の写真を見たことはないが、シンジは疑いなく綾波レイだと思った。
そう思うと、なぜか今度は驚きが引いていくのを感じた。

小さなレイは、シンジのほっぺを小さな手でつまみ、楽しそうに動かす。
あっけにとられたシンジは、されるがままになっていた。

「きゃはは」と、うれしそうに笑うレイを見つめながら、シンジはふと思った。

(かわいいな)

それは、我が家にやって来た中学生の綾波レイを見たときとは違う、
何か別の感情だった。もちろん、小さくてかわいいというのもある。
それとは別に、シンジの中に新しい感情――新しい愛情が芽生えていた。

シンジは、この綾波レイそっくりの赤ん坊を見て、自分に妹ができたような気になった。
彼には他にきょうだいがいないから、それが妹に対する気持ちとは分からないが、
とにかくかわいくて仕方なくなってきた。

今度は鼻をつままれ、シンジは一瞬息が苦しくなったが、
目の前の天使のような、小さなレイを見つめていると心がなごむようだった。

シンジは思わず抱きしめたくなった。
女の子を抱きしめるなんてことは、普段のシンジにはとうてい不可能な芸当だが、
相手が赤ん坊で、しかも自分の妹だと思い込んでいるいまのシンジは別である。

そして、シンジは腕を回し、柔らかなレイの身体を優しく抱き寄せた。
ふわっとした感触を腕に感じ、ミルクのような甘い匂いを鼻腔に感じた。

レイは、「きゃっ、きゃっ」と言って、うれしそうだった。

ちょうどレイの顔を自分の顔の真横に持ってくるように抱き寄せたシンジは、
首を傾けて、ほっぺに軽く口づけをした。
つるつるで、柔らかい頬の感触がくちびるに伝わる。

(そうか、これが妹ってやつなのか)

シンジは、余りある謎をそっちのけで、幸せを噛みしめていた。

すると、赤ん坊が突然シンジの身体を押しのけて、バッと離れた。

「何するのよ!」

赤ん坊はそう言って、シンジの左頬に平手打ちを食らわした。
小さな赤ちゃんとは到底思えないような力で、シンジは引っぱたかれた。

シンジは、いまの出来事にしばし放心状態になった。
さっきの声が綾波レイのものであることや、赤ん坊が喋ったことに注目する余裕はない。
さらに、頬が赤くなってヒリヒリするのも忘れていた。

赤ん坊は、これだけじゃまだ足りないぞと言わんばかりに、
今度はシンジの右頬にビンタを入れた。

そして、シンジは夢から覚めた。




■2

ピピピピピピ・・・・・・

6時半を差した目覚まし時計が、けたたましく鳴っている。

時計が置かれた机の正面にあるベッドの中では、
惣流アスカがもぞもぞとうごめいていた。朝のお目覚めである。

「うーん・・・・・・」

完全に身体から離れた所にあるタオルケットをさらに蹴飛ばすと、
アスカは渋い顔をしながら目を開けた。

自分もシンジのことを言えない恰好をしていた。
上は薄手のTシャツ一枚に、下はショーツだけである。
暑いのは男も女も同じだった。

「よっこらせと」

オヤジくさい言葉を吐きながら、アスカは起き上がった。
目覚ましを停めると、すぐに階下の風呂場に向かう。

夏は、毎朝のシャワーを欠かさない。
寝起きの汗を取り除かないと、気持ち悪くて外に出られないのだ。

風呂場と隣り合わせの台所に立っていた母に「おはよう」と挨拶すると、
アスカは素早く一糸まとわぬ姿になって、風呂場に入った。

最初は、暑さを吹き飛ばすために冷たい水をかぶり、
それから熱くした湯を身体全体に染み渡らせるようにじっくりとかけていく。

「あー、いい湯だなあ」

などと、湯を張った風呂に浸かるのではなくシャワーを浴びているのにもかかわらず、
オヤジくさい言葉を呟きながら、アスカは心底気持ちよさそうな顔をした。

充分に湯を浴びると、シャワーを切って、風呂場の鏡の前にたたずんだ。
ちょうど頭から腰元まで映す大きな鏡に、アスカの裸身が映りこんだ。

アスカはジッと自分を睨みつけ、その視線を胸元に移した。
そして、両手で乳房を押さえながら、ため息をひとつつく。

(アイツを誘惑出来るのにはあともう少し必要だな・・・・・・)

中学2年生としては充分すぎるほどの胸に、アスカは満足していなかった。
心の中で思う『アイツ』を惹きつけるためには、まだ足りないのだ。

ただし、『アイツ』が女の子の身体だけで惹かれるとはアスカ自身思っていない。
だが、惹きつける要素として持っていて損はない、という風には考えていた。

他にも、生まれ持った美しい顔や、無駄のないわりに女性らしい身体の線など、
それらも重要な武器として使えるが、やはり一番大切なのは気持ちである。
アスカはそう思っていた。

「よし、行くぞアスカ」

自分を叱咤するように呟くと、アスカは風呂場から上がった。

下着や制服を母が用意してくれていて、素早くそれに着替える。
朝食のパンを半分ほどかじって、コップ1杯の牛乳を飲み干すと、
アスカは食事もそこそこにカバンを持って家をあとにした。

「いってきまーす」

アスカが向かう先は、もちろん碇シンジの家である。

玄関先でチャイムを鳴らすと、いつものようにシンジの母が顔を出した。

「あ、アスカちゃん、おはよう。中入って」

「おはようございまーす」

と言って、アスカは玄関を上がり、リビングに入っていった。

テーブルで新聞を広げるシンジの父の姿を見つけると、アスカは愛想よく挨拶した。

「おじさま、おはようございます」

「ああ」

彼の対応はいつも「ああ」である。新聞から目を離さず、アスカの顔を見ずに言うのだ。
それは毎度のことなので、アスカは気にもせずにテーブルに着いた。
テレビの時刻はちょうど7時半を回るところだった。

本来なら、玄関を上がるとすぐにシンジの部屋へ直行するのだが、
行ったところで彼は素っ裸同然の恰好で寝ているのだ。
アスカは恥ずかしくて、どうしても行けなかった。

ところが、その心境は今日、簡単に覆されてしまう。
それは、アスカがリビングのソファに座った直後のことだった。

「あ、シンジはね、レイちゃんが起こしてくれてると思うわよ」

シンジの母は、アスカのためにアイスコーヒーを入れながら言った。
アスカはいつも「待ってるだけですから」と、好意をやんわりと遠慮するのだが、
それどころではなくなった。

昨日、この家に綾波レイがやって来たことをすっかり忘れていた。
しかも、シンジを起こしに行っているというではないか。

アスカは動揺した。いつも自分がやっていた仕事を盗まれて落ち着かない気分だ。

今日も朝から暑いので、シンジはいつものように下着一枚だろう。
そのシンジを、綾波レイは起こしに行っているのだろうか。
彼女はシンジの裸を見て、何とも思わず恥ずかしがらないのだろうか。

そう考えている内に、アスカはあらぬ想像を逞しくさせた。

シンジとレイが、部屋の中にふたりきりでいる。
ふたりはベッドに寝そべって、お互いに抱きしめ合い、顔を近づけていく・・・・・・

(こうしちゃいられない!)

考えたくもない想像を無理に振り切ると、アスカは2階へダッシュした。
アイスコーヒーをテーブルに運ぼうとする碇ユイのそばを駆け抜け、
一目散に階段を駆け上がっていった。

「ふふふ」

ユイは、横切るアスカを微笑みながら見送った。
そしてその時、初めて碇ゲンドウが新聞から目を離した。




■3

2階にはふたりがいるのだ、と思って、階段の途中からアスカは抜き足になった。
おそるおそる階段を上りきると、右手にあるシンジの部屋のドアが閉じているのに気が付いた。

アスカの緊張が高まった。

(まさか、まさか本当に・・・・・・)

さっきの想像が尾を引いて、さらに妖しい映像がアスカの脳裏に浮かんだ。

(あああ、ダメダメ、ダメよ)

必死に頭を振ってそれを振り払うと、部屋のドアに近づいた。
しばらく耳を澄ましてみたが、中からは何も聞こえなかった。

そこで、アスカは他の部屋を見に行った。つまり、綾波レイの部屋を見にだ。

そこには誰もいなかった。
白を基調としたその空間は、赤が好きなアスカにとって凄然としたものだった。

仕方なくもう一度シンジの部屋の前に立った。相変わらず声は聞こえてこない。

(どうしよう、どうしよう。ちょっと覗いてみようかな)

思い立ったが吉日とばかりに、ドアノブに手をかけた。
音を立てないよう気をつけながら、慎重にドアに隙間を作った。

中の様子を耳で確かめながら、とりあえず気付かれていなさそうなのにホッとすると、
緊張を取り戻して隙間から中を覗き込んでみた。

(あっ!!)

思わず大声を上げそうになった。
息を呑むのに苦労するほど、アスカは驚愕した。

ちょうど隙間から、シンジが眠るベッドが窺え、足をこちらに向けている。
だが、そのベッドの上には、シンジだけでなく制服を着たレイの姿もあった。

なんと、レイがシンジにかぶさるようにしてふたりは抱き合っているのだ!

衝撃的だった。「何をしてるのよ」と言って部屋に突入する気力も起きないほど、
アスカは驚きでいっぱいになった。自分の想像通りの展開が広がっているのだ。

この位置からちょうどシンジの顔が見えた。
目をつむって、安らかな、幸せそうな顔をしている。
対してレイの顔は、シンジの右側の首筋に埋もれていて見えない。

と、シンジが突然レイの頬に口づけをした。
ちゅっ、という音がかすかに聞こえた。

(あ・・・・・・)

アスカは完全に言葉を失った。もう部屋の中を見るのもいやになった。

ところが突然、部屋の中で綾波レイの声が響き渡った。

「何するのよ!」

その声と共に、パチンという響きのいい音が聞こえた。
何か、肌を平手で叩くような音だ。

アスカは驚いて、もう一度部屋の中を覗き見た。
すると、シンジに覆いかぶさっていたレイはベッド脇に屈むように立っていて、
横顔が窺えた。何やら剣幕な様子である。

と、レイは左手でシンジの右頬を叩いた。パチンという音が聞こえた。
よく見ると、いま叩かれたのと反対の頬が赤くなっている。

シンジの目が大きく見開いた。驚いた顔でレイを見つめている。

一瞬だけ、レイは左利きなのだろうかとアスカは思ったが、昨日、学校で彼女は、
シャープペンを右手に持っていたような気がした。

だが、そんなことを考えるのもほんの一瞬の内で、すぐさま驚きがアスカを支配した。
その拍子に、ドアが軋みを立てて軽く開いてしまった。

「あっ」

そのドアの音に、レイとシンジはそちらの方を向いて小さく声を洩らした。
それとまったく同時にアスカも思わず「あ」と呟いた。

5秒ほど、3人はそのまま静止していた。
そして、誰からともなく意味のない笑いを浮かべて、「あはは」と空笑いをした。

「あんたたち、何してたの」

最初に真面目な表情を取り戻したアスカが、シンジを見つめながら訊いた。

「あ」

レイが何かを思い出したように呟くと、シンジに向き直った。

「碇くん、いまのはいったいどういうことなの」

「それより綾波、どうしてぼくの部屋にいるんだよ」

寝癖が立っているシンジが訊き返した。

「もう、ちょっと待ちなさいよ」

誰も彼もが質問をぶつける中で、仕方なくアスカが取り仕切ることにした。

「全部アタシが質問するから、ふたりとも従うように」

反抗は許さない、という凄みのある声で言った。




■4

「まず、レイ」

アスカは部屋に入って、シンジとレイを並んでベッドに座らせると、
自分はシンジの勉強机の椅子に座って、レイに呼びかけた。

「はい」

先生に怒られる小学生、というような恰好でレイはうなずいた。

「あなたはどうしてこの部屋にいたの?」

「それは、シンジくんを起こそうと思って」

「そう・・・・・・ビックリしなかった? こいつの恰好を見て」

アスカに視線を送られて、シンジは下着一枚だったことを思い出し、
急いで薄手の毛布にくるまった。

「そりゃあ、ちょっと驚いたけど、でもこの暑さだから当然かなと思って」

レイは、恥ずかしそうなシンジを横目に見ながら言った。

「それから、レイは何をしたの」

「何だか、碇くんの寝姿が子供っぽかったから、ちょっとイタズラしてやろうと思って、
その、身体を叩いたり、ほっぺたつねったり、鼻つまんだりしてた」

その言葉に、シンジは、えっという感じでレイを見た。

「イタズラしてても碇くん、起きなかったから、しばらくそうして遊んでたの」

「なるほどね。それがどうしてああいう状況になったの」

アスカはシンジに目を向けた。
レイが「分からない」と首を振ったが、アスカはシンジを見つめたままだ。

「それは・・・・・・」

シンジは、アスカの顔を覗き込むようにして言った。

「ぼく、夢を見ていたんだ」

「夢? どんな夢よ」

アスカが訊くと、シンジはさっき見ていた夢を簡単に話した。
話を聞く内に、レイの顔が赤くなっていった。

「アンタ、それほんとなの?」

アスカは、信じられないという風な口ぶりで訊いた。

「ほんとだよ。でも、寝ぼけて同じことをやってたなんて・・・・・・知らなかった。
綾波、ゴメンよ。わざとじゃないんだ」

シンジはレイに向き直って頭を下げた。

「本当かしら」

アスカはまだ信用していない表情だ。
だが、レイはことのほか真摯な態度でシンジに謝った。

「謝ってくれればいいんだ。私のほうこそぶっちゃってごめんね」

「いや、いいんだよ。ぼくが悪かったんだしさ」

「ううん。痛かった?」

「いや、別に大丈夫だよ」

シンジは右頬をさすりながら笑った。レイも安心したように笑みを洩らした。

(ちょっとちょっと、これはいったいどういうことなの)

お互いに見つめあいながら笑顔を交わすふたりを見て、アスカに焦りの色が浮かんだ。

(何だかいい感じじゃないの。こんなの見てらんないわ。何とかしなくちゃ)

「シンジ」

アスカは動揺を隠しながらシンジに呼びかけた。

「アンタ、本当は気付いてたんじゃないの。寝た振りしてたんじゃないの。
きっと、薄目でレイのこと見ながらエッチなこと考えてたに決まってるわ。
レイだって知ってるでしょう、こいつが変態だってこと」

「ぼくはそんな・・・・・・」

アスカは、なぜかシンジを怒らせたくなった。
シンジとレイが仲良くしてるのを見て腹立たしくなった思いが、
屈折した形でアスカの口を動かした。

だが、シンジは怒るどころか困る一方で、逆にレイを怒らせてしまった。

「アスカ、それは言いすぎよ。それに、碇くんは変態なんかじゃないわ。
昨日は、もののはずみで私も口にしたけど、本当はとってもいい人なのよ、碇くんは」

「ど、どうしてそんなことが言い切れるのよ」

アスカは驚きつつも、憮然とした態度で言った。

「そもそも、レイは昨日シンジと会ったばかりじゃない。ここに来たばかりじゃない。
たった1日だけで、シンジのこと分かったような口聞かないでよ」

アスカは、しまった、と思った。
だが、失言があったことを気にしながらも、彼女は続けた。

「それとも何、早くもそれほど親密な関係になっちゃったってことなの」

「違うよ!」

シンジとレイが、即座に異口同音で叫んだ。

「アスカ、どうしてそんなこと言うの」

レイが泣きそうな声で言った。

「私のこと嫌いなの?」

アスカはハッとなった。
なかば八つ当たりのようにしてシンジを責めようとしていたのに、
結果的にレイにも口撃を加えていたことに気がついた。

さらに、レイが昔いじめられていたということも思い出した。
いじめられても、助けてくれる味方がひとりもいなかった、
というレイの過去が、アスカの頭をよぎった。

これでは、自分もレイをいじめているのと同じではないか。
アスカはそう思うと、途端に申し訳なく感じた。

結構口のたちそうな性格のようで、実際はすごく打たれ弱いのかもしれない。
ちょっとした言葉で傷ついてしまうようなコなのかもしれない。
アスカはレイに謝ろうとした。その時――

レイの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

目を押さえるでもなく、ただ涙を伝わせているレイの態度に、アスカは困惑した。
これでは、もう完全に自分はいじめっこではないか、と。

レイの隣で、シンジも慌てたように、彼女の肩に手をやるかどうか迷っていた。
なぐさめの言葉、もしくは態度を見せないといけないような感覚に襲われ、
シンジはとにもかくにも優しく言葉をかけた。その時自然と、彼の手がレイの肩にかかった。

「綾波・・・・・・」

だが、名前を呼ぶだけで、そこから先の言葉が見つからなかった。

シンジは、女の子が泣いている場面に遭遇したことがなかった。
惣流アスカという幼なじみがいるのにもかかわらず、だ。

何しろ、自分はいつもアスカに助けられる役ばかりで、アスカを助けたことがないのだ。
性格的に強気の彼女がいじめられている場面も見たことがなかった。
ただし、シンジの知らない所で彼女がいじめられていた可能性がないわけではない。

だから、シンジはこういう時、何て言葉をかければいいか知らなかった。
その代わりに、彼は幼なじみを睨むことによって解決を見出そうとした。

「アスカ、どうしてそんな言いがかりをつけるんだよ。綾波がかわいそうじゃないか」

「な」

アスカは驚いた。シンジの顔に怒りの色が浮かんでいるのだ。
声にも怒りの調子が含まれていた。

たったいま、レイに謝ろうかと思っていた気持ちが、どこかへ飛んでしまった。
シンジの「綾波がかわいそうじゃないか」という言葉に、嫉妬のような感情を覚えたからだ。

「あ、アンタ、もしかしてレイのことが好きなんじゃないの」

アスカは、どうしてこんなことを言うのだろうと自分で思いながら、
シンジに喋る隙を与えないように早口で言い放った。

「だから、そうやってかばうんでしょ。肩に手なんか回しちゃってさ。
それに、アタシのこと嫌いだからそうやって冷たい目で睨むんでしょ。
本当はいっつもアタシのこと疎ましく思ってたに違いないわ。
そうだ、って顔に書いてあるわよ」

アスカも半分涙声になっていた。

「アスカ、どうしてそう決め付けるんだよ。ぼくはそんなこと思ってないよ」

シンジは、諭すような感じで静かに言った。

「さっきのトラブルは、綾波のちょっとしたイタズラとぼくの勝手な夢が、
変な風にごっちゃになって起こったことで、もうお互いに納得したんだよ。
それを蒸し返すように、っていうか、別の方向にもっていこうとするなんて、
それがちょっとひどいって思っただけで、綾波が好きだとかアスカが嫌いだとか、
そういうのは全然関係ないよ」

「じゃあその手は何よ」

アスカに睨まれて、シンジはハッとなってレイの肩から手を離した。
その時、すすり泣きをしていたレイの息づかいが静かになった。

シンジはバツが悪そうにうつむくと、アスカの視線を気にしながらレイに呼びかけた。

「綾波、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ」

レイの言葉が即座に返ってきて、シンジもアスカも驚いた。
何に驚いたのかといえば、その声のトーンである。
重々しい雰囲気からはまるで考えられないような明るい声だったのだ。

「だって、もうこんな時間だよ」

と言って、レイは勉強机側の壁にかかった時計を指差した。
すでに8時10分を回っていた。

「ほら、早くしないと今日も学校に遅れちゃうよ」

レイはベッドから立ち上がると、シンジとアスカの肩をポンと叩いて部屋から出て行った。

部屋に残されたふたりは、しばし呆然としていた。
綾波レイの、いまの変わりように驚きを隠せなかった。

レイが自分の部屋からカバンを持ち出して、階段を下りようとした時、
もう一度シンジの部屋を覗いてこう言った。

「ほら、何やってんのふたりとも。置いてっちゃうわよー」

レイは笑みを浮かべながら、軽快に階段を下りていった。

シンジとアスカは、そんなレイを見送ると、互いに顔を見合わせた。
そして同時に、

「えっ?」

と、目を見開いて呟くと、ようやく遅刻しそうな現状に目を向ける気になり出して、
シンジはそそくさと着替え始め、アスカもそそくさと部屋を出て行った。

階段を下りながら、アスカは首をひねっていた。

(分からない。綾波レイ・・・・・・あのコが全然分からない)

ことの発端は、いま思えばそう大したことではなかった。
しかも、アスカはそれほどきつい言葉をぶつけた覚えもなかった。
それなのに、綾波レイは泣き出してしまった。
すると、シンジに向かって思ってもいないことを言う自分も涙が出てきた。
ところが、レイは急にケロッとした表情で明るい声を出した。

(分からない・・・・・・本当に危険なコなのかもしれない)

アスカはぶつぶつ言いながら、知らず知らずのうちにシンジの家をあとにしていた。




■5

「ねえ」

前方にレイの姿を認めると、アスカは大声で呼びかけた。

「なあに」

歩みを止めて、レイはくるっと振り向いた。

家から学校までは歩いて10分だから、アスカとレイは歩いても充分間に合う。
ひとり家に残してきたシンジは別だが・・・・・・

まだ、家から100メートルという所で、レイはアスカに呼び止められた。

「あのさ・・・・・・」

レイに追いつくと、アスカは少しモジモジしながら言った。

「さっきはごめんね」

「え、何が?」

と、レイが訊き返してきたので、アスカはいぶかしげな目で彼女を見た。
ところが、皮肉っぽくとぼけている様子は微塵も感じられない。

「だからさ、さっき、アタシがいろいろ言っちゃって・・・・・・」

「あー、何だ、あれか。全然気にしてないよ」

と明るく言いながら、レイは歩き出した。アスカも慌てて隣をついて行く。

「でも・・・・・・」

でも、さっき泣いてたじゃない、と言おうとしたが、気にしてないと言ってる手前、
これ以上は何も言うまい、とアスカは思った。

しかし、レイのこの変わりようがどうも気になって仕方なかった。
遅刻しそうだというのを口実に、とりあえず体裁を取り繕って明るく振る舞っているが、
実は気にしてないというのはうそで、心の中ではまだ根に持っている――
という考えがアスカの頭から離れなかった。

ところが、そんなアスカの疑念を見透かしたようにレイが言った。

「もしかして、本当はまだ怒ってると思ってるんでしょ」

アスカはギクッとした。まったくその通りだった。

「あはは、アスカって結構分かりやすいタイプなんだね」

ついさっき、すすり泣きをしていたレイが、いまは面白そうに笑っている。
だが、すぐにその笑いを引っ込めると、少し真面目な声でレイは言った。

「実はさ、私も自分で人が悪いな、とは思ったんだけどね・・・・・・、
あれ、うそ泣きだったんだ」

「うそ・・・・・・泣き・・・・・・?」

アスカは目を丸くして、その場に立ち止まった。
レイはそれに一歩遅れて止まり、くるりとアスカに振り向いた。

「そうなの。謝るのは、本当は私のほうだったね。ごめんね、アスカ」

「で、でも、あなた本当に泣いてたじゃない。涙流して」

「私、涙腺が弱くってさあ」

言いながら、レイは両目尻を指で下げた。

「っていうのは冗談で、いや、あながち冗談じゃないかもしれないけど、
私ね、自分で涙をコントロールできるんだ」

「コントロール? ってまさか、泣きたい時はいつでも泣けちゃうってこと?」

アスカが訊くと、レイは笑顔でうなずいた。

「うそー・・・・・・」

アスカは絶句した。それは、二重の意味の絶句だった。

ひとつは、レイがベテラン女優のように涙をコントロールできることの驚きだった。
そしてもうひとつ、その能力ともいうべき涙を使ってからかわれたことの驚きだ。
アスカにとって、後者のほうがショックが大きかった。

なにしろ、シンジとの仲を言われること以外、アスカはまともにおちょくられたことがない。
頭はよく回るほうだと自分でも思っていて、なんでも先回りして考える事が出来た。
だから、完全にレイに出し抜かれたことがショックだった。

しかし、ショックと共に、何か別の感情がアスカに沸き起こっていた。

(このコ、危険な存在かもしれないけど・・・・・・何だか面白いわね)

面白い、とは、もちろん面白おかしいという意味ではなく、
ライバル視するのにはもってこいのタイプだ、という意味合いである。

ライバル視するといっても、それの理由はひとつだけではなかった。

アスカは、強気な口調や、すぐに手を上げることから、
鈴原トウジなどに『暴力女』という異名を持たれてはいたが、
やはり彼女の美貌は、学校の男子生徒を魅了するのに充分すぎるほどの輝きがあった。
だから、アスカは一躍『学校のマドンナ』に上りつめていた。
トウジたちの疑問視する目も、少数意見としてあるにはあるのだが・・・・・・

そんな中、綾波レイという美少女が現れた。
美少女、という表現はあまりに陳腐だが、まさにその言葉通りの少女なのだ。

アスカは、自分の座を脅かす人物の登場を、いまをもって歓迎することにした。

理由はこれだけではない。
レイは、何と碇シンジの家にやって来てしまったのだ。
幼なじみとして毎日顔を合わせていたシンジのすぐそばに、彼女は現れた。

いままで独り占めにしてきたシンジを奪われてしまうような、危険な存在である。
これを、一般的には恋のライバルと言うのかもしれないが、
アスカは何となくそれを認めようとしていなかった。

そこで、小さい頃からずっと一緒にいたシンジを盗られてしまうのは、気分がよくない。
という風に、なるべく『恋』だとか『愛』だとかを意識しない感じで思うことにした。

もしかすると、その他にもライバル的存在になるかもしれないが、
いまのところはその2点だけである。
あえて言えば、レイにからかわれたことが起爆剤となったかもしれなかった。

「あ、碇くん」

レイの声に、アスカは振り返った。

寝癖が立ったままの頭で、シンジがこちらに向かって駆けてくる所だった。
アスカたちに追いつくと、肩で息をしながら安堵の表情を浮かべた。

「あー、よかった、ふたりに間に合って」

「残念でしたー」

レイはそう言うと、アスカの腕をとって駆け出した。

アスカは、えっと思ったが、レイが目で合図するのを感じ取った。
そして、ふたり笑みを浮かべながら、今度はアスカがシンジに向かって言った。

「ほーら、シンジ。置いてっちゃうわよー」

「もう、待ってよふたりともー」

シンジは、仲良さそうに駆けていく女の子ふたりを少し不思議そうに見ながら、
息を整えてもう一度走り出した。




つづく




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

何とまあ話の流れの遅いこと、とビックリするような話でした。
さらに、タイトルからして推測しやすい話ですね。
まあ、それを『狙い』と言ってしまえば聞こえはいいですが、
やはり苦しまぎれという感は否めないもようです。

なかなか人物の心情描写がうまく出来ません。
その悲惨な様子がありありとこの話から窺えますが、
精進したいと思います。

ではではまたまた。


作者"うっでぃ"様へのメール/小説の感想はこちら。
woodyright@yahoo.co.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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