■1

「・・・・・・暑い」

綾波レイは、ベッドの上でため息をついた。

暗い部屋の中で、彼女の目だけが赤く光っているように見える。
闇に薄暗く浮かぶ壁掛けの時計は、間近で見ないと分からないが、
時刻は2時を回っていた。もちろん、午前の2時である。

日付が替わって、今日は土曜日だから学校は休みだが、
レイにとって、こんな深夜に起きていることは珍しい。

彼女の眠りを妨げているのは、このへばりつくような暑さだ。
家に帰ったあと、急に夕立が降り、そのせいで湿気をともなう暑さに見舞われたのだ。

「はあ」

レイは、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
そして、シーツの冷たい場所を脚で探すのだが、ほとんどが自分の熱で温められていた。
窓は網戸をかけて開けているのだが、部屋のドアを閉めているから風が通らない。
本当はドアを開けたいのだが、隣の部屋にシンジがいるので、ためらいがある。

「ああ、もう。どうして眠くならないの」

たまりかねて、レイは自分に怒りをぶつけた。

首元に2つボタンの付いた、ピンクのかわいらしいパジャマを着ていたが、
暑苦しいのでボタンは2つともあけられ、胸元が少しはだけている。
下も揃いのパジャマズボンだが、とても短いので細い脚がスラリと伸びている。

見た目には涼しい恰好なのだが、レイは全身にたくさんの汗をかいていた。

(ダメだ、着替えよう)

夜中だということを意識して、レイは口をつぐんだ。

(その前に何か飲もう。じゃなきゃ脱水症状で死んじゃう)

勢いをつけてバッと起き上がると、スリッパを履いてそっと部屋から出た。

廊下のほうがいくらか涼しいように感じられた。しかし、それでも暑いものは暑い。

家族4人とも2階で眠っているので、足音に気をつけながら階段を下りる。
電気をつけずにいるから、暗いために用心しているせいもあった。

壁づたいに階段を下りきると、リビングに入り、すぐに部屋の電気のスイッチを入れた。

「わっ」

パッとつくタイプのライトの眩しさに、レイは小さく叫んだ。
目がしぱしぱして、なかなか慣れるのに時間がかかった。

「うーん」

何度もまばたきをして、ようやく目が慣れたところで冷蔵庫に手を伸ばした。

麦茶の入ったプラスチックの容器を取り出すと、コップになみなみと注ぐ。
そして、入れたてのをグイッと一気飲み。

「ふう」

あ〜生き返るう、という表情を浮かべると、もう1杯だけコップに注いだ。
今度はちょうど半分くらいで止める。

2杯目は少しずつチビチビと飲みながら、麦茶を冷蔵庫にしまうと、
レイはソファに座ってため息をついた。

「ああ〜、おいし」

感嘆のため息である。

と、テレビの上に乗っている置時計を見た。

(うわ、もう2時過ぎだよ。このまま眠れなかったらどうしよう)

眠気がこないのが急に心配になってきた。

『寝不足はお肌に悪い』と、育ての母から口酸っぱく言われていたので、
レイは早寝早起きで、充分な睡眠をとることを心がけていた。

白くてツヤのある、いわゆる美白の素肌が何よりの自慢だった。
だから、2時を過ぎた時計を見て、レイは息がつまる思いになった。

2杯目の麦茶を飲み干すと、次に洗面所に向かった。タオルで身体を拭くためである。

念のためリビングの電気を消し、洗面所の電気もつけずに、レイはパジャマを脱いだ。
替えのパジャマを用意しておけばよかったが、面倒だし、汗が気持ち悪いし、
どうせこの時間なら誰も起きてはこないだろう、と、自分を棚に上げて、
部屋で着替えればいいやと思い、先に身体を拭くことにした。
それが誤った選択だとも知らずに・・・・・・




■2

「・・・・・・暑い」

レイが1階に下りたのと同時刻――

惣流アスカは暑さで目が覚めた。

彼女の部屋には、シンジやレイの部屋と違ってエアコンがついているため、
タイマーをセットして冷房をつけたままにしたので、一応は眠りにつくことが出来た。
しかし、それも長くはもたなかった。

(まだ暗いなあ、いま何時だろう)

アスカは、机の上に乗った目覚まし時計に目をやった。
長針短針の先が発光するので、闇の中でも時刻が確認出来る。

2時10分過ぎ――

(どうりで暗いはずだわ)

大きくため息をつくと、アスカは汗をかいているのを感じた。
背中を浮かすと、寝巻きのTシャツがペタッと背中に張りつく。
額を拭うと、玉のような汗を浮かべていることに気がついた。

(うー、気持ち悪い)

ベッドの上に上半身を起こし、アスカはうだった。

(こんな時間だからシャワーはダメだろうなー。でも気持ち悪いよう)

アスカは悩んだ末、汗を拭くことで我慢しようと思った。

(そうだ、ついでに何か飲もうっと)

ほぼ同時刻に、レイと同様のことを考えながら、アスカは静かに1階に下りていった。

階段の途中に窓があり、無意識に外を覗いてみた。
すると、アスカはすぐ近くに明かりを見つけた。

そこの窓から碇宅の外観が少しだけ覗け、リビングに当たる所の電気がついているのだ。

(あれ、誰か起きてるのかな)

一瞬だけ立ち止まっただけで、そのままアスカは階段を下りながら思った。

(誰だろう、シンジかな)

真っ先にシンジの顔が思い浮かんだ。
自分と同じ理由で、暑さのために下りてきた汗だらけのシンジが浮かぶ。

シンジがそこにいることを想像すると、アスカは急に恥ずかしくなった。
何しろ、上はTシャツを着ているものの、下はショーツという恰好なのだ。

(あ、アタシったら何を恥ずかしがってんのかしら。シンジが覗いてるわけでもないのに)

妙に慌てながら1階に下りると、すぐにリビングのドアを開けた。

「あれ、涼しい」

蒸し暑い廊下からリビングに入ると、ひんやりとした空気が身体をなでた。
それは、エアコンのつけっ放しのせいだった。
暗闇の中で、エアコンの電源がついていることを報せる赤いランプが光っている。

きっとお父さんが消し忘れたんだな、と思いながら、アスカは冷蔵庫に手を掛けた。
水分補給飲料で喉を潤すと、満足したように惚けた顔をした。

汗をタップリ含んだTシャツをすぐに脱ぎたかったが、冷房が気持ちいいので、
しばらくエアコンの前で涼む。その間、ずっと電気はつけないでいた。

「う〜ん」

快適な空間にいると、眠気がすぐに襲ってきた。
頭がぼんやりして、まぶたが重くなり、大きなあくびが出る。

と、あくびと共におくびも一緒に出てきた。
さっき一気飲みをした時に出すのを我慢したため、今頃になって出てきてしまったのだ。

人前じゃ絶対に出来ないな、とアスカは苦笑した。
間違っても女の子の前はもちろん、男の子の前では確実にやってはならない。
でもいまは深夜の家の中。アスカの緊張感はゼロといってよかった。

ところが――

突然、どこかから大きな悲鳴が聞こえた。
キャーッという、おそらく女性のものと思われる金切り声のような悲鳴だった。

アスカの身体がビクンとした。

(な、何よいまの・・・・・・)

急いで電気の明かりをつけた。
暗闇の中で悲鳴を聞いては、恐怖が募るばかりだったからだ。

アスカは、記憶を頼りに、悲鳴の出処を探すようにその場をくるくる回った。
だが、おおよその見当はついていた。

(いまのは、もしかして・・・・・・レイ?)

アスカは外が覗ける階段途中の窓に向かった。




■3

アスカが悲鳴を聞く数分前――

レイは、暗闇の中、洗面所で身体を拭いていた。
一応下着だけは着けた状態で、手拭きのタオルを使って全身の汗を拭っている。

風呂場から上がって身体を拭くのとはまた別の、こそばゆいような気持ちいいような、
自分でもよく分からない感覚にとらわれていた。

洗面所は、キッチンと隣り合わせで、階段付近の廊下とも接している。
念のため双方のドアを閉めていたが、裸でいるとどうしても緊張があった。

そして、さっぱりして2階に行こうと廊下側のドアを開けようとしたその瞬間――

ペタッ、ペタッ、ペタッ・・・・・・

2階から、階段を下りてくる誰かの足音が聞こえた。
裸足の裏が床に吸いついて鳴るペタッペタッという音が、ゆっくりとした間隔で聞こえる。

(はっ!)

レイは、咄嗟に洗面所にある小さな籐のチェストから、バスタオルを引き抜いた。
それを身体全体が隠れるように縦に広げて、誰が降りてきたのか耳を澄ませた。

足音の感じでは、いったい誰なのか見当がつかない。
ゆっくりとした足取りなのは、電気をつけていないからということも考えられるからだ。

降りてくる誰かは、シンジかもしれないし、ユイかもしれない。
だが、なぜかゲンドウだとは想像できなかった。
何となく、いっぺん寝たら朝まで起きないようなタイプに思えたからだ。

いずれにしろ、ユイにですら、裸を見られるのは恥ずかしかった。
とにかくレイは物音を立てないように、洗面所でジッと様子を窺った。

とうとう相手は1階に下り、リビングに入っていった。
すぐさま電気がつけられたが、まだキッチン近くは薄暗い。
どうやらリビングの電気だけしかつけていないようだ。

レイは、台所と洗面所の境にあるドアを少し開けて、そこから覗いてみた。
しかし、あまり中の様子がつかみにくいので、ほとんど耳に神経を集中させていた。

冷蔵庫が開く音。
コップに液体が注がれる音。
冷蔵庫が閉まる音。
喉ごしの音。
一息ついたため息の音。

ちょうどそこで、レイは、そこにいるのがシンジだと悟った。
ため息に、ややくぐもった低い音を感じたからだ。

綾波レイは、緊張で身体が固まった。
ユイだったら、恥ずかしいけど、ここから声をかけて事情を話せばどうにかなった。
だが、相手は同い年の男の子なのだ。

しかも、シンジとは朝――正確にいえば昨日、金曜の朝のことがあっただけに、
余計にこの状況はまずかった。

(どうしよう、どうしよう。何とか気付かれずに抜け出せないかな)

恥ずかしさと恐怖が混じり合って、レイの胸は早鐘を打ちつけていた。

(ああ、もうダメ)

この状況に耐え切れなくなって、廊下側のドアノブに手をかけようとした。
その時――

ガツン、という感じで、レイはチェストの脚に足の小指をぶつけた。

(あ・・・・・・くっ、くっ、くっ、くうううう)

本当は、痛い痛いと叫びたいほどの、熱いような痛みを感じていたが、
向こうの相手に気付かれたくないがため、声にならない声を上げて我慢した。

だが、足の指をぶつけた時の音で、相手に気付かれてしまった。
ゆっくりと、こちらを警戒するような足取りで、相手は洗面所に近づいてきた。

レイは、もう様子を見る余裕はなく、とにかくこの姿を見られまいと隅にうずくまった。
まだ足の痛みがジンジンとして、少し涙も出てきた。
涙の理由は、痛みだけではなかった。

(ああ、どうしよう、来ちゃうよ来ちゃうよ。ヤダヤダ、来ないで来ないで来ないで)

レイは、まるで殺人鬼に追い詰められたヒロインのように、心の中で懇願した。

だが、彼女の必死の願いは届かず、台所と洗面所の境のドアがスライドされた。
かすかな光が洗面所に入り込んでくる。

ちょうどそのドアを入ると、すぐ左手に洗面台がある。
その前には洗濯機が置かれていて、レイはその間でタオルを頭からかぶってうずくまっていた。

見つかった――

レイはそう思った瞬間、顔を出して覗き込むように上目づかいをした。
もちろん、身体はタオルでしっかりと隠したまま。

そして、やって来た相手を見た。
台所から、相手の顔だけがこちらを覗きこんでいた。

目が合った。
目を大きく開けたことが自分でも分かった。
声が出ない。
何か言おうとするのだが、言葉にならない。

レイと相手は、お互いに驚いたまま見つめ合っていた。
それはほんの数秒の間だったが、ふたりには何時間もの長さに感じられた。

「あ・・・・・・」

相手が、やっとのことで小さく声を洩らした。

それに反応して、レイの緊張の糸がプツッと切れた。

「キャーッ!!」

レイの悲鳴が、家中を駆け巡った。




■4

「はっ」

誰かの悲鳴が聞こえて、碇ユイは目を覚ました。
その拍子に、かけていたタオルケットをガバッとはいで上半身を起こした。

(何、いまの声は・・・・・・)

お化け・幽霊等のオカルト的なことが一切苦手なユイは、熱帯夜の中、
寒気を感じて両腕をさすった。

と、今度は階下から何か物音が聞こえてきた。
足音のような、床のきしみのような、どちらとも取れない奇怪な音に聞こえた。

おかげで、ユイはますますおののいた。

「何よ、何よ、何なの。やめて」

怖いのを払いのけようと、少し大きな声で呟いたが、恐怖は募るばかりである。

「いったい何なの、いまの悲鳴は。ねえ、あなた」

まだ目が慣れないため、暗闇の中、ユイは夫の姿を手で探した。

結婚してからすぐに買ったダブルベッドを、いまでもずっと使い続けている。
だから、すぐ隣にゲンドウの身体が横たわってあるはずだった。

「あれ? あなた?」

ところが、そこに夫の姿はなかった。
彼が寝ていた部分を触ると、かすかに温もりを感じた。

「どこいったのかしら、こんな時に・・・・・・」

ユイは急に心細くなった。
さっきまでは隣に夫がいることを前提にしていたので、恐怖も肥大するには至らなかったが、
ひとりでいたことを知ると、恐ろしさは何倍にもなって襲いかかってきた。

「・・・・・・どうしよう。見に行きたくないよ」

怯えきった子供のように、ユイは身を縮こませた。
そういう仕草が妙に子供っぽく、まるで少女のような雰囲気を醸し出している。

「怖い、怖いよう。ああ、怖い」

何とか気を紛らわせようと喋るのだが、怖い怖いと言うことが逆効果なことに気付いていない。
しばらく呟きながら、行こうか行くまいか考えていたが、ユイはついに決断した。

「よし、行こう・・・・・・ヤダけど」

語尾の『ヤダけど』が、いまのユイの心情を的確に表していた。

ベッドから降りると、自分のスリッパを探してそれを履き、
なるべく足音を立てないよう気をつけながら階段に向かった。

部屋を出るとき、スリッパ越しに何か布のようなものを踏んづけた感触があった。
だが、それに気を取られたのは一瞬のことで、ユイはすぐ廊下に出た。

その時、レイの部屋が開いているのに気がついた。
寝るために2階に上がってきた時は、ここのドアは開いていた覚えがあった。
だから、何気なく中を覗いてみた。暗くて見えないので、階段の電気をつけた。

レイはそこにいなかった。

(・・・・・・さっきのは、レイちゃんの声だったのかしら)

そう思うと、少しだけ気分が楽になった。
少なくとも、お化けの声だという可能性が減ったことは確かだった。

しかし、ユイの緊張が解かれたわけではない。

実にゆっくりとした足取りで、階段を1段1段、抜き足差し足で下りる。
あまりにゆっくりなため、足が震えるほどだった。

と、途中でユイは立ち止まった。

(そうだ、シンジの様子を見てなかった)

階段を下りる時、シンジの部屋は無意識的に目に入ったはずだが、
そのドアが閉まっていたので、やり過ごしてしまっていた。

見に行こうか迷うのはほんの一瞬だった。

(やめとこう)

ユイは止めていた足を、また動かし始めた。

ひとりぼっちなのが怖かったので、シンジを起こして一緒に行けばいいと思ったのだが、
それではおとなげない、と、子供じみた発想が湧いてしまったのだ。

シンジを放って、ユイはまたゆっくりとした動作で階段を下りた。
耳をそばだてて下の様子を確かめながら、着実に階下に向かっていく。
その間は特に何の声も音も聞こえなかった。

そして、最後の一段を降りようとした時、

「きゃっ」

ユイは、耳に神経を使いすぎて、足元をおろそかにしてしまい、
床につけたスリッパが滑るのと同時に自分の足も滑らせてしまった。

その時上げた声は、出来るだけ最小限の音にしたつもりだったが、
この先にいる『誰か』に間違いなく聞かれてしまったと思った。

何とか壁に手をついて、転ばずに済んだ。
そして、しばらくその場に立ち止まって、様子を窺ってみた。

1階につく寸前の所で、すでにリビングの明かりがついているのは分かっていた。
だが、中は何の変化もなさそうだ。

(気付かれなかったのかしら・・・・・・)

ユイは、ドキドキしながら、ゆっくりとリビングのドアに近づいた。
そして、ついに意を決してドアを開けた。

彼女が見たものは――何と、白のブリーフ一枚だけという恰好の夫・ゲンドウの姿だった。




■5

「碇くんって、すっごい鈍感なんだね」

レイは、呆れ顔で言った。

土曜日の朝――

今日も日差しのキツい、『暑い』としか感じられない朝である。

学校は休み、会社も休みとあって、遅い朝のダイニングテーブルには、
碇家の家族4人が全員揃っていた。団欒の中には、惣流アスカの姿もあった。

「アンタって、どーしてそんなに眠るのが好きなわけ?」

アスカもシンジをつついた。

「別に好きってワケじゃないけど・・・・・・」

食パンをかじりながら、シンジは呟いた。

「こんなんだと、きっと大地震が起きても平気でグースカ寝てるに違いないわ」

アスカが言う『こんなん』とは、今日の未明に起きた出来事を意図的に指していた。

その出来事の真相はこうである。


            *      *      *


「れ、レイ・・・・・・」

裸をバスタオルで隠したレイを見て、碇ゲンドウは困惑した。

たったいま、彼は悲鳴を上げられたばかりである。

その顔のせいで、小さな子供を――自分の息子も含め――泣かせたことがよくあった。
だが、さすがに中学生の女の子に叫ばれたのは初めてだった。

しかも、いまはグラスをかけていないのだ。
視界が悪いために据えたような目になっていることが、レイをさらに怖がらせた。

「・・・・・・見ないで」

レイが恥らいながら目をそらしたので、ゲンドウは思わず見入ってしまった。
彼女の恥らう様子が、とてもチャーミングだったのだ。

だが、見惚れるのも一瞬のことで、自分も下着一枚という恰好だったことを思い出し、
その恰好を見られて気がして、顔をサッと引っ込めた。
そして、そのままドタドタとリビングまで進んだ。

ユイが悲鳴を聞いたあとに聞こえてきた物音は、いまの彼の足音である。
足音と共に、床のきしみも軽くしていた。

ゲンドウはしばらくリビングの真ん中で、息を弾ませながら呆然と立ち尽くしていた。

その間レイも、よりによって『おじさま』に見られてしまったことの驚きと、
羞恥心と、屈辱のようなものが混ざって、小さく息づきながらぼうっとしていた。

すると、「きゃっ」という小さい悲鳴が近くで聞こえた。

洗面所にいるレイも、リビングにたたずむゲンドウも、思わず身体を震わせた。

レイは、声の主が、廊下にいることはすぐに分かった。
だが、その相手は警戒しているのか、何の物音も聞こえない。

ゲンドウは、いまの声がレイのものだと思い込んでいた。
こちらの様子を窺って、この姿を見てしまったために叫び声を洩らしたのだという風に。

しばらくして、リビングのドアに、廊下からぼうっと影が映りこんだ。
ゲンドウは、まだそれがレイだと思っていた。

(まずい、弁解したところで聞き入れてもらえるだろうか・・・・・・)

彼も、レイやアスカと同じく、暑さのために目を覚ましたのだった。
そして、時間が時間だし、ここは自分の家だ、構うものか、と寝巻きを脱いで、
下着一枚の恰好になって1階に下りていったのだ。

ところが、その1階の洗面所に先に、裸にタオルをくるんだレイがいた。
いろんな意味でショックだった。

息子のシンジに、レイが家にやって来て早々、結婚話を持ちかけたのは、
ゲンドウ自信が彼女を気に入ったことが最大の理由だった。

初めてレイを見た時、それは初めて自分の妻と会った時と同じくらい、
心がときめいた。美しい、かわいい、と素直に思った。

その彼女の素肌を、早速目にかけてしまったのだ。動揺は計り知れないものだった。
まるで、思春期の男の子が、初めて女性の素肌を見た時のような興奮があった。

と同時に、見てしまったことに対して、レイに不審がられるのではないか、
という不安がよぎった。自分は彼女にどんな顔をすればいいのだろうか、と悩んだ。

さらに、いまの自分の情けない姿を見られてしまったと思い込んでいた。
2重の恥ずかしさが、碇ゲンドウの心をきつく縛り上げていた。

そして、リビングのドアが開かれた。

(ああ、ダメだ――)

ゲンドウは思わず目をつぶった。

「ひゃっ」という小さな悲鳴が、入ってきた相手の口から洩れるのが聞こえた。

観念して、ゲンドウはため息をひとつつくと、ゆっくりと目を開けた。

と同時に、相手の声が聞こえてきた。

「あなた、何してるんですか」

「えっ?」

その声はレイのものではなかった。
いや、レイに何となく似た声色だが、少し低い、そして聞き慣れた声だった。

「ゆ、ユイ・・・・・・」

ドアから出てきたのは、レイではなく、驚愕の表情を浮かべた妻・ユイだった・・・・・・




そのあと、ゲンドウの必死の弁解に、ユイは一応の理解を示して、
洗面所にうずくまっていたレイに対して、その事情を説明した。

さらに、双方の配慮を取って、ユイはまず、洗面所からレイを部屋に連れていった。
その間ゲンドウはリビングにいるため、お互いの姿は見えていない。

そして、レイが着替えを済ませてベッドに落ち着いたのを見届けてから、
今度は夫の着替えを持って下に向かった。

ゲンドウが着替えるのを待ってから、ユイはもう一度事情を確かめた。
夫の弁解もありうる話だが、何しろ恰好が恰好だったため、疑いに疑った。

するとゲンドウは、まるで懇願するように「信じてくれ信じてくれ」と呟いた。
まるで、いまにも泣きそうな表情だったので、ユイは仕方なく信じることにした。
ここまで崩れた顔の夫を見るのは初めてだったからだ。
だが、それがさらにユイの疑念を膨らませることになろうとは、彼は気付いていなかった。


            *      *      *


翌朝、碇シンジが目を覚ますと、テーブルにアスカの姿があった。

アスカは、未明に聞こえた悲鳴のことを訊くため、早々に碇家を訪れていたのだ。

起きたばかりのシンジは、いったい何のことかと首を傾げた。
彼は、暑い中、一度も起きることなくグッスリと熟睡していたのだ。

そして、事情を聞くと、すぐに自分の鈍感さの非難を浴びせられるハメになった。
レイの「碇くんって、すっごい鈍感なんだね」というひと言が、その合図であった。

「でも、本当に何もなかったの?」

シンジは、追及を避けるために、レイに質問をした。

だがそれは、ただ単に非難をかわすだけではなく、意図的に考えた質問だった。
レイのほうを見ながら、シンジは実は父のほうを注目していたのだ。
それは、父が、彼女に気があるような素振りを見せていたことを思い出したからだった。

「あったよ」

と、レイがそっけなく言ったので、一同はイスをガタンと鳴らした。

「何だって」

いちばん動揺しているゲンドウが、訊いた。

「レイ、それはどういうことだ。何にもなかったではないか」

「おじさま」

レイはシンジの父親を見ながら言った。

「あれは、私にとっては何でもないことじゃないんです。とっても恥ずかしかったんですから」

「それは、その・・・・・・私がきみの・・・・・・裸を見てしまったことに対してなのか」

横で、ユイが黙って夫を睨みつけていた。

「そうです。一応タオルで隠したけど、やっぱり見られたのはショックでした」

「・・・・・・すまない」

「私、本当に恥ずかしくて、恥ずかしくて、泣きそうになるくらい恥ずかしくて・・・・・・」

と言いながら、レイの目に涙が浮かんでいた。

それを見て、アスカは直感的に思った。

(もしや、これはうそ泣きでは――)

だが、その考えをすぐに追い払った。

(アタシたちに対してならまだしも、シンジのお父さまに対してするはずないか)

という考えで決着をつけると、アスカは疑惑のふたりに目をやった。

「れ、レイ・・・・・・」

涙をこぼすレイを見て、ゲンドウはさっきよりも激しく動揺していた。

ユイは、そんな夫の姿を軽蔑のまなざしで見ていた。

シンジは、うろたえる父の様子と、涙を流すレイの顔を交互に見やっていた。

アスカは、レイの一挙一動に注目していた。

「あなた、やっぱり何かいやらしいことをなさってたのね」

お隣のアスカがいる前で、ユイは夫に対して冷たく言い放った。

「ご、誤解だ」

声は静かだが、ゲンドウは明らかに動揺していた。
とにかく何か言い繕っておこうと、レイに向き直って言った。

「レイ、あれは偶然の出来事だ。お前が下にいることなど知らなかったのだ。
頼むからそんなに私を責めないでくれ」

「でも」

と呟くと、レイはまたすすり泣きを始めた。

「父さん・・・・・・」

シンジも、父に疑惑の視線を送った。

アスカは相変わらずレイの様子だけを見ていた。

(うーん・・・・・・やっぱりうそっぽいなあ。このコ、いったい何考えてんのかしら)

首を傾けながら、レイの表情を窺っていた時、彼女がフッと息を洩らしたのを見た。
アスカ以外誰も気がついていなかったが、そのあとレイは急に泣くのをやめた。
だが、深くうつむいてしまったので、それからの表情は窺えない。

「ふう」

レイは、顔を上げると、突然明るくため息をついた。

「ああ、スッキリ」

と言って、彼女は指の腹で涙をすくった。

「スッキリ? ってもしかして、またうそ泣きだったの?」

アスカが訊いた。

「え? うそ泣き? 違う違う」

レイは明るい声を上げて、手をパタパタと振った。
その変わりように、碇親子は呆然として言葉もなかった。

「私、6時間ぐらいしか寝てなくてさあ。いつも8時間は寝ないと気が済まないの。
だから、思いっきりあくびして眠気を覚まそうとしたんだ。もちろん噛み殺したけどね」

「あくび?」

「そうよ。こう、ぐうううっと歯を食いしばってさ、思いっきりやるの。
だから涙がいっぱい出ちゃって」

「でも、レイってば鼻をすするように泣いてたじゃない」

「私って、涙と一緒に鼻水もいっぱい出ちゃうから。ティッシュティッシュ」

レイはティッシュを引き抜くと、テーブルに背を向けて軽く鼻をかんだ。

「はあ、もっとスッキリ」

笑顔になると、席に着き直してサラダに手をつけた。
ミニトマトを口に入れ、美味しそうに飲み込むと、
レイは、テーブルの雰囲気に気がついてキョトンとした。

「みんな、どうしたの」

返事がない。

「ねえ、アスカ、どうしちゃったのよう」

隣に座るアスカを揺すりながら、レイは訊いた。
その言葉や表情には、とぼけている様子が微塵も感じられなかった。

「あのさ・・・・・・」

何も喋れない碇親子の代わりに、アスカが訊いた。

「さっき、泣きそうになるくらい恥ずかしいとか言ってたわよね。あれ、ほんと?」

「ほんとだよ。だっておじさま、メガネかけてないと目が怖いんだもん」

「怖いのと恥ずかしいのは違うと思うけど」

「恥ずかしいプラス怖いイコール泣きそうって感じかな。泣きそうってのは冗談だけど」

「冗談・・・・・・あっそ」

呆れ返ったアスカは、思いっきりため息をついた。

「・・・・・・じゃあ、何もなかったのね」

しばらく間があいてから、ユイはレイに訊いた。

「ええ。見られたっていっても一応ちゃんと隠してたし、もう何とも思ってません」

「そう・・・・・・あなた、疑ってごめんなさい」

碇ゲンドウは、そこでようやくホッと息をついた。

そんな中、シンジひとりだけ別のことを想像していた。

暗闇の中に、全裸の綾波レイ。
その身体はバスタオル1枚だけで隠されている。
どこかから伸びてきたたくさんの手が、それをはごうとする。
レイは必死に抵抗するが、無残にもタオルは持っていかれてしまい、その素肌が露わになる。
シンジは、恥らうレイを見つめている。
そして、シンジは一歩足を踏み出し、レイに近づく・・・・・・

「アンタ、いったい何想像してんのよ!」

アスカの怒鳴り声と共に、叩かれた衝撃が頭に伝わった。

「はっ」

気がつくと同時に、頭に痛みが走った。

「バカじゃないの、いきなりニヤ〜っとしちゃってさ。どうせレイの裸を想像してたんでしょ」

ムキになって怒るアスカの言葉は、ズバリ当たっていた。

「やだあ、碇くんってば」

アスカとは反対に、面白そうな表情でレイはシンジをからかった。

「・・・・・・・・・」

せっかくの休みだというのに、いつもと変わらず朝からまるで冴えないシンジであった。




つづく


作者"うっでぃ"様へのメール/小説の感想はこちら。
woodyright@yahoo.co.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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