■1

「ただいまあ」

ふたりは同時に声を出した。

シンジの髪も、レイの髪も、濡れて水滴がしたたり落ちてくる。
シャツやブラウスも、たくさん水分を吸って下の肌が透けるほどになっている。

肩が激しく上下するほど息を切らして、ふたりは玄関先にたたずんでいた。

その理由は、突然の雨だった。

アスカと共に学校を出た時は、まだ4時にもならない時間だった。
その時はまだ雲行きが怪しいという感じの空で、雨が降りそうな空だねとレイが呟いた。

ちょうど家まであと1キロあるかないかという微妙な地点で、雨は降ってきた。
初めはポツポツくる程度だったので、早足で駆ければどうにか済みそうだった。

が、走るごとに雨脚も強くなり、いつの間にかどしゃ降りの雨になっていた。
夏といえば夕立だが、まさにその勢いで、海をひっくり返したような豪雨になった。

雨宿りという手も確かにあった。あったのだが、時すでに遅しだった。
雨をよける間もなかったので、制服はびしょびしょになってしまい、
どうせ濡れたんならさらに濡れてもまた同じだという風に、3人は走り続けた。

途中には、開き直って雨の中を悠々と歩く男子生徒も目に付いたが、
シンジたちはそうすることなく、大急ぎで家路についた。

「あらあら、どこかで雨宿りしてくればよかったのに」

リビングから出てくるなり、碇ユイは、言葉通り「あらあら」という顔をした。

「もうずい分、雨、弱くなってるわよ」

「え」

シンジは玄関のドアを開けて外を覗いてみた。

すでに雨は小降りになっていた。
ちょうど彼らの帰宅を待っていたかのように雨はやみ始めていた。

「そんなあ」

「ほらほら、シンジ、そんな情けない声出してないで、とりあえずそれ脱がなきゃね」

「あ、でも私は」

レイは困ったようにユイの顔を覗き込んだ。
学校カバンで胸元を隠しているのは、下着が透けているのを隠すためだ。

「レイちゃんは洗面所で脱ぐといいわ。シャワーは?」

「あ、浴びます。雨流したいし」

「待って、ふたりともまだ上がらないでね。タオル持ってくるから」

ユイは玄関すぐ右手の洗面所からサッとバスタオルを数枚持ってきた。
そして、それを床に重ねて敷き、

「はい、靴下脱いでからここに上がって、足の裏だけでも拭いて」

ふたりは、脱いだ靴の上で靴下を脱ごうとした。
が、濡れてピッタリと張り付いたそれは、なかなか足から離れてくれない。
片足立ちでバランスが不安定になり、シンジは靴入れに手をついて態勢を整え、
レイはそのシンジの肩に体重をかけた。

濡れた靴下を脱ぐときの感触、その気持ち悪さに顔が歪む。
その気持ちが分かるのか、ユイも一緒にイヤそうな顔をした。

「それじゃ、足を拭いたらこっちにいらっしゃい」

ユイは洗面所のほうにレイを招き入れた。シンジは取り残されたままである。

「ぼくは?」

「シンジはそこで脱ぎなさい」

「えーっ」

「すぐに着替えを持ってきてあげるから、脱いで待ってなさいね」

ユイはそう言うとドアを閉めた。

中ではユイがレイの脱衣を手伝っているようだった。
ドアは、中央に縦長に曇りガラスがはめ込んであるだけなので、様子はよく見えない。
見えないだけに、シンジは制服を脱ぎながらあらぬ想像をしてしまった。

(ドアひとつ隔てただけの所に綾波の裸が・・・・・・って何考えてんだぼくは)

慌てて犬のように頭を振ったので、髪の毛の水滴が四方に飛んでいった。

なるべく洗面所のほうを意識しないようにして、シンジはまず上半身を裸にした。
脱いだシャツの重さに驚きながら、続いてズボンのベルトに手をかけた。

と、その時、ドア向こうから母の声が聞こえてきた。

「わあ、レイちゃんってキレイな身体してるのね」

(げっ)

せっかく想像を振り払ったところなのに、シンジの頭に再度イメージがぶり返してきた。
思わず自分の動きを止めて、さらには息もひそめて中の様子を窺った。

「そんなことないですよお」

「いいえ、とっても白くてスベスベのいい肌だわ。いいわねー、若い肌は」

「おばさまだって、とってもキレイじゃないですか」

「昔は私も自慢の肌だったんだけどね、さすがに皺が出てきちゃって困るのよ。
ああ、レイちゃんが羨ましいなあ。触ってもいいかしら」

「いいですよ」

(げっ)

すぐ隣に自分がいることを忘れられているかのような中の2人の振る舞いに、
シンジは焦りの色を浮かべずにはいられなかった。

だが、そんなシンジの焦りを少し抑えるようなレイの声が聞こえてきた。

「あれえ?」

「どうしたの、レイちゃん」

「ハンカチがないんです」

「ハンカチ?」

「ええ、スカートのポケットに入れておいたはずなんですけど」

「カバンのほうに入れたんじゃない?」

「いいえ、学校から帰る前におトイレに寄って、手を洗った時に使って・・・・・・」

レイは思い出すように喋っていた。

「それをまたポケットに入れたはずなんですけど」

「うーん、走ったからどこかで落としちゃったんじゃない?」

「そうかもしれませんね」

レイの声は、心なしか沈んでいた。

「あーあ、あのハンカチ、お気に入りの柄だったのになあ」

「今度、新しいのを買ってあげるわよ」

「本当? うれしい」

(何ともつかみにくい子だな。コロコロ表情が変わって)

シンジはレイの声を聞いただけで、向こうの表情が手に取るように分かった。

程なくして、ユイが玄関に姿を現した。

「あら、まだ下脱いでなかったの。脱いだらタオルで身体拭いてなさい」

そのまま階段を上って、シンジの部屋に着替えをとりに行った。

風呂場の戸が閉まる音が聞こえたので、レイはもう中に入ったとみて、
シンジは洗面所に手を伸ばしてタオルをつかんだ。念のため目を強くつぶったまま。

すでに下着一枚の恰好になり、シンジは冷たい身体を拭いていた。
気温は高いので、雨に打たれたのがかえって気持ちよかった。

「シンジはどうする? シャワー」

階段を下りながら、ユイは言った。腕にシンジの着替えを抱えている。

「ぼくはいいよ。夜に入れば」

「そう。ちゃんと拭いた?」

「うん」

「それじゃあ、こっちで着替えなさい」

ユイはリビングのドアを開けた。

と、その時、チャイムの音が家の中に響いた。

シンジの着替えをソファにバサッと投げて、ユイは受話器型のインタフォンをとった。

「はい」

シンジは、誰だろうと思いながら、リビングに入って着替えを始めた。

「あ、レイはいまちょっと出られないんだけど・・・・・・」

どうやらレイに用がある客らしい。

「シンジなら出られるわよ。・・・・・・え、私でいいの?」

母の喋り方からして、相手はどうやら同じ学校の生徒のようだ。

「それじゃ、ちょっと待っててね」

受話器を置くと、ユイは玄関に向かおうとした。そこをシンジが食い止めるように訊いた。

「母さん、誰なの?」

「『綾波さんと同じクラスの者です』ってよ。男の子みたい」

「ふうん」

少し気になりながらも、シンジは玄関に向かう母を見送った。




■2

「はあい」

サンダルを突っかけて、ユイは玄関口から顔を覗かせた。

雨はすっかりやんでいたが、一時の凄まじさは水溜りとして道路にあちこち残っている。

インタフォンに出たと思われる相手の姿が見えないので、もう少し身体を外に出した。
すると、塀の外に相手と思わしき頭が見えた。

「どちら様ですか」

受話口では相手は名前を名乗らなかったので、改めてユイは訊いた。

「あのう・・・・・・」

と言って、門前に姿を現したのは、ずぶ濡れの制服姿の男子生徒だった。

「あら、大丈夫? そんなに濡れて」

「あ、いえ、大丈夫です」

大丈夫です、と言うわりには、頭のてっぺんから足のつま先までびしょ濡れである。
短い髪の先端から、ポタポタと水滴が落ちてはコンクリートに染み込んでいく。

「碇くんのお母さんですよね」

その男子はうつむきながら訊ねた。

「ええ、そうよ。レイに用があるみたいだけど、どんなご用事?」

「キレイですね」

「え?」

ユイは目を丸くした。突然言われたことの意味が分からなかったのだ。

「いま、何て?」

「キレイですね、と言いました」

顔をつたう雨のしずくを、まるで涙のように見せる男子の表情は、
うつむいていて読み取れないが、目だけはこちらを向いているようだった。

「碇くんのお母さんのことです」

「私の?」

「はい」

「・・・・・・ああ、それはどうもありがとう」

言葉とは裏腹に、ユイは、訪ねてきたこの男子に警戒心を抱いた。
どんなご用事と訊いたのに、キレイですねと言い返された時点で、
何だか変だなと思ってはいたが、まさかいきなり子供にお世辞を言われるとは・・・・・・

「あのう」

ユイは知らず知らずのうちに一歩だけ後じさりしながら、話を戻した。

「それで、どんなご用件なんでしょう」

言葉も自然とよそよそしくなっていた。

「ぼく、碇くんが羨ましいです」

まただ、とユイは思った。また噛み合わない返事が返ってきた。
しかも今度は羨ましいときた。このあとにどんな言葉が続くのか、黙って聞いてみた。

「こんなにキレイなお母さんがいて、かわいい幼なじみが隣にいて、
さらにはもっとかわいい同居人がやって来たわけでしょう。それが羨ましくって」

男子は顔を少し上げた。その視線はユイの顔をとらえているようにも見えたが、
もしかすると、家の中のシンジに向けられている羨望のまなざしかもしれなかった。

「それで、ぼくがここへ来た理由はですね・・・・・・」

まさかシンジに嫉妬して、何か因縁をつけに来たのでは――ユイは一瞬そう思った。

さらに、口に出しては言えないが、この子はちょっとどこかのネジが外れているのでは、
ちょっと普通じゃないのでは、とも思っていた。

「これなんですけど」

心の中で身構えるユイの前に、男子は手の平を差し出した。
そこには、淡い青の布のようなものが小さく重ねて乗っている。

「これは?」

「ハンカチです」

確かにハンカチのように見えるが、それもまた彼と同様に濡れてしまっている。

「綾波さんが落としたものです」

「あ、あ、なるほど」

ユイは大きくうなずいた。

「わざわざ届けにきてくれたのね」

「いえ」

「え?」

男子の訪問理由が見えたと思ったら、また分からなくなってしまった。
なるべく平然を取り繕っていたつもりだが、いぶかしむ顔になっているに違いない。

「これを、ぼくが持っていることを伝えておいてくれませんか」

「・・・・・・はあ」

「直接会えたら渡そうと思ったんですが、会えないとなったらそうするよりありません」

「・・・・・・はあ」

「では、伝えておいて下さい。それでは」

「・・・・・・はあ」

全身びしょ濡れの男子はハンカチを握り締めたまま、名前も言わずに行ってしまった。

ユイは、呆然とその後ろ姿を見送った。




■3

「ああ、そう、この子よ。この子だったわ」

ユイは、テーブルに置かれた写真の一点を指差して叫んだ。

「これは、一ノ瀬くんだね」

シンジが言った。

「さっき来たの、一ノ瀬くんだったの?」

「この子、一ノ瀬くんっていうの? 言ったら悪いけど、不気味な子だったわ」

「あんまり喋ったことないから、彼のことはよく知らないけど・・・・・・何が不気味だったの」

「それがね・・・・・・」

ユイは、ついさっきの玄関先でのことを簡単に説明した。

テーブルの上に乗っているのは、シンジが2年に上がった時に撮影された、
クラスの全体写真である。もちろん、葛城ミサトがまだいた頃のものである。

レイはまだシャワーから上がっていなかった。
シンジはとっくにラフなスウェット姿になり、髪の毛を拭いているところだった。

「で、そのまま行っちゃったの? 一ノ瀬くんは」

シンジが訊いた。

「そうなのよ。変わった子っていうか、ちょっと怖くなっちゃった」

ユイは家に上がってきてから、ずっと眉をひそめたままである。

「母さん、それは大げさだよ」

「この子って、家はどこなの」

シンジが笑って言うのを無視して、ユイは訊いた。

「さあ、知らないけど、名簿を見れば分かるんじゃない」

「ああ、そうか、名簿があったわね」

わりあい簡素な棚から、ユイは学級名簿を取り出した。
2年A組のところを追いかけ、目標を見つけると、さらに顔を曇らせた。

「この一ノ瀬って子、うちとは全然反対方向じゃないの」

「え」

シンジは名簿を覗き込んだ。
確かに、学校を基準にして、シンジの家とは正反対の住所だった。

「わざわざここまで来ておいて、何もしないで帰るのはちょっと変じゃない?」

ユイは独り言のように言った。

「どうしよう、レイちゃんに言ったほうがいいかしら」

「言ったほうがいいと思うよ」

「そう?」

「一ノ瀬くんも、何か直接会って話したいことがあったんじゃないかな」

「そうかしら」

「そうだよ。そう考えるのが自然だよ」

「何が自然なの?」

その言葉にシンジとユイが振り返ると、スウェットに着替えたレイがいた。
タオルで頭を拭きながら「さっぱりしたあ」と呟く。

「ねえ、どうしたの?」

レイは言いかたを変えてもう一度訊いた。

「実はさっきね・・・・・・」

ユイは言いにくそうな表情を作りながら、淡々とレイに聞かせた。

「一ノ瀬くんって・・・・・・ダメだ、まだ名前と顔が一致しないな」

ソファに座ると、レイは呟いた。

「ねえ碇くん、その子ってどの辺の席に座ってる?」

「えーと、ケンスケの前かな。つまりぼくの2人前だね」

「ふーん、覚えてないなあ。どんな子?」

「あんまり喋ったことないから、ぼくもよく知らないんだ。1年の時は違うクラスだったし」

「見た目は?」

「見た目って・・・・・・別に普通だと思うけど」

「普通じゃ分かんないよ。そもそも普通って何? 碇くんの普通ってどんなん?」

「いや、そんなこと言われても・・・・・・そうだ、ここに写真があるじゃないか」

シンジは、テーブルの写真をレイに見せた。

「どこにいるの?」

「えーと・・・・・・ここ」

シンジは一点を指差した。

「ふーん・・・・・・ゴメンね、碇くん」

「何が?」

「私も思っちゃった、普通だなって」

特にどうと言えない顔。平均的な顔。というのがむしろ特徴であるような顔。
写真の一ノ瀬という生徒は、そういった『普通』顔だった。

「でも、さっきの彼はちょっと・・・・・・」

服を着たままの恰好でプールから上がったばかりのような彼の姿を見ているユイは、
怖いものを見た時のような表情、口調で言った。

「写真で見るぶんには普通の子って感じだけど、どこかバランスに・・・・・・」

バランスに欠けた子、と言いそうになるのを慌てて飲み込んだ。

「ま、来週になってみれば分かることだし、別に気にしなくてもいいんじゃない?」

レイの声は、ユイを落ち着かせるような響きがあった。
同時に、自分に対しても不安を持たせないよう振る舞っている感じでもあった。

落としたハンカチを、自分の家とは正反対の所まで届けにきてくれた。
かと思いきや、レイに直接会えないとなると勝手に帰ってしまう。
その間には、突然ユイをキレイだと言って褒めたり、シンジが羨ましいと言ったという。
レイも、まだ恐怖とまではいかないが、少しだけ気味が悪かった。

「碇くん、2階に行こう」

と言って、レイは玄関先に置いたままの濡れたカバンを持って、階段を上っていった。

もう少し下でゆっくりしていたかったが、仕方なくシンジはそれに従った。




■4

レイが来週になれば分かると言ったように、今日は金曜日である。
彼女がやって来てすでに1週間が過ぎていた。

「ねえ、土日は何か予定あるの?」

シンジのベッドに寝そべって占拠した形のレイは、マクラに顔をうずめたまま訊いた。

そばに置いた扇風機が、彼女の身体をなでるように首を回して風を起こしている。

「別にないけど」

仕方なく回転イスに座っているシンジは、首をひねりながら答えた。

「どうして?」

「だったらさあ」

レイは顔だけシンジに向け、それから言った。

「今度は、ふたりだけでデートしようよ」

「で、で、で、で・・・・・・」

「どうしたの碇くん」

「で、デートだって?」

「うん」

「ぼくと?」

シンジは自分を指差した。

「うん」

「綾波と?」

そしてレイにも人差し指を向けた。

「そうだよ。いいでしょ、何も予定ないならさ」

「いや、その・・・・・・」

「もー、どうしてすぐに『いいよ』のひと言が出てこないの?」

「だって」

「だって、なあに?」

レイはベッドに座りなおし、シンジを覗き込むように見つめた。
そしてもう一度同じ言葉を繰り返す。

「だって、なあに?」

「・・・・・・・・・」

シンジは黙った。そこで、レイはカマをかけてみた。

「私とふたりっきりで歩いてるところ、彼女に見られたら困ると思ったんでしょ」

「べ、別にアスカは関係ないよ」

「あら、どうしてアスカの名前が出てきたのかしら。私は『彼女』としか言ってないのに」

「・・・・・・・・・」

シンジはまた黙った。その反応にレイは笑みを浮かべ、

「図星でしょう」

「・・・・・・・・・」

「ねえ碇くん、アスカのことどう思ってる?」

「どうしてそんなこと訊くんだよ」

シンジは明らかに慌てていた。レイはますますうれしそうな顔になる。

「話の流れからこの質問が出てくるのは当たり前よ」

「ところで・・・・・・」

「話を逸らさないの」

ムリヤリ方向転換しようとするシンジを、レイはピシャリと封じた。

「アスカとはちっちゃい頃から一緒に遊んでたんでしょ」

「・・・・・・うん」

シンジはしぶしぶうなずいた。

「一緒にいて、イヤだなあとか思ったことある?」

「ない」

「おっ、ずい分キッパリ言うねえ」

どんどんからかい調子になるレイは、シンジのマクラを抱えて、なおも続けた。

「つまり、アスカのこと嫌いじゃないってことでしょ」

「・・・・・・まあ、そうなのかな、分かんないけど」

「うそうそ、自分の気持ちは自分がいちばん分かってるもんよ」

「・・・・・・・・」

「ようし、それじゃあ、単刀直入に訊きますよ、碇シンジさん」

レイは人差し指をシンジの顔に突き出した。
あまりに近づけすぎて、シンジがのけぞるほどだった。

「あなたは、惣流アスカちゃんのことが好きですか?」

突き出した手を、マイクを向けるようにしてシンジの口元に近づけた。

「はい」

意外にも、シンジは歯切れよく返事をした。ところが――

「って言えばいいんでしょ」

「もー、ダメよー、ちゃんと言ってよちゃんとー」

「ヤだよ、どうして綾波に言わなきゃいけないんだよ」

「どうしてもよ」

「ヤだよ」

「ねえ、好きなんでしょ、アスカのこと」

「急にどうしたんだよ、綾波」

「ねえ、答えてよ」

「知らない」

「まったく、素直じゃないなあ碇くんは」

レイはまたベッドに寝転び、マクラで口元を隠したまま訊いた。

「で、いいでしょ」

「何が?」

「明日のデート」

「ああ・・・・・・」

「別に、恋人同士みたいに仲良しこよしで歩くわけじゃないんだから、いいじゃない」

「うん・・・・・・」

「あ、いま『うん』って言ったね。いいんだね、それじゃあ」

シンジはため息をつき、小さくうなずいた。

「それで、綾波はどこか行きたいところはあるの?」

「別に」

「別に? じゃあ、どうしてデートしようだなんて言ったんだよ」

「色々計画立てるより、行き当たりばったりのほうが面白いじゃない」

「うーん・・・・・・」

そこで、レイは手の平をパチンと叩いた。

「そうだ、近くに公園があったでしょ、結構広々としたのが」

「うん、あるけど」

「そこをお散歩するのはどう?」

「お散歩か・・・・・・いいよ」

シンジは内心ホッとしていた。
デートなんてしたことがないので、いまから明日はどうしようと考えていたのだ。

そもそも、アスカとふたりきりで遊びに行くことはよくあった。
しかしそれをデートだとは、シンジは自覚していなかった。
なぜなら、いつでもアスカが率先して歩いていたからだった。

だから、シンジにとってこれが初めてのデートになる。
デートと呼んでいいものかは分からないが、少なからず緊張感が出てきた。

ちなみに、先週の土曜日はアスカと共に、レイに街案内をした。
その時は女の子2人にはさまれる恰好でずっと歩いていたので、恥ずかしかった。
そのまま双方から腕を組まされるのではないか、というほど密接していたからだった。

「それじゃあ、明日何時ごろに・・・・・・」

何時ごろに出ようか、とシンジは訊こうとしたが、途中でやめた。

レイが、マクラをギュッと抱きしめたまま眠っていたのだ。
小さい寝息をかわいらしくたてながら、気持ち良さそうに目を閉じていた。

雨の中をひたすら走ったので、疲れたのだろう。
シンジも同じように眠気を感じて、大きくあくびをした。
そしてレイをそのままにして、シンジはゆっくりと1階に下りていった。




もちろん、走って疲れていたせいもあった。
しかし、眠くなった理由はもっと別のことだった。

抱きしめていたシンジのマクラが、とても気持ちよかったのだ。
なぜだか分からないが、彼の匂いが染み付いたそのマクラを抱いていると、
気分がほわんほわんとして、つい眠くなってしまったのだった。

柔らかく手触りのいい感触も手伝っていたが、おそらく真の理由はマクラの匂いだった。
どうしてこの匂いが気持ちいいのか、言葉で表そうとしたがその前に眠気が先行した。

レイは、夕飯の時間にシンジに起こされるまで、ずっとそのまま眠っていた。




■5

「ねえ、綾波」

ふと目を開けると、レイはマクラを抱いた格好で立っていた。
その場所は、シンジの部屋ではなく、空の上だった。

青く晴れた空に、彼女は立っていた。
正確には立っているのではなく浮かんでいるのだが、足元に感覚があるような気がした。

マクラはシンジのものだ。
着ているのもシャワーを浴びたあとに着替えたものだ。
しかし、そこは間違いなく空だった。

眼下には、まだ慣れない町並みが広がっている。
ちょうど真下には自分が住んでいる家があった。
雲はほとんど上にあるので、それほど高い所にいるわけではなさそうだ。

「ねえ、綾波」

レイは2度目の呼びかけで、シンジが隣にいることに気がついた。

「碇くん?」

「綾波どうしたんだよ、ボーっとして」

彼の姿も、着替えの恰好そのままだった。

「これ、どういうこと?」

レイは足元を指差した。するとシンジは「ああ」と呟き、

「これは夢だよ、綾波」

「夢? 夢なの? ・・・・・・ってそうよね、普通こんなのありえないものね」

「さあ、こっちにおいで」

と、シンジはいきなりレイの腕をとって歩き出した。

空を歩くというのも奇妙なものだが、なぜかちゃんと足元の感覚がある。
それもこれも夢だから、と言ってしまえば話は早かった。

「どこへ行くの? 碇くん」

「行けば分かるよ」

シンジはそう言いながらも、レイの腕を離そうとしなかった。
いつもと違って、ちょっと大胆な彼の行動にレイは戸惑いを覚えた。

「ねえ、碇くん。ちょっと手離してくれる? 痛いから」

「あ、ゴメン」

シンジはパッと手を離した。そして、レイの片腕に抱えられたマクラを見ながら、

「それ、ぼくのマクラだよね」

「あっ、ごめんね、勝手に持ってきちゃって」

「それはあると邪魔だろうから、下に置いておこうか」

と言って、シンジはマクラをレイから奪い、足元に置いた。

と、マクラはそこにとどまることなく、重力で下へ落ちていった。
レイはしばし呆然とマクラの行方を追っていたが、見えなくなるとシンジが声をかけた。

「さて、それじゃあ行こう」

今度はレイの手をとり、また歩き出した。

(あったかい)

シンジの手を握りながら、レイはそう思った。
もう引っ張るように歩くことはなく、ふたり並んで空の上を歩いていた。

シンジの横顔を覗くと、彼は特別何か表情を浮かべているわけではなかったが、
口元が少しゆるんでいるように見え、どことなく楽しそうな雰囲気があった。

それを見たら、自分も何だか楽しい気分になってきた。

男の子と、手をつないで空の遊覧散歩である。
夢だと分かっていれば、なおさら気分がウキウキと晴れやかになってきた。

レイは何度もシンジの顔を横目で覗いた。
チラッと見てはすぐに逸らし、見てはすぐに逸らしを続けていた。
もしも目が合ったら恥ずかしいなと思ったからだ。

だが、何回か覗いているうちに、シンジが不意に顔を向けた。

「あっ」

声を上げたのはレイのほうである。
シンジはその瞬間は表情を変えなかった。が、すぐに微笑を浮かべて言った。

「どうしたの、綾波。さっきからぼくの顔を見てたみたいだけど」

「え、別に見てないよ」

レイは意識的にそっぽを向いた。少し顔が熱くなっていたからだ。

「ところでさ、これからどこへ行くの?」

「ナイショ」

「えーっ、教えてよ碇くん」

「着いてからのお楽しみだよ」

「でも・・・・・・」

レイは立ち止まって辺りを見回した。

「周りには何にもないよ。空が広がってるだけじゃない」

「そうだね。でも、あれを見てごらん」

シンジの指差すほうを見た。遠くのほうに薄くモヤがかかっている。
幻想的な淡いピンク色のモヤである。

「あれ、なあに?」

「行けば分かるよ。さ、行こう」

シンジは再び歩き出した。レイが慌てて横に並ぶ。

ずっと手をつないでいるので、レイは手の平にじんわりと汗をかき始めた。
湿っぽいと思われるのが恥ずかしくなって、シンジの手に密着させないよう浮かせたが、
逆にシンジはからめるように手をつなぎ直した。

「綾波」

歩きながら、シンジはレイに顔を向けた。

「どうしたの、顔が赤いよ」

「えっ」

咄嗟に、レイは空いているほうの手を頬にもっていった。
とても熱い。紅潮しているのは間違いなさそうだった。

「熱でもあるんじゃないの」

立ち止まって、シンジは顔を近づけた。

「ちょっといい?」

と断ってから、レイの前髪を上げて、額に自分の額を当てた。

ふたりの瞳がわずか数センチの間隔をもって対峙した。

緊張で、レイは思わず息を止めた。
口元にシンジの息がかかった。こそばゆい感覚で震えそうになった。
彼の目は、自分の目を見つめていた。逸らしようのないほど間近で見つめられていた。
これは夢だと分かっていても、レイは身動きひとつ出来なかった。

「うーん・・・・・・熱があるっていうよりも、顔全体が熱くなってるみたいだね」

額から離すと、シンジはレイの頬を両手で触った。
彼女はなすがままにされている。というより、ただ呆然とシンジを見つめていた。

「ねえ、大丈夫? 綾波」

依然としてお互いの顔が間近にあるので、シンジが喋るたびに彼の息がレイの顔にかかる。
だがレイは、それを少しもイヤだと思わなかった。

「だ、大丈夫よ。行きましょう碇くん」

何とか落ち着き払おうと済ました顔を取り繕ったが、微妙に声が裏返っていた。

歩き出してからは、並んでいたものの、もう手をつないだりすることもなかった。
もう覗き見したりはしないぞ、と思いながら、レイは頑なに正面を向いていた。

「さて」

遠くにあるようで意外と近かったピンクのモヤの所にたどり着くと、ふたりは立ち止まった。

「この中に入るんだよ」

シンジは前を向いたまま言った。

「この中に? どうなってるの、この中」

レイも、物珍しそうにモヤに目を向けている。

「ぼくたちはいま、空の上に立っている」

「え?」

「夢の世界、想像の世界だから、こんなことが可能なんだ」

「どうしたの、碇くん」

レイはシンジに向き直って訊いたが、彼は無視するように説明的な喋りをやめなかった。

「このモヤの先は、ある場所につながっている。夢ならではの単純な構造だよ」

「ある場所?」

「そこは空の上じゃない。地上ともいえない。それは想像が作り出した世界だ。
現実世界には存在しえない世界。だからといって夢だから、怖がる心配はないよ」

「・・・・・・・・・」

そう言われると、逆に警戒心を抱くものだ。
レイは、このピンクのモヤに飛び込むことすらためらわれてきた。

「この中に入るの?」

「そうだよ。ぼくが先に入るから、綾波もそのあとについて来て」

そう言い残して、シンジはモヤの中に姿を消してしまった。

「あ、碇くん・・・・・・」

ひとり取り残されて、レイは急に心細くなった。

「どうしよう、何だか怖いな・・・・・・」

こういう時、手持ち無沙汰なのがかえって不安を増大させた。
夢なのだから、このモヤの中に入っても何が起こるかわからない。
夢なのだからこそ、分からないのだ。これまでもどんな展開になるか分からなかった。

(ずっとマクラ持っておけばよかったなあ)

ふと、シンジのマクラが恋しくなった。
根拠はないが、自分のではなく、彼のでなければダメなような気がした。

「綾波、早くこっちにおいでよ」

モヤの中からシンジの声が聞こえた。彼の姿はまったく見えない。
声の響きからして、ずい分先に行ってしまったようだ。

「あ、待ってよう」

ますます寂しさと不安が押し寄せてきて、思わずレイはモヤの中に一歩を踏み出した。

「うっ」

そのまま勢いで中に飛び込む形になったが、その刹那、ブワッと瞬間的な風を感じた。
青いショートヘアがふわっと浮き、反射的に目を閉じた。

「うーん・・・・・・」

レイは、出来る限りゆっくりと、ゆっくりとまぶたを開いた。
目を開ける前から分かっていたが、とても明るい光に満ちた所のようだ。
輝きがどんどん瞳に吸い込まれるように、強い光を感じた。

だんだんシャワーのような光も白み、視界がハッキリしてきた。

レイは、モヤの中もまたモヤが広がって、ピンク色の世界なんだろうなと思っていた。
ところが、モヤを抜けたその先には、想像を絶する光景が広がっていた・・・・・・




■6

「綾波」

シンジの声が、レイを優しく呼びかけていた。
それを聞きながら、彼女はまだ目を開けずにいた。

(うーん・・・・・・)

自分では、寝返りのように身体を動かしたつもりだった。
だが、何かがつっかかって、大した動作にならなかった。
レイはまだまぶたを開けようとしない。

「ねえ綾波、ご飯だよ」

(んー、ご飯? ・・・・・・ご飯ってどういう意味?)

レイは、夢と現実がごっちゃになって、意味のないことを考えていた。

「ほら、起きてよ綾波」

今度は身体が揺さぶられる感覚を覚えた。そこにきて、ようやくレイは目を開けた。

「あ、やっと起きたね」

レイのすぐ目先に、シンジの覗き込むような顔があった。

「わっ」

レイは驚いて、抱いていたマクラをシンジの顔に押し付けた。
シンジはぶっとうめき、押し当てられたマクラをどけながら言った。

「何するんだよ、綾波」

「え?」

「え?」

レイが、えっという顔になったので、シンジも思わず呟いた。

「あれ? ここはどこ?」

彼女はキョロキョロと部屋を見回しながら呟いた。

「碇くんが言ってた世界って、この部屋のことなの?」

「はあ?」

シンジはいぶかしげな視線を送った。が、依然としてレイは落ち着きがなかった。

「現実世界には存在しえない世界・・・・・・この部屋のどこがそうなの?」

「・・・・・・綾波、夢でも見てたんじゃないの」

「そうよ、だからこれは夢なんでしょ」

「ちょっと落ち着こうか、綾波」

シンジは苦笑を浮かべながらレイの肩に両手をのせ、何度も軽く叩いた。

「ここはぼくの部屋だよ。きみはぼくのベッドで寝てたんだ」

「え、私寝ちゃってたの?」

「そうだよ。知らないうちに寝ちゃったみたいだね」

「・・・・・・じゃあ、夢はもうおしまいなのか」

「どんな夢を見てたの?」

「分かんない。変な夢だったような気はするけど」

「でもさっき、ぼくが言ってた世界がどうのこうのって・・・・・・」

「忘れちゃった」

レイは、本当に忘れてしまっていた。
現実世界に引き戻されたことによって、夢の記憶が飛んでしまったのだ。
彼女が最後に見た想像を超えた光景ももう思い出せない。

「ただ・・・・・・」

ただ、何かが引っかかっていた。頭が、何かを思い出させようとしていた。

「お花畑を見たような気がする」

「お花畑?」

シンジはレイの隣に腰を下ろした。

「どんなお花畑だったの?」

レイは少しの間考えていたが、やがてポツンと言った。

「・・・・・・コスモス」

「コスモスかあ、ふうん」

「・・・・・・・・・」

「ま、ちゃんと起きたみたいだし、ご飯だから下りてきなよ」

シンジはそう言うと、部屋を出ていった。階段を下りる足音が小さくなっていく。

「コスモス・・・・・・私が好きな花」

レイはひとり呟いた。

「何だろう、何か意味があるのかな」

ちょっと考えてみたが、彼女は結局答えに到達することは出来なかった。

起きたばかりで少し頭がボーっとする。けれどもおなかは空いていた。

「ご飯、ご飯っと」

ピョンとベッドから飛び起きると、軽快なリズムで階段を下りていった。




レイは気がついていなかった。
今日失くしたばかりの、お気に入りのハンカチ。
その柄が、淡い紫色のコスモスだったということを・・・・・・




つづく


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