■1 ゆっくりと目を開けると、薄ぼんやりと天井が見えた。 大きな口を開けてあくびをすると、視界が涙で余計に滲む。 起きたばかりは、口の中が気持ち悪い。 顔をしかめながら上半身を起こすと、アスカはもう一度あくびをした。 だるい身体をムリに立たせ、髪を片手ですきながら階段を下りていく。 今日も暑そうだ。背中にじっとりと汗をかいている。 その背中をかきながら、アスカはさっき見ていた夢を思い出していた。 夢を見始めた瞬間はいつだか分からないが、たぶん最初から最後まで同じだった。 アスカは、ソファか何かに座って、誰かの身体にしがみついていたのだ。 相手の顔を見なかったので、それが誰だかは最後まで分からなかったが、 少なくとも男だった。いや、むしろ男の子という感じだった。 夢の中でアスカは、ずっとそれがシンジだと思っていた。 相手は何も喋らなかったし、アスカも顔を覗かなかったから確認できなかったが、 身体の匂いが、シンジを示しているような気がした。 ソファのような柔らかいイスに並んで座り、アスカは相手の胸に顔をうずめていた。 頭や背中を優しくなでられ、とても心地よかった。 自分も相手の背中に腕を回して、たくさんさするようになでた。 あたたかい感触と、身体の匂いに頭がボーっとなり、まさに夢心地だった。 (そうだ、顔を見ようとした瞬間に起きちゃったんだ) そう、あまりに気持ちいいので、いったいどんな人なのだろうと顔を上げた瞬間、 残念なことに目を覚ましてしまったのだ。 (でも、何となくシンジっぽかったんだよなあ) とりあえずリビングに入り、母親に挨拶を交わして洗面所に向かった。 父親は仕事で出ていていない。土曜に父の姿を見るのはほとんどなかった。 休日とはいえ、汗をかいているのでシャワーを欠かすことは出来ない。 そそくさと寝巻きを脱いで、アスカは風呂場に入った。 熱いシャワーにうたれながらも、まだ夢のことを考えていた。 (あれって、やっぱりシンジだったのかな。シンジの匂いがしたもんなあ) 夢のことというより、碇シンジのことが頭を占拠しつつあった。 (あ、そうだ) 思い立って、シャワーもそこそこにアスカは風呂場を出た。しかし、汗は充分とれている。 着替えを持ってきてなかったので、バスタオルを巻いたまま2階に取りに行った。 相変わらず暑いので、赤いタンクトップとデニムのショートという涼しい恰好になり、 クーラーのきいたリビングでいくらか涼むことが出来た。 いつもより遅い朝食を簡単に済ませて、時刻は午前10時前。 アスカはコードレスフォンの受話器を取り上げた。 「・・・・・・ピッ、ポッ、パッと」 電話先は、お隣の碇宅である。 電話番号のうしろ3つのプッシュ音が、言葉通りピッ、ポッ、パッと聞こえた。 5コール目にようやく相手が出た。 「はい、碇です」 聞こえてきたのは、とても低い声だった。 「あ、もしもし、あのう、惣流です」 アスカは、シンジの父親が少し苦手なので、ちょっと緊張していた。 「あのう、シンジいますか」 「シンジはさっき、レイと一緒に出かけたが」 「え、出かけたんですか。どこに行ったんですか」 「特にどこへ行くとは言わなかったが、散歩に行くと言ってたな」 「レイも一緒なんですか」 「ああ」 「・・・・・・分かりました、失礼します」 アスカは相手の確認をせず唐突に電話を切ると、立ったまま手を口元に当てた。 (どういうことよ、アタシを差し置いてふたりっきりでどこへ行ったのよ) 「アスカ、どうしたの」 母・惣流キョウコが、娘の様子に気がついて声をかけてきた。 だが、アスカは呼びかけが聞こえないのか、身動きひとつしなかった。 「ねえ、アスカ」 母に肩をぽんと叩かれ、アスカはビクッとして気がついた。 「あ、ママ」 「どうしたの、お隣に電話してたんでしょ」 「うん」 「シンジくん、いなかったの?」 「うん」 「どうするの?」 「どうするのって?」 「シンジくんと遊ぼうとしてたんでしょ」 「・・・・・・まあ、そうだけど」 「でも、いなかったんでしょ」 「うん」 「綾波さんもいないの?」 「シンジと一緒に出かけたんだって」 「それじゃ、アスカは予定がなくなっちゃったわけね」 「最初から予定なんてなかったけどね」 「だったらさあ」 アスカとそっくりで整った顔立ちのキョウコは、子供のような笑みを浮かべて言った。 「今日は一日ママに付き合わない?」 「ママに?」 「そう。アスカったら、いっつもシンジくんと遊んでたでしょ、休みの日は。 だから、たまにはママとお買い物に行きましょうよ」 「えー、行く行く」 「それじゃ、ちゃんとしたのに着替えてきなさい」 「えーっ、でも暑いじゃん、外」 「ダメよ。女の子がむやみに肌を露出するもんじゃないの」 「そうお?」 と言いながら、アスカは自分の胸元を見下ろした。 「アスカはかわいいんだから、エッチな恰好してたらジロジロ見られちゃうでしょ」 「エッチな恰好じゃなくても見られるけどね」 アスカは腰に手を当てて、得意な顔をした。 母は、それもそうねと笑い、娘のキレイな頬をなでた。 「それで、出るのは何時にする?」 アスカが訊いた。 「そうねえ、洗いものが済んで、身だしなみを整えて・・・・・・ま、11時頃かな」 「えーっ、そんなに待つの?」 「ママはアスカと違ってお化粧に時間かけるからね」 「アタシだってお化粧するよ」 「アスカは必要ないわよ」 「どうして」 「まだ若くてお肌もキレイだし、すっぴんで充分かわいいから」 「やだあ、ママと並んだらアタシのほうが下に見られちゃうじゃない」 「ま、そういう魂胆なんだけどね」 と、母娘そろって自信過剰な面があった。 ただし、自信過剰になるのもうなずけるほど、ふたりの美貌は際立っていた。 キョウコの言葉通り、11時を目前にしてようやく外出の準備が整った。 駅前のショッピングモールまではここからそう遠くなく、ふたりは徒歩で行くことにした。 キョウコは自動車が運転できるし、本当は車で行ったほうが便利なのだが、 ふたりとも自己顕示欲が強く、さらに並んで歩くのも久しぶりなのでそうしたのだった。 アスカは、母にちゃんとしたものをと言われたにもかかわらず、 胸元がV字に大きく開いた黒いニットのワンピースを着ていた。 しかし、キョウコは「あら、かわいいじゃない」と笑顔で褒めていた。 さらに、それに合わせた大き目のベルトに、茶色のブーツというおとなの雰囲気で、 実際アスカもこんな恰好をするのは初めてだった。 中学生にしてはかなり派手な装いだが、スタイルの良いアスカが着るとよく似合っていた。 さらに、白い肌が、黒と対照的になって浮き立っている。 実は、このコーディネーションは母がしつらえたものである。 当のキョウコはといえば、白のブラウスにタイトスカートという恰好である。 ふたりが並んで歩いていると、とても親子には見えなかった。 相変わらず日差しがきついので、本来なら日傘を差すところだが、 自慢の容姿をひけらかしたいふたりは、腕を組んで堂々と歩いていた。 人通りが多くなると、振り返るのは男性のみならず、女性も美人親子に目をとられた。 「うふふ」 それを横目で確認しながら、ふたりは精一杯かみ殺した笑みを向け合った。 ■2 「どうしたんですか、あなた」 流しで洗いものをしていたユイは、夫の微妙な表情を感じ取り、顔を曇らせた。 「何が」 チラッとユイのほうを見て、ゲンドウはすぐに新聞に視線を戻した。 ダイニングテーブルに新聞を大きく広げ、隅々まで読もうとする恰好である。 「何か面白い記事でも書いてあるんですか」 「いや」 「だったら、どうしてそんなに楽しそうな顔してるんですか」 「そんな顔に見えたか」 と言って、ゲンドウは妻に顔を向けた。 ハッキリいって見た目にはいつもと変わらない強面の無表情なのだが、 長く付き添ってきた妻の目からすると、どうやら楽しそうな顔をしているらしい。 「見えます」 「そうか」 ゲンドウはこともなげにまた新聞に目を落とし、そのままの恰好で言った。 「それがどうかしたのか」 「ここ最近、あなたよくそういう顔していらっしゃるから」 ユイは蛇口を閉めると、手を拭いて夫の隣に座った。 「何かいいことでもあったんですか」 「・・・・・・いや」 答えるまでに一瞬の間があった。 「別に何でもない」 「そうかしら」 ユイは、パッと新聞を遠ざけて、相手の目を自分に向けようとした。 が、ゲンドウは顔を上げただけで、彼女のほうを見ずに言った。 「そっちこそどうしたのだ、母さん」 「私は別にどうもしてませんよ」 「なら、どうして突っかかる」 「だって、いっつも無表情のあなたが、こんなに楽しそうにしてるんですもの」 ユイはそう言うのだが、他人にはまったくその変化が分からない。 彼の目は常に何かを睨みつけているようだし、口元も一文字に締まっている。 苛立ちを覚えているのならまだしも、楽しそうな表情には決して見えなかった。 「私がそういう顔をしてはいけないというのか」 ゲンドウはあくまで静かに言った。実際にそういう顔をしていたらしい。 「そんなこと言ってませんよ。ただ・・・・・・」 「ただ、何だ」 「結婚して間もない頃までは、あなた、いつも私にかわいい笑顔を見せてくれたでしょう」 夫がそっぽを向いているので、ユイもテーブルの上に視線を落として言った。 「でも、最近は全然そんなことがないじゃないですか。それが普通かもしれませんけど。 私とふたりきりになっても、ちっとも笑いかけてくれない、楽しそうにしてくれない。 ・・・・・・もう15年以上の付き合いですからね、そうなるのも当然かもしれません。 そんな時に、あなたのその表情を見たら、私がどんなことを思うか分かりますか」 「・・・・・・・・・」 「分かりますか」 ユイは念を押すようにもう一度訊いた。 「・・・・・・・・・」 「何かおっしゃってください」 「・・・・・・ユイ」 ゲンドウはようやく妻のほうを向いた。ユイも倣って夫の目を見つめた。 「何ですか」 「・・・・・・シンジのことだ」 「え?」 息子の名前が出てくるのが意外だったのか、ユイはキョトンとした。 「シンジの・・・・・・ことですか」 「そうだ」 「あの子がどうかしたんですか」 「ああ」 「ああ、じゃなくて、ちゃんと答えて下さい」 「ああ」 ゲンドウは、また視線を前に向けた。その先には、小物入れを多数収納した棚がある。 観音開きの戸のガラスにかかったレースを見つめながら言った。 「さっき、レイと一緒に出かけていっただろう」 「ええ、お散歩に行くとか言って」 ユイは、夫の言葉を聞き逃すまいと、ゲンドウの口元を見つめていた。 「それだ」 「それ? それって、どれですか」 「それはそれだ。レイと一緒に出かけたことだ」 「シンジが、レイちゃんと一緒に出かけたことがどうかしたんですか」 「彼女たちはデートをしに行ったのだろう」 「で・・・・・・」 ユイは、夫の口から出てきた言葉に思わず絶句した。 が、彼が、シンジではなくレイを主体として『彼女たち』と言ったのは気付いていない。 「ふたりきりで出かけたのなら、普通そういうことだろう」 ゲンドウは問いかけるように言った。 「・・・・・・そ、そうかもしれませんけど、どうしてあなたがそんなことを?」 「父親が息子のことを気にしてはいけないのか」 「そんなこと言ってませんけど、でも・・・・・・」 ユイは明らかに疑惑の視線をゲンドウに注いでいた。 「あなた、いままでずっと家庭のことは無関心だったじゃありませんか。どうして急に」 「・・・・・・・・・」 「ねえ、どうして黙るの?」 ユイは言葉づかいを変えた。 「質問を変えるわ。もっと直接的に訊くわよ」 「・・・・・・・・・」 「シンジとレイちゃんがデートをすることが、どうしてそんなにうれしいことなの?」 「・・・・・・・・・」 「別に、いままでだってシンジはアスカちゃんといっつも遊んでいたじゃない。 もちろん、シンジが女の子と、レイちゃんと仲良くするのはとってもいいことよ。 でも、どうしてあの子がレイちゃんと一緒にいるとなるとうれしそうな顔になるの?」 「・・・・・・・・・」 「シンジとアスカちゃんが小さい頃からずっと仲良く遊んでるのを見てきていればね、 何となく私もひとりの女性として気がついているのよ」 「・・・・・・何をだ」 ゲンドウがやっと口を開いた。 「アスカちゃんのシンジを見る目よ」 ユイは言った。 「あのコは学校のある日は毎朝うちに来て、シンジのこと待ってくれてるでしょ。 昔からちょっとお姉さんぶるコだから、シンジにつっけんどんな物言いをするけど、 たぶんそれは照れ隠しだと思うわ。気があることを悟られたくないっていう」 「・・・・・・そう言い切れるのか」 「いいえ、そう思うってだけよ。でも、彼女がシンジに好意があるのは間違いないと思う。 それに比べてうちのシンジは、全然気がついていないみたいだけど。 たぶん、まだ恋愛ってものが、人を好きになるってことがよく分かってないのね」 「・・・・・・・・・」 「アスカちゃんはとってもかわいいし、いいコよ。だから、陰で応援してるの、私」 「応援?」 ゲンドウの眉がピクリと動いた。 「そう。いつか、シンジと結ばれるように、っていう応援をね」 「む、結ばれるように・・・・・・何を言っているんだ、お前は」 ゲンドウはまた妻に顔を向けた。少し焦りの色が窺える。 「あら、私何かヘンなこと言ったかしら」 「あれはまだ中学生だぞ」 「そうよ。だから『いつか』って言ったんじゃない。それに・・・・・・」 ユイは、自分のペースを握ったことの余裕から、笑みを浮かべながら言った。 「結ばれるっていうのは、何も身体的なつながりだけの意味で言ったんじゃないのよ。 当然法的なつながりのことも含めて言ったつもりですから」 「・・・・・・ということは、つまり・・・・・・」 「つまり、結婚ってことね」 ユイが先回りして言った。ゲンドウの顔に明らかに動揺の色が見えた。 「認めん!」 ゲンドウは叫びながらテーブルを強く叩いた。ユイは思わずビックリした。 「認めんぞ」 「あ、あなた、何をそんなに怒ってるの」 「認めん」 「いますぐっていうんじゃなくて、将来の話ですよ。何もそこまで否認しなくても」 「認めん」 ゲンドウは同じ言葉を、音量は下げたが、ユイが喋るたびに呟いた。 「アスカちゃんはダメなんですか」 「認めん」 「シンジがアスカちゃんを好きになってもですか」 「認めん」 ユイはそこで少し黙ったが、やがて口を開いてこう言った。 「あなた、そんなにレイちゃんのことが好きなんですか」 「・・・・・・・・・」 ゲンドウは絶句した。 ■3 「うーん、今日は日差しがちょうどいいね」 レイは、両手を大きく広げて空を仰ぎ、目を閉じて思い切り伸びをした。 「そうだね」 隣を歩くシンジは、レイの気持ち良さそうな表情に微笑む。 彼らの家から、駅方向にまっすぐいった所に、広々とした森林公園がある。 その中央に、子供用と言えないほどのスケールのアスレチックがいくつもたたずんでいるが、 公園のほとんどが樹林に覆われていて、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉が拝める。 たくさんの樹木をぬうようにして通った遊歩道が、公園を周回するように伸びている。 ちょうど春ならばソメイヨシノの花びらが舞う場所を、シンジたちは通っていた。 いまはその枝にびっしりと、青々とした葉がついている。 昨日の夕立の跡は、思ったより残っていなかった。 「これ、桜の木だよね」 駅近くにたたずむ公園ながら、周りをほとんど樹林が囲んでいるために、 都会とはかけ離れた自然の空気を吸い込みながら、レイは言った。 「春になったら、とってもキレイだろうなあ」 「うん、すごくキレイだよ。この辺一帯は全部桜だからね」 シンジは手を広げて言った。 「学校にも桜はたくさんあるけど、やっぱりここのは全然違うよ」 「へえ、いいなあ、早く春にならないかな」 レイは、少しだけスキップをした。ワンピースの裾がふわりと揺れる。 花柄のついた淡いブルーのノースリーブワンピースという恰好のレイは、 夏の装いながら、少しだけ艶っぽい雰囲気を出している。 日差しを受けて、よりいっそう二の腕の白さが際立っていた。 対してシンジは、白のTシャツにベージュの半袖ワークシャツを羽織り、 下はややタイトなジーンズという姿である。 ふたりとも、ただの散歩にしては少し服装に気を使っていた。 「でもね」 シンジは並木を眺めながら言った。 「春も秋もキレイなんだけど、冬でもすごくキレイな景色が見られるんだよ」 「冬に? 枯れて葉っぱが落ちちゃうから枝だけになっちゃうんじゃないの」 「そうなんだけど、雪が降るとすごいんだ」 「雪かあ、この辺は毎年降るの?」 「ま、降らない年もあるけど、最近は結構積もったりするよ」 「それで、雪が降るとどうなるの?」 レイはシンジの顔を覗き込んだ。 「あんまりたくさん積もると、何ていうのかな、風情がない感じになっちゃうんだけど、 まあ、たくさん積もるなんてことはあんまりないんだけどね」 「うん」 「こう、枝のあちこちに雪が散りばめられて、まるで花が咲いているみたいになるんだ」 「雪のサクラだね」 「そう、雪が降ると、毎年よくアスカとここの道を歩くんだ」 「ふうん」 感情のこもらない相槌を打つと、レイは少しシンジに近づきながら訊いた。 「ふたりきりで?」 「え? まあ、そうだけど」 「それって、碇くんが誘うの?」 「ううん、アスカに強引につれてかれるんだ」 「へー、腕を引っ張られながら?」 と言って、レイはシンジの腕に自分の両腕をからめた。 「あっ」 「まあまあ」 咄嗟に離れようとするシンジの腕を、レイはギュッと抱いて離さなかった。 「いいじゃない。アスカともこうやってるんでしょ」 「してないよ」 シンジは慌ててかぶりを振った。 「離れてよ、綾波」 「えーっ、私のこと嫌い?」 「そういう問題じゃないんだけどさ」 「じゃあ好き?」 「だからそういう問題じゃ・・・・・・」 「私、暑苦しい?」 レイは、悲しそうな瞳でシンジを見上げた。 「・・・・・・いや、別に」 間近で目を潤ませる彼女の顔に、シンジは動揺して口ごもった。 「じゃあ、いいよね、こうしてても」 レイは急にパッと顔を明るくして、よりいっそう身を寄せた。 シンジは、「はあ」とため息をついたが、まんざらでもない顔だった。 ■4 「・・・・・・くっつきよったで」 「ああ」 「あいつら、もうそういう関係になったんか」 「知るか」 「うしろから見ても、仲良さそうな感じやな」 「そうだな」 「カーッ、シンジのヤツ、抜け駆けしよって」 「はあ」 「・・・・・・元気出せや、ケンスケ」 トウジは、ケンスケの肩をぽんと叩いた。 引きつった笑いを浮かべながら、小刻みにうなずくことでケンスケはそれに答える。 「な、トウジ、言ったろ? おれたちはこういう損な役柄なんだ」 木陰からシンジたちの様子を盗み見ながら、ケンスケはボソッと呟いた。 「は?」 「おれたちの、この情けない恰好を見てみろよ」 「情けない? いつもの恰好やないか」 「服装のことを言ってるんじゃないよ。・・・・・・お前はいつもジャージでよく飽きないな」 「着心地ええからな」 トウジは、学校へ行く時とまったく同じジャージ姿である。 だが、あまりにしっくりくるため、不自然に見えないのが不思議なところだった。 「他のを着ると、どーも落ち着かんでな」 「まあ、それはいいんだけど、おれが言いたいのは、こういうことをしてる姿のことだよ」 「覗きのことか」 「そういう言い方をするのはイヤなんだけど、実際覗きなんだよな」 「ケンスケが始めたんやないか。お前が先にあいつら見つけて」 「そうだけど、どうも仕組まれてる気がする」 「仕組まれてる、て、何が」 トウジは、ケンスケの顔をいぶかしげに見つめた。 「どうしておれたちはこんなことをしてなくちゃならないんだ」 「だから、それはお前が始めたことやないか」 「そうだよ、分かってるよそんなこと。でも、誰かに動かされてるような気がしてならない」 「ワイはお前の頭がおかしくなったような気がしてならない」 トウジは、ケンスケの口調をマネて言った。 「いつだってこうなんだ。みじめな役しかもらえないんだ」 「はーあ、ケンスケの発作が始まったわ」 笑いながらトウジは茶化したが、ケンスケは沈痛な表情を変えなかった。 「おれたちはいつもこうなんだ。おれたちはもうダメなんだ」 『おれたち』を強調しながら、責めるようにケンスケは呟いた。 「なあケンスケ、おれたちおれたちって、どうしていっつもワイも一緒なんや」 「だって、そうだから」 「何や、そうだからって」 「そういうことになってるんだよ。おれたちは脇役なんだ」 「まーたその話か。どうしてワイまで脇役に巻き込まれなあかんのや」 「ひとりぼっちだと寂しいからだよ」 「何や、気持ちワル。なあケンスケ、あんまり思い悩むなて。な」 トウジはもう一度ケンスケの肩を叩き、空気を変えるように明るく言った。 「そういや、ワイら、いったい何する予定やったんかな」 「何だったけな・・・・・・はは、忘れた」 ケンスケの笑いは乾いていて、息しか洩れてこなかった。 「ま、何でもいいや。トウジ、どうせだからゲーセンにでも行こうぜ」 もうシンジたちは遠くになり、彼らと反対方向へケンスケは歩き出した。 急に気が変わったように動き出したので、トウジは一歩遅れてついていった。 トウジが隣に並んだところで、ケンスケは言った。 「パーッと遊んでれば、気が晴れるだろうしな」 「ケンスケ、ほんまに大丈夫なんか?」 トウジはまだケンスケを心配していた。 「ん? 別に大丈夫さ。女は綾波だけじゃないんだ」 「お前、ほんまに綾波のことが好きだったんか」 「うん」 そのうなずきは、あえて気のない振りをしている感じがあった。 「顔だけで惚れるのはよくないと思うで」 「トウジ、一目惚れってやつを知らないのか」 「要するに、お前は顔がよけりゃ誰でもええんやろ」 「違うよ」 ケンスケが否定したところで、ちょうど公園内から出て、駅周辺の入り口に出てきた。 と、トウジが何かを見つけて、「あ」と呟いた。 「どうした」 ケンスケはトウジの顔を見て、すぐに彼の視線の先を追った。 「あ」 と、ケンスケも呟いた。 「あれ・・・・・・惣流だよな」 「あの赤い髪はあいつしかおらへんやろ」 ふたりの声には、少し驚きが含まれていた。 彼らの視線の先には、買い物に来ている惣流親子の姿があった。 ちょうど昼時で、品の良さそうな洋食店に入ろうかとしているところである。 向こうは、もちろんこちらに気付いていない。 「なあ、隣にいるのは、誰や?」 「惣流のお母さんだろ。そっくりじゃないか」 「すげー・・・・・・」 トウジの目が大きく見開いた。 「ミサトせんせえ並み・・・・・・いや、それ以上かもしれへん」 「おれもそう思う」 ケンスケも同様に目を見張った。 「すごいな、とても親子には見えないぞ」 「見えん、見えん」 「それにしても、惣流もまたえらく・・・・・・かわいいな」 とケンスケが言うのを聞くと、トウジは呆れ顔で苦笑を浮かべた。 「ケンスケ、やっぱりお前、女の見た目しか見ないやろ」 「だって、見ろよあれを。とても中学生には見えないぜ」 「うーん・・・・・・確かにな」 向こうのふたりは、店に入ったが窓際に着いたため、まだその姿が見えている。 「性格はともかくさあ」 ケンスケの声はかなり気色ばんでいた。 「やっぱりかわいいよなあ、惣流アスカ」 「ま、性格はともかく、な」 と言いながらも、トウジの目もアスカにクギ付けになっている。 「でもさ」 急にケンスケの声が落ち込んだ。 「どうして、シンジの周りにはいつもかわいい女の子ばかりがいるんだ。おかしいよ」 「それは、ワイらが・・・・・・いや、お前が脇役だからやろ。さっき自分で言っとったやないか」 トウジは『お前が』を強調した。 「・・・・・・・・・」 ケンスケはしばらく黙っていたが、ふっと気が変わったように歩き出した。 「おい、どこ行くんや」 「ゲーセン」 「は?」 トウジが追いかけようとしたところで、ケンスケが振り返った。 「ゲーセン行くんだろ。トウジは行かないのか」 「ああ・・・・・・行く」 再び並んで歩き出すと、ケンスケはポツンと呟いた。 「もうやめた」 「ん? いま何か言ったか」 「やめた」 「やめた? また何か腐るつもりか」 「ぐちぐち言うことをやめたんだよ」 ケンスケの横顔は、何かを悟ったような『気』を見せていた。 「脇役の人生を楽しんでやろうと思ってさ」 「ほう」 トウジは口をすぼめた。 「ま、ワイもお前の愚痴を聞くのはもうイヤやったし、よかったよかった」 「見てろよ」 トウジのホッとした表情とは対照的に、ケンスケは不気味な笑みを浮かべて呟いた。 しかも、それはトウジに対してではなく、独り言のような呟きだった。 「脇役だけの人生で終わりにはさせないぞ。変えてやる。見てろよ」 その小さな呟きは、トウジの耳には届いていなかった。 ■5 「今日はいっぱい視線を感じちゃったな」 大きな紙袋を腕にぶら提げながら、アスカは言った。 「男の人にもたくさん声かけられたし」 「それは、アスカがかわいいからよ」 隣に並ぶ母・キョウコが言った。 片手に食料品等の入ったビニール袋を抱えているが、所帯じみた雰囲気は感じられない。 さながら会社帰りにスーパーに立ち寄った帰りの『美人』OLという感じである。 夏らしく、夕方の5時といってもまだまだ空は明るい。 もう少し外にいても遊びは尽きないのだが、夕飯の仕度があるため切り上げることにした。 駅前のメインストリートをまっすぐに通って、静かな住宅街に入ってきたところである。 「だったら、ママだって同じじゃない。ママもかわいいからだよ」 もちろん謙遜することなく、アスカはさらに母を褒めた。 「って言うことは、自分がかわいいってことを認めるのね、アスカ」 「当ったり前じゃない。鏡見なくても知ってるわよ、そんなこと」 驕るに足る胸を張りながら、アスカは自信満々の笑みを浮かべて言った。 「そうよね。なんたって私の娘ですものね」 「ごめんね、ママ。娘がママよりもかわいくなっちゃって」 「あら、私はアスカみたいな『お子様』に負けてるなんて思ったことないわよ」 「アタシのどこが『お子様』なのよー。もう心も身体もオトナなんだから」 「へえ、その程度で?」 と、キョウコは空いているほうの手でアスカの胸をちょんとつついた。 すかさずアスカは、もう触られまいと、婦人服の入った紙袋で前を隠した。 「まだまだ全然子供じゃないの」 「ママと比べないでよ、もー」 アスカの胸元は、体型的にも、年齢的にも平均以上の膨らみがあるが、 彼女の母は、まさしく『オトナ』のそれを持っていた。 トウジが「ミサトせんせえ並み、いやそれ以上かも」と言ったのはそういう意味である。 「アタシだって、オトナになったらママみたいに大きくなるんだから」 「『オトナになったら』、ね」 とキョウコに言われて、アスカはバツが悪くなり、ふてくされ顔になった。 「でも、かわいいのは本当のことなんだから、自信持ってていいのよ」 という母のフォローは慰みにはならなかったが、「かわいい」と言われるのは、 例え親に言われるのでもうれしいことに変わりはなかった。 紙袋を、母とは反対のほうの手に持ち直して、アスカはキョウコの腕をとった。 「どうしたの、アスカ」 「かわいい娘とこうやって腕組んで歩けて、うれしいでしょ」 「もうウンザリ」 キョウコは笑いながら言った。 「今日一日中ずっとこの恰好だったじゃない。もう当分いいわよ」 「何よそれー」 「うそうそ、冗談よ。・・・・・・でも」 「でも?」 ちょうど曲がり角をまがり終えてから、キョウコは冗談めかして言った。 「どうせならかわいい娘よりも、かわいい男の子のほうがよかったなー、なんて」 「えーっ」 アスカは笑いながら母の顔を見た。が、キョウコは前方を向いたままだった。 そして、ビニール袋を持ったほうの手を少し上げて、言った。 「ほら、ああいう感じの」 「えっ?」 アスカはその先を見た。そしてもう一度「えっ」と呟いた。 前方およそ30メートルほど先に、ふたりの男女が並んで歩く姿があった。 男女といっても、背丈があまりないので、男の子と女の子という感じである。 それは、まぎれもなく碇シンジと綾波レイであった。 腕を組み、仲良く寄り添うように歩いている。 「うそ・・・・・・」 呟きが、思わずアスカの口から洩れてきた。 「あら、あのふたり、シンジくんと綾波さんじゃないの」 アスカの驚きを知らないキョウコは、ただ気がつくままに言った。 「あんなにくっついて・・・・・・まるで恋人同士みたいね」 「・・・・・・・・・」 向こうの歩く速度が遅いのか、どんどん近づいてしまうので、アスカは歩みを停めた。 同時に、腕を組んだ恰好なので、キョウコも停まらざるをえなかった。 「どうしたの、アスカ」 キョウコは、わざと大きな声で言った。 前方のふたりが振り返った。 アスカは、口を「あ」の字に開けた。 目が合った。 シンジと目が合った。 彼は、特に驚いた様子ではない。 レイの視線も感じた。 双方、相変わらず腕を組んだままだ。 アスカは、レイを見た。 彼女は笑顔だ。 「わあ、かわいいね、アスカ」 そんな声が聞こえた。 母に引っ張られるようにして、シンジたちと合流した。 (どうしてよ) アスカは、心の中で呟いていた。 (アタシとは手もつないでくれないくせに) 「あーら、おふたりさん。今日はおデートだったのかしら」 アスカは心中を悟られまいと、ムリに虚勢を張った。 引きつった顔と震える声が、明らかな動揺を表している。 ところが、他の3人は誰もアスカの様子に気がついていなかった。 「まあね」 いまだにシンジから離れないまま、レイは言った。 「駅前近くのおっきな公園をぐるっと回ってたんだ」 「へえ、それはよかったわね、シンジくん」 なぜか、アスカは『くん』付けでシンジを呼んだ。 「う、うん」 シンジは、どこか落ち着かない表情である。 おそらく、レイがくっついているのが恥ずかしいのだろう。 「でも、こんな時間までずっと公園にいたの?」 アスカはシンジに向かって訊いた。が、口を開いたのはレイだった。 「そうだよ。公園を一周したあとは、アスレチックで遊んだりして」 「その恰好で?」 「うん、この恰好で。そのあとはベンチに座ってボーっとしてたかな。ね、碇くん」 「う、うん」 シンジはさっきと同じ相づちを打った。 (何よそれ) アスカは口の中で呟いた。 (アタシとはそういう風に遊んでくれたことないくせに) シンジに向けて、愚痴を多分に含んだ『気』を送ったが、彼の照れた様子は変わらない。 キョウコが茶化して、「いいな、私もデートしたいな」と言うと、ますます照れていた。 レイとは言えば、うれしそうに「うふふ」と笑うばかりである。 アスカは、どれもこれも気に入らなかった。 顔は笑顔を取り繕っていたが、心の中は曇りがかっていた。 どうしてそんな気持ちになるのか、歩きながらアスカは理解した。 もちろん、もっとずっと前から知っていたことである。 知っていながら、なぜかその理由を受け入れたくない気持ちがあった。 知っていながら、わざと気のない振りを続けていた。 知っていたから、自分をよく見せようとする努力を重ねていた・・・・・・つもりだった。 知っているから、もどかしい思いを何度も味わっていたのだ。 (やっぱりアタシ・・・・・・シンジのことが好きなのかな) それは、口に出すのはおろか、心の中に思うことすら初めてのことだった。 いままで極力避けていた思いが、完全に自分を支配していた。 チラッとシンジを盗み見た。 しかし、どういうわけかまともに見れずに目を逸らしてしまった。 気になり始めたら、ますます気になって仕方がなくなってきた。 アスカは、せっかく自分でも気に入ったおしゃれな恰好をしているのにもかかわらず、 身体を縮こまらせて自分を抑え込んでいた。 家の前に着いてシンジと別れるまで、アスカは心ここにあらずといった感じだった。 ■6 「あなた」 子供たちが2階に上がるのを見送ってから、碇ユイは夫に話しかけた。 土曜日の夜遅く―― 入浴の順番がいつものように最後になり、髪を乾かし終えてリビングに出ると、 和室にゲンドウの姿を見つけたので、話の続きをしようと思ったのだ。 話の続き――もちろん、昼前に繰り広げられた子供たちをめぐる話である。 「あなた、そんなにレイちゃんのことが好きなんですか」というユイの言葉を最後に、 夫婦の間に交わされる会話は一言もなかった。 シンジたちが夕方帰宅してから、ユイは夫を何度も盗み見ていた。監視である。 主に見ていたのは、彼の目、もっといえば、瞳だった。 綾波レイを見る時の彼の瞳に、ユイは何よりも注目した。 案の定、ゲンドウはまるで気のない振りをしていた。 妻の目から見ても、感情が移りこんだ目をしているようには見えなかった。 それは朝のことを考えれば、心理的にそうなるのだろうとユイは分析していた。 だから彼女は監視に余念がなかった。常に夫を見つめていた。 ゲンドウがこちらを見れば目を逸らし、向こうが目を逸らせばまた見つめる。 ユイは、まったく自然な動作でそれをやってのけた。 だから、夫も普段と同じ程度にくつろいだ雰囲気を呈していた。 そのため、ゲンドウに隙が生まれた。もちろんユイはその隙を見逃さなかった。 父親といえば一番風呂、というこだわりはゲンドウは持たない主義だが、 特に何もなければ彼がいちばん先に入るというのが常套的になっていた。 だが、レイが家にやってきてからは、彼女がいちばんに入るのが暗黙の了解となっていた。 特に理由はないのだが、知らず知らずのうちにそういう風に決まっていた。 よって、ゲンドウは大抵2番目に風呂に入ることになる。 そのあとにシンジ、そして最後にユイ、というのが普段であった。 ところが今日は、ユイとの心理的な諍いのようなものがあったためか、 ゲンドウはさっさとという感じで、風呂が沸くとすぐに、何も言わずに風呂場に向かった。 ユイは、非常に目ざとく見ていた。何を見ていたのかといえば、レイの様子である。 レイは、シンジと一緒にソファに並んでテレビを見ていた。 テレビに夢中になっていて、ゲンドウが風呂に入ったことを知らないようだった。 そのレイの様子を見た時、ユイは、私って悪い親だわなどと思いながら、 口元を歪めて笑みを浮かべた。妙案を思いついたのだ。 ユイは、洗いものをしながら、レイに呼びかけた。 「レイちゃん、お風呂沸いたから先に入りなさい」 「はあい」 画面に目をやったまま、レイは返事をした。 程なくして、彼女が見ていたテレビも終了し、お風呂に入ろうとレイは立ち上がった。 「それじゃ、入ろうっと」 碇くん、覗かないでよ、というからかいもいつものように、風呂場に向かった。 そして、彼女が台所から風呂場へ抜ける戸を横にスライドした瞬間―― 風呂場の戸が開き、ゲンドウがその姿を現した。 ユイは、この時間的一致に思わず震えを感じた。 頭に思い浮かんだ場面が、まさにピタリと展開されようとは、思いもよらなかった。 まるでマンガのような都合のよさに、感動を通り越して恐怖を感じた。その震えである。 その時の夫の顔を思い出すと笑えて仕方ないが、ユイはすぐに後悔の念にかられた。 ほとんど偶然の出来事とはいえ、レイを、子供をだますのはいけなかった。 案の定、ゲンドウは困惑していたが、レイだってもちろんそうだった。 だが、初めは驚きを隠せないといった様子のレイだったが、ユイが謝ると、 いきなりケロッとした顔になり、そのあとは何事もなくお風呂に入っていた。 それを見ると、本当は知っていたのではないか、いまのは演技だったんじゃないのか、 そんな風に思いたくもなった。 ちょっとだけ、何を考えているのか分からないような所がレイにはあった。 しかし、あまり振り回されるわけにもいかなかった。 何しろ夫がいたく気に入ってしまった女の子なのだ。 朝のゲンドウの様子を見れば、ユイの目には明らかだった。 自分の娘ではないけれど、レイはシンジと同様にかわいい。 だから、自分の子供っぽい性格から敵愾心を生んでしまうことが、ユイはつらかった。 夫との話し合いを中断したままではいかない、そう思って、ユイは話しを再開したのだ。 「あなた」 和室のテーブル横に座り、夫の顔を斜めに見ながらユイはもう一度呼びかけた。 ゲンドウはハードカバーの本を片手に、座椅子に沈み込むように座っていた。 書店のブックカバーがなされてあるので、どんな本かは分からない。 「何だ」 本から目を逸らさずに、ゲンドウはポツンと言った。 「どうせ明日もお休みなんですから、今夜はとことん話し合いましょう、あなた」 「話し合う?」 ゲンドウは本をテーブルに置き、妻に目を向けた。 ユイの睨むような視線がからみつき、思わずちょっとひるんだ。 「何をだ」 「今朝の続きですよ」 「・・・・・・・・・」 「で、どうなんですか」 ユイは、いきなり話の核心から切り出した。 「どうとは」 「もう一度同じ質問をしたほうがいいのかしら」 「・・・・・・いや、いい」 ゲンドウは、度入りのサングラスではなく、家では普通のメガネをかけているが、 それを外して、姿勢も前かがみにしてテーブルに腕をのせ、妻を見据えた。 彼はそれによって目が小さくなるため、相手を威嚇する手段としてよく用いていたが、 ユイが、グラスを外した時のゲンドウを「かわいい」と思っていることを忘れていた。 ゲンドウは余裕を見せているようだが、ユイはもっと話しをしやすくなっていた。 「私がレイに興味があるかという話だったな」 碇シンジの父親は、意外にも滑らかな口調で話し始めた。 「正直に言おうか、ユイ」 「どうぞ」 ユイは身構えた。 「何とでもおっしゃって下さい」 「好きだ」 いきなり、来た。 急すぎて何と言ったのか初めは分からなかった。 ユイは、呆然と夫の顔を見つめていた。 ・・・・・・一度だけ、その言葉を言われたことがあった。 結婚する前、というよりも、付き合い始めて間もない頃だった。 まだ、いまのような「愛」ではなく「恋」に満たされていた時に一度だけ言われたのだ。 プロポーズというものはどちらもなく、いつの間にか婚姻関係を結んでいたので、 言葉の愛情表現を受けたのは、後にも先にもその一回だけだった。 ところが、綾波レイに対してその言葉がすんなりと出てきたのである。 ショックだった。驚き以外の何ものでもなかった。 ハッキリいって、もうこれ以上夫の声を聞きたくなかった。 どんな弁解を聞いても、どれもこれもうそにしか聞こえないと確信していた。 そんなユイの心情を知らずに、ゲンドウは弁解を始めた。 「と言ってもだな、ユイ、保護者としてだ。娘に対して思う気持ちのようなものだ」 ユイは、黙って夫の顔を見つめていた。 それを見て、素直に聞いていると思ったのか、ゲンドウはさらに続けた。 「もちろん、シンジに対しても息子としての愛情がある。それと同じことだ。 どうやらお前は何か勘違いをしているようだが、私の言いたいことはそれだけだ」 「・・・・・・うそだ」 ユイは視線を落とし、ゲンドウの胸元を見つめながらポツリと呟いた。 「私はうそなど言っていない」 「いいえ、うそよ」 ユイの声は、喋るにつれて大きくなっていった。 「あなた、本当はレイちゃんをひとりの女の子として見ているんでしょ」 「だから、違うと言っているだろう」 「違わないわ、好きなのよ。さっきあなたが言ったように、本当に好きなのよ。 おとなのくせに、中学生の女の子を好きになっちゃったのよ」 「それは誤解だと言っている」 「そうよね、私は昔に比べておばさんになっちゃったものね」 それはゲンドウに対してというより、自嘲的な独白のように聞こえた。 「あなたは、昔の私みたいな、若くて子供っぽい女性が好きなのよね。 だから、アスカちゃんみたいなオトナっぽいコより、レイちゃんを気に入ったんだわ。 そうなんでしょ。正直に言うって言ったんだから、正直に言ってよ」 最後のほうは、ヒステリックな叫びとなっていた。 「ユイ、落ち着け。上に聞こえるだろう」 「ほら、早く言ってよ、あなた」 何とかなだめようとするゲンドウの手を、ユイは強く握って上下に振った。 「ねえ、お願い、本当のことを言って・・・・・・」 「ユイ・・・・・・」 さすがの碇ゲンドウも、このままではまずいと思ったのだろう、 ユイの手をなでながら口調を出来るだけ穏やかにして言った。 「もしかして、私が、子供は女の子が欲しいと言ったのを気にかけているのか」 「・・・・・・・・・」 そうだった。 シンジを産んだ時、男の子だと分かった時のゲンドウの表情は、少し残念そうだった。 妊娠が分かった時には、あえて男か女か知らないように検査を受けなかったが、 ある夜、眠る前に、少し大きくなったおなかをなでながら、 「どちらかというと、女の子が欲しいな」と夫が呟いたのを覚えていた。 その時は、別に何とも思っていなかった。 自分は男の子が欲しいと思っていたので、ふたりでそれぞれ名前を考えたりして、 案を出し合って・・・・・・ そうだ、とユイは思い出した。 「男の子だったら・・・・・・そうねえ」 ベッドにあおむけになり、自分のおなかをさすりながらユイは言った。 見た目はそんなに変わらないが、やはりいまよりもずっと若々しい。 「シンジ、なんてどうかしら。碇シンジ」 「シンジか・・・・・・」 横に寝そべるゲンドウも、若さか幸せゆえか、いくらか柔和な顔立ちに見える。 「女の子なら、どんな名前がいい?」 「そうだな・・・・・・」 ゲンドウもユイのおなかに手を添えて、しばらく考え込んだ。 何度か「そうだな・・・・・・」と呟き、そして何の前触れもなくポツリと言った。 「レイ」 「え?」 「女の子なら、レイだ。碇レイ。レイにする」 「レイ、か・・・・・・ふうん、レイちゃんね」 何という偶然であろうか。 夫は、生まれる子供がもし女の子なら、『レイ』がいいと言っていた。 そして、一週間ほど前に我が家にやって来た女の子の名前は、綾波レイ・・・・・・ 「ユイ」 その呼びかけに、ユイはめぐらす思いを断ち切って現実に引き戻された。 「確かに、私は女の子が欲しいと言った。生まれたのが男だと分かった時、落胆した。 と言うとシンジに申し訳ないが、それが素直な気持ちだった」 ゲンドウは、視線をテーブルに落として、とうとうとその思いを語り続けた。 「もしかすると、そんな気持ちがお前に伝わったのかもしれないな。 その後子供を作ろうとしても、まったく妊娠しなかった。そしてすぐに諦めてしまった。 しかし、千載一遇とでも言うべきか、綾波レイを引き取ることになった。 あの子は、私が望んだ以上の女の子だった。失われた夢が、舞い戻ってきたようだった」 「・・・・・・・・・」 よく喋る夫を、ユイは覗き込むようにして見つめていた。 「実は、シンジにはもう伝えてある」 「えっ」 ユイはビックリして身をこわばらせた。 「シンジに、な、何を言ったんですか」 「綾波レイを、お前の結婚相手に考えている・・・・・・と」 気の早すぎる夫の言葉に、ユイは目をむいた。 ふたりは知らなかった。 いまの会話を、レイがすぐそばで聞いていたことを―― つづく
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