■1 ≪惣流アスカの独白≫ ベッドに倒れこむと、途端に猛烈な睡魔が襲いかかってきた。 せめてタオルケットをおなかにかけようと思っても、もう手遅れだった。 倒れこんだ際に、パジャマの裾がめくれて背中が少し見えてしまっているのも、 このまま寝たら明日起きた時、顔にヘンな跡がついてしまわないかという心配も、 いっぺんに置いていかれてしまう勢いで、眠りについてしまった。 その時はまだ土曜の夜。10時を過ぎたばかりだったけど、眠気は突然やって来た。 普段ならまだまだ余裕で起きていたし、平日だってこんなに早く寝ることはない。 なのにどうして眠たくなったのか、ただぼんやりとしたまま寝てしまった。 もしも理由があるとすれば、今日のことを忘れたいという逃避かもしれなかった。 初めて知った自分の気持ち――本当は、ずっと前から知っていた想い。 言葉にするのも恥ずかしいようなこの気持ちから、逃げてしまいたかった。 思いつめれば思いつめるほど、どんどん自分が憐れに思えてくるから。 自分の気持ちをここで整理するために、もう一度、今度はハッキリと宣言したい。 本当なら、こんな所で引き下がるようなアタシではないから。 「アタシは、シンジのことが・・・・・・」 やっぱり言葉には出来なかった。 それにしても、ただ勝手に想うだけのことにここまで苦労するのは初めてのこと。 想うだけで息が苦しくなり、胸が大きく鼓動を打ち、顔が火照ってくる。 信じられないという気持ち半分、当然の反応という意識半分だった。 昔からの幼なじみとして、シンジとはいっつも遊んでいた。本当にいっつもだった。 あんまり小さい頃のことは覚えてないけど、いつでもアタシが率先していた。 それがいけなかったのかもしれない。 何をするにもアタシが先頭で、シンジはそのうしろを着いて行くという感じだった。 だから、自然とお姉さん意識が生まれてしまって、バカシンジなどと呼んだりもした。 知らないうちに、シンジはアタシがいないと何も出来ないという概念が出来ていた。 実際そういう面もある。朝はひとりで起きられないし、自分の意見もまともに言えない。 だから、いつだってアタシがシンジの世話焼き役だった。 常に自分が優位な立場にある、というバカみたいな錯覚が、 知らず知らず自分の気持ちを縛りつけてしまっていることに気がついていなかった。 バカシンジと言っておいて今更という感じだけど、バカはアタシのほうだった。 そういうバカな気になっていたから、シンジに対する気持ちが信じられなかった。 どうしてアタシがこんなヤツのことを、という風に。 でも、自分の気持ちを見つめ直すにつれて、だんだんと分かってきた。 恋焦がれる女の子にしては純情すぎるほどの反応を、何となく理解しつつある。 それにしても、とアタシは考えた。 どんくさくて、頼りなくて、ハッキリしないこんな男をどうして? と思った。 その答えを探し求めていた時、突然、綾波レイの顔がチラついた。 あの、何を考えているのか分からない不思議なコ。 思考は、どんどん綾波レイのほうに向かっていった。 レイとシンジが腕を組んで歩く姿をうしろから見た時、強いショックを受けた。 どう見ても、恋人同士にしか見えなかった。 どうして、と思った。シンジはレイのことが好きなの? という風に。 でもすぐに切り替わった。レイは、シンジのことが好きなのだろうか、と。 初めて会ったときからイヤな予感はしていた。 いきなりシンジとぶつかるわ、パンツを見せて変態扱いするわ、 誤解が解けるとすぐに仲良くなるわ、一緒の家に暮らすようになるわ・・・・・・ でも、よく分からない。 彼女の考えていることが、よく分からない。 そうだ。ああん、もう、分からないとイライラし始めたところで、眠くなったんだ。 イライラに任せてベッドに倒れこむのとほぼ同時に、睡魔に支配されてしまった。 そして、アタシはひとつの答えを見つける夢を見た。 何の答えかといえば、どうしてアタシがシンジを好きになったのか、この疑問だった。 * * * 「わあ、きれい」 雪が覆い被さった桜の木々を眺めながら、小さな女の子が感嘆の声を上げた。 小さい頃のアタシだ。たぶん、5歳くらいだろう。 あったかそうなセーターに、同じ色のマフラーを巻きつけて、同じ色の手袋をはめている。 赤一色で統一されていた。この頃から赤が好きだったみたいだ。 いまアタシは夢を見てるんだな、とすぐに気がついた。 その夢は、幼い頃の自分の視点ではなく、別の角度から現在の自分が見るのでもなく、 いわゆる神の視点だった。でも、心の中までは覗けないみたい。 いま捉えている映像も、見ているというよりは、勝手に頭に飛び込んでくるという感じ。 記憶というより、脳にしまってある記録から取り出されたイメージの外観を見ていた。 場所は駅近くの森林公園の桜並木の道で、ほぼ毎年出かけている所。 けれど、この夢の中のアタシは、5歳の時のアタシだという確信があった。 実際4,5,6歳あたりの自分の写真を見ても、どれが何歳とは判断つかないのに、 どういうわけか、このアタシは5歳のアタシだと決まっているようだった。 5歳ということは、いまは年末か年初めか、冬真っ盛りの時期だろう。 その頃のことはあんまり覚えていない。 だからアタシは、少しこの様子を見ながら思い出す作業を始めた。 「ほら、きれいだよ、シンちゃん」 5歳のアタシは、常に上を向きながら、隣に立つ同年代の男の子に向かって言った。 シンちゃん、と呼ばれたのは、もちろんシンジのことだ。 当時はまだそういう風に呼んでいたっけ。 小さなシンジは「うん」とうなずいて、ズズッと鼻をすすった。 いまのシンジを、そのまま小さくしただけという感じでとてもかわいい。女の子みたい。 アタシとお揃いの恰好で、シンジの場合青一色の装いだった。 よく見ると鼻の下が赤くなっている。風邪でも引いてるのだろうか。 「ほらほら、鼻水出てるわよ」 横からシンジのお母さんが、慣れた手つきでティッシュをシンジの鼻に当てた。 ちーんとシンジは鼻をかんで、ちょっとスッキリした顔になった。 シンジはこの人から生まれたんだなあ、と改めて思う。 やっぱり顔立ちが似ている。だからシンジは中性的と形容されるのかもしれない。 おばさまの隣には、アタシのママがいた。 シンジのお母さんも若いけど、アタシのママはもっと若く見える。 ハタチといってもいいくらいだ。実際この時は26歳くらいか。 「シンちゃん、いくわよ」 命令口調で、ちびアスカは白いじゅうたんの上を走り出した。 といってもたいして積もっているわけでもなく、サクサクと進んでいく。 もうすでにこの時には、アタシはシンジのお姉さんになっていたようだ。 「アスカ、走ると転ぶわよ」 ママの注意が聞こえても、小さなアタシは、雪が楽しくてはしゃいでいた。 「まってよ、アスカちゃん」 シンジは、おろおろとした足取りでアタシを追いかけていく。 同じように、シンジのお母さんからの注意が割り込み、シンジは走るのをやめた。 アスカちゃん、か。最後にそう呼ばれたのはいつのことだろう。 まだ記憶がハッキリしてこないけど、懐かしい思いがこみ上げてきた。 ちびアスカは、サクサクサク、と誰も足を踏み入れていない場所を狙って走っていた。 この足の感触がたまらなく気持ちいい。いまでも好きだ。 彼女の視点からはもちろんうしろは見えないけど、少しずつ差が開いていた。 シンジも何とか近づこうと努力してるみたいだけど、アタシの足は速かった。 ・・・・・・うーん。だんだん、というか、ほとんどハッキリと次の展開が読めてきた。 たぶん、転ぶ。 「あっ」 というちびアスカの声を聞いた瞬間、やっぱりなと思った。 いまはおそらくお昼過ぎだと思う。 雪が降り始めたのが昨日の夕方か夜辺りからだとして、朝方はもうやんでいただろう。 そうすると、いまの時間あたりには凍り始めた雪もあるのだろうか。 よく分からないけれど、小さなアタシはすべって転んだ。 走った勢いで、前のめりにズサッと倒れ、顔まで地面の雪につけた。 ああ、子供ながらブザマな倒れかただ。 ばっちりシンジに見られて、きっと恥ずかしがってるだろうな。 と、突然シンジがアタシに向かって走り出した。 おぼつかない足取りではあるけれど、その必死さが伝わってくる感じだ。 ママたちは、最初アタシが転んだのを見て駆けつけようとしたみたいだけど、 シンジが走り出したので、それを見送るように歩みを停めていた。 「アスカちゃん」 シンジがアタシの所まで駆け寄ると、慌てた感じでしゃがみ込んだ。 アタシは、まだ倒れたまま顔を上げない。きっと顔を真っ赤にしているのだろう。 「アスカちゃん、だいじょうぶ?」 シンジは、アタシの身体をゆさゆさと揺らし、めいっぱい心配そうな表情をしている。 続けて、今度は起き上がらせようとした。が、手袋ですべってしまう。 シンジは自分の手袋を取ってしまった。そして、優しくアタシの上半身を抱き起こした。 5歳児がするマネとは、とても思えなかった。 「アスカちゃん、だいじょうぶ?」 シンジがもう一度呼びかけると、アタシは真っ赤な顔をそむけた。 雪に埋もれたため、頬の辺りにちょっと雪が付着している。 「あ、ゆきがついてるよ」 シンジは、手袋を取った手で、アタシの頬の雪を払った。 あれ? どうして? その感触がこっちにも伝わってくる。 まるでちびアスカとリンクしている――シンクロしているみたいだ。 シンジはさらに、アタシの髪についた雪も払ってくれた。 「アスカちゃん、おかお、あかくなってる」 たぶん、寒さで赤くなっていると思ったのだろう。シンジはアタシの頬に両手を当てた。 実際、寒さもあったけれど、理由はもっと別のところにあった。 どうしてだろう。手袋を取って、冬の空気にさらされたはずなのに・・・・・・ 冷たいはずのシンジの手が、とってもあったかく感じられた。 アタシの顔が、よりいっそう赤くなった。 手を当てられたまま、小さなシンジのかわいらしい顔が間近に迫ってきた。 「アスカちゃん、おけが、してない?」 「し、してないよ」 アタシの声はどもっていた。しかも、してないというのはうそだった。 倒れた時に、思わずついた手の平にちょっと痛みがあった。 手袋をしていたから擦りむけてはいないだろうけど、それに似たような感じがある。 でも、そんな痛みなど感じている余裕は、いまなかった。 シンジはすっくと立ち上がり、ちびアスカに手を差し出した。 そういえば・・・・・・とアタシは思い出した。 この頃、シンジはよく転んで泣いていたことがあった。 転ぶとアタシは「なにやってんのよ」とバカにするだけで、決して助けようとしなかった。 それに、アタシがシンジの前で転ぶなんてことは、これが始めてだった。 アタシは、シンジに、いつもアタシがバカにするから仕返しされると思った。 けど、違った。シンジは手を差しのべてくれた。 アタシは照れながらも、その手をつかんだ。 手袋を通してでもそのあたたかさが分かった。どうしてこんなにあったかいんだろう。 ちびアスカは立ち上がると、シンジの顔を見た。 背はほとんど一緒なので、目線の先にはシンジの顔がある。 「よかった、アスカちゃんにおけががなくて」 シンジはニコッと笑った。そのあと鼻をすすったのがちょっとカッコ悪かったけど、 かわいくて、とても素敵な笑顔だった。 同時に、アタシは胸が熱くなるのを感じた。 ・・・・・・え? そんな単純なことだったの? それだけのことで、たったそれだけのことでアタシはシンジのことを・・・・・・? 人を好きになる理由なんて、案外単純なものなんだな。 そう思った瞬間、アタシは目を覚ました。 ■2 目覚めはよかった。だが、すぐに湿っぽい空気を感じた。 どうやら雨が降っているらしい。さーっという降雨の音が聞こえた。 実際カーテンを引いてみると、窓ガラスに打ちつける雨の水滴で景色が歪んで見えた。 ただし、外の色はハッキリと分かる。アスカのいまの心と同じ、灰色の空だ。 いましがた見ていた夢に、自分の本当の気持ちを見出したアスカは、 それでもなおスッキリとした気分ではなかった。 自分の気持ちは理解できた。しかし、相手の気持ちは分からない。 さらに、綾波レイがいる。彼女がいまのところ一番の問題だ。 いや、本当は、アスカはまだ自分の「気持ち」が分かっただけだった。 それを「伝えるすべ」を理解したわけではないのだ。 そこをアスカは懸念していた。 もしもこのまま、いままで通りに振る舞っていたら、先を越されてしまう気がした。 誰にといえば、もちろん綾波レイにだ。 あの思わせぶりな少女の行動は、いまひとつ意図が読めないところだが、 仮にレイがシンジに気があったら、彼女はどんどん先に進んでしまうだろう。 それを黙って見ているわけにはいかないのだ。 ところがアスカは、シンジと幼なじみでいたことによって出来上がった性格によって、 妙なプライドが作り上げられ、本心を邪魔されていた。 ここで一度この性格を取っ払ってしまおうか、そう考えても、簡単に出来ることではない。 アスカは起きて早々、いきなりベッドに座ったまま頭を抱え込んだ。 ごろりと横になり、しばらく視線を空にさまよわせ、「うーん」とうなった。 実に10回目のうなりを搾り出すと、アスカは反動を付けてピョンと立ち上がった。 階段を下りてリビングに入ると、母がテーブルに着いてコーヒーを飲んでいた。 時計を見ると午前10時。およそ半日眠っていたことになる。 「パパは?」 おはようと言ってから、アスカは訊いた。 「休・日・出・勤」 コーヒーをすすり、一語一語区切りながらに母は答えた。視線はテレビに向いている。 「ここんとこ帰りも遅いし、働きづめでいつか倒れるわ、うちのパパ」 「ねえ、ママ」 父親がいないと分かると、アスカはテーブルの母の正面に座って、いきなり切り出した。 「話があるの」 「どうしたの、アスカ」 いつになく真面目な表情の娘の顔を見て、キョウコは笑みを浮かべながら驚いた。 「なあに、話って」 「テレビ、消すよ」 リモコンに手を伸ばし、アスカはテレビの電源を切った。 その様子に、キョウコは娘のただならぬ真剣さに身をこわばらせた。 アスカはイスに姿勢よく座り、手を膝に置いたまま身を乗り出した。 「あのね、ママ。アタシ・・・・・・」 「ちょっと待った」 キョウコは手で待ったをかけて、急に立ち上がった。 「何か飲みなさい。喋るには口を湿らせてからのほうがいいから」 「いらない」 「ダメ。起きたばっかりだし、どうせ朝ごはんはいらないって言うんだろうから、 せめて牛乳だけでも飲みなさい」 「いらない。いいから聞いて」 「ダメよ」 キョウコは聞かずに、牛乳をなみなみと注いだコップをアスカの前に置いた。 「はい、これ飲みなさい」 「いらない」 「ダーメ。もう子供じゃないんだから、好き嫌いは言わせないよ」 「アタシ子供だもん」 「都合いいときだけ子供にならないの」 「分かったよ、もう、飲めばいいんでしょ」 アスカはイヤイヤといった感じでコップを持ったが、それを一気に胃に流し込んだ。 「はい、飲みましたよ」 アスカはコップを突き返した。すると、母が自分の口周りを指で丸く円をかいていた。 一瞬なんだろうと思ったが、すぐに気がついて、アスカは口元を手の甲でぬぐった。 「もう話をしてもいいのかしら」 「待って」 キョウコはまた待ったをかけた。 「今度は何よ」 「新しいコーヒー入れてくる」 アスカはため息をついた。完全に母にペースをかき乱されていた。 いまから重大な告白をしようとしているのに、その気がどんどん薄らいでいってしまう。 母が、新たに入れたコーヒーをすすりながら席に戻った。 「いいよ、どうぞ」 「あのね、アタシ・・・・・・」 「あ」 キョウコは手をパチンと叩いた。 アスカは心の中で「またぁ?」と悪態ついていたが、もう面倒になって黙っていた。 「アスカ、お部屋の窓、ちゃんと閉めてある?」 「閉まってるよ。もう、はぐらかさないでよ。言うのはこっちなのに」 「ごめんごめん。今度こそいいわよ」 キョウコは手で「どうぞ」と言って、ようやくアスカは話を切り出した。 「アタシ、シンジのことが好きなの」 話の切り出しかたとしては、少しおかしかった。告白である。 しかも、言うべき相手の違う告白だった。 アスカは、当然母は驚くものだと思っていた。だが―― 「ああ」 キョウコはそう呟いた。何だ、そんなことか、という風に。 そして、続きを促した。 「うん、それで?」 アスカは目を丸くした。 「それで、って、驚かないの?」 「どうして驚くのよ」 「だって・・・・・・」 「あら、私がアスカの気持ちを知らないとでも?」 「どうして知ってるのよ」 「ふふっ」 キョウコは、さもおかしそうに笑った。 「ママ、何笑ってんのよ」 「だあって、そんなのみんな知ってることよ」 「ええっ?」 なかば驚かせようとして言った言葉が振るわなかったことだけでも驚きなのに、 母のひと言はさらにアスカを驚かせた。 「うっそお・・・・・・みんなって、みんな知ってるってどういうこと?」 「みんなっていうか、少なくとも私とユイさんは知ってるわよ」 「ユイさんって、シンジのママじゃない」 「うん」 「どうして知ってるの・・・・・・」 アスカは呆然とテーブルの上に視線を泳がせた。 「アスカを見てれば一目瞭然よ」 「どうして」 「だって、いつだって顔に書いてあるもの。『アタシは碇シンジが大好き』って」 「そんな」 「あなたって、とっても分かりやすいコよ。言っちゃ悪いけど」 「言っちゃ悪いわよ」 「言っちゃ悪いついでに、当のシンジくんはとっても鈍感ね」 アスカは、それはその通りだと思った。 「アスカの顔に書いてある字が全然読めないみたいだもの、あのコ」 「うん・・・・・・」 「で、アスカちゃんは何を相談したいのかな? お姉さんに話してごらん」 「もうお姉さんっていう歳じゃないでしょ」 「ひと言多いのよ、アスカは」 キョウコはぶつマネをして少しふざけたが、すぐに真面目な顔になった。 「もしかして、どうしたらシンジくんに告白できるか、とかそういうことかしら」 ■3 「ど、どーしてそんなことまで知ってるの」 アスカは驚くというより慌てていた。 「あはは、ほんっと分かりやすい子ね、あなたって。いったい誰に似たのかしら」 たぶんあんただよ、とアスカは口の中で呟いた。 「うーん、いいなあ、羨ましいなあ」 両手で頬杖をつきながら、ニヤついた顔でキョウコは言った。 「何がよ」 「恋する乙女って感じで、羨ましいなって」 「ママはもうオバサンだからね」 「そういう余計なひと言はいらない」 キョウコは、アスカの額をちょんとつついた。 「私だって若い頃は恋に悩める女の子だったんだから」 「『若い頃は』、ね」 「はいはい、揚げ足取りはもうおしまい」 アスカの額をつついた指でテーブルをトントンと叩くと、キョウコは話を戻した。 「それで、ちゃんとあなたの口から言いなさい、相談事を」 「うん」 アスカは姿勢だけかしこまった。 「アタシ、シンジのことが好きなの」 アスカは最初からやり直した。 「うん、それで?」 「実は、その気持ちに気がついたの、昨日なんだ」 「昨日?」 キョウコは首をかしげた。 「うそでしょ。ずっと前から好きだったんじゃないの、シンジくんのこと」 「うん」 「じゃあそう言えばいいじゃない」 「でも、自分の気持ちに気付いたのが昨日が初めてだったから」 「ふうん」 キョウコは小刻みにうなずきながら、 「ま、分からないでもないわね」 「そう? 分かるの、ママ」 「何となくね。それで?」 「それでー、そのー、あのね、だからー、そのー、あのー」 「その、あの、じゃ分かんないでしょ」 「だって、恥ずかしいんだもん」 「『恥ずかしいんだもん』なんて言えるの、子供のうちまでよ」 「いいんだよ、アタシ子供だし」 「はいはい、ちゃんと言って」 「だから、シンジにね、す、好きですって言うのにはどうしたらいいのかと」 「言えばいいじゃない。す、好きですって」 キョウコは、アスカの震えをマネして言った。 「ママ、ふざけないでよ、もー」 「どうして言えないの?」 アスカの母親はすかさず突っ込んできた。 「やる前から、どうして言えないって分かるの?」 「それは、その・・・・・・」 アスカは、自分の性格上言えないということを説明した。 「だから、急に改まって『好きです』なんて言えない」 「なるほどねー」 キョウコは笑顔になった。 「恋には障害が多いほど燃えるっていうけど、あなたの場合、性格が障害になってるのね」 「まあ、そういうわけで」 「私の言いたいこと、分かる?」 「何? ママの言いたいことって」 「恋に障害はつきもの。障害ってことは、それを乗り越えなきゃ恋は結ばれないってこと」 「はあ」 「せめて、うん、とか言いなさいよ。はあ、なんて言ってたら幸せもやって来ないわよ」 「あ、うん」 「最初の『あ』もいらない」 「・・・・・・うん」 「つまり、アスカは一度自分を壊す必要があるのよ」 「自分を・・・・・・壊す?」 「いちいち訊き返さないの」 「・・・・・・はい」 うなずくアスカの様子は、ちょっとだけしおらしかった。 「いっぺん、惣流アスカという着ぐるみを脱いで、すべてをさらけ出しちゃうのよ」 「うん」 「もちろんそれにはとてつもない勇気がいるわ。恋には勇気が必要なの」 「勇気・・・・・・」 アスカはその言葉を反芻した。 「ただし」 キョウコは人差し指を突き立てた。 「自分を壊すといっても、何も全然違う人間になれっていうわけじゃないのよ」 「うん」 「自分の性格にしがみついて、思うように出来ないようになっちゃうことを壊すって意味よ。 ・・・・・・ああ、もっと簡単な言いかたにすればよかったわね」 キョウコは自分の説明に納得しない表情を浮かべ、言いなおした。 「要するに、自分の素直な気持ちをさらけ出しなさいっていうこと」 「うん」 「・・・・・・私ったら、何を当たり前なこと言ってるのかしら」 キョウコは苦笑を浮かべた。 「でも、確かにそうだなって思ったよ」 アスカは言った。 「だけど、やっぱり出来ないよ」 「・・・・・・・・・」 キョウコは、どうして、とは言わなかった。 「だって、もしもシンジに告白したとしてもさ、シンジがアタシのこと好きじゃなかったら、 そうしたらアタシどうすればいいの。それが怖くて言えない」 「そうよね。言えない理由はそこにもあるわね」 「シンジがレイのこと好きだったらどうしよう・・・・・・」 アスカの目が伏目がちになった。 「ねえ、アスカ」 そんなアスカを、キョウコは優しく諭すように言った。 「さっきも言ったけど、恋には勇気が必要なの。それから、自信もね。 もちろん自信満々で告白して失敗したらガッカリするのは何倍も強くなるでしょう。 でもね、自分に自信を持っていないと、出来ることも出来なくなっちゃうわ。 それに自分に自信のある人って、とっても輝いて見えるものなのよ」 「輝いて見える・・・・・・か」 アスカは母の言葉を深く反芻していた。 それを見てキョウコは、論理的思考からややかけ離れた説明ではあったが、 一応娘に伝わったとみてホッとした。 「アタシ、頑張る」 急にアスカの目が輝いてきた。顔つきにもいつも以上の自信が見えていた。 「でも、ちょっとずつだけど・・・・・・」 「うん、ちょっとずつでもいいから頑張りなさい、アスカ」 「うん」 それは、今日初めて見せるアスカの笑顔だった。 それを見てキョウコも笑みを浮かべたが、内心はかなりドキドキしていた。 (あんな子供だましみたいな話で、本当によかったのかしら) 実は、彼女は夫以外の男性を知らない。すなわち、恋愛をしたことがないのだ。 夫と知り合うきっかけはお見合いだったし、すぐにお互い気に入って結婚したのだった。 自分は、いわゆるいいとこのお嬢さんで、家にがんじがらめにされていた身であり、 夫は、脇目も振らず仕事に打ち込んできたエリート商社マンだった。 キョウコは、ある意味後悔していた。若い頃にもっと遊んでおけばよかった、と。 もちろん両親がそれを許さなかったが、自分だって普通の恋愛がしてみたかった。 その思いを、自分の娘に叶えてもらおうと思っていた。 つまり、たくさんの男性と付き合って、人生経験を多く積んでもらおうということだ。 だが、どうやらアスカは、本気でシンジのことが好きなようだった。 おそらく、予想外の範疇ではなく、一生を共にしたいと考えているのだろう。 それはキョウコの願った人生ではなかった。 碇シンジは、素直で優しく、それにとてもかわいい男の子だ。 だからといって、おとなになってもいい子でいるとは限らない。 もちろんそんなことは口に出して言えないし、本心ではないことであるが。 だけど、娘にはたくさんの男性を知ることによって、 どういう人が結婚相手としてふさわしいかを、ちゃんと見てもらいたかった。 キョウコ自身は、たまたま一回のお見合いで素晴らしい人とめぐり合えたからいいが、 そんな都合よくいい男性にめぐり合えるものではない。 だが、いまのアスカの目を見ていたら、そんな押し付けはいけないと思いとどまった。 そして、娘を信じよう、応援してやろうという気持ちが湧いてきた。 さっきまでずっとおとなの意見っぽく述べていたが、あれはすべて想像の話で、 恋愛経験者の意見とは言いがたいものであった。 それでも、娘に勇気を与えられたようなので、ようやくキョウコは安堵のため息をついた。 ■4 アスカは早速行動に出た。 雨が降っているのもお構いなしに、シンジを散歩に誘おうというのだ。 その誘いの電話から、アスカの作戦はスタートした。 「もしもし」 電話口に出たのは、シンジの母親だった。 「あ、もしもし、アスカです。シンジいます?」 「ええ、いるわよ。どうしたの、デートのお誘いかしら」 「えっ・・・・・・」 アスカは思い出した。シンジの母親も、自分がシンジに気があるのに気付いていることを。 「まあ、そんなとこです」 「そう。それじゃ、ちょっと待っててね」 碇ユイの声は、何となく楽しそうに聞こえた。が、アスカはまったく気付かなかった。 「はい」 すぐにシンジが電話口に出た。 「あ、シンジ・・・・・・」 ちょっとだけ、ほんの一瞬だけアスカは照れた。 「どうしたの、アスカ」 「あのさ、いまヒマ?」 そう言いながら、なんちゅう訊きかただ、とアスカは呆れた。 「うん、暇だけど」 「レイは?」 言ってから、綾波レイのことを訊くのは余計だったかな、と思った。 「綾波は・・・・・・」 シンジの呟きが聞こえたあと、受話器から少し遠くに「綾波は?」と訊く声が聞こえた。 「まだ寝てるってさ」 「寝てる? まだ寝てるの、あのコ」 「昨日はたくさん歩いて回ったからね」 「アンタは?」 「え、ぼくがどうかしたの」 「アンタは疲れてないの」 「ぼくは別に・・・・・・いっぱい寝たし」 「だったら、もう一日くらい歩き回ってもいいよね」 「え?」 電話の向こうで、シンジのキョトンとする顔が目に浮かんだ。 「雨降ってるけどさ、これからお散歩しに行かない?」 昨日までなら、それを言うのにかなりの苦労をしただろう。 しかし、いまはすんなりとそのセリフが出てきた。心臓はバクバクいっていたが。 「散歩に行くわよ、シンジ」 というこれまでに使ってきた言いかたならば、そんなに緊張することもなかっただろう。 だが、いまのアスカは違った。母の助言もあって、少しずつ変わろうとしているのだ。 「あ・・・・・・うーん」 シンジはちょっと戸惑っているようだった。 これはどうにかして畳みかけるしかないと思ったアスカは、第2の技を繰り出した。 それも、自分を変えようと思った瞬間に身につけた必殺技だった。 「ねえ、アタシとデートするの、イヤ?」 普段のアスカからはまるでありえない猫なで声が、電話を通じてシンジの耳に飛び込んだ。 その感触を、電話越しにアスカも察知した。シンジはきっと驚いていることだろう。 「い、いや、そんなことないよ」 慌てた彼の声にアスカはすっかり満足して、声のない笑いを洩らした。 「それじゃあ、いいよね。すぐに迎えに行くから」 「え、いまから?」 というシンジの声を聞きつつ、アスカは有無を言わせないまま電話を切った。 同時に、荒い息がハアハアとついて出た。緊張の糸が切れたのだ。 だが、即座にその糸を結びなおし、アスカは着替えをするために2階に向かった。 リビングを出るとき、母をチラリと見て、言った。 「ありがと、ママ」 なぜかアスカは声に出さず、口の動きだけでそう言った。 キョウコは、片目をぱちりと閉じてウインクをした。 アスカはうれしくなって、ウインクをし返した。 母娘だけの何か特別な空気の中、ふたりは笑みを浮かべた。 ■5 ≪惣流アスカの独白≫ 雨って、結構いいヤツじゃん。 シンジと相合傘になった時、アタシはそう思った。 アタシのお気に入りの赤い傘は、女性向けだし、サイズも小さめに出来ている。 だから、ピッタリ身を寄せてもまったく不自然じゃなかった。 この傘も、粋な計らいをしてくれるもんだ。 傘に感心するのは生まれて初めてのことだった。 すぐに迎えに行くとは言ったものの、正味30分はかかってしまった。 原因は、シャワーを浴びたことだった。 やっぱり、ちょっとでも汗をかいたままシンジの隣に並ぶのはイヤだったし、 キレイな身体でシンジと会いたかったからだ。・・・・・・別にヘンな意味はない。 洋服選びには時間はかからなかった。いわゆる勝負服というものがあるからだ。 薄い肌色のワンピース。これを着ていると、心なしか勇気が湧く。 このワンピースは、ちょうど昨日買ったものだった。 ショーウィンドーに飾られたこのワンピースに、アタシは一目惚れをした。 これよ、これ! これなのよー! と、アタシはひとりはしゃいでいた。 ママに買ってもらうまでにこぎつけるのは、とっても簡単だった。 その方法はここでは言わない。 雨に濡れちゃうのは残念だけど、シンジに見てもらえるのなら満足だ。 実際、「これ、どう?」と訊いたら、「かわいいね」と言ってくれた。 その時のシンジは照れまくっていた、と思う。 アタシも照れまくっていた。ああ、恥ずかしい。 シンジは、灰色のボタンダウンのシャツに、同じ色のチノパン。ちょっと地味だ。 どういうことよ、それー、と言いたくなるのを頑張ってこらえた。 電話口ではちょっと戸惑っていたみたいだったけど、玄関から出てくると、 イヤな顔ひとつしないでアタシに「おはよう」と言ってくれた。 シンジに挨拶されるだけで胸がドキドキするのも初めてのことだった。 相合傘はいままでに何度もしたことがあった。 けどいままでは、シンジが傘を持ち、アタシが濡れないようにしながら、 言ってみれば女優と付き人がやるような感じの歩きかただった。 ・・・・・・ヘンな例えね。分かりにくいかも。 要するに、今日初めてピッタリと恋人同士みたいにくっつくことが出来た。 わーい、わーい、うれしいな、っていうことでして・・・・・・言葉がおかしいな。 ちゃんとしよう。 アタシはいつになく緊張していた。 これまでにふたりきりで出かけることは何度でもあったのに。 ま、以前はアタシがシンジを引っ張るようにしてたからな。バカみたい。 最近ちょっと背が伸びたのかな、アイツ。 ほんの少しだけ見上げなきゃならなくなったみたい。 自分優位の性格全面押し出しの頃には、全然気づかないことだった。 一歩引いて見てみると、いままで気付かなかったことがたくさん見えてきた。 例えば、傘を持つのは今日もシンジだったけど、その手が、 子供の手ではなく、男らしい骨ばった手に見えた。 ただ、ごつごつ感がなければ、女性の手だといっても充分なほどキレイな手だ。 いちいちシンジのことに注目しないようにしてきたから、そんなことも知らなかった。 童顔のシンジでも身体はちゃんと成長しているんだな、などと思った。 そのほかにも気付いたことは色々あるんだけど、アタシがいかに何も見てなかった、 というのが明らかになるのがちょいとシャクなのでもう言わない。 アタシはすっかり恋人気分だった。 宿敵・綾波レイから救い出した恋人との、後日の幸せなひとときって感じ。 そんなことをひとり考えて、アタシはひとりキャーキャー言っていた。 当然シンジが気がついて、また恥ずかしい思いをした。 何となく、とても素直な気分になっていることは確かだった。 これまで培ってきた性格というフィルターがちょっと粗くなっただけで、 ここまで素直な気持ちが心の中に現れるんだ、と少々感動も覚えた。 あんまりたがが外れないようにしないと、アタシのもって生まれた性格上、 その気持ちがエスカレートしかねない。気をつけよう。 シンジは、いつものようにムリヤリ連れてかれてる気分なのか、自分から喋らなかった。 こっちも緊張して声かけにくくなってるのに、まったく女の気持ちを分かってない。 黙っているのも気持ち悪いので、仕方なくアタシから話しかけた。 「ごめんね」 それはちょうど公園の遊歩道を歩いている時だった。 そういえば、それまでずっと喋らなかったのか。それもまた驚きだ。 「え、ごめんって、どうしたのアスカ」 シンジはえっという顔をしていたけど、実はアタシもビックリしていた。 いきなり「ごめんね」とは、いったいどういう風の吹き回し? と自分でも思った。 「雨の中、ムリヤリ連れ出しちゃって、ごめんね」 「いや、気にしてないよ。・・・・・・アスカ、どうしたの」 そう、どうしたんだろう、アタシ。 別に、シンジを惹きつけようとしおらしくしているわけじゃなかった。 よく分からないけど、勝手に言葉が出てきてしまうといった感じだった。 「ううん、何でもないの。ごめんね、ヘンなこと言って」 「うん・・・・・・何だか、今日のアスカ、いつものアスカじゃないみたいだね」 「えっ」 えっ、とか思わずって感じで言ったけど、それは分かりきってることだった。 でも実際にシンジの口から言われると、どういうわけか恥ずかしくなった。 「いつもより女の子っぽいよ」 とシンジはこともなげに言った。たぶん、ちょっとアタシをからかったんだろう。 アタシは一瞬のうちに考えをめぐらせた。 いまのシンジの言葉を、どう対処したらいいのか、と。 自分を変えるつもりでアタシはこのデートに臨んだ。デートかどうかは別として。 だから、今日はいつもよりずっと素直なアスカちゃんでいようと思ってた。 そこへやってきたシンジのからかい。ついついいつもの調子を取り戻しそうだった。 どうしよう、どうしよう、と考えている内に、シンジが先に口を開いた。 「いつもの調子じゃないと、何となくヘンな感じだね」 「そ、そう?」 訊き返すアタシの声は、確かにヘンだった。 「いつものアスカのほうが、その・・・・・・いいと思うよ」 シンジはアタシの顔を見ないようにして、どもりながら言った。 いいと思うよ、の、「いい」の前に「かわ」が小さくついていたような気がした。 つまり、アタシの耳には「かわいいと思うよ」と聞こえた。 「そう、かな」 と言いながらアタシはシンジの顔を覗き込んだ。けど、目を合わしてくれなかった。 すっごく照れているみたいだった。アタシはそれどころではない恥ずかしさだったけど。 またアタシは頭の中で、どうしよう、どうしよう、と叫んでいた。 せっかくかわいい女の子路線で行こうと思っていたら、シンジは前のほうがいい、と。 もう、どうしたらいいか分かんないよー、ママー。 叫んでもママの助けはなく、ますます頭がこんがらがってきた。 しばらくアタシたちは黙って散歩を続けていた。 今朝起きた時は、割と強めのさーっという感じの降りだったけど、 雨はだんだん落ち着いて、しとしとと降り注いでいた。 傘に当たる雨粒も大した音を出さずに、沈黙が余計に重く感じられた。 そもそも、休日に雨の中を散歩する人なんて、ほとんどいなかった。 空は暗くて、お昼ごろという実感はなかったし、周りには人が誰もいないし、 この世界の中にふたりっきりになってしまったような、そんな感じがして、また照れた。 ・・・・・・実は、それからアタシは、どこで何をしたのか、全然覚えていない。 駅前のファーストフード店かどこかでお昼を食べた記憶だけは、かすかに残っている。 でも、そのあとの記憶がない。 気がついたら、アタシは「バイバイ」とシンジに手を振っていた。 もう雨は上がっていた。 家に入って時計を見たら、6時ちょっと前だった。もちろん午後の。 およそ5時間の記憶が、アタシの頭から消えてしまったようだった。 何かヘンなことしなかったか、ヘンなこと言わなかったか、アタシは心配になった。 けど、さっき別れる時に見たシンジの顔は、「楽しかったよ」と言っているようだった。 それを思い出して、アタシは微笑んだ。 つづく
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