■1

「碇くん」

授業と授業の合間の休み時間に入って、シンジは1人でトイレに行った。
そして出てきたところで、誰かに声をかけられた。

その相手は、同じクラスの少年だった。

「あ、一ノ瀬くん」

相手の名前を口走った瞬間、シンジは先週の金曜日のことを思い出した。

雨の中を、歩いてうちまで綾波レイのハンカチを持ってきたのは、彼らしかった。
しかも、レイに会えないとなるとハンカチを持って帰ってしまったという。

用があるなら綾波のほうじゃないのかな、と思いながらシンジは訊ねた。

「どうしたの」

「ちょっといいかな」

一ノ瀬タツヤは、ここで話すのはまずいのか、指で「あっちで話そう」と言った。
そこは、階段の踊り場の隅で、あまり人目につかない所だった。

そういえば、彼と話すのはほとんど初めてじゃないか、とシンジは思った。
同時に、身体がこわばるのを感じた。人と初めて話をする時に必ず起きる現象だった。

「それで、ぼくに何か用?」

少し横柄な言いかただが、シンジが言うとそうは聞こえなかった。

「伝えて欲しいことがあるんだ」

一ノ瀬は言った。

「綾波さんに」

「綾波に? 何て伝えればいいの」

「きみのコスモスは、いまぼくの手の中にある」

「・・・・・・え?」

思わず、思わならずとも、シンジは訊き返すしかなかった。

「あの、もう一回言ってくれる」

「きみのコスモスは、いま、ぼくの手の中にある」

小休止をひとつ加えた違いこそあったが、さっきとまったく同じ口調だった。
まるで何の感情もこもっていない、抑揚のかけらもない喋りかただ。

シンジは、その口調と意味の分からない言葉に、ちょっと異常性を感じ取った。
あまり異常とか非現実的という言葉は好きではないが、
シンジは咄嗟にそういったたぐいの言葉を思い浮かべてしまった。

いったんそう思うと、一ノ瀬タツヤという人間自体に恐怖のような感情を抱いてしまった。
彼の背はシンジよりちょっと低いが、顔を見ると少し圧倒されてしまう。

別に、美の真逆にあるような顔ではないし、超濃厚なソース顔というわけでもない。
だがあっさりという感じでもない。言うなれば『普通』の顔立ちなのだ。

特にどうとも言えないその顔が、逆に存在を引き立たせているように見えてしまう。
少なくとも、いまのシンジにはそう見えた。

例え奇抜なヘアースタイルにしても、この顔だと浮いちゃうだろうな。
シンジは怯えながらもそんなことを思った。

「そうお伝え下さい」

一ノ瀬は、いきなりひどく丁寧な敬語を交えた。

シンジは、内心慌てていた。いま、信じられないといった顔をしてないだろうか、と。
焦って気持ちを隠そうとしたために、シンジの表情は引きつっていた。
うなずこうにもうまく出来なくて、「あ・・・・・・あ・・・・・・」と乾いた息しか出てこなかった。

一ノ瀬タツヤとの会話は、これがほとんど初めてといっていいほどなのだ。
親しい関係ならば、敬語を使うのは冗談として受け取れるのだが、
彼とはそんな間柄ではない。シンジはなおいっそう一ノ瀬の心理を疑った。

「それじゃ頼んだよ、碇くん」

急になれなれしい口調に戻り、シンジの肩を叩いて、一ノ瀬は教室に戻っていった。

シンジの心情は、いま大変なことになっていた。
今度は、やけになれなれしい言いかたで、しかも肩を叩かれたのだ。

もちろん彼の性格を知らないから、それだけなら「結構気さくな人なんだな」と、
それで終わることが出来た問題であった。

しかし、さっきの敬語の問題もあるし、意味不明の言葉も頭を混乱させた。

もっといえば、最初の段階で少しおかしいなと思っていた。
「伝えて欲しいことがあるんだ」「綾波さんに」という倒置の言いかたである。
考え過ぎかもしれないが、そんなことすら異常性をにおわせた。

キンコン、カンコーンというチャイムの音に気付き、シンジは慌てて教室に戻った。
チラリと一ノ瀬を窺ったが、彼は何事もなかったのように席に着いていた。

「よう、どうしたシンジ」

シンジが席に着くと、後ろの鈴原トウジが声をかけてきた。
振り向くと、彼のニヤついた顔があった。

「お前がチャイム鳴ったあとに教室入るなんて、ちょいと珍しいな。
便所行ってたんやろ? ずうっと気張ってたんか?」

「ち、ち、違うよ、トウジ。大声で言うなよそういうこと」

シンジは顔を朱に染めて猛烈に否定した。
だがそれは逆効果になり、笑いを誘うことになってしまった。

隣では綾波レイがクスクス笑っていた。反対隣のアスカも笑みを浮かべていた。
アスカの後ろの洞木ヒカリは、トウジを睨んでいるように見えて実は笑っていた。
前を見ると、相田ケンスケがわざとらしく「ははは」と笑っていた。

シンジはとても恥ずかしい思いをしていた。
「違うよ、違うったら」と言い訳をすればするほど、余計に言い訳じみて聞こえた。

ふと、シンジは、ケンスケの前の席に座る一ノ瀬タツヤに目がいった。

彼は、こちらの様子を見ている、いや、聞いているようだった。顔は前を向いている。
しかし、シンジは彼に見られているような感覚を覚えた。

顔も平凡なら髪型も平凡で、後ろから見れば誰と特定できないような後ろ頭に、
大きな目がついていて、それがギロリとこちらを見ているような気がした。

ちょっとしたことでどうしてここまで笑われなきゃいけないんだという気持ちが、
おかげでいっぺんに吹っ飛んでしまった。

「どうしたの、碇くん」

いち早くシンジの様子に気が付いたレイが、笑いをやめて訊ねた。
周りもそれに合わせて、笑いを引っ込めてシンジを見た。

「・・・・・・笑っちゃって、ごめんね」

シンジの反応がないので、レイは顔を窺いながら謝った。
すると「ごめんね」にようやく反応を示し、シンジは顔をレイのほうに向けた。

彼は適当な相槌を打とうとしたが、レイの顔を見てハッとなった。
先ほど一ノ瀬に言われたことを、彼女に伝えるべきか考えたのだ。

よくよく考えてみると、一ノ瀬の言葉というよりも、言動の意図がよく分からない。
シンジは一瞬のうちに頭の中を整理した。

まず、『きみのコスモス』とは何か。綾波のコスモスとはいったい何を示しているのか。
おそらくそれはハンカチのことだろう。それにコスモスの柄が入っているのではないか。
その程度の推測は容易に出来た。

次に、「ぼくの手の中にある」という表現。まるで人質にとっているかのような言い方だ。
口調からも、「ハンカチはぼくが持っているけど、これを返すつもりはないよ」と、
そんな風に聞こえてならなかった。

例えば一般的に、シャイで、女の子の前に出るとあがってしまうタイプならば、
「このハンカチを、彼女に返しておいてくれないか」と言ってハンカチを差し出す。
それが自然な行動だとシンジは考えた。

だが、そうではないのだ。

一ノ瀬はいわば、「返して欲しけりゃここまでおいで」的な言いかたをしていたのだ。
そんなことを綾波レイに話していいものかどうか、シンジは悩んだ。

「あ、いや、気にしてないよ」

考え事をしていたため、そのひと言が出るまでに僅かなタイムラグがあった。

そういうことにレイはいちいち気がついて、何度も「大丈夫?」と訊いた。
大丈夫、大丈夫と答えながら、シンジの思考はまた一ノ瀬に向いた。

そもそも、彼と喋ったことがないイコール彼のことをよく知らないわけであるが、
それにしてもシンジはショックを受けすぎていた。

しかも、思考をめぐらせると、彼の声を聞くのも初めてのような気がした。
が、新しいクラスになって、最初の自己紹介があったことを思い出した。

けれど、一ノ瀬が何を喋ったのかはまったく記憶にない。

では、授業中はどうか。先生に指名されるのはアトランダムだから、あるはずだ。
ところが、彼が発言をした記憶もまったくない。自発的な発言も、だ。

すなわち、シンジは一ノ瀬タツヤのことを一から十まで知らないのだ。
彼がどういう性格で、どういう嗜好で、どういう性癖を持つか、まったく分からない。

これは困ったことになったぞ、とシンジは焦っていた。

同じクラスメートなのだから、一度話をしてみればいいじゃないか。
そういう考えもあるのだが、何となく話の通じない相手では、と思い始めていた。

そう思ったとたんに、一ノ瀬は異常者であるという風に思考が向きそうになって、
シンジはまたも焦った。何てことをぼくは考えているんだ。

どんどん気分が不安になっていくので、レイに話すのはいまはやめておくことにした。

もう一度、一ノ瀬に話しかけられたら、その時はレイに話そうと思った。

(それにしても)

シンジは心の中で呟いた。

(今日は何だか、朝からいろいろ考えてるな。頭が疲れてきた)

呟きと同時に、いつの間にか授業が始まっていることに気がついた。

全員起立していて、シンジは慌てて席を立った。

礼をして座ると、すぐにまた起立の号令がかかった。

「え?」

呆然としながら立ち上がるのと同時に礼の号令がかかったので、
シンジは中腰のまま、間抜けな恰好で頭を下げた。

3時限目の国語の授業が、一瞬のうちにして終わってしまった。

いや、実はそうではなかった。
シンジは席に着くと同時に、そのまま眠ってしまったのだ。
まるまる一時間分、国語担当の日向マコトに気付かれずに寝ていたのだ。

「シンジ、どうしたのよアンタ」

横からアスカが声をかけてきた。

「アタシがずっとつついてたのに、全然起きなかったじゃない」

「ぼく、寝てたの?」

「そうだよ、ビックリしちゃった」

ビックリしていたのはレイだった。

「碇くんが授業中に寝るなんて、見たことなかったもん」

そう、真面目なシンジは、授業中に寝ることなどもってのほかというタイプだ。
それに比べ親友2人はシンジと逆のポリシーを掲げていて、

「何や、シンジも寝とったんか」

「へえ、お前も寝てたんだ」

と後ろから前から、あくび交じりに声をかける始末だった。

何気なく、シンジは一ノ瀬を見た。

彼は、こちらを一瞬だけ、ほんの一瞬だけ見ていたような気がした。
こちらが見るとすぐに前を向いてしまったので、見られていたとシンジは確信した。
だが、その表情はよく読み取れなかった。

それでも、何となく口元が歪んでいるように見えた。
気のせいかもしれないが、ニヤリという感じで口の端が引きつっていたようだった。

シンジは気分が悪くなった。




■2

昨日から、アスカの様子がおかしいなとシンジは思っていた。

特に昨日などは、喋りかたや言葉や仕草など、妙に女の子していた。
もともとアスカはかわいい子だから、余計にかわいらしく見えた。

だが、どうも違和感を感じてしまい、思わず「いつものほうがいいよ」と言った。
実際そう思っていたから問題ないはずだったのに、アスカは口をつぐんでしまった。

今日のアスカの喋りかたはいつもの感じだったが、非日常的な言動に遭遇した。




気分が悪くなったシンジは、その表情が明らかに体調不良を訴えていた。

最初にその様子に気がついたのは綾波レイであった。

「ねえ碇くん、具合でも悪いの? 顔色よくないけど」

「うーん・・・・・・?」

ややうつろな目で、シンジはうめいた。

シンジは、一ノ瀬に何か呪いをかけられたような感覚に陥っていた。
たったひと言ふた言を話しただけで人をそんな風に扱うのはシンジの主義ではないが、
一ノ瀬タツヤが放つ『気』は、どこか普通とは違っていた。

「碇くん、大丈夫?」

レイは、心配が顔にも声にも表れていた。

「うん、大丈夫・・・・・・」

言葉とは裏腹に、シンジの声は衰弱しきった老人のようにか細かった。

「シンジ、どうしたの?」

アスカが彼の背中に手を当て、顔を覗き込みながら心配そうな声を上げた。

「ちょっと気分が・・・・・・」

「気分が悪いの? おなかは痛くない? ねえ、しっかりして、シンジ」

アスカが騒いだので、クラス中の視線がシンジに集まった。

「どしたんや、シンジ」

「おい、大丈夫か」

「ねえ、碇くんどうしたの?」

「気分が悪くなっちゃったんだって」

「えー、かわいそう」

周りがみんな、一様にシンジを気づかい始めた。

それを聞きながら、どうしてぼくはこんなに心配されてるんだろう、と、
ちょっと驚きながらもクラスメイトに感謝した。

野次馬根性を見せる連中もいたが、大半はシンジの身体を案じていた。

気づかってくれるのはうれしいが、騒がしくなってきたのでまた気分が悪くなった。

シンジは、机上と向かい合うように腰を曲げて座っていたが、
少しは体勢を変えたほうが落ち着く気がして、ちょっと上半身を起こしてみた。

その時、シンジは彼を見てしまった。一ノ瀬タツヤを。

クラスメイトたちのほとんどが、シンジの異変を見守っていた。
だが、一ノ瀬は自分の席に着いたまま、すこしうつむくように座っていた。
碇くんのことなどぼくには関係ない、と背中が物語っているようだった。

「碇くん、保健室に行ったほうがいいんじゃない」

見守っていた女子の1人がそう言った。

その言葉に喚起され、アスカはシンジの腕をとると、

「そうよ。シンジ、保健室に行きましょう。アタシが付き添ってあげるから」

「あ、私も行くよ」

レイもシンジの腕をとった。

「いいえ、アタシひとりで充分よ。レイは教室で待ってて」

そう言い放つと、アスカはシンジを優しく抱きかかえるように立たせて、

「シンジ、歩ける?」

「・・・・・・うん」

クラスのみんなに見守られながら、ふたりは教室をあとにした。

保健室に向かう廊下では、ふたりはずっと腕を組んで歩いていた。
それはアスカがシンジを支えるためだったが、事情を知らない人間が見たら、
――シンジのふらつきを無視すれば――カップルのように見えた。

アスカは、保健室につくまでずっと「大丈夫?」と声をかけていた。
それも、教室の時とは違う、とても優しい声で。

(今日のアスカは優しいな)

シンジは口の中で呟いた。

そしてこの時、シンジは昨日からアスカがヘンだったことを思い出したのだ。

どこか見放す感じで自分を見たり、容赦ない言葉を投げつけたりせずに、
優しい態度で、優しい言葉で接してくるアスカ。

いつもと違うと、なぜかシンジも調子が狂ってしまう気になるのだが、
いまのアスカもこれはこれでいいかもな、などと思っていた。
気分が悪いのとテレがあって、口に出すのは憚られた。

保健室に着くと、生徒は誰もいなく、2人の先生が何か話をしていた。
理科の教師である赤木リツコと、保健の先生である伊吹マヤだった。

アスカは、リツコがいると分かって、心の中で舌打ちをした。

「あのう、碇くんが気分が悪くなったみたいで」

保健室に入るなり、アスカはシンジを白いスツールに座らせた。

「まあ」

と言ったのは、赤木リツコのほうだった。

「大丈夫? 碇くん」

「あ、いえ・・・・・・」

シンジは、リツコのきつい香水の香りに顔をしかめた。
その表情を、体調が悪いことが原因だと誤解したのか、リツコは心配そうに言った。

「たいへん、顔色が悪いわ。とりあえず熱を測ってみましょう。マヤ、体温計は」

「あ、これです、どうぞ」

保健の先生は、理科の教師に電子体温計を渡した。

リツコは理科の教師らしく白衣を着ていたから、割り合いさまになっていたが、
2人の先生の立場は完全に逆転していた。

(どうしてあんたが仕切ってるのよ、まったく)

アスカは、口の中で悪態をついた。

「碇くん、自分で出来る? 出来ないわよね。私がやってあげる」

リツコは勝手に決め付けて、シンジのシャツのボタンに手をかけた。

「あっ」

アスカが「あっ」と叫びそうになったのと同時に、シンジが慌てて制した。

「じ、自分で出来ます」

精一杯の声を絞り出すと、シンジは体温計を受け取り、それを脇に挟んだ。

(何なのよ、このオバサンは。アタシのシンジに勝手に触らないでよ)

アスカはそう思った直後、ひとりで勝手に照れた。
彼女は、すっかりシンジを自分の恋人と思い込んでしまっていた。

ピピピピッと測定完了の電子音が鳴り、シンジは体温計を抜き取った。
と同時に、リツコがそれを奪い取ってしまった。

「あら、36度ちょっとよ。平熱じゃないの。これなら大丈夫よね、碇くん」

「え・・・・・・そうですか」

シンジとしては、結構熱があると思い込んでいた。
気分が悪いうえに強い寒気も感じていたからだ。どうもおかしい。

疑わしげな視線を送りながら、シンジは言った。

「本当に、熱、ないんですか」

「ええ、ほんとよ」

リツコは、体温計をシンジに見せずにケースに戻してしまった。
38度7分を示していた体温計を・・・・・・

アスカも疑わしげにリツコを見やってから、シンジの額に手を当ててみた。

「あれ? すごく熱いわよ、シンジ。ほんとはすごく熱があるんじゃないの」

アスカは、今度は据わった目をリツコに向けた。

シンジの腕をとっていた時はさほど感じなかったが、額の熱さはただ事ではなかった。

「先生、本当になかったんですか、碇くんの熱は」

「ええ、なかったわよ」

「でも、見たのは先生だけでした」

「私が言うんだから、本当です」

リツコは、アスカを睨み返した。およそ生徒に向ける目ではなかった。

「伊吹先生」

アスカはマヤに視線を向けた。保健室の先生のほうに。

「もう一度、測り直してください」

「え、でも・・・・・・」

マヤは、リツコとアスカを交互に見やった。

「惣流さん」

マヤを一瞥してから、リツコは言った。

「教師である私が言ったことを、あなたは信じられないとでも?」

「ええ、そうです」

アスカはキッパリと言った。

「信じられません。もう一度測り直してください」

「あらあら、私の信用もガタ落ちってことかしら」

リツコは、アスカを見下すような目をして言った。

「生徒に信用されなくなっちゃったら、先生なんておしまいよ。分かってるの惣流さん。
教師である私がうそをつくはずないでしょう。絶対にありえません、そんなこと」

「もう、先生のことなんてどうでもいいんです」

「は? あなたいま何て言ったの」

「先生がうそをついていようがいるまいが、そんなことはどうでもいいんです。
アタシと碇くんが納得するために、もう一度測りなおしたいんです」

「あなたっていつもそうやって私に反抗するけど、私に何か恨みでもおありなのかしら」

「別に。わざわざ恨みを売りつけるほどの人間じゃないし」

「何ですって」

リツコが急に態度を豹変した。

「惣流さん、あんた先生に対してどういうつもりなの、その言いかたは」

「どうもこうもありません。ただ、碇くんの体温を測り直したいだけです」

アスカはまったく動じない。

「だ・か・ら、ないって言ってるでしょう! ないものはないのよ!」

リツコが言葉を荒げたので、他の3人はみなビックリした。

ビックリするのと同時に、4時限目開始のチャイムが鳴った。

「ほら、チャイムがなっちゃったじゃない。熱はないんだから、教室に戻りなさい」

「でも」

「戻れといったら戻りなさい!」

リツコはヒステリーを起こしたのかと思うほど、甲高い声で怒鳴った。

その剣幕にひるんだアスカは、シンジを連れてそそくさと保健室をあとにした。

「失礼します」

その言葉は、リツコには向けられていなかった。




ふたりが教室に戻り、席に着いて少ししてから、赤木リツコが入ってきた。

そう、4時限目は彼女が担当する理科だったのだ。
シンジに授業に出席させようと、彼女はうそをついたのだった。

アスカは内心とてつもなく憤慨していたが、リツコの表情は明るかった。




■3

「シンジがあんなに気分悪くしたのを見たの、初めてだな」

昼休み――

後ろのシンジの机に購買で買った昼飯を置き、トウジのほうを向きながら、
ケンスケはポツンと呟いた。

「そうやな」

弁当をかきこんでいた手を止め、トウジはそれに答えた。

「つまり、この夏にはやる風邪は、かなり手厳しいゆうこっちゃ」

「ま、そんなお風邪さまもトウジにはかなわないだろうけど」

「どういう意味ですか、ケンスケくん」

トウジはわざと標準語の発音で、最後のほうは尻上がりに言って、凄みを利かせた。
が、ケンスケは笑って答えた。

「ほら、昔の言葉であるじゃないか。ナントカは風邪ひかないって」

「ワイのことをバカ言うな」

「そこまでは言ってないじゃないか。ナントカしか言ってないし」

「ワイはな、アホ言われるのは許せても、バカ言われるのはどーしても許せへんのや」

「またまた、そういうふるーい関西人的思想を持ってきて」

「うるせ」

そこで会話は止まり、しばらくふたりは食事のためだけに口を動かした。

そして今度は、トウジが箸を動かす手を止め、言った。

「それにしても、シンジの気持ちは痛いほど分かったな」

「何がだよ」

「あいつの気分を最高に悪くさせた原因は、やっぱさっきの授業やろ」

「ああ、なるほど。そうだな、あれはおれもまいった」

「そうやろ。ワイも死ぬかと思ったわ」

「何だか、まだにおいが残ってる感じだな」

ケンスケは手で周りの空気をかき乱した。あるにおいを拡散させるために。




4時限目が終わると、シンジはすぐに、再度、保健室に向かった。
今度は綾波レイも一緒に付き添って行った。洞木ヒカリまで一緒について行った。
そしてアスカを加えて、4人でぞろぞろと保健室に乗り込んだ。

もう赤木リツコの姿はないし、やって来ることもなかった。

改めてシンジの熱を測ると、やっぱり高熱があったことにアスカは憤りを感じた。
しかも、その熱はしっかりと39度台に乗っていた。

高熱を出したことがほとんどないシンジは、すでに虫の息といった感じで、
顔は真っ赤でとても熱く、身体はだるいの寒いの熱いのと、よりどりみどりだった。

即、早退の処置が取られ、迎えに来た母親の車に乗って、シンジは帰っていった。

シンジの気分を悪くさせたもともとの原因は、実はシンジ本人にあった。

ここ毎日、シンジは下着一枚だけという恰好で眠っていたため、
いくら暑い夜だとしても、さすがに腹の調子を悪くしてしまった。

そのまま腹に影響を及ぼすだけかと思いきや、一気に風邪につながってきた。
気分を悪くする要素は充分備えていたのだ。

引き金を引いたのも、もしかすると直接的には自分自身かもしれなかった。
一ノ瀬に勘ぐりを入れたのは自分だし、勝手に思い悩んでいたのも自分だった。

だが、4時限目の理科の授業がとうとう、シンジの体調を完璧に悪化させた。
これが最大の原因といってもいいくらいだった。

実際は授業のせいというより、その教師のせいであった。

赤木リツコである。

授業そのものは、まったく普通だった。
ところが、生徒たちは普通の気でいられなかった。

リツコが教室に入ると共に、とてつもない香水の香りも教室に滲入してきた。
保健室でシンジが嗅いだにおいの10倍はあろうかという勢いである。

ほんのちょっとなら、ほんのりとした香りのすがすがしさもあっただろうが、
まるで開けたての芳香剤10個分を間近でずっと嗅いでいるような感覚なのだ。

つけている本人はこれで大丈夫なのかと疑いたくもなったが、
リツコはまるで平気顔である。むしろ、どこか面白がっている風であった。

シンジはこれにやられてしまったのだ。

鼻で息を吸うと、香水に侵された空気がスーッと染み込んで、頭が痛くなった。
口で吸うと、何とも甘ったるい感じの酸素を飲み込んでいるような気がして、
気持ち悪さが限界を達した。そして、それを超えた。

「う・・・・・・」

我慢にガマンを重ねて、耐えに耐えてきた理科の授業。
あと5分もしないうちにチャイムが鳴ろうとしていた、その時だった。

シンジはついに小さくうめき声を上げた。

「碇くん?」

またもやレイが一番先に気がついて、小声で呼びかけた。

「う・・・・・・」

シンジはうめいた。はたからも分かる呼吸の乱れかただった。
息を吸っているのではない。肺にたまった汚れた空気を吐き出そうとしているのだ。

「先生」

碇くんがヤバイぞと察知したレイは、リツコの話を割って、手を上げた。

「碇くんが苦しそうなんですけど」

その場の全員がレイを見やり、すぐにシンジに視線を移した。

一ノ瀬タツヤも見ていた。リツコも心配そうな顔で見ていた。

だが、シンジはうつむいて誰の顔も見ていない。

「どうしたの、シンジくん」

リツコは「シンジくん」と呼びながら、机の隙間を歩いてシンジに近寄った。

どぎつい香水の香りが、よりいっそう強くなった。
シンジ周辺にいた者たちの数人は、最前列の人は大変だったろうな、などと思った。

特にアスカは、この香り自体に生理的拒絶反応を示していたので、
シンジの様子に気付くのが遅くなり、いつの間にかリツコが邪魔をしていた。

「大丈夫? シンジくん」

リツコはここぞとばかりにシンジの身体に触れた。隣に座るアスカの嫌悪感が募る。

「う・・・・・・」

喋ろうとすると、喉元にこみ上げてきたものが口の外に出そうになるので、
シンジはただただうめくしかなかった。

そうこうしているうちに、ようやくチャイムが鳴った。
これほど長い一時間はなかった、というのがみんなの感想だった。

リツコは、シンジを保健室に連れて行こうとした。
だが、アスカがそれを必死に食い止め、自分のもとにシンジを取り戻した。

へなへなになったシンジは、ほとんど担がれるようにして女子3人に連れてかれていった。




「あの女、いったい何のためにあんなどぎついマネしたんやろな」

トウジは苦々しい表情を浮かべながら言った。すでに弁当は平らげてしまっていた。

「生徒を指導する立場の人間とは思えないよな、あれは」

サンドイッチの最後の一切れを片手に持ったまま、ケンスケは答える。

「しかも、まだ独身だろ、あの先生」

「あんな変態女、自分から好かれる要素捨てとるんとちゃうか」

「そうかもな。見た目美人っちゃ美人だけど、きっととんでもない性癖持ってるぜ」

「とんでもない性癖か。・・・・・・想像したないな」

「ああ。・・・・・・・はあ」

ケンスケは大きくため息をつくと、ふたくちでサンドイッチを胃に押し込んだ。
ペットボトルのお茶をひとくち飲んでから、愚痴をこぼすように言う。

「もしかすると、あの先生が2学期から担任になるかもしれないんだよな」

「あっ」

トウジは目を見開いたまま固まった。そして、震える口を無理やり動かす。

「そうか・・・・・・忘れてたな、最悪や」

「たぶん、あの先生で確定だと思うな」

「どうして」

「シンジがいるからだよ、このクラスに」

「それがどうかしたんか」

「トウジ、お前気付いてないのか」

「何を」

先ほどの固まった顔から、いつの間にかキョトンとした間抜け顔になっていた。

「あの先生のシンジを見る目、普通じゃないぜ」

「・・・・・・つまりなにか、あの女はシンジに気があると言いたいのか、ケンスケ」

「間違いないな」

「ほんまか? おとなが中学生を?」

「いや、そんなの全然珍しくないよ」

「うわー、いい歳こいて子供にしか興味ないとはな」

トウジは呆れ顔で大きく首を振った。

「シンジも、えらいもんにつかまりよったな」

「同情するしかないな」

「ああ」

いつの間にかシンジは、別の意味で同情されてしまっていた。




■4

薬の効果は絶大だった。効果といっても、眠りを誘う効果であったが・・・・・・

碇シンジは、母の運転する車に乗ったまま、病院に直行した。
あっさり風邪と診断され、症状に適した処方箋をもらい薬を受け取った。
とりあえずインフルエンザでなくてよかった。

家に帰ってから、気分が悪いのはだんだんおさまりかけていたので、
食べずに持ち帰った弁当を少しつまみ、薬を飲んだ。

そして、着替えて自分のベッドに入ると、あっという間に眠りに落ちてしまった。

病気の時は、よく怖い夢を見るというが、シンジも例外ではなかった。
ただし、夢といってもストーリー性のあるものではなく、かなり断片的だった。

例えば、暗闇の中にいきなり父親の顔が浮かび上がって、

「よくやったな、シンジ」

などと言う。

何のことだと見つめ返すと、突然、右腕に違和感を感じた。
誰かに腕を取られる感じだ。誰かの腕がからみついてきたという感触。

「碇くん」

その誰かは、綾波レイであった。彼女の顔がぼんやりと浮かび上がる。
一瞬、なぜ明瞭でないのか分からなかったが、レイの顔はベールで覆われていた。

どうしてそんなものを着けているのだろう、と思った瞬間、周りがパッと明るくなった。

眩しさに目を細めながら、シンジは周りを確認した。

すぐに目に飛び込んできたのは、ウエディングドレス姿のレイであった。

「あ、あ、あや・・・・・・」

咄嗟にレイの名を呟こうとするが、うまく言葉が出てこなかった。

シチュエーションが飲み込めていないからか、レイに見惚れてしまっていたからか、
理由はどちらともつかなかった。

ふと見下ろすと、自分はタキシードを着ていた。

結婚式だ。今頃になってようやくシンジは理解した。

「おめでとう、シンジ」

急にアスカの声がかかった。

そちらを見ると、普通の制服姿のアスカがいた。
おめでとうと言って祝福するような顔はしていない。

怒っているのだろうか。いや、いまにも泣き出しそうな顔だ。
恨めしげにシンジを睨んでいる。

「碇くん、幸せになろうね」

腕を組んだまま、レイは笑顔でそんなことを言ってきた。シンジは返す言葉がない。

すると、レイはシンジを少し見上げたまま、ゆっくりと目を閉じた。

ベールを通しても分かる、一段とキレイな顔をしている。
やや薄い口紅が、白い肌の中で際立っている。そのくちびるが、ツンと上向いた。

シンジを待つレイの顔を見てから、チラッとアスカのほうに目を向けた。

泣いていた。

くちびるを噛みしめ、爆発しそうになるのを抑えているといったていだった。

ああ、ぼくはどうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ、
と心の中で叫ぶと、いきなり映像がプツンと切れた。

また真っ暗になった。

次の瞬間、頭上がパーッと明るくなった。
地上は暗闇なのに、上だけ晴天が広がっているという、非現実の世界である。
明らかに夢であることを示していた。

その雲ひとつない空から、何かがひらひらと舞い降りてきた。
空から暗闇の境に入り込むと、落ちてきたものは見えなくなった。

が、何か布のようなものがシンジの頭にかぶさったのが分かった。

何だろうと思って手にとってみるものの、それを見ることが出来ない。
それでも、感触からハンカチか何かだと思った。

えっ、ハンカチ? とシンジは身をこわばらせた。

またその瞬間に、いきなり空と地上が逆転した。

空の明るさがシンジのもとにやって来て、頭上は黒雲立ち込める曇天となった。
おかげで、手にしていたものがハッキリと目に見えた。

ハンカチだった。

淡いブルーの生地に、青白いコスモスが描かれている。
直感的にそれが綾波レイのもの、つまりいまは一ノ瀬の手にあるものだと思った。

一ノ瀬タツヤを意識した瞬間、彼の顔が、暗い空一面に浮かんだ。

「うわっ」

まるで押しつぶされてしまいそうなくらいの大きな顔が、頭上の間近に現れた。
無表情だ。いや、無感情といったほうがいいか。固定微動が見られない。
死んだ目をしているといえば分かりやすかった。

「あ、あ、あ・・・・・・」

ウエディングドレス姿の綾波レイを見た時と同じうろたえかたをしながら、
シンジはへなへなとしりもちをついた。

すると、上方の顔がぐんぐんと近づいてきた。
無表情の顔が、シンジ目がけてゆっくりと、存在を必要以上にアピールしてきた。

「あ、あわわわわわわ、わわわわわわ」

あまりにもベタな叫びが、簡単に口をついて出た。

巨大な顔は、切り替わった空と地上での光の境でちょうど止まった。
その真下にいるシンジからは、顔の全体が見渡せない。

「やあ、碇くん」

顔が話しかけてきた。その大きさに似つかない、彼そのままの声である。
声と共に発せられる息が、強烈な風をともなってシンジに襲いかかった。

「この辺にハンカチを落としたと思うんだけど、碇くん知らない?」

喋るたびにシンジの身体が浮き、髪の毛がバサバサと逆立った。

これは夢なんだ、という感覚を失ってしまい、返す言葉がなかなか出てこない。
黙っていると、一ノ瀬の顔は繰り返し訊ねてきた。

「ねえ、ぼくのハンカチ、知らない?」

これはきみのじゃなくて綾波のものだろう、と言いたいのに、口が動かない。
だが、知らず知らずのうちにシンジはハンカチを背中に隠していた。

「あれ、いま何か後ろに隠さなかった?」

大きな目が、シンジの行動を目ざとく捉えていた。

吹き付ける風を懸命にこらえながら、シンジは必死にとぼけた顔をした。
しかし、一ノ瀬の顔は追及の手を緩めない。

「で、何を隠したの」

最初の「で」という前置きの妙な語感に気圧されて、シンジは後ずさった。

「背中に何か隠したの、見たんだよ」

後ずさる。

「もしかして、ぼくのハンカチかな」

後ずさる。

「だったら、返して欲しいんだけど」

後ずさる・・・・・・と、背中が何かにぶつかった。

真っ青な空間の中に現れた透明な壁に、シンジはぶつかってしまった。

「碇くん、返してくれるかな」

急に低い声でそう言うと、一ノ瀬は、暗い空の中から巨大な手を伸ばしてきた。

その手の空を切る音が、ゴーッというまさしく轟音を放って、すごい風を巻き起こす。
暴風にあおられながらシンジはどうにか立ち上がり、背中を向けて逃げ出した。

「うわっ」

お約束通り、シンジはドテッとすっ転び、腹ばいになって倒れた。

手をついて身体を起こす。

後ろを振り向く。

あまりにも巨大な指が、眼前に迫る――

「うわああああああああああああ」

シンジは目をつむって、大声で叫んだ。

叫べばすべてから解放されるという錯覚に願いを込めて、無我夢中で叫んだ。

そして、その願いはかなった。




■5

目を開けると、自分の部屋の天井が見えた。

部屋の外からパタパタと、階段を駆け上がるスリッパの音が聞こえる。
その音の主は、迷うことなくシンジの部屋のドアを開けた。

「シンジ、どうしたの大声出して」

母だった。心配と焦りの浮かんだ表情である。

急にこみ上げてきたあくびのせいで目が滲み、母の顔がぼやける。
そして、息を荒くついていることに気がついて、それを静めた。

かけていたタオルケットの下は、汗びっしょりである。
おかげで、熱が少し引いたようで、だるさもいくらか軽減していた。

「どうしたの、悪い夢でも見たの」

ユイは落ち着かない顔で、シンジのそばに膝をついた。

「うん・・・・・・そうみたい」

まだ頭がぼんやりしていて、意識がしっかりしてこない。

「ビックリしたわよ、急に悲鳴みたいな声が聞こえてくるんだもん」

「悲鳴・・・・・・?」

「そう。何事かと思ってすっ飛んできたんだから」

「ああ・・・・・・ごめんね、母さん」

「うん。とりあえず熱を測ってみましょう」

そう言ってユイは忙しく階段を下り、ほんの数秒でシンジの部屋に戻ってきた。

測ってみると、体温は37度前半に落ち着いていた。
けれどもまだ安心できる状態ではない。夜にまた熱が上がるかもしれないのだ。
だが、気分はかなり良いので、汗を吸ったパジャマを着替えて、1階に下りた。

時計を見ると4時ちょっと前であった。
学校が終わって、そろそろアスカとレイが帰ってくる頃である。

あったかいココアを飲みながらホッと息をつくと、そのふたりが帰ってきた。

「あ、碇くん。大丈夫なの、起きてて」

先に入ってきたレイは、シンジを見るなりそばに駆け寄ってきた。

「あー、ダメよー、寝てなきゃ」

お邪魔しますを言ったあと、アスカもシンジのそばにやって来た。

ふたりの顔を見たとたん、シンジはさっき見た夢の前半部分を思い出した。
すると心なしか、ふたりともあの夢と同じような表情をしているのに気付いた。

レイは、うれしそうな目でシンジを見つめ、アスカは泣きそうな顔である。

夢の場合では、レイは結婚で幸せいっぱいの表情であったが、
実際は、シンジの状態がいくらか良さそうなのでホッとした顔だった。

アスカは夢の場合、シンジをレイに取られた悔しさが滲み出ていたが、
実際は、シンジが起きているので、その身体を心配するあまり、
ちょっと怒った顔になっていた。泣いているわけではない。

いずれにしろ、そんな2人の少女の心情を読めるシンジではなかった。

「病院は行ったの?」

アスカが訊いた。

「うん、ただの風邪だってさ。さっきまで寝てて、いま起きたばっかりだよ」

「そうなの」

アスカの表情がやっと柔らかくなった。それを見てシンジも安心する。

そのあと少しして、アスカは自宅に帰っていった。
心配して来てくれたことに感謝しながら、シンジは玄関で彼女を見送った。
アスカは、笑顔で手を振った。

夜になると、また熱がぶり返してきた。
身体のだるさはハンパなものではなく、シンジは風呂に入らずにベッドに倒れた。

うつるといけないから、と言ってシンジはレイを部屋に入れなかった。
心配してくれるのはありがたいが、彼女にうつしてしまっては意味がない。

けれどもレイは、それを無視して部屋に入ってきた。

部屋の電気がついたので、シンジは彼女が入ってきたのに気がついた。

「碇くん、どう?」

「あ、ダメだよ綾波・・・・・・」

と言って起き上がろうとするシンジを、レイは押さえながら、

「起きちゃダメよう。寝てなさい」

「でも、綾波」

「私なら大丈夫よ。一度も病気したことないんだから。すっごい健康なの、私」

「でも」

「でも、はもういいわ」

風呂上りの彼女からとてもいい香りがして、シンジは余計に頭がくらくらした。
石鹸やシャンプーの匂いに混じって、女性特有の甘い香りがシンジを刺激した。
鼻の調子は良くないのにもかかわらず、である。

「何しに来たんだよ、綾波」

レイの匂いに惑わされないよう、シンジは声を強めに言った。

「せっかく人が心配して来たのに、そういう言いかたってないんじゃない」

「あ・・・・・・ゴメン」

「私、すぐに出ていくから安心して」

「ゴメン、そういうつもりで言ったんじゃないんだ」

「分かってるよ、そんなこと」

「え?」

シンジはまた起き上がろうとした。

「ほらほら、熱があるんだから、ちゃんと寝てなさい」

母親のような口ぶりで、レイはシンジの肩を優しく押さえた。

彼女の甘い匂いがもっと身近に感じられて、ちょっとくすぐったかった。
赤木リツコとは大違いだな、などとシンジは思った。

「それではいまから、風邪が治るおまじないをしたいと思います」

レイはいきなりそう言い出した。

「おまじない?」

「そう、おまじない。きっと効くよ」

「ほんとかな」

「私を信じなさい」

レイの表情は自身にあふれていた。

「・・・・・・それじゃ、先生、お願いします」

ぼうっとした頭で、シンジは冗談めかして言った。
本当はそんなことを言っていられる状態ではなかったのに。

「分かりました。それでは碇シンジさん、目を閉じて下さい」

「目を閉じるの?」

「そうよ、目を閉じないとダメなの」

「ふうん」

シンジは目を閉じて『おまじない』を待つ用意をした。

「それで?」

と訊いたが、レイの返事がない。目を閉じたままシンジはもう一度訊いた。

「綾波、それからどうするの」

「しばらくそのままにしてて」

「しばらくって、どのくらい?」

「しばらくはしばらくよ」

そのレイの口調には、「もう訊き返したらダメよ」という意味が込められていた。
それを察知したシンジは、諦めてゆっくりと待つことにした。

5分が経ち、10分が経ち、あっという間に30分が経過した。

すぐに出て行くといった割りには、レイはなかなか『おまじない』を実行しようとしない。

シンジはいよいよ業を煮やして、口を開いた。

「綾波、まだなの?」

返事がない。

「綾波?」

シンジは目を開けた。

部屋の電気が消えていた。

まぶたを通して分かるはずなのに、明かりが消えたことに気付かなかった。
それは風邪でボーっとしていたせいだと言えばそうかもしれなかった。

「綾波?」

シンジはもう一度呼びかけた。が、返事がなければ気配もないようだった。

どうやらレイは部屋を出て行ってしまったようである。
もしや、シンジが寝てしまったと勘違いしたのであろうか。
だから黙って出て行ったのだろう、とシンジは考え、本格的に眠ろうと目を閉じた。

その瞬間、高熱で火照った頬に、何かあたたかいものが触れた。
それは、あったかくて柔らかくてしっとりとしたものだった。

触れる時、ちゅっ、という音がしたのを聞いた。

シンジは咄嗟に目を開けた。

ちょうど部屋のドアが閉まるのが見えた。

何だろうと思う余裕がなく、ただボーっとドアのほうを見つめた。

その内、睡魔が襲ってきて、シンジは深い眠りについた。
キスマークを頬に残したまま・・・・・・




つづく


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