■1

碇シンジが体調不良を理由に早退をした次の日。
気分はいくらかスッキリしたものの、大事を取って休むことになった。

惣流アスカと綾波レイが、ふたりだけで登校してきたことからそれは明らかだった。

一ノ瀬タツヤは、先に入ってきたアスカを一瞥してから、レイの顔を見つめた。
ちょっと浮かない顔に見える。碇シンジが休んだからか。

見つめるといっても、正面切って堂々と見据えるわけではない。
横目で、相手に分からない程度の視線を送るだけである。

そもそも、一ノ瀬はレイと目を合わしたことが一度もなかった。
彼は何度となくレイの瞳に見惚れ、長いこと見つめることもあった。

だが、レイは、完全無視を決め込んでいるかのように一ノ瀬を見ない。
実際は、無視をしているのではなく、単に気付いてないだけなのだろうが。

そのおかげで、動作的にはコソコソしているが、気持的には堂々と見つめることが出来た。

レイの顔を見るたび、顔が熱くなるのが分かる。これはまったく慣れないことだ。
彼女が笑顔になるとその現象は顕著に表れ、思わず逸らさねばならない。
いわゆる赤面症だからである。

一ノ瀬はもともと肌が白いほうなので、その赤さはかなり目立ってしまう。
それが恥ずかしくて余計に顔が赤くなるため、もっとひどくなる。

昔は心のコントロールがうまく出来なくて、その赤面症に何度も困った。
いまではあまりそんなこともなくなったのだが、つい出そうになったことが最近あった。

確か、綾波レイが転校してきた次の日。その放課後のことである。

好きな推理作家の新作の発売日とあって、一ノ瀬は朝からそわそわしていた。
帰りのホームルームが終わって、教科書などをいそいそとカバンにつめ、
イスを机にしまうのももどかしく席を立つと廊下に駆け出した。

その時だけは、綾波レイのことは頭になかった。
それくらい一ノ瀬は周りが見えなくなっていたのだ。

だから、レイにぶつかった時、一瞬何が起こったのか分からなくなった。

何かにぶつかった。

人にぶつかったようだ。

誰にぶつかったのか。

視線は足元に落としたままだから、顔は見えない。

スカートが見えた。

すぐ隣には男子のズボンも見えた。

どちらにぶつかったのだろう。

視線をすばやく上げる。

碇シンジだ。

その隣には、彼の腕につかまる綾波レイ。

思い出した。

「キャッ」という悲鳴を聞いたではないか。

そうか、彼女のほうにぶつかってしまったのか。

そうと分かると、一ノ瀬は「ごめんなさい」と小さく謝りながら、
床に散乱したものを拾い始めた。綾波レイが落としたカバンからこぼれたものである。

素早い手つきだが、彼女のものと分かるとぞんざいに扱うことは出来ないので、
急ぎながらもキチンとノート等をしまっていった。

どんな顔をして、ぼくを見ているのだろう。

そういえば、彼女は碇くんにしがみついていた。

碇くんも見ているんだろう。

あたふたしたぼくの姿を。

笑っているだろうか。

いや、きっと驚いているに違いない。

驚いているだろうけど、きっとすぐにぼくのことなんて忘れてしまうんだろう。

廊下にしゃがみながら、一ノ瀬はぼんやりとそんなことを考えていた。
カバンに入れ終わり、それをキチンと閉めると、ほとんど投げるようにレイに渡した。
そして、もう一度謝りながら一ノ瀬は階段にダッシュした。

ぶつかってからの一連の行動は、実はとんでもない速さだったのだが、
一ノ瀬にとってはとても長い時間に感じられた。

何しろ、綾波レイとの初めての接触だったからである。
だが、目を合わすことは一度も出来なかった。目を見られたら赤面間違いなしだからだ。

別の意味で赤面症が出てきそうになったこともあった。いや、きっと出ていただろう。

ある体育の授業中のことだった。

男子は校庭でバスケット、女子はプールで水泳という形であった。

最初は一ノ瀬も、何となくバスケットに参加していたのだが、暑すぎてすぐにやめた。
そして、校庭の隅に一ヶ所だけある日陰の所で休んでいた。
そこはちょうどプールサイドの近くで、女子たちの声が聞こえた。

と、鈴原トウジと碇シンジが近づいてくるのが見えたので、一ノ瀬は木陰に隠れた。

そこに相田ケンスケも加わって、彼らはプールサイドの女子を眺めていた。
すると、綾波レイがどうのと言い出すではないか。
一ノ瀬はそちらに聞き耳をそばだてた。

相田ケンスケの言う綾波レイの視覚的描写は、なるほどその通りだと思った。
ただ、彼の話があまり熱っぽくなりすぎていて、だんだん不愉快になってきた。

なぜ不愉快になるのだろうか。
答えは簡単だ。綾波レイを自分だけのものと思っているからだ。

彼女が自分のことをどう思っているかなど、まったく分かるはずもない。
けれども、一ノ瀬は勝手に、彼女はもう自分のものだと思い込んでいた。

彼女を好きになってもいいのは、ぼくだけなんだ、という思い込み。
自分が好きなのだから、相手もそうに違いないという非論理的な思い込みである。

だが、その思い込みは、相田ケンスケの指摘によって揺らいでしまう。

彼によれば、いくら自分が綾波レイを好きになったとしても、
そこには必ず大きな壁が立ちはだかるという。そしてそれは、碇シンジだと言った。

分かった。その意見はよく分かった。いや、そんなものはとっくに知っていたのだ。

なぜか、特別カッコいいわけでもなく、非常に秀でた秀才くんというわけでもなく、
何でもこなすスポーツマンというわけでもない碇シンジに、女子の興味が集まるのだ。

言い換えると、さして男らしい顔立ちでなく、勉強の成績も多少出来る程度、
痩せているなりの普通の運動神経を持つ、いわば平均くんと言ってもいい人物である。

平均くんならぼくに任せろというのは、もちろん一ノ瀬である。
平々凡々たる人間であると自負するほどだ。

同じ平均くんなのに、この違いはなんだ、と一ノ瀬はよく悩んだ。

彼のそばには、いつも友達か女の子がいた。
女の子といっても、惣流アスカくらいのものだったが。

惣流アスカくらいのものと言えど、彼女は校内一の美少女と言われている。
一ノ瀬ももちろん彼女の容姿には目を見張るものがあったけれど、
キャンキャンうるさいのと自信過剰なところは好きになれなかった。

それでも、どうやらその校内一の美少女が気になるのは碇シンジのようだし、
誰もおおっぴらには言わないが、女子がする噂といえば彼のことが多かった。

一ノ瀬は、休み時間には本を読んでいるので、本当はそちらに集中するはずが、
勝手に聞こえてくる女子たちの話につい聞き入ってしまうことがよくあった。
ぼくには関係のない話だ、と本に目を落とすも、気になってしまう。

どうして碇シンジなのだろう。彼のどこがいいのだろう。
彼にあってぼくにないものは何だろう。そんなことをよく考えたものだ。

しかし、答えはなかなか見えてこない。

答えの見つからないまま、綾波レイが現れた。
彼女もまた、碇シンジに興味を示すようになってしまうのだろうか。
そういう考えが、相田ケンスケの言葉によって改めて湧いて出てきた。

碇シンジ自身に罪はない。罪はないけれども、ちくしょうと思った。

もう彼らの話は聞きたくないので、一ノ瀬は隅のほうに移動した。

その時、惣流アスカと学級委員長の洞木ヒカリの会話がプールサイドから聞こえてきた。
聞こえただけでなく、彼女たちの水着姿も見ることが出来た。
つまらないスクール水着だが、身体に通すとなぜかいやらしく見えた。

綾波レイはどこだろうと探したが、ちょうど見えない位置にいるようだった。

すると突然、

「あー、すごーい。柔らかいね、アスカのおっぱい」

などという洞木ヒカリの声が聞こえて、一ノ瀬はビックリした。

惣流アスカは、顔を赤らめて胸元を押さえていた。
押さえつけたために歪む胸の形が、何とも魅惑的である。

さすがに中学2年生の一ノ瀬は、興奮を覚えた。

と、ようやく綾波レイが現れた。

先ほど碇シンジたちの(主に相田ケンスケの)話に聞き耳を立てている時は、
一ノ瀬のほうからはプールサイドの様子が見えていなかったため、
綾波レイの水着姿を見るのはこれが初めてだった。

即座に、顔中が、体中が熱くなるのを感じた。

もう、惣流アスカなど眼中にない。
一ノ瀬の視線は、すべてが綾波レイに注がれていた。

美しいとか、かわいらしいとか、愛らしいとか、キレイだとか、ステキだとか、
そんな言葉はあまりにも陳腐だった。

もう、言葉では表現出来ないほど、一ノ瀬の目に映った綾波レイは輝いていた。
だから、一ノ瀬はただ黙って、彼女の姿を見つめていた。




■2

今日は碇シンジが欠席しているためか、惣流アスカはとても静かだった。
綾波レイはそれほどでもなく普通の感じだが、どこかつまらなそうにも見える。

そういえば、レイは何も言ってこない。無論ハンカチのことをだ。
昨日碇シンジに接触した際に、ちゃんと言い伝えてくれるよう頼んだはずである。
伝えの言葉が多少おかしなものであったのは、あれは無意識のものだった。

「きみのコスモスは、いまぼくの手の中にある」

どう聞こうが、こんなものおかしいに決まっている。

いったい自分は何をしたいのか、よく分からない。
言ってみたらそんな言葉がするりと勝手に口をついて出ていたのだ。

ハンカチを持って、ずぶ濡れの身体で綾波レイを訪ねたときもそうだった。

彼女のハンカチを拾ったのは、校舎を出る前のことだった。

「あ、ちょい待って」

靴に履き替えて外に出ようとした時、綾波レイが待ったをかけた。
碇シンジと惣流アスカが立ち止まって振り向く。

「どうしたの、綾波」

シンジが訊いた。

「鼻がムズムズするの。ちょっと鼻かむから、待ってて」

レイは、スカートのポケットに手を突っ込み、ポケットティッシュを取り出した。
シンジたちに背を向けて、ちーんと鼻をかむと、スッキリした顔で向き直った。

「ごめんごめん、さあ、帰ろー」

ティッシュをポケットに入れなおす時、彼女のハンカチがふわっと落ちた。

ハンカチとティッシュを、同じポケットに入れていたため、
ティッシュを出した際にハンカチも途中まで出かかってしまい、
しまう時にはずみで落ちてしまったようだった。

レイはまったく気付かずに、シンジとアスカと一緒に行ってしまった。

その場面を終始隠れて眺めていた一ノ瀬は、レイの姿が見えなくなると、
周りを注意しながら素早くハンカチを拾った。

ちょっとだけついたホコリを払って、折りたたまれたハンカチを広げてみた。
薄いブルーの生地に、薄紫のコスモスがワンポイントであしらわれている。

綾波レイといえば、青い髪がよく目立つから青のイメージが思い浮かぶが、
一ノ瀬は彼女の白い肌に魅かれていたので、白のイメージが強かった。
だから、少しだけ違和感を覚えたが、コスモスの絵柄が何ともキレイだった。

もしかしたら、レイの好きな花なのかもしれない。
そう思うと、無条件で一ノ瀬もコスモスが好きになった。

それを折りたたみながら、一ノ瀬はゆっくりと外に出た。
これを彼女に返しに行こうか行くまいか、かなり悩んだ末、行くことにした。

落とさないようにしっかりと手に持ったため、自分の汗がそれに染み込んだ。
けれども、一ノ瀬はまるで気にせず、帰り道とは反対方向へ歩みを進めた。

ちなみに、そのハンカチの匂いを嗅いでみようとしたことはない。
いま現在も続いている事実である。

もしそんなことをしてしまったら、例え彼女が見ていなくとも、
自分が変態だと思われてしまうような錯覚を覚えるからだ。
それは、自分はちゃんと理性ある人間なのだと言いたいだけかもしれなかった。

ところが、一ノ瀬の理性ある人間像は、一ノ瀬自身の口によって歪められてしまった。

突然の夕立も、それを手伝ってくれたようだった。
おかげでハンカチも一緒に濡れてしまったが。

碇宅までやって来た。単調な道だから、迷わずに着くことが出来た。
着いた時は、雨はもうやんでいたが、身体はびしょ濡れであった。

インターフォンを押す。キンコーンと澄んだ音が家の中で響くのが聞こえた。

「はい」

女性の声が受け口に出た。レイよりちょっと低めだから、碇シンジの母親だろうか。

「あのう、綾波さんと同じクラスの者です。綾波さんはいますか」

「あ、レイはいまちょっと出られないんだけど・・・・・・」

きっとレイも雨に濡れただろうから、いまはシャワーでも浴びているのだろう。
碇シンジの母親のかわいらしい声が続けて言った。

「シンジなら出られるわよ」

「いえ、あなたで結構です」

おとなに向かって「あなた」と呼ぶのは滑稽な響きだった。
だが、一ノ瀬はまったく意に介せずに言ってのけた。

「え、私でいいの?」

「はい」

「それじゃ、ちょっと待っててね」

すぐに玄関のドアが開いた。

まず、ビックリした。

出てきたのは、碇シンジの母親なのだろうが、どう見ても主婦といった感じではない。
若くても30代なかばには差しかかっているはずだと思うが、
この女性の場合、20代前半といっても言い過ぎではなかった。

何よりも驚いたのが、彼女が綾波レイにかなり似ていることだった。
碇シンジは驚かなかったのだろうか。相当似ているのだが。

そういえば、レイが転校してきたその日に、彼女が明るい声で、
自分の暗い生い立ちを告白していたことを思い出した。

その中で、レイの母親は碇シンジの母親と従兄弟であると言っていた。
だから似ていてもそれほど大きく不思議ではないが、それにしても似ている。

塀にかかってある郵便受けの近くに立っていたので、向こうからはこちらが見えないようだ。
だから、碇シンジの母親は呼びかけてきた。

「どちら様ですか」

こちらが名乗らなかったので、きっとそう言ったのだろうと思った。

相手は綾波レイではないが、似たような緊張感が身体を縛り付けていた。
一ノ瀬は、おずおずといった感じで姿を彼女の前にさらした。

「あのう・・・・・・」

「あら、大丈夫? そんなに濡れて」

こちらを見たとたん、彼女は驚いた様子で訊ねてきた。

「あ、いえ、大丈夫です」

と言ってみたが、相手の顔は明らかに不安げだった。不信感を抱いたかもしれない。

「碇くんのお母さんですよね」

なるべく顔を見ないようにして、一ノ瀬は確認のために訊いた。

「ええ、そうよ。レイに用があるみたいだけど、どんなご用事?」

「キレイですね」

無意識だった。それは言おうと用意していた言葉ではなかった。
だが、いつの間にか声に表れており、空気を伝わって彼女に届いたようだ。
案の定「え?」と彼女は驚いた。そして確認をしてきた。

「いま、何て?」

「キレイですね、と言いました」

ちゃんと質問に答えたつもりだが、相手は納得の表情ではなかった。
だからキチンとその意味を伝えた。

「碇くんのお母さんのことです」

「私の?」

と自分の鼻を指差す仕草が、ちょっとかわいらしかった。

「はい」

「・・・・・・ああ、それはどうもありがとう」

体裁を取り繕っているのが明らかで、あまりにもお粗末である。
間違いなくおかしな子だと思われただろう。どうやら『引いて』しまったようだ。

「あのう」

と言いながら、彼女は一歩後じさりをした。

「それで、どんなご用件なんでしょう」

警戒心が目に見えていた。言葉づかいが大きく変わったからだ。

さて、とハンカチを見せようとしたが、またもや勝手に言動が飛び出した。

「ぼく、碇くんが羨ましいです」

その気持ちは本当だ。けれども、いまそんなことを喋る必要はない。
なのに勝手に口から言葉がポンポンと吹き出てきてしまう。

「こんなにキレイなお母さんがいて」

本当にキレイだ。とてもかわいい女性である。

「かわいい幼なじみが隣にいて」

惣流アスカもまたかわいい。月並みだがアイドルのようだ。

「さらにはもっとかわいい同居人がやって来たわけでしょう。それが羨ましくって」

もっと、というところにアクセントをつけて一ノ瀬は言った。

自分でも、どうしてこんなことを言っているのだろうと思ってはいるのだ。
だが、操り人形になったかのように、勝手に口と舌と声帯が動いてしまう。

いま言ったことを聞いて、相手はどんな顔をしているだろうと、
一ノ瀬はちょっとだけ顔を上げてみた。

見つめる先は碇シンジの母親の顔だけである。
独りじゃ心細いといった不安げな表情が、また美しかった。

「それで、ぼくがここへ来た理由はですね・・・・・・」

ようやく自分の言葉を喋ることができた。
握り締めていたハンカチを、彼女の前に差し出す。

「これなんですけど」

「これは?」

「ハンカチです」

雨に濡れたのと握り締めていたのとで、ハンカチはすっかりしわくちゃになっていた。

「綾波さんが落としたものです」

「あ、あ、なるほど」

彼女は、一ノ瀬の訪問理由に合点がいったのか、ちょっと安堵の表情を浮かべた。

「わざわざ届けに来てくれたのね」

そうだ。その通りである。

もしも綾波レイが直接出てきたら、あるいはためらったかもしれない。
だが、碇シンジの母親が出てきてくれたことで、ハンカチを渡しやすくなった。

・・・・・・なのに、どういうわけか、一ノ瀬はこれを手放したくなくなった。
わけもなくそう思った。これはぼくの手にずっと置いておきたい。

だから、一ノ瀬は質問にこう答えた。

「いえ」

およそ「はい」という答えを期待していたであろう彼女は、またも「え?」と驚いた。

「これを、ぼくが持っていることを伝えておいてくれませんか」

一ノ瀬は抑揚のない声で言う。

「直接会えたら渡そうと思ったんですが、会えないとなったらそうするよりありません」

言うたびに、相手の頼りない相槌が打たれる。

「では、伝えておいて下さい。それでは」

一ノ瀬は、初めて意識的に反抗の意を示した。碇シンジに対する反抗である。
このまま黙って彼に綾波レイを取られるのを見ているわけにはいかない。
そんな推測だけで塗り固められた思いが、一ノ瀬を動かした。

全身ずぶ濡れのまま、一ノ瀬は碇宅をあとにした。
レイのハンカチを手に持ったまま・・・・・・




■3

朝はかろうじて曇りにとどまっていたが、3時限目を過ぎたあたりから降り始めた。
だから、いつもは屋上にいってしまう女子たちも、今日は教室で昼食を取っていた。

碇シンジの席には、鈴原トウジが座っている。
彼は弁当を食べながら相田ケンスケと下らない話をしていた。

一ノ瀬が聞きたいのはもちろん彼らの話ではない。

惣流アスカ、洞木ヒカリ、そして綾波レイの3人は、机を2つだけくっつけて、
そこにそれぞれのお弁当を広げていた。
場所はちょうどトウジの隣に位置しているから、そちらの話も聞こえてきた。

自分で作った弁当をすでに平らげてしまった一ノ瀬は、本でカムフラージュしながら、
女子たちのほうに耳の神経を集中させた。

「はあ〜」

惣流アスカがため息をついた。

「アスカ、朝から元気ないね」

洞木ヒカリが心配する。

「ねえ、大丈夫?」

「え、ああ、大丈夫よ、ヒカリ」

「碇くんがいなくて寂しいんでしょ」

綾波レイが言うと、アスカは声を裏返しながら反論した。

「ち、違うわよ。それを言うならレイのほうじゃないの。つまんなそうな顔してさ」

「私は授業が退屈だなーって思ってただけですけどね」

「アタシだって同じよ。アタシみたいな才女にはあんな授業タル過ぎ」

才女って、自分でいうことだろうか。そういうところが好きになれない。

「ふうん。でもさあ、アスカ」

レイは言った。

「チラッと見た時、授業がつまんないからボーっとしてたって言うよりも、何だか、
別のことを考えててボーっとしてましたって感じだったような気が」

「しません」

アスカが続けた。

「それは綾波さんの気のせいじゃございませんこと」

「そうかなあ、碇くんの机をジッと見つめていたようにも見えたんだけど、
あれも私の気のせいだったのかなあ」

「う」

痛いところを突かれた、といったうめき声が聞こえた。

「ねーえ」

少しだけ声をひそめて、レイは言った。

「アスカって、やっぱり碇くんのことが好きなわけ?」

「ち、違う・・・・・・」 「そうだよ」

否定するアスカの声に、ヒカリの肯定の声がかぶさった。

「ヒカリ!」

アスカの焦りを滲ませた声。

「いいじゃない、アスカ。いまは碇くんいないんだし」

「でもヒカリ・・・・・・」

「へえ、やっぱりそうか」

レイはうれしそうに言った。

いつの間にか、後ろのトウジ・ケンスケの会話が止まっていた。
きっと彼女たちの話を聞いているのだろう。

惣流アスカが、碇シンジに気があることなど、一ノ瀬の目にも明らかなことだった。
だから、きっとクラス中、いや学校中が知っているといってもいい。驚くことではない。

実際、綾波レイも驚くというより、「あ、やっぱり」という感じだった。

「アスカってね、私とふたりでいると、口を開けばいつも碇くんのことばっかりなの」

気を使ってか、ヒカリは声の調子を落とした。
しかし、一ノ瀬は研ぎ澄まされた聴力で、雑音の中からそれを聞き分けた。

「うんうん」

レイは面白そうに相槌を打つ。アスカは黙ってヒカリの話を聞いていた。

「直接アスカの口から『碇くんが好き』とかは聞いてないけど、
ハッキリ言っちゃうと、バレバレっていうか、もろに分かっちゃうんだよね」

その通りだ。知らないのは本人と碇シンジくらいなものだ。

「それに、昨日のアレを見ちゃうと、もう決定的って感じだったよね」

「何、アレって」

アスカは低い声で静かに訊ねた。

「ほら、碇くんを保健室に連れて行った時よ」

ヒカリはちょっとずつ声が大きくなっていった。

「愛のパワーというか、オーラみたいなものが見えてたよ、アスカ」

「見えた見えた。すごかったよね」

レイが同意する。

「何よ、もー、あんたたちさっきからうるさいわよ」

もうこの話はやめて、とアスカの声の響きが物語っていた。

「そういうヒカリはどうなのよ」

そのままアスカは話をすり替えて、ヒカリに焦点を当てた。

「どうって、何が?」

「ヒカリの片思いが両思いになるのはいつなのかな、と聞いてるの」

「え、え、何それー」

レイは興味津々である。

「ヒカリの好きな人って、誰なの?」

「どうしようかなー、言っちゃおうかなー」

「やめてよ、アスカ」

「あれー? さっきはいろいろ言ってくれましたよね、ヒカリちゃん」

「アスカ、ごめんね」

「今更謝られてもなー、ちょっと遅いっていうか」

「・・・・・・ごめんね、アスカ」

それは悲痛な叫びにも聞こえた。そこまで言われたくないのか。
どうしてだろう。その好きな相手が近くにでもいるのだろうか。

「アタシがここで言うわけないでしょ。安心しなさい」

「えーっ、私もダメなの?」

レイが抗議する。

すると、どうやらアスカはレイに耳打ちしたようだ。
「分かった」というレイの声が聞こえた。

おおかた「あとで教えてあげる」とでも言ったのだろう。
洞木ヒカリに興味はないが、一ノ瀬もちょっとだけ気になった。

ヒカリは無神経にもアスカの気持ちを喋ってしまったのに、
アスカはヒカリのことを言おうとしない。どういう秘密があるのだろう。

そんなことを思っていると、一ノ瀬がさらに聴力を研ぎ澄ます局面に差し掛かった。

「で、レイは?」

ようやくそれを振ってくれたか、と一ノ瀬はアスカに感謝した。
話の流れから、間違いなく綾波レイにも同じ質問がされると思っていたからだ。

「私が、どうかしたの」

「とぼけても無駄よ、レイ」

アスカの声は厳しかった。

「順番的にいえば次はレイの番でしょ」

「私、好きな人なんていないもん」

「本当かなあ」

「本当です」

「なーんかうそっぽいなあ」

「うそじゃないもん」

うそだな、と一ノ瀬は思った。綾波レイは明らかにうそを言っている。
ここでアスカかヒカリのどちらかに、碇シンジのことを訊いて欲しいものだが・・・・・・

と思っていたら、早速ヒカリが訊ねてくれた。

「じゃあ、碇くんは?」

「碇くん? うーん・・・・・・」

レイは約10秒ほどうなってから、ようやく答えた。

「好きか嫌いか、どっちか言うとしたら・・・・・・好き、かな」

ストレートに碇シンジが好きだと言うより、そっちほうが一ノ瀬にはこたえた。
「好き、かな」に、明らかに恥じらいが含まれていた。
ハッキリと言ってくれるより、ずっと重たい響きだった。

レイのその告白以降、一ノ瀬の耳は途端に悪くなり、周りの音が聞こえなくなった。
正確には、呆然としてしまっていただけであるが。

一ノ瀬は、知らず知らずのうちに、ポケットに入ったハンカチを握り締めていた。
そうすれば、綾波レイが自分のもとにやって来てくれるとでもいうかのように。

ところが、それは単なる思い込みに終わらなかった。




■4

放課後、一ノ瀬は校舎の玄関口で折り畳み傘を開こうとしていた。

まだ雨は降り続いている。大したものでもないので、傘のない者は走って帰った。

今日のところは、もう誰の顔も見たくないというのが本音である。
誰にも見られたくないし、誰も見たくない。聞きたくない。喋りたくない。

原因は、綾波レイの漠然とした告白だった。

漠然としているものの、簡単にそこから本心を汲み取ることが出来た。
やっぱり、彼女も碇シンジのことが気になるのだ。そう捉えざるをえなかった。

一ノ瀬はいま、勝手に恋をして、勝手に失恋した気になっている。
あまりにも子供じみた怒りが湧いてきて、なかなか開かない傘に八つ当たりをしていた。

その時、後ろから惣流アスカの声が聞こえた。

振り向くと、洞木ヒカリと一緒だった。レイの姿はない。

どうしたのだろう、と傘を開ける振りをしながら様子を見た。

他人と完全にシャットアウトしたいという気分は、いつの間にか薄らいでいた。

アスカたちは傘を差して、そのまま行ってしまった。レイは一緒でない。

周りの人が少なくなったのを見計らって、一ノ瀬は下駄箱を覗いてみた。
レイのところには、上履きがあった。つまり、もう外に出てしまったことになる。

何だ、もう帰ってたのかと思いながら、一ノ瀬はようやく開いた傘を片手に、
うつむき加減でゆっくりと帰る方向に歩いた。

と、校門の所に、淡いブルーの傘が止まっているのが見えた。
傘から下に伸びている服装からして、女子生徒なのは分かった。しかし顔は見えない。

まあ、ぼくには関係のないことだ、という口癖ならぬ思い癖をついて、
一ノ瀬はその女子生徒の横を通り過ぎようとした。

「一ノ瀬くん・・・・・・だよね」

まさに、そのそばを通りかかった時、綾波レイの声が聞こえた。
しかも自分の名を呼んでいる。空耳にしてはハッキリしすぎていた。

もしや・・・・・・と、傘を少し持ち上げて、女子生徒のほうを見た。

綾波レイだった。

彼女が、こちらを見ている。

目を見つめている。

初めて目を合わせたのだ。

動悸がした。

顔が熱い。

体中に震えが起きた。

声を出す方法を忘れてしまったかのように、喋れない。

目を、顔を、身体をそむけることすら出来ない。

傘を握る手だけが、唯一かすかに動かせる身体の一部であった。

いま、きっとみっともない顔になっているだろう。

恥ずかしい。

けれども・・・・・・かわいい。

見れば見るほど、かわいかった。

こんなに近くで見るのも、めったになかった。

彼女はなぜ、ここにいるのだろう。

ここは家の方向とは反対の通用門である。

いったい、ぼくに何の用があるのだろう・・・・・・

「一ノ瀬くん」

レイは、もう一度呼びかけた。一ノ瀬はハッとなって考えるのをやめた。

「ちょっといい?」

ちょっと、って何だろう。そういう思いが顔に出たのか、レイはすぐに答える。

「あの、私のハンカチを、あなたが持っているって聞いたんだけど」

「・・・・・・・・・」

どうやら顔の筋肉の動かしかたは思い出せたようだが、口の動きはまだ忘れている。

「ほんとは昨日言えばよかったんだけど、ちょっといろいろあったから」

いろいろとは、おそらく碇シンジのことだろう。
彼のことを心配していて、ハンカチどころではなかったということらしい。
一ノ瀬は、もう、いちいち機嫌を悪くすることはなかった。

「それで、その、返して欲しいんだけど。私のハンカチ」

それは私のものであって、決してあなたのものではないのよ。
いまの言葉がそんな風に聞こえた。少し悲しくなる。

「・・・・・・あの、一ノ瀬くん」

レイの表情が曇った。目の前の男子が、身動きひとつ取らないからだ。

「返して、欲しいんだけど・・・・・・」

相手に確認を取るようにゆっくりとした口調で、レイは言った。
まだ一ノ瀬は金縛りから抜け出せない。

「あの、どうしたの?」

いよいよ彼女は心配になってきたようだ。

一ノ瀬の身を案じるのではなく、その精神を疑っているのだ。
彼女の表情からそういう風に察知した。

突然、何の前触れもなく、いままで苦しめられてきた金縛りから解放された。
全身に取り付けられたギプスが、一瞬にして取り外されたみたいだ。

ようやく彼女から視線を外すことが出来た。そして一息ついてからハンカチを取り出す。

「はい、これ」

彼女に向かって喋った言葉は、それだけだった。
そして、それが綾波レイに対する最後の言葉になってしまった。

そのことを知るのは、その日の夜であった。

だから、まだ一ノ瀬は何も知らないのである。
知らなくてよかったのかもしれないと思うのは、ずい分先のこととなった。

少ししわの寄ったハンカチを渡すと、もうレイの顔を見ずに、一ノ瀬は歩き出した。

水溜りをうまくよけながら、歩道をてくてくとゆっくり歩く。
歩きながら、一ノ瀬は顔が濡れていることに気がついた。

それは、雨のせいではなかった。傘を差していたのだから。

目の前の景色が、ぐにゃぐにゃと歪んで見える。

何度も目をこすってみるが、光景が落ち着く様子は見られなかった。

一ノ瀬は、泣いていた。

彼はその涙の理由が、どうにも見つけ出せなかった。
心のありとあらゆる窓を開けてみても、その向こうに答えは見えてこない。

綾波レイに振られたと思ったからか――違う。

彼女とロクに話も出来なかったのが悔しいからか――それも違う。

それとも碇シンジに対する悔しさか――それでもなかった。

では、何だろうと考えてみる。

そうだ、さっきの突然の心境の変化――あれはいったい何だったのだろう。
ついさっきのことを、一ノ瀬は思い出そうとした。

すると、もう家の前に着いていた。
家といっても一軒家ではなく、父の勤める会社が持つ社宅である。

3階の自分の部屋につくと、ポケットから小さな鈴をつけたカギを取り出した。
部屋のカギである。一ノ瀬はいつもこれを持ち歩いていた。

ドアを開けて、狭い玄関に靴を脱ぎ捨てると、入った所すぐのテーブルにカバンを置く。
水道で手を洗い、うがいをし、自分の勉強部屋に向かった。

すぐに簡単な恰好に着替えて、一ノ瀬は本棚の前に立った。

本棚には、マンガもあったが、多くが小説で埋まっている。

迷わずにその内の一冊を引き抜くと、ベッドに寝転がってそれを読み始めた。

その頭の中では、自分の気持ちを見つけようとするのを忘れてはいなかった。
いま読んでいるこの本に、すべての答えが書いてあると思ったのだ。

それは、推理小説、つまりミステリーである。

いま手に取った本に限って言えば、それは単なる犯人当てゲームではなかった。
トリッキーなものでもなければ、あっと驚く仕掛けがなされてあるわけでもない。

しかし、そこにはとても深い人間ドラマがあった。
一ノ瀬は、どちらかというとそういうタイプのストーリーが好きだった。

自分の気持ちを整理する上では、ストーリーのことなど関係なかった。
問題は、そこに登場するキャラクターである。

一ノ瀬は、その小説に登場する、同い年の14歳の少女が好きだった。

シリーズものであるから、そのキャラは毎回登場する。
その上、いつだって重要な役回りだった。

ところで、フィクションはノンフィクションを追い求めようとする。
だから、著者は言葉のひとつひとつに自分で難癖をつけたりする。
わざとこういう風に書いているんですよ、と言いたげに。

ところが、一ノ瀬が好きなその少女は、まるで現実味のないキャラである。

ひとつ、すべての人に対して、とても優しいこと。
こんな人はいくらでもいそうだが、人の心なんて他人には分からない。
けれども少女は、誰よりも素直で、誰よりも優しかった。

もうひとつは、この世に生きるすべての人間の中で、最も美しいこと。
文章なのだから、いくらでも表現は可能である。
だが、そこまで言い切ってしまえることはなかなかない。

その2つの点が、リアルさに欠けていたが、そこが一ノ瀬をくすぐった。

読みながら、その少女のイメージが思い浮かぶ。
それは、雰囲気は多少違えども、綾波レイにそっくりだった。

レイが転校してきた当日、彼女が教室に姿を現したとき、一ノ瀬は驚愕した。
いわば、理想の女性そのものがやってきたのである。

もちろん髪や瞳の色は違ったが、顔立ちはイメージそのままであった。

しかも、『レイ』という名前も、実は小説の少女と一緒だった。
2重の驚きを噛みしめながら、一ノ瀬はあっという間にレイに一目惚れをした。

レイを好きになったいきさつはそういうことである。

ちょうどいま一ノ瀬が読んでいるのは、『レイ』の優しさをいちばん感じる作品だった。
読みながら、また涙が出そうになる。

そこで、ようやく一ノ瀬は答えを見つけ出した。

彼は、綾波レイに、『レイ』を求めすぎていたのだ。
つまり、彼の理想像は、あまりにもハードルが高すぎたということである。

さっき雨の中で、レイは一ノ瀬を見て怪訝な顔をした。
この人、ちょっとおかしいのかもしれない、とその顔が言っていた。
その直後、一ノ瀬は緊張から抜け出したのである。

要は、綾波レイに冷めてしまったのだ。

『レイ』のイメージにピッタリだから、中身も素晴らしい子なのだと思い込んでいた。
だが、綾波レイは、かわいさこそあれ、普通の女の子なのである。
どんな人に対しても、いつだって心の底から優しく出来るとは限らないのだ。

もちろん、綾波レイはとても優しい子だろう。それは間違いないと思う。
だが、単なる優しさでは、一ノ瀬は満足できないのだ。
だから、急に冷めてしまったのである。

こぼれる涙の理由は、自分は彼女の外見しか見ていなかったことの愚かさだった。
好きになった理由が、あまりにも軽薄過ぎたことの憤りであった。

「最低だ」

勝手に口が動いた。

「最低だ」

綾波レイに、『レイ』の幻影を見ていたのは、まさしく幻のようだった。
完璧を追い求めすぎていた自分が、情けなかった。

小さい頃に母親を亡くしたので、女性の愛に触れた経験がほとんどない。
それどころか、女性とはいったい何なのか、というレベルである。
だから、理想の女性像が聖母のようなものになったのかもしれない。

「最低だ」

震える声で3度目の呟きを洩らすと、一ノ瀬はマクラに顔をうずめた。

そして、いつの間にか眠ってしまった。

起きたのは、夜の7時前だった。

ちょうど、父親が帰ってきたところだった。




■5

一ノ瀬タツヤは、翌々日、父親と共に、遠く関西のほうへ引っ越すことになった。

父親の転勤は、あまりにも急な話であった。
だから、次の日は学校も会社も休んで一日中家の整理をした。

引越し先はまた社宅だったから、ほとんどすぐに移ることが出来た。
手続きも簡単に済ませて、一ノ瀬親子はここを離れていった。

その、ちょうど一ノ瀬が発つ日の朝――

碇シンジは、元気に家を出た。

結局2日間休んだことになる。治るのに意外とかかってしまった。

「よかったね、アスカ」

通学途中、レイはシンジ越しに、アスカに言った。

「何が?」

顔は知らん振りしながら、アスカは答える。

「うれしいくせに。もっと喜んでいいのよ」

レイは楽しそうに言う。

「シンジの風邪が治ったからって、どうしてアタシが喜ばなきゃ・・・・・・ならないのよ」

失言に気がついて、アスカは後のほうの声をどもらせた。
レイはニヤッと笑って、キッチリと言葉尻を捉える。

「あれ、私、碇くんのことなんて言ってないんだけどな」

「うっさいのよ、あんたは朝っから」

「あ、怒っちゃった」

「アタシは別に怒ってなんかないわよ」

「うそー、怒ってるじゃん。アスカ怖あい」

と言って、レイはシンジの腕を取る。

「碇くん助けてー」

「ちょ、ちょっと綾波、やめてよ」

勘弁して下さいよー、といった情けない顔でシンジは抗議した。

レイは、うふふと笑いながらシンジの顔を見て、その隣のアスカに目を向けた。
もの凄い形相だった。鬼の形相といってもよかった。

それを見てはさすがにレイも腕を離さざるをえなかった。

あっけなく離れたレイを、シンジは不思議そうに見た。

アスカはホッとして、少しだけシンジに身を寄せた。彼が気付かない程度に。

シンジのことを意識しながら、アスカはレイにも注意を向けた。
やっぱり彼女は要注意人物だったことが、いよいよハッキリしたからだ。

それはおとといの昼休みのことだった。

レイに、シンジのことが好きなんじゃないかと訊かれた流れで、彼女にも同じ質問が飛んだ。

その時レイは、ちょっとためらってからこう答えた。

「好きか嫌いか、どっちか言うとしたら・・・・・・好き、かな」

そう言うレイの顔から、それが本音であることは一目瞭然だった。

その後に彼女が言い添えた「ま、嫌いではないっていう意味だけどね」というのは、
何のフォローもなしていなかった。

一応好きとは言ったけど、それはライクであってラブじゃないのよ、
とレイは言いたかったのだろうが、アスカの目はごまかされなかった。

その時アスカは、まず、どうしようと思った。

シンジとは、もうずっと長い付き合いである。
アスカは、自分の気持ちに最近ようやく整理がついたとはいえ、
ずっと前からシンジのことが好きだということに変わりはなかった。

なのに、シンジはまったく、まったくと言っていいほど、その気持ちに気付いていない。
長い付き合いで培われたものの中に、恋とか愛などは含まれていなかった。

それに対してレイは、いまみたいにお手軽にシンジにいちゃつくことが出来る。
もちろんシンジは照れるし、対外的にやめてよと言うが、それが本心かどうかは疑問だ。
何だかんだいって、シンジもちょっとうれしがっているのではないか。

それに、レイはシンジとひとつ屋根の下という境遇にある。
つまるところ、アスカが介在できない場面が多々あるわけだ。

隣に住むか、一緒に住むかの違いだけだが、とんでもない違いである。

だが、アスカはそんなことでめげてはいられない、と自分を叱咤した。
彼女はいままでの世話焼きお姉さんから、恋人に変身しようとしているのだ。

シンジとふたりきりなら、何とかなりそうである。
だが、まだ周りに人がいると、特にレイがいるとダメだった。
他人に自分の気持ちを見られるのは、とても恥ずかしい。

いろいろ考えていると、道の少し先に誰かがこちらを向いてたたずんでいるのが見えた。
アスカが最初に気付いたようで、シンジとレイは何か話をしていた。

顔がハッキリと見えてきた。どこかで見た顔だ。どこだろうと考える。
学校だ。同じクラスで見た顔だ。顔は覚えていたが、名前は出てこなかった。

向こうに聞こえない程度の声で、アスカは訊いた。

「あの男の子、誰だっけ」

「え?」

同時にシンジとレイは一ノ瀬タツヤのほうに注目した。

制服ではなく、私服姿である。顔と同様、地味目の色柄だった。
申し訳なさそうな態度で、3人を、特に綾波レイを見据えていた。

この時点で、シンジは、レイがハンカチを返してもらったことを知っていた。
さらに、昨日、彼が引っ越してしまうということもレイから聞いていた。
だから、一ノ瀬の登場はかなり意外であった。

意外に思いながら、シンジは呼びかけてみた。

「一ノ瀬くん・・・・・・どうしたの」

声にともなわれ、一ノ瀬の目がシンジに向いた。

「この間は、ごめん」

一ノ瀬は淡々と言う。

「ヘンなこと言っちゃって、ごめん、碇くん」

「あ、いや、その、別に・・・・・・」

敢然とした態度で謝られて、シンジは思わず慌ててしまった。

「それから・・・・・・」

と言って、一ノ瀬はまたレイを見据えた。
そして、何も言わずに、彼女に小さな封筒を渡して、そのまま走り去ってしまった。

「あ、一ノ瀬くん」

レイが呼びとどめようとするのを背中に聞きながら、一ノ瀬は走った。
そのまま家に戻ると、すぐに引越し先へ出発である。
しかし、もう未練はない。するべきことは出来たのだ。

一ノ瀬は、何か特別な解放感を身体に感じながら、走っていった。

「・・・・・・どういうこと?」

事情を何も知らないアスカは、ようやく口を開いた。

だが、それは完全に無視され、シンジとレイは渡された封筒を眺めていた。

「これ、何だろう」

「さあ・・・・・・開けてみたら、綾波」

「・・・・・・ううん、後にする」

「どうして?」

「一ノ瀬くんは、私に渡してくれたんだから、きっと私だけに見てもらいたいのよ」

「そうかなあ」

「碇くんは見ちゃダメよ」

「うーん・・・・・・」

ちょっと納得いかない顔で、シンジはうなった。

「ねえねえ、どういうことなの、ちょっと教えてよ」

つまらなそうにアスカはシンジの腕を引っ張る。

歩きながら、シンジは簡単に説明をした。

レイが受け取った封筒の中には、彼女に宛てられた手紙が入っていた。
それを読むのは家に帰って部屋に1人になった時だったが、その内容は次の通りだった。

≪綾波さんへ

あなたを前にして喋れる自信がないので、手紙に書くことにしました。
こんな形でしか伝えることしか出来なくて、ごめんなさい。

ハンカチのことは、すぐに返さなくてごめんなさい。
あの時、綾波さんが校門で待っているとは思ってもみなかったので、
とてもビックリしてしまいました。

ぼくが、何も言えずに固まってしまったのを見て、不安に思ったかもしれません。
でも、それにはちゃんと理由がありました。ちゃんとかどうかは分かりませんけど。

手紙に書くのもためらってしまいますが、頑張って言いたい思います。

ぼくは、一目見た時から、綾波さんのことが好きでした。
でも、もう諦めました。

それは、ぼくが引っ越してしまうからではありません。
ぼく自身が勝手に熱くなり、勝手に冷めてしまっただけです。
冷めてしまったというとちょっと失礼に聞こえるかもしれませんが、
それが正直なところです。ごめんなさい。

言いたいことはそれだけです。
綾波さんにとっては、別にどうでもいいような話かもしれません。
けれども、ぼくはどうしても言っておきたかったのです。

綾波さんに、ぼくを変な人だと思われたまま引っ越したくないのです。
まとまりのない手紙で、ごめんなさい。

謝ってばかりで、ごめんなさい。

さようなら≫

これを読み終えた後、レイは確かにどうでもいい話かもしれないと思った。
しかし、そんなことを口に出すことはなく、心の中にしまいこんだ。

彼女の人を思いやる気持ちは、一ノ瀬が思ったよりも強かった。




つづく




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

考えていた展開とは、まったく違う方向に飛んでしまいました。
第3者を使って、客観的に世界を眺める予定だったのですが、
どうもうまく動いてくれませんでした。
これからは気をつけます。

そういうわけで、ではではまたまた。


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