≪まえがき≫

このお話は、無知の人・うっでぃが書いたものです。
だから、描写や設定が粗雑なものに見えるかもしれません。
半分無教養、半分冗談というかご都合主義丸出しで書いてあります。
そのところ、ご了承下さい。

それでは、始まります。




1.白い朝

コツ、コツ、コツ、コツ・・・・・・

アタシはゆっくりと廊下を歩いて、目指す部屋に向かっていた。

その途中には、玄関前を見渡せる大きな窓がついていた。
ここから眺める景色は、一面真っ白である。

昨日の夕方から深夜にかけて降った雪が、そこここにたくさん敷きつめられている。
今朝、出勤してきた際に踏んだ柔らかな雪の感触が、いまも足の裏に残っていた。

外を歩く人が踏みしめる足音が、こちらに聞こえてきそうだった。
ギュッギュッギュッ、サクサクサクと気持ち良さそうに。

自然と持ち上げていた口元を引き締め、アタシは315号室の入り口に立った。

『碇シンジ様』

ネームプレートに記入された名前はそれだけだ。
4人分のスペースがあるけれど、この病室にいる患者さんはただ1人だけ。

この315号室は、アタシが回る部屋の1つだった。
ちょっと前まで、あと2人患者さんがここにいた。もちろん顔も名前も覚えている。

ひとりは、いくらか太った中年の男性で、ついこの間無事に退院。
もうひとりは、痩せぎすのおじいさんで、ついこの間亡くなった。

アタシは感情が外に出やすいタイプなので、ちょっとの間に表情がコロコロ変わった。
明るい笑顔になったかと思えば、くしゃくしゃの泣き顔になる。
人の死を見届けるのは、どうしたって慣れることじゃない。

スッキリサッパリ忘れて、さあ仕事に戻ろうなど、アタシには出来ない。
――と思っていたけど、次の日になってみれば、少し心が落ち着いていた。

やっぱり、慣れなのだろうか。そう思うと、自分が怖くなる。
いつか、人が死ぬことを何とも思わなくなっちゃうんじゃないか――
そう考えると、恐怖というより、悲しくなった。

一瞬で制服を正して、アタシは声を上げながら部屋に入った。

「おはようございまーす」

部屋の入り口から中に向かって左側の奥、窓際のベッドの上に碇シンジはいた。

いまは午前9時前。とっくに朝食を済ませて、患者さんには退屈なひとときだ。
彼は、ベッドのもたれに背をあずけながら、本を読んでいた。

「・・・・・・あ、どうも」

隙間に指を入れた状態で本を閉じて、彼は軽く会釈をした。

シャイらしく、まだ一度も彼の口から「おはようございます」を聞いたことがない。

彼の年齢は23歳。ハッキリ言って、とてもおとなの男性には見えない。
背はまあまああるけど、身体は華奢だし、何といっても彼は童顔だった。

大抵の患者さんは中年以上の方で、半分はお年寄りが占めている。
いまのところ、いちばん若い患者さんは彼である。

もちろんこちらとしては、各々の患者さんに同じように対応しているつもりだけど、
お年寄りと、同年代の男性とでは、やっぱり心持が変わってくる。

それにしても、彼は本当に子供みたいな人だ。パジャマ姿がそれを浮き立たせていた。

アタシはベッドサイドの整頓をしに来たけれど、彼の場合、対して整理するものはない。
だから、この時間は大抵、彼と話をするだけだった。

「今日の調子はどうですか」

アタシは、申し送りで知っていながら、初めにそう訊く。

「まあまあです」

「今日もまあまあなんですか」

「はい」

彼の調子は毎日「まあまあ」だという。いつ訊いてもまあまあだった。
けれど、今日は少し追加があった。

「ただ・・・・・・ちょっと寒いですね」

「外は雪ですよ。ここから見ました?」

窓を指差してアタシは訊いた。

「ええ。外を歩いてる人、みんな寒そうだなと思いました」

「そうですね」

アタシは微笑んだ。

3階のこの部屋の窓から見える景色は、病院の裏側にある駅前の通りだった。
ちょうど人通りが望めるところで、確かに歩いている人はみんな寒そうだ。

「・・・・・・それじゃ、回診の時にまた来ますね」

まだまだ回る部屋があるので、アタシはそう言って部屋を出ようとした。

「あ、看護婦さん」

後ろから彼が呼び止めた。

アタシには、惣流アスカという名前がある。
けれど、ここでは「看護婦さん」と呼ばれるのが普通だった。
ちゃんと胸に名札を差しているのに、患者さんは「看護婦さん」としか呼んでくれない。

でも、もうそういうことも慣れてきた。

「何ですか、碇さん」

「あのう、毛布をもう一枚くれませんか」

「あ、やっぱり一枚じゃ寒いですよね」

「はい、寒いの苦手なんで」

彼はちょっと恥ずかしそうに引きつった笑みを浮かべた。
笑うと、ますます少年っぽさが引き立つ。

「すぐに持ってきましょうか」

「あ、回診の時でいいです」

空いているほうの手を大きく開いて、彼は遠慮した。
それでも、ちょっと窺うような目でこちらを見るので、アタシは訊いた。

「やっぱり、いま持ってきましょうか」

「いえ、いいんです。他の部屋も回らないといけないんでしょう」

「でも、すぐに持ってこれますよ」

「あ、そうですか・・・・・・でも・・・・・・」

アタシの顔色を窺う彼の目が、ちょっといじらしく見えた。
決して男らしい目じゃないけど、弱々しさの中に恥じらいが含まれていてかわいい。

「じゃ、ちょっと待ってて下さいね」

口元の両端を持ち上げながら、アタシはそう言って部屋を出た。

部屋を出てすぐの角を曲がったところで、彼女とすれ違った。

「おはようございます」

と言って会釈をしながら、彼女は315号室に向かう。

もう来たのか、と思いながら、アタシは頼まれた毛布を取りに行った。

再び315号室に戻ってくると、彼女は碇シンジのそばにスツールを置いて座っていた。

「碇さん、毛布持って来ましたよ」

部屋の中に入りながら言うと、背を向けていた彼女がこちらに顔を向けて、
もう一度「おはようございます」と言いながら会釈をした。

初めて彼女を見た時は、まさに少女という言葉がピッタリの女の子に見えたけれど、
いまのように自然と物腰低い会釈をする姿を見ると、それほど子供でもないのかと思う。

といっても、どうやら彼女はまだ高校生らしい。
ここへ来る時は、平日は大抵夕方頃で、しかも学校の制服姿だからだ。
いまの彼女は私服を着ている。今日は日曜日だった。

面会時間は午前9時からで、彼女はちょうど9時きっかりに現れた。
そんなに碇シンジに会いたかったのだろうか。会いたかったのだろう。
そういえば昨日おとといは彼女の姿を見かけなかった。

「それじゃ、ベッドをセットし直しますから、いったん降りてて下さい」

と言って、アタシが毛布を布団の中に入れようとすると、

「あ、私がやっておきますから」

と、彼女が親切にもアタシの仕事を取り上げてくれた。

「あ、すいません、お願いします」

好意に甘えさせてもらって、アタシは「失礼します」と言いながら部屋を出た。

患者さんとはよくお話をするけれど、患者さんの家族とは、あまり話しをしない。
もちろん何か質問をされれば答えるけど、こちらから話しかけることはない。
だから、アタシは彼女と碇シンジの関係を知らない。

彼女は自分からは何も言わない(それはアタシたち看護婦と同じ心境からだろう)。
なのに、碇シンジも彼女のことを何も言おうとしない。
だからアタシもちょっと訊きづらいので、まだ訊いたことがなかった。

どうなんだろう。彼女は高校生のようだから、もしかすると妹かもしれない。
顔も似てなくもないし、そう考えたほうが自然だ。

けど、もしかして恋人なのかも、とも思ったりする。
そんな風に思った時、なぜかアタシは気分が悪くなる感じになった。

どうしてヘンな気持ちになるんだろう、とアタシはまた考える。

彼のことが気になってるのだろうか。でも彼は患者さんだ。
他の患者さんと同じように接しているつもりだけど、ほんとにそうだろうか。

そういえば、315号室に入る時、ちょっとだけドキドキする。
自然に、身だしなみを整えてから部屋に入っていた。

彼はアタシと歳がほとんどかわらないし、やっぱりちょっと意識してるのかもしれない。
もっと年上や年下なら、彼と会う時の気持ちは全然違うかもしれない。
かもしれないばっかりで、よく分からない。

けど、たぶんアタシは彼に気があるんだと思う。
彼がこの病院に入院してきて、初めて顔を合わせた時も、少しドキドキした。

子供っぽい子供っぽいと思っていても、よく見ると結構いい顔してるし、
何より笑顔がステキだった。あんまり見たことはないけれど。

こうやって、すぐに男の人に惹かれてしまうのが、アタシの悪い癖だった。

以前に付き合った人は、いずれもアタシが一目惚れしたくちで、
交際してみて初めて彼氏の本質を知って、こちらが勝手に幻滅するという始末。
最近もそれが理由で、たった2ヶ月の交際で恋人と別れたばかりだった。

相手にもいろいろついていけないところはあったけど、非は完全にこっちにあった。
男性のルックスしか見ていなかった自分が悪かったのだ。

10時を回る頃になって、先生と一緒に病室を回診に回った。

その時も、彼女は碇シンジのそばにいた。今日はずっといるつもりなのだろうか。

ベッド脇の台の上には切られたリンゴがあって、彼女が剥いたものらしい。
そういうシチュエーションって、あるんだなあなどと思ったりした。

検診が行われている間、彼女はひと言も喋らずに、隅につつましく立っていた。
アタシは碇シンジを見ながら、彼女のほうも盗み見ていた。

彼女は、どういう趣味なのか、髪の毛を青く染めている。まさか地毛ではないだろう。
瞳もカラーコンタクトを入れたみたいに赤いし、見た目は不良みたいだ。
けど、挨拶はちゃんとするし、服はいたって普通だし、いいコそうに思える。

たぶん、とてもいいコなんだろう。碇シンジと親しいくらいなのだから。
人を見た目で判断するのは良くないと、よく親に言われたことがある。

回診を終えて、患者さんのお昼の準備に取り掛かる。
それぞれ患者さんに合わせて、食べやすいようにするのも看護婦の仕事である。

それが終わると、ようやく昼休みに入った。

「ねえ、アスカ」

地下食堂で、向かいに座る同僚の洞木ヒカリが言った。

「明日なんだけどさ、夜勤替わって欲しいなんて言ったりして」

「明日?」

明日の夜勤というのは、実際にはあさっての午前0時からの仕事である。
今日の夜勤といえば、明日の午前0時からの仕事を差す。

「ちょっと用事が出来ちゃって」

「どんな用事よ」

アタシは笑いながら訊いた。答えが分かっているからだ。

「・・・・・・だって、明日はイブなんだよ。分かるでしょ、アスカ」

「アタシ、分かんない」

「ま、そうよね。カレシのいないアスカには分からないかもね」

「あー、そういう言いかたひどいんじゃない」

「だって、本当のことでしょ」

「この世には言っていい本当のことと、言って悪い本当のことがあるんです」

そうやって冗談ぽく言うことによって、自分をセーブしていた。

明日の仕事の後の予定は、特に何もなかった。
クリスマスイブなのに、アタシは寮に独りなのかと思うと、とても寂しい。
明日の日勤の、他の友達もみんな予定があるらしく、アタシは独り・・・・・・

適当におなかを満たすと、昼休みはあっという間に終わった。

ヒカリとの勤務時間のシフトを報告すると、アタシたちは仕事に戻った。

午後の初めのうちは、看護記録の整理やカンファレンスなどで病室のほうには向かわず、
3時頃になると、特にお年寄りの患者さんのために清潔のケアをしに部屋に行く。

碇シンジは、病棟にあるシャワー室を使うから、看護婦を必要としない。
こちらとしても、まさか彼の身体を拭いたりなど出来るわけがない。恥ずかしい。

あとは薬や点滴などの用意をして、交代するナースたちと申し送りをし、
日勤の看護婦は午後5時ごろには仕事から解放される。

明日は夜勤か、つらいなあ、と思いながら、アタシは固まった雪を踏みしめて、
病院の隣にある女子寮に戻っていった。




2.同級生

クリスマス当日の午前1時――

当たり前だけど、窓の外は暗い。それに、さすがに夜は寒かった。
ストッキングだけでは、スカート下の脚を守りきれない。

それでもナース服の上に赤いカーディガンを羽織ながら、アタシは部屋を見回った。

夜勤の仕事の半分は、見回りである。
患者さんがちゃんと寝ているかどうかを見に行くのだ。

やはり最初に回るのは、315号室。

碇シンジは、ぐっすりと眠っているようだった。
今夜は寝顔が見れてちょっとラッキーなどと思ったりして、次の部屋に移動する。

最後の部屋を見回った後、廊下から彼が部屋に入るところを見た。
おそらく、トイレに立っていたのだろうと思う。

もと来た廊下を戻って、アタシは315号室をもう一度覗いてみた。

「あ」

アタシは思わず、小さい叫び声を上げてしまった。

彼はベッドに上半身を起こしたまま、ボーっと何かを見つめていた。
いや、特に何も見ていないのかもしれないが、暗くてよく分からない。

アタシが、「あ」と言ってしまったのを彼は気付いたようで、ゆっくりこちらを向いた。

「こんばんは」

アタシはさっきよりもビックリしたけど、今度は頑張って呑み込んだ。
彼にちゃんとした挨拶をされたのは初めてだった。

「あ、碇さん、起きてたんですか」

深夜のため、ささやき声でアタシは訊く。

「はい。さっきちょっとトイレに行ってたんで」

眠そうな顔をしているのに、結構ハッキリとした声で彼は答える。

「いったん起きたら、何だか眠れなくなってしまって・・・・・・」

「でも、朝早いですから、なるべく早く寝たほうがいいですよ」

「そうですけど、難しいですよね」

彼はポツンと呟いた。

「何がですか?」

「早く寝ることです。ぼくなんて、前はいつも遅寝でしたから」

「ああ、そうですよね。アタシも仕事始めた頃はつらかったな」

「・・・・・・あのう」

急に彼はアタシの胸元をまじまじと見つめて、言った。

「看護婦さんの名前って、『そうりゅう』って読むんですよね」

「え、あ、そうですけど」

彼が見ていたのは胸元の名札だった。ちょっとドキドキしてしまった。

本当なら、患者さんを寝かしつけなければならないけど、
ちょっと彼と話がしたくなってきたので、アタシはスツールを取り出して座った。

「もしかして、下の名前は・・・・・・アスカさん、ですか」

「えっ、どうして知ってるんですか」

名札には、シンプルに苗字しか書いてないし、フルネームで名乗ったことはないから、
彼がアタシの名前を知っているのは驚きだった。

「覚えてませんか、ぼくのこと」

「碇さんのことを?」

「はい。もっと早く訊こうと思ってたんですけど、何だか言いそびれてしまって」

アタシは思い巡らせた。確か彼とはこの病院が初対面のはずだけど、
もしかしたら彼がアタシのことを見たことがあって、それで言っているのかもしれない。

でも、それだったらアタシに「覚えてませんか」とは訊かないだろう。
やっぱり以前に会った事があるのだろうか。

「あの、前にどこかで会いましたっけ」

「ええ。惣流アスカという名前はそうないでしょうし、きっとあなただと思います」

「それって、いつのことでしょう」

「ずい分前のことなんですけど、小学生の時です」

「小学生の時・・・・・・?」

アタシが思い出そうとする顔になると、彼はアタシの母校の小学校の名前を言った。

「えっ、もしかして、一緒の学校だったんですか」

「たぶん」

「うそー、偶然ですね」

アタシは思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口元を押さえて微笑んだ。
すかさずささやき声で訊く。

「同じクラスだったのかな」

「ええ、1,2年の時に一緒だったと思います」

「うーん・・・・・・」

アタシはその頃の教室の様子を思い出そうとしてみた。
けれど、ほとんど記憶がない。仲の良かった友達くらいなら何とか思い出せる。
でも男子の名前はおろか、顔などまったく思い出せなかった。

思い出せないので、彼の名前を反ぱくしてみた。

碇シンジ、碇シンジ、碇、シンジ、いかりしんじ、いかり、しんじ・・・・・・

名前だけでは何も浮かんでこなかったので、アタシは正直に言った。

「ごめんなさい、覚えてません」

「そうですか。じゃあ、これを言えば思い出してもらえるかもしれない」

彼はちょっと身を乗り出して続けた。

「1年生の時、遠足で学校近くの森林公園に行ったんですけど、覚えてますか」

「あ、覚えてる。そういえば行ったなあ、公園」

「そこの公園で、惣流さん、迷子になりませんでした?」

「そうそう、アタシ迷子になっちゃったんだっけ。覚えてるなあ、それ」

碇シンジが同級生だと分かると、自然とアタシは話し言葉をくずしていた。

「迷子になった時、男の子と一緒にいたのを覚えてますか」

「・・・・・・あ、覚えてる。それじゃ、もしかして・・・・・・」

「そうです、その男の子がぼくだったんですね」

「わあ、すごーい」

その偶然に、アタシは感動してしまった。

「そういえば、あの時、一緒にいた男の子が――つまり碇くんが――
みんなの所までアタシを連れていってくれたんだよね」

「うん」

彼は、はにかみながらうなずいた。

「でも碇くん、よく覚えてたね。アタシの名前とかも」

「ええ、まあ」

彼は言葉を濁したように言って、うつむいてしまった。

その後、しばらくアタシたちは昔の話を語り合った。
当時の出来事や流行った遊び、先生のことなどを喋っているうちに思い出していった。

話の中で彼は、小学3年の時に引っ越してしまったという。
だから彼のことを覚えていなかったのだろう。

その内、ふと碇くんが言った。

「惣流さんって、どうして看護婦になったの」

話をしている内に、彼もくだけた話しかたになっていた。

「そういうのって、よく訊かれるんだけど、結構単純な理由だよ」

「うん、でも訊いてみたいなあ」

そう言う彼を見て、アタシはますます彼に好感を持ちはじめた。

あんまり喋らない人なのかなと思っていたけど、話し始めると笑顔が見られたり、
聞いている内に彼の声に聞き惚れるようになっていた。
少年のイメージ通りのかわいらしい声が、ステキだなと思う。

それに、彼が暇な時に読んでいる本は、アタシが好きな作家の小説だった。
共通の好みがあると知って、すごくうれしかった。

アタシは、彼の質問の答えを話しはじめた。

「アタシ、小さい頃にね、幼稚園の時かな、風邪をこじらして肺炎になっちゃったんだ。
それで病院に入院したんだけど、その時に看てくれた看護婦さんがすごくいい人だったの。
とっても優しいお姉さんって感じで、とっても好きだった」

彼はアタシの話を聞きながら、黙ってうなずく。

「退院する時なんて、その看護婦さんが『退院おめでとう』って言ってくれてるのに、
アタシは彼女と離れたくなくてずっと泣いてたんだって」

「へえ、かわいいね」

子供の頃のアタシのことを言ったんだろうけど、彼の言葉にアタシはビクッとした。
それを隠しながら話を続ける。

「それで、アタシも将来あんなステキな看護婦さんになりたいなって思って、
たくさん勉強して、いまこうして看護婦さんになっちゃった」

「おめでとう」

「ありがとう、碇くん」

アタシは彼に笑顔で答えた。

「だから、もしも誰かと結婚しても、仕事は続けたいなって思ってるんだ。
つまり、女は家庭につくべきだっていう人とは結婚できないわけだけど」

アタシは仕事熱心な振りをしているようで、かなり強い結婚願望を見せていた。

「へえ、仕事熱心なんだね」

彼には伝わらなかったようだ。と思ったら、

「でも、惣流さんと結婚できる人は、羨ましいなあ」

などといきなり言ってきたので、アタシはビックリした。

「ど、どうして?」

「だって・・・・・・」

彼は視線を絶対にこちらに向けないようにして、照れながら言った。

「とても優しくて、キレイな人だから・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

アタシはとてもうれしくて、声もなかった。
これ以上彼の前にいたら、顔がどうかなってしまいそうなほど、火照っていた。

「あ、やだ、こんな時間」

時間を理由にアタシは逃げることにした。

「碇くん、じゃなくて、碇さん、なるべく早く寝て下さいね。

「はい、分かりました」

彼は目を閉じながらベッドに横になった。

「朝起こすの、最後にしてあげるね」

ついアタシはそんな風に言いながら、碇くんひとりだけの病室を出た。




3.告白

平日の夕方、彼女は制服姿で315号室に現れた。
彼女がやって来た時、アタシは碇くんとお喋りをしている所だった。

その日アタシは準夜勤といって、夕方から夜にかけての勤務時間についていた。
しなければならない仕事はまだまだあるけど、彼といるとつい時間を忘れてしまう。
彼女が来たことで、アタシはやっと自分の仕事を思い出した。

こんにちは、と言ってアタシは部屋を出て行った。

けれど、彼女と碇くんが、どんな話をするのかとても気になった。
アタシはちょっとだけ、中の様子を窺った。

「今日の調子はどーお?」

アタシがさっきまで座っていたスツールに腰掛けながら、彼女は言う。

「んー、まあまあかな」

碇くんは彼女に対しても同じ答えだった。

「ねえねえ、今日ね、今日ね」

彼女は碇くんに顔を近づけながら、楽しそうに言った。

「学校で、告白されちゃったの」

「ふうん」

「ふうん、じゃなくて、ちゃんと聞いてよ」

「聞こえてるよ」

碇くんは、ちょっとからかうような口調で言う。

「それで、何て返事をしたの」

「もちろん、ごめんなさいって」

「断っちゃったのか。かわいそうに、そのコ」

「だって、私には他に好きな人がいるもん」

「へえ、誰それ」

「何よー、分かってるくせに」

彼女は碇くんをぶつマネをして、恥ずかしそうに身をくねらせた。

「私はシンジ以外の男の人は目に入らないの」

「ぼくって、ずい分思われてるんだな」

「そうだよ。シンジのこと大好きだもん」

彼女は腕を伸ばして、碇くんの身体にしがみついた。

「あ、ちょっと、ぼくは患者なんだよ」

「いいでしょ、このくらい。シンジもギューってしてよう」

「誰かに見られたらどうするんだよ」

と言って彼がドアのほうを見たので、アタシはビクッとして身を引いた。

「大丈夫だよ。誰も見てないって」

部屋の中から彼女の声が聞こえる。

「もう、しょうがないなあ」

諦めた感じで碇くんが言った。

アタシはもう一度だけ、チラッと部屋を覗いてみると、
碇くんが彼女の背中に腕を回し、頭をなでているところが見えた。

すぐに視線をそらして、アタシは仕事に戻った。

正直言って、ガックリした。やっぱり彼女は碇くんの恋人だったんだ。
一瞬見ただけだったけど、とても仲良さそうに抱き合っていた。
羨ましいと思いながら、アタシは勝手に失恋してしまった気分になった。

仕事に戻っても、アタシはボーっとして意識が飛んでいた。
そして、彼のことばかりをずっと考えていた。

アタシ、彼のことが好きなのかな・・・・・・

そうだとしても、これは叶わない恋に終わっちゃうんだろうな・・・・・・

と、気持ちが沈んでしまい、仲間に声をかけられても気付かないといったこともあった。

就寝時間になって、アタシはそれぞれの部屋を回っていった。

意識的に315号室を避けて、他の部屋から回っていく。
そうすると、碇くんの部屋に回るのは順番的に最後になった。

「碇さーん、お休みの時間ですよ」

わざと明るい声で、アタシは声をかけた。

彼は寝る体勢ではなく、この前の深夜と同じようにボーっとしていた。

「あ、どうも」

ゆっくりとこちらに気がついて、彼は布団に潜り込もうとする。

「それじゃ、電気消しますね」

アタシは電気を消すと、そのまま部屋を後にしようと思っていた。
彼女のことを訊いてみたかったけど、それはやめて出て行こうとした。
すると、意外なことに彼が引きとめた。

「あの、惣流さん」

彼はアタシのことを名前で呼んでくれるようになった。
本当はうれしいことだけど、いまはそう呼ばれるのが憂鬱だった。

「はい」

「ちょっとだけ、話しをしませんか」

碇くんが、アタシを誘っている。といっても、ただの話し相手としてだけど。

「ダメですよ、就寝時間はちゃんと守って下さい」

アタシは少しムキになって断った。けど――

「お願いします」

彼はしつこくアタシを引きとめた。

「誰かがいてくれないと、何だか怖くて・・・・・・」

彼の弱音を初めて聞いた。きっと、あさっての手術を心配しているんだろうと思う。
だから、眠れなくてボーっとしていたのだろう。

入院している間に、彼はたくさんの検査を受けていて、いよいよ手術が明後日に決まった。
もともと心臓が弱い彼は、成人になってから体調が悪くなり、心臓疾患になってしまった。

心臓の手術は、まさに命に直結する作業だから、彼の気持ちもよく分かる。
でも、それほど複雑な手技ではないそうだし、これが成功すれば確実によくなるらしい。

オペが迫っているから、なるべく健康状態をしっかり整えておかなければならないけど、
やっぱり彼女のことが気になってしまい、アタシはスツールを出して腰掛けた。

「あのう、ひとつ訊いてもいいですか」

アタシは早速切り出すことにした。

「いつもお見舞いに来る女の子は、碇さんとはどういう関係?」

「えっ」

ちょっと訊きかたが直接的だったか、彼は目を大きく見開いた。

「何だか、とっても仲良さそうだから、碇くんの彼女なのかなって思ったりして」

「ぼくの・・・・・・彼女? ああ、なるほど、確かにそう見えるかもしれませんね」

「やっぱり、そうなの?」

「いやいや」

彼は手をパタパタと振った。

「あのコはぼくの妹なんだ」

「・・・・・・あ、そうなの」

アタシの声が上ずった。

「うん。といっても、義理の妹なんだけど」

「義理の?」

「ぼくのいまの母は、ぼくの父さんの再婚相手なんだ。あのコはその連れ子だよ」

「そうなんだ・・・・・・あの、碇くんのお母さんは」

言ってから、訊いちゃまずいことだったかな、と後悔した。
けど、彼は淡々と話を続けてくれた。

「ぼくがまだ中学生の時に、ぼくと同じ病気で母さんは亡くなったんだ。
とても優しい人だったから、いま思い出してもちょっと悲しくなるね

「ごめんなさい、アタシ知らずに・・・・・・」

「ううん、いいんだ。惣流さんには聞いておいてもらいたかったし」

「え?」

彼の後半の言葉が呟きのようになったので、アタシは訊き返した。

「あ、いや、何でもないよ」

と碇くんは言葉を濁して、話を妹さんのほうに戻した。

「妹は、名前をレイというんだけど、すごく甘えん坊で、いっつもぼくについてくるんだ。
高校生なんだけど、全然兄離れしてくれなくて、ちょっと困ってるんだけどね」

「なあんだ、そうだったの」

アタシは心底安心して、笑顔を取り戻した。

「アタシ、てっきり碇くんの恋人なんだとばっかり思ってた」

「あはは」

彼は妙に乾いた笑いを上げて、言った。

「確かに、ぼくのことが好きだなんて言ってくれるのは、妹だけだね」

「え、それじゃ、付き合ってる人とかいないの?」

「うん」

もしかして、いまがチャンスというやつなのでは・・・・・・とか思ったりして、
アタシは少し興奮しながら訊いてみた。

「ねえ、碇くんの好きなタイプってどんな人?」

「えっ、うーん・・・・・・ちょっと恥ずかしいな」

「聞いてみたいなあ」

「・・・・・・ぼくの好きなタイプは、子供の頃から変わってないんだ」

「へえ、子供の頃から」

「うん。子供の頃に好きだった女の子が、そのままぼくの女性像になってるんだ」

「すごーい、意外と純情だったりするんだね」

「そうなのかな、あんまり分からないけど」

「その好きだったコって、どんなコなの?」

「あ、えーと・・・・・・」

碇くんは口ごもって、うつむいてしまった。

「あの、その、実は・・・・・・」

うつむいたまま、彼はもごもごと口を動かす。言葉がよく聞き取れなかった。

「惣流さんなんだ」

「はい」

アタシは名前を呼ばれたんだと思って、はいと返事をした。

「その、そうじゃなくて」

彼は、ようやく聞き取れる音量で言った。

「ぼくが好きだった女の子っていうのは、惣流さんなんだ」

「は?」

何を言われたのかすぐに理解できなくて、アタシはとぼけた声を上げた。
そして徐々に彼の言ったことを理解して、顔が熱くなるのを感じた。

「こんなことを言うのは失礼だと分かっているけど、こうなったら言いますね」

彼は、黙って何も言えないアタシを見つめて、続けた。

「小学生の時、まだまだ子供の頃だったけど、ずっと惣流さんのことが好きだったんだ。
あの頃は遊ぶことに一生懸命だったけど、きみのことだけはとても気になっていた。
そして、ひょんなめぐり合わせでこうしてまたきみと会えることが出来た」

彼はアタシを「きみ」と呼びながら言った。

「ここで初めて君を見たとき、ぼくはすぐにきみがあの惣流さんだと分かった。
きみは小さい頃からとてもかわいらしい女の子だったけど、おとなになって、
もっとかわいく、キレイになったんだなって思った」

うれしかった。うれしくて、まだ何も言えない。

「それに、きみと話すようになって、とても優しい人なんだなって思ったら、
その・・・・・・毎日、きみが病室に来てくれるのが楽しみになったんだ。
つまり、あの、その、えっと・・・・・・す、好きなんだ」

何度もつっかえながら、彼はその言葉を言った。

男性のほうから告白されるのは、初めてだった。
だからすごくうれしかった。もう泣いてしまいたいくらいうれしかった。

けど、いきなり冷静な自分が現れた。

いままで、アタシは男性の見た目だけで判断して、ことごとくつらい思いをしていた。
今度も、碇くんの少年のようなかわいらしい容姿に引かれたのが初めだった。

それに、彼が知っているアタシは、ずっと小学生までのアタシだったから、
いまのアタシがどんな人間か、彼はほとんど知らないはずである。
もちろん、アタシも彼のことの半分も理解していないのだろう。

だから、今度もうまくいかないのではないか、という懸念に駆られていた。
このまま彼と付き合ったとしても、彼のほうがアタシに嫌気を覚えるかもしれない。
碇くんはとてもいい人だと思い込んでるけど、彼を知ると、イヤな面を見るかもしれない。

アタシはもう傷つくのは御免だった。

でも、もしかしたら彼となら・・・・・・うまくいくかもしれない。

そんな考えがフッと湧いたので、彼に返事をするのが遅れた。

「あの、惣流さん?」

いぶかしげな目で、碇くんはアタシを見つめていた。
それでも彼の頬は上気している。告白に相当の勇気を使ったのだろう。

「あ、アタシも・・・・・・」

とそこまで言いかけて、言ってしまおうかどうか一瞬悩んだ。
けれど、思い切ってアタシは言うことにした。

「アタシも、碇くんのこと・・・・・・好き、です」

アタシはそれから丸一日、顔の火照りを抑えることが出来なかった。




4.名前を呼ぶ声が聞こえる

シンジの手術が行われる日、アタシは日勤だった。
オペは朝早い時間から執り行われ、終わった時にはお昼を過ぎていた。

アタシはもう、心配で心配で、仕事も上の空だった。

執刀した先生が、シンジの家族にした説明によれば、オペは無事に成功したとのこと。
彼の妹のレイちゃんが、安堵のため息をついていたのを見た。
アタシも負けないくらいホッとした。

シンジの意識が戻ったのは、それから1時間経った時のことだった。
まだ面会は出来ないので、家族はみんなずっと待っていた。
アタシは病室担当の看護婦だから、彼の様子を見に行くことは出来なかった。

その内アタシの勤務時間が終わった。
寮には戻らず、シンジに面会できるまでずっと待つことにした。

午後の7時ごろになって、ようやく家族の面会が許された。
アタシはいまは無関係の人間だから、ICUに入ることは出来ない。

入れなくても、アタシとシンジは心がつながっていると信じて、
祈りながら寮に帰っていった。

自分の部屋に戻ると、安心と共に、うれしさと恥ずかしさが湧いてきた。

彼と気持ちを確かめ合ったあの日、彼は言った。

「もし、手術が成功したら、ぼくと結婚して下さい」

それは、あまりに唐突なプロポーズだった。
まだ、アタシとシンジは何も始まっていないのに、いきなり彼は言った。

たぶん、普通なら「えっ」と引いてしまうかもしれない。
けれどアタシはそのプロポーズを聞いた瞬間、運命を感じた。

もしかしたら、アタシはこの人と出会うために生まれてきたのかもしれない――

それは、いままでにない気持ちだった。
こんなに人を想ったのは、生まれて初めてのことだった。

その時、頬に冷たいものを感じた。触ると、濡れていた。
アタシは、涙を流していた。うれしくて、うれしくて泣いていた。

そしていまも、アタシは泣いていた。

よかった、ほんとうによかった、と喜びに満ちた涙だった。

涙を拭くことも忘れるくらい、今日は本当にホッとした。
ホッとしたまま、いつの間にかアタシは眠りについていた。

そして次の日の夜遅く、夜勤の仕事のため、アタシはナース服に着替えた。

申し送りでは、シンジはいまICUから一般病棟に移動して、状態も安定しているという。
アタシはまたまたホッとして、ようやく彼に会えるとあってうれしくなった。

ところが、彼は4人部屋ではなく個室に入っていた。
アタシが担当する部屋ではなかったので、仕事を理由に会いにいけるわけではなかった。

だから、部屋の見回りの合間にあるちょっとした休み時間の時に、
ちょっとだけ覗きに行くことにした。

軽くコンコンと戸を叩いてから、部屋に侵入した。まさに侵入という入りかただった。

彼は、ベッドですやすやと眠っていた。
さすがに術後からあまり時間が経っていないこともあって、顔色は良いとはいえない。
でも、キレイでかわいい表情はいつものままだった。

アタシはいけないとは思いながら、どうしても彼の手に触れたくなったので、
ベッドの隣にひざまずいて掛け布団の中に手を潜り込ませた。

彼の右手を探り当てて、アタシは両手で彼の手を包み込んだ。
冷たかったので、アタシの熱で温めてあげようと、たくさんさすってあげた。

顔は幼いけど、彼の手は細長くスラッとしていて、とても上品な手をしている。
アタシよりキレイな手をしているんじゃないか、とちょっと羨ましくなった。

肌も白くて、眠っているとまるで女の子みたいに見える。
アタシはどちらかというと、日焼けが黒々として男らしい人よりも、
彼みたいに美しく白い肌をしている男性が好きだった。

彼の手を、自分の頬に当てながらアタシは、ちょっとウトウトしてしまった。
気がつくと休み時間は終わっていて、もう仕事に戻らなければならない。

名残惜しかったけど、アタシは静かに部屋を出ようとした。

その時――

「うっ」

と、後ろで彼のうめき声が聞こえた。

「うっ」

ともう一度聞こえたので、アタシはちょっと気になってシンジの元に駆け寄った。

すると、シンジが顔を歪めて、胸の心臓あたりを引っかくように苦しんでいた。

「シンジ、どうしたの」

アタシは慌てて呼び出しブザーを鳴らし、この時間の常勤の先生を呼んだ。
自分が看護婦だということも忘れて、アタシはオロオロとしてしまっていた。

先生がやって来て、シンジの状態を調べると、心室細動だと言った。

アタシは目の前が真っ暗になった。心室細胞つまりは、心臓停止だということだ。
どうしてそうなってしまったのか、いまはまだ理由が分からないという。

とにかく、アタシは除細動器を急いで持ってきて、先生は電気ショックを与えた。

アタシは心臓マッサージを繰り返し、「下がって」の声で電気ショックが入る。
そのたびにシンジの身体がガクンと揺れ、アタシは見ていられなかった。
けど、シンジが助けることだけのに集中して、マッサージを続けた。

彼の胸に直接触れることを恥じている場合でなく、沈み込むように胸を押し込む。
つながれた心電図モニターは、その瞬間だけしか反応してくれなかった。

どうしよう、どうしよう、シンジが死んじゃう、とアタシはほとんど泣きながら、
彼を助けるために精一杯の努力を施した。

他のナースが数人やって来て、動揺しきったアタシに代わって、マッサージを続けた。
心臓が止まってから、30分が経つ。非常に危険な状態である。

処置の行われるそばで、アタシは泣きじゃくりながらシンジの顔を見つめていた。

(お願い、お願い、助かって、死なないで、お願いシンジ・・・・・・)

アタシは何度でも祈った。

(アタシのこと好きだって、言ったじゃない。結婚しようって、言ったじゃない。
お願いだから、アタシのために、アタシのために死なないで、シンジ)

何度拭っても、どんどん涙があふれてくる。
肩がしゃくり上がって、胸が上下し、声もヒクヒクと引きつる。

出会ってまだほんの少しの碇シンジが、死の危機にさらされているのを目の当たりにして、
アタシはどうしようもないほど、考えられないほど気が動転していた。

彼のことを何にも知らないまま、お別れしなければならないのかと思うと、
出てくるものは涙としゃくり声しかなかった。

アタシの彼を思う気持ちは、まるで神様がアタシを突き動かしたかのように、
日に日に強いものになっていき、いま、それが限界を超えようとしていた。

彼のためなら、アタシが代わりに死んでもいいと思った。
むしろ、あまりに動揺しすぎてアタシのほうの心臓も止まるかと思うほどだった。

さらに10分が経った。もうシンジは限界を超えたところにいる。

アタシの涙は枯れ果てていた。ただ呆然と、眼前の光景を眺めているだけだった。

けれど、心の中ではずっと祈り続けていた。
祈るというよりも、彼の名前をただ呟き続けるだけだった。

(シンジ、シンジ、シンジ、シンジ・・・・・・)

と、その時だった。

(アスカ)

急に、アタシの名前を呼ぶ声が聞こえた。

(アスカ)

もう一度聞こえた時、その声がシンジの声だということに気がついた。
シンジが、アタシの名前を呼んでくれてる。しかも下の名前で。

(アスカ・・・・・・)

3度目の彼の呼びかけが聞こえた瞬間、看護婦の「リズム戻りました」の声がかかった。
シンジの心臓が、また息を吹き返したのだ。

アタシの目に、再び涙が戻ってきた。

そして、手早く処置が行われ、何とか安定するところまでシンジの状態は戻った。
しかし先生によれば、まだ予断は禁物だという。

これを乗り切ることが出来れば、まず間違いなく安心だということだ。
つまり、今夜が峠だという意味である。

深夜に家族が呼び出され、先生はその旨を伝えていた。
アタシはひとまず安心したものの、まだ心配がなくなったわけではなかった。

アタシは思い切って、シンジの家族に事情を打ち明けた。
彼と婚約をしたということを言うと、案の定、驚きの表情を隠せないといった様子だった。

けれど、彼の両親はアタシのことを理解してくれた。
まだ何も始まっていないふたりの関係を信用してくれて、アタシは感動した。
でも、妹のレイちゃんは許してくれていなかったようだった。

アタシはレイちゃんのことを思って、部屋の外でシンジの意識が戻るのを待った。
婦長に事情を話すと、仕事のことはいいからと言ってくれたので、アタシはずっと待った。

そして、夜が明けた。

部屋の中でブザーを鳴らしたらしく、先生が中に入っていった。
アタシはドアの袖から中の様子を窺った。

レイちゃんが、泣いていた。

夜通しでずっとここにいたシンジの両親も、泣いていた。

アタシの目から、幾度目と分からない涙がこぼれ落ち、頬をつたっていった。




5.桜

「看護婦さん」

お年寄りの患者さんが、アタシに声をかけた。

「いやあ、きれいですね」

と言って、患者さんは窓の外に目を向けた。

外は、玄関前が望め、花びら舞い散る桜の木がそこここにたたずんでいた。
雪景色もキレイだったけど、花吹雪もまたいとをかし、といった感じである。

あれから4ヶ月が経った。いまは暖かな風吹く春うららかな季節だ。

病室に向かう廊下の途中で、アタシと患者さんは大きな窓の前に立っていた。
ここからの眺めが、どこよりもいちばんキレイに見える。

「ほんと、キレイですね」

アタシは心のそこからそう思った。

「私の家には、あれくらいの桜の木が一本だけありましてね」

患者さんは、そう言って桜に対する思いを語り始めた。

窓の脇にある長イスに腰掛け、アタシはその話を黙って聞いていた。

彼女は、桜の話になると饒舌になるのか、とても楽しそうに話してくれた。
聞いている内に、窓から見える桜がもっとステキなものに見えてきて感動した。

いま着ているナース服が桜色なので、自分がキレイになった気にもなったりして、
ちょっと誇らしく、また、ちょっと恥ずかしくもなった。

患者さんを部屋まで送り届けると、ちょうど昼休みに入ったので、
同僚のヒカリと一緒にいつもの地下食堂に行った。

「ねえ、アスカ」

決まった位置に向かい合って座りながら、ヒカリが言った。

「ちょっと悩み聞いてくれる?」

「悩み? いいわよ、お姉さんに何でも話してごらんなさい」

「実はね・・・・・・」

と、ヒカリは身をかがめた。アタシも合わせてヒカリに顔を近づける。

「私、カレにプロポーズされちゃったんだ」

「えーっ、なーんだ、良かったじゃない」

「しーっ、アスカ、もっと声抑えてよ」

ヒカリは口元に人差し指を当てて、周りをキョロキョロ見回した。

「どうして? 聞かれちゃマズイことでもないじゃん」

「だって、恥ずかしいでしょ」

「恥ずかしくないよ。おめでたいことじゃないの」

「そうだけど・・・・・・」

「で、それのどこが悩みなのよ」

「その、本当にカレと結婚していいものかどうか、と思って」

「ああ、マリッジブルーってやつね」

「それとはちょっと違うけど、まあ似たようなもんかな」

「カレとはどのくらいの付き合いなの」

「もうすぐ3年」

「へえー、それじゃ、もう相手のことは何でも知ってるって感じでしょ」

「うん」

ヒカリは照れながらうなずく。

「いったいカレのどんなところに引っ掛かりがあるわけ?」

「引っ掛かりっていうか、その、なんていうか・・・・・・」

「アタシはヒカリのカレの写真しか見たことないけど、結構いい人っぽいじゃない。
見た目もいい感じだし、優しそうな人だなって思ったけど」

「うん。確かに、男性としても、人間としても魅力のある人なんだけど・・・・・・」

「だけど?」

「経済的には、かなり平凡なの」

「何ヒカリ、そういう悩みだったの」

「だって、私はアスカみたいに仕事熱心じゃないから、結婚後は家庭につきたいの。
そういう時、やっぱりだんな様が経済的に余裕のある人のほうがいいでしょ」

「もー、何言ってんのよヒカリは。お金より愛のほうが大事に決まってるじゃない」

「うーん・・・・・・いまの結構恥ずかしいセリフだよ、アスカ。まあ、仕方ないけど」

「ヒカリ、ほとんど何でも知ってる仲になっても、カレのこと好きなんでしょ」

「うん、まあね」

ヒカリはそっけなく言ったけど、明らかにカレのことが大好きだとその顔が言っていた。

「だったらいいじゃない、何にも迷うことはないよ」

「でも・・・・・・」

「ヒカリ、カレはずっと長く付き合っていられるような人なんだから、
結婚した後も、きっといつまでも仲良しでいられると思うよ。それが幸せってヤツだよ」

「・・・・・・うん」

「お金だけが満たされている家庭より、幸せいっぱいの家庭のほうがいいでしょ。
男はお金じゃなくて、中身とちょっと見た目が良ければいいんです」

「・・・・・・うん、分かる。分かるけど、アスカがいうとあんまり説得力がないなあ」

「アタシが言うからこそ説得力があるんじゃない。カレのことはアタシが保証するよ」

「カレに会ったこともない人に保証されてもなあ」

「文句ばっかり言ってないで、受けちゃいなさいよプロポーズ」

「・・・・・・うん、そうしようかな」

「そうよ、そうしたほうがいいよ。アタシが祝福してあげるから」

「うん、ありがと、アスカ」

何だかいいことしたなあ、と良い気分になって、アタシは午後の仕事に向かった。

部屋を回る時間になって、アタシは315号室から順に回っていった。

4人部屋の315号室は、いまはすべてのベッドが埋まっている。
みんなおじさんかおじいさんだけど、みんなホンワカした人たちばかりだ。

でも、やっぱり呼ばれるのは「看護婦さん」である。
ちゃんと胸に名札をつけてるのに、名前では呼んでくれない。
もちろん下の名前で呼ばれるようなこともなかった。

そして、もう、この部屋には碇シンジはいない。

「碇さん、検温ですよ」などと言うことも、いまはもう懐かしいことだ。

そんなことを思い出しながら、アタシは部屋を回っていった。

「碇さーん」

ふと、そんな声が聞こえた。

それは、回想の中でアタシが言う声ではなかった。

「碇さーん」

2回目に聞いたとき、それは現実の声であることが分かった。
もちろん、アタシが言ったものではない。

あれは、アタシの名前を呼ぶ声だ。

廊下に出てみると、婦長がアタシに手招きをしていて、また呼びかけてきた。

「あ、碇さん、ちょっとちょっと」

何かヘマでもしたかな、などと思いながら、アタシは大きな声で返事をした。

「はあい」

外の桜の木が揺れるのを横目に見ながら、アタシは小走りで駆け出した。




終わり




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

このラストが書きたくて、お粗末なものを作ってしまいました。
かなり適当な描写が満載でございます。

これは一人称で書いたほうがいいと思ってそうしたのですが、
何とも難しくて、地の文がちょっと硬くなってしまいました。

書いた動機が単純なものだったので、ここに書くこともあまりありません。

ということで、ではではまたまた。


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woodyright@yahoo.co.jp

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ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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