■1 夏休みの到来は、あっという間だった。 その夏休みに入ってすぐ、いきなり両親が姿を消してしまった。 碇家・惣流家共に、である。 忽然といなくなってしまったわけではなく、ちゃんとそれには理由があった。 まず、子供たちが夏休みに入ったことが、そもそものきっかけを作っていた。 そして双方の父親が、それぞれ同時期に出張に発つことに決まって、 それと同時に母親たち2人だけの旅行計画が立った。 という非常にお粗末な展開があって、子供たちは家に取り残されてしまった。 「ご飯はどうしたらいいの?」 「お金置いとくから、自分たちで好きなようにして。アスカちゃんの分もあるからね」 出発前の、シンジとユイの会話である。 いい加減な母親だ、とシンジは少し呆れながら母を見送った。 そして、両親がいなくなった初日の夕刻―― 「ご飯、どうしようか」 レイが呟いた。 「どうしようか」 シンジも同調する。 昼は適当に家にあったカップ麺などで済ませられたが、夜はそうはいかなかった。 しかも、明日の昼の保障もないのだ。 「どうしよう」 アスカも言った。 家に1人きりになってしまうアスカは、朝からシンジの家に来ていた。 いまは、3人ともシンジの部屋でだるそうにしている。 ちなみに昼間はずっと3人で夏休みの宿題を片付けていた。 邪魔なものはとっとと終わらせて、心置きなく夏休みをエンジョイしよう、 と言い出したのはレイである。それに異論はなかった。 それぞれ相談しながら取り組み、今日だけで3分の1を消化した。 そしていまは、3人とも勉強に疲れて、だらーんとしたていである。 「ご飯作れる人ー」 レイが顔を窺いながら言った。が、誰も手を挙げない。 「作れない人ー」 3人とも頼りなげに手を挙げた。 「はあ」 そして同時にため息をついた。 「コンビニで何か買ってくればいいんでない?」 そういえば、という感じでアスカが言った。 「えー、夜はちゃんとしたご飯が食べたい」 「そういうワガママが言えるなら、自分で作りなさいよ」 アスカはそっけなくレイに言った。 「分かった。私が作る」 と言って、レイはすっくと立ち上がった。 「でも綾波、さっきご飯作れないって・・・・・・」 心配そうな表情で、シンジが訊く。 「人間、その気になれば何だって出来る。ご飯くらい何とかなるよ、碇くん」 「そうかなあ」 「疑ってないで、ほら、行こうよ碇くん」 「どこに?」 「下」 レイはすたすたと1階に下りていった。 シンジとアスカは顔を見合わせてから、すぐに後を追った。 レイは、冷蔵庫の中身とにらめっこしていた。 「綾波、何を作ろうと思ってるの」 「これを見て、碇くん」 レイはシンジの質問に答えず、冷蔵庫を大きく開いてみせた。 シンジとレイが隣に並んで、その顔の間からアスカが顔を覗かせる。 冷蔵庫の中身は、飲料以外ほとんど何もなかった。 家を離れるから、ユイはなるべく冷蔵庫に残さないように気をつけていた。 だから、昨日の夕飯で残り物のほとんどを処理していた。だから、何もない。 普段は買い置きしてある野菜も、いまは姿をなくしていた。 だが、それにしても、何もなさ過ぎである。シンジとアスカは呆然とした。 「何にもないでしょ」 冷静な口調でレイは言う。 「朝から冷蔵庫開けてるはずなのに、中身がないのに気付いたのはいまが初めてよ。 よっぽど私たちが手を入れられる前の食べ物に興味ないかが分かるね」 「どうするの?」 自分で考えるのが苦手なシンジは、他人任せに訊いた。 「つまり、買い物に行くってことね」 アスカが答えると、レイは黙ってうなずいた。 「よーし、それじゃあ、アタシとシンジで行ってくるから、レイは留守番ね」 「えーっ、どうしてぼくが行かなきゃいけないんだよ」 「重い荷物を持つのは男の仕事でしょ」 「そんなあ」 「待って、アスカ」 冷蔵庫を閉めると、レイは言った。 「私と碇くんで行ってくるから、アスカがお留守番してて」 「どうしてよー」 「だって、私が作ることにしたんだよ。材料も私が選ぶの」 「必要な物を言えば、ちゃんとそれを買ってきてあげるわよ」 「ダメ。私が行くの」 「いいえ、アタシよ」 「私です」 「アタシです」 「私」 「アタシ」 「・・・・・・キリがないから、碇くんに選んでもらおうか」 「そうね。シンジ、どっちと一緒に行きたい?」 矛先がいきなり自分に飛んできて、シンジは「えっ」と身を引いた。 「私とがいいよね、碇くん」 レイは微笑みながら言う。その笑みは、シンジには恫喝の色を含んでいるように見えた。 「もちろん、アタシと一緒に決まってるわよね」 対してアスカは睨むような目をしているが、どちらも同じようなものだった。 「さあ」 「さあ」 さあ、どっちがいいの、と詰め寄られ、シンジはどんどん縮こまる。 「えっと、その・・・・・・」 すでに目を合わせられなくなり、シンジはうつむいて言った。 「3人で行くっていうのはどうかな」 言った後、確認をするために2人の顔をちょっと覗きこんだ。 「うーん・・・・・・」 何を悩む必要があるのかと思いながら、シンジはレイを見つめた。 「3人はダメ。やっぱりどっちか選んで、碇くん」 「えー・・・・・・それじゃ、ジャンケンってのは」 「ジャンケンはダメよ」 アスカが抗議する。 「アタシが負けるに決まってるもん」 「そんなの分からないじゃないか」 「何よ、アンタ。アタシがジャンケン弱いの知ってるくせに。 あ、そっか、アタシとは行きたくないんだ。ほんとはレイと一緒がいいんだ」 「そんなこと言ってないってば」 「言ったも同然よ」 「それじゃ、ジャンケンも却下ね。で、碇くん、他に提案は?」 あくまでもレイはシンジに決めさせようとしていた。 「どうしてぼくが決めなきゃならないんだよ・・・・・・ふたりで決めてくれればいいのに」 「アンタは行くことが決まってるんだから、パートナーを選ぶのはアンタの役割でしょ」 相変わらずアスカはシンジを見据えながら言った。 シンジはそこで、いまのアスカの言葉をヒントにして考えた。 ぼくが行くのは決定事項。 ↓ 他のどちらかからパートナーを選ばなければならない。 ↓ うーん、難しい。 ↓ さて、どうしよう。 ↓ ああ、ダメだ、決められません、ごめんなさい。 こうなってしまうのなら、最初の時点でいきなり覆してみてはどうか。 つまり、シンジが留守番をすることにして、アスカとレイに買い物に行ってもらうわけだ。 そして、この内容を話してみた。だが―― 「アンタ、そんなのダメに決まってるでしょ」 「はい、却下ね」 即刻却下されてしまった。 「じゃあ、どうしたらいいんだよー」 なかばヤケになってシンジはわめいた。 「どっちか決めればいいことでしょ。早くしなさいよ、もー」 アスカがため息をつきながら言う。 「とっととしないと暗くなっちゃうでしょーが」 それもそうだと思いながら、シンジはカーテンの向こうを覗いてみた。 夏だから、夕方の5時6時でも空は明るい。いまもまだ明るいままである。 窓のほうを向くことで、意識的に2人に背を向ける恰好を取っていた。 微笑むレイの顔と、睨むアスカの顔を見たくないからだ。 「碇くん、どっちがいいの?」 近くでレイの声が聞こえた。ほとんど耳元といっていいくらいの近さである。 「シンジ、早く決めて」 反対側の耳元で、アスカの声が響いた。 どうしてこんなことにずっと悩んでいないといけないのか、とシンジは疲れてきた。 もう、どっちでもいいやと思いながら、後ろを振り向く。 先に見えたのは、綾波レイのほうだった。 シンジはそれだけの理由で、レイにしようと決めた。 「じゃあ、綾波と一緒に行くよ」 「ほんと?」 レイのわざとらしい微笑みが、本当の笑みに変わった。 同時に、アスカのしかめ面が、悲しげな、敗北感漂うしょげ面になった。 シンジがアスカのほうをチラッと見ると、彼女はパッと顔をそらして、 「アタシを独りにするんだから、とっとと帰ってきなさいよ」 そう言って、リビングのソファに腰を下ろした。 「それじゃ、行こっか、碇くん」 レイはうれしそうにシンジを見つめた。 アスカは悔しそうにレイを睨んだ。 シンジはどうしたものかとため息をついた。 ■2 シンジたちが買い物に出かけてから30分が経った。 きっと、歩いて5分程度の距離にあるスーパーに行っているだろうから、 あと10分かそこらで帰ってくるだろう。しかし、それが長かった。 アスカは、シンジの部屋で、シンジのベッドの上でいろいろと身体を動かしていた。 うつ伏せになったり、仰向けになってみたり、マクラを抱いてみたり、 起き上がってスプリングに身体を揺らしたり、腰掛けてボーっとしたりした。 その間、アスカはずっと呟いていた。 「どうして」 と。 どうしてシンジはレイを選んだのだろう、とそればかり考えていた。 (どうしてレイなの) (どうしてアタシじゃないの) (アタシのこと嫌いなのかな) (アタシ、嫌われちゃったんだ) (・・・・・・・・・) (ヤダ) (そんなのヤダ) (・・・・・・思い込み) (きっとアタシの思い込みだわ) (そうよ、シンジがアタシのこと嫌いなわけがないじゃない) (アタシがこんなに想ってるんだし) (でも、どうしてシンジはレイを選んだんだろう・・・・・・) (もしかして) (もしかして) (もしかして) (もしかして・・・・・・) (イヤよ、そんなの) (ダメダメ、そんなこと考えちゃダメ) (そんなことあるわけないじゃない) (・・・・・・でも、あのコはどう思ってるんだろう) (好きなのかな) (この間、好きって言ってたっけ) (ほんとかな) (ほんとだったら、どうしよう) (アタシ、負けちゃいそうだな・・・・・・) (ううん、何考えてんのよ、アタシ) (あんなコにとられてたまるもんか) (シンジをモノにするのはアタシのほうよ) (・・・・・・モノにする、だって。恥ずかしー) (恥ずかしがってる場合じゃないわ) (絶対レイには負けない) (いまは仕方ないけど、帰ってきたら、もうあのコには渡さないんだから) (そうよ、いまはちょっとだけ貸してあげてると思えばいいのよ) (どうせすぐにアタシのもとに帰ってくるだし) (そうだ、どうせうちに帰っても独りだから、こっちで寝ようかな) (そんでもって、みんな寝静まったところで、シンジの部屋に行って・・・・・・) (こっそりベッドにもぐり込んで・・・・・・) (添い寝なんかしちゃったりなんかして・・・・・・) (そう、これよ、これ。これで行こう) (ぐふふふ・・・・・・) 「ただいまー」 アブナイ考えで満たされていたアスカは、シンジの帰宅によって現実に引き戻された。 「ただいまー」 続けてレイの声も聞こえた。 「おかえりー」 妙に明るい声で、アスカは階段を下りながら言った。 「結構いっぱい買ってきたのね」 テーブルにドサッと置かれたスーパーの袋2つを見て、アスカは言った。 そしてその袋の中身を見ながら、アスカはひらめいたものを言葉に出した。 「もしかして、カレー?」 「イエス」 レイが答える。 「あんた、カレー作れるの?」 「たぶん」 「頼りないなあ、その返事」 「でも、1回だけ作ったことあるんだよ」 「へえ」 「小学生の時に、家庭科の授業で・・・・・・」 なぜか、レイの声が少しだけしぼんだ。が、アスカは安心して言った。 「ふうん、だったら大丈夫かもね」 「でも、私は野菜を切っただけなの」 「なあんだ、そうなの。それじゃ作ったとはいえないじゃない」 「うん。でも、私、頑張るよ。碇くんも手伝ってくれるっていうし」 「何だって」 シンジが目をむいた。 「ぼく、そんなこと言ってないんだけど」 「えっ、でもさっき、手伝うよって言ってくれたじゃない」 「それは、荷物を持つことを手伝うという意味で・・・・・・」 「碇くん、あれはうそだったの? 手伝ってくれるっていうのはうそだったの?」 「だからあれは・・・・・・」 シンジは弁解しようとするが、レイは聞かずに目元を手で押さえた。 「えーんえーん、碇くんのうそつきー」 それは明らかに泣きマネだったが、シンジは何となくバツが悪くなって、結局、 「わ、分かったよ、手伝うよ」 と折れると、案の定レイはパッと顔を明るくして、 「よかったあ、碇くんやさしー」 と即刻、笑顔を取り戻した。 シンジが帰ってきたら自分のペースに巻き込んでやろうと思っていたアスカは、 早くも出し抜けをくらった形になっていた。 (これはマズイ・・・・・・) 「はい!」 アスカは勢いよく手を挙げた。 「はい何ですか、惣流さん」 学校の先生のようにレイが訊く。 「アタシもお料理のお手伝いをしたいと思います」 「そうねえ・・・・・・」 右頬に片手を添えて、レイは少し考えた。あまり子供っぽい仕草ではない。 「それじゃ、惣流さんにも手伝ってもらいましょうか」 実は、最初からそのつもりだったのだが、レイはわざと答えを遅らせて言った。 作ったことのないものを、いきなり1人でやれなど無理な話である。 1人で勝手に無能を露呈するのもシャクなので、暗に助けを求めたのだった。 時刻は、夕方の5時半を過ぎていた。 ■3 まさか、カレーの作り方のような冗談みたいなものが載っている本など、 あるわけないだろうと思いながら、シンジはひとつの料理本を見つけた。 かなり厚めの冊子に、もう、大抵の料理は網羅しているのではないかというほど、 たくさんのレシピが優しく書いてあるものが載っていた。 その本はところどころページが切り離れていたり、色褪せてボロボロだった。 きっと、結婚当初の母の必需品的お料理マニュアルだったのだろう。 カレーの作りかたのほとんど一から分かっていないリトルコック3人組は、 それを見ては作業、見ては作業を繰り返し、何とか形になったものを作り上げた。 アスカとレイの指が、バンソーコーだらけになったこと。 指を切って慌てふためく2人の傷口にそれを貼り付けるシンジの姿。 シンジと手が触れて顔を赤くするアスカの表情。 ありがとうと言って笑顔でシンジに抱きつくレイ。 それを見て気を悪くするアスカ。 アスカを見ながら面白がるレイ。 そうして何だかんだいって主に作業をするハメになったシンジ。 おおざっぱ過ぎる特大のジャガイモ。 細かすぎてとろけてしまったニンジン。 かたくて見た目にも辛そうなタマネギ。 ちゃんと火が通っているのか心配な鶏肉。 色のついた水という感じのカレー。 溶けきっていないルーのかたまり。 芯が残って硬すぎるご飯。 しかし、見た目だけは一見まともなチキンカレー。 「大丈夫、大丈夫」といいながら同時に口に運ぶ3人。 直後に、同時に眉間に皺を寄せる3人。 すぐさま水を一気飲みする3人。 苦笑いと、痛々しい表情を交互に浮かべながら何とか食べきる3人。 鍋の中にまだまだ残っているカレーを見て、呆然とする3人。 食べ物に対して「ごめんなさい」と謝る3人。 「もったいないお化けが出ませんように」と祈りながら処分する3人。 少しだけ後悔を残しつつ、引きつった笑みを向け合う3人。 そして、大きなため息をつく3人。 などという展開は、どれもこれも言うまでもないことであった。 一連の作業から食事にたどり着いた時にはもう8時を回っていたため、 3人とも空腹が限界まで来ていたので、一杯だけはかろうじて食べることが出来たが、 とてもおかわりを出来る代物ではなかった。 たいしたことをしなかったくせに、アスカもレイもカレーの不出来をシンジのせいにし、 その理不尽さになかば逆ギレの形でシンジは自分の部屋に下がってしまった。 * * * 「まったく、何だよふたりともぼくのせいにして」 ベッドに横になりながら、シンジはいらだちを吐き出した。 そもそも、母親が食事を作ってくれて、それに対する感謝もままならないまま、 食べ物を胃に流し込む毎日を送っていたシンジは、調理に対してまったくの無関心である。 だから、学校の家庭科の授業で調理実習をするくらいの経験はあるが、 それも結局はただ眺めているだけに終わり、実際は料理など何も出来ないに等しいのだ。 きっと目玉焼きを作ろうとしても、それがスクランブルエッグに変わるだけならまだマシだが、 勝手にフライパンの上で真っ黒焦げの不気味な物体になってしまうのがオチであろう。 そんな碇シンジを先頭にして、カレーなどという大それたものを作ろうなど、 10年、いや100年早かったのだ。 私が作ると言い出した綾波レイは、自分で傷だらけにした指を理由に、 ただ見てるだけという役回りに徹してしまったし、 アスカは自分と同様まったくの役立たずといってよかった。 「綾波はぼくにくっつき過ぎなんだよ」 独り言というより、事実を確認するかのようにシンジは呟く。 レイは作業をやめてから、ひたすらシンジのそばに寄り添うようにしていた。 ハッキリ言って、邪魔といえば邪魔だった。 けれど、あんまり近寄られすぎて、シンジはちょっとだけ興奮を覚えてしまった。 奪われた左腕にからみつくレイの両腕のあたたかさ。 肘に思い切り感じる彼女の胸の柔らかい感触。 あのう、当たってますが、と言いたげに軽くレイを押し返すも、 さらにきつく抱きついてきてしまい、ますますこちらは照れてしまった。 何となくその左肘をなでながら、シンジはその感触を思い出そうとしていた。 もう、さっきまでのいらだちはどこかへ飛んでしまっていた。 レイはよく、シンジの腕を取ってくることがあるが、いつもは横に並んでいる時だった。 さっきのように後ろから抱きつかれると、ああいう感触があるのか、などと思いながら、 シンジは顔を赤くした。 部屋に独りでいる時は、どうしてもそのテの想像をとめる手立てが見つからない。 シンジはベッドの上でウロウロと悶えながら、気を静めようとした。 が、どうしてもその感触がチラつく。 その内、アスカのはどんなだろう、などと考えてしまったりする。 いまはちょうど夏だから、女の子も平気で薄着になる季節だ。 アスカも結構ピチッとしたTシャツを着ることが多いから、形がおのずと分かってしまう。 シンジは想像を膨らませるために目を閉じた。 アスカの顔が浮かぶ。笑顔を向けている。とてもかわいい。 どくん、と心臓が大きく鼓動を打つ。 視線を下げると、肢体が露わになった薄着の身体が見えてきた。 鼓動がだんだんと早まってくる。 シンジの目――想像の目――は、アスカの胸元一点に集中した。 Tシャツの上からでも、大きさが充分に分かる。 体中が波打つような大きな鼓動を感じる。 「ねえ、シンジ」 想像の中のアスカが呼びかけてきた。視線をアスカの顔に戻す。 「見せて、あげようか」 頬を赤く染めて、アスカが胸元に手を当てた。 シンジはゴクリと唾を飲み込んで、コクリとうなずく。 アスカは手を交差してTシャツの裾を持ち、一気にそれを脱いだ。 心臓が喉から飛び出してしまいそうになった。 アスカは、上はブラジャーを着けただけで、下はショートパンツという恰好になった。 ドキドキドキドキと耳元でうるさく鼓動が聞こえる。 「見たい?」 アスカは確認してきた。 シンジは彼女のその部分を凝視したまま小刻みに何度もうなずく。 「シンジのエッチ」 と妖しげな笑みを浮かべながら、アスカは後ろのホックに手を掛けた。 それが取れると、まず左肩のヒモを腕にダランと垂らした。 そろそろシンジの心臓は止まってしまいそうな勢いである。 アスカはもう片方の、右肩のヒモを垂らし、カップを両手で押さえた。 手を離せば、ブラが落ちて、もう見えてしまうところまできていた。 シンジの興奮は限界を超えようとしていた。 と、その時―― 「あんたが邪魔するからいけなかったんでしょ」 というアスカの怒鳴り声が聞こえて、シンジはバッとベッドを飛び起きた。 いま聞こえた声は、想像の中のものではなく、実際の声だった。 何とか現実に戻ってきたものの、シンジはドキドキがまだ残っていた。 数回深呼吸をして、ようやく落ち着いたところで、シンジは下の様子を見に行った。 * * * シンジが2階に行ってから、少し沈んだ雰囲気のリビングにて、 アスカとレイの2人だけでテレビに目をやっていた時のこと。 「あ、そうだ、お風呂入れないといけないんだった」 ポツンとレイが呟いた。 「どうせ暑いんだし、シャワーでいいんじゃないの」 テーブルの上にあごを乗せ、だらしない恰好のままアスカが答える。 「でも、私はお風呂のほうが好きなの」 レイの姿が風呂場のほうに消えていく。 程なくしてレイは戻ってきた。ソファに座ると、別のことを呟く。 「やっぱり、碇くんに謝りに行ったほうがいいよね」 「・・・・・・アタシも同じこと考えてた」 「さっきはちょっと言い過ぎちゃったし」 「うん。ほんとはレイが悪かったのに、全部シンジのせいにしちゃって」 アスカの言葉に、レイは「何だって」といった表情で言い返した。 「アスカだって適当なことばっかり言ってたくせに」 「何よ、シンジの足引っ張ったのはあんたでしょ」 アスカが立ち上がると、レイも一緒に立ち上がって顔を向け合った。 「違うよ、私はずっと碇くんのそばにいただけだもん」 「近寄りすぎて邪魔になってたじゃない」 「アスカこそ、これ出来なーい、あれ出来なーいって言って碇くんに構ってばっかり」 「アタシお料理なんてしたことないんだもん、出来なくて当たり前でしょ」 「それは碇くんだって同じよ。アスカがいちいち碇くんに構うからいけなかったんだ」 「あんたが邪魔するからいけなかったんでしょ」 「アスカのせいだ」 「レイのせいよ」 「アスカだ」 「レイよ」 このままではよもや取っ組み合いの喧嘩になってしまうかのような勢いでふたりは睨み合う。 と、その時だった。 「もう、うるさいなあ、ふたりとも」 シンジが顔をしかめながら1階に下りてきた。 「2階まで聞こえたよ、ふたりの声」 アスカとレイは「あっ」と言ってバツが悪そうにうつむいた。 「いったい何の騒ぎだったの。大きな声出して」 ふたりはうつむいたまま答えなかった。 と、シンジの発言に矛盾を感じたアスカが口を開いた。 「ねえ、シンジ」 「なあに」 「ほんとに聞こえたの、アタシたちの声」 「聞こえたよ。よそにも充分聞こえちゃってたんじゃないかな」 「そんなにうるさかった? アタシたち」 「まあね」 「なのにどうして、何の騒ぎだったの、なんて訊くの?」 「あっ・・・・・・」 シンジは答えに窮した。まさか、アスカのことを想像していたなどとは言えない。 「それは、その・・・・・・」 シンジがまごついていると、彼の気持ちを知ってか知らずか、レイが言った。 「碇くん、さっきはごめんね」 「えっ、あ、ああ、あれね、いや、もう気にしてないよ」 藁にもすがる思いでレイに食いつくシンジ。それを見てアスカは余計にいぶかしがる。 「ねえねえ、アタシの質問に答えてよ」 「えっ?」 「とぼけてないでさ、ちゃんと言ってよシンジ」 「何を?」 「だから、どうして何の騒ぎだったの、って訊いたのかをよ」 「ええと、それはね・・・・・・」 と言いながら、シンジは言い訳を必死に考えた。 「もしかして、言い訳考えてない?」 「考えてない、考えてない」 鋭いアスカの指摘に、シンジは急いで首を振った。 「ええとね・・・・・・あ、そうだ」 ようやくまともな言い訳を思いついたシンジは、思わず「あ、そうだ」と言ってしまった。 言ってからすぐに失言に気がついて、サッとアスカから目をそらす。 「あ、そうだ、ってどういうこと?」 もちろんアスカはしっかりと訊き咎める。 「いや、つまりね」 何とか追及をかわそうとして、シンジはムリヤリ作り話を始めた。 「2階に上がってから、ベッドに横になってたんだよ。それで、ちょっとウトウトして、 で、下から聞こえてきたアスカの怒鳴り声で目を覚まして・・・・・・」 「ふうん」 アスカの目は明らかに信じていない目であった。 「とかなんとか言って、どうせいやらしいことでも考えてたんじゃないの」 「えっ!」 おそらく、単なる推測で言ったのだろうが、アスカの発言はシンジを戸惑わせた。 「えーっ、碇くん、1人でエッチなこと考えてたのー?」 ずっと黙っていたレイが、面白そうに言った。 「やっぱり碇くんも男の子なんだね。お母さんは安心しましたよ」 何だよ、お母さんって、と心の中でツッコミながら、シンジは情けない顔でうつむいた。 ■4 「最初はグー、ジャンケンホイ」 最初の掛け声はレイが言った。ふたりの初めの手はどっちもパーだった。 「あいこでしょ」 あいこの掛け声はアスカが言う。 「あいこでしょ。あいこでしょ。あいこでしょ。あいこでしょ。あいこでしょ・・・・・・」 「ちょっとタンマ、アスカ」 チョキを出したまま、レイがタイムアウトを取った。 「何よ」 同じく手をチョキの形にしたまま、アスカが顔を上げる。 「もう一回最初からやり直そうよ」 「そうね。あいこが出過ぎよ。どうしてこんな時だけレイと気が合うのかしら」 「知らない。じゃ、もっかいいくよ。最初はグー」 試合再開の鐘をレイが鳴らす。 ふたりの様子を、シンジは少し遠くから、何だろうという顔で眺めていた。 「ジャンケンホイ」 「あっ」 今度は、たったの1回で勝敗が決まった。 「やったあ、私の勝ちー」 笑顔で勝利を宣言したのは、レイだった。 「はいはい、アタシの負け」 チッと舌打ちをし、アスカはふてくされ顔で続けた。 「さっさと入っちゃいなさいよ。アタシも汗かいてるんだから」 「はあい」 うきうき顔でレイは返事をし、脱衣所のほうへ行った。 「ねえ、何のジャンケンだったの」 シンジがアスカに訊く。 「お風呂がどうかしたわけ?」 「どっちが先に入るかを決めてたのよ」 アスカは、ソファに座るシンジの隣にゆっくりと腰掛けながら答える。 「アタシもあのコもお風呂に最初に入るのが好きらしいから」 「ふーん」 何だ、そんなことか、と言いたげにシンジは気のない相槌を打った。 「アンタ、いまちょっとバカにしたでしょ」 「し、してないよ」 図星だったので、シンジはちょっとどもった。 「いいえ、してました。アタシの目と耳はごまかされないわよ」 「してないって」 「うそよ。なあんだ、そんなことかよ、っていう顔してたじゃん」 「してないしてない」 シンジはあくまでシラを切り通そうとする。 「ほんとかなあ」 アスカはシンジに顔を近づける。その迫力に押されてシンジは身を引いた。 それでも彼は否定することをやめない。 「ほんとだってば」 「ねえ、シンジってどういう女の子がタイプなの」 アスカはいきなり話題を変えた。 「え、何だって」 あまりに突然だったので、シンジは思わず訊き返す。 「女の子が、何?」 「だから、アンタの好きな女の子のタイプを訊いてるの」 「どうしてそんなこと訊くんだよ」 「知りたいからよ」 「どうして知りたいの」 「まあ、後学のためよ」 「コウガクって何?」 「もう、いちいち訊き返さないで、早く答えなさいよ」 「えーっ・・・・・・」 「さあさあ」 尻をすり寄せながら、アスカはシンジを追いつめる。 「ぼくは別に好きなタイプなんて・・・・・・」 「ないとは言わせないわよ」 「・・・・・・・・・」 「ねえ、どういうコが好きなの? 3バカでそういう話はしないの?」 「3バカ? 何それ」 「ま、それは置いといて、質問にちゃんと答えてよ」 「うーん・・・・・・」 「分かった、シンジのためにもっと分かりやすい質問に替えてやろう」 まだ解放されないのか、とシンジはうなだれた。 「アンタ、好きな人いるの?」 アスカは本当に分かりやすく、直接的な質問に切り替えてきた。 心なしか彼女の頬は赤みを帯びている。 「・・・・・・いないと言ったら?」 「そんなのダメよ。ちゃんと言いなさい」 だんだんアスカの声が低くなってきて、ドスのきいたそれに近かった。 「言うまでこの手を離さないぞ」 アスカはシンジの腕をきつく握り締める。カッコ悪いので、シンジは痛みを訴えなかった。 「でも、ぼくに好きな人がいたとしても、どうしてアスカに言わなきゃいけないんだよ」 「アタシはそういうこと知っててしかるべき人間なの。アンタは言う義務があるわ」 まったく論理的でない理屈を持ち出して、アスカは自信満々に言う。 「だから、とっとと吐いちゃいなさいよ」 「えーっ、何だよそれ」 もちろんアスカの言い分など通用するはずがない。 「だったら、アスカが先に言ってよ。アスカが言ったらぼくも言うから」 その切り替えしかたは、実にうまかった。 「う・・・・・・」 あっさりと「ダメよ」と言われるかと思ったら、アスカは黙り込んでしまった。 シンジの好きな人は聞きたいけれど、自分のことは口が裂けても言えないらしい。 ようやくシンジは逃げ口を見つけることに成功した。 と、思ったら―― 「分かった」 アスカが呟いた。 「言えばいいんでしょ。アタシが言ったらシンジも言ってよ」 「え、え、え・・・・・・」 しまった、とシンジは思った。アスカに開き直られてしまった。 「アタシの好きな人は・・・・・・」 アスカは早くも告げようとする態勢に入った。そして―― 「し・・・・・・」 「ふひゅーっ、さっぱりしたあ」 アスカが言いかけた瞬間、レイがバスタオルを巻いただけという大変な恰好で現れた。 「やっぱり一番風呂だよねー・・・・・・って、何してんの、ふたりとも」 ソファに並んで、ほとんど肩をくっつけた状態で座るシンジとアスカを見て、 レイはキョトンとした。特にアスカは顔が真っ赤である。 「な、何でもないわよ」 怒ったように叫ぶと、アスカは一目散に脱衣所のほうへ逃げていった。 「へんなの」 目で後を追ったレイは首をかしげながら呟く。 そしてパッとシンジのほうに向き直ると、にこにこしながら近づいた。 「い・か・り・くーん」 「な、何だよ綾波・・・・・・」 シンジはレイの顔とバスタオルを巻いた身体を交互に見やった。 その布の下がどうなっているのか、とても気になるところであった。 以前もレイが同じ恰好でシンジをからかったことがあったのだが、 その時は下に短いパジャマを着ていたので、いまもきっとそうだろうと期待した。 もしもタオルの下が裸だったら、気が気でいられないような気がしたからだ。 期待はしたのだが、どうも、白地のバスタオルの下に透けている色が、肌色のようだ。 ということはつまり、レイは裸の上にタオルをまとっただけの姿・・・・・・ 「あ、綾波、ちゃんと着替えてるよね」 慌ててシンジは訊いた。 「うふふ、それはどうかなあ。見てからのお楽しみだよ」 一見楽しそうだが、いまのシンジには楽しめる余裕などなかった。 「ちょ、ちょっと待ってよ、もしかして何も着てないの?」 「さて、どうだろうねー。このバスタオルを取ってみれば分かるんじゃない?」 と言ってレイはタオルの上部、つまり胸元辺りの裾に手をかけた。 風呂場でバンソーコーを取ったのか、指のたくさんの小さな傷が見える。 「あ、ちょっと、ダメだよ綾波」 シンジはもはや、うろたえるばかりである。 「ねえ、女の子の裸、見たことある?」 ブルブルと小刻みにシンジは首を左右に振る。 「見てみたい?」 シンジは同じ動作を繰り返す。 「えーっ、私の裸なんか見たくないっていうの?」 思わずシンジは三度、同じように首を振った。 これではレイの裸が見たいと言ってしまったようなものだ。 「碇くんになら、見せちゃってもいいかなあ」 レイはピッタリと身体に密着したタオルを引き離し、胸元の上部を露わにした。 アスカがレイに代わったことは違えど、さっきの想像と同じような展開である。 シンジは目のやり場に困るという素振りを見せる余裕すら失って、 ただただレイの身体の一部に見入っていた。 もう少しタオルを下げたら、すべてが見えてしまいそうだった。 が、レイは急に両腕で自分の胸を抱えた。 「やっぱりやーめた」 そしてくるっと身を翻して、脱衣所に行ってしまった。 「期待させてごめんね」 と明るい声で言い残して。 シンジはホッとするのと同時に、余計に興奮を覚えてしまった。 レイが脱衣所に戻ったということは、やはりタオルの下は裸だったというわけだ。 バスタオル一枚隔てた先に、綾波レイの素肌があったという事実を知っただけで、 シンジは無性に顔が熱くなるのを感じた。 だが、ことあるごとに動揺してばかりで、いい加減に疲れてしまった。 アスカが風呂を出たら、とっとと自分も入って、さっさと寝てしまおうと思った。 しかし、夏休みの夜は、まだまだ終わらない―― ■5 アスカはキチンとこちらに自分の着替えなどを持ってきていたので、 風呂から上がると寝巻きのTシャツに短パン姿でリビングをうろついていた。 まだ髪の毛が湿っていて、明かりに反射してキラキラと赤髪がきらめいている。 すれ違いざまに匂ったリンスの香りが、とても魅惑的だった。 風呂上りの身体はまだ上気していて、彼女の身体の匂いも漂ってきた。 女の子って、どうしていい匂いがするんだろう、とシンジは不思議に思った。 そういえば、風呂上りのアスカにお目にかかるのは、これが初めてだった。 というのは実はうそで、もっと幼い頃に何度か一緒にお風呂に入ったこともあった。 そんなことはお互いに覚えていないので、ほとんど初めての感覚である。 まさに水もしたたるといった感じで、アスカが一段と妖艶に見えた。 これは、綾波レイに対しては湧き起こらない感覚である。 いや、正確には、彼女が家にやって来て初めの頃はそうではなかった。 女の子の風呂上りの姿など、もちろん見たことがなかったからである。 だが、一緒に住んでいるうちに、いつの間にか慣れが生じていた。 当たり前だが、さっきのようなことはいつまで経っても慣れることではない。 綾波レイがここへやって来てからまもなく1ヶ月が経とうとしている。 彼女は、もうほとんど、いや、もう完璧に碇家の家族になっていた。 シンジ以上に、レイのほうがここでの暮らしに慣れているといってもいいくらいだった。 特に彼女が先ほどのような挑発的な態度を取りさえしなければ、 たいていのことなら気兼ねなくレイと接することが出来る。 だが、シンジは忘れていなかった。 彼女が家に来たその日の夜、父・ゲンドウに言われたあのひと言を―― 「いいか、シンジ。私は彼女をお前の結婚相手と考えている」 時折それを思い出してしまうと、どうしてもレイを女の子として見てしまった。 家族ではなく、ひとりの女の子として。 父は、明らかにレイをひいきにしているフシがある。いや、実際そうだ。 ありていに言えば、父はレイのことが好きなのだ。まず間違いないだろう。 シンジは、いままで特に気にしていなかった寡黙な父を、たまに観察していた。 すると、意外と父が目を動かしていることに気がついた。 その視線の先は、大抵、綾波レイがいた。 彼女を見る目つきが信じられないくらい穏やかだったので、シンジは驚いた。 きっと、アスカですら気付かないだろう父の表情の変化は、普通の人には分からない。 けれども実の息子であるシンジは、すぐに察することが出来た。 (あの目は、綾波に好意的な目だ・・・・・・) きっと、母もそれを察知していただろう。 何しろ父の表情が柔らかなのである。驚愕といっていい事態であった。 レイを女の子として見てしまうと、やはり彼女のかわいらしさがイヤでも目につく。 笑ってもかわいいし、ムスッとしてもかわいい。ドキドキしてしまうほどかわいい。 そんなにかわいいと思う女の子と、よく一緒に生活が出来るなと自分でも思ったが、 アスカという幼なじみがいることで免疫がついていたことに気がついた。 そして、いまシンジは、そのアスカが入った後の風呂場にいた。 何となく妙なドキドキを感じながら、シンジはいそいそと身体を洗った。 暑い時は熱いお風呂が気持ちいいシンジだが、今日はあまり長く湯船につからなかった。 それでも、顔中に湯の水滴と汗を浮かべながらホッと息をつく。 そろそろ出ようかなと湯船を上がったが、すぐに風呂場を出られなかった。 洗面所が脱衣所を兼ねているので、風呂場の外の水道の音が聞こえてくる。 いま、アスカかレイのどちらかがすぐそばにいた。 火照った身体を持て余しながら、仕方なくシンジはいなくなるのを待った。 「ねえ、碇くん」 と、そこにいたレイが声をかけてきた。 「な、何?」 向こうから風呂場の中は見えないはずだが、さすがに裸でいると落ち着かない。 自然とシンジは下のほうを手で隠しながら答える。 「もう、身体洗っちゃった?」 「うん。もう出ようと思ってたんだけど」 「なあんだ。背中流してあげようと思ったのに」 「え」 身体を洗い終わったあとでよかった、とシンジは思った。 「あ、私がここにいるから出られないのか。ごめんね」 そうレイが言うのが聞こえると、遠ざかる足音が聞こえた。 安心して、シンジは風呂場を出、寝巻きに着替えた。 すぐに歯磨きをして、床に就く準備も整えた。 まだ10時過ぎだったが、シンジはもう寝ようと決めていた。 料理などという慣れないこともしたし、午前中には夏休みの宿題も頑張ったので、 シンジは相当疲れていた。 「ぼく、もう寝るから」 リビングにいた2人におやすみの声をかけると、シンジは階段を上がっていった。 後ろで「えー、もう寝ちゃうの」という声が聞こえたが、シンジは無視した。 暑いとはいえ、さすがにもう上半身をさらけ出して眠るようなことはしない。 隣の部屋にはレイがいるし、アスカは寝室のベッドを使って、この家で眠るのだ。 女の子が2人もいるため、いくら自分の部屋とはいえ裸では眠れなかった。 タオルケットをおなかだけにかけて、シンジはすぐに消灯した。 余計な想像を挟み込む余裕を与えないほど、あっさりと眠ることが出来た。 あっさりとした眠りが、徐々に深い眠りになり、シンジは完全に熟睡するにいたった。 そして、その深い眠りは、朝になるまでシンジを目覚めさせなかった。 * * * 「んもう、早すぎよ」 ベッドの上に横になったアスカは、ふーっとため息をついた。 シンジの両親が使うダブルベッドなので、アスカ1人には大きすぎる。 蒸し暑い夜のはずなのに、なぜか薄ら寒く感じた。 こういうベッドは、シンジと一緒に使いたいものだ。 ふらふらっと、こっちへ来てくれないかな、などと思う。 シンジが勝手に2階に上がってしまったので、レイも寝ると言った。 だからアスカもしぶしぶ寝床についたが、眠るにはあまりにも早かった。 それに、シンジとレイが買い物に出かけていて、ひとりで留守番していた時に、 いわゆる『夜這い作戦』を思いついたが、それをまさに実行しようと企んでいたのだ。 そのためには、シンジはもちろんレイも眠っているであろう深夜が作戦実行の時間帯である。 思いついたときは漠然と深夜だと思っていたが、アスカは時間を2時に決めた。 まだ4時間弱ある。とても暇だった。 眠らないために、アスカは隣にマクラを置き、それをシンジと見立ててひとり芝居を始めた。 「ねーえ、シンジ」 寝室の隣にレイの部屋があるのを意識して、アスカはきわめて小声で囁いた。 囁きのため、余計に甘ったるい響きに聞こえる。 「なあに、アスカ」 ちゃんとシンジのセリフも言う。マクラをちょっと動かしたりしてみたりする。 「ううん、何でもない」 アスカはマクラと反対方向を向く。そして、わざわざ向き直して、マクラを揺らす。 「何だよう、気になるだろ」 たぶん、シンジなら全然気にしないだろうな、と思いながら彼のセリフを言った。 「え、アタシのこと気になるの?」 再びシンジにそっぽを向け、またマクラのほうに向き直るという七面倒くさいことをした。 そして、ひとり芝居と分かっていながら、自分の言葉になぜか照れてしまう。 「当たり前だよ、ぼくはアスカのことが気になって、夜も眠れないんだ」 なーに言ってんだか、と言う自分の声が頭に響いた。 反対に、自分で言ったシンジの言葉にドキドキするアスカもいた。 「シンジ・・・・・・うれしいよう」 ウットリとした目で、マクラもといシンジを見つめる。 「ぼくは、毎日、いつでもどこでもアスカのことを思っているよ。 片時もアスカのことを忘れたことなんてない。アスカはぼくのすべてなんだ」 笑みが洩れた。 それは、シンジにそう言われてとってもうれしいという意味の笑みであり、 吹き出したいのをこらえにこらえた引きつり笑いでもあった。 シンジが言うようなセリフとはかけ離れすぎである。 「アスカ、好きだよアスカ」 「シンジ・・・・・・アタシもシンジのこと、好きなの」 一応客観的に見つめる自分がいながら、アスカはひとり芝居に没頭していた。 シンジもレイもここにはいないので、何とか平和は保たれている。 「シンジ、大好き」 このひと言を本人に言える日はいつだろう、と思いながらアスカはマクラを抱きしめる。 実際は、つい先ほどシンジに言いかけてはいたのだが、言わなくてよかった、と思った。 心の準備が出来ていないまま、勢いだけで告白してしまいそうだったからだ。 綾波レイの突然の登場は、あの場面の時だけ、ありがたかった。 マクラは、ママに似た優しい匂いがした。 これはきっと、シンジの母親が使っているほうのマクラなのだろう。 ということは、アスカの頭の下にあるマクラはシンジの父親のものだ。 何となく、アスカは碇ゲンドウのマクラから離れた。 別に嫌いだというわけではない。おとなの男性のマクラは、ちょっと抵抗があった。 そういえば、少しおじさんっぽいにおいがしていた。 それに比べて、いま抱いているマクラはとてもいい匂いがする。 何となくシンジの匂いに似ているようだった。彼は基本的に母親似なのだろう。 それにしても、マクラにここまでしっかりと匂いが染み付いているということは、 相当このマクラは長い間使われているのだろう。 もちろんカバーは取り替えるだろうから、中に染み付いた匂いが香ってくるのだ。 それほど使われているということは、きっとベッドも長年のものなのだろう。 結婚後、夫婦ずっと同じベッドの上で眠る―― それはアスカの憧れだった。 『愛』という名の惰性ではなく、いつまでも『恋』が続いてこそ夫婦というものだ。 それがアスカの理想の夫婦像だった。 むしろ、『恋人』というよりも『親友』のような関係がずっと保たれているような、 そういう間柄を持ち続けていられる夫婦が、アスカが目指すものだった。 もちろん、その相手は彼と決めている。彼以外にはありえなかった。 シンジとなら、いつまでも仲良し夫婦でいられる――アスカはそう信じきっている。 彼との関係を揺るがすものなど、この世に存在しない。あるわけがないのだ。 例え綾波レイをもってしても、絆が途切れることなどありえない。 と、アスカはひとり芝居を発展させて、シンジとの結婚生活を夢見ていた。 まだ想いすら伝えていないのに、勝手に揺るぎのない気持ちを確認していた。 何だか急に恥ずかしくなって、アスカはマクラを抱く力が強まった。 恥の極みとも言えた、あのひとり芝居に照れたのではなかった。 シンジと自分が夫婦となって、こういったベッドに並んで眠る状況を想像したのだ。 いまはもう、マクラの匂いがシンジの匂いだと錯覚するようになっていた。 アスカは腕力を使って、シンジへの想いを存分にマクラに投げつけた。 もちろん、返ってくるものは何もない。 もうダメだ、とアスカはマクラを離した。 もう、夜遅くになるまでなんて待っていられなかった。 すぐにでも本物のシンジを抱きしめに行きたかった。いや、抱きしめるだけでは足りない。 アスカは暴走しかけていた。 ■6 朝起きた時、シンジは妙な違和感を感じた。 パッと目が覚めたわけではなかったので、その違和感がすぐには理解できなかった。 あれ、何かおかしいな。 そう思った瞬間、シンジは気がついた。 動かした手が、ベッドやタオルケット、マクラ以外の、別のものを触ったのだ。 何に触れたのかは、すぐに分かった。 腕である。 細く華奢で、すべすべの腕が、すぐそばに横たわっていた。 シンジは、意識はハッキリしていたが、起きてからずっと目を開けていなかった。 まだ目を開こうとしない。何となく見てはならないような気がしたのだ。 手探りで、腕をつたって肩に手が届いた。布地の上からでも、肩の細さが分かった。 もうこれ以上触ってはならない、という自分の声が聞こえて、シンジは手を離した。 それは、何の脈絡もなく聞こえてきた声ではなかった。 いま、隣にいるのは、あの2人のどちらかである。それは確定的だった。 そしてシンジが思ったのは「どっちだろう」ではなく、先に「どうしてここに」だった。 シンジは、彼女とは反対の方に顔を向け、思い切って目を開いた。 まだこの状態では、相手が誰なのかは分からない。 どうしてここにを考える際に、結局は、どっちだろうということも考えなければならない。 予想では、レイだった。起きたら彼女が目の前にいた、ということは前にあったし、 きっとからかうために勝手にもぐりこんできたのだろう、と推測した。 では、アスカだったとしたらどうだろう。 ここへやって来る理由が見つからない。彼女がからかうためにこんなことをするだろうか。 ないともいえないが、やはりアスカである可能性は少ないだろうと思った。 が、アスカである可能性が高まる要因をシンジは見つけた。 アスカが自分で話していたことだが、彼女はたまに寝ぼけて家の中をウロウロするらしい。 朝起きたら1階のテーブルに座っていたとか、ママの布団の中だったとかがよくあるそうだ。 アスカなのか、レイなのか、可能性も確率も五分五分であることに、いま気がついた。 考えずとも、最初から自明なことだったのだが。 しばらくして、シンジはようやく意を決して、彼女を見た。 (やっぱり・・・・・・) シンジはため息を洩らした。 つづく
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