■1

アスカは、誰かに起こされてゆっくりと目を開けた。
あくびと一緒だったので少しぼやけて見えたが、その誰かはシンジだった。

「おはよう、アスカ」

こんなことは、初めてだった。

いつも自分がシンジを起こす役目だったのに、いまはシンジが起こしてくれている。
うれしさと恥ずかしさが混じり合って、身体がくすぐったくなった。

彼はまだ、昨日の寝巻きのままだった。
白いTシャツに書かれた「LOVE&PEACE」の赤い文字が見える。
アタシとシンジのことだ、などと考えて、勝手に赤くなる。

「シンジ・・・・・・」

とりあえず、彼の名前だけが口から出た。それ以上は何も言いたくなかった。
このひと時がずっと続けばいいのに、と思う。

その思いは、もろく儚いものだった。

「おっはよー、アスカ」

シンジの後ろから、レイがひょっこりと姿を現した。
彼女もまだ涼しそうなパジャマ姿のままである。

「ねえ、アスカ、ずっとこんな所で寝てたの?」

アスカは、何だシンジだけじゃなかったのか、と小さく舌打ちをする。
そして、レイが後から言った言葉に引っかかりを感じた。

「こんな所って?」

アスカは上半身を持ち上げながら訊く。

「えっ」

起き上がった瞬間、アスカはレイの言った意味に気がついた。
しかし、すぐには理解出来ない状況だったので、彼女は驚いた。

アスカは、1階のリビングのソファの上にいた。
確か昨日の夜は、2階のシンジの両親が使う寝室のベッドの上にいたはずだ。

驚きを顔に表したまま、アスカは昨日のことを思い出そうとした。

シンジが寝ると言って、それじゃあ私もと言ってレイも自室に引き上げた。
だから、アスカも一応寝る恰好を取ろうと寝室に入った。

計画性はまるでないが、シンジへの夜這い計画を企てていたので、
それを実行するには深夜がベストだと考え、遅くまで暇を持て余すことになった。

そこで、ひとり芝居という遊びを思いつき、マクラと一緒に演じていたのだった。

その内に、シンジとの夫婦生活を夢見始めて、どんどん想いが募っていった。
その想いがいつの間にか抑えきれなくなり、アスカはベッドから立ち上がった。

――と、そこまでは覚えている。そこから先の記憶がなかった。

「アタシ、どうしてこんなところに・・・・・・」

呆然としたまま、アスカは呟いた。

「え、覚えてないの?」

レイが驚いたように言う。

「昨日の夜、私が2階のトイレから出たらさ、横をアスカがぬーって通ったんだよ。
あれ、どうしたのって声かけたら、『ちょっと』って言って下に下りてっちゃったの。
喉でも渇いたのかな、とか思ったんだけど、その後、階段を上る足音が聞こえなくて、
アスカ、どうしたのかなあって思ってたら、私、いつの間にか寝ちゃってて・・・・・・」

「それで、朝起きたらアスカがここにいるのを見つけたんだ」

後を引き継いでシンジが言った。

「アタシが下に下りてったの? どうして・・・・・・」

意を決して寝室を飛び出した時には考えられない行動だった。
あの時、アスカは本気でシンジのベッドの中に潜り込もうと思っていたのだ。
そのままシンジにすべてを伝えてしまおうとさえも思っていた。

ただし、それが正気の沙汰だったかどうかは疑問である。
寝室を出たことすら、記憶にないのだ。つまり、暴走していたということか。

そうでないにしても、シンジの部屋ではなく、1階に下りたのはどういうことだろう。
シンジが、2階の彼の部屋で眠るということは明らかに承知の事実である。
急にそのことを忘れてしまうなど、絶対にありえないはずだ。

シンジの部屋を間違えるはずがないという前提によって、ひとつの答えが浮かんだ。

『部屋』を間違えたのではなく、『家』を間違えたのだ。
暴走しかけた頭は、この家を自分の家と勘違いしてしまっていたのだ。
だから、シンジの元へ行こうとするには、1階に下り、家を出る必要がある。

記憶がないから推測するしかないが、下に下りたら急に眠くなってしまったのだろう。
リビングのソファを見つけて、そこに横になり、朝までこうして寝ていたのかもしれない。

一応の説明がついたところで、アスカはため息をついた。

「アスカ、大丈夫?」

シンジが心配そうに訊ねた。

「うん・・・・・・」

アスカはうなずきながら、さっきから何かが引っかかっているのを感じていた。
暴走だか寝ぼけていたんだか知らないが、目を覚ましたらここにいたということは、
整合性はないが何とか片付けることができたから、そのことではない。

では何か。何に引っかかりを覚えたのか。

アスカが引っかかりを覚える時というのは、大抵シンジがらみのことである。
昨日も、アスカとレイの騒ぎを2階で聞いたはずなのに、何の騒ぎかと彼が訊いたのを、
聞き逃さずにアスカはシンジに咎めたのだった。

だから、いま引っかかっていることも、きっとシンジのことである。
自分のことを考えていたから、おろそかになっていてなかなか思い出せない。

「でもビックリしたあ」

レイがアスカの隣に腰掛けて言った。

「起きてきたらさ、こんなとこでアスカが寝てるんだもん。
よく寝ぼけるらしいってアスカが自分で言ってたから知ってたけどさ、
実際に2階から1階に移動しちゃうなんて、すごいなあとか思った」

「ありがと」

アスカはまだ考え事をしていたので、適当に答えた。

「ん? ちょっと待って・・・・・・」

いまレイが言ったことはほとんど耳の外に流れていってしまったが、
アスカは、その中に引っかかりの答えが隠されていたことに気がついた。

「ねえ」

アスカはレイに向かって言った。

「いま、起きてきたらアタシがここで寝てるのを見てビックリした、って言ったでしょ」

「うん、ビックリした」

「それで、アタシを起こしてくれたわけね」

「そうだよ」

レイは首をかしげた。

「それがどうかしたの、アスカ」

「その時、シンジも一緒にいたんでしょ。いまこうして一緒にいるんだから」

「うん」

レイはうなずく。シンジも黙ってうなずいた。

「っていうことはさ・・・・・・」

アスカは、思考している振りをして、ふたりの顔を交互に見た。
そして、ゆっくりとした口調で言った。

「あんたたち、一緒に起きてきたの?」

「えっ」

と呟いたのは、シンジだった。

「そう考えるのが自然じゃない」

アスカは続ける。

「だって、もしどっちかが起きてきて、アタシがここで寝てるのを見つけたとするでしょ。
そうしたら、普通そのままひとりでアタシを起こしてくれるんじゃない?
わざわざ2階に行ってもうひとりを起こしてから、下に下りるなんて面倒だし」

そう言いながら、アスカは何かイヤな予感を感じていた。
あまりに受け入れがたいものなので、まだそのことは黙っていることにした。

「でもさ、普通、同時に起きることってありえる?」

アスカが訊くと、シンジはちょっとうろたえた目をした。レイは表情を変えなかった。

「あ、それは、あれだよ」

なぜか早口で、大きな手振りを交えてシンジが説明した。

「ぼくが起きて、トイレに入って、その流す音で綾波が起きて、一緒に下りてきたんだよ」

たぶん、それはうそだ、とアスカは直感的に思った。
シンジの話し振りが、どうも大げさに見えて仕方なかった。

「ほんとかなあ」

アスカは、たったいま感じたイヤな予感をぶつけてみることにした。
的中してしまうことを知らず、後先を考えずに――

「一緒に寝てたから、起きるのも一緒だったんじゃないの」

「えっ!」

それをどうして知ってるんだ、とシンジの顔に書いてあった。
アスカはレイを見る。彼女もちょっと驚いているようだ。どうやら本当らしい。

いまからシンジが何か弁解をしようと口を開くことは目に見えて分かっていたが、
アスカは自分なりに、瞬時に、ふたりの驚きの意味を考えてみることにした。

一緒に寝ていたというのは、おそらく事実のようである。
ただ、一緒に寝るというのは、考え方によってニュアンスがずい分と違ってくる。

アスカが2階に上がった時、シンジの部屋もレイの部屋もドアが閉まっていた。
一応そうやってプライバシーを守っているらしい。

だから、シンジはシンジの部屋に、レイはレイの部屋にいたとは、一概には言えない。
シンジはレイの部屋に、レイはシンジの部屋にというのも考えられるが、
いまはそんな無駄で意味のないことを考えている場合ではない。

では、なぜこのふたりは一緒に寝ていたのだろうか。

最も有力な説は、レイが、朝早く起きてシンジの部屋に忍び込んだというものだ。
シンジが起きたらビックリするだろうと、からかうための行動である。
レイならやりかねなかった。きっとこれが正解だろうとアスカは思った。

ただし、あくまでそれは推測の域を出ていないわけで、事実は違うかもしれない。
なぜふたりは一緒に寝ていたのか。まさか、お互いの同意があったなど考えられない。

いや、まさか・・・・・・。

「あ、あ、アスカ」

慌てに慌てた様子のシンジが、さらに拍車をかけるような口調で言った。

「こ、これは違うんだ。そうじゃないんだよ。違うんだ」

何がどう違うのか、意味が分からない。支離滅裂だった。

「あの、朝、起きたら、勝手に、綾波が、ぼくの、隣に、いて、その、えーと・・・・・・」

いぶかしがりながら、シンジのあまりの滑稽さにアスカはおかしくなった。

「あれ、何言ってるの碇くん。違うでしょ」

動揺しっぱなしのシンジに代わって、レイが落ち着いた声で言った。

「昨日の夜、アスカとすれ違った後にね、私、碇くんの部屋に行ったの」

アスカを窺うような目で、レイは淡々と説明した。

「そしたらね、碇くんまだ起きてて、私のことベッドに招き入れてくれたんだ」

レイの言葉の端から、羨ましいでしょという含みが読み取れた。
アスカは何とか自分を抑えながら、彼女の話を黙って聞いていた。

「ふたりで並んで横になってたらね、碇くんのほうから、私のこと抱きしめてくれたんだ」

シンジは何も言わなかった。表情もうまく読み取れない。
どうしてそんなことまで言っちゃうんだ、かもしくは、いったい何を言っているんだ、
そのどちらとも取れるような顔をしていた。

「昨日も暑い夜だったけど、抱きしめられて、身体がもっと熱くなっちゃった。
すっごく気持ちよくてウットリしてたら、今度はキスしてくれたんだよ。ね、碇くん」

「あ、綾波!」

シンジはそこでやっと声を上げた。

「ねえ、ほんとなの、シンジ」

アスカは思い切り低い声で訊いた。

「ほんとなわけないだろ。どうしてそんなうそつくんだよ、綾波」

シンジは少し怒っているようだった。

「えーっ、碇くん、忘れちゃったの」

レイは泣き顔で言う。

「あんなにたくさんキスしてくれたのに」

「してない、してないよ、絶対にしてない、全部綾波のうそだから」

シンジはレイではなくアスカに向かって何度も首を振った。

「碇くんひどーい」

レイは両目に手を当てて、えーんえーんとわざとらしく泣き出した。
どうせうそ泣きだろうと思ったが、レイはさり気なく手を浮かせてみせた。

頬を涙がつたっていた。

アスカは、レイお得意のうそ泣き涙だとすぐに分かった。
ところが鈍感のシンジは、まるで気付かない。

「綾波・・・・・・」

と、ちょっと言い過ぎたかな、などと思っていそうな顔でレイを心配していた。

アスカは、レイの狂言であることを確信していた。
シンジはそんな男じゃない。アタシが好きな人は、そんな人じゃない。
必死にそう自分に言い聞かせながら、フンと鼻をついて2階の寝室に向かった。

いまは、レイとも、シンジとも顔を合わせたくなかった。




■2

「どうしてあんなこと言ったんだよ」

アスカが2階に消えるのを見送ってから、シンジは口を尖らせて訊いた。
泣いているからといって、甘やかしてはならないといった心理が働いたのだ。

「アスカに誤解されちゃっただろ」

「あれ、アスカに誤解されるとまずいことでもあるの?」

レイは顔を上げた。涙の筋が残っていた。けれども表情は普通だった。

「そういえば、まだ聞いてなかったよね。綾波がぼくのベッドにいた理由を」

シンジは都合の悪そうなことは無視して、問い詰めた。迫力は微塵もない。

「ああ、あれね」

指で顔を拭いながら、レイはソファに腰掛け、おどけたように言った。

「もちろん、碇くんをビックリさせようとしたんだよ。それ以外に理由なんてないよ」

「あそう・・・・・・確かに驚かされたよ。ビックリした。でもさっきのはひどくない?」

「さっきのって?」

「アスカにうその説明をしたことだよ」

「大丈夫だって。アスカはきっと信じてないから」

「そうかなあ・・・・・・」

そう思うなら、どうしてあんなこと言うんだよ、とシンジは納得いかなかった。

「いつからいたの?」

テーブルのイスに腰掛け、シンジは質問を続けた。

「それはさっき言ったとおり。夜中にアスカとすれ違った後、碇くんの所に忍び込んだの」

「・・・・・・ぜんぜん気がつかなかった」

「そうみたいだったね。ちょっといびきかいてたよ、碇くん」

「えっ、ほんとに? 恥ずかしいな」

「鼻つまむと静かになってさ、しばらくするとまた始まるの、いびきが。面白かった」

「ぼくで遊ばないで欲しいんだけど」

「だって、碇くん面白いんだもん。からかい甲斐あるしさ」

「あそう」

もう話にならないといった顔で、シンジは2階に向かった。


            *      *      *


怒っているのか、悲しいのか、自分でもよく分からない。
ともかく、アスカの心はカーテンの向こうの空と同じ、どんよりとした曇り空だった。
いつ降りだしてもおかしくないといった黒雲の立ち込めようである。

寝室のダブルベッドの真ん中にちょこんと座り込んだアスカは、
視線はボーっと外に向けたまま、頭ではちゃんとした考え事をしていた。

レイに振り回されているようでは、いつまで経ってもシンジとの仲は縮まらない。
縮まるどころか引き離されてしまうのではないかという危機感さえある。

いままでシンジに対してだけだったからかいが、アスカにまで及んでいる。
それは、アスカがシンジのことが好きだとレイが知ってから始まった。
つまりは、アスカもいいようにもてあそばれてしまっているのだ。

そんなの、アタシのプライドが許さない。

そうは思うが、シンジがいる手前ではなかなか強気に出られない。
いつレイが口を滑らすか分からないからだ。彼女ならうっかり言いそうだった。

一度、しっかりレイの気持ちを確認しておくべきでは、とアスカは思った。
前に一応シンジのことを「嫌いではない」と言うのは聞いたが、
それが腹を割ったものかどうか、その真意は定かでない。

ただし、そんな話を彼女として、もしもレイがシンジを好きだと言ったら、
さっさと先を越されてしまうかもしれないという不安もあった。

自分の気持ちは分かったが、伝えるのをうじうじとためらっているアスカを横目に、
まるでからかうような勢いでレイがシンジを盗ってしまうかもしれなかった。

それでは困る。いや、困るとかそんなレベルの話ではないのだ。

ここは、やはりレイの動向を探りつつ、様子を見てこちらも行動するのが正しい。
やや危険性を孕んでいるが、保身的だし、何より展開に抑えが利く。

と、いったんはそう考えてみたのだが、その理論はある推測があってのものだった。
それは、『レイは、いきなり大胆な行動に出ることはない』というものである。

ところがさっきのやりとりで分かるように、レイはシンジの部屋に忍び込んだらしい。
そういえば、レイは前にもシンジの寝起きを襲おうとしていた(?)ではないか。

綾波レイの行動は、きわめて不明瞭で突飛で複雑なミステリーである。
彼女のトリックを見破れるような切れのある頭を、自分は持っているだろうか。
持っていなくてはならない。すっかり騙されてしまう無能な読者ではダメだ。

そう、ずっと観客でいるようでは、いつまで経っても舞台には上がれない。
自分から進み出て役者になり、自分が演ずべき役を自信を持ってこなせなければならない。

例えそれが華やかな役柄でなくとも、最終的に主役と結ばれさえすればいいのだ。
今更恰好をつけても、ただの道化師に終わってしまう可能性もある。

一歩、たったの一歩を踏み出すだけで、シンジとの距離はグッと近づくし、
レイとの差を広げることも充分可能になる。

しかし、その一歩が、ずっとずっと出せないままでいる。

夏休み前の、雨の日曜日にシンジにデートの誘いをしたことがあったが、
それすら半歩にも及ばないものだったと思う。もっと大きな一歩が必要なのだ。

けれど、アスカは勇気がなかった。そして、恐れていた。

もしもシンジが自分のことを好きではなかったら、という恐れである。
そんな決定的な結果を叩きつけられたら、アスカは自分がどうなるか分からない。
マンガのように風解して、ボロボロに崩れ落ち、風に消えていくかもしれない。

長い付き合いだし、いつも一緒に遊んでいた仲だから、まさか嫌いだとは言われないだろう。
しかし、好きでもないと言われたらおしまいである。どうしようも出来ない。

それに、アスカは性格はともかく、自分の姿形には自信を持っていた。
色仕掛けを使えば、そこらの男など、簡単に落とせると自負していた。
もちろんシンジに色目を使うつもりはないが、見た目にも好かれる自信を持っている。

そんな自信すらも失うことになっては、アスカは生きる意味を失うに等しい。
コクってフラれるだけのことで、耐え難い絶望を感じてしまうのだ。

シンジのことが好きだと思うようになってから、その想いは募るばかりで、
いつしか、シンジがいないと生きていけない、とまで思うようになっていた。
そこまで思われる男は何と幸せだろう。いや、何と重い想いを背負わされたものだろう。

シンジに拒絶されたら――そんな人生なんて、意味がない。つまらない。
それはイコール生きることの放棄を意味するものだった・・・・・・

(ええい、ダメよ、ダメダメ)

アスカは思いつめた頭を振って、自分を諌めた。

「バカ」

頬を引っぱたきながら、アスカは自分を罵った。
そして、アスカは遠くを見つめながら、今度はシンジに向けて少し大きな声で言った。

「バカ」

「うわっ」

言った瞬間、閉めていた寝室のドアの外で、シンジの驚く声が聞こえた。
ちょっと間があってから、そのままシンジは言った。

「あの、アスカ、ちょっといい?」

「何よ」

自然と不機嫌な声でアスカは答える。

「ここ、開けてもいいかな」

「ダメよ。用があるならそこで言って」

「・・・・・・じゃあ、ここで言うよ」

「そうしてくれる」

本当はシンジの顔を見て落ち着きたいのだが、アスカはとにかく拒絶した。
思いつめているうちに、彼女は涙を流していたのだ。いま、必死に袖で拭いていた。

「あのう、さっきのことなんだけどさ」

ドア向こうで、シンジが言った。

「さっき綾波が言ったこと、ほとんど冗談なんだ。だから気にしないで欲しいんだよ」

「どうしてアタシがそんなこと気にするのよ」

気にしまくっていたくせに、アスカの口は勝手にそう動いた。

「でも、何だかアスカ、怒ってたみたいだから」

「アタシが怒る? どうして? どうしてアタシが怒る必要があるの?」

まずい、アタシの悪い性格が出てる――と思いながら、アスカは言う。

「アンタとレイが何しようと、アタシには知ったことじゃないでしょ」

「だ、だから、何にもしてないってば」

「別に隠さなくていいのよ。一緒に寝てたのはほんとなんでしょ」

「・・・・・・・・・」

シンジは黙った。その沈黙で、やはりそうなのだとアスカは確信した。

「で、でも」

あえぎながらシンジは言った。

「ほんとに何にもないんだ。朝起きたらいきなり綾波が隣にいたんだよ。
最初、誰かが隣にいるって分かった時、アスカかもしれないとも思ったんだ。
でもやっぱり綾波だったんで、ビックリしながら、ああ、やっぱりって思った」

「ちょっと待って」

アスカは顔をしかめながら訊いた。

「アタシかもしれないってどういうこと? やっぱりレイだったってどういうこと?」

「いや、それは・・・・・・」

シンジはその時の推測を簡単に説明した。彼にしてみればドアに説明をしていることになる。
聞きながらアスカはちょっとおかしく思った。

気持ちに余裕が出てきたので、アスカはシンジの顔を見たくなって、ドアを開けた。

「あ」

喋っている途中にドアが開いたので、シンジはちょっと驚いた顔をしていた。
レイの姿がなかったので、アスカは少しホッとしながらシンジを招き入れた。

「ねえ、レイは?」

ふたりでベッドの端に腰掛けてから、アスカは訊いた。

「朝ごはん作るんだとか言って、いま張り切ってるところ。かなり心配だけど」

「シンジは手伝ってあげないの?」

「ぼくは・・・・・・昨日のカレー、食べただろ」

アスカはゆっくりとうなずき、シンジの言いたい意味を理解した。

「でも、あのコだけにやらせるのも同じくらい危険よね」

「うん。まあ、朝だから何とかなるよって言ってたけどね、綾波は」

「あの子の『何とかなる』は信用出来ないのよね・・・・・・」

「ぼくもそう思う」

レイを話のネタにして、アスカはシンジと微笑み合うことが出来た。

(何だ、アタシにだってこれくらいのこと何でもないじゃん)

そう思いながら、アスカはレイに対する敵愾心を新たにした。
いつかアタシもレイをぎゃふんと言わせてやるぞ、と。
同時に、ぎゃふんって何だろうなどと思ったりして、意味もなく笑った。

アスカはもう落ち着きを取り戻していた。




■3

昨日の夕飯と、今朝の朝食を教訓に、自炊は諦めることになった。
スーパーが近くにあるが、それよりももっと近くのコンビニでこと足りた。

コンビニ弁当と一口に言っても、なかなか侮れない豊富な種類がある。
そして、昨日のアレとは比べ物にならないほど美味しかった。

昼も夜もそれで済ませた3人は、仲良くソファに並んでテレビを見ていた。

午後9時過ぎ――

湯船に湯を張るのも忘れて、少女ふたりはテレビ画面に見入っていた。
それに比べ、真ん中に挟まれた形のシンジはボーっとした目で眺めているだけだった。

画面は、最近では逆に珍しくなっているトレンディードラマなるものを映していた。
昔の人間なら、もうその手のものは飽きたと言いたい内容のストーリーだが、
それが意外に若者を惹きつけ、視聴率も今クールではトップに立っている。

アスカとレイは、それを毎週欠かさず見ていた。
下は小学生からも人気のあるドラマだそうだが、シンジは興味なかった。

真剣に見ているふたりを横目に見ながら、シンジも一応画面を見ていたが、
中学生にして古い感覚なのか、ありそうな話だ、と思いながら眺めていた。

そろそろ話も佳境に入っているらしく、展開がなかなかスムーズなのはいいが、
シンジはどうしても役者の喋るセリフに引っかかりを覚えて仕方がなかった。

別に意味不明な言葉だというわけではない。言いかたが問題なのだ。
日本語に親しむ日本人にしてみれば、どうも喋りが胡散臭く聞こえてしまうものだ。
普通、そんな言いかたしないって、と突っ込みたいところがたくさんあった。

そういう別の見かたをすれば、シンジにもそのドラマは少し楽しめた。
しかしそれも最初の内で、だんだん退屈になってしまった。

いちいち声に出して突っ込んでいたので、レイに「黙ってて」と言われてしまったのだ。
このドラマを見ることがいかに重要なのか、思い知らされた気がした。

でも、シンジの目にはたいして面白くもないものにしか見えなかった。

冷めた目で見ているシンジをよそに、レイと同様、アスカも話にのめり込んでいた。

いくつかのカップルのケースがあって、そのどれかを自分と照らし合わせて見るのが、
このドラマの醍醐味なのだということをドラマの特番で誰かが言っていた。

アスカはその中でも、いちばん見栄えのある俳優を配したカップルに注目していた。
女性を自分に、男性をシンジに当てはめながらいつも見ていた。

今回は特に、アスカが入れ込むふたりがメインで話が進んでいたので、
いつもは自分の家で見ているはずが、今日はシンジを隣にしているため、
ドキドキがすごかった。シンジに聞こえてしまわないかと焦るくらいだった。

画面のふたりが手をつなぐと、意識してシンジにこっそり手を伸ばそうとするが、
恥ずかしくて引っ込め、また近づけを繰り返してばかりいた。

そして、残りあと5分というところで、盛り上がりが最高潮に達する場面が来た。
息を飲むような長い長いキスシーンである。

しかも、ただ単にくちびるを当てたまま静止するものではない。
顔の角度をいろいろ変えたり、口をもぐもぐ動かしたりして、とても艶っぽかった。

アスカはシンジを盗み見た。彼の視線は照れくさそうに画面と空を行き来していた。

もう一度画面を見ると、まだそのシーンが続いていた。

シンジにあんな風にされてみたいなと思って、またシンジのほうを見た。

目が合った。

まばたきをしていないのが自分でも分かる。シンジも目を見開いたままだった。
お互いの視線が、完璧なまでにからみついていた。

合ったら合ったで、今度は逸らせなくなってしまった。
耳元でドキドキと鼓動がして、他には何も聞こえなくなった。

レイがすぐそばにいるのは分かっていた。なのに、どうしてもシンジから目が離せない。

(わあ、どうしよう)

シンジの瞳に吸い込まれそうになるのを必死にこらえる。

(何で逸らしてくれないのよ。どうしてずっと見てんのよ。見ないでよ)

レイさえいなければそんなことは露とも思わなかっただろう。

画面のふたりは、ようやくお互いにくちびるを離した。
薄暗い中でそこだけライトが当てられ、そのままそのカップルは身体を寄せ合う。
そしてしばらくしてコマーシャルに入った。

ドラマの雰囲気をぶち壊しにするようなやかましいCMのおかげで、
アスカとシンジは視線を逸らすことができた。

すべて、無言のままだった。「あ」とも言わず、ふたりは視線を逸らした。

シンジ越しにレイを見ると、彼女は「ふう」とため息をついていた。
どうやらドラマのほうに見入ってくれていたようだった。

そしてまたシンジに視線を戻してみた。また目が合いそうになったので、慌てて逸らした。

(もし、ここにレイがいなかったら、どうなってただろう)

来週の予告を見ながら、アスカはぼんやりとそう思った。
たちまち顔が熱くなった。いまもすぐ隣に彼がいるのだ。もう、意識しまくりである。

ファーストキスはレモン味とかいう奇妙なフレーズのようなものがあるけれど、
そんなに他人の唾液はすっぱく感じるものなのだろうか、とアスカはふと考えた。

何に対してレモンと形容しているのか、アスカにはさっぱり分からない。
まだ、彼女のファーストキスは守られたままなのだ。

それを捧げる相手はずっと前から決まっている。他の誰でもない、シンジだ。
彼の女の子みたいに小さなくちびるが、アスカの憧れだった。

シンジの吐息を自分のくちびるに感じることが出来るのはいつのことだろう。
シンジのくちびるに触れられることが出来るのはいつのことだろう。
それは悩むまでもないことだった。すべてはアスカによるのである。

「あー、いいなあ」

予告が終わると、ソファの背もたれにドッと倒れこみ、レイが感慨深く言った。

「私もああいうことされたいなあ」

さっきのキスシーンを指しているに違いなかった。

「ね、碇くん」

「いや、ね、と言われても・・・・・・」

同意を求められてシンジは困った顔になる。そこを畳み掛けるようにレイは訊いた。

「ねえ、碇くんって、キスしたことある?」

「え」

そういう話題が苦手なシンジは、すっかり困り果てていた。

もちろんしたことないはずだ、とアスカは思いながら、シンジの回答を待った。

「ぼ、ぼくはまだしたことないよ」

分かっていたことだが、アスカはホッとした。

「へえー、まだなんだ」

レイは意味ありげに視線をシンジから外して、ゆっくりとうなずいた。

「レイはどうなの?」

アスカが訊いた。

「え、私? 私もまだだよ。アスカは?」

「アタシも・・・・・・」

シンジのほうをチラッと見て、またレイのほうに向き直ってからアスカは言った。

「アタシもまだ」

「ふうん。みんなそろって奥手なんだね」

みずから言う言葉かどうかは分からないが、レイは明るくそう言った。

「あ、そうだお風呂入れなきゃ」

レイはいきなりパチンと手を叩いて、勢いをつけてバッと立ち上がると、
お風呂お風呂、と言いながら風呂場に向かった。

得意でない話題があっさり終わったので、シンジはホッと息をついた。
しかし、アスカは少し照れながらもすかさず訊いた。

「ねえ、さっきのことなんだけど」

「えっ」

今日何度目かの視線の交わし合いがあった。
シンジも「さっきのこと」で察しがついたらしく、すぐに目を逸らしてしまった。

「アタシの顔に何かついてた?」

「・・・・・・ううん、何もついてない」

「アタシ、面白い顔でもしてた?」

「・・・・・・ううん、別に、普通だったけど」

「だったら、さっきどうしてジッとアタシのこと・・・・・・見てたの?」

「・・・・・・・・・」

「ねえ」

黙り込むシンジをアスカは覗き込むように見たが、意地でも目を合わせない気らしい。
アスカの顔が移動するたびに、シンジも顔ごと視線を遠くに動かした。

その時、アスカは何か違和感を感じた。だが、感じただけでそれが何なのかは分からない。
ただ、何となくあったかくて、優しいような感覚だった。

「ずっと言おうと思ってたんだけどさ」

シンジは口を開いた。

「でも、ぼくが喋ったら綾波がまた怒りそうだったからつい言いそびれちゃって・・・・・・」

「何を?」

妙な心地よさのある違和感を感じながら、アスカは訊いた。

「あの、アスカ、この手を・・・・・・」

と言って、シンジは自分の右手を見やった。

「あっ!」

アスカはビックリして飛び跳ねてしまった。

ソファにのせられたシンジの右手を、アスカはずっと握っていた。
気持ちのいい違和感の正体は、これだったのだ。

いつから握ってたんだろう、とアスカは顔を赤くした。

彼女の気持ちを察したようにシンジは言った。

「あの、さっきのドラマのさ、あの、最後のシーンのところに入ったらさ、突然、
あの、アスカが手を握ってきたから、あの、ビックリしたんだ」

あの、あの、を連発しながら、シンジは恥ずかしそうに答えた。

だからあの時シンジはこちらを見つめてきたのか、とアスカは少し納得した。
ならどうしてジェスチャーで教えてくれなかったのか、そこだけ合点がいかなかったが。

「あの・・・・・・」

アスカも、あの、と言いながら謝った。

「ごめんね、シンジ。気付かなかった」

「あ、いや、そんな」

シンジはぶるぶると首を振った。アスカの素直な謝りの驚きもあっただろう。
アスカ自信も少し驚いていた。シンジに対してこんなに素直になることは滅多にない。

(そうだ、そういえば)

アスカは自分が前に思ったことを思い出した。

(アタシは自分を変えようとしていたんだった。ようし)

知らず知らずのうちにシンジの右手を触っていたほうの手を軽く握りながら、
アスカは急にやる気が湧いてきた。レイに差をつけるチャンスだ。

「アタシ、ぜんぜん気がつかなくて・・・・・・でもね」

の後に、「何だか気持ちいいなあって思ってたんだ」とかなんとか言おうとしたのだが、
風呂場から戻ってきたレイの邪魔が入った。

「よーし、アスカ、今日もジャンケンで決めよう」

せっかくのやる気がそがれてしまった。




■4

女の自分から見ても、ドキドキしてしまった。
それくらい、綾波レイの素肌は白くてキレイだった。

身体のつくりは自分に分があったけれど、肌の白さは完全に負けていた。
別にアスカが美白でないわけではないのだが、レイのそれは比べものにならなかった。

そういえば、以前体育で彼女の水着姿を見たときも、キレイだなと思ったものだった。
紺色のスクール水着によって、レイの白さが際立っていたのを思い出した。

自分の身体が女の魅力を持っているとしたら、レイもまたそうだと言えた。
このレイの素肌をシンジが見たら、絶対ドキドキするに違いない。

しかし、もちろんアスカだって自分の身体には自信を持っていた。
実際レイも、

「わあ、すごい、アスカ。エッチだあ」

と、褒めているのかは分からないが、アスカの身体にずい分興味を示していた。

ジャンケンは、あいこを何と30回連続で叩き出すという離れ業をやってのけ、
だったら一緒に入ろうか、というレイの提案に賛成することで一番風呂の問題は収まった。

一般的な一戸建てについているバスルームに何の手も加えていない状態なので、
身体や髪を洗うのに2人では少し狭かった。

仲良しこよしとは言えないが、それでも少しふざけ合ったりした。
シンジを筆頭に、健全な少年たちには見せられないような微笑ましい光景だった。

小さな湯船には、少女2人が精一杯だった。
お互い膝をギュッと抱えながら、同じ表情で「ふう」と幸せそうなため息をついた。

「やっぱり一番風呂だよね」

気持ち良さそうに目を閉じてレイは言った。

「あんたって、ほんとにお風呂が好きなのね」

ちょっと呆れながら、アスカは微笑んで言う。

「いつもどのくらい浸かってるの?」

「んー、5分くらい」

レイは右手を大きく広げて見せた。顔は上気して頬が赤い。
何より目を引くのが、いつもは伏せている前髪をバックにしていることだった。
額を見せて、少し艶かしく見える。

「え、そんなもんなの。5分って、もうすぐじゃん」

「そうだね」

「じゃ、もう出ようか」

「あ、ちょっと待って、アスカ」

レイは、上がろうとするアスカの肩を湯船に押しとどめた。

「なあに、レイ」

「ねえねえ、せっかくふたりきりになれたんだからさあ」

と、レイは笑いながらアスカの顔を覗き込んだ。

その意図のつかみにくい表情を見て、アスカはちょっと身を引いた。
せっかくふたりきりになれた、という表現が不安にさせたのだ。

まさか、レイはそっちのケがあるのでは――などと思って身構えてしまったが、
それはまったくつまらない心配であった。

「アスカの話とか聞きたいなあ」

「アタシの話? 何それ」

「ほら、女同士で出来るような話だよ」

「げっ」

喉がつぶれたような声を上げてから、アスカはどうすべきか考えた。
そしてほんの一瞬のうちに決断を下し、あごをツンと突き出して答えた。

「いいわよ」

レイはにっこりと微笑んだ。そしてすぐに訊いてきた。

「ねえ、アスカ、どうして言っちゃわないの?」

「何をよ」

「シンジィ、大好きだよう、って」

レイはアスカの声色をマネして、口をすぼめながら言った。

「ちょ、ちょっとあんた、声大きいわよ」

アスカは湯の音をバチャバチャと立てながら、慌ててレイの口をふさごうとした。

「ごめんごめん」

レイはちろっと舌を出して、ウインクをして見せた。
仕方がない、といった感じで申し訳程度の音量に落としながら、レイは続けた。

「でも、碇くんのこと、好きなんでしょ」

「・・・・・・まあ、うん」

「だったらいいじゃん、告白しちゃったら?」

「どうしてアタシがレイに言われなきゃいけないのよ」

「きっと大丈夫だからさ」

「きっと、ってその根拠はどこにあるのよ」

「私のカン」

「そんなの当てになんないじゃない」

アスカは声を抑えろと言った割りに、自分は声高になって腕を組んだ。

「でも、私のカンは結構当たるんだよ」

「その手には乗らないわ」

「ほんとだよ。カンだけど、碇くんもアスカのこと好きだと思うな」

「えっ」

具体的にそう言われて、アスカは言い返すのを忘れてしまった。

「ま、カンだけどね」

レイはおどけたように言って、アスカの胸元に注目した。

「はあ、いいなあ、アスカ。ぜんぜんおとなじゃん」

「え、そんな風に見つめないでよ」

「でも、私なんかぜんぜんちっちゃいし」

レイは自分の胸に手を当てて少し悲しそうな顔をした後、もう一度アスカに目を向け、
羨望のまなざしで見つめた。

「触ってもいい?」

「さっきさんざん触ったでしょ」

アスカは自然と胸元を隠した。

「ねえ、もっかいだけ。いいでしょ」

レイはしつこかった。

「もうダメよ。自分の触ればいいじゃない」

「でも、自分のなんか触っても面白くないし」

ほら、と言って、レイは肩まで浸かっていた身体を少し持ち上げた。

さっきからずっとレイの身体は見ていたが、こう見せつけられるとアスカも少し照れた。
熱さで少し赤みを帯びたレイの肌が、とてもまぶしかった。

「いつか、碇くんにも触らせてあげるんでしょ」

「えっ」

不意にレイが攻撃を仕掛けてきて、アスカはビックリした。

「な、何言い出すのよいきなり」

「きっと喜ぶと思うよ。結構スケベだから、碇くん」

「あ、あ・・・・・・」

シンジのことが出てくると、どうしてもアスカはうろたえてしまった。
そこを何とか言い返そうとして、訊かずにいようと思っていたことを訊いてしまった。

「あんたはどう思ってるのよ」

「どうって、何が?」

レイはコクンと首をかしげた。その際に前髪がパサッとかぶさったので、
ゆっくりとかき上げながらまたアスカを見つめた。

「だから・・・・・・シンジのことを」

ちょっとマズったな、とアスカは顔をしかめた。訊くタイミングが少し早かった。

「ああ」

そういうことか、とレイはうなずいて、少しはにかむ仕草を見せた。

「私も――アスカの前で言うのもナンだけど――好きだよ、碇くんのこと」

「ほんと?」

思わずアスカは訊き返した。

「うん。だって、からかうと面白いんだもん」

レイは冗談っぽく言った。が、真意はどうなのか分からなかった。
顔が赤いのは、お風呂のせいだけなのか、それとも・・・・・・

「あ、別に、愛してるとかそういうんじゃないよ。こう、友達として好きなだけ」

そういう弁解じみた言いかたが、アスカにはうそっぽく聞こえてならなかった。

「心配しないで、アスカ。盗ったりなんかしないから」

レイはそう言って湯船から上がった。アスカも遅れて上がった。
結構長く浸かっていたので、少し立ちくらみがした。身体もかなり熱かった。

『盗ったりなんかしないから』

というレイが言った言葉は、アスカには、

『ぐずぐずしてると私がもらっちゃうよ』

と言っているように聞こえて、強い焦りを感じ始めた。

(どうしよう)

身体を拭くレイを見ながら、アスカは思った。

(どうしよう)

どうしよう、とそればかりがアスカの心に渦巻いていた。




■5

次の日の夕方、母親たちが旅行から帰ってきた。

アスカは、持ってきていたいくつかの荷物を持って、自分の家に戻っていった。

「ママ、お帰り」

玄関のドアを開けるなり、アスカは言った。
ちょうど玄関からのびる廊下の先のリビングの戸が開いていて、母の姿が見えたのだ。

「あ、ただいまー。ごめんね留守にしちゃって」

キョウコは、まだ帰ってきたばかりで外行きの恰好のままだった。
アスカは彼女の隣のソファに腰掛けた。

「どうだった? 京都は」

お土産はないのかな、と探しながらアスカは訊いた。

「よかったわよー」

キョウコは旅先で行った場所や、旅館のことなどを話した。
よほど楽しかったらしく、女の子が騒ぎ立てるような話し振りだった。

「はい次、アスカの番ね」

話にキリがつくと、キョウコはアスカに振ってきた。

「アタシの番? 何が」

「子供たちだけでどう過ごしたの」

「あ、そういうこと」

アスカはこの3日間のことを順序立てて話した。
やはりいちばんウケたのが、例のカレーの話だった。

「で、シンジくんと何か進展は?」

「ない」

面白そうに訊ねるキョウコに、アスカはムスッとした顔を向けた。

「あらー、せっかくお隣に泊めてもらったのに」

「だって、レイも一緒だったし」

「あ、そうか、ライバルも一緒だったわね」

「別にライバルってワケじゃ・・・・・・」

「違うの?」

「微妙」

実際のところ、アスカはレイのことをライバル視していた。
けれど、ライバルだなんて言うのは恥ずかしくてためらわれた。

「ふうん・・・・・・ねえ、アスカ」

キョウコは少し真面目な顔で言った。

「あなた、いつまでもシンジくんが来てくれるのを待ってるわけじゃないんでしょ」

「・・・・・・うん」

実は、少しだけシンジのほうからの告白を期待していた。
それを隠して、アスカは軽くうなずいた。

「だったら、やっぱり自分から行動しなくちゃダメよ。そろそろ一歩進んだ方がいいわ。
まだほとんど何も始まってないわけでしょ」

「うん」

「ユイさんも――シンジくんのお母さんも言ってたけど、彼はほんとに鈍感みたいだから、
たぶんアスカの気持ちには気付いてないんでしょう」

「たぶん」

「ってことは、アスカは綾波さんと同じスタート地点に立ってるわけよ」

「はあ」

熱っぽく語る母に、アスカは少し乗り切れていなかった。

「一歩でもいいから差をつけないと、ジッとしてたらすぐに越されちゃうわよ。
もっともっと積極的にならなきゃ。ね、アスカ」

「うん・・・・・・」

言葉で言うのは簡単だけど、実際はそううまくいかないんだよ、ママ。
アスカはそう言いたかったが、真剣な母の顔を見て言葉を呑み込んだ。

「さて、今日はパパも帰ってくるし、お買い物に行こう」

旅行から帰ってきてすぐに、キョウコは夕飯の買い出しに出かけた。
こういうところがしっかりしている母が、アスカは好きだった。

そろそろ本気を出さなくては、とアスカは自分に気合を入れた。
何がどう本気なのかはよく分からないが、とにかくシンジに近づきたかった。
レイに渡したくなかった。自分だけのものにしたかった。

アスカは、この夏休みが運命の分かれ目とし、決意を新たにした。


            *      *      *


ユイたちが帰ってきた日の夜、碇ゲンドウも出張から帰ってきた。

「わあ、ありがとう、おじさま」

彼がレイに渡したのは、小さな石のついたキーホルダーだった。
その石は、青白く透きとおったいびつな形のもので、多少安物っぽさが感じられる。
雑誌の広告によくある、幸運が云々といったたぐいの代物かと思えるものだった。

レイにだけしかお土産をやらないのは決まりが悪いといった感じで、
シンジにも同じものをくれた。

ただし、シンジのは漆黒の石だった。確かにやや透明がかっているけれども、
黒というのは少し趣味が悪い気がした。

「ありがとう」

と一応シンジはお礼を言った。

そして、夜眠る前に、シンジはそれをどうしたものかと考えた。

このまま黙って机の引き出しにしまうのも悪い気がして、机に上に放り出してある。
何かにつけておくのもためらわれるが、シンジは学校カバンにつけることにした。

どうせまだ夏休みだからカバンは使わないし、これでいいだろうとシンジは思った。

今夜も暑いなあ、と思いながら電気を消し、シンジはベッドに倒れこんだ。

と、暗闇の中で何か光が浮かび上がった気がした。

「ん?」

シンジは首を傾けて、光の見えたほうを見つめた。

そこにはただ暗闇が広がっているだけで、ごく小さな光すら見えなかった。
シンジは、その足元にキーホルダーをつけたカバンが置いてあるのを思い出した。

もしかして、あの変な石が光ったように見えたのだろうか。
シンジは急に、一抹の不安が頭をよぎった。

なぜかは分からないが、何かイヤな予感がしていた。
何か自分の身に大変なことが起こりそうな・・・・・・そんな気がした。

しかし、そんな不安も一瞬のうちで、シンジはすぐに寝入ってしまった。




つづく


作者"うっでぃ"様へのメール/小説の感想はこちら。
woodyright@yahoo.co.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

inserted by FC2 system