■1

大きな口を開けてあくびをしながら、シンジはベッドの上で腕をグーンと伸ばした。
なかなか気持ちのいい朝の目覚めである。

夏休みだから、いま何時だろうと気にする必要はない。
シンジは目を閉じたまま、起きようか、もう少しだらだらしてようか考えた。

と、何だか足元がムズムズするのを覚えた。
何だろうと思って、足でもう片方の脚をかいてみる。

シンジは、長ズボンのパジャマをはいていることに気がついた。
確か、寝る時は上下共に短いスウェットを着ていたはずなのに。

おかしいなと思いながら、シンジは上半身を起こしてタオルケットをはいだ。
やっぱり長ズボンのパジャマだった。しかも、初めて見るものだった。

いや、よくよく見るとそれは、どこかで見たような色と柄だった。
しかし、どこで見たんだろうと考えてみても、すぐには思い出せなかった。

起きたばかりのせいか、いつもより視界がかすんで見えた。
周りがぼやーっとして、目をこすっても変わらなかった。

うーん、とうなりながらシンジは顔を持ち上げて部屋を見回した。

「ん?」

シンジは今日初めて声を出した。喉の調子でも悪いのか、かなり低い音だった。

そこは両親の寝室であった。シンジはダブルベッドの上にいた。
どうりで手を伸ばした時、やけに伸びが気持ちいいと思ったものだった。

しかしどうしてこんな所にいるのだろうか。いままでこんな朝はなかった。
アスカの寝ぼけ癖がうつったのかもしれないと思った。

ベッド脇に置いてある目覚まし時計は、午前の9時を回っていた。
それをぼんやりと見ながら、これはいったいどういうことかと顔をかいた。

すると、かいた手に妙な感覚があった。ザラッというか、ジョリッというか、
ともかく普段、顔をかいて感じるような感触ではなかった。

シンジは、その違和感の正体を知った。

ヒゲだった。

発育がよければ、中学生でもヒゲがうっすら生えてくる子もいるかもしれない。
しかし、シンジが感じたそれはうっすらといったレベルではなかった。

片方のもみあげからあごを通ってもう片方のもみあげまで、びっしりとヒゲがあった。
剃り残し程度のものではなく、割と量を感じさせる長さに揃っていた。

「な、なんじゃこりゃあ」

どこかのドラマの場面そっくりの言い回しで、シンジは叫んだ。

「は?」

そしてすぐに、違和感どころではないとんでもない事態がまたシンジを襲った。

いま発した自分の声が、まるで別人の声になっていたのだ。
非常に低く重みのあるバスだった。

とうとう変声期とやらがやって来たのかと思ったが、それにしては変わり過ぎだった。
いま聞いた声は、碇シンジの面影をまったく残していなかった。

「どうなってるんだ、何だこれは、ぼくどうしちゃったんだ」

とにかくどういうことかを知ろうと、シンジはどんどん声を出した。
その内に、あることに気がついた。

――この声、何だか父さんの声に似ている。

「あー、あー、あー」

思ったことを確認するために、シンジはマイクのテストをするように声を出した。
そして、やっぱり父の声にそっくりだと確信を持った。

親子なのだから、声が似ることがあるのは当たり前である。
父の声を聞きながら、ぼくもその内こんな声になっちゃうのかな、とシンジはよく思った。
あんまりいい響きに聞こえたことがないから、少し憂鬱に思ったものだった。

そんな歓迎しがたい声が、いまシンジの口から発せられていた。
たった一晩で、シンジの声は父のそれ同様のものになってしまった。

そういえば、いま着ているパジャマは父のものでなかったか、とシンジは思った。
地味な灰色に地味な縦縞の柄。父のものに間違いなさそうだった。

なぜこんなものを着ているのだろう。寝ぼけてこれに着替えたのだろうか。
まさかそんなことはないと思いながら、シンジは現実を思い知らされていた。

父のパジャマを着、あごにはヒゲがあり、声は父そっくりである。
まるで父親に変身してしまったかのようだった。

(変身?)

シンジは何かイヤな予感がした。昨晩感じたものに似たいやーな感じだった。

寝室には、ベッドから見て足元のほう右斜めに母が使う鏡台がある。
いまシンジがいる位置からは、鏡正面にあるタンスが映っているのがぼんやりと見えた。

(まさか・・・・・・まさかね)

シンジが感じたイヤな予感は、あまりにも冗談が過ぎる突飛なものだったため、
軽く笑い飛ばしてしまいたい気分になっていた。
しかし一方では、もしかして、などと恐怖する自分もいた。

シンジはゆっくりとベッドを降りて立ち上がった。視界が少し高い気がした。
身体も何となく自分のものとは思えなかった。余計にシンジの不安が募る。

――あの鏡を見れば、すべてが分かる。

そう確信していたから、シンジは腰が引けに引けた。
自分がいまどんな姿をしているのか、絶対に見たくなかった。
でも、見なければならないのだ。

少しずつ少しずつ、シンジと鏡台の距離が近づく。
徐々に見えてしまわないように、鏡台の横から進んでいった。
まだ心の準備が整っていないからだ。

そして、ついにあと一歩を踏み出せば姿が鏡に映し出される所まで来た。

(どうしよう・・・・・・)

何だか泣きたくなった。

あまりにも怖かったのだ。自分を見るのが恐ろしかった。
これで想像通りの結果が待っていたら、自分がどうなってしまうか分からなかった。
すでに脚がガクガクと震えていて、立っているのが不思議なくらいだった。

いや、想像通りだったら、逆に落ち着くことが出来るのではないだろうか。
これは夢なのではないか、とシンジは思い始めた。

夢だったら、すべて笑い飛ばすことが出来る。恐怖なんて一切必要ない。
そう思ったら、どうにか脚の震えは納まってきた。

そしてシンジは、勢いよく鏡の前に立った。まだ自分の姿は分からない。
目を閉じていたからだ。この目を開けたらすべてを知ることになるはずである。

まだ決心がつかない。どうしても楽観的になれなかったのだ。
何度も深呼吸をするのだが、一向に気持ちは静まってくれなかった。

(どうするシンジ、いくか、いこう、いけ、いくんだ、見るんだシンジ)

心の声は、碇シンジの声で聞こえていた。シンジの声が後押ししてくれる。

そして、シンジは目を開けようとした。その瞬間――

「碇くーん、朝だよーん」

と、綾波レイの声が部屋の外から聞こえてきたので、シンジは後ろを振り向いた。

寝室のドアは開いていて、そこには誰の姿もなかった。

「ほらほら、起きなさい」

またレイの声が聞こえた。どうやらシンジの部屋から聞こえるようだった。
ここにいるよ――シンジはそう言いたかったが、絶望感が声を封じていた。

レイが起こそうとしているのは、いったい誰なのか。
碇くん、と呼びかけているのだから、間違いなく自分のはずである。

「ねえねえ、早く起きなよー」

しょうがないなあ、という感じのレイの声がまた聞こえてきた。

シンジはここにいる。この寝室にいる。しかし彼女はシンジの部屋にいる。
しかも、シンジの部屋にいる誰かを起こそうとしていた。
それはいったい誰なのだ。碇くんとは、シンジのことではないのか。

目の前がグルグル回った。シンジは何が何だかサッパリ分からなくなっていた。
シンジの部屋に見に行く気が起きなかったが、しかし足は勝手に動いていた。

ぼうっとした頭をぶら下げながら、シンジはよたよたと寝室を出た。
結局、鏡で自分の姿を確認することはなかった。

「あ、やっと起きたー」

レイの声がだんだん近くなる。明らかにシンジには向けられていなかった。

「朝ごはんだよ。早く下りてきなさいね」

まるで子供に言うかのようにレイは言い残して、いきなり部屋から出てきた。

「あっ」

シンジは彼女と鉢合わせになった。

レイは少し驚いたようだったが、すぐに笑顔でこう言った。

「あ、おじさま、おはようございます」

レイは軽快に階段を下りていった。

頭を殴られたような衝撃だった。いまの言葉は、完全に自分に向けられていた。

おじさま、おはようございます、と言われた。おじさま、と呼ばれたのだ。
断じておじさまと呼ばれるような歳ではないはずなのに。

(ぼくは、碇シンジだ。違うのか? だったらいったい誰なんだ。おじさまって誰だ。
どうして綾波はぼくをぼくだと分からないんだ。どうしてだ。なんでだ。何なんだ)

シンジは呆然としながら、頭の中は完璧な混乱をきたしていた。

それは、事態を認識したくないという現実逃避の表れでもあった。
どうしてどうしてと思いながら、シンジはもうすでにすべてを悟っていたのだ。

もうダメだと思いながら、シンジはいよいよ勢いたって寝室に戻っていった。
そして、鏡の前に立ち、自分の姿を目撃した。

そこに、碇シンジはいなかった。

代わりに、ひどく青ざめた顔の碇ゲンドウの姿があった。

表情ひとつ変えることなく、父の姿をしたシンジは、あごについたヒゲを引っ張ってみた。
2,3本抜けた。痛かった。これは夢ではないことがハッキリと分かった。

めまいがして、シンジは床に倒れこんだ。


            *      *      *


ずい分と時間が経ったような気がした。しかし実際はほんの数十秒のことだった。

床に倒れたシンジは、パチッと目を開けた。

と同時に、目をむいた。これ以上はムリというほど目を見張った。

「父さん、大丈夫?」

目の前にシンジがいたのだ。碇シンジの顔をした少年が、シンジを見下ろしていた。
シンジは、写真を見るでもなく、鏡も使わずに、自分の姿を見ていた。

「ねえ、父さん、どうしたの?」

声も、ちゃんとシンジの声だった。自分のことを父さんと呼んでいる。

(ぼくは、いったい誰なんだ・・・・・・)

シンジは再び気を失った。




■2

再度目を覚ますと、シンジはベッドの上にいることに気がついた。

もしや、さっきのはすべて夢で、ようやく自分の部屋で目を覚ますことが出来た――
と思ったが、残念ながらあごのヒゲが悪夢の継続を教えてくれた。

「あ、よかった、気がついたのね」

声がしたほうを向くと、母の顔が見えた。

「母さん・・・・・・」

やっぱり声もまだ父そっくりのものだった。

「心配したんですよ」

ユイは少しホッとした顔で言った。

「シンジが『父さんが倒れた』なんて言うもんだから、私ビックリしちゃって。
どこか気分でも悪いんですか、あなた」

あなた、と呼びかけられて、シンジは絶望的になった。
父の姿になってしまったことが、いよいよ現実と認識せざるを得なくなった。

とにかく、父に変身してしまったことは受け入れなくてはならなかった。
だが、どうしてこんな現象が起こってしまったのか、それを考える必要があった。

ヒゲを引っ張って痛いと感じたからといって、まだ夢ではないとは決め付けられないが、
どうしてもすべてがハッキリとした感覚で捉えられてしまうのだ。
例えば、目の悪い父そのままに、視界がぼんやりしていることなどである。

だが、いくら何でもこれは非現実的だ。ありえないのだ。あるわけないのだ。
これは、マンガや小説の中の話ではないのだから。

しかし実際にシンジは父・ゲンドウの姿をしていた。
自分は碇シンジであるという記憶を持ちながら、姿は父親である。

自分の身に何が起きたのか、視覚的には分かっているが、本質的にはサッパリである。
何かきっかけがあったのだろうか。だとしたらそれは何だろう・・・・・・

考えると頭が痛いので、現実は現実として受け入れてしまうことにした。

「そういえば昨日から顔色が悪かったみたいだし、今日はゆっくり休んでください。
ちょうど休日ですから」

ユイは優しく声をかけてくれた。

そうか、今日は休日か、とシンジはぼんやり思った。
夏休みだったから、平日と休日の区別などどうでもよかった。

しかし、休日が終わったらどうなるのだろう。父はまだ夏休みではない。
ということは、平日になれば会社に行かなければならない。

(何てこった・・・・・・)

見た目は父だが、中身はシンジなのだ。そんなこと出来るわけがない。
この状態が一過性のものであることをシンジは願いに願った。

(このこと、誰かに言ったほうがいいのかな)

そこもまた問題であった。きっと誰も信じてくれないだろう。
でも、せめて母だけは分かって欲しかった。

「あなた、朝ごはんはどうします」

「・・・・・・食べる」

食べたい気分ではなかったが、身体は正直で、腹がくぐもった音を鳴らせた。

「それじゃ、ここに持ってきますね」

ベッド脇にしゃがんでいたユイは、立ち上がって出て行こうとした。

「あ、待って母さん」

「何ですか」

シンジはゆっくりと上半身を持ち上げ、母に寝室のドアを閉めるよう言った。

「どうしたんですか」

ドアを閉めた意図を分かりかねる表情のユイは、ベッド脇に立ったまま訊いた。

「あの、驚かないで聞いて欲しいことがあるんだ」

さあ、驚いて下さい、と言っているようなものだったが、シンジは気付いていなかった。

「いま父さんの恰好をしてるけど、実はぼく、シンジなんだ」

一時の静寂が寝室に漂った。長いようで短いひとときだった。

ユイは、笑いもしなかったし、驚きもしなかった。
代わりに、怪訝な顔でシンジを――父の顔をしたシンジを見つめた。

「あなた、大丈夫ですか」

頭がおかしくなったのではと思われてしまったようだ。無理もない話である。

「母さん、本当なんだよ。朝起きたら、父さんになっていたんだ」

「・・・・・・そう、ですか」

ユイはまだ疑いの目である。いや、疑うというようなレベルのまなざしではなかった。
仕事のストレスが祟って、頭をやられちゃったのかしら、と言いたそうな顔である。

しかし、そうではないのだ。シンジは何とか説得したかった。
だがどう頑張っても、うまくこのことを説明する言葉が見つからなかった。

「ねえ、お願い、信じて母さん。頭がおかしくなったとかそういうんじゃないんだ」

ゲンドウの声でシンジの言葉を言うもんだから、とてつもない違和感があった。
自分で言っていて、おかしいような悲しいような、複雑な気分だった。

「・・・・・・もし、あなたがシンジだったら、あの子はいったい誰なんですか」

ユイはあごをクイッとドアのほうに向けて言った。

「あの子って?」

ユイを見上げて、シンジは訊く。

「シンジですよ」

ゆっくりとベッドの端に座りながらユイは言った。

「あなたがここに倒れてるのを見つけたのは、シンジだったんですよ。
それで私たちをすぐに呼んで、一緒にあなたをベッドに運んだんですよ。
あの子はいったい誰なんですか。シンジでしょう」

その言いかたには、少しバカにするような、非難するような響きがあった。
おそらく、これは夫の狂言だとでも思ったのかもしれない。

だが、それには気付かず、代わりにシンジはハッとなった。

碇シンジは、いまここにいる。父の恰好をしているが、これはシンジなのだ。
では、床に倒れた時に見た、あの少年は誰なのか。なぜシンジが2人もいるのだ。

まさか・・・・・・。

ベッドの上であぐらをかいたまま、シンジはあまりの恐怖と衝撃に硬直した。

(まさか、ぼくは父さんと身体が入れ替わってしまったのか――)

それは、あまりに非現実だ。だが、非現実なことを、すでにシンジは体験していた。
絶対にありえないようなことでも、簡単に受け入れられる頭になっていた。

(すると、あれはぼくの恰好をした・・・・・・父さんなのか?)

ゾッとした。なぜゾッとしたのかといえば、究極的な推測がシンジの頭をよぎったのだ。

つまり、この現象は父が仕組んだものではないか――ということである。
それを引き起こした原因もだいたい予想がついていた。昨日もらったキーホルダーだ。

この際、現実的でないなどとは言ってられない。
きっとあの石に呪いか何かがかけられていて、シンジはまんまと術中にはまったのだ。

レイのためにお土産として買ってきたものが実はカムフラージュで、
シンジにあの黒い石を渡すことが本来の目的だったのだ。

シンジはそこまで推理していた。

そういえば、黒い石というものは、何か不吉な予感を思わせるものである。

だが、分からない。どうして父がこんなことをしたのかが、分からなかった。
それはおいおい調べるとして、とにかくこの事態を父に叩きつけることを決意した。

ベッドの脇の台の上にあったメガネを掛けた。視界がハッキリする。

そしてシンジはスッと立ち上がった。

「父さんはどこ?」

訊いても、ユイは何も答えなかった。

碇ゲンドウの姿をしたシンジは、勢いよく部屋を飛び出し、1階に向かった。




■3

「あ、おじさま、大丈夫ですか」

リビングに入るなり、綾波レイが心配そうにシンジに話しかけてきた。
もちろん彼女の目には碇ゲンドウが映っていることだろう。

レイを無視して、シンジはシンジの恰好をした父を探した。
が、どこにもいない。まさか逃げたのか。

後ろでトイレの水が流れる音がした。シンジは素早く振り向く。

いた。自分の姿をした、父がそこにいた。

「あ、父さん、もう大丈夫なの?」

相手はそう言ってきた。演技がうまいじゃないか、と皮肉を言ってやろうかと思った。

「父さん」

と、言ったのはシンジである。ゲンドウの声をしたシンジだった。

横でレイが驚いていた。父親が息子に「父さん」と呼びかけているのだから、
ビックリするのは無理もなかった。

目の前のシンジの姿をした父も、同様に驚いていた。

(すっかりぼくになりきってるよ・・・・・・まったく、どういうつもりなんだ)

「父さん、これはどういうことなんだよ」

シンジは自分の顔を見下ろしているのを不思議に感じながら、低い声で言った。

「何で身体が入れ替わってるんだよ。父さん、ぼくに何をしたんだ」

その場にいた中学生2人は、あっけに取られていた。

そこへ、ユイがゆっくりと階段を下りてきた。

「まだ変なこと言ってるんですか、あなた」

もう冗談はやめて下さい、と呆れたような顔をしていた。

「お父さん、疲れてるのよ」

ユイはレイたちに向かって言った。

「違う、違うんだよ」

シンジは必死に訴える。

「ぼくは本当にシンジなんだ。見た目は父さんだけど、中身はぼくなんだよ。
いまぼくの恰好をしてるこいつは、本当は父さんなんだ!」

シンジは自分の顔をした少年に指を差して、また叫んだ。

「父さん、いい加減にしてくれよ。どうしてこんなことをしたんだよ」

いまは自分のほうが背が高いので、シンジはためらいなく突っかかった。

「ちょ、ちょっと待ってよ父さん。ぼくが何をしたっていうんだよ」

少年シンジが戸惑った表情で、ゲンドウの顔をしたシンジを見上げた。

「あなた、いい加減にして下さい」

いまにも息子の胸をつかみそうなそうな夫を見て、ユイも慌てて押しとどめた。

「ちょっと待って、ぼくの話を信じてよ。ねえ、綾波」

シンジはレイに助けを求めた。

「綾波はぼくのこと信じてくれるでしょ」

訊かなければよかった。レイの顔はまさに『引いて』いた。
変な人を見るような目をしていたのだ。そんな風に見られたのは初めてだった。

シンジは、それから先の記憶がなかった。気がついたら、また寝室のベッドの上だった。

熱い日差しが窓から差し込んでいる。ちょうどいちばん暑い時間帯のようだ。
相変わらず父の姿のまま、シンジは額に玉のような汗を浮かべていた。

このまま汗を垂れ流していれば、身体がすり減って元の姿に戻れるような気がして、
気持ち悪さも忘れてシンジはタオルケットを身体全体にかけなおした。

が、すぐに現実的なモードに思考がうつった。

どうやら、誰もぜんぜんこの状況を信じてくれそうにない。
確かに自分も最初は信じられなかった。

これから自分はどんな対応をしていけばいいのか、そこがいちばんの悩みどころだった。
さっきのように訴えかけても、十中八九また白い目で見られることになるだろう。

だからといって、姿は父でも、やっぱり自分は碇シンジなのである。
諦めて父の振りをするなど、絶対に許せなかった。

それに、シンジと入れ替わって小さな身体を手に入れた父も許せなかった。
すっかりシンジになりきって、完全にしらばくれていたのが鼻についた。

父が何のために身体を入れ替えるようなことをしたのか、何となく分かってきた。
おそらく、綾波レイに近づこうという意図があってのことだとシンジは推測した。

父は、レイが家にやって来た時から彼女のことを気にかけているようだったし、
それどころか娘に対する好意より、女性に対してのそれを持っているようだった。

すると、父がこれからどんなことをしようとしているかは、だいたい想像できる。
シンジになれたのをいいことに、レイに馴れ馴れしくするに決まっている。

シンジ自身としては、それが本意でないかどうかは自分でもよく分からないが、
父に勝手な行動を取られるのはどうしても納得いかない。

それに、勝手な行動をされると、元に戻った時に困るのはシンジ本人なのだ。

(あっ)

シンジはそこでハッとなった。

(これって、ちゃんと元に戻るんだろうか・・・・・・)

ここにきてようやく最大の問題点が浮かび上がってきた。

(戻らないなんてことないだろうな・・・・・・イヤだ、このままなんて)

シンジは頭をかきむしった。頭に浮かんだ汗が大量に手に付着した。
それが自分のものでなく、父の身体から出た汗だと思うと嫌悪感がした。

それは、年頃の娘が父親を嫌がるのと似た感覚だったが、シンジのはもっとひどかった。
自分の身体が父親のものになっているのだから、どうしようもない。

一度イヤになると、その気持ちはどんどん膨らんできた。

(ああ、ヤダヤダ。早く戻りたい。ちくしょう、父さんめ・・・・・・)

どうしたら父がボロを出すのか、どうしたら父が困るのか、シンジは考えた。

しばらくして、シンジはひとつの案を思いついた。

それは、一種の危険性も孕んでいた。が、これしか方法はないとシンジは確信した。

(ようし・・・・・・)

シンジは、必要があるとき以外は、むやみに言葉を声に出さないようにした。
父の声が自分の耳に入ることすらも、もうイヤだったのだ。

そして、シンジは汗だくの身体を持ち上げ、ゆっくりと1階に下りていった。




■4

シンジは、寝室のベッドの上に正座をしながら、茫然自失といったていであった。
口は半開きで、うつろな目は下方のどこかを見つめているのかいないのか分からない。

時刻はまもなく午後の7時になろうとしていた。
外はもう暗くなり、たまに近くを通る車のライトが部屋に移りこむ。

そのライトにもまったく反応することなく、シンジは自分をどこかに置き忘れたようだった。

どうしたら父を困らせることが出来るのか、それを考え出したシンジは、
意を決して1階に下り、その作戦をぶつけたのだった。
それが、見事なまでに裏目に出てしまった。

父の目の前で、父の恰好をしたシンジは綾波レイに積極的に接する作戦に出た。
ちょっとやりすぎじゃないかと自分で思うほど、自分の行動は馴れ馴れしかった。

そうすれば、元に戻った時に父が困るだろうと思ったのだ。

そう、元に戻ったら・・・・・・

たしかに、父の顔――碇シンジ少年の顔には、驚きの表情が浮かんでいた。
だが、驚きの種類が違っていた。

ああ、父さん、やっぱり綾波のこと・・・・・・という感じの顔だった。
決して、勝手なことをしてくれるなという表情ではなかったし、焦った様子でもなかった。

それが何を意味するのか、シンジはすぐに理解することが出来た。

父は、シンジの行動を予想していて、もはや諦めてしまっているのではない。
このまま元に戻ることがないから、いちいち心配する必要がないのだ。

(何てこった・・・・・・)

それから、シンジは寝室のベッドの上で長い間呆然としていた。

もう、父に八つ当たりする気力もない。何もしたくなかった。
これからどうすればいいのか考えることも、面倒だった。

(もうダメだ)

さっきからそればかり呟いていた。

(もうダメだ、ダメだダメだダメだ・・・・・・)

絶望の波が、あちらからこちらからどんどん押し寄せていた。

シンジは、決して自分が大好きだというわけではなかった。
ただ、この姿でい続けなければならないことが、地の底に落ちてしまったような、
並々ならぬ悲劇なのだ。これ以上ない惨劇なのだ。

下ではそろそろ夕食時だろう。シンジは朝から何も食べていなかった。
が、空腹感はまったくない。それほど絶望を感じていた。

(ああ、ダメだダメだ・・・・・・あっ)

と、突然思い出した。こうなってしまった原因は、あの奇妙な黒い石ではなかったか。

(そうだ、あれのことをすっかり忘れていた)

具体的には何をすれば事態が解決するのか、シンジは見当もつかなかったが、
とにかくあの石を壊すなりカバンからキーホルダーを外すなりしたほうがいいと思った。

思い立ったが吉日とばかりに、絶望的な頭をぶら下げながらもシンジは立ち上がった。

(あれだ、あれをどうにかすればきっと・・・・・・)

ふらふらとよろめきながら、シンジは自分の部屋に向かった。

自分の部屋なのに、他人の部屋に忍び込んでいるような妙な罪悪感を覚えて、
シンジは部屋のドアを閉め、電気をつけずに暗いままその石を探した。

(あった)

それはすぐに見つかった。キチンと学校カバンにつけられていた。

見つけたはいいが、いざ何かしようとすると、シンジは腰が引けてしまった。

壊したら壊したで、この不可思議な状態が元に戻るかもしれない。
ただ、壊したことによって永久に元に戻らないのが確定的になる恐れもあるのだ。

だからといって、このままこうしておくのもいけないような気もした。

というわけで、シンジはキーホルダーを外してみることから始めた。

が――

(あれ?)

カバンにつなげているキーホルダーの金属部分が、うんともすんともいわない。
普通の2重リングタイプだから、力を入れればすぐに外れるはずである。

絶望感にとらわれているからといって、いまは自分の未来に関わる作業をしているのだ。
自然と指に力が入っているはずなのに、それでも金属は何の変化もない。

(おかしいな)

シンジは何度も外すのにトライした。が、結果は同じだった。

(ちょっと待ってよ、どうしてだよ。何で外れないんだよ)

シンジは指の力だけでなく、机の上にあった定規を使ってムリヤリ外そうともしてみた。
それでもまるで反応がなかった。ぜんぜんいうことをきいてくれなかった。

(ああああ、もう、ちくしょうちくしょうちくしょう)

ヤケになって、シンジはガチャガチャとキーホルダーを手荒く扱った。
こうしてたらいつかは外れてくれるのでは――という僅かな期待を込めながら。

しかし、何をやっても同じことだった。

(絶望だ――)

今日何度目か分からない絶望が、シンジを襲った。

床にしゃがんだまま、シンジは一回り大きな手で顔を覆った。いまにも泣きそうだった。
いや、もうすでにシンジは涙を流していた。

嗚咽も身体の震えもなく、シンジはただただ、碇ゲンドウの目を通して涙を流していた。
どうしてぼくがこんな目に――と若干、身に起きた悲劇に酔っている自分もあった。

「ちくしょう!」

シンジは無意識に大声を張り上げて、床に向かって思い切り拳を振り下ろした。

「あいた」

その手が、ちょうど無造作に放り出されたキーホルダーの黒い石に直撃し、
痛さに顔をしかめた。そしてすぐに叩いた対象を見つめた。

「ああっ!」

イヤな予感はしていたが、実際に石が砕け散っているのを見ると、驚くほかなかった。

拳は切れて血が流れていて痛々しそうだが、そんなことを気にしている余裕はない。
これまで何度も味わってきた絶望を遥かに越えた、最高の悲劇を目の当たりにしているのだ。

石が壊れてしまったことは、最悪の事態を迎える決定事項であった。
もうどう転んでも悪いことしか起こらない、そんな確信があった。

(終わった・・・・・・)

今度こそ、本当に終わった、と思った。

その場に座り込んだまま、しばらく呆然としていた。
だから、誰かが入ってきたこともぼんやりとしか分からなかった。

「父さん、何してるんだよぼくの部屋で」

相手がそう言うのも、電気がつけられたことも遠くのことのように感じた。

「どうしたの?」

綾波レイの声が後ろから聞こえた。そこでようやく気がついた。
が、まだ顔を上げただけで何かを言おうという気にならなかった。

「もう、夕飯にも下りてこないで、ぼくの部屋で何してたんだよ」

『碇シンジ』は父に向かって咎めるように訊いた。

「あっ、それ、昨日父さんがくれたキーホルダーじゃないか」

シンジは、粉々に砕け散った黒い石を見下ろして驚いた。

「あ、痛い」

レイが悲鳴を上げた。

「破片踏んじゃったよう」

「あ、大丈夫、綾波。ちょっと見せて」

シンジはレイをベッドに座らせ、彼女の足を自分の太ももに乗せた。

「あー、大丈夫だよ、碇くん。そんなことしなくていいって」

レイは両腕を伸ばしてシンジから離れようとするが、

「だって、ほら、血が出てるじゃないか」

シンジはレイの脚を軽く持ち上げて、足の裏を見せやすいようにした。
レイの左足の裏に黒い破片が食い込んでいて、そこから小さく血が滲んでいた。

「綾波はここから動かないでね。バンソーコー持ってくるから」

シンジは破片を踏まないよう気をつけながら、下に下りていった。

そんな様子を、『碇ゲンドウ』は床にへたり込んだままボーっと見ていた。

彼は状況を理解するのに、それから1時間も要した。




■5

「どういうことか、説明してもらえますか」

碇ゲンドウはいつにも増して据えた目を相手の女性に向けた。

「あれは、身体を入れ替える魔法が込められてるのではなかったのですか」

「いいえ、私はそんな説明をした覚えはありません」

その女はゆっくりと言った。

「確かに私は、息子さんになることが出来る魔法だとは言いましたが、
身体を入れ替えることが出来るとはひと言も言ってません」

「何だと」

ゲンドウはいきなり声を荒げた。

「あんたは、私にまがいものを売りつけたのか。ふざけるな」

「あら、誤解してもらっては困りますわ」

女は手を頬に添え、少し困った顔をした。
見た目は一応美人は美人なのだが、仕草がいちいち安っぽかった。

碇ゲンドウがいまいる場所は、先日の出張先で取材した占い店である。
いかがわしい店構えで、そこの女主人もまたいかにもという感じのケバい印象である。

地方に店を構えているにもかかわらず、連日客が押し寄せる有名店である。
そこで、出版社に勤める雑誌編集長の碇ゲンドウが、みずから出張で赴いたのだった。

別に部下に行かせてもよかったのだが、向こうはかなりの有名店である。
その主人に会うのも大変で、こちらのスケジュールにはなかなか合わせられない。
で、たまたま部下の予定が埋まっていたものだから、ゲンドウが行くことになったのだ。

それに、相手も著名な有名人を多数抱えるような売れっ子であるから、
伺うほうも肩書きが重いほうがいいだろうという配慮もあった。

その女主人というのが、これまた見た目には胡散臭さが存分に漂ってくるような人間で、
初めてみてもらう人は誰もが「ホンマに当たるんかいな」と疑ってかかる。
が、「よく当たる」との評判は、日本各地に徐々に広がっていった。

見た目美人で肌ツヤもよさそうだが、単に化粧栄えするタイプかもしれない。
若々しく見せているが、声は年齢を隠しきれず、40は過ぎているとゲンドウは見た。
妖艶な雰囲気を持っているが、彼女はゲンドウのタイプではなかった。

だから、容赦なく口撃をすることが出来た。

「誤解とは何だ。あんたが騙したんだろう」

「いいえ、騙しただなんて人聞きの悪い・・・・・・勝手にあなたが勘違いされたんでしょう」

尻上がりの言いかたが、バカにされているようでゲンドウは憤慨した。

「何だと、私はキチンと言ったはずだ。『息子になれる方法はないか』と」

「なれたんでしょう、息子さんに」

「話が違うじゃないか。『心だけが息子になる』なんて、それではまったく意味がない」

「でも、あなたは了承なさったじゃありませんか」

社長室にあるようなイスをもっと下品にしたようなものに座った女は、
その前にあるデスクに身体を乗り出して、ゲンドウに非があると言いたげに言った。

「この間、あなたが私に取材をしにいらっしゃった時、私はこんな風に言いましたね。
『このまま占いだけを続けていても、その内お客さんに飽きがくるのは目に見えています。
だったら、もっともっと大きな商品を作り上げることが必要なんです。それは魔法です。』」

女はあっさりと『魔法』と言い切った。そして続けた。

「それはまだ始めたばかりの試作段階です。それを承知であなたは受け入れた」

「・・・・・・・・・」

ゲンドウは黙っていた。が、目はまだ相手を睨んだままである。

「あのマジックストーン・・・・・・ま、これはまだ仮称ですけどね、陳腐すぎますし。
マジックストーンも研究段階のものです。でも、あなたはこれでもいいと言った。
とにかく息子になってみたいんだと言って、あなたは試作品を買われていった。
まあ、先日と一緒で、どんな理由があったのかは訊きませんけどね」

「・・・・・・それが弁解になるとでも思っているんですか」

いまだ敵対意識を持ちながら、ゲンドウは敬語に戻した。

「息子になることが出来ると、あなたが言うから私はあれを高い金で買ったんですよ。
売り物として出す予定はないというあの石を、わざわざ買ったんだぞ、私は」

「ええ」

女は嘲笑の笑みを浮かべた。ゲンドウの言葉遣いが曖昧なのをおかしく思い、
彼がわざわざ自分から恥をさらしているのを嘲った笑いだった。

「そうでしたわね」

「だが、あなたは満足な説明を何一つしなかった。どうして言わなかったんですか」

「それは、あなたがすぐに帰られてしまったからでしょう。説明をする前に」

「いや、説明をする時間は充分にあった」

「そうでしたか?」

女はとぼけた。

「あなたは石を手に入れると、うれしそうにすぐ帰ってしまわれたじゃないですか」

「そ、そんなことはない」

うれしそうに、と彼女が言ったのがとても恥ずかしかった。

「ところで、そんなことよりも」

女は興味深そうに言った。

「どうでしたか、あの石の効果は。もっと詳しく聞かせて下さらないかしら。
まだ実験をしたことがないものですから、ちょうどいいので聞かせてもらえません」

「何だと。それでは私はまるでモルモットじゃないか」

「いいえ、そんなつもりはありませんですけれど」

「ふん」

ゲンドウは、時折イヤミたらしい口調になりながらも、話をしてやった。
女はそんなイヤミなどまるで気にせず、興味津々で聞き入った。

すべては、ゲンドウのチンケな欲望から生まれたことだった。

彼は、綾波レイをひと目見た時から、好きになっていた。
妻のユイに対して抱いたような恋心が、久しぶりに彼にやってきたのだった。

もちろん、自分がおとなであり、妻子ある身であることを充分に承知している。
だから、この手にレイを抱きたいとか、そんな考えは表に出すことは絶対にない。
思うだけなら何度もあったが。

そこで、彼女を自分の娘にするのはどうかとゲンドウは考えた。名案だと思った。

レイが成長して、いつか誰かの元にもらわれてしまうのを見るのは、許せなかった。
ずっと、ずっといつまでも自分の近くにいてもらいたかった。

それを解決する方法があった。シンジとレイをくっつけてしまえという方法である。
そうすればレイは自分の娘となる。シンジは息子だから、親には逆らえまい。
2つの夫婦一緒に同じ家で生活することを、シンジに認めさせれば万事オーケーだ。

そんな狙いを持っていたゲンドウであったが、男の欲望は果てしがなかった。
やはり、どうしてもレイに触れてみたかった。レイと普通の会話をしてみたかった。
それが出来るのは、息子であるシンジだった。

もし、シンジになれたらなあ、と、眠る前に妄想を抱くこともよくあった。
そうしたら、あんなことや、こんなことが出来るのに・・・・・・と。

それがとうとう叶えられそうな日がやってきて、ゲンドウは内心ドキドキものだった。
なりたい人間になれる石があるという情報を仕入れたのだ。

そして、ゲンドウは単身、出張の旅に出たのだった。

ここまでの話は、女には伏せながらゲンドウは語っていた。

その石は、確かになりたい人間になることの出来る魔法を持っていた。
だが、なれるといっても、身体ごと変身するわけではなく、
心だけしかなりきることが出来ないという、ゲンドウいわく『まがいもの』だった。

ゲンドウがレイにあげたほうの青い石は、単なるカムフラージュのキーホルダーで、
シンジにあげた黒い石が、そのマジックストーン(仮)とやらである。
ゲンドウもシンジと同じものを持っていた。

女からよく説明を聞かなかったから、どうすれば効果があるのか、それは分からなかった。

そこは女がこう説明した。

「あれは、なりたい人が身につけたり、普段使っているものに取り付ければいいんです。
例えば、息子さんなら、制服だとか、カバンだとか、そういうものでもいいんですよ」

ゲンドウはなるほど、と合点がいった。確かにシンジは学校カバンに石をつけていた。

そして、出張から帰ってきた次の日。

ゲンドウは、すっかり心が碇シンジになってしまっていた。
碇ゲンドウの人格はどこかへ消え、息子の人格が宿った状態だった。

石を自分で破壊したことによってマジックストーン(仮)の効果が切れた時、
正確にはそれから1時間後だが、自分がどうなっていたのかが分かった。

ゲンドウは、完璧にシンジとなっていた。息子は、まったく変わることなく碇シンジだった。
つまり、ゲンドウがひとりで勝手にシンジの心をコピーアンドペーストしただけだったのだ。
カットアンドペーストではない。シンジはシンジだったのだから。

事態を知った時、シンジになっていた自分を客観視している自分がいたことに気がついた。
つまり、心がシンジになっている状態の時のことを、ちゃんと覚えているのだ。
なのに、ぼくはシンジだ、父さんじゃないなどと言って絶望していたのだった。

あまりにバカげた話ではないか。自分で勝手に自分を嫌い、絶望していたのだ。
真相を知った時には、さすがにゲンドウも崩れ落ちた。

ちなみに、その悲劇があった日の出来事は、すべてなかったことになっているようだった。
ぼくはシンジだ、と言って錯乱した姿をみんなに見せてしまったことも、
父を困らせる作戦だといって、綾波レイにちょっかいを出しまくったことも、
一切なかったことになっていた。それはとてもありがたかった。

今更、そのことを何でだろうと考えるようなことはしない。過ぎ去ったことだ。
何にもなかったらなかったで、それでいいじゃないか、とゲンドウは思った。

「・・・・・・長く話しすぎた。私はもうこれで失礼する。もう二度と会うことはないでしょう」

ゲンドウは荷物を持つと、さっさとその場をあとにした。

「またいらして下さい」

と奥から女の声が聞こえたが、もちろん無視してやった。

だが、それをいい気味だとは思わず、ゲンドウの顔は後悔と反省の色で塗り固められていた。

もう、魔法なんてこりごりだ、という陳腐な締めくくりが、この場合は最適だな、
などとひとりで思って、ゲンドウは無駄な笑みを浮かべた。

やはりこの男は、まだ何も懲りていない。




つづく


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