■1

さっきから蹴った小石がことごとくあらぬ方向へそれていく。
1つとしてまともに同じ石を蹴り続けられていない。いったいどうしたのだろう。

いや、どうしたもこうしたもなかった。原因はハッキリと分かっているのだ。
おぼつかない足取りとはこういうものである、という良い例が自分の足に表れていた。
よくも歩いていられるものだとみずから感心してしまうほどフラフラだった。

ふと、ズボンのポケットに手を突っ込んでみると、何か小さく硬いものに当たった。
それが何なのかすぐに分かって、無理に取り出して眺めようとはしなかった。
こんなもの、もう必要ない。

やり場のない怒りに似た感情が心を締め付けた。それを、近くにあった小石にぶつけた。
今度は真っ直ぐに転がっていったので、少し気を良くして転がった先にヨロヨロと駆けた。

もう一度蹴る。歩道の先には他に誰もいないので、強めに蹴った。
だが、誰もいないからといって危険がないわけではなかった。

信じられないことに、蹴った小石は浮き上がり、放物線を描いて民家のほうに飛んでいった。
しっかりと塀を飛び越え、予想通りガシャンという気持ちの良い音が響いた。
見なくても分かっている。ガラスを割ってしまったのだ。

しまった、と思った時にはすでに家の主が前を立ちはだかっていた。
家の中でなく、門前にいたらしい。すべて見られていたのだ。

しかめっ面がよく似合うおばさんだった。怒るのを楽しむかのようにわめき散らしていた。
背は低いくせに、蔑む態度はこちらが慄くほど素晴らしく決まっていた。

ひたすらすみません、と謝った。声に張りがなかったらしく、なかなか許してくれなかった。
声がしょぼくれているのも仕方がないことだ。もちろんおばさんには知ったことではない。

近所の人が、各々の家の窓から覗いているのが分かった。おばさんの声が大きすぎるのだ。
もちろん恥ずかしかったが、どこか他人事のような気分でもあった。

いつまでも怒り続けるおばさんにいい加減飽きて、弁償します、と言った。
すると、その言葉を待っていましたと言わんばかりにこちらの連絡先を訊いてきた。
家族に知れるのは忍びないところだが、断る理由もないので正直に教えた。

本当のところ、おばさんが警察を呼ぶとか呼ばないとか言い出したのがキッカケだった。
こんな些細なことで警察沙汰に遭っては神経が持つわけがない。弁償代は高くつくだろう。

どうにか解放された。

後ろは振り返らず、黙って歩いた。走るほどの気力は最初から持っていなかった。
おばさんの、フンという聞こえよがしの鼻息が後方から聞こえた。
もう一度あの歪んだ顔を拝まなければならないかと思うと、ちょっとやるせなかった。

家に帰ると、珍しく父親がいた。すでに知らせは伝わっていたようで、いきなり罵声が飛んだ。
怒りっぽい父の顔は、もう赤くなっていた。そういえばあまりろれつが回っていない。
テーブルに空き缶が数個転がっていたので、そのせいかもしれなかった。

今年は小遣いなしだ、とか何とか言われても、やはり他人事にしか聞こえなかった。
ガラスを割ったことなど、些細も些細、無いに等しいほどどうでもいいことだった。

そんなちっぽけなことに怒るおとなを見たのはこれで2人目だ。
父は、奥に引っ込むとブツブツ言いながら戻ってきて封筒を渡した。一万円札が数枚あった。
お前ひとりで謝りに行ってこいと言う。保護者も行くのが常識だろうに。

どうせ、父が人嫌いなことくらい知っているから、仕方なくもう一度外へ出た。
出る時に思わず聞こえよがしのため息をついてしまったが、父はもう知らん顔だった。

いったい、何をしているのだろう。おばさんに再び怒られながら心の中でそう思っていた。
しまいには説教に変わったおばさんのわめきからようやく離れると、家に戻った。
一応、落着したと言っていいだろう。面倒な仕事が終わって、また気分が沈んだ。

何も言わずに自分の部屋に行こうとしたが、妹がそれを阻止した。

「お兄ちゃん」

無視して部屋の戸に手をかけたが、妹は頑として中に入れようとしなかった。
いったい何のマネだと目で訴えると、

「大丈夫だったの?」

と妹は心配そうな目でこちらを見上げた。兄のことが心配で仕方ないという顔だった。
本来ならうれしいが、いまは大きなお世話というか迷惑だった。

おばさんのせいで喋るのも面倒になり、妹には声もかけず無理に部屋の戸を開けた。

「どうして黙ってるの」

ねえ、いっぱい怒られなかった?という声が、閉めた戸の向こうから聞こえた。

母親がいないせいで、どうも世話焼きに育ってしまった妹ではあるが、
兄に対しては単なる甘えん坊である。心配してくれる気持ちだけありがたく受け取った。

いまは暦の上では秋というものらしいが、1年中夏では何の実感も湧かない。
閉め切った部屋はムッとして、ただ暑いだけだった。

それにも構わず、すぐにベッドの上に横になった。まだ早いがこのまま寝ようかとも思った。
いつまでもあの言葉が頭の中で繰り返される。思い出すだけで眩暈がした。

ガラスを割ったことなど、もう別の世界の話であるかのように遠くにいってしまっていた。
考えているのはただ1つだった。だが、もう考えたくなどない。眠ってしまおう。

なかなか眠れないだろうと思っていたが、睡魔はあっけないほど早く襲い掛かってきた。

妹が呼ぶ声がして起きた時には、もう外は暗くなっていた。




■2

「鈴原くん」

これが運命の始まりだった。

振り向くと、学級委員の洞木が立っていた。怒っている様子でないのが不思議だった。
そういえば、いつもは呼び捨てのくせに「くん」が付いていたのも不気味だった。

「何や、イインチョー」

洞木のことをそう呼ぶのは、初めは世話焼きをからかうためだったのだが、
知らず知らずの内に日常の普通の時でもそう呼ぶ習慣がついていた。

「ちょっと相談があるんだけど」

洞木がぼくに相談など、珍しい。心底驚いた。

「どうした。ワイに相談て、相当頭おかしくなってるな」

「ちょっと鈴原、真面目に聞いてよ」

いつもの怒った表情が見られた。安心して真面目に話を聞くことにした。

昼休みの教室は、案外静かなものだった。男子はこの暑い中、ほとんどが外で遊んでいる。
女子は屋上が好きらしく、ほとんどそっちへ行ってしまっていた。

弁当を食べるのが早く終わり、教室の日陰で涼んでいるところに洞木が来たのだった。
ぼくは暑くて疲れることが嫌いなのだ。洞木もそうらしく、ずっと教室にいた。

「で、相談っちゅうのは何や」

「ちょっと、こっち来てくれる」

洞木の誘導にしたがって、教室の隅に移動した。聞かれるとまずい話のようだ。

「鈴原って、碇くんと仲が良いでしょ」

いきなりそう訊かれたのでちょっと面食らった。そういえば呼び捨てに変わっている。

「ああ、それがどうした?」

「頼まれて欲しいことがあるの」

ぼくはうなずいて続きを促した。

「あのね・・・・・・」

と、洞木は声のボリュームを小さくし、口元に手を当てて内緒話をする仕草をした。
仕方なく彼女のほうに耳を近づけた。

「アスカが、碇くんのこと好きなんだって」

「アスカって、惣流か?」

相手に合わせてぼくも小さな声で応答する。

洞木がうなずくのを見て、ぼくは後ろを振り返った。惣流と目が合った。
向こうが咄嗟に目をそらすのを見てから、洞木に向き直って訊いた。

「それで?」

「それでね、アスカって、ああ見えて結構恥ずかしがり屋なのよ・・・・・・なに笑ってるのよ」

あの惣流が『恥ずかしがり屋』だという。声を出さずに笑うのはなかなか難しかった。

「ククク、恥ずかしがり屋の惣流がどうしたって?」

「アスカ、そのことで結構悩んでるのよ。意識しちゃうとうまく話せないんだって」

「でも、いつもはよーけシンジのことからかってるやないか」

「それは照れ隠しよ。わざとそうしてるの」

「あれがわざとか・・・・・・?」

これまでの、数々のシンジへの罵倒を思い起こすと、信じられなかった。
バカシンジを筆頭に、ドジだのマヌケだの、惣流の言葉はひどいと感じるほどだった。
どう考えても照れ隠しだとは思えないのだが、本当なのだろうか。

「どうも信じられんな」

「ほんとなのよ。ここのところ毎日アスカの相談に乗ってるのよ、私」

「ほーお」

そいつはご苦労様です、という感じで頭を下げる。だが洞木はいたって真面目な顔だった。
こっちも無駄な笑いは引っ込めて、表情を硬くしようと努力する。

「それで」

だいたい予想はついていたのだが、確認のために訊いた。

「ワイに何をしろと」

「その、恋のキューピッドっていうか、あのふたりの仲を取り持って欲しいのよ」

「うーん」

ちょっと無理な相談に思えた。もっと誰か適任な人間がいるだろうに。
よりによってこのぼくに頼むとは、よほど困っているらしい。

それに、わざわざ惣流の見える所でこうして頼んでいるということは、惣流も承知らしい。
関係を取り持つというのは内密に、それとなくするものだと思っていたので拍子抜けだった。

唸っていると、洞木は小さく付け加えた。

「私と一緒に」

「イインチョーとか?」

洞木はぼくの目を見ずに、うつむくようにうなずいた。

「ま、ええやろ。2人でやれば何とかなりそうやしな」

「え、引き受けてくれるの?」

「おお」

任せろ、と自分の胸を叩いた。本当は内心「無理とちゃうか」と思っていたが。

「よかった。ありがとう」

洞木が安心した顔でお礼を言うので、少し驚きながら、こっちも軽く微笑んだ。




■3

「なーに話してたんだよ、イインチョーと」

洞木との話を終えて席に戻ると、ケンスケが興味深そうに訊いてきた。

「ん、まあ、その、あれや。トップシークレットってやつや」

言ってから、あまりに勘違いを生みそうな言葉だったのに気が付いて、ハッとなった。
少しどもってしまったのも悪かった。

「何だよそれ。何だよ何だよ、気になるじゃないか」

ケンスケはより一層ニヤニヤした顔を近づけてきた。

「どんなこと話したんだよ。教えろよ。なあ、シンジ」

傍らにいたシンジは「え、うん」と、さほど興味を持った風ではなかった。
それでも一応肯定したのを味方につけて、ケンスケはまたせがんだ。

「ほら、シンジも聞きたいって言ってるぞ。言えよトウジ」

「ああ、もう、しゃあないな」

シンジがいる手前、本当のことなど話せるわけがないので、ウソをついた。

「ほれ、あれや。掃除当番。昨日サボったから今日はちゃんとせえってな」

「本当か?」

ケンスケは疑惑の目だった。やはりいまのウソは苦しすぎたか。

「ワイが本当っちゅうんだから、本当や」

「そんなことがどうしてトップシークレットなんだよ」

「そりゃあ、ちゃんと掃除せえ言われたなんて人に言える話やないやろ」

「ふうん。でも、そんなこと言うためにどうしてコソコソしなくちゃならないんだ?」

まったくケンスケというヤツはしつこいヤツだ。

「まあ、洞木もそんなけったいなこと言うの恥ずかしかったんとちゃうか」

「そうかなあ・・・・・・」

と言ったきり、ケンスケはもう質問をしてこなかった。ひとまず汗を拭えそうだ。

シンジのほうに目をやると、相変わらずのん気な表情をしていた。
コイツは基本的に話を振ってやらないと喋らない。いまみたく会話を眺めるだけである。

こんなのほほんとしたヤツのどこに、あの口うるさい暴力女は惚れたのだろう。
のほほんがいいのだろうか。「どんくさいヤツ」と言ったりするのは気持ちの裏返しか。

確かに、シンジはのんびりとして男気に欠けるが、気立てのいいヤツではある。
もう少し他人を窺うのをやめれば、人間として出来たものになれるだろう。
そんなことを言えた義理ではないかもしれないが。

何があったか知らないが、おそらく惣流はシンジの優しさに惹かれたのだろうと思った。
他にこの女装が似合いそうな男の長所が見つからなかった。

シンジの隣は、惣流の席である。今度はそちらのほうを見てみた。

洞木とヒソヒソ話をしていた。ぼくが引き受けたことの報告はもう終わったろうから、
おそらく作戦会議でもやっているところだろう。声は聞こえてこない。

それにしても、まさかあの惣流がなあ、とぼくはしげしげと見つめてしまった。

この惣流アスカという女は、2年の初めに転校してきたのだった。
教室に入ってきた時、さすがのぼくも「おお」と唸ったほどの器量である。
・・・・・・ことは認めるが、この女、とにかく口がうるさい。

自分のことを「天才」だの「美少女」だのと、激しい自信過剰振りは日常茶飯事。
気に入らないことがあるとすぐにわめいては罵り、シンジを筆頭にえらい目に遭う。
ぼくは負けず嫌いなので、惣流と口でやりあうこともしばしばだった。
大抵、というかほとんど毎回、洞木が止めに入るのだった。

他人に弱みを見せることを極端に嫌いそうな惣流だが、さっき洞木が言ったように、
親友にはすべて打ち明けているようだ。やはりそれなりに悩みもあるのだろう。

ところが、ほとんど敵対視しているようなぼくをつかまえて「助けて欲しい」である。
恥ずかしがり屋だか何だか知らないが、そういう秘密をぼくに教えていいのだろうか。
よっぽどシンジと仲良くなりたいらしいと窺える。今更勝手にやってろとは言えなくなった。

まったく、無茶な仕事を頼まされたものだ。思わずため息が出る。

「トウジ、どうしたの」

ちょっと重々しいため息だったか、シンジが心配そうに言った。

お前のことで悩んでるんだ。そう言いたかったが、「何でもあらへん」で済ました。

仕方がない。男に二言はないのだ。やるしかない――そう自分に言い聞かせた。




■4

「問題は、碇くんの気持ちよ」

「うん」

「彼がアスカにちょっとでも興味があれば、きっと、いえ絶対うまくいくわ」

「そうかな」

「そうよ。いつもの自信はどうしたの、アスカ」

「だって」

「不安になるのは分かるけど、アスカは元気でいるのが一番よ。一番かわいい」

「ありがと」

「・・・・・・そうだわ、ちょっといいコト思いついた」

「なあに、ヒカリ」

「碇くんの、アスカに対する反応を調べることが出来る作戦、思いついたの」

「どんなの?」

「アスカってば、いっつも碇くんに強く当たってばかりでしょう」

「うん、まあ」

「それを、ちょっとだけ変えてみるの。少し優しくしたりして」

「でも、かえって逆効果になるような気がする」

「どうしてよ、アスカ」

「もしアイツがアタシのこと嫌いだったら、そんなことしたら気味悪がるかもしれない」

「そんなことないわよ。碇くんはそういう人じゃないもの」

「そうかなあ」

「あ、そういえば、アスカがそんなことしなくてもちゃんと彼の気持ちは分かるんだ」

「何で?」

「鈴原がそれとなく訊き出してくれるだろうから。ね」

洞木は振り返り、精一杯の期待を込めたような笑みでぼくを見た。
あれ、アンタいたんだっけ、という惣流の視線も感じた。

まったく、下手な芝居を見せられたような気分だ。惣流がまるで別人のようなのだ。
それに加えて、洞木も洞木でずい分と乗り気のようで、出だしから早くも疲れそうだった。

『アスカ―シンジらぶらぶ作戦』という決して口にしたくないネーミングの計画に、
参加を希望されて仕方なく引き受けた日の帰りだった。作戦の名づけは惣流自身だった。

そういえば、仕方ないと思って引き受けた根拠は何なのだろうと頭をひねった。
特に惣流や洞木に負い目はないし、断ろうと思えば簡単に断れたのだ。
もしかすると、間近で惣流とシンジの成り行きを見たくなったからかもしれなかった。
案外ぼくは、無駄な野次馬根性を持っているらしい。

そんなことを考えながら、ぼくは前を歩く2人の女子の会話を聞いていた。

ケンスケ、シンジと一緒に帰ろうとしていたところに、この女たちはやってきたのだった。
ちょうどぼくがケンスケに、掃除当番の言い訳をしたのを聞いていたかのように、
洞木はぼくだけに「掃除があるから帰っちゃダメ」と言うのだった。
もちろんそれがシンジたちを先に帰すやり口なのは分かっていた。

親友2人が教室を出ると、洞木は早速、ぼくを交えた作戦会議を開こうと、
一緒に帰ろう、と言ってきた。やると言った手前断れないので、それに従った。
帰る方向は3人とも途中まで一緒らしかった。

「どう訊けっちゅうんや。シンジにいきなりそんなこと訊けるか、ワイが」

面倒なことはなるべく人任せにしたいぼくは、意見を促そうとそう言った。

「そういう話、しないの? いつもいろいろと碇くんや相田くんと喋ってるみたいだけど」

洞木は惣流と並んだまま、後ろに顔を向けて言った。喋りづらそうなので隣に並んだ。
3人が並んでもゆうに通れる歩道だった。

「恋愛話は女がするもんやろ。ワイらはまったくせんな」

「それじゃ、好きな人を教え合ったりもしないの?」

「アホ。ワイらは色恋より友情優先主義なんや。そんな話ありえん」

「ふうん」

「ダサいわね」

洞木が微妙な相槌を打つ横で、惣流がポツリと呟いた。

「ダサいやと?」

「そうよ。友情にしがみついて恋愛に興味ない振りをするなんてモテない男の僻みよ」

「何やて」

惣流の言葉はどこか整然としていないような気がしたが、それでもカチンときた。
だが、別にコイツの言うことが正しいわけではないと思い直し、怒りを抑えた。

「ふん。せっかくお前の手伝いをしてやろうってのに、そういう態度か」

思わず嫌味な言葉遣いをしてしまうのは、慣れからくるものだった。
決まってこういう些細な事からぼくらは口論に発展するのだ。いまは抑えておこう。

惣流もフンと鼻息をついて、ぼくから顔をそらした。その仕草が決まりきった形だったので、
ぼくは思わず笑みを洩らした。洞木がこちらを見たのですぐに引っ込めた。

「もう、最初からこんなことやってたら何も進まないでしょう」

すっかり作戦部長という感じで、洞木はぼくらをたしなめた。
そのまま取り仕切るように続ける。

「とにかく、鈴原は碇くんにいろいろ訊いて欲しいのよ。ちょっとしたことでもいいから」

「でも、ほんまにどう訊いたらいいか分からんのや」

「そうね・・・・・・例えば、好きなアイドルとか、そういうところから切り込むのは?」

「好きなアイドルなあ・・・・・・ワイがあんまり知らんからなあ」

「だったら相田君と一緒にいる時に訊いたらいいじゃない。彼、何となく詳しそう」

「いや、あいつは自分の趣味のことしか頭にないからな」

ケンスケがたまに独り言を呟いても、ぼくにはまったく理解出来ない言葉ばかりだった。

「まあ、何とかやってみよか」

「うん、お願い」

洞木は自分のことのように頼み込んだ。だが本当は惣流の手伝いを頼まれているのだ。
肝心の惣流はこちらを睨むだけだった。信頼している顔とは到底思えなかった。

道の途中で、ぼくだけ別方向となったのでそこで別れた。

ひとりで帰り道を歩きながら、それにしても、とふと思った。

それにしても、中学生がここまで本気で恋愛を考えるものなのだろうか。
ずい分進んでるんだな、と思いながら、自分も中学生だということを思い出した。
こっそり苦笑して、誰かに見られてはいまいかと周りを窺った。

ランドセルを背負った女の子に見られていた。恥ずかしかったのでそそくさと通り過ぎた。
子供のくせに、何だか冷たい目だった。もう、ひとりで笑うのはよそうと思った。

しばらく歩いて、家に着いた。




■5

「なあ」と言って、ぼくは洗いものをしている妹に声をかけた。

「お前、テレビ好きやろ」

「うん」

振り返らずに妹は答えた。

「それがどうかしたの」

「いや、ちょっと教えてもらいたいことがあってな」

妹は手を止めてこちらを振り返った。ぼくの少し改まった言いかたが気になったのだろう。

「なあに、教えてもらいたいことって」

「ほれ、水出しっ放し」

指摘すると妹は蛇口をひねり、手を拭きながらこちらに来てそばに座った。

小学校低学年のくせに、コイツときたら本当にしっかりした女の子である。
母親がいないせいで、自分が母親の代わりになったように振る舞うのだ。

食事も簡単なものなら危なげなくひとりで作れるし、たいていの家事はこなせる。
たまに見ていて忍びなくなり、ぼくもよく手伝ったりする。

いまなど、洗いものを手伝おうと言ったら「ダメ、私がやるからあっちへ行って」ときた。
強情な妹には逆らわないほうがいいので、仕方なく居間でのんびりとしていたのだった。
祖父は奥で本を読んでいる。父親はまだ帰っていなかった。

「何を教えて欲しいの」

子供っぽくない、抑揚のない言いかたで妹はもう一度訊いた。
母親を演じている時は言葉遣いまで変わるのだ。

「いやな、この後いつもお前が見てる番組があるやろ。歌番組が」

「うん」

「そこに出てくる、歌手の名前を教えて欲しいんや」

「名前? どうして?」

「いや、やっぱりテレビ見んと流行に乗り遅れるからな」

流行などどうでもいいが、その場しのぎのウソとしてはまずまずだった。

「お兄ちゃんなんて、とっくに遅れてるじゃない」

妹は厳しいことを言った。

「まあ、いいよ。無知のお兄ちゃんにレクチャーしてあげる」

そう言って、妹は残りの洗いものを済ませに台所に戻った。

いつの間に無知やレクチャーという言葉を知ったのだろうか。
少し驚きながら妹の背中を見つめた。

ぼくは、テレビはお笑いかアニメくらいしか見ない。ニュースももちろん見ない。
だからいま人気のアイドルのような連中のことはほとんど門外漢だった。

妹に訊くのはやはり恥ずかしい気もしたが、訊くしかないのだった。
シンジに対して質問をする際、他に問いようがなかったからだ。

みずから望んだ仕事を終えた妹は、居間に入るなりテレビをつけ、チャンネルを合わせた。
まだ前の番組をやっていた。ボーっと眺めながら、時間が経つのを待った。

「あ」と、妹が画面を指差した。

それはCMだったが、どうやら非常に人気のあるらしいアイドルが出ていた。
妹はその名前と一緒に、この後の歌番組に出ることも教えてくれた。
さすがテレビに出るだけあって、顔はかわいいしスタイルも良さそうだった。
案外どこにでもいそうな感じがぼく好みに映った。

そして目当ての番組が始まると、さっきの言葉どおり妹のレクチャーが始まった。
出演していた内、2人、女性のアイドルがいた。ひとりはさっきCMで見た顔だ。

歌手の名前を教えて欲しいと言ったから、妹は杓子定規にすべての歌手を教えてくれた。

CMでみた人とは別の、もうひとりのアイドルのほうはずい分派手な印象だった。
やけに明るく、顔立ちもハッキリとしている。そういえばちょっと惣流に似ていた。

ここで教えてもらった2人のアイドルの内、こちらが好みだったとしたら、
もしかしたら惣流も好みのタイプに入るかもしれない。明日シンジに訊いてみようと思った。

真面目に言うと照れるのでそっけなく妹に礼を言うと、ぼくは教わった名前を忘れまいと、
頭の中で連呼した。もう覚えたと頭が言うのを聞いてから、風呂に入ることにした。




■6

どういう話題の振りかたをしようかと気を揉んだ。それとなく話しかけるというのは難しい。
自分では何気ないつもりだったが、シンジからすればぎごちない喋りに聞こえただろう。
アイドルという言葉を言うだけでも少々気が引けていた。

「お、トウジがそんなこと訊くの珍しいな」

シンジに訊いたつもりだったが、先に食いついたのはケンスケだった。

「そうだな、おれが好きなのは・・・・・・」

と独り言のように言って、ケンスケは次から次へと名前を挙げていった。
昨日洞木が「詳しそう」と言ったとおり、コイツは相当詳しいようだ。

相変わらず昼休みは人が少なかった。いつもはうるさくなくてありがたかったが、
今日はいてくれないこと自体に感謝だった。こんな話を聞かれるのは恥ずかしかった。

いまの注目株は誰それ、とか、そろそろ誰それが来る、などとケンスケは熱弁した。
口振りや、手振りの交えかたなどが評論家っぽかった。本当に評論家かもしれない。
どれを聞いても知らない名前なので、もちろん顔も浮かんでくるはずなかった。

シンジを窺ってみると、多少ケンスケの話についていっているようだった。
これなら昨日覚えた2人のアイドルの名前を出しても通用するだろうと思った。

「分かった分かった」とぼくはケンスケの長い話を遮り、シンジに顔を向けた。

その時ちょうど隣で喋っていた洞木と惣流がこちらを見たのが見えた。
これは気を引き締めていかねば、とぼくは意気込んで訊いた。

「なあシンジ。いまから2人の名前を言うから、お前の好きなほうを答えてくれ」

ぼくがその2人の名前を言うと、またしてもケンスケが口をはさんだ。

「ほう、タイプが両極端の2人だな。おれはどっちかっつーと・・・・・・」

ケンスケの意見は無視して、ぼくはシンジに訊き直した。

「なあ、どっちや、シンジは」

「うーん、ぼくは・・・・・・そうだなあ・・・・・・」

シンジがチラッと隣を見たのをぼくは見逃さなかった。女子が近くにいるから言いにくいのか。
それとも別の心理が働いたのだろうか。そこまでは分からなかった。

昨日テレビで見た印象では、2人のうちちょっと派手なほうが好きだったら、
惣流も好きなタイプに入るのでは、という予想を立てていた。
だから、何となくそっちのほうを選んで欲しいと思いながら、シンジの口元を見つめた。

だが、返ってきた答えは逆だった。シンジはもうひとりのほうの名前を言ったのだ。

「え、何でや」

ついつい非難するように訊いてしまった。

「うーん、何て言うか、こっちのほうがどこにでもいそうな感じがするから、かな」

それは昨日ぼくも思ったことだったので、何も反論できなかった。

「トウジはどっちが好みなの」

シンジが逆に訊き返してきた。想像はしていたが、実際訊き返されると困ってしまった。

「まあ、ワイもシンジと同じ・・・・・・かな」

「へえ、そうなんだ」

ケンスケが相槌を打った。

いまぼくが挙げた2人について、ケンスケはまた熱弁を振るい始めた。
それを聞くともなしに聞きながら、ぼくは別のことを考えていた。

シンジが予想とは反対の名前を言ったことで、事態がどうこうなるものでもない。
理想のタイプと、実際に好きになった人のタイプに違いがあってもおかしくないのだ。
そうやって楽観的に考えることで、ぼくは荷の重さを少しばかり軽く出来た。

ケンスケのうるさい講釈がひと通り済むと、ぼくはひとりでトイレに立った。

用を足しながらあれこれと考える。どうしよう、とか、何でこんなことしてんだろう、など。

よくよく考えてみたら、惣流の勝手な思い込みに付き合わされているだけなのだ。
もしシンジが惣流を好きでなかったら、何と押し付けがましいことをしようとしているのか。

そう思っても、なぜか降りようとは言えなかった。なぜなんだろう。よく分からない。

洗った手についたしずくを空で切りながら便所を出ると、洞木と惣流がいた。

「鈴原くん」

洞木はぼくを呼ぶと、教室のほうから離れるように移動した。
ため息をつきながら後に続く。

昼休みにはきっと誰も通らないと思われる廊下に差し掛かった所で、洞木と惣流は止まった。

「何や」

「ねえ、どうしてもっと訊いてくれないの」

喋るのはいつも洞木だった。惣流はぼくと口を利きたくないらしい。

「もっとって、他に何を訊けっちゅうんや」

「だから、好きな女の子のタイプよ。さっきあそこまで訊いておいてどうして訊かないの」

ぼくとシンジの会話をしっかりと聞いていたようだ。

「いや、それは・・・・・・ケンスケがおったから」

「相田くんがいると、どうして訊けないの」

「だってワイがそんな質問したら、まず間違いなくシンジも同じ質問をし返すやろ」

「まあ、そうかもね」

「人前で言えることかいな。ワイが恥かいてどうする」

「えーっ、言えばいいじゃない、鈴原も」

「言えるか、アホ」

「どうして? 友達同士なのに」

「友達だからなおさら言えんのや」

「変なの。ほんとに友達なの?」

「当たり前や。ワイらはそういうもんなんや」

「ふうん」

曖昧にうなずいてから、洞木は急に惣流のほうを向いた。
惣流は洞木の制服の端を引っ張りながら、ぼくを睨んでいた。

「ねえ、あんたの話はどうでもいいんだけど」

と、惣流はぼくを冷たくあしらった。

「あ、だから、鈴原にはもう少し突っ込んだところまで訊いてほしいのよ」

洞木が大きな声で言った。ぼくと惣流を口論に発展させまいと気転を利かせたのだろう。

「ね、ほんとにお願い。鈴原くんしか頼める人いないのよ」

「あ、ああ、分かった」

どもったのが照れたためだと悟られまいと、ぼくはわざとため息をついた。




■7

「あれ、ケンスケはまだ来てないの?」

シンジはこちらに歩いてきながらそう言った。

「ああ」とぼくはうなずく。

「さっきあいつの家に電話してみたんやけどな、急に重大な用事が出来たっちゅうて、
悪いけどおれは行けない言うんや」

「えっ、何だろう、重大な用事って」

「またどうせワイらには分からんことやろ。軍用機がどうのこうの言うてたからな」

「あ、そっか。そしたら2人か・・・・・・どうする、トウジ」

「そうやな・・・・・・」

ぼくは呟きながら、心の中でまだかまだかと焦りを覚えていた。

早いもので、洞木から面倒な仕事を引き受けてから1ヶ月が経っていた。
もう11月も終わる頃である。1年が経つのは早いな、としみじみ思った。

時間は過ぎても、中身はまだまだつぼみにもならないという惨憺たるものだった。
要は、シンジと惣流の仲はまるで進展していないということである。

そこで、ぼくがなかなか出るに出られないのを見かねた洞木は、ある提案をした。
あえて名前をつけるとすれば、「ダブルデート作戦」とでも言えばいいのだろうか。

内容はこうだ。

ちょうど友達同士で遊園地に来ていたぼくとシンジ、洞木と惣流の2組が偶然出会う。
洞木が、どうせだから一緒に行動しようと提案する。ぼくが仕方ない振りをして受け入れる。
もちろんシンジの意見は真っ向から無視される。

ぼくと洞木で協力して、シンジと惣流をカップルにさせようとする。
例えばジェットコースターなどで並んで座らせたりとか、そういう類のことである。
もちろん観覧車に乗る時は4人で乗らず、2人ずつ乗る。

とまあ、これは洞木が考えた初期段階の作戦内容なのだが、少し無理な点がいくつかある。
ぼくはすぐに気がついて訂正させた。

まず、ちょうど友達同士で遊園地に来ていた、という初めのところでつまずく。
まさか男2人で遊園地など、あるわけがない。苦しすぎるシチュエーションである。

そのことを指摘すると、女の子は友達と2人で行ってもおかしくないわよ、と洞木は言った。
そっちのことはどうでもいいんじゃ、と思いながら、ぼくはここの部分をどうすべきか考えた。

すぐに名案を思いついた。ケンスケを使うことでどうにかなると考えたのだった。

まずケンスケにそれとなく休日の予定を訊き、大切な用事がある日を覚えておく。
その日を作戦決行日とし、シンジに遊びに行こうと誘う。ケンスケも一緒、とウソをついて。

当日、シンジが来てから、ケンスケは来れなくなったと教える。
待ち合わせ場所を遊園地近くの駅前にすることで、『お流れ』を防止する。
どうしようか、と宙ぶらりんなところへ、洞木と惣流が現れる――これがベストだと思った。

1つ目の問題は解決した。まだ次がある。

一緒に行動しようという洞木の提案を、ぼくが受け入れるというくだりである。
おそらくシンジの目には、ぼくと洞木・惣流というのは仲が良くないと映っているはずである。
ここ最近、ぼくと洞木の会話が増えていることは、隠れてしているから分からないだろう。

それなのに、いくらイヤイヤを装うとはいえ、一緒に行くことを認めるのは少々危険な気がした。
もしや、ぼくが洞木か惣流に気があるとシンジに勘違いされてしまうかもしれないからだ。
だが、惣流のたった一言、「アイツは鈍感だから」で事は片付いてしまった。

確かにシンジは鈍感なところがあるから、シンジと惣流をカップルにさせようと、
まずぼくと洞木が先に、なるべく自然な成り行きで並んで行動するようにしたとしても、
ヤツの場合、さほど不自然には感じないかもしれなかった。

ただ、観覧車に2人ずつというのは危険性を考えると引っかかるところがあったが、
それは当日の雰囲気で決めることにしようということで、会議は終わりを迎えた。

そして日曜日の朝、ぼくとシンジは待ち合わせ場所の駅前にいた。

「男2人で遊園地っていうのもちょっと・・・・・・ね」

シンジは苦笑いを浮かべた。予想通りの反応だった。
早く洞木たちが来てくれないと困る。

と、改札口のほうから「ごめーん」という声がした。洞木だった。後ろに惣流もいた。

たぶん遅れたことをぼくに詫びる「ごめん」だったのだろうが、ここでは失言である。
シンジは後ろを振り向いて、女子2人を見つけたことに驚いた様子だった。
洞木の失言に気づいていないようだったので、ホッと胸をなで下ろした。

「うわ、何やお前ら、こんな所で何してんのや」

ここから早速ぼくの演技が始まった。

「アンタたちこそ何してんのよ、こんな所で」

シンジがいるせいか知らないが、洞木ではなく惣流が応戦した。

「ワイらは遊びに来ただけや。そこの遊園地に」

「え〜っ、男2人っきりで?」

「いや、ホンマはケンスケも来るはずやったんやけど、アイツが来れなくなってな、
それでシンジとどうしようかと言ってたところや」

説明が丁寧すぎたかと思ってシンジのほうを見ると、ぼくの言葉にうなずいていた。

「それでどうするの、アンタたち」

惣流はシンジを見つめながら訊いた。

「え、まあ、男同士じゃちょっとアレだし、帰ることにしようかとぼくは思ってたんだけど」

シンジはぼくを窺いながら小さい声で答えた。

「そうやな」とぼくはそれに応えるように呟く。

そろそろ洞木の出番だな、と思って、ぼくは視線を洞木のほうに移した。
その視線に気づいて、洞木は身を乗り出した。

「せっかく来たんだからさ、どうせだから一緒に行かない? 遊園地」

「・・・・・・ええっ?」

作戦通りの展開だったので、驚くことを一瞬忘れていたぼくは遅れて声を上げた。

「何でお前らと一緒に行かなあかんのや」

「だって、どうせ帰ってもすることなんてないんでしょ」

洞木はこちらの日常を知っているような口ぶりだった。
実際こんな計画さえなかったら、ぼくは休日をダラダラと過ごしていただろう。

「ならいいじゃない。こっちは別に2人でもよかったけど、4人のほうが楽しそうだし」

「そうか? そんじゃそうするか」

と言ってから、シンジを見た。イヤそうな顔はしていなかった。

「ええか、シンジ」

「あ、うん、いいよ」

ちょっと歯切れの悪い返事だったが、それはたぶん軽い緊張から来るものだろうと思った。
コイツは女子がいるといつもそうなるのだ。事態の展開を不思議がる様子は見られなかった。

とりあえず、まずまずの滑り出しといってよかった。

「それにしても、休みの日までジャージーってのはどうにかならないのかしら」

惣流のひと言は余計だったが。




■8

すぐにシンジと惣流をくっつけようとはせず、まずはアトラクションを回ることにした。
2人並んで乗るものは避け、且つ気分の高まるようなものをチョイスして乗った。
要はテンションを上げ、楽しいと感じることで会話を弾ませようとするためだった。

だが、なぜか惣流はシンジとはなかなか喋ろうとしなかった。
本当に恥ずかしがり屋なんだな、と思って、ぼくは心の中でこっそり笑った。

逆にぼくなどは、普通に楽しんでいた。絶叫系のアトラクションは好きなほうなので、
何度も乗ろうとせがんでは、ひとりで行ってらっしゃいと冷たい目で見られるのだった。

「そろそろお昼にしようか」

洞木の提案で、ぼくらは昼食を取ることにした。
この後にはジェットコースター等がまだ控えているので、軽めに取った。

その食事中、面白いものを見ることが出来た。

ぼくらは日除けのパラソルがついた簡素な丸テーブルを囲んで座っていた。
座り位置は時計回りにシンジ、ぼく、洞木、惣流の順番だった。
一応シンジと惣流を隣り合わせにする配慮を考えている。

みんな同じものを食べていた。ハンバーガーにフライドポテトというシンプルな組み合わせだ。

面白いことは、ぼくが早々と食べ終わった頃に起こった。

「あ、碇くん、ケチャップがついてるよ」

と洞木が言ったのを聞いて、みんながシンジの顔に注目した。

「えっ、どこ?」

シンジは空いた手で口元を拭った。だが付着したケチャップはそこではなかった。

どうしてそんな所に、と呆れてしまうような位置だった。なぜか鼻の頭についているのだ。
かぶりつく時によほど顔を突っ込ませたのだろう。間抜けな顔だった。

面白いので、誰もどこについているとは言わなかった。
シンジは顔中を触りながら「取れた?」「どこだよ」を繰り返していた。
しかしいつまで経っても鼻の頭にはたどり着けなかった。

ぼくは「もうちょい上」とか「いやもっと下」などとウソの指示をした。
それに真面目に応えるシンジを見て、人をだますのを嫌いそうな洞木も笑っていた。

指示を出しながら惣流を見ると、目一杯楽しそうとはいえない表情だったが、
口元に浮かんだ笑みは内心を隠しきれないといった様子だった。

普段ならここで「アンタってほんとドジねえ」とか言ってシンジをからかうのだろうが、
午後からの計画があるから惣流も緊張しているのだろう。口数が少なかった。

そうかと思いきや、いきなり惣流が動いた。

「ほら、ここよ」

と言って、シンジの鼻の頭についたケチャップを指ですくうように取り除いた。
その指はわずかに空をさまよった。これをどうすべきか考えたのだろう。

普通にティッシュで拭き取るのだろうと思っていたが、惣流は何を思ったか、
ケチャップのついた指を自分の口元に近づけようとした。

まさか、とこちらが驚くのを見て、惣流はそそくさと指をティッシュに巻き込んだ。

さすがのシンジも、惣流が何をしようとしたのか分かったらしく、驚いていた。
惣流の顔は赤くなっていた。コイツが恥ずかしさで顔を赤くするのを初めて見た。

「あ、ほら、碇くん、まだついてるよ」

ほんの一瞬止まった時を動かそうとして、洞木はシンジにティッシュを差し出した。
いいタイミングだった。洞木はいつも場の空気を戻すのがうまかった。

鼻を拭きながら、シンジはずっと惣流を見つめていた。
お願いだから見ないでくれ、と言いたげな惣流の顔はどんどん赤くなっていった。

悪いが、ぼく個人としてはかなり面白いショーを見せてもらった気分だった。
惣流も一応女の子なんだなと、ある意味感心させられもした。

「それじゃ、そろそろ行こうか」

食事もそこそこに、ぼくらはその場を離れることにした。
あまり惣流に恥ずかしい思いをさせまいとした洞木の配慮だった。

その洞木に付き合って、ぼくも妙なテンションにならざるを得なかった。
いまのままでは、シンジと惣流を2人きりにしてはまずそうだったからだ。

食後はなるべく静かな乗り物を選んで、胃がもう大丈夫だと告げた頃には、
すでに午前中と同じ程度の空気が4人の中に広がっていた。
そろそろジェットコースターである。

園内の込み具合からいって、乗り場は相当の列を作っているものと思われたが、
意外にも空いていた。だがそれでも20分ほどの待ちだった。

「ああ、怖そう」

先のコースターが滑っていくのを列の中から見やりながら、洞木が呟いた。

「何やイインチョー、ジェットコースター苦手なんか?」

「ううん、大好き」

笑顔で言うので、ぼくは拍子抜けと一緒に笑みが洩れた。
それからシンジと惣流にも同じことを訊いてみた。

「シンジはこういうのどうや? ジェットコースターは」

「ぼくは・・・・・・ちょっと怖いかな」

「ほう。惣流は?」

「アタシは強いわよ。ぜんぜん平気」

「ほなら、シンジと隣同士で座ったらいいんやないか。そのほうがシンジも心強いやろ」

理屈もクソもない言い分だったが、これも一応作戦通りのセリフ回しなのだ。

シンジは特にイヤそうでも断りもしなかったので、難なく事は運びそうだった。

そしてぼくらが乗る順番が来た。ぼくと洞木は並んで、先頭を取ることが出来た。
最後尾のほうが怖いという意見もあるが、ぼくは先頭が好きだった。

真後ろにシンジと惣流が並んで座った。双方とも緊張の面持ちだった。
シンジは乗り物への緊張だろうが、惣流は別の緊張であることは容易に分かる顔だった。

コースターはゆっくりと動き出し、坂をガタガタと徐々に上っていく。
この時の背もたれの感覚が、何とも言えず気持ちいい。手にうっすら汗をかいてきた。

頂点に上り詰めた所で機体は水平になった。レールの先が見えない。もうすぐだ。
ぼくは足元に力を入れ、背をピッタリとつけた。

降下はその直後にやってきた。まるで本当に落ちているような感覚だ。これがたまらない。
おおおおお、と揺れでブレた声を出しながら、ぼくはスピードに乗った。

隣では洞木のとても楽しそうな叫び声がしていた。後ろの様子も気になる。
惣流の声はしているが、シンジはどこへ行ってしまったのだろう、まるで声がしない。

遠くから見れば長そうなレールも、いざ乗ればあっという間にゴールにたどり着いていた。
乗り場に到着する時の、終わりを告げる急ブレーキがぼくは嫌いだった。もっと乗っていたい。

降りる時、後ろを見るとシンジがへたばっていた。本当はかなり苦手だったに違いない。
ぼくは手を貸そうと思ったが、そこを惣流に任せることにした。

シンジにとっては少々情けない恰好だが、これ以上ないほどの接近だった。
惣流もみずから手を貸し、食事中の失態はこれで忘れ去られそうな雰囲気を見せていた。
心持ち満足そうな表情が惣流の顔から窺えた。

ベンチにシンジを座らせ、惣流もその隣に腰掛けた。

「アンタ、大丈夫?」

「うん・・・・・・」

まだちょっと気分がすぐれないようだが、シンジは平気そうな顔をした。
そういう配慮が心配を生むことをコイツはまるで知らないようだった。

何となく2人の雰囲気がいい感じだったので、ぼくも洞木も声をかけずに見守った。

「もう、まったく世話の焼ける男ね、アンタは」

「あ、ゴメン」

シンジはすぐに謝った。しかしそれは惣流に言われたことを謝ったというよりは、
なぜかさっきからずっと手を握っていたのを詫びた風だった。

惣流は気づいていなかったようで、ビクッとして手を引っ込めた。
また顔が赤くなりそうな兆候を見せ始めた。

早くも洞木の出番のようだった。

「碇くん、もう大丈夫?」

「あ、うん。何とか」

言いながらシンジは立ち上がった。そこそこは回復したように見えた。

「それじゃあ、気分転換に観覧車でも乗らない?」

「おお、そうするか」

洞木の提案に乗るのはぼくの仕事である。

「観覧車ならシンジでも大丈夫やろ」

「うん」

少し皮肉っぽいニュアンスを込めて言ったつもりだったが、シンジは普通にうなずいた。

惣流も気を取り直したように立ち上がって、4人は観覧車乗り場へ移動した。

ぼくは歩きながら心配していた。シンジと惣流を個室に閉じ込めるのはやはり危険だと思う。
何も喋らず、ただ一周するだけで終わってしまうような気がしてならなかった。

意外にも観覧車のほうがジェットコースターよりも並んでいた。
家族連れやカップルが多く目に付いた。自分たちはどう見えているのだろう、とふと思った。

ぼくらの乗る順番が来た時、洞木は小銭を落とした。これも作戦だった。非常に陳腐だが。

「あ、先に乗っちゃって」

洞木は前に並んでいたシンジと惣流に言うと、ぼくに小銭を拾うのを手伝わせた。

前の2人は――惣流は演技だが――心配そうな顔をしながら、ピンク色のゴンドラに乗り込んだ。

小銭を拾い終わると、そばにいた係員に謝りながら、ぼくらは続いてのゴンドラに乗った。




■9

4人で乗れば充分というゴンドラも、2人きりだと少々落ち着かなかった。
微妙に空いたスペースがそういう気分にさせるのかもしれなかった。

ぼくと洞木は向かい合うようにして座り、外を眺める振りして隣のゴンドラを見ていた。
ちょうど洞木が後ろを振り返る形になる。

「ちゃんと喋れてるかな、あっち」

「さあな」

ぼくが適当に答えると、洞木は急に振り返り、厳しい目で睨みつけてきた。

「さあな、はないでしょ。もっと真面目に心配してよ、鈴原も」

「わーってるわーってる」

「ほんとに分かってるの?」

「ああ。心配せんでええ」

「まったくもう・・・・・・」

半ば呆れた様子で、洞木はまたシンジたちのほうに目を向けた。

何だか空回りした返事ばかりである。ぼく自身それを自覚しているのだが、どうも変だ。
いつもの自分らしくない、妙な気分なのだ。うまく説明できないが。

「ねえ、鈴原くん」

洞木は依然として外を向いたまま、つまりこちらに後頭部を向けたまま呼んだ。
さっきは呼び捨てだったくせに、いきなり改まったように「くん」を付けてきた。
ちょっと警戒しながら、ぼくは「何や」と返事をした。

「今更言うのもナンだけど・・・・・・もしかして、迷惑だった?」

「迷惑?」

相手が顔を向けないのに、ぼくはいちいち首をかしげた。

「迷惑て、何が」

「だから、アスカと碇くんのことを頼んだことよ」

「ああ・・・・・・」

多少は面倒だと思ったこともあるが、迷惑とまで感じてはいなかった。
それでも、どう言ってよいか分からず、答えるまでにちょっと間があった。

「ま、別に迷惑やとは思わへんけど・・・・・・」

「けど、何?」

洞木はやっとこちらに顔を向けた。

「いや、何でもない」

「何よ、ハッキリ言えばいいのに。鈴原らしくない」

洞木はそう言ってから、ハッと息を飲み込む仕草を見せた。

鈴原らしくない、とはどういう意味だ。まるでぼくがどういう人間か知っている口ぶりだ。
ぼくも微妙に言葉を濁したが、洞木も何か言いたげな顔つきのように見えた。

だが、しばらくぼくらは何も喋らなかった。喋ったほうがかえって気まずくなる気がした。

自然とシンジたちのゴンドラのほうに目がいく。2人の様子はどうだろうか。

シンジの頭に惣流の顔が隠れて、どちらの表情も窺い知れなかった。
それでも、何かシンジが手振りを見せているので、会話がなされているのは分かった。

少し安心した。これをキッカケにうまくいってくれればいいのだが。

何だか、向こうとこっちの状況が逆転しているような気がした。
こっちが何も喋れずにいて、向こうは一応会話が弾んでいるようだった。
いったい、何がキッカケでぼくらは気まずい雰囲気を作ってしまったのだろうか。

そんなことを考えている内に、ぼくらのゴンドラは頂点に差しかかろうとしていた。
先にシンジたちのほうが頂を越えていて、こちらに手を振っているのが見えた。

洞木は一瞬ぼくのほうを見て、「ほら、あっちが手を振ってるよ」といった顔をしてから、
手を振り返した。ぼくもそれに倣って手を振ってみる。

向こうは結構楽しそうな表情だった。「いい感じやな」と呟くと、洞木は「うん」とうなずいた。

窓から下を眺めると、人は蟻のように、車はミニカーのように小さくなっていた。
世界に比べて、人間などいかにちっぽけなものであるか、しみじみと感じさせられた。

同じ気持ちを感じて欲しくなり、ぼくは洞木に呼びかけた。

「なあ、下見てみい。すごいで」

「うん。すごく高い。ちょっと怖いくらいだね」

彼女もすでにこの高さを味わっているようだった。高所は割りと平気らしい。
怖いと言いながら、さっきもジェットコースターを楽しんでいた。

ぼくは景色を見るのをやめ、再びシンジたちの様子を窺おうとした。

その時だった。

突発的な地震でもあったかのように、いきなりガクンとゴンドラが揺れた。

「うわ」

揺れに流され、ぼくはゴンドラの床に投げ出された。

洞木の悲鳴も聞こえたが、揺れかたから投げ出されることはなさそうだった。
それでも心配なので、まだ揺れる中、ぼくは起きようと身体を持ち上げた。

洞木は硬いイスにもたれるように腰掛けて、ぐったりとうなだれていた。

「お、おい、イインチョー、しっかりしろ」

触れることなどまったく構わず、ぼくは洞木の肩を揺すった。
するとすぐに「うーん」と唸りながら洞木は目を覚ました。

「大丈夫か?」

「・・・・・・あ、鈴原くん、どうしたの?」

ちょっととぼけた声が返ってきた。寝ぼけに似た症状が出ているらしい。

「ワイもよう分からん。急に観覧車が揺れて・・・・・・」

その時ぼくは気づいた。もうさっきの揺れはおさまりつつあったが、それよりも重大なことだ。

ゴンドラが動いている感覚がまったくないのだ。外の景色も変わらない。
隣のゴンドラの位置もまったく変わらない。まさか――

「まさか、止まっちまったのか?」

ぼくが言うと、洞木は目を見開いて窓の外を見やった。

同じほうを見ると、隣からシンジと惣流がこっちに何か言っているのが見えた。
扉を叩くように窓を叩いているシンジの姿があった。惣流も落ち着かない表情だ。

残念ながらこのゴンドラは窓が開かない。それは常識だが、いまは密室が恐怖を与えた。

ぼくは高所は好きだし、高い所でわざと危ないことをするのも好きだった。
だがこのような状況に立たされると、高所はあっという間に恐怖を引き起こした。

狭いゴンドラの中というのも恐怖だった。落ちはしないか、などと不安になったりもする。
普通に観覧車が動いていればそんなことなどまるで気にもしないのに、
止まっただけで余計なことを考えてしまうのだった。

しかし恐怖に慄いている場合ではなかった。洞木がぼく以上に怖がっているのだ。
ここで2人がいっぺんに慌てたら事態がもっとひどくなりそうな気がして、
ぼくだけでもしっかり気を持とうと深呼吸をした。

そして言った。

「イインチョー落ち着け。慌てるな。慌てるとまた揺れるぞ。落ち着け」

言ってるこっちも声が慌てていた。とにかく落ち着こうとして、大声で制そうとしていた。
慌てている自分に気がついて、どうにか声のトーンを抑えて言った。

「とにかく落ち着くんや。すぐに動くようになる。きっと大丈夫や」

洞木も何とか気を持ち直したようだった。今度は隣のゴンドラだ。

ジェットコースターはぜんぜん強いと言っていた惣流は落ち着かない感じで、
それに簡単にまいっていたシンジは、何とか惣流を静めようとしていた。

こっちから向こうに声は通らないし、ほとんど何も伝わらないだろうと思っていたので、
シンジが気を確かに持っていたのはとても助かった。

いつの間にか、ぼくと洞木は並んで座っていた。ふたりとも何も言わなかった。
ただひたすら、再び動き出すのを待った。お互いの息遣いだけが聞こえていた。

それから10分ほどして、軽いショックを受けたようにゴンドラがグラッと揺れた。
動き出す合図だった。安堵のため息が、ぼくと洞木の口から洩れた。

そしてお互いに、疲れ切った笑みを見せ合った。




■10

「は〜」

最寄りの駅を出ると、ぼくは改めて深いため息をついた。

「今日はホンマに疲れたわ」

「そうだね」

笑って答えるシンジの顔もちょっとお疲れの表情である。

洞木と惣流は駅から別方向なので、駅を出る前に別れていた。
向こうでは今頃、今日の回顧をしているだろう。こっちはうっかり言えない。

結果的には、ぼく個人の見解だが、今回の作戦は成功といってよかったと思う。
しまいには惣流も学校の時と同じノリで、シンジをからかったり出来ていた。
それを受けるシンジも困ったというより、楽しんでいるように見えた。

「でも、楽しかったね、結構」

シンジからそういう感想が出ると、何だか自分が褒められた気がしてうれしくなった。
遊園地内でのぼくと洞木の努力が報われた。

「ああ、そうやな」

「ケンスケも来ればよかったのに」

「ん? そこで何でケンスケが出てくるんや」

と訊いてから、失言だったのに気づいた。ケンスケをだしに使ったのを思い出した。

「あ、いや、そうやなー、ケンスケも来りゃよかったのにな」

質問をした直後に肯定したので、シンジはキョトンとしていた。まずい。

「あー、シンジ、喉渇かんか?」

「え、まあ、ちょっと何か飲みたいかな」

「よし、ほならワイが奢ってやる。缶ジュースやけどな」

ぼくはシンジが「ありがとう」と言うのを背中で聞きながら駆けていた。
自動販売機はさっき曲がった角のそばにあったはずだ。

失言に思わず慌ててしまった。ぼくもまだまだだ。逃げることで一応はごまかせたか。

ぼくは炭酸飲料を思い切り飲んで「カーッ」とやりたかったので、コーラを押した。
シンジの分もそれでいいと思い、続けて押した。

冷たい缶を両手に持ってシンジの所へ戻った。もちろん歩きで。

すると、さっきの所で待っていると思われたシンジの姿がなかった。
あれ、と思って辺りを見回すと、反対側の歩道にいた。何かを覗き込むようにしゃがんでいた。

車が来ないのを確かめてから、車道を横切ってシンジの所まで駆け寄った。

「おいシンジ、こんな所にいたんかい」

「あ、ゴメン、トウジ」

シンジは振り向いて立ち上がった。彼が見ていたのは、街頭のアクセサリー売りだった。
ギターケースにたくさんの光り物が並んでいて、行商はアジア系のガイジンだった。

ぼくは缶をシンジに渡しながら訊いた。

「何やシンジ、こういうのに興味あるんか?」

「え、ううん。別に」

何かを隠している素振りだった。だが追及はせず、ぼくもアクセサリーを眺めてみた。
ガイジンというだけでどこか胡散臭い印象だが、商品は一見してまともそうだった。
実際のところ擬い物なのかもしれない。いくつか手に取って見てみたが、よく分からなかった。

その中で、ひとつ目を引くものがあった。それはネックレスだった。
先に淡いピンク色のハートがついている。ぼくはいつの間にか「いくら?」と訊ねていた。

カタコトで「センエン」と返ってきた。入園料等で多く使ったから残りはあとわずかだったが、
ぼくは買うことを決めた。ちょうど千円札が一枚だけ残っていた。

包みも何もくれず、裸のままネックレスを受け取った。すぐにポケットに入れる。
ぼくとシンジは帰る方向に歩き出した。

「トウジ、それ、どうして買ったの?」

シンジは缶を開けようとしながら訊いた。

「いや、妹にやろうと思ってな」

ウソをついた。

隣で、プシューっと勢いのいい音がした。直後にシンジの叫び声も聞こえた。
そういえば、さっき車道を通る時に走ってしまったのだった。

シンジは顔中コーラまみれになっていた。ぼくは被害を受けなくて済んだ。
そして、家に帰るまでこの缶は開けないでおこう、と思った。

その日の夜、ぼくはいつもより2時間も早く寝た。たくさん気を使ったせいだ。
夢を見ながら、ぐっすりと眠った。




■11

「ホンマか?」

訊きながら、とうとう来たか、とぼくは身体に緊張が走った。

「ええ。今日の放課後、体育館裏に呼び出すんだって」

洞木も少し興奮気味である。

昼休みの教室――

教室、といってもぼくらのクラスではなく、よく作戦会議に使っている理科準備室だった。
昼休みだけでなく、この部屋はいつだってほとんど誰も来なかった。

いまはぼくと洞木だけだった。惣流は屋上でこっそり告白の練習をしているらしい。
教室ではシンジとケンスケが何か喋っているのだろう。
そろそろ戻らなければまずい。トイレに行っていることになっているからだ。

「そうか。いよいよ惣流が女になる日が来たか」

何となく感慨深いものがあった。子を送り出す親の心境に似たものがある。
と言ってもそんな心境など経験したことはないが。

「それでね、アスカったら、ひとりじゃ怖いからついて来てって言うのよ」

「えっ、まさかワイも一緒に行くんか?」

「鈴原のことは言ってなかったけど、私には一緒に来て欲しいって」

「いや、でもそうするとシンジが答えづらくならんか? 2対1じゃ」

「ううん、そうじゃなくて」

洞木はかぶりを振った。

「見守ってて欲しいんだって。陰から」

「あ、そういう意味か」

かえって告白しづらいのではと思ったが、惣流が言うのなら別に構わないのだろう。

「ワイもついて行っていいか?」

「言うと思った」

洞木は口元を上げた。

「たぶんアスカは嫌がるかも知れないけど、言わなければ大丈夫だと思う。
それに、鈴原もずっと手伝ってくれたしね。きっと見たいだろうなって思ってた」

「まあな」

惣流の愛の告白である。見逃してたまるものかといったところだ。

「・・・・・・そろそろワイは戻らんと」

「あ、そうだね」

2人同時に立ち上がり、準備室を出た。

ぼくが先を歩いて教室に戻りながら、ジャージーのポケットに手を突っ込んだ。
ちゃんと持ってきている。大丈夫だ。

教室に入ると、ケンスケが言った。

「ずい分長かったな。今朝してこなかったのか?」

緊張が萎えてしまった。


            *      *      *


ぼくは、ケンスケからいつも聞かされていたミリタリーの知識を記憶の片隅から引っ張り出し、
適当にウソをついてヤツを先に帰した。今夜にでも怒りの電話がかかってくるかもしれない。

そして、シンジと2人だけになった。

惣流がシンジに呼びかけたのは、下駄箱でスニーカーに履き替えていた時だった。

「ちょっと来なさい」と命令口調なのは、間違いなく照れ隠しだった。
赤面の兆候が耳に現れていたので、なぜかぼくは少しドキドキした。
いまから告白が行われるのかと思うと、惣流の心境がこちらにも伝わってくるようだった。

シンジはポカンとした顔をしながら惣流の後をついて行った。ぼくは先に帰ると言った。
もちろん本当に帰るつもりなどない。少ししてからぼくも後を追った。

途中で洞木に会った。自分のことのような緊張の面持ちだった。

ぼくらは黙って、体育館のほうへ歩いた。他の生徒とはすれ違わなかった。
体育館の中からは物音ひとつしない。まったく都合の良い状況がととのったものだ。

その裏側に、シンジと惣流はいた。覗く位置からちょっとばかり離れていた。

ぼくが先に覗いた。向こうの様子がよく分からない。洞木に見せることにした。

「どうや?」

一応小声で訊いた。

「うーん・・・・・・アスカは何だかモジモジしてるみたい。まだ言ってないのかな」

「ここからやと声がぜんぜん聞こえんな」

「うん。ちょっとあっちの様子が分かりづらいね」

交代して、またぼくが覗いた。

直後、ぼくは「あっ!」と大声を上げそうになった。同時に身体がビクンとした。

「どうしたの?」

ぼくの様子に気づいてか、洞木が肩を揺すった。

「ねえ、どうしたの鈴原くん」

「ま、まさか・・・・・・」

まさか、いきなりそこまでやるとは思ってもみなかった。

ここから向こうの様子は、表情を読み取るのもやっとというくらいだった。
だがそれでも何をしているのかは充分に分かった。

シンジが直立している。カバンを手に持ったまま、気をつけの姿勢だった。
そのシンジに、惣流の姿の大半が隠れていた。

惣流は、シンジの両肩をつかみ、身体を寄せていた。顔が少し斜めに傾いているようだ。
おそらく、いや、しっかり見えなくても確信できた。2人はキスをしているのだ。

洞木に譲ると、驚きを隠せない様子が背中からすぐに窺えた。息を呑むのも分かった。

惣流の大胆な行動に、こちらの雰囲気も完全に飲まれてしまった。
これは少々困った展開だ。どうしよう。

いや、こういう時こそ落ち着きが肝心なのだ。興奮していては見当違いなことを言いかねない。
ぼくは洞木の後ろ姿を見やりながら、何度も深呼吸をした。

「洞木」

イインチョーではなく、ぼくは名前で呼んだ。初めてその呼びかたをした。

案の定、洞木は驚きながらぼくに振り向いた。

「な・・・・・・何?」

ぼくを見つめる目は一瞬怯えの色を見せたが、徐々にこちらを窺う目つきになった。
その瞳を見つめながら、ぼくは洞木に一歩近づいた。

洞木は物怖じせず、その場にとどまっていた。ぼくをジッと見つめたまま。

「洞木」

ぼくは言った。

「ワイ・・・・・・ずっと洞木のことが好きやった」

いまの言いかたはカッコよくない。ぼくらしい端的な言いかたに換えた。

「お前のことが好きや」

洞木の目は大きく見開かれていた。まばたきを知らないその瞳は確実にぼくを捕らえていた。
しかし、口は一文字に閉まったままである。

「ワイと付き合うて欲しい」

ぼくは視線に耐え切れなくなって、下を向いた。

洞木のことを好きだと意識するようになったのはつい最近だった。
やはりキッカケは、シンジと惣流の仲を取り持つのを一緒にやるようになってからだ。

それまでは、やたらと口うるさい女、という風に否定的な印象しかなかった。
だが、作戦会議などといっていろいろなことを話す内に、惹かれていくのが分かった。

何に惹かれたと言えば、思いやりがあって、気が利いて、優しいという点である。
洞木は、必要以上の優しさを持った女の子だった。

優しさは逆に欠点でもあった。優しすぎるのだ。お人好しと言ってもよい。
ぼくが見た限りでは、その優しさゆえに、自分の幸せを省みない態度が現れていた。
人の幸福を願うあまり、自分のことはすっかりおろそかになっているようだった。

そんな彼女の心の隙間を、ぼくが埋めてやれたら――いつしかそう思うようになっていた。

ぼくは、ポケットに入れてあるものを思い出して、手を入れた。
それをしっかりとつかんで、洞木に差し出そうとした。

「洞木、これを・・・・・・」

「ごめんなさい」

受け取ってくれ、という言葉が続くはずだったが、その前に洞木の言葉がかぶさった。

いま、何と言った?

洞木は何と言った?

「ごめんなさい・・・・・・鈴原くん」

言葉が出なかった。なぜか分からないが、きっとうなずいてくれるという気がしていたのだ。
これまでの会話や接しかたなど、遊園地のことも含めて考えて、ぼくはそう感じていた。

「何で」と言おうとしたが、声にならず、口だけの動きになった。
その口の動きで分かったらしく、洞木は答えた。

「私、他に好きな人がいるの」

「・・・・・・誰や」

やっと声が出た。しかしひどくかすれた声だった。

洞木は口をつぐんだ。ぼくに言えないのか。つまりぼくの知っている男だというのか。

「同じクラスのヤツか?」

洞木は小さくうなずいた。

ぼくはひとりひとりクラスメイトの名を挙げていった。洞木は首を横に振るばかりだ。

そして、ぼくの親友が残った。

「まさか・・・・・・ケンスケか?」

そんなバカな。ケンスケには悪いが、ぼくはアイツには勝っていると思っていたのだ。
それは単なる自信過剰だったというのか。

洞木はぼくを見つめて、軽く吐息をついた。そして言った。

「違うの」

「違う・・・・・・ケンスケでもないのか。そしたら誰なんや」

誰だ。もう誰も残っていないはずだ。洞木はウソをついているのか。

洞木はぼくの問いに答えず、顔をシンジと惣流がいるほうへ向けた。
体育館の壁に遮られて、向こうの様子は見えない。

「あ」

ぼくは気づいた。まだひとり、名前を言っていないヤツがいたのだ。
それがどんなヤツかを考えると、訊くのが怖かった。訊きたくなかった。

しかし、ぼくの口は勝手に動いた。

「シンジ・・・・・・なのか?」

洞木は目を伏せ、コクリとうなずいた。

身体に電流が走った。ショックという強い電流が一瞬のうちに全身を駆け巡った。

そして、ビクンと身体が揺れたショックで、ぼくは目を覚ました。




■12

イヤな夢だった。やけにリアルで、洞木のセリフが耳にこびりついて離れなかった。

しかし、よく寝たという感覚はあった。いつもより少し早起きだ。
頭の中心がモヤモヤすることもなく、すぐに目が冴えて気持ちよく起き上がれた。
心の中とは対照的な身体的爽快感だった。

妹はそんなぼくよりも早く起きていた。ぼくよりも遅く寝たはずなのに。

「おはよう」

台所に向かったまま、妹は言った。ぼくの気配を敏感に察知できるらしい。
が、時計を見るなりぼくのほうに振り向いた。

「どうしたの、お兄ちゃん。こんなに早いの珍しい」

「そうか」

祖父はすでに食卓についていた。父の姿は見当たらない。
もう仕事に行ってしまったのだろうか。

「今日、どこに行くの?」

妹が変なことを訊いてきた。

「は? そら学校やろ」

「え、お兄ちゃん、今日は休日だよ」

「なに?」

おかしい。昨日は日曜日だったはずだ。今日は祝日か何かなのだろうか。

カレンダーを見たが、月曜の数字の色は黒だった。ちなみに休日は赤色である。

「お前、ワイを騙そうとしてるな。珍しく早起きしたもんやから」

「騙す? どうして私がそんなことするの」

ご飯をよそる妹の手が止まった。ちょっと怒っていた。

「昨日言ってたじゃない。『明日はちょっと出かける』って」

「ワイそんなこと言ったか?」

覚えていない。今日ぼくはどこに出かけるつもりなのだ?

「変なの。寝ぼけてるんじゃないの」

妹は淡々と言って、ぼくの茶碗を静かに置いた。


            *      *      *


そろそろ午前の10時になろうとしていた。ぼくはまだ寝巻きのままだった。
いまだに今日が日曜ということが不思議でならなかった。

どこかへ出かけることになっているらしいが、まったく覚えがなかった。
いつ、どこへ、何をしに行くのか、まったく見当もつかなかった。

電話が鳴った。

ぼくは腰を上げたが、妹が先に受話器を取った。

「はい、鈴原です」

妹は電話に出る時はちゃんと名乗る。しっかりした子だ。

「お兄ちゃん」

受話器を差し出してきた。ぼくに来た電話らしい。

「誰から?」

「・・・・・・女の人」

妹はそっけなく言って、ぼくから離れていった。

女の人とは誰だろう。女の人、女の人・・・・・・

考えるまでもない。電話に出ればいいのだ。ぼくは受話器に向かって喋った。

「はい、もしもし」

「どうしたの?」

それが返ってきた言葉だった。一瞬声の主が分からず、ぼくは訊いた。

「あの、どちらさんで」

「私よ、私。洞木ヒカリ」

「イインチョー? どうした、何か用か」

「何か用か、ですって?」

何だか洞木の声が昂って聞こえた。怒っているみたいだった。

「もしかして、約束のこと忘れたんじゃないでしょうね」

約束とは何だ?

「え、約束なんてしてたか。何の約束だ?」

「一緒に映画見に行こうって、鈴原が誘ってくれたんじゃない」

「なに!?」

何だそれは。いったいどういうことだ。

「そんな約束、いつした」

「昨日よ。まさか、昨日のこと覚えてないの?」

「昨日・・・・・・?」

昨日、何があった。ぼくは何をした。洞木とどんな約束をしたんだ。
思い出せ、思い出せ、思い出せ・・・・・・やっぱり分からない。

「昨日、何があったっけ」

ぞんざいに言うとひどく怒りそうだったので、窺うように訊いた。
だが、別に声色を変えたところで何の意味もなかった。

「ひどい!」

洞木の声が大きく反響した。電話ボックスからかけているような聞こえかただ。

「もう、知らない!」

電話は一方的に切れた。

ツーツーツー、という音を聞きながら、ぼくは「あっ!」と大声を出した。

すべて思い出した。何てことだ。すっかり忘れていた。
いや、忘れていたなどと軽々しく言えたものではない。洞木に申し訳がなかった。

そうだ。きっとあの夢のせいだ。あれのせいで、ぼくは現実を見失っていたのだ。
どうして今日を月曜だと思い込んでいたのか、その解答は結局見つからなかった。

ぼくは急いで着替え、財布を片手に「ちょっと行ってくる」と言って外へ飛び出した。
洞木が待っている場所はここからそう遠くない。ぼくは足で全力疾走した。

しかし、洞木は待ち合わせ場所にはいなかった。怒って行ってしまったのだ。
どうしても探さなければならない。とりあえず洞木の家に電話だ。

時間的に帰っていないだろうと思ったとおり、洞木はいなかった。

どうする。帰ったとみて彼女の家を目指すか、この界隈を探すか――2つに1つだ。

「よし」

近辺をくまなく探すことに決めた。すぐに帰ったということはたぶんないだろうと決め付けた。

それは正解だった。

駅前を走り回って疲れることになるだろうと思っていたが、洞木はすぐに見つかった。
映画館前を待ち合わせ場所にしていたが、彼女はその裏にいたのだった。

そこは一応通りになっていたが、表と裏では通行人の数が極端に違っていた。

人通りの少ない路地裏で、壁に寄りかかりながら洞木は泣いていた。ぼくのせいだ。

洞木はぼくの姿を認めると、涙目を隠そうともせずに駆け寄ってきた。

「バカ」

と言ってはぼくの胸を叩いた。

「バカバカバカ、さっきのは何だったの」

さっきの、とは電話の件だろう。ぼくは一度彼女の身体を離してから、説明をした。

「・・・・・・何よ、それ」

夢に騙されていたと言って信じてもらえるはずもなく、洞木はブスッとした。

「たったそんなことで、昨日のこと忘れちゃったの? ひどいよ」

今度はまた泣きそうな顔になる。ぼくは慌てて弁解がましく言った。

「いや、だから、確かに忘れたことは忘れたけど、それはほんの一瞬だったんや。
思い出したからこうしていまここにおるんやないか。そうやろ」

「そんなの勝手よ」

洞木はプイとそっぽを向いた。怒ってるんだぞ、という表情が横顔から窺えた。
まったく、女ってやつは感情をコロコロと変える。

もう、これ以上弁解を述べたところで機嫌を取り戻してくれそうになかったので、
ぼくは素直に謝った。心の底からすまないと思っていた。

「すまん」

ちょっとしたイタズラ心というか、言ってみたくなったのでぼくはそっと付け加えた。

「すまん・・・・・・ヒカリ」

弾かれたようにヒカリはぼくに向き直った。彼女の瞳は再び涙で滲んでいた。

「許さないんだから」

目に涙を浮かべながら、ヒカリは微笑んだ。

「ちゃんと一緒に映画見てくれなかったら、許さないんだから」

ぼくは黙ったまま微笑み、ヒカリの手をとって、映画館のおもてに回った。

季節は夏しかないこの世界だが、今日は心なしか風の冷たい日だった。
クリスマスイブともなれば、自然も冬というものを思い出すのかもしれなかった。

でも、つないだ手はとても温かかった。


            *      *      *


映画の内容はほとんど分からなかった。ずっとヒカリのことばかり考えていたからだ。
特に昨日のことを思い出すと、手に汗をかいた。

昨日、ぼくとヒカリは2人きりで下校した。しばらくは他愛のない会話が続いた。

と、ぼくは通学路沿いにある小さな公園に寄って行こうと提案した。
ヒカリは最初、少しだけ引きの姿勢だったが、黙ってついてきた。

空は少しずつ赤みを帯び始めていた。公園には誰もいなかった。

ぼくらはベンチに座った。しばらく何も喋らなかった。

だんだんと周りが暗くなり始めた。夕焼けがとてもキレイだった。

「キレイ・・・・・・」

ヒカリがポツンと呟いたので、ぼくは彼女に顔を向けた。

目が合った。

吸い込まれるように、ぼくとヒカリは触れるだけのキスをした。
付き合い始めてから1ヶ月経っての、初めてのキスだった。

その時の感触を思い出したぼくは、隣で映画に見入っているヒカリの顔を覗いた。

この小さな唇に、もう一度触れてみたい――そう思った時、彼女が振り向いた。

目が合った。昨日とまったく同じだった。

いや、目は昨日とは違う。いとおしいものを見つめるような目をしていた。
きっとぼくも同じ目をしているのだろうと思った。

映画にも、周りの観客にも気にせず、ぼくらは2度目のキスをした。
今度も軽く触れるものだったが、それで充分だった。

映画はすでに終盤に入っていたし、観客もあまりいなかったので、
周りのことはまるで気にならなかった。ぼくたちだけの世界だった。

顔を離したとき、ヒカリの胸元に光るものが見えた。

ぼくがプレゼントした、ハート型のネックレスだった。




映画館を出る時、出て行く観客の中に知っている顔を見つけた。

「あ、あれは・・・・・・」

「誰? 知ってる子?」

「ああ」

その女の子は1人で来ていたようで、近くには誰も付き添いの人はいなかった。

「つい最近になって、初めてシンジの家に遊びに行ったんやけどな」

「うん」

「その時、シンジの妹を初めて見たんや。あの子がそうやった」

ぼくは前を歩く青い髪の女の子を指差して言った。




■13

妹が呼ぶ声が聞こえた気がして、ベッドから起き上がった。
部屋はすっかり暗くなっていた。開けっ放しのカーテンの向こうも同様である。

戸をノックする音がして、ぼくは引き戸を開けた。

「お兄ちゃん、電話だよ」

「誰から?」

受話器を受け取りながら訊いたが、妹は答えずに行ってしまった。

ひとつため息をついてから、ぼくは電話に出た。

「もしもし」

「・・・・・・・・・」

返事がこない。だが、ちゃんと向こう側に誰かがいる気配を感じていた。

「もしもし、どちらさまですか」

「・・・・・・・・・」

「あのう、イタズラだったら切りますよ」

ぼくは受話器を耳から話し、通話を切ろうとした。

その時――

「待って」

声がした。女の子の声だ。ぼくは再び受話器を耳に近づけた。

「校庭で待ってるから」

相手はそれだけ言って、電話を切った。

「惣流・・・・・・」

ぼくは、電話の相手の名前を呟いた。

思い出したくないことが、勝手にぼくの頭に思い出されていくのを感じた。


            *      *      *


「好きなの」

惣流は、ぼくに向かってそう言った。

「アタシ、ずっとアンタのことが好きだったの」

顔が真っ赤だ。たぶんぼくの顔も真っ赤になっているだろう。

この体育館裏は、その昔は不良が気に入らない生徒にヤキを入れる場所だったそうだが、
いまではそんな光景など見られることもなく、ひっそりとした静かな場所である。

ここに呼び出された時から、ぼくはある種の予感がしていた。

「え・・・・・・ほんと?」

予感していたのに、つい信じがたい気持ちが芽生えて、ぼくは訊き返した。

惣流は、はにかみながら「うん」とうなずいた。とってもかわいい仕草だ。

さっきからしていた動悸が、もっと強くなった。心臓が破裂しそうなくらいである。
いまジャンプすれば、上空の雲を突き抜けられそうなくらい舞い上がっていた。

返事をしなければ――ひと呼吸置いてから、ぼくは言った。

「あの、実はぼくも・・・・・・」

せっかく言おうとしたのに、惣流はぼくを見ていなかった。
顔はこちらを向いているが、目はぼくの後ろのほうを見つめているようだった。

何だろうと思って振り返ってみるも、何もないし、誰もいなかった。

「どうしたの?」と訊くと、惣流はちょっと慌てた感じで笑った。

「ううん、何でもない」

漠然とイヤな予感がした。何となくいまの惣流の表情が作り笑いに見えたからだ。

そんな不安など吹き飛ばしてしまおうと、ぼくは勢いに任せて返事をした。

「ぼくも、そ、惣流のことが、す・・・・・・」

好きだ、と全部を言わせてもらえなかった。

ぼくの口は、いつの間にか惣流の口によって塞がれていたのだ。驚く暇がなかった。

どうしたらよいか分からなくなって、ぼくは目をつぶった。
こんな間近に惣流の顔があっては、恥ずかしくて見ていられなかった。

突然の出来事で、最初は感触がまるで分からなかったが、次第に温かさを覚え始めた。

好きな女の子とキスをしているのだと思うと、興奮して余計に胸がドキドキした。
自分が息をしていないことに気づいたのは、惣流の唇が離れた時だった。

「もうそろそろかな・・・・・・」

唇を離しただけで、まだ顔はすぐそばにある状態で、惣流はそう呟いた。
その囁くような声は、恍惚としていたぼくの耳を通り過ぎてしまうだけで、
どういう意味で言ったのかを考える余裕がなかった。

だから、惣流が急にぼくから離れ、後ろに駆けていった理由が分からなかった。

いきなりだったので、たったいままでキスをしていた興奮が飛んでしまった。
拍子抜けというか、出し抜けを食らったというか、とにかく意味が分からない。

彼女は体育館の角まで行くと、向こう側の様子を覗き込むようにした。
いったい何をしているのだろうと思って、ぼくは近くに寄った。

「な」

何をしてるの、と訊こうとしたのを、惣流は口を手で塞いで押しとどめた。

何が何だか分からなくて、惣流の手の中でモゴモゴと言った。
すると惣流は「しーっ」とぼくに黙るように言い、また向こうを窺った。

向こうに何が見えるのだろう。ぼくも身体を伸ばして覗いてみた。

「ずっと、好きだったの」

女の子の声が聞こえた。知っている声だ。

どういうことだと思って、ぼくはもう少し身を乗り出してみた。
すると、惣流がさっきから見ていた向こうの様子がぼくにも見えた。

委員長の後ろ姿だ。やはりいまの声は委員長が言ったものだったのか。
そうすると誰に向かって喋っているのだろう。

「・・・・・・ホンマ、か?」

黒いジャージーが見えた。トウジだ。トウジに間違いようがなかった。
なぜこの2人はこんな所にいるんだ?

委員長の頭が、コクンと縦に揺れた。

「うん。本当に・・・・・・鈴原くんのことが、好き」

彼女の顔は見えないが、たぶんいまのトウジと同じくらい赤くなっているのだろうと思った。
これは、ついさっきのぼくと惣流のシチュエーションと一緒だ。
そのことを思い出したが、向こうの成り行きがなぜか気になった。

「ワイも、お前のことが好きや」

委員長の背中が伸びた。驚きとうれしさで、息を思い切り吸い込んだのだろう。
トウジも凄まじく顔が真っ赤だ。いまの言葉を言ってから、唇をしきりに嘗めている。

しばらく2人は微笑み合い、こちらの様子には気づかないまま、校舎のほうへ戻っていった。

そうだ、ぼくはちゃんと惣流に返事をしていないのだった。
言わなくては――

「ふう、よかった」

惣流は、小声で満足そうに呟いた。そろそろこの手を離して欲しいのだが。

「あ、アンタまだいたの?」

そっけなく言って、彼女はぼくの口から手をどけてくれた。ようやく喋れる。

「ねえ、いまのは?」

「あれが本物の愛の告白よ」

本物の、とはどういう意味だろう。確かに本物には違いなさそうだが。

「やっぱりアタシの予想したとおりの展開だったわ」

惣流は独り言のように言った。意味の分からないぼくはいちいち訊く。

「何を予想していたの」

「え? アンタには関係ないでしょ」

「どうしてだよ」

そうだ、こちらはまだ告白の途中ではないか。今度こそ言わなくては。

「あ、そうだ。さっきの返事だけど・・・・・・」

「ああ。ごめんね」

惣流がいきなり謝ったので、ぼくはキョトンとするしかなかった。
軽く息を吸ってから、やっと訊くことが出来た。

「どうして謝るの?」

「だって、アレ、ウソだもん」

「ウソ・・・・・・ウソって、何が? アレってどのことだよ」

「だから、さっきアタシが言ったことよ」

惣流は人を小馬鹿にするように鼻で笑った。

「だって世界で一番かわいいアタシがよ、こんなつまんない男を好きになるわけないじゃない。
考えるまでもなく分かることでしょう」

「な、な、な・・・・・・何だよ、それ」

どうしたというんだ。惣流はいったい何を言っているんだ。

「さっき『好きだ』って言ってくれたのはウソだったの? アレは本当はウソだったの?」

「そうよ。当たり前じゃない」

ぼくは動揺しながら、惣流の声を聞いてふと思った。
いつもぼくをからかう時の調子とはちょっと違うような・・・・・・そんな気がした。

たぶん、ぼくがショックを受けているからだろうと思って、そんな気はどこかへ失せた。

「でも、でも、惣流はぼくに・・・・・・キスしてくれたじゃないか」

「あ、ああ、アレね」

惣流はちょっと歯切れが悪くなった。

「アレは、その、アタシの善意よ。ウソをついて申し訳ないと感じたから、お詫びにチュッて」

キスのことまでウソだったとは――怒りというより、ぼくは情けなくなった。

「どうして、あんなウソをついたんだよ」

ぼくの声は暗く沈んでいた。相手に届くのがやっとというものだった。

「人をからかうにしてはちょっとひどすぎるんじゃないか」

少しは怒ってみようとするのだが、声に迫力がない。

「だから、ごめんね、って言ったでしょ。アタシが謝ってるんだから素直に許しなさいよ」

許せるもんか――何かに当たりたい気持ちだったが、腕も脚もいうことをきかなかった。

「それじゃね。今日のことはすぐに忘れてよ」

惣流は走って行ってしまった。ぼくひとりが残された。

そんな簡単に忘れられるものか。そんな簡単に許せるものか。
怒りはふつふつと湧いているのだが、それはむしろぼく自身に対する気持ちだった。

ぼくがいつものんびりしているから、こうやって惣流に騙されてしまうのだ。
さっきのは演技だったのか。昨日の遊園地の時も演技だったのか。

情けなくて、涙が出た。

どうして惣流がこんなことをしたのか今更訊きたくもなかったが、
何の意味もなくウソをつくような、そこまでひどい女の子ではないはずだ。

だがそういうことを考える気はなくなり、涙を拭いてから、ぼくはヨロヨロと歩き始めた。


            *      *      *


こんなつまんない男を好きになるわけないじゃない――思い出すだけで悲しくなった。

さっきの電話で惣流は「校庭で待ってる」と言っていたが、まだ何か言い足りないのか。
そんなにぼくのことをからかわなければ気が済まないのか。
どうせなら電話で全部言ってくれたほうが早いのに。

それとも、もしもぼくが惣流にひどいことをされたとみんなに触れ回ったりして、
マイナスイメージがついてしまうかもしれないとでも考えたのだろうか。
口止めをするためにぼくを呼び出したのか。ぼくはそんな男じゃない。

まさかこんな可能性はないと思うが、前言を撤回したいと言うのではないだろうか。
でもぼくはそんな簡単に許してやるわけにはいかない。そこまでお人好しじゃない。

などと、これから待っていることをあれこれと想像するが、どれが正解かは分からない。

最初はすっぽかしてやれとも思ったが、このままぼくが学校まで行かなかったら、
惣流はずっと待つ事になるのではと心配になって、結局家を出ることにした。
面倒なので、学校から帰ってきたままの恰好である。

「レイ」

ぼくは妹に言った。

「ちょっと出かけてくる」

心配そうな妹の顔が、ぼくの胸を締め付けた。

「すぐに帰ってくるよ」

ぼくはそう言って、玄関の戸を開けた。




■14

「ごめんなさい」

開口一番の言葉がそれだった。ぼくは黙って惣流の言葉を聞くことにした。

いまは11月だが、1月でも4月でも7月でも11月でも気候は変わらず夏だ。
だから暗くなっても寒さはないが、夜の校庭に2人きりでは少し寒気がした。

ぼくと惣流は校庭のど真ん中にいた。2人だけだと異様にだだっ広い。
校舎は明かりひとつなく、肝試しにはうってつけの雰囲気を醸し出していた。

しかし空は晴れ渡っていて、月の光がキレイに輝いていた。
お互いの表情が読み取れるくらいの明かりが、校庭に差し込んでいた。

「ごめんなさい」

惣流は繰り返した。

「あの時、アタシ、確かにウソをついていたの」

まだ言うのか。ショックを受けるのはこっちだというのに。

「ウソっていうのは、アンタのことを好きじゃない、って言ったことよ」

「え?」

どういう意味か、すぐに分からなかった。

「だから、その・・・・・・本当は、シンジのことが好きなの」

いや、まだ信じられない。あの時だってうまい演技をしていたのだから。

「本当に?」と言って、ちょっと睨むように惣流を見た。

「また、ウソなんじゃないの」

「違うの。今度は本当よ」

「信じられないな」

「お願い、信じて。本当なの。あの時はアタシ、どうかしていたのよ」

「いまはまともだっていう証拠は?」

だんだん自分が嫌味っぽくなっているのを感じていたが、止められなかった。
やはりぼくは、惣流に怒りたかったのだ。

「真実を言っているという証拠がないと、ぼくは信じないね」

「だって、あの時は・・・・・・気が動転していたから」

「なに?」

惣流が動転していたとはどういうことだ。動転したのはぼくのほうだろう。

「どうして惣流が? ぼくを騙そうとしてたくせに」

「・・・・・・・・・」

「何か言ってよ」

「・・・・・・あの時、キス、したでしょ」

「うん」

ぼくはその感触を思い出した。思い出すだけつらいが、気持ちよかったのは確かだ。

「アタシが『好きなの』って言った時の顔、見たでしょ」

「うん」

その時の顔を思い浮かべながらぼくは言った。

「あの時、惣流、顔が真っ赤だった。歯でも食いしばってたのかもしれないけど」

また嫌味が口から出た。

「・・・・・・その顔を」

ぼくが言った嫌味をつらそうに受けてから、聞かなかった振りをして惣流は続けた。

「その真っ赤な顔を見られるのが恥ずかしくなって、思わず」

「キスをした、っていうわけ?」

ぼくが惣流の言葉の後を引き継いだ。

「そのほうがもっと恥ずかしいと思うけどな。あの時はぼくもすごく照れたよ。
結果的には照れたこと自体が恥ずかしいことだったわけだけど」

「ごめんなさい」

惣流は再び謝った。

「本当に、ごめんなさい」

やっぱりぼくは惣流が好きなのだと思った。どう見ても演技とは思えないのだ。
心の底からぼくに謝っているようにしか見えない。

深くため息をついてから、ぼくは何の気なしに訊いてみた。

「惣流、どうしてぼくを騙したの。何か意味があってやったんでしょ」

「・・・・・・怒らないで訊いてくれる?」

「ああ、もう怒らないよ」

さすがにこれ以上嫌味を言うのも、ぼく自身イヤだったのでそう答えた。

「実はね・・・・・・」

淡々とした口調で、惣流はその詳細を語り始めた。

惣流は、委員長がトウジのことを好きだということを早くから見抜いていた。
好きなら好きと言えばいいのだが、委員長は意外に恥ずかしがり屋で、
しかも親友の惣流にすら、トウジへの想いを打ち明けなかった。

委員長はいつもトウジに対して、掃除をやれだのジャージーはやめろだの言って、
自分からトウジと普通に会話の出来るすべを放棄してしまっていた。

そこで惣流が考えたのは、自然な形で2人に普通の会話をさせることだった。
その作戦を行うために、ぼくが使われたのだった。

惣流は、委員長にこんな相談をした。

「アタシね、好きな人がいるんだ」

好きな人というのは、ぼくのことである。

「でもね、2人きりになると恥ずかしくて、とても『好き』なんて言えないの」

でも、どうしても仲良くなりたいの。何かいい方法はないかしら――惣流はそう言った。

すると委員長は「私に任せなさい」と言い、惣流とぼくをくっつける作戦を考えた。
それを手伝わされたのが、トウジだった。

惣流はそれとなく、協力してもらうならケンスケではなくトウジがいいのではと言った。
どちらかというとトウジのほうがしっかり考えてくれそうだから、などと言って。
実際のところ惣流は、トウジのことを無神経そうだと思っていたらしいが。

おかげで、ぼくと惣流をくっつけるための作戦会議だと称して、
惣流は委員長とトウジに会話の場を持たせることに成功した。

最初、トウジはこんな手伝いなど引き受けるはずない、と惣流は思っていたが、
すんなり受けてくれたので、向こうも委員長にいい印象があるのでは、と思ったらしい。
その読みどおりだった。

いつもはケンカばかりだった2人が、案外自然に喋っているのだった。
惣流はその様子を見て「よしよし」とうなずいたという。

話は遊園地のことに移った。

ぼくと惣流を2人きりで観覧車に乗せようという作戦に、惣流はしめたと思った。
そうすれば、トウジと委員長のほうだって2人きりになるのだ。

観覧車が停止するというアクシデントも、予測外とはいえ良い展開だった。
ゴンドラから降りた後、2人の雰囲気はとても良い感じになっていたという。

遊園地に行った次の日、つまり今日、惣流は告白することを委員長に教えた。
その時それとなく委員長に、トウジに想いを伝えるよう仕向けるようなことを言ったという。

もしも自分の告白に触発されてくれたら――そう思いながら、惣流はぼくと対面した。

ひとりだと心細いから、陰で見守って欲しいと惣流は頼んだ。
委員長はきっとトウジを誘って来るだろうと見越していた。

惣流は、委員長達が覗いているのが見える位置に立ち、その向かいにぼくを立たせた。
ぼくとキスをしている時も、目を開けて向こうの様子を窺っていたそうだ。
もちろん心臓はもの凄くドキドキしてたわよ、と惣流は注釈を付けた。

覗き見る様子が見られなくなったので、惣流はついにその時が来たと思った。
言ってみると、まさに思い描いた展開が広がっていたのだった。

そして見事に委員長とトウジの想いは通じ合った。

だが、ぼくをだしに使った申し訳なさと、「好きだ」と言った恥ずかしさが逆に出て、
惣流はぼくに心にもないことを言ってしまった、と言うのだが・・・・・・

「ひどいこと言って、ごめんなさい」

惣流は何度も謝った。普段、こんな彼女を見たことがない。

「ほんとに、シンジのことが好きなの。ほんとに・・・・・・ウソじゃないの」

ここまで言われて、黙っていては男がすたる。ぼくは口を開いた。

「分かったよ、信じる。だからもうそんなに悲しい顔しないでよ」

「うん」

惣流がやっと笑ってくれた。そして彼女は続ける。

「・・・・・・アタシね、初めて会った時から、シンジのことが好きだったの」

「え」

それじゃあぼくと一緒だ、という言葉を呑み込んだ。言うのが恥ずかしかったからだ。

「あの時シンジが助けてくれて・・・・・・ほんとにうれしかった」

あの時、とはどの時のことか、ぼくはすぐに思い出せた。
偶然のような出来事が、惣流が転向してきた日の帰りにあったのだった。

ぼくはその時のことを思い浮かべた。


            *      *      *


ぼくは一緒に歩いていたトウジとケンスケと、道の途中で別れた。家の方向が違うためだ。

ひとりになったことで、ぼくはようやく空想にふけることが出来た。
思い浮かぶことと言えば、もちろん今日転向してきた女の子のことだ。

アスカという名前のその転校生が教室に入ってきた時、ぼくはすぐに目を奪われた。
いや、奪われたというか、惹きつけられるものが彼女にはあった。

ぼくは知らず知らずの内に、隣の席に座った彼女を見つめていた。
たぶん視界にぼくの姿が入っているはずなのに、彼女はこちらに見向きもしなかった。
それが余計に気になって、ぼくはさらに彼女を見つめた。

せっかく隣同士になったのだから名乗ればいいものを、ぼくは恥ずかしくて出来なかった。
ぼくが言い出さないから、彼女もいちいちぼくに挨拶したりしなかった。

昼休みなど、トウジたちと昼食を食べている時、ぼくはずっと隣が気になっていた。
いつの間にか委員長と仲良くなったようで、お喋りしている声が聞こえた。

最初彼女を観た時は、気品があるというか、ずい分大人びた印象を受けたが、
喋っている時は普通の女の子だった。それがまたぼくの心を動かした。

あれは午後の最初の授業のことだった。隣が気になる落ち着かない気持ちが手元に表れ、
ぼくはずっとペンをくるくると回していた。

手元がすべってペンが床に落ちた。彼女の足元に落っこちたので、ぼくは焦った。

自分で拾うには図々しいほどそばに行かなければならないし、声をかけるのもためらわれた。
しかしずっと拾わないのも「変なヤツ」と思われかねないので、ぼくは混乱した。

すると、彼女はイスを引いて、細くしなやかな手でペンを拾った。
ところがそれをすぐにぼくに返さず、手に持ってくるくると回し始めた。

なかなかうまい手さばきで、ペンが踊るように回るのをぼくは見惚れた。
手の動きがピタッと止まったのを見て、ぼくは彼女の顔を窺った。

口元を上げただけの笑みを見せ、彼女は初めてぼくを見た。
そしてペンをぼくに差し出しながら、口の動きだけで「ヘタクソ」と言った。

受け取る時、彼女の指がちょっとだけ触れた。
ハッとして彼女を見ると、ぜんぜん気にしていない様子で前を向いていた。

たったこれだけのことで、ぼくはとてもドキドキしていた。
彼女と話をしてみたい、仲良くなりたい――そう思っても、そうする勇気はなかった。

結局、学校ではひと言も喋らないまま、下校時間になっていた。

ぼくはゆっくりと道を歩きながら、彼女の顔を頭に思い浮かべていた。
初めてぼくを見た時の顔だ。思い出すだけでドキドキした。

角を曲がった時だ。ぼくはビックリして声を上げそうになった。

前方に惣流がいたのだ。家の方向が同じなのだと知って、何となくワクワクした。

ところが、何だか様子が変なのである。彼女の周りを大学生くらいの男が3人囲んでいた。
もしかしてナンパされているのでは――ぼくは直感的そうに思った。
いくら彼女が大人っぽいとはいえ、中学生をナンパするものなのだろうか。

どうしよう、とぼくは焦った。このままではこの道は通りづらい。
でも、遠目に見て、彼女は困っている表情に見えた。
無視して行こうとしても、男たちに囲まれてしまっていた。

助けに行ったほうがいいのだろうか、などと迷っている暇はなかった。

ぼくは歩き出し、彼女がいる所まで近寄った。

「あのう」

何と言ってよいか分からず、普通に話しかけてしまった。

すると、男たちが一斉にぼくを見た。惣流もこちらを見た。

一瞬驚いた顔をしたが、彼女は隙をついたようにぼくのほうへ駆け出した。
そしてぼくの背後に隠れ、両肩に手を乗せてきた。ぼくは緊張した。

「お、カレシの登場か」

男のひとりが言った。顔はいいが中身はろくでもなさそうな感じだった。

「シンジくん」と耳元で声がした。惣流の声だ。

「お願い、こいつら追っ払ってくれる」

そんなこと言われても、と言いたかったが、そんなことを言える状況ではなかった。
目の前にいるぼくより背の高い男たちが、鋭い目で睨んでいるのだ。

「悪いんだけど、ちょっとの間きみのカノジョ、貸してくれない?」

さっき喋った男が、まったく悪びれていない調子でぼくに一歩近づいた。
変なにおいがした。男のくせに香水か何かをつけているらしい。

「いやだ」

ぼくはカレシでも何でもないが、こんなヤツらに渡してたまるものかという気持ちが芽生え、
思わずそう突っぱねた。自分でも声に迫力がないことが分かった。

すると、男たちがクスクス笑い出した。どいつもこいつも気分の悪くなる顔だ。

「カッコいいねえ、きみ。ヒーロー気取りで」

さっきから同じヤツが喋っていた。こいつがリーダー格なのかと思ったが、
それにしては人間の小さそうな男だ。ぼくも人のことは言えないが。

「うるさい」

ぼくはもう少しきつい声で言った。普段ならここまで強気になれることはない。
後ろに惣流がいるからだ。ぼくは強い責任感を感じていた。

「おーおー、怒っちゃったよ。何だかおれたち悪者みたいだな」

男は言って、仲間と一緒にあはははと笑った。

ぼくは思い切り拳を握り締めた。ヤツらの笑いかたが鼻についたのだった。
すると、後ろから彼女がぼくの腕をつかんだ。おかげで、震えがおさまった。
怒っちゃダメだという意味でそうしたのかと思っていたら、実は違った。

ぼくの腕が、思いっきり後ろに引っ張られたのだ。

何事だと思って振り返ると、惣流はぼくの腕をつかんで駆け出していた。
ぼくももつれるようにしてついていった。

「あっ」

という男たちの声だけ聞こえた。振り向いて見てみたが、追いかけてはこなかった。
出し抜けを食らって呆然としているのかもしれなかった。

ぼくらは走った。全速力で走った。疲れることを知らずにひたすら走った。

結局、学校まで戻ってきてしまった。

2人して膝をついてはあはあと息を切らせた。それがおさまると惣流は言った。

「ありがと。シンジくんのおかげで助かったよ」

「あ、いやあ・・・・・・」

ぼくは照れた。だが、待てよ、と思った。あることに気がついたのだ。

「あ、あの、どうしてぼくの名前を?」

「ああ・・・・・・」

彼女は、失言をした、というような顔でうつむいた。

「キミがそう呼ばれてたのを聞いたから」

なるほど、と思った。人が言っていたのを聞いて、それを覚えていてくれたと知って、
ぼくはちょっといい気分になった。一応隣の席のぼくを気にしてくれたらしい。

「シンジって、あの方向なの?」

どうやら家の方向を訊いているらしい。ぼくはうんとうなずいた。
女の子に下の名前で、しかも呼び捨てで呼ばれるのは初めてだ。ドキドキした。

「それじゃ、一緒に帰ってくれない? アタシ、まだ道がよく分かんないから」

「え」

女の子と一緒に帰るなど、したことがないのでぼくは戸惑った。
しかし断るわけにはいかないし、仲良くなれるチャンスだと思ったので首を縦に振った。

さっきの男どもがいないかどうか周りを窺いながら、ぼくらは歩いた。

道すがら、彼女はぼくにたくさん質問をしてきた。でもぼくは何も訊けなかった。
恥ずかしくて、話しかけられないと喋れないのだった。

そんなぼくを見て、惣流は言った。

「シンジって、おとなしいんだね」

「えっ、そう?」

『おとなしい』と言われると、何となく否定的なイメージに聞こえたので、
ぼくは少し気分が沈んだ。

「そうだよ。見た目も弱そうだし」

「えっ」

ぼくはさっきから「えっ」と、そればかりだった。

会ったその日に、いきなり弱そうなどと言われた。ショックだった。

「でも」と彼女は言った。

「男は見た目じゃないもんね。さっきだってアタシを助けてくれたし」

そう言ってくれるとぼくも救われる。ただ、あれが助けたと言えるかは分からなかった。

彼女の家は、ぼくの家から100メートルと離れていなかった。
だからほとんどの道を一緒に歩いた。さっきの男たちはもう消えたようだった。

「バイバイ、バカシンジ」

別れる時、彼女はそう言った。

どうしてバカと言われなきゃならないのかと思ったが、あまり悪い気はしなかった。


            *      *      *


あのことがあったせいで、惣流は次の日から早速ぼくをからかい始めた。
時にはどうしてそこまで言うんだということも彼女は口にしたが、
よくよく考えてみれば、ぼくが優柔不断だったりのんびりしているせいなのだった。

だから、表面上は嫌な顔をしていたが、心の中では悪い気はしていなかった。
話しかけてくれるだけで、ぼくはうれしかったのだ。

「あの時シンジがいなかったら・・・・・・」

薄暗い校庭の真ん中で、惣流は悲しげにうつむいた。

「アタシ、すっごく怖かった。シンジが来てくれなかったら泣いちゃったかもしれない」

そう言う惣流は、本当に涙をこぼしていた。

ぽろぽろとこぼれる涙を見て、ぼくはドキッとした。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

惣流はまた謝った。初めは怒っていたぼくも、もう謝られてもいい気などしなかった。
ぼくのほうが悪いことをしているような感覚に襲われた。

「惣流、もうやめてよ。もう怒ってなんかないから」

「でもアタシ、シンジにひどいことしちゃった」

彼女はとうとう顔を手で覆い、わあわあと泣き出した。
どうしてよいか分からず、ぼくは手をウロウロさせるばかりだった。

だんだん、彼女に申し訳ない気持ちが湧いてきて、ぼくは行動に出た。

「惣流、ゴメン」

なぜか謝りながら、ぼくは彼女に近づき、肩を抱いた。
そのくらいならしてもいいと勝手に判断したのだった。彼女は泣くばかりだ。

すると、惣流はぼくの胸に頭をもたれかけ、背中に腕を回してきた。
泣き声は静かになったが、まだしゃくるように肩を震わせていた。

戸惑ったが、意を決して惣流を抱きしめた。彼女の振動と鼓動が伝わってくる。

「・・・・・・まだ返事を言ってなかったよね」

ぼくは彼女の耳元で、そっと囁いた。

「ぼくも、きみのことが好きだよ」

一瞬、時が止まったように惣流の動きが止まった。
それからしばらくして、ヒックヒックと肩が揺れ始めた。

彼女は顔を上げた。

「本当?」

惣流の涙目を見つめながら、ぼくはうなずいた。

「シンジ・・・・・・」

彼女はぼくの名前を呟くと、ゆっくりと目を閉じた。

その時のぼくには、もうためらいなどなかった。想いを伝えられたからだ。

そして、ぼくらは2度目のキスをした。涙の味がした。

触れ合うだけだったが、とても長いキスだった。唇を離すと、ぼくらは微笑み合った。

「ふうーっ」

すると突然、惣流はいままでの雰囲気からは考えられないほど明るいため息を洩らした。

「あー、よかった。嫌われたかと思った」

「な、何? 何?」

彼女が「よかったよかった」と言いながらぼくの背中をバンバンと叩くので、
ぼくはキョトンとした。惣流の人間が変わってしまったように感じた。

「それにしてもシンジもシンジよ。あれが演技だったって気づかないほうが悪いのよ」

「何だって」

「まったく、アンタってほんとに鈍感よね」

惣流は歩き出した。

「どこへ行くんだよ」

「どこへって、帰るのよ。もう用は済んだんだし」

そういえば、いまは何時だろうと思った。夕飯を食べていないことを思い出した。

「ちょ、ちょっと」

夕飯のことより、惣流が急に変わってしまったことのほうが心配だった。
まさか、まだぼくは騙されているのだろうか。

「ちょっと待ってよ、惣流」

「ストップ」

と言って、惣流は校門前でいきなり立ち止まった。ぼくは行き過ぎて、慌てて引き返す。

「もう『惣流』はやめて。『アスカ』って呼んで」

「え?」

「せめて2人きりの時くらい、名前で呼んでよ」

ねえシンジ、と言って彼女はぼくに微笑みかけた。

アスカがいつもの調子になったので、ぼくはまた騙されていたのかと思ったが、
何のことはない、単なる照れ隠しだったのだ。ぼくは安心した。

恥ずかしかったが、ぼくはそっと呼んでみた。

「ア、アスカ・・・・・・」

「なあに、シンジ」

アスカはぼくの手を握った。そのまま、ぼくらは帰り道を歩いた。

その途中、ぼくは何度もアスカの名前を呼ばされた。

ぼくは、ポケットに手を入れた。中に入っているものを渡そうか考えた。
まだプレゼントをするのは気が早いように思えて、ポケットにしまったままにした。

それは、昨日の遊園地の帰りに買った、ハート型のネックレスだった。
トウジに見られる前に買ったものである。なぜこれがいいと思ったかは、よく分からない。

空を見上げると、キレイな満月が暗闇の中で光を反射していた。

月明かりはまるでスポットライトのように、ぼくたちだけを照らしていた。




終わり




≪あとがき≫

どうも、うっでぃです。

私はどうも心をそそるような、またほのぼのとするような話が書けないので、
内容よりもまず展開だ、と思って書きました。

ひねりを入れないと、他のFF作家氏が書かれる作品に似通ってしまうのです。
「私の好きな人」を書いてから、逆転が重要アイテムだと思うようになりました。
ただ、ひねりを入れたところで面白いかどうかは自分でもよく分かりません。

書いている最中や脱稿直後の時点では、「これは面白い」と思ったりします。
ところがしばらく時間が経つと、「何だこれは」に変わることがほとんどです。
この作品も、逆転を思いついた時「これはいい」と思ってしまいました。
今度はどうなることやら・・・・・・

これは、いままでで一番長い作品です。書くのに苦労しました。
あんまり長いと行き詰った時大変なので、もう長いのはやめます。
ウソかもしれません。

そういうことで、ではではまたまた。


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