「ほら、じっとしてよ」 学生服を着た髪の赤い娘が、左手で相手のあごを持って顔を固定した。 相手の若者も同様に学生服を身に着けていて、黒髪を短くまとめていた。 「いい? ちゃんとじっとしてるのよ。少しでも変なとこがあっちゃいけないんだから」 赤髪の娘はそう言って、ファウンデーションをつけたスポンジを相手の顔に塗っていった。 作業は化粧室の鏡の前で行われている。『化粧室』とドアに表示はあるが、要はトイレである。 そのトイレから出て角を曲がれば、ホテルの広いロビーが見えてくるのだった。 ここは世界でも有数の一流ホテルである。その1Fの化粧室に2人はいた。 だから不意に他の客が入ってくるかもしれないのだが、偶然にもドアは開けられなかった。 もしこの2人をどこかで観察している者がいたら(いるわけないのだが)、 赤髪の娘が黒髪の若者をシンジと呼び、若者は娘をアスカと呼んでいることに気付いただろう。 作業が終わると、シンジは鏡を見ながら呟いた。 「何だか濃すぎる・・・・・・」 「大丈夫。アンタにはそのくらいで充分よ」 アスカは鏡越しにシンジを見つめた。シンジの顔は確かに化粧気が濃いようにも見えた。 「さ、誰かが入って来ない内に出よ」 化粧道具をポーチにしまい、持ってきていた紙袋に放り込むとアスカはシンジの手を取った。 トイレのドアを薄く開けて外の様子を窺い、人の視線が感じられないのを認めると、 2人はサッとトイレから出た。そこは女子トイレだった。 クロークに袋を預けると、2人は豪華絢爛たる雰囲気のロビーのソファに腰を下ろした。 ロビーにはいかにもお金持ちといった大人がいて、2人の子供をいぶかしく眺めていた。 アスカとシンジは中学生である。しかも制服姿だから場違いなのは否めなかった。 「ねえ」 アスカはシンジの耳元にささやいた。 「なんかジロジロ見られてるけど、ヘンな行動しないように気を付けなさいよ」 「ヘンな行動?」 「そうよ。ただでさえ場違いな恰好してるんだから、あんまり注目集めたくないの」 「そう、だね」 シンジは頬に指をやろうとした。顔を掻こうとするのをアスカは慌てて止める。 「あっ、ちょっとアンタ触っちゃダメよ」 「どうして?」 「せっかく塗ったのが落ちたらどうするのよ。かゆくても我慢しなさい」 シンジはぶーっと頬を膨らませた。怒ったのではなく、かゆいのを紛らわせるためだ。 アスカは腕時計を見た。待ち合わせの時間までまだちょっと時間がある。 周りを窺って、小声が届きそうなほど近くに人がいないのを確かめてから言った。 「ねえ、もう1回練習しておこう」 「でも、何度もしたじゃない・・・・・・か。ええと、ぼくは大丈夫だよ」 「ほらぜんぜんダメじゃん。復習のために最初から順を追って確認するわよ」 「・・・・・・分かった」 シンジはしぶしぶうなずいた。 「まず、3時にここへパパとママが降りて来た時の挨拶から」 アスカは姿勢を正して、しかし小声で言った。 「初めまして、ぼくがフィアンセの碇シンジです・・・・・・さんはい」 「ちょっと待って」 シンジは手の平を見せて待ったをかけた。 「やっぱり、『ぼくがフィアンセの』って言うのはよくないと思う」 「えーっ、どうしてよ。手っ取り早いじゃない、何者だかすぐに分かるんだから」 「そうじゃなくて、ええと、アスカのお父さんとお母さんに対して少し印象が悪いと思う。 何ていうか、押し付けがましいというか、とにかく良い響きじゃないと思う」 「だったらどう言えばいいのよ」 「アスカが説明するほうがいいと思う。そのほうがアスカも主張しやすくなるんじゃないかな。 この碇シンジというフィアンセがいるから、絶対にドイツには帰りたくないって」 「そうかなあ」 アスカは少し考えてから、「まあ、それでいいか」と一応納得したようだった。 「じゃあ挨拶はそれで決まりとするけど、アンタもちゃんとアドリブきかせるのよ。 お辞儀は丁寧に、『初めまして』くらいは言うこと、物腰も穏やかに」 「分かってる。アスカこそ物腰をきちんとね」 「なに生意気言ってんのよ、バカ」 「ほら、そういう態度」 「・・・・・・・・・」 アスカはぶーっと頬を膨らませた。これは怒りを表現しているのだ。 「はい次、つぎ」 手をポンと叩いて、アスカは練習を再開した。 「挨拶の後、たぶんすぐにパパたちが泊まってる部屋に連れてかれると思うわ。 部屋に入っても、部屋の感想を言わないこと・・・・・・って、言わないだろうけど」 「うん、言わない。言うとしたらアスカだね」 「いちいちうるさいのよ、アンタは。・・・・・・それじゃ、シンジの気持ちを確認するわね」 シンジは唇をなめた。アスカはごほんと咳払いをしてから、声を低めにして言った。 「きみは、アスカのことをどう思ってるんだね」 「はい。ぼくは、あの戦いの中でアスカと強い信頼関係を結びました。 時にはお互いを命がけで守るということもありました。そうしている内に、 ぼくは彼女を仲間としてだけでなく、必要不可欠な人として思うようになりました」 「・・・・・・やっぱりテキトー過ぎたかなあ」 「うん」 シンジはあっさりうなずいた。 「もっと簡単でいいと思う。あの戦いの中で、とかいらない気がする」 「うーん、そう言われるとそんな気もするけど、だったらどう言えばいいのよ」 「単刀直入に、アスカを愛しています、ぼくには彼女が必要なんです、とか」 「・・・・・・・・・」 アスカはちょっと顔を赤らめた。シンジはそんなアスカの顔を見て微笑む。 「なに笑ってるのよ。見ないでよ」 「いいでしょ、いまみたいなセリフで」 「い、いいわよ。どうせなら『お嬢さんをぼくに下さい』とか言っちゃってもいいわよ」 「・・・・・・それは、さすがにちょっと」 「冗談よ」 アスカは口元を上げて微笑むと、気を取り直して父親の声をマネた。 「ふむ。しかしきみもアスカもまだ中学生じゃないか。結婚は早計だと思うが」 「いいえ、ぼくの気持ちは変わりません。彼女も同じ気持ちだと言ってくれています。 ぼくは心の底から彼女を愛しています。これまで一緒に生活していて、ぼく思ったんです。 彼女といると、まるで家族といるみたいに安らかで落ち着いた気分になれるんです。 アスカがそばにいるだけで、ぼくは幸せなんです。・・・・・・何だかちょっと嘘くさい」 「そう? シンジの思いがよく伝わると思うんだけど」 「でも話が順序立ってないし、取って付けたようなセリフばっかり」 「んもー、文句つけるんならいいセリフのひとつでも考えなさいよ」 「・・・・・・いまは思いつかない。本番になったらきっといいのが浮かぶよ」 「本当? ちゃんとパパを説得できるようなこと言えるの?」 「自信はないけど何とかなるよ、たぶん」 アスカは「はーあ」と長いため息をついた。 「やっぱり、アタシ1人で説得したほうがうまく行くんじゃないかなあ」 「でも」とシンジが反論するのを遮って、アスカは続けた。 「そうすると急にアンタに話が振られた時に困るから、って言いたいんでしょ。 確かに困るけど、本当はアンタには一言も喋ってもらいたくないのよね」 「そうだね。これじゃまずいもんね」 「うん・・・・・・一応、咳の練習でもしておいて」 アスカが言うと、シンジは軽くため息をついてからコホコホとやった。 「あっ、もうそろそろよ」 腕時計を見ると午後の3時5分前だった。アスカは緊張した。 事の始まりは3日前にさかのぼる。 いわゆるあの戦いが終わってからというものの、惣流・アスカ・ラングレーは、 平和な毎日を碇シンジ、葛城ミサトと共に過ごしていた。 しかしそんな日本での日々はそう長く続けられないことを、アスカは知っていた。 日本での用事がすべて済んだ後、ドイツに戻るという約束をしていたのだ。 アスカは14歳にしてドイツの大学を出ている、素晴らしき頭脳と感性の持ち主だった。 日本に置いたままではもったいないほどの人材なのである。 帰って来いという手紙か電話がいつやって来るだろうとアスカは怯えていた。 ドイツに帰ったところで楽しいことなどひとつもない。義理の家族も苦手だった。 そんなことより、シンジがいる日本を離れることなど想像を絶する悲劇なのである。 予想よりも早くその電話はやって来てしまった。それが3日前のことである。 無下に帰りたくないと言っても、ちゃんとした理由がなくてはならない。 シンジと離れたくないから、と言ってはただのわがままに聞こえてしまうだろう。 「そろそろ帰ってらっしゃい」という義理の母親の声は、優しいがどこか事務的に聞こえた。 アスカが返事を渋っていると、ママは冗談口調で言った。 「もしかして、日本に好きな人でも出来たの?」 「えっ!」 アスカはビックリして受話器を落としそうになった。 「ど、どうしてそんなこと知ってるの?」 「あら、もしかして本当なの?」 ママも驚いたように言った。 「昨晩たまたま見た夢が、あなたがフィアンセを紹介するっていう夢だったのよ。 日本人の男の子を連れてきて、この人と結婚するからドイツには帰らないって・・・・・・。 まさかこんなおかしな夢を見るとは思わなかったけど、それが正夢だなんて」 「・・・・・・・・・」 「それで、本当にいるの? 好きな人」 「うん」 「その相手は、どういう人なの?」 「アタシと同じ、パイロットだった人」 「ふうん。その子とはどうなの。お互いの気持ちは確かめたの?」 「うん」 これは本当だった。好き同士だったことはとっくに分かっている。 だがもちろん結婚をしようと誓い合ったわけではなかった。 「だから、帰らなくてもいいでしょ。日本にずっといたいの」 「・・・・・・あなたがどんなに帰りたくないと言っても、約束は守らなきゃ」 「でも、イヤなの。帰りたくないの。離れたくないの」 アスカは必死に懇願した。その声には一遍の偽りもなかった。 「わがまま言ってることは分かってる。でも彼と離れるなんて、アタシ、アタシ・・・・・・」 受話器を持ちながらアスカは泣いていた。温かい涙がぽろぽろこぼれていく。 「・・・・・・日本人のフィアンセがいるというのは本当なのか、アスカ」 いつの間にかパパに替わっていた。 フィアンセとは一言も言ってないのだが勝手にそういう話に替わってしまっている。 ママが言っていた夢の話をそばで聞いて、それが真実だと思っているのかもしれない。 どうせなら結婚相手がいると言ったほうが帰国反対の強調材料になるかと思い、 アスカはフィアンセという言葉を肯定した。 「うん」 それにアスカ自身、いつかはシンジと結ばれたいと思っていたのだった。 結婚話が出てくるタイミングがちょっと早かったと思えばいい。 「そいつはまいったな・・・・・・そんな話が出るとは考えもしなかった。 結婚なんてお前にはまだ早いだろう。他に帰りたくない理由があるんじゃないか?」 「違う。彼と一緒にいるのが、ここにいるのがアタシにとって一番幸せなの。 ずっとここにいたい、彼のそばにいたい。ドイツには帰りたくない・・・・・・」 向こうの両親には少々きつい言葉だったが、アスカは涙を拭きながらそう言った。 その時なぜか、電話の向こう側から鼻をすする音が聞こえた。 するとパパは諦めたように「分かった」と呟いた。 「分かった、というのは、電話で説得することを諦めるという意味だ」 「え・・・・・・?」 「お前に会いに日本に行くことにした。そしてそのフィアンセにも会う」 「えーっ」 「きちんとフィアンセに会い、私がもし『よし』と判断したらドイツへの帰国は流そう」 「ほんと?」 「ああ、本当だ。だが私が簡単に首を縦に振るとは期待しないほうがいいぞ」 「・・・・・・・・・」 そして電話は切れた。 感情的になるのを抑えていたのか、パパの声は鼻声で少し聞き取りづらかった。 だが両親が日本にやって来るということだけは、アスカの耳に届いていた。 アスカはいささか焦りを覚えた。 いくら好き同士になったとはいえ、シンジが結婚を考えているかどうかは分からない。 まずはそれをちゃんと確かめる必要があった。 ドイツからの電話があった日の夜、アスカは愛しい彼の部屋に押しかけた。 いきなりシンジに抱きついて、「アタシのこと好き?」と訊いてみた。 彼は鼻をかんでいたところで、慌ててちり紙をゴミ箱に捨てた。 「ど、ど、どうしたのさ、いきなり」 「ねえ、答えてよ。アタシのこと好き?」 「す、好きだけど」 彼はアスカに愛の告白をした時と同じくらいどもっていた。 「どのくらい好き?」 「どのくらいって・・・・・・好きは好きだよ」 「結婚したいくらい好き?」 「け!」 シンジは大きな目でアスカを見つめた。 「結婚って、それはちょっと」 「イヤなの?」 アスカはもう泣きそうになっていた。 「アタシとずっとずっと一緒にいるのが、そんなにイヤなの?」 「い、イヤじゃないよ。アスカとずっと一緒にいたいと思ってる」 「だったら・・・・・・」 「いや、だから、結婚はまだちょっと話が早いかなって思って」 「え、てことは、大人になったら結婚してくれるってこと?」 「まあ、うん、ぼくはそのつもりでいたんだけど」 「うそー!」 アスカはうれしさにビックリした。その拍子に涙が頬をツーと伝っていった。 それからアスカは「大好き」「愛してる」を連呼して、キスの雨を降らせた。 「本当に結婚してくれるの?」と何度も確認し、その度にシンジは微笑んでうなずいた。 窓の外はざあざあと雨が降っていた。しかし彼女にはそんな音は聞こえない。 シンジの優しい声しか聞こえなかった。 「好きだよ、アスカ」 これだけお互いの気持ちがつながっているのなら、きっとパパを説得出来る。 アスカはほとんど確信していた。2人の愛の力は絶大なものだ、と。 しかし、思わぬ落とし穴があることに次の日になって気がついたのだった。 ちなみにその日は、1日中よく晴れていた。 「まあ、かけなさい」 アスカの父は穏やかな口調ですすめた。2人が座るとソファは深く沈みこんだ。 ホテルの部屋に入った時に感想を洩らすなとシンジに忠告していたアスカは、 自分でそのミスを犯した。『凄い』の『す』の口で固まったまま、棒立ちになった。 いまアスカが住んでいる葛城ミサトのマンションの部屋が、4つは入ろうかという広さだった。 それは決して誇張ではなく、本当にひと部屋ひと部屋がとてつもない面積を持っていて、 置いてあるインテリアもテレビでしか見たことのないような豪華さだった。 人並み以上に裕福な義理の家族だが、それもアスカにとってはたかが知れている。 これほどまで高級な部屋を簡単に用意出来るようなパパとママではないはずだった。 おそらく、ドイツに帰ればこういう暮らしに戻れるんだぞと牽制球を投げているのだろう。 だがアスカは、経済面の豊かさは人並みであれば気にならなかった。 むしろシンジさえそばにいてくれれば、たとえ貧乏でも幸せだと確信している。 仲の良さを示すためにアスカはシンジの手を握った。シンジの手は冷たい。 「ほんの少し見ない内にひと回り大きくなったな、アスカ」 パパは向かいのソファに浅く腰掛け、前かがみに言った。 風邪を引いているのか大きなマスクを付けていて、モゴモゴと聞こえる。 「つまり、まだお前は成長期だということだ」 早くも攻撃を仕掛けてきたな、とアスカは身構えた。 「アタシはいますぐにでもシンジと結婚したいとは言ってないわ」 「当たり前だ。法が許してくれないからな」 「でも、大人になったらきっとするの、結婚」 「その間に気持ちが変わらないと言い切れるか?」 「うん」 アスカはパパをじっと見つめた。シンジと握っているほうの手が汗ばんだ。 「・・・・・・お前が帰りたくないという気持ちがあることは、よく分かった。 それがたとえ一過性の気持ちだとしてもな」 「そんな、アタシの気持ちは一生変わらないもん。ずっとシンジのこと好きだもん」 「分かった分かった」 パパは、もういいという風に両手をかざした。首だけ動かしてシンジを見据える。 「きみの気持ちを聞こうか」 「はい・・・・・・」 伏目がちだったシンジは、そこでようやく顔を上げた。 その時、アスカの母が2人分の紅茶を持ってきて、テーブルに置いた。 シンジの前と、アスカの父の前に。アスカの分とママの分はない。 「アスカ、ちょっといらっしゃい」 ママはアスカの肩に手を置いた。 「どうして?」 「パパは、シンジくんと2人っきりで話をしようと思ってるのよ」 「えっ、でも」 「いいから、アスカはこっちへいらっしゃい」 アスカはパパを見ると、彼は目でうなずいた。アスカは席を外してくれと言っているのだ。 これは困ったと思いながら隣のシンジを見つめた。 「大丈夫」 シンジは小さくそうささやいた。 心配そうな目をシンジに向けながら、アスカはしぶしぶその場を離れた。 ちょうどドアを閉める直前に、パパが豪快なくしゃみを連発するのが聞こえた。 残された2人がいるリビングスペースから一番遠いベッドルームまで呼ばれた。 柔らかいベッドに腰掛けると、ママがあったかい紅茶を持ってきてくれた。 ひとくち飲み、カップを持った手を膝に置いてからアスカは言った。 「パパ、許してくれるかな」 「それはシンジくん次第ね」 ママは隣のベッドに腰掛け、アスカと向かい合った。 「あなた、シンジくんのどんなところに惹かれたの?」 「・・・・・・優しいところ」 アスカははにかんでうつむいた。 「とっても優しくて、アタシのわがままにも笑顔で応えてくれて、その笑顔も素敵なの」 「でも、まだあの子の笑顔を見てないわね」 「シンジも緊張してるのよ」 「ま、そうかもしれないわね」 ママは曖昧な口調で言った。アスカはそれが何となく引っかかった。 だが疑問を口には出さずに別のことを訊いた。 「ママは、パパのどんなところに惹かれて結婚したの?」 「あなたと同じよ」 紅茶で口を湿らすと、ママは続けた。 「優しくて誠実で、笑顔がとても素敵。この人しかいないって思ったわ」 「あ、アタシもそう思った。この人しかいないって」 「たぶん、私も当時は夢見ていたんだと思うんだけど・・・・・・」 ママは急に遠くを見るような目つきになった。 「運命の赤い糸って、本当にあるんだなって思ったわ」 「運命の赤い糸・・・・・・」 「あなたの指とシンジくんの指も、きっと赤い糸で結ばれてるんでしょうね」 「もちろん」 アスカはにっこり微笑んだ。しかしママは意外なことを言った。 「本当にそうかしら」 「えっ?」 「確かに、あなたとシンジくんは赤い糸で結ばれているのかもしれない」 ママが何を言いたいのか分からなかった。 「ママ、どういうこと?」 「・・・・・・けど、あなたと、いまパパと話をしているあの子の間に、赤い糸は見えないわ」 「え」 アスカはティーカップを落とした。 「ひえーっくしゅん」 碇シンジは豪快なくしゃみをした後、くしゅんくしゅんくしゅんと3発続けた。 鼻水がどうしようもなく流れ、鼻の下を楽々通過して唇に流れてきてしまう。 その洪水を食い止めるためにティッシュペーパーが数限りなく使われていた。 彼の部屋のゴミ箱は、鼻をかんだちり紙の山が出来ていた。 春休みを迎えてまだ間もない。だんだんとポカポカ陽気になってきた。 しかしそんなうららかさは彼にとっては怒りの対象でしかなかった。 「ただいまー」 玄関でミサトの大声が聞こえた。朝帰りならぬ昼帰りだ。もう午後の3時を回っている。 シンジはガーゼのマスクを付けると、のっそりと自分の部屋を出た。 「おがえでぃださい、びサトさん」 ひどい鼻づまりのせいでうまく喋れない。お帰りなさいと言ったのだ。 ミサトは疲れ切った様子でリビングに大の字になっていた。 しかしシンジの姿を認めると、バッと上半身を起こした。 「あれ? シンちゃんどうしてここにいるの?」 「は?」 「今日、アスカの両親に会いに行ったんじゃなかったの?」 「は? 何でづかそれは」 ミサトの話を聞くと、シンジの顔色はみるみる変わっていった。目元しか見えないが。 「ぼくとアスカが結婚!?」 「そう。シンちゃんがいるからドイツに帰りたくないって言ってるみたいよ、アスカは」 「ああ・・・・・・」 シンジは最近アスカが妙に甘えてくるのを思い出した。そういえば結婚がどうとかも言っていた。 「アスカ、ドイツに帰っちゃうなんてぼくには一言も・・・・・・」 「そりゃシンちゃんを心配させたくなかったからでしょ。あなたのことが本当に好きなのよ」 「アスカ・・・・・・」 彼女の笑顔に思いを馳せる、こういう時に限って鼻水が流れてくるのだった。 いらいらした手つきで激しく鼻をかむと、シンジは言った。 「ミサトさん、アスカはいまどこにいるんですか」 場所は1Fの化粧室。その個室に綾波レイはいた。 碇シンジの制服を脱ぎ、クロークに預けておいた袋から自分の制服を取り出す。 肌色のファウンデーションはすでに水に流してしまっていた。 おとといの朝、惣流・アスカ・ラングレーがアパートにやって来た時は少し驚いた。 誘っても来るような人物ではないからだ。彼女が1人でやって来たのも驚きだった。 「お願い」 アスカは開口一番そう言って、顔の前で手の平を合わせた。 「アンタしか頼める人がいないのよ」 急に懇願されて戸惑うレイに、アスカは説明を始めた。 「実は・・・・・・」 彼女は少し言いにくそうに、ドイツから両親が来日する経緯を説明してくれた。 「・・・・・・それで、私に頼みがあるというのはなぜ?」 「あのね」 アスカは唇を噛んだ。相当言いにくい事情があるんだな、とレイは思った。 「シンジのヤツ、病気になっちゃったの」 それがどういう病気なのか、アスカは言わなかった。 「碇くんが病気で、なぜ私に頼みがあるの?」 「シンジの代わりをしてもらいたいの」 聞くところによると、シンジの症状はもう半端ではない凄まじさなのだという。 所構わずくしゃみや鼻水が出て、顔中が鼻水まみれになるほどだそうだ。 アスカに「いくら好きでも、あんな顔にキスしたくない」と言わしめるほどであるから、 彼は相当ひどいことになっているらしいと想像がついた。 要するに風邪のひどい症状なのだろうとレイは何となく思った。 そんなシンジを両親に会わせたら、ドイツに帰らざるを得なくなるのは目に見えている。 何とかそれを防ぎたいので、こうしてレイの元に馳せ参じたという次第だそうだ。 その病気とは縁がなく、しかも顔立ちが似ているレイはシンジの代わりにピッタリだという。 目が赤いのは寝不足のせいだとか言えばいいし、声が違うのもそれを理由にすればいい。 アスカはもっともらしくそんなことを言った。ほんとにそれで大丈夫かとレイは首をかしげた。 シンジとアスカが結婚をするという事実が何となく気に入らなかったが、 レイはその仕事を引き受けることにした。思わぬ誘惑に釣られてしまったのだ。 「ねえ、お願い。ニンニクラーメンおごってあげるからさ」 「・・・・・・チャーシュー抜きよ」 ラーメンで釣られてしまうのは早計だったな、とレイは後々後悔した。 それからというものの、おととい、昨日とアスカとの特訓で1日がつぶれてしまった。 髪の毛を染めるというのは初めてのことで、なかなか楽しかった。 パッと見では碇シンジと見紛うほどである。黒髪もいいかもな、とレイは思った。 このことはシンジには言わないで、とアスカに口止めされた。 言うも何も、その間彼と会う機会すらないほど忙しい特訓だった。 そして当日、つまり今日の本番では、さすがのレイも緊張した。 人を騙すことなど初めてだったからだ。ちゃんと演じられるかどうかドキドキした。 ロビーで挨拶した時、アスカの父親の不躾な視線が気になって仕方なかったが、 のちに2人きりで話を始めると、男と思ってくれているのを言葉の端から感じ取った。 私は碇くんだと思われてるんだと考えると、何だか変な気分だった。 しかしアスカに呼ばれて席を立つと、事態は急変していた。 本物の碇シンジがホテルの部屋までやって来てしまったというのだ。 その上どうやらアスカの母親には、レイの変装がバレてしまっていたらしい。 やはり同じ女性だからだろうか、すぐに偽シンジを女の子の男装だと思ったそうだ。 だがアスカの母親はとてもいい人で、アスカが泣きながら事情を話すと、 あなたの気持ちはよく分かると言って変装の件を父親には内緒にしてくれた。 そして、本物の碇シンジがアスカの父親と対面した。その後のことは知らない。 ただひとつ気になったのは、そのアスカの父親のことだ。 レイが話している途中で、彼は何度も何度もくしゃみを繰り返していた。 「すまんね」と言いながら鼻をかみまくり、ゴミ箱は丸めたティッシュだらけになった。 こんなにひどい風邪なのに、わざわざ日本まで来て大変だなあとレイは思った。 目も赤くなっているし、鼻をかむ時に覗いた鼻の下も真っ赤だった。 「気にせんでくれ」と言うから病気のことは何も訊かなかったが、 顔があまりにもつらそうだった。レイは心の中で「お大事に」と呟いた。 着替えを済ませると、レイはシンジの制服が入った袋を抱えてホテルを出た。 この袋は後でアスカがレイのアパートまで取りに来るということになっている。 そしたらその後はお待ちかねのニンニクラーメンだ。もちろんチャーシュー抜き。 周りは巨大なビルばかりである。その隙間に見える空は抜けるように青かった。 急に風が吹いて、レイは慌ててスカートを押さえた。そしてなぜか鼻がムズムズする。 「くしゅん」 小さいくしゃみが出た。すると堰を切ったように立て続けにくしゃみが続いた。 鼻をすすりながら、あの人の風邪がうつっちゃったかな、とレイは思った。 「どわーっくしゅん」 アスカの父親はド派手にくしゃみをし、鼻をかんでから続けた。 「そうなんだ、もう目ん玉えぐって目の裏をガリガリガリガリ掻きたくなるんだよ」 「分かります、ええ分かります」 聞き役の碇シンジは大真面目な顔でうなずく。 「もう口ばっかで息してるから喉が痛んでどうしようもない」 「分かります、ええ分かります」 「大事な仕事中でもおかまいなしに鼻水がダラダラダラダラ流れてくる。最悪だよ」 「分かります、ええ分かります」 「鼻のかみすぎで、ほれ、鼻の下なんかこの通りだ。普段はこうしてマスクで隠してるがね」 「ぼくもです」 と言ってシンジは少し前のめりになる。彼の鼻の下もとんでもないことになっていた。 「ああ仲間だ、仲間がいた」 アスカの父はうれしそうに言うとまた、どわーっくしゅん、と大きなくしゃみをした。 それにつられてシンジも負けないくらい大きなくしゃみをする。 そして2人は仲良く鼻をかみ、微笑んだ。不気味な光景だった。 アスカは喜んでいいのかよく分からずに、少し離れた位置で2人を眺めていた。 どうやらパパはシンジが入れ替わったことに気が付いていないらしかった。 「いやー、私はうれしい。私の周りにはひとりもいないんだよ、花粉症の人間が。 家内のヤツなんか私の苦労も知らずに呑気に外出するんだ。もう憎らしくてしょうがない」 「分かります。それでもって帰宅の時には花粉のことなど気にせず家に入ってきたりして」 「そうなんだそうなんだ。おかげで家の中でもひどい有様だよ。きみのうちもそうかい?」 「ええ、アスカ・・・・・・さんが特にそういうことに鈍感で」 「いやいや、アスカと呼び捨てで構わん」 アスカの父は諦めたように首を振った。シンジの目がキョトンとなった。 「私はきみのことが非常に気に入った。きみならアスカを任せても安心だ。 花粉症には弱いが、さっき聞いたきみの気持ちはとても誠実だった」 「はあ」 シンジはまだアスカへの気持ちを言っていない。きっともう1人のシンジが喋ったのだろう。 ここはしっかりと自分の口から言っておかねばと思い、シンジはテーブルに手をついた。 「お、おとうさん、ぼくは・・・・・・」 「どわーっくしゅん」 シンジが言い終わらない内に、アスカの父は再び豪快なくしゃみをした。 鼻をビーッとかむと、照れ笑いを浮かべながらうなずいた。 「ははは、せっかく真剣に言おうとしていたのにすまないな」 そして真面目な顔になって彼は続ける。 「分かった、アスカのことはきみに任せよう」 「本当!?」 と叫んだのはアスカだった。 「わー、ありがとうパパ」 アスカは胸元で手を組み合わせた。その目には涙が浮かんでいた。 感極まって、愛する碇シンジの胸に飛び込んだ。 「シンジ、ずっとずっと一緒だよ」 「うん」 シンジの目にも涙が浮かんでいた。 うれしさももちろんあったが、彼の涙は目がかゆいためだった。 終わり ≪あとがき≫ どうも、うっでぃです。 まず、私は花粉症ではありません。そのくせテーマは『花粉症』です。 母が花粉症で苦しんでいたのを何となく思い出しながら書きました。 それから、読んで分かる通りこの話の大まかなプロットは、 ターム氏の「いつも最後は」を参考にさせてもらっております。 レイにシンジの恰好をさせるという状況の必然性を考えた時に、 いわゆるアスカの帰国ネタしか思い浮かばなかったのであります。 ええと、あんまり弁解がましいことをずらずら書いても、 私がアホであることがただ分かるだけなので、これ以上は書かないことにします。 根本的な部分は同じですが趣はまったく異なっておりますので、どうかご了承下さい。 ではではまたまた。
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