さくらの長い休日(その3)――<大神家の人々>――
「お邪魔してもよろしいかしら?」
「は、はい。どうぞ」
少し高めの、澄んだ声が障子越しに掛けられる。慌てて応えを返したさくらの声に、縁側の障子がスッと開いた。
「突然ごめんなさいね、さくらさん。
あたしは一郎の姉の美鶴(みつる)と申します」
「真宮寺、さくらです。よろしくお願いします」
体重というものが無いかのように軽やかに膝をつき優雅に一礼した大神の姉に、少し圧倒されながらさくらもお辞儀を返す。
「はしたないことで恥ずかしいのだけど、一郎さんから正式に紹介してもらえるまで待てなくて。
本当に可愛いお嬢さんねぇ……」
「いいえ、そんな……」
ほうっと溜息をつき頬に手を当ててうっとりした眼差しを送ってくる美鶴に、さくらは軽い狼狽を感じていた。
(綺麗な女(ひと)………)
母親の時より数段強くそう思って、さくらはぼうっと美鶴を見詰めてしまっていた。
背の高さはさくらとほぼ同じくらいか。大神とは対照的なサラサラと流れる漆黒の髪を背中の半ばで縛り、ほっそりした身体に墨染めの小袖をまとっている。どちらかと言えば淡白な着物の柄が彼女の華やかさを一段と引き立たせていた。
やや吊り目気味の切れ長の双眸は大神とよく似ている。色白で鼻筋が通り、形の良い唇は柔らかな笑みを浮かべていながらもキュッと引き締まった印象がある。凜とした、どちらかと言えばきつめながらも丹頂鶴のような気品ある美しさ。
(こんなお姉様がいらしたなんて……)
さくらは少し不安になった。こんな美人の姉がいたなら、女性を見る目が辛くなってしまうだろう。特に、子供っぽい女性には。
(そう言えば大神さん、あやめさんのこと、好きだったみたいだし………)
本人は否定していたが、さくらは今でも大神があやめに対して特別な感情を持っていたと思っている。無論、自分を好きだと言ってくれた、一緒にいると言ってくれた大神の言葉を疑うつもりはない。彼の「約束」はさくらにとって何よりも大切なもの。何よりも信じられる、信じていたいもの。
しかし、彼を信じているという事と、彼の好みの女性は自分のようなタイプではないかもしれないという不安は別物である。自分が誰よりも愛しく想っているあの人は、もしかしたら自分とは違う、目の前のこの女(ひと)のような女性に惹かれるのかもしれない……
「髪も艶々で……お肌も白くて……」
「?」
「ねえ、お手を拝借してもよろしいかしら?」
「はっ…?え、ええ……」
「あら、綺麗な手……とても剣術を嗜んでいらっしゃるなんて思えないわ……
それにしても何て肌理細かなお肌なのかしら……
睫毛も長くて……それにとても澄んだ瞳……本当に可愛らしい方ねぇ。
一郎さんにはちょっともったいないわ」
「???」
だが、さくらのそんな不安は山の彼方に吹き飛んでしまった。何と言葉を返していいのやらわからなくなって、目を点にしたままさくらは美鶴の為すがままになっていた。
しつこくさくらの手を撫で回していた美鶴の掌はやがて手首から肘、そして肩へと上がっていた。
「あの、美鶴さん?」
「ねえ、さくらさん……あたしのこと、どう思われます……?」
「はあ?あの、美鶴さん??」
さくらはさり気無く後退ろうとしている。だが美鶴がじりじりと近づいてくる所為で接触度はむしろ高まるばかりだ。
遂に美鶴の息が唇に振れる距離まで近づいてしまう。切れ長の双眸から瞳を逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまうさくら。
「ねえ、さくらさん……」
「は、はいぃ」
「あたしね、貴女みたいな女の子のこと……」
「………」
(た、助けて、大神さぁん!!)
いままでこれほど切実に大神の助けを願った事は無かった。日本橋でも、聖魔城でも、赤坂でも、武蔵でも。心の底から大神の助けを祈った。
がらっ!
バン!
突如、乱暴に開け放される奥の襖。
「一郎さん……襖の開け閉めはもっと丁寧にして下さらないかしら?」
何事も無かったようにさくらから離れ、おもむろに座り直して、お茶菓子を手に目を吊り上げて立っている大神に美鶴は平然と話しかけた。
「姉さん……よくもまあ、しゃあしゃあとそんな事が言えますね……」
「あら、何をそんなに怒っていらっしゃるの?」
「姉・さ・ん……」
大神から微妙に視線を外して嘯く美鶴に、地の底から響いて来たような声が返される。
「ハイハイ、ごめんなさい。あたしも貴方と本気で喧嘩するほど自惚れてはいませんから」
潔く両手を上げて見せ、それからチロッと舌を出す美鶴。どちらかと言えばお固い感じのする美貌に比べ、随分お茶目な仕種である。
(大神さんのご家族って………
お祖父様といいお姉様といい、こんな方々ばかりなのかしら………)
まだドキドキと速いリズムを刻む胸を押さえながら、さくらはそんなことを思わずにいられなかった。
「それにしても…貴方がそんな目をあたしに向けるのは初めてね。そんな、本気で怒ってみせるのは。一郎さん、貴方本当にこの方が好きなのね」
「ね、ね、ね、姉さん!いいいきなり何を……」
「昔は『美鶴姉さんのことが一番好き』だって言ってくれていたのに、姉さん、何だか寂しいわ」
「なな何を言ってるんだよ!!小学生の頃の話をこんな時に蒸し返さないでくれ!!」
真っ赤になって声を張り上げる大神。美鶴はわざとらしく袂で目を覆っていたりする。
「昔はいつも姉さん、姉さんって慕ってくれていたのに……江田島に行ってからはろくにお手紙もくれないし、帝都なんてすぐそこなのに全然帰ってきてくれないし……」
「そんなの今は関係ないだろ!!それに姉さんの結婚式にはちゃんと戻って来たじゃないか!!」
「戻って来たと言っても一晩だけ。次の日には朝早くいなくなっちゃうし、あの時は姉さん、少し哀しかったわ」
「わ、悪かったと思ってるよ、あの時の事は。でも俺にも仕事上の都合というものが……」
「よほど帝都の居心地がいいんだわ、帝都に好きな娘が出来たから早く戻りたいんだわって思っていたら、案の定、こんな素敵なお嬢さんがいらしたのね……」
しどろもどろになりながら必死に言い訳する大神。だが美鶴は全く聞いていない。あるいは、聞いていないふりをしている。
「それは違う!それは違うよ、姉さん!さくらくんのことは関係ない。本当に、任務で帝都を長く離れる訳には行かなかったんだ」
「そうかしら?一郎さんの足なら帝都なんてすぐじゃない」
「いや、だからね。俺の立場上、そんなに長い間」
「この前のお正月は仙台でお泊まりだったんでしょう?」
「いや、それはね、えーっと、………」
何時の間にか、頭を下げる立場は逆転していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……ごめん、さくらくん。変な姉で……」
「い、いいえ、その……綺麗なお姉様ですね」
疲労を全身から滲ませてがっくりとうなだれた首を左右に振りながら謝罪する大神が何だか可哀想になって、さくらはそんな当たり障りのない応えしか返せなかった。
「そうだね、黙って座ってさえいれば……いや、口を開いてもいいんだ、あの変な性格さえなんとかなれば……」
「………」
大神の顔に浮かぶ、深い苦悩の色。
「あの人はとにかく、綺麗なものなら何でもいいという人だから……
あっ、でも誤解しないでくれ。あの人は美しいものを愛でるのが好きなだけで、決して妙な性癖をもっているわけじゃ……」
「愛でる、ですか……?」
僅かに身を引くさくら。
「あっ、いや、決して同性愛者とかそんなのじゃなくてね、その、………いいよ、どうせあんまり差はないから」
苦悩に加わる、疲れと諦め。
「ただこれだけは信じてくれ。姉は決してさくらくんに不届きな真似をするような人じゃないんだ。あの人はただ、君に触れてみたかっただけなんだよ。そして、確かめてみたかったんだと思う」
「……良くわかりませんけど……
あたし、大神さんのこと信じていますから。大神さんがそう仰るなら、さっきの事はもう気にしないことにします。大神さんのお姉様ですもの、あたしも仲良くしていただきたいですし。
……あの、信じて、いいんですよね?」
遠慮がちな最後の一言に再度がっくりと首をうなだれる大神。彼の顔を諦めの表情が占領する。
「大丈夫だよ、……多分」
さくらは何だか大神のことが気の毒になってしまっていた。