さくらの長い休日(その4)――<大神家の人々>――


 

「さくらくん、悪いんだけどもう少し待ってくれないかな?親父がまだ戻ってないんだ」
「はい、あたしは構わないです。
 ……そう言えば、大神さんのお父様ってご職業は一体何をなさっているんですか?」
「主に猟師だよ」

(……主に……?)

 大神の妙な言い方にまた一つ、さくらの心の中に不安が芽生える。母親は別として、祖父、姉と立て続けに「変な」家族に引き合わされたばかりなのだ。想像力がおかしな方向に暴走しても、さくらの責任とばかりは言えないだろう。

「あの、大神さん…」
「ちょっと待って」

 疑心暗鬼に耐えきれず、詳しいことを教えてもらおうと声をかけてきたさくらを、大神は遠くの音に耳を傾けるような表情で制止した。

「一郎さん!」
 バンッ!

 甲高い、切迫した美鶴の声と大神が障子を勢いよく開けたのはほとんど同時だった。素足のまま庭に飛び降りる大神。

「大神さんっ!」

 悲鳴を上げるさくら。大神が耳にしたのはこの地響きだとハッキリわかった。かなり大型の猪が庭の中に駆け込んできている。その突進の真正面に立つ大神。
 荒鷹は、間に合わない。猪の牙は大神のすぐ目の前まで迫っている。目を逸らすことも閉ざすことも出来ず、さくらは愛する人が獣の牙に貫かれる姿を凝視するしかなかった。
 時間の流れが変わった。猪の動きが妙にゆっくり見える。二本の太い牙が大神の太腿に突き刺さる、そう見えた瞬間、猪が大神の身体と重なった。ギリギリの見切りだとは、後になって思い至った理解。大神の掌が猪の頭に打ち下ろされ――「気」が迸った。

 ズウン……

 重い音を立てて倒れる猪。その傍らで、大神が大きく息を吐いている。

「大丈夫ですか!?お怪我は、お怪我はありませんか!!?」

 足袋が汚れるのも構わず庭に駆け寄り、大神の腕に縋り付くようにして彼の無事を確かめるさくら。そんな必死な姿に温かな笑顔を浮かべて、下駄を引っ掛けた美鶴が二人の側に歩いて来る。

「一郎さん、掌を見せてご覧なさいな」
「何ともありませんよ」

 さくらに安心させるように微笑みかけ、それから美鶴に向かってそう応えながら掌をかざす大神。
 美鶴は不思議なことをしてみせた。彼の掌に自分の掌を合わせるように、だがギリギリで接触させずに、ジッと手と手を向き合わせ、その後大神の肩から背中、太腿の辺りまで掌を少し離したまま動かしたのだ。

「大丈夫の様ね。外傷、内傷、共になし。
 一段と技が切れるようになりましたね」
「サボったりはしていませんよ。務めに関わることですから」
「それでこそ一郎さん……
 ありがとう、さくらさん。弟を心配してくれて」
「は、はいっ」
「一郎さんは大丈夫ですよ。何処にも怪我はしていませんから」
「はい……、!」

 これが先程のお茶らけた「お姉様」と同一人物なのだろうか?別人であるはずは無いとわかっていながら、さくらはそう思わずにはいられない。今の美鶴は柔らかく微笑みながらも、その硬質の美貌に相応しい真面目な、何処となく威厳すら感じさせる光を切れ長の双眸に宿していた。
 そしてハッと気がついた。大神の袖に縋り付いている自分の今の体勢に。慌てて手を放すさくら。恥ずかしさに頬を赤くして俯く彼女を美鶴は優しい顔で見詰めている。

「一郎さん、貴方、果報者ね」
「な、何です、急に?」
「こんなに素敵な娘に、こんなに一所懸命心配してもらえて」
「………」
「………」

 淡い花霞のような、ほんわかしたムードの中で地面に目をやる大神とさくら。美鶴はそんな二人を可笑しそうに見詰めている。
 そのほのぼのとした空気を、蒸気機関車の如き重低音が吹き飛ばした。

「おお、一郎か!すまんな」

……?)

 そろそろ星の光が瞬き出そうかという濃い黄昏の闇の中、のっしのっしと歩いてきたその人影を見て、さくらは一瞬身構えてしまった。
 無論、人語を喋る熊などいるはずがない。そのシルエットは、あくまで「人影」である。だが恐ろしいほど強い山の精気と、のしかかってくるような肉体の存在感が二本脚で歩く熊を連想させたのだ。

「やっぱり親父か……いい加減、生け捕りに拘るのは止せよ……」
「いや、お前が許婚を連れてくると言うんで、美味い牡丹鍋をご馳走してやろうと思ってな。やはり肉は新鮮な方が美味い」
「気持ちは嬉しいんだけどさ、逃がしてどうすんだよ……
 親父ももう歳かい?」
「ハッハッハッ、面目ない。少し力加減を間違えたようだな」
「銃を使わないのは主義だから今更とやかく言うつもりは無いけど……せめて縄くらいは用意したら?」
「いや、一応用意はしてあるんだがな、何と言うか、面倒臭くて……」
「これだよ……」

 呆れ顔で天を仰ぐ大神を前に、まるで悪びれた様子のない、大神の父親。
 間近で見ると、熊のような、という印象が益々強いものになってくる。背丈は大神とほぼ同じくらい、むしろ大神の方が少し高い程だ。だが身体の厚みがまるで違う。胸板の厚みは誇張抜きで大神の倍はあるように見える。両肩が大きく盛り上がり、腕も丸太のようだ。顔立ちは余り大神に似ていない。ひたすら野性的な、それでいて何処か愛敬のある容貌。
 それに、たった今まで狩りをしてきたとはとうてい信じられない軽装だ。腰には輪にした荒縄こそ吊るしているものの、銃も、鉈も、手斧も持っていない。厚手の股引きに刺子を羽織っただけで、後は腕と脛に布を巻いているだけだ。
 ふと思いついて、足元で昏倒している猪をさくらはつぶさに観察した。何処にも血の滲んだ跡が無く、四本の足に罠が噛んだ跡もない。

(つまり……素手で捕まえたって事……?)

 たった今大神が素手で倒したところを見たばかりとは言え、成獣の猪を素手で、しかも山の中で捕まえるなど俄には信じ難い話である。

「おお、一郎、此方のお嬢さんがお前の許婚の方か?」

 そして今更のようにさくらの方を向き、大袈裟に声を上げてみせる。……もしかしたら本当に気がついていなかったのかもしれない、そんな、良く言えば大らかな、悪く言えば大雑把な気性を感じさせる態度。

「あ、ああ。こちら、真宮寺さくらさん。
 さくらくん、親父だよ」
「真宮寺さくらです。よろしくお願いします」

 さくらも流石に慣れてきたのか、今回はどもる事も支えることも無く尋常に挨拶してみせる。

「一郎の父の熊作(ゆうさく)です。この度は不肖の伜の所に来て下さるとのこと、本当にありがとうございます。こいつは武芸や学問はともかく、人として生きていく為に肝心な事はてんで不器用で」
「親父!そういう話は身体を洗って、着替えて、ちゃんとした席でしてくれよ!」
「うむ、そうだな。ではさくらさん、また後ほど」

 苦り切った表情の大神と横を向き声を殺して笑っている美鶴、それからどんな顔をしていいのかわからず曖昧な笑みを浮かべているさくらの前で、熊作は地面の猪に手を伸ばした。

えっ!?

 さくらは思わず我が目を疑ってしまった。熊作は少なくとも百kg以上はあると見える猪の首をむんずと掴むや、右手一本で吊り上げてしまったのである!
 そのまま事も無げに裏口へと向かう熊作。握力だけで百kg以上の猪を保持し、片手だけでぶら下げて。
 さくらは自分の頬っぺたを抓りたい気分になっていた。

 

その5へ続く

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