さくらの長い休日(その7)――<大神家の人々>――


 

「美鶴さんも一郎さんも姉弟仲が良いのはわかりますけど、さくらさんがビックリしていらっしゃるでしょう?」

 茶碗と丼を人数分お盆に載せて千鳥が座に加わる。彼女の後ろには馬桶のようなお櫃を抱えて鷹也が続いていた。

「さあさあ、せっかく鷹也さんが捌くのを手伝ってくれた事だし熱いうちに食べましょう?」

 食欲を刺激する匂いを部屋中に振り撒いていた、美鶴の持って来た牡丹鍋の中身を丼に取り分けて座卓の上に手早く並べて行く千鳥。その隣では美鶴が甲斐甲斐しく茶碗にご飯を盛っている。――こういう所は当たり前の女性に見える。いや、姿が良いだけに、かなり絵になっている。

「さくらさん、遠慮無く召し上がれ?」

 にっこり笑いかける千鳥。彼女を前にすると、さくらは何だかホッとした気分になってくる。彼女も虎太郎の娘であり熊作の妻であり美鶴の母親である以上、ただの主婦であるはずは無いのだが、周りの人間のアクが強すぎるのだ。

 全員にお膳が行き渡るまで、彼は静かに控えていた。そしてさくらも含めた全員が座卓に席を定めたのを見届けて、彼は末席に移動した。

「さくらくん、紹介するよ」

 その時初めてさくらはその青年と視線を合わせた。懐かしさを感じさせる容貌。その懐かしさが何処から来ているのかさくらは少し考えて、三年前、初めて会った時の大神の面影がその青年にはあるのだと気づいた。

「従弟の鷹也。さくらくんより二つ年下になるのかな。鷹也、俺の婚約者の真宮寺さくらさんだ」
「大神鷹也(たかや)です。お目に掛かれて光栄です」
「真宮寺さくらです。よろしくお願いします」

(普通の人だわ……)

 この時さくらは、我知らずこんな事を考えてしまっていた。内心の事とはいえ、かなり、失礼な話ではある。しかし、危うく言葉になってしまいそうなほど鷹也青年は尋常な雰囲気を纏っていたのだ。……他の三人に比べて。
 何だかさくらは胸を撫で下ろしたくなる気分だった。母親の千鳥以外は、あまりにも強烈な個性の主ばかりと引き合わされていたので大神の縁者は皆、普通ではない――良く言っても――人達ばかりかと密かに危惧していたのだ。そしてさくらがまだ知らないだけで、実は大神も彼らに劣らぬ、その、変人ではないのかという疑念に囚われつつあったのである。

「それにしても流石は一郎従兄さんですね。大帝国劇場の花形スター、真宮寺さくらさんと御婚約ですか。本当に、一郎従兄さんに相応しい素敵な方です」

(………)

 何となく嫌な予感を覚えて心の中で身構えるさくら。鷹也の言葉はお世辞ではなかった。完全に、本気だった。大真面目な賛辞、それだけならまだ恥ずかしいだけだが、彼の大神を見る目には崇拝の熱が込められていた。

「鷹也、お前、さくらくんの事を知っていたのか?」
「ちょうど一郎従兄さんが南米の方へ行かれている時に帝劇の公演を見に行った事があります。従兄さんが働いていた所を見てみたかったものですから」
「オイオイ、劇場は芝居を見に来る所だぞ」
「ええ、最初はそれ程興味無かったんですが…素晴らしかったです!特にさくらさんは、あっすみません、馴れ馴れしくさくらさんだなんて……」
「構わないさ。ねえ、さくらくん?」
「は、はい」
「そうですか!ありがとうございます。ええと、そうです、それで舞台の上のさくらさんの輝きにすっかり魅せられてしまって……一度でファンになりました!」
「おいおい」
「あ、ありがとうございます」

 少し慌てた様に声をかける大神と、面食らいながらもとりあえず女優の心得として礼を言うさくら。鷹也の態度はまるで、さくらを口説いているみたいなものだったからである。

「この方なら一郎従兄さんに相応しいと僕はその時思いました。一郎従兄さんが選ぶとしたら、きっとこんな方だろうと。ですから、僕は自分の事の様に嬉しかったんです。一郎従兄さんがさくらさんとご婚約されたというお手紙を拝見して」

(た、鷹也さんって……)

 さくらは徐々に「引いて」いた。鷹也から、心の中で。彼の大神を見る目は尋常ではなかった。尊敬、そして強い憧れ。ほとんど恋する乙女(?)の眼差しだった。

「ま、まあそう熱くなるな、鷹也」
「鷹也くんって相変わらず一郎さんのことを崇拝しているのね」

 辟易した顔で鷹也の言葉を遮る大神と、可笑しそうに口元に手を当ててからかう美鶴。虎太郎も、熊作も、千鳥も可笑しそうに、だがいつもの事という平気な顔で箸を使っている。

もちろんです!一郎従兄さんは今この時代、この地上で最も優れた戦士ですから!

 からかわれた事を歯牙にもかけず――あるいは気づかず――力説する鷹也。

「あ、あのなあ、鷹也……」
「はいはい、懐かしいのはわかるけど、お話はそのくらいにしてお食事になさいな。一郎さん、貴方がお箸をつけないとさくらさんまで遠慮してしまわれていますよ?」

 目の前の光景を何とも思っていない穏やかな口調で千鳥が割って入った。
 この時さくらは確信した。千鳥も、決して「普通の人」ではないと……

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「ところで鷹也、申之介さんや豹馬はどうしている?」
「すみません、申之介兄さんは間に合わなかったんです。チベットに行ってて……豹馬さんは今晩中に着くはずですよ」

 言葉だけでなく全身で、すまなさそうに答える鷹也。

「そうか…じゃあ修蔵義兄さんも?」
「ええ、あの人も申之介さんと一緒よ。間に合う様に帰って来いって何度も手紙を出したんだけど、場所が場所だけに無理だったみたいね」

 美鶴の答えはあっけらかんとしたものだった。

「そうですか……仕方が無いですね」

 そう呟いて、さくらの方へ振り向く大神。

「申之介さんというのは鷹也のお兄さんだよ。修蔵さんは姉さんのご主人。豹馬はもう一人の従弟で、もうすぐ紹介できると思うよ」
「……はい」
「?」

 さくらが頷くまでの微妙な間に不思議そうな顔をする大神。

(その方ももしかして……)

 出来ればもう勘弁して欲しい、それがさくらの密かな、偽らざる心境だったのである。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

『豹馬です。お邪魔します』

 鍋も底が見え始めた頃、玄関で来訪を告げる声がした。

「あっ、あたしが出ます」

 身軽に美鶴が立ち上がり、全く足音を立てずに座を後にする。
 待つ事暫し、全く物音を立てぬまま障子が開いた。

(この家の方々って本当に足音を立てないのね……)

 今更の様にさくらは思った。美鶴も、千鳥も、虎太郎も、そして一番大柄な熊作もまるで影の様に物音を立てずに動く。怪しいを通り越して見事と言いたくなるほどに。
 それは従弟の鷹也も、そして今顔を見せた豹馬も同じである様だった。
 豹馬は大神をやや細身にしたような体つきで、その分鋭い容貌をしていた。親しみやすさには欠けるものの、二枚目という点では大神以上かもしれない。

(それにしても美男美女の家系だわ……)

 自分の事は棚に上げて――意識していないのかもしれないが――さくらはそんな事も考えていた。

「久し振りだな、豹馬」
「お久しぶりです、一郎従兄さん」

 やや無愛想な嫌いもあるが、まずは尋常な挨拶。

(今度こそ…?いいえ、油断は出来ないわ)

 すっかり猜疑心の虜となっているさくら。

「真宮寺さくらさん、ですね?初めまして、大神豹馬(ひょうま)です」
「真宮寺さくらです。よろしくお願いします」

 紹介されるのを待たずに、自分から挨拶を切り出した態度も落ち着いたものだ。そのまま鷹也の隣に座ると熊作と千鳥に向かって婚約の祝辞を述べる。

(………)

 この当たり前の作法が今のさくらには何だか新鮮に映った。

「豹馬、わざわざすまなかったな。忙しかったのだろう?」
「いや、それほどでも」
「北海道はもう雪が降っているんじゃないか?」
「今年はまだです」

(北海道……?)

「豹馬は北大で農場開拓の勉強をしているんだよ」
「帝大生でいらっしゃるんですか!?すごいですね!」
「単なる親の脛かじりです。それ程大したものではありません」

 あっさりと謙遜するその声も嫌味の一歩手前で止まっている。

(まともな方もいらしたんだわ……)

「何か?」
「い、いえ……どうして北海道まで行かれたのかなと思いまして」

 思わずボーッと豹馬の顔を見詰めていたさくらに短く訊ねる豹馬。まさか本当の事は言えず、さくらは何とか無難な口実を捻り出した。

「なるほど、不思議に思われるのはごもっともです」
「………」
「………」
「………」

(な、何、この間は?)

「北海道はこの国で最も未開の大地が残された土地であり、北からの脅威の最前線。修行と学問を両立させるのにうってつけだと考えたからです」
「は、はぁ……」
「………」
「………」

 突如口をつぐんだかと思うと何事も無かった様に話を続ける。そして到底十分とは思えない説明の後に再び沈黙。

「相変わらず熊を苛めているのか?」
「人聞きの悪い事を言わないで下さい、一郎従兄さん。農場から追い払っているだけです」
「わざわざ素手で熊を追うのは修行の為だろ?」
「修行と、無益な殺生をしない為です。熊の肉は余り美味いとは言えない」

 不思議と、大神との間では正常な会話が成立している。

「豹馬さん、少しは人見知りの癖、直った?」
「………」

 からかうような美鶴の笑顔に対する応えは、やはり沈黙と無表情。

(人見知りなの……?)

 普通こういうのは人見知りとは言わないはずだ。豹馬は自分からさくらに話しかけてきたのだから。
 しかし、さくらは思った。そうなのかと納得してしまった。もう、どんな人が出て来ても不思議は無いという心境になっていた。
 素手で熊を追い払うという事が驚きとも意外とも、何とも思えなくなっていた。

 

その8へ続く

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