さくらの長い休日(その8)――<大神家の人々>――


 

 ZZzzzzzz……
 ZZzzzzzz……

 鍋は何時の間にか酒盛りとなり、程なくして虎太郎と熊作は寝込んでしまっていた。少なくとも、酒に酔う事に関してだけは人並みだったらしい。
 美鶴は鷹也と豹馬に手伝ってもらって、と言うかいいようにこき使って、テキパキと後片づけをしている。今、座卓の前には大神とさくら、それから台所をすっかり娘に任せた千鳥が落ち着いてお茶を飲んでいた。

「一郎さん、貴方、お酒に強くなったわね」
「上役が好きな人でね……」

 悪戯っぽい視線の千鳥の言葉に溜息交じりで応える大神。

「それに、中々酔えなくなってしまって。と言うか、すっかり酔わない癖がついてしまったんだ」
「それはいけないわねぇ……緩める所は緩めないと、いつも張り詰めてばかりでは本当に必要な時必要な力を出し切れないかもしれないわよ?」
「そうだね……」

 にこやかな笑顔、おっとりした口調。だが、深い教え。素直に頷く大神の姿を見ながら、千鳥に対する自然な尊敬の念がさくらの中に湧き上がってくる。それは既に、「母」にたいする敬意だった。

(でも酔わない癖って……?)

「この家は貴方にとって、もう安心できる場所じゃ無くなってしまったのかしら?」
「いや、そんな事は無いよ。ただ、親父達みたいに安心して酔いに身を委ねる事が出来なくなっているのも事実だね」
「さくらさんを護らなくてはならないから?」
「そうだね」

 意味ありげな千鳥の笑顔に大神は恥ずかしげも無く頷いた。息子の臆面ない台詞に、千鳥はもう一度ニッコリ笑っただけだ。顔を赤くしているのはさくらだけだった。

「そうそう、母さん、さっきはありがとう」
「少しは役に立ったかしら?」
「ズルをするみたいで少し気が引けたんだけどね。おかげで爺さんを上手く丸め込む事が出来た」
「気にしないで良いわ。貴方みたいに不器用な人の所へせっかく来てくださると仰ってくださっている方に不愉快な思いはさせたくありませんものね。さくらさんみたいに素敵なお嬢さんが貴方のお嫁さんになってくださるなんて奇跡みたいなものですもの」
「……そんなに俺って不器用かな?」
「ええ、とても。他の事は何でも出来るくせに一番肝心な事は全くの朴念仁なんだから」
「……そうかな?」
「いいですか、一郎さん。仕事も大事、武芸も良いでしょう。でも人として一番大切な事は家庭を築き、守って行くことなのよ。どんなに他の事が出来たって、好きになった人に気持ちを伝える事も出来ない様では半人前も良いところなのです」
「……伝えましたよ、ちゃんと」
「どうかしら?好意を寄せて貰えているのを良い事に、必要な言葉も口にせずお待たせしていたのではなくて?任務とか立場とか、そういうものに甘えて」
「て、手厳しいですね……」
「さくらさん」
「はいっ」

 急に名前を呼ばれて、さくらは危うく大声を上げそうになった。

「こんな山奥では滅多にお会いする機会も無いでしょうけど、もし一郎に至らぬ所があったら遠慮無く仰って下さいね。私は全面的に貴女の味方ですから」
「あ、ありがとうございます」
「この人はどうも人の心の機微というか、人の心の弱さに疎いところがありますから。人は強いだけの存在ではいられないというのにね……」
「………」

 普通の親の心配とはかけ離れているだろう。正反対かもしれない。千鳥は言葉を裏返して息子の自慢をしているのではなかった。本心から、案じているのだ。「弱さ」を知らぬ息子の事を。

「さて……私はお風呂の様子でも見てきましょう」
「あっ、母さん、俺が……」
「貴方はさくらさんのお相手をしていなさい。婚約者の、普通でない家族に次々と引き合わされて気疲れしていらっしゃるはずだから。
 さくらさん、少し外させていただきますね?すぐにお風呂にご案内できると思いますので」
「はい」

 流れるような身ごなしで座敷を後にする千鳥に、さくらは何とかどもりも支えもせず短く応えるのが精一杯だった。すっかり見透かされていたのが意外でもあり納得でもあった。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「大神さん、教えていただいてもいいですか……?」

 大神と二人きり、という訳には残念ながらいかなかったが、同席者は気持ち良さそうに寝息を立てている酔っ払いだけである。さくらは幾分緊張から解放された気分になって、大神に甘える様に話しかけた。

「えっ……ああ、もしかしてさっきは、ってやつ?」
「ええ。それに『丸め込む』って…」
「さっき母さんに手伝ってくれって呼ばれた時ちょっと助言してもらったんだ。爺さんに何か訊かれたら、形式とか作法とかに拘らず、自分の一番正直な気持ちを答えてご覧なさいって。そしたら見事に一人で納得してくれたよ。
 俺は別に、世界中を敵に回すなんて積もりは無かったんだけどね……」
「大神さん……」
「か、勘違いしないで」

 哀しげな表情を浮かべたさくらに、大神は慌てて手を振った。

「君が何より大切だって言葉は嘘じゃない。でも、世界を敵に回して勝てる自信はさすがに無いんだ。俺一人なら何とか生き延びる事も出来るかもしれないけど、さくらくんの為にも、世界を味方につける事の方が大切なんじゃないかと俺は思っているんだ」
「大神さん……」

 同じ言葉に込められた、正反対の感情。

「とまあ、母さんの読みは見事に的中していたという訳だよ」

 くすっ

 思いっきり照れながら何とか話題を変えようとしている大神にさくらは小さく笑いを零してしまう。確かにこれでは、ムードも何もあったものではない。千鳥の言う通り、不器用で朴念仁、そのものだ。
 でも、それがさくらの好きになった男性だった。甘い言葉で甘い夢を見せてくれる二枚目ではなく、洒落た台詞一つ言えない代わりに力強く支える腕と優しく包み込む思いやりを持っている人だった。そして、決して信頼を裏切る事の無い黄金の心を。

「素敵なお母様ですね」
「えっ、まあ、敵わないとは思うよ」

 一瞬、困らせてやろうかな?と思わないでもなかったが、結局さくらは大神の思惑に従う事にした。愛しい人に期待できる事と期待できない事くらい、さくらにもわかっていたのである。
 無論、大神はさくらのそんな心の動きに気づいてはいない。

「親父も爺さんも、母さんにかかったらお釈迦様の掌の上の孫悟空だからなぁ。とにかく、何でもお見通しって感じで勝てる気がしない」
「大神さんもやっぱりお母様には頭が上がりませんか?」
「……悔しい事に、その通りかな」
「くすっ、大神さんったら」
「ははっ…ちょっと情けなかったかな?」
「うふふっ、そんな事ありませんよ」

 笑顔を交し合う――微笑と苦笑の違いはあったが――さくらと大神。色めいた雰囲気はまるで無かったが、それはいつもの二人の姿だった。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 千鳥に案内されてお湯を使い(入浴中、誰かに――単刀直入に言うなら美鶴に――覗かれたりはしないかと少し心配していたのだが流石にそんな事は無かった)、あてがわれて部屋で体を休めるさくら。当然大神とは別の部屋、今は客間にさくら一人である。体は疲れていたが、気が張りつめていたのだろう、何となく眠れなくて星空でも、と縁側に出てみる。そこには、もう真夜中だというのに先客がいた。

「さくらさん、眠れないんですか?」
「あっ、はい……」

 たたきの上に並べられた下駄に足を置き、星空を見上げていたのは千鳥だった。

「私の事はお母さんとでも呼んで下さいな。お式はまだですけど、私はもう貴女のことを娘だと思っているんですから」
「は、はい……あの、お母様……も寝付かれなくていらっしゃるんですか?」
「ええ、何となく……よろしかったらお座りにならない?」
「はい」

 とは言うものの、まだまだ足を投げ出して横に並ぶ程気の置けない間柄でもなく、さくらは遠慮がちに千鳥の隣に膝を折った。

「本当に、折り目正しくていらっしゃるのね。さくらさんのお母様はきっと素晴らしい方なのでしょうね」
「いえ、お…一郎さんに比べたらあたしなんか至らないところばかりで。家の母も一郎さんのお母様にお会いしたいと申しておりました」
「私が育てたのなら自慢も出来るんでしょうけど……」

 苦笑と言うには余りに苦い表情で笑う千鳥。

「あの………」
「私以外に一郎さんの母親がいるという意味ではないんですよ。お乳からオムツからあの子の面倒を見たのは私ですし」
「?」
「でもあの子は、一人で大人になったみたいなものだから……」
「………」

 千鳥は体ごと向きを変えて、不得要領な顔をしているさくらと正面で向かい合った。

「私の父、虎太郎には男の子が生まれませんでした。主人が養子だという事はご存知でしたか?」
「い、いいえ。先ほどお聞きするまでは……」
「そう……宣伝するような事でもありませんものね。
 熊作はある出来事で一度に両親を無くして、幼くして天蓋孤独になったところを父が引き取ったのですが、それでも間に合いませんでした」
「?」
「ごめんなさい、少しお話が唐突でしたね?
 私たち大神に伝わる技は、ごく幼少の頃から訓練する必要があるのです。二本の足で立てるようになるのとほとんど同時に訓練を始めなければ習得する事が出来なくなってしまう。大神の技は、力の使い方を教えるものではなく、人の持つ極限の力を引き出す為のものですから」
「人の極限、ですか…?」
「さくらさん、貴女も裏御三家真宮寺のただ一人の嫡流として幼い頃から修練を積んでこられたのでしょう?」
「…ご存知なんですか?」
「一郎さんにはまだ教えていませんけど、大神の一族と破邪の血統には少なからぬ縁があるんですよ。一郎さんが生涯を言い交したお相手が真宮寺家のお嬢様だと聞かされて私も父も驚いてしまいました。やはり、運命というものはあるのかもしれませんね」

(あたしと大神さんに、運命…?)

「話が逸れてしまいましたね。
 熊作はほんの子供の頃私の義理の兄となった訳ですが、それでも、大神の技を習得するには遅過ぎました。それで、一郎さんが生まれた時の父の期待のかけようは尋常ではありませんでした」

 ひっそりと微笑む千鳥。その目に涙が浮かんでいないのが不自然な程、それは哀しそうな笑みだった。

「私はそんな父を止める事が出来ませんでした。きっと、自分が男の子に生まれなかった事、父の期待に応えられなかった事に心の何処かで引け目を感じていたんでしょうね。私はあの子の母親だというのに。
 熊作も父に逆らう事は出来ませんでした。父は何より熊作にとって恩人でしたし、熊作もまた父の期待に応えられない負い目を抱えていましたから。むしろ一郎を大神家の男として徹底的に鍛え上げる事で、その埋め合わせをしようとしているみたいでした」
「………」
「あの子が、一郎さんが不幸だったとお思いでしょう?」
「いえ、そんな事!」

 諦めきったような千鳥の不思議な笑顔に、さくらは慌てて首を振る。

「普通なら耐えられるはずがありません。単なる武道の修行ではないのですもの。気の力、心の力まで搾り出す、そんな修行にまだまだ心の脆弱な子供が耐えられるはずはありません。普通の子供に同じ事をすれば、間違い無く心が壊れてしまうでしょう。
 でも、あの子は違いました」

 星空に視線を戻す千鳥。これ以上、さくらの目を見ているのが耐えられなくなったとでも言うように。

「いっそあの子が普通の、大神家に生まれた者としても普通の子供であれば、父も考えたかもしれません。跡取を失っては元も子もありませんものね。
 一郎さんは、修行が好きでした。自分の命と魂を削るような修行に喜んで取り組んでいました。余程性に合ったのでしょうね。父も驚く速さで修行の階梯を登って行きました。一日中、夢中になって。
 私があの子の為にして上げられたのは、食べる物と着る物、寝る場所の用意くらいのものだったんです」
そんなはずありません!
「さくらさん?」

 突如、悲鳴のような声で反論したさくらを、千鳥は目を丸くして見詰めた。
 自分でも思いもしない激しい反応に恥じらいの色を浮かべながら、それでもさくらは言わずにいられなかった。否定せずにいられなかった。

「大神さんはとても優しい方です!とてもとても、心の温かい方です!!大神さんがそんな寂しい子供だったはずありません。お母様の愛情も無しに、あんなに温かい心を持てるはずありません!!」

 いつもの呼び方になっていることにも、さくらは全く気づいていない。ただ、必死に弁護していた。母親としての千鳥を、千鳥本人に向かって。

「……ありがとう、さくらさん」

 暫し、千鳥は目を丸くしてさくらの興奮した顔を見詰めていたが、やがてニッコリと見惚れるような笑顔を浮かべて穏やかな声でさくらにそう言った。

「あの子の所に来て下さるのが、貴女で良かったわ」
「す、すみません、生意気なこと……」

 眩しいものを見るように目を細めてさくらを見詰める千鳥。その視線にさくらは今更の様に恥ずかしくなって、大慌てで頭を下げた。

「いいえ、とても嬉しかった。あの子のことを優しいと、心の温かい人間だと仰ってくれて。
 そう、普通なら、あの子は心を持たない子供になってしまうはずでした。でもあの子は普通じゃなかった。命を簡単に刈り取ってしまう力を手にして、あの子は優しさを覚えた。命の儚さを知って、命を慈しむことを覚えた。弱さ故に、守られることで優しさを覚えるのではなく、強さ故に、自分を取り巻く命と共存して行く為に優しさを覚えたのです。
 さくらさん?」
「はいっ」
「あの子って、鈍感な所が有りますでしょう?」
「はい…い、いいえ!」

 何気なく頷いてから、慌てて首を振るさくら。

「いいんですよ、正直に仰って下さって」

 そう言いながら千鳥はくすくすと楽しそうに笑っている。さくらとしては、またまた赤面するしかなかった。

「あの子は、『守って欲しい』と感じたことが多分、無い人ですから。いざとなればどんな事でも自分の力で切り抜けることが出来る、そんな風にハッキリ自惚れることは無くても、無意識の内にそう感じているはずです。親の贔屓目でもなんでも無く、一郎さんはそれだけの力を持っている人ですから。
 だからあの子は、最後の最後の部分で、誰かに助けて欲しいという気持ちが理解できないのではないでしょうか?悩んで、誰かに相談することはあっても、ギリギリの所に立てば自分で何とかしてしまう。だから、寄り添い合い支え合う人の心の細やかな動きが良くわからないんだと思います」
「………」

 今度は、そんなはずありません、と否定することが出来なかった。確かに、大神は決断を誰かと分かち合ったことがない。相談はする、意見も聞く。だがどんな重い決断でも、例えば魔に対する切り札である魔神器を破壊するという重大事でも、自分一人で決断してきた。
 それは、他人に助けて欲しい、と思わないから?自分にも?自分は、大神に必要とされていないということだろうか。

「貴女が初めての人じゃないかしら?」
「……?」
「一郎さんが、寄り添っていたいと感じている人は。誰かを必要としているのは」
「そう……でしょうか?」
「ごめんなさい、不安にさせてしまいました?
 大丈夫ですよ、さくらさん。まともにお世話をしていないとはいっても、私はあの子の実の母親です。一郎さんは、貴女を必要としています」

 母親だけが持ち得る確信。
 さくらは、何だか千鳥が羨ましかった。

 

その9へ続く

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